第26話 迂遠なる復讐

 突如として、東の耳房で泣き声が上がった。子どものものであろうか、すすり泣いたかと思うと、甲高い悲鳴を上げている。中庭の男二人は顔を見合わせたが、動いたのは節度使のほうが先だった。


「全く……!」

 蕭紹矩は舌打ちするや速足で耳房に入ったが、すぐに泣き声の主を連れて出てきた。山吹色の地に若草色の縁取りを施した絹の衣装をまとった五歳ほどになる男子。紹矩に手を引かれ、まだしゃくりあげている。


「何事ですか?」

 李朝慶の問いに、紹矩はため息をついて見せた。


「いや、これは先日から逗留している私の甥だがな。食事のときに堅いものを噛みたがらぬのだ。私は厨房師に申し付けて堅いものでも食卓に出させているのだが、毎度この始末。このまま軟弱に育てば、わが一族を率いる者にはなれん」

 朝慶は、草原で干し肉を嬉しそうに齧っていた越国公主を思い出した。


「見ろ」

 紹矩は甥の顎を乱暴に掴んで朝慶に示した。男の子は「ふええ……」と目じりに涙をためている。

「柔らかく口当たりの良いものばかりを食べているから、顎も細い。一族でもこんな顎の子どもが増えているのが困り者だ。全く軟弱な……」

「閣下。そのうち、食べ物のえり好みはなくなりましょう。見たところ、まだお小さいのですし……」

 契丹の貴人は鼻を鳴らす。

「ふん、お小さいうちに躾けておかねばならぬ。ただでさえ、生まれた時から都の風しか知らず、お主ら漢族の風に馴染んで、ますます軟弱になる一族が増えているというのに……」


 ――そうです、せいぜい馴染んで、軟弱になられるが良いのです。


 殊勝げに首肯して見せた漢族は、内心ではざらついた笑い声を挙げた。


 ――騎馬をもって我らを蹂躙したお前達は、今度は自ら蹂躙される道を選ぶのだ。そう、富と力が奢侈を呼び、いずれ怠惰を身のうちに招き入れる。いま都で安穏と暮らしている皇族や貴族のうち、どれだけが昔の遊牧の暮らしに戻ってもやっていけるだろう?すでに安逸な暮らしが当然と思っているのでは? せいぜいその細った顎で、山海の珍味を嘗めているがいい。


 草原では得られぬ奢侈の味。それこそが、「契丹に一矢報いる方法」であると、朝慶は確信していた。強勢と富を誇るのであれば、それを使うように仕向けるまでのこと。実際に、宋から歳幣で得た銀は、契丹人が宋からの交易品を贖うことで、幾ばくかは宋に還流されていき、しかもその額は年々増える。


――一朝一夕に薬効がある手ではない。だが一度贅沢を覚えれば、なかなか以前には戻れないだろう。富に任せて飾り立てた衣食住、仏教への賛仰さんごうの証としての費え。こうした浪費がいずれ国力を消耗していくはず。


 したがって、公主の嫁入り支度に対する蕭紹矩の命は、本来ならば渡りに船の話である。だが、しかしどこか朝慶の心には影がさしていた。


 ――越国公主さまには、このような私の気持ちは知られたくはない。

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ゼノビアの宝石箱 ~シルクロードを巡る煌めきの物語~ 結城かおる @blueonion

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