第11話 胡旋舞

 勤務を終えて帰邸した金仁問は、ほどなく客人を迎えることになった。

「宰相閣下……」

 

その人物の年齢は五十代半ば、穏やかな面貌のなかに炯炯けいけいたる眼光を宿す、不思議な雰囲気の男である。

 

 私から出向きましたのに、と恐縮する新羅の王族に対して李勣りせきは微笑んだ。唐の統一に大功あり、聖上の信頼も厚く、いまや朝廷の重鎮ともなっている。

 

 李勣は同伴の童子に持たさせていた長細い包みを受け取って差し出す。仁問は包みを解いて箱を開け、巻物を取り出して広げた。と、彼の目が見開かれ、しばらく言葉も出ない様子である。


「これは……褚河南ちょかなんどのの書ではありませんか?」

 六朝の詩人―—鮑照ほうしょうの詩の一節が書かれた巻子。

「さよう、彼とは顔を合わせる機会が多いから、頼んでおいたのですよ」

 宰相は唇をほころばせている。

「私のために?」

「ええ、書に造詣が深くていらっしゃるので」

「何と……」


 仁問は、李氏に国姓が変わってこの方、書の大家が輩出していることを知っており、彼らの墨跡を収集しようとしていた。特に褚遂良ちょすいりょうについては、前から書をこの眼で見たいと思ってきたのである。だが、自分と褚はともに朝廷に出仕しているとはいえ、なかなかじかに接触する機会を持てないでいた。それを……。


「さすが、私の願いをよくご存じでいらっしゃる。ですが、ありあまるご厚意にお礼をどうしたら……」

 宰相はからりと笑った。

「いえいえ、お気になさるな。異国で慣れない生活を送っておられるあなたの慰めになろうかと。それに互いに損得も礼の応酬もせず、長安の月と新羅の月、二つの月比べをして歓談する関係でありたい、と思うだけです」


「李宰の比べたい月は、本当は高句麗なのでは?」


 金仁問は、李勣が高句麗討伐を悲願としていること、自分と新羅はそのための情報を期待されていることを知っていたので、あえて切り込んでみた。

 だが。李は相手の率直な言葉の打ち込みにも動じない。


「確かに高句麗は、私の眼の黒いうちに何としても平らげたいと思うが、それ以前に、東方の安全と貴国の連携なくして、大唐の山河を揺るぎないものにはできない。だが、今の私が望むことはもっと小さなもの。ただ、あなたが書を見て楽しむのを我が喜びとすること……」


 仁問は首を振り、晴れやかな微笑を浮かべた。彼との、こうした穏やかな腹の探り合いは嫌いではない。

「これは失礼しました。では、まだ時刻は早いですが酒肴なりとも用意させて、新羅の月の美しさでもお話ししましょうか?」


―-彼のような者を、敵に回したくはないものだな。いや、本当は唐を敵に回したくないものだ。聖上の周りには、李宰相だけではなく、長孫無忌、于志寧など功績輝かしい重臣たちが侍る。やはり大国は、人材一つとっても層が厚いことよ。わが新羅も人材には引けを取らぬつもりではいるが……。




*****


 翌日、休沐日きゅうもくびで任務から解放された仁問は、朝から入手した書物の山に埋もれて過ごしていたが、日が高くなったころ、ふと思い立って出かけることにした。

 

 修徳坊しゅうとくぼう弘福寺こうふくじに参詣し、東西二つの市まで足を延ばす。ここは人も情報も集まり、仁問もたまさかの休暇にはこの辺りを中心に歩き回ることが多い。


 活気あふれる大唐の都はそれだけで、若者の心を高揚させる。西の市にて、物売りに混じり、ひと際大きな人だかりができているものはたいてい雑技や舞曲の類であり、今も一番大きな人の輪の隙間からは、胡楽の独特な旋律が流れて来る。

 常服を着ていても、凛々しく上背のある貴公子は目立つのか、仁問が頼まなくても人々が脇にどいて通してくれたので、容易に最前列へ出ることができた。

 厚手の赤い、織りの美しい毛氈もうせんの上でひとりの胡姫が舞っていた。


しゃらん、しゃらん。たたたん、たたたん。


 ごく明るい栗色の髪、彫の深い顔。眼は明るい翠と黄金を帯びて――。手にした鈴を振り、太鼓の音に合わせて軽々と跳躍し、何度も見事な旋回を披露する。手指の先よりも長い、真紅の袖が風をはらんで翻る。貴石の首飾りが揺れ、黄金に光る腰の飾りが小刻みに鳴る。


 しゃららん、らん。たたん、しゃららん。

 目まぐるしい動きのなかに、ふっと仁問は舞姫が自分を見て微笑んだように思った。


――まさか。


 錯覚か、と彼は自分を納得させる。やがて舞い終わり、観衆がおひねりやら何やらを飛ばす中、息をついた胡姫は嫣然えんぜんと口のを上げ、ゆっくりと新羅の王子に近寄り拝礼をした。


「貴人とお見受けいたします、つたないものをお目にかけまして……」

 仁問は杏仁型の眼を見開いた。

「なぜ私をそうだと?」

 彼女の持つ翠の瞳は相手を見透かすようであった。


「私どものような商売はお客さまの御身分、なりわい、ご性格を瞬時に見抜かなくては務まりませんの」

「なるほど」

「ご覧の通り、私は遠く西方からこの都に流れ着き、舞や歌で口をのりしてまいりました。あなた様は?」

「そなたが西なら、私は東から参った。胡人にはあらぬが、この唐土において異国の人間であることに変わりはない」

「では、私達はお仲間ですわね」


女は長い袖を彼方のほうに振った。

「ここからすぐ近く、私達が拠る酒家にいらっしゃいませんこと? 幾万里もの距離を越えてお会いしたのも何かの縁でしょう?」

 ああ、と頷きかけた仁問は一瞬、香袋の下がる右の腿がかっと熱くなるのを感じたが、すぐに忘れてしまった。


「名は何という?」

 彼女の瞳が金銀の星を宿し、左耳がぴくりとする。

「故国での名は忘れましたが、唐での名を白蓮びゃくれんと申します」

「白蓮、良き名だ。私は金仁問、新羅の王族だ」

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