第24話 天馬

李朝慶りちょうけい、なかなか面白い男だな。気に入った、そなたを貰い受けよう。以後は私に仕えよ」

 

 思っても見ぬ、越国公主えつこくこうしゅの命。面食らった表情をしたのは名指しされた本人だけではなく、郭文雅かくぶんがも同じだった。蕭紹矩しょうしょうくはといえば、ただ無表情に眉を挙げたのみである。


「お戯れをおっしゃいますな、公主さま。これでも本官は南面官として聖上にお仕えする身、いかに公主さまのご命令といえども好きにできるものではありません」

「そんなもの、どうにでもなる」

「どうにもなりはしません!」

 

 自分の意志などまるで無視して勝手に話が進められてしまう。これだから、権力を握る者たちは……頭から湯気を立て、つい声が大きくなった朝慶の足を文雅はそっと踏んで黙らせ、公主に向き直って微笑んだ。


「いや、私がご指名の栄に浴さなかったのは残念ではありますが、この男は見た目だけではなく、なかなかお役に立つと私が保証します。いかにお使いなろうともかまいません」

「文雅、人の職歴を勝手に捻じ曲げるな。お姫さまのお守りをしている余裕はない」

 目を怒らせた朝慶ではあるが、その実は観念せざるを得ないことを知っていた。


 ――やれやれ、あの「強盗」の目撃からこのかた、ついてないこと甚だしい。

 彼はため息を一つつき、窓外に目をやった。

「……して、私に何をお望みでいらっしゃいますか? 公主さま」


****


――どこまで行っても蒼さを失わぬ天、緑に覆われた草原。空気は堅く澄み渡り、刺すような日光を跳ね返す。そこを二頭の騎馬が疾走していた。


「公主さま、あまり速度を出すと危のうございます」

「ははは、朝慶はうるさ型よの、私は若い男を仕えさせたはずなのに、爺やを従えている気分になる」


 越国公主は息をはずませながら、鞭を握りなおした。彼女の乗馬術は、李朝慶がともすると遅れをとりそうな見事なものであり、彼女のおさげに結った髪が肩の上で跳ね、帯に下げた鈴が軽快な音色を立てる。


「我らは草原より来る者だ、草原は揺籃ゆりかごであり、馬で走るものであり、糧を得るものであり、墓となるのだ。都の暮らしは楽しいが、やはり草原はいい。生き返った心地がする」

「それにしても、公主さまはさすがキタイのご一族、天馬を走らせるがごとく馬にお乗りになる」

「ふふふ、紹矩に習ったのだ。もちろん、初めから上手くはいかない。ひくひく泣く幼い私を乗せて、彼が手綱を引いて馬を歩かせるところから始めての。馬球も覚えたぞ」


――紹矩。


その公主の婚約者の名を聞き、朝慶は引っかかるものがあった。彼が馬の速度を落とすと公主もそれにならう。


泰寧軍たいねいぐん節度使さまは――私があなたと二人で出かけても何ともお思いにならないのですか。すでにあのように定婚を済ませた方がおいでになりながら。私は、あまり良いこととは……」

「私が何をしようと何を言おうと、紹矩は私に否やは言わないのだ。そういう約束だ」

 少女の口調はぽきぽきしていた。

「はあ」

「つまらんことを気に掛けるな。――そら、やっぱり記憶の通りだ、あそこに水場が見える。馬を休ませよう」


 二頭の馬が仲良く頭を並べて水場に降りていき、いっぽう人間たちは鞍から水筒を外し、なだらかな斜面に腰を下ろした。朝慶が腰の袋から干し肉を取り出し、自分の手巾に包んで公主に差し出す。


「このようなものでよろしければ……公主さまのお口に合うかどうか」

 返ってきたものは、満面の笑みと干し肉に延ばされた手。

「ふむ、気が利くな。その分では、女性たちにも日ごろからまめであろう」

「お戯れをおっしゃいますな」

「ごまかさなくても良いぞ。市でそなたの噂を耳にしたのだ。都きっての色男で、女性たちをきりきり舞いさせているとな」

「よくご存じですね。ええ、我ながらまめですよ。ですから、公主さまにもこうしてまめまめしく……」

 そのやけばちのような答えに越国公主は声をあげて笑い、八重歯で肉を噛んだ。


「それにひきかえ、ここにはそなたが得意な賑やかな市も、高楼も、南海渡りの香薬もない。鼈甲の簪を挿し、象牙の腕輪をはめ、真珠の首飾りをかけた舞姫もいない」

 突風が足元の草を薙ぎ払っていく。


「いや、何もないわけではないのだ。無窮の空、光と風と水、そして草原。私たちの先祖はその恩恵を古から受けてきて大切に思ってきた。だが、身の内に募る志は日ごとに大きくなり、ついに草原から出て、そなたたちの土地まで支配するに至った。ここは美しく、確かに天からもたらされた恵みがある。だが、さらに南には私たちの渇望する富と、さらなる力、そして御仏のご加護があった。だから――」


 遠く地平線を見て、ぽつぽつと言葉を紡ぐ少女。傍らの青年は、なんとも言えない表情でそれを聞いていた。

「今や、聖上の牙帳を擁する都の繁栄ぶりは久遠に続くほどと思われ、我ら一族は多くのものを手中にした。ご先祖が見れば、どう思うであろうか。誇りに思ってくださるか、それとも……」


 ――ああ、そうか。


 声にこそ出さなかったが、それまで公主の語りを聞いていた朝慶は、そこではっと目を瞠った。


 ――わかりました。韓丞相さま。あなたが仰った、契丹に一矢報いる方法が。

 そう、確か「草原に行ってみれば、それだけでわかる」とかの人は自分に言った。その通りだった。


「公主さま」

 青年は内心の快哉を悟られぬよう、ことさらに笑みを作った。


「それは、ご先祖さまはご一族を誇りに思っていらっしゃいますよ。大国をうち建て、考えられなかったほどの有り余る富を手になさったご子孫たちを」

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