第16話 タラス河畔にて

 恒邏斯タラス川は天山山脈からの雪融け水が流れており、夏季とはいえ水量もそれなりにあった。元興は銀色に光る川面を遠目に見て猛烈な喉の渇きを覚えたが、すぐに忘れた。なぜならば、川岸の向こうには多数の黒い旗、ひしめく人馬が帯となって広がっていたからである。


 高仙芝の指揮のもと、元興と部下の兵たちは右翼側へ展開した。左翼側には、唐軍に従う天山北麓の遊牧民すなわち歌邏禄カルルク族が陣取っている。


「……大丈夫か?」


 彼は一人の工兵に声をかけた。李三郎といい、軍内で紙を作る工兵だが、いまはむろん紙ではなく槍を持っていた。だが、よほど緊張しているのだろう。折れるかと思われるほど得物を握りしめ、額からは汗が幾筋も流れ、膝が笑っている。


 かく言う元興も自らに実践の経験が不足していることは否定できないが、内心はともかく、他の将兵の前では泰然自若としておらねばなるまい。彼は気分を落ち着かせるため、これまでいつもそうしてきたように、翡翠の勾玉を握りしめた。


 黒旗の連中が何かを唱和した。おそらくは彼らの神を称える言葉だろう。それに応じるかのように、高仙芝は手にした剣を振り下ろす。


 両軍、ときの声も猛々しく河になだれ込み、あとは乱戦となった。薛元興も夢中で剣を振るい、突き、引き倒し、幾人もの敵を屠る。彼に腕を跳ね飛ばされた兵士の血が翡翠にべったりとつき、緑と暗い赤の残酷な小宇宙を作ったが、持ち主を含め誰もそれに気が付くものはいない。


 突如として地鳴りのような音が響いた。嫌な予感に襲われた元興が振り返ると、左翼側に異常が起きていた。


歌邏禄カルルクが……!」

 彼らが剣を、槍を向けているのは大食ではない。いまや明らかに、味方なはずの唐軍を攻撃している。


――裏切り!


いまや左翼側は総崩れとなっていた。向こう岸では、高仙芝を守りつつ李嗣業自ら獅子奮迅の戦いを繰り広げている。早くも戦いに利あらずを悟り、脱出の道筋をつけんがためである。


「くそっ……」


 左翼に気を取られていたので隙が生じ、腿を剣でかすられた。敗色の濃い自軍のなかで何とか持ちこたえつつ、活路を開かねばならない。そんな若い武官の背後で、わあっと悲鳴が上がった。聞き覚えのある声だった。


「三郎!」

 見れば紙作りの工兵が、大食の将官らしき男によって首に縄をかけられ、大地を引きずられて行くところだった。

「待て!」


 ともすれば霞みそうになる眼を凝らしながら何とか後を追おうとしたが、飛んできた矢が愛馬の尻に刺さり、馬はもんどりうって倒れた。猫のごとき敏捷さが武器の元興は何とか転がって体勢を立て直したが、三郎も含め、哀れな唐軍の捕虜たちはすでに血煙ちけむりの彼方である。


 それから元興は何をどうしたのかほとんど覚えていない。顔にかかる誰かの吐瀉物と血を拭い、ただひたすら敵をかわし、蹴り上げ、走り――。


 戦場いくさばから遠く離れたのだろう、気が付けば彼一人になっていた。乾いた大地は静まり返り、遠くに山脈を望む。根本から折れた剣を手に、夢ともうつつともしれぬ心地で彼は右脚を引きずりながら歩き続けていた。


 いつのまにか、地面に等間隔に空いた穴に沿って歩を進めている自分。穴を覗き込めばひやりとした風が頬を撫で、膝をついて縁に手を置くと、ぼろりと崩れた土の塊が闇に吸い寄せられ、水音らしきものを立てた。


 彼は腕を伸ばし、目に見えぬ水を掬い取ろうとした。だが徒事であることを悟り、ひとりかすれた笑い声をもらす。

 ぺたりと座り込んだ拍子に、おそらく紐が切れたのだろう、血で彩られた勾玉が転がる。拾おうとしたが、それは手から逃げるようにぴょこりと跳ね、穴の底目指して落ちていった。間を置いてかすかな水音が耳に届く。


 元興は大切なものを失ってしまったのに、満面の笑みを浮かべて大地に寝ころんだ。蒼穹を見上げる双眸は、ただ翠色にきらめいている。そして、やおら大きく息をつくとゆっくり目を閉じた。


 *****


――気が付けば私は地下水路に落ちていました。元興さまはその後ご無事だったのでしょうか?もどかしい思いがしますが、私にはわかりません。


 天山山脈からの水は冷たく、私の身にこびりついた戦場の血を洗い流してくれました。ですが、私の身に刻み込まれた人々の記憶、笑みや涙、怒りや喜びが消えることはありません。


 私は幾重にも結ばれたえにしにのって、倭からからの国、唐土、さらなる西へと旅をしてまいりました。今は水から水へと運ばれ、気が付けば塩辛い水、すなわち海に至りました。大波の間を渡り、潮流を掴み、魚の群れに混じり、ひたすら私は東に向かって流れていきます。ちょうど帰途につく旅人のように。


 流れて、流れて、もし秋津洲あきつしまにたどり着いたら、私は出雲に行きましょう。懐かしきあのお方、いまでは出雲に嫁がれた奴奈川姫さまのもとに戻り、浜の真砂が尽きるほど沢山のお話をして差し上げるのです。


――ご覧。汝の運命の指し示す先を。いずれ汝は海を越えて谷を渡り、森を駆け抜けて乾いた大地へと至る。千の星が天蓋より落ち、万の月を数え終わるまで、汝は遠くに旅を続けるのじゃ。



〔第1章 了 ……第2章に続きます〕

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