第18話 真夜のために
「うっし、早く顔見せてやれ」
「ありがとうございます、社長さん」
社長さんの車で帰宅した僕は、一言礼を残すと車を飛び降りて真夜の眠る部屋、アパートの二号室へと向かった。
逸(はや)る心を押さえながら、僕は静かに、しかしなるべく早く扉を開けた。
「おかえり」
部屋の中から野崎さんの控えめな声が飛んでくる。
「ありがとうございました」
僕も小さな声でそう返すと、キッチンを通りぬけ、濡れたタオルがのれんのように吊るされているハンガーの下をくぐって、真夜の眠る部屋の中へと入っていった。
真夜は仰向けの状態で静かに眠っていたが、時折ゼイゼイと音を立てて呼吸しており、とても苦しそうだった。
野崎さんは壁を背にして床に直接座って本を読むというより眺めていた。
僕が入ってくると同時に本をテーブルに置いて、僕を手招きする。
僕が野崎さんの傍まで十分近づいたところで、彼女は片手を口元に添え、やはり小声で事情を説明してくれた。
「……さっき鎮痛剤飲んで寝たところだから安心して」
この部屋に鎮痛剤なんて無かったはずだけど……。と不思議そうな僕の表情を見て取ったのか、野崎さんは軽く頷いて、
「私が前に医者で多めに貰ったのを飲ませたの。私きつい方だから」
「ありがとうございます。あの、代金は……」
「代金取ったら私が薬事法違反で捕まるわよ。だから気にしないの」
僕はもう一度お礼を言い、真夜の下へと向かった。
「真夜……」
汗でおでこに張り付いていた前髪をそっと左右に分け、しっかりと顔を見る。
真夜は本当に辛そうで、出来る事なら変わってやりたかった。
僕が真夜の頭を撫でてやろうと再度手を伸ばしたのだが、野崎さんに肩を叩かれ止められてしまった。
「真昼くん、帰ってきてから手を洗ってないでしょ」
「あっ……」
僕はそう言われた慌てて手を引っ込めた。
「それで真昼くん、ちょっと外出ない? ああいうのとか話しておきたいし」
そう言って野崎さんはタオルの方を指さした。
確かに僕の知らない対処法を教えてもらって損はない。僕は頷いて野崎さんと一緒に部屋を出た。
「お、ちょうどいい」
折よく社長さんがビニール袋を片手に僕らの方へ歩いてきている所に出くわした。
「お、トモ~。何それ」
「真夜ちゃんに差し入れ。一日分のビタミンが取れるってゼリー飲料だ」
社長さんはそう言うと、五つのパックが入った袋を僕の手に押し付けてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「風邪には栄養補給が一番だからな」
「おお、気が利くぅ~。気が利くついでにトモ、家あがらせて」
「ん? 別に構わんが、何するんだ?」
野崎さんはくるっと回って僕の顔を見ると、
「我が弟子の指導かな?」
そう言ってにやりと笑った。
一瞬、僕は背筋に嫌なものを感じたが、今更嫌だとは言えず、適当な愛想笑いを浮かべる。
「そうか」
「あ、私は野菜ジュースでいいから」
「……お前は何の話をしてるんだよ」
「え? お客さんに飲み物くらい出すのが普通でしょ?」
「お前がお客さんかよ」
「ひっど~い」
野崎さんは大袈裟に嘆くと僕の隣に立ち、何故かがっしりと僕の頭を掴んだ。
「真昼くんもジュース飲みたいよね~」
「え……ぼ、僕は……」
口では断っているのだが、野崎さんが無理やり僕の頭を縦に動かした。
「ほら~、真昼くんも欲しいって言ってるじゃない」
「どう見てもお前が無理やり頷かせてんじゃねえか」
「あ~、トモの癖に生意気だぞ~」
「うっせ」
どうやら野崎さんは僕をダシにして社長さんに集(たか)る事が目的だった様だ。
先ほどの心配が杞憂だったことに安心し、僕は胸を撫で下ろした。
「ほら、早く行くよ~」
「あっ、おい、鍵盗んなっ」
騒ぎながら家の中に入っていく二人の後を、僕は慌てて着いて行った。
「冷蔵庫~冷蔵庫~」
野崎さんは即興で作った鼻歌を口ずさみながら、社長さんの静止も聞かずキッチンを襲撃しに行ってしまった。
「おい、荒らすなよ!」
その背中に社長さんが声を投げかけるも、野崎さんは分かってる~と軽く返すだけでまったく気にしていない様だった。
「ったく……」
「あ、すみません、社長さん。ちょっと洗面所をお借りしてもいいですか?」
実は先ほどの野崎さんの言葉を気にしていて、早々に洗ってしまいたかったのだ。
「もちろんいいぞ。場所は分かるよな」
「はい、ありがとうございます」
それから僕は、手洗いうがいをしっかりとした後キッチンの方へと向かった。
キッチンでは野崎さんがペットボトルを机の上に出し、社長さんにぶーぶー文句を言いながら片膝を立てて椅子に座り、コップを傾けていた。
「あ、真昼くんもジュース飲も~。ダイエットだから太る心配ないよ」
「え、えっと~」
視線を彷徨わせた先で、社長さんが苦笑しながら頷いていた。
「すみません、いただきます」
そう社長さんの方に向けて断ったのちに、僕も席に着くとご相伴に預かった。
「けほっ、けほっ」
「あら、大丈夫?」
「は、はいっ……んんっ」
久しぶりの炭酸は強烈で、喉を焼かれたと錯覚に陥ってしまうほど強い刺激があった。
「ゆっくり飲めよ」
「すみません」
なんか謝ってばかりだな、僕……。
「飲みながらでいいから聞いてね。あ、トモ~おつまみ~」
「あるかっ! ……冷凍のたい焼きならあるぞ」
結局あるのか……。というかたい焼きはおつまみなのだろうか。まあ、おやつ代わりなんだろうけど。
「じゃ~それ頂戴」
「へいへい」
冷凍庫をごそごそと探っている社長さんをしり目に、野崎さんは話を続ける。
「んでね~。部屋に吊ってあったタオルだけど……」
「はい」
その後、社長さんも交えて色々な事を僕は教わったのだった。
「それで、真昼くんにちょっと見て欲しいんだけど……」
「……んぐっ。はい、なんでしょう」
僕は口の中にあるたい焼きを急いで飲み込んで返事をする。
「これこれ」
そう言って野崎さんが無造作に机の上へと投げだしたものを見て、僕の背筋は凍り付いた。
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