第14話 固いお財布のひも

 僕は手早く洗い物を終わらせると、真夜の待つテーブルへと戻った。

「お兄ちゃん、ありがとー」

「どういたしまして」

 軽く言葉を交わしながら、僕は再び真夜の隣に座る。

 他の場所に座るなんていう選択肢は持ち合わせていなかった。

「えへへ」

 真夜は嬉しそうな笑顔を見せると、僕の腕に抱き着いて頭を預けて来る。

 少しだけ真夜の体と触れ合う事に緊張を覚えてしまうが、それ以上に好きな娘と触れ合いたいという欲求が沸き起こる。

 僕は空いている方の手を真夜の手に重ねると、真夜の方に体を傾けた。そうすれば、自然と真夜の頭が僕の目の前にくる形になった。

 真夜のものと思しき桃の様な甘い香りが僕の鼻をくすぐる。僕はその匂いにやられて頭がくらくらしてしまった。

「あ~、えっと真夜?」

「なぁに?」

 誤魔化すために何となく声をかけてしまっただけだから、話題何て用意していない。僕は慌てて周囲を見回し、

「あ、今八時前なんだ」

 テーブルの上に置かれた目覚まし時計に目が留まった。

「そだね、夜の八時だよ。寝るのにはちょっと早いかなぁ」

「そうじゃなくてね」

「なに……あっ」

 僕の言わんとすることを察してくれたのか、真夜は何度か首肯する。

「お兄ちゃん、家計簿取って」

「おーけー」

 僕はちょいと腕を伸ばして棚の上に置かれたノートを取って真夜に渡した。

 僕が稼ぐお金は一旦全額真夜に預け、そこから必要なものを相談して買う形になっている。

 家具家電の現物支給や光熱費と家賃免除なんて特典が付いてるけれど、日給五千円という超低賃金で収入そのものが少ないため、かなり厳密に管理しなければ今後の生活が滞ってしまう可能性もあるのだ。

「えっとね……」

 しばし真夜は家計簿とにらめっこをして、

「五百八十二円までなら使えるよ」

 という具体的な金額をはじき出してくれた。

「じゃあ、ちょっとしたお菓子なら買えそうじゃない?」

「……八時からお惣菜とかパンが半額になるとこで買うんだよね?」

「うん、ちょっとしたお茶請けが欲しいなぁって」

「むむむ……」

 きっと今真夜の頭の中には冷蔵庫に常備してあるホットケーキミックスの事が浮かんでいるのだろう。

 ちょっとした手間がかかる事を除けば、クッキーも焼けるしパンケーキだって作れる。買いに行くよりずっと安くでお茶請けが手に入るのだが、店売りのお菓子は独特の美味しさがあって、たまにはそちらも食べたくなるのだ。

「ミルク寒天とか半額になってるかもよ? 真夜美味しいって言ってたよね」

「あう~……」

 真夜は頭を悩ませた結果、

「合計金額が三百円以下なら……」

 と妥協案を出してくれた。

 なら真夜が二百円で僕が百円くらいでいいかな。

「よしっ、じゃあ行こ行こ。半額のが無くなっちゃうかもしれないから」

「わ、分かった」

 スーパーでは半額シールが貼られた物から御惣菜が消えていくのは常識なのだ。

 僕は真夜を引っ張り上げる様に立ち上がると、そのまま二人で玄関先まで急いだ。

「あ、そうだ」

「なぁに、お兄ちゃん」

「外では僕の事をなんて呼ぶんだっけ?」

「あ……それは……」

 僕の問いかけに真夜はちょっとだけまごついたが、

「ま、真昼さん」

 僕の名前を呼んでくれた。

「あぁ、いいなぁ……」

 思わず喜びを噛み締める。

 だってこの呼び方、まるで新婚夫婦みたいだからだ。

「お、大袈裟だよぉ」

「そんなことないって。真夜だってマイスイートエンジェル真夜とか言われたら嬉しくない?」

「そんなにゴテゴテつけられても嬉しくないよぉ」

「え~、じゃあどんなのが嬉しいの」

「それは~……って、言ったらわざと使うでしょ!?」

「バレたか……」

「もう、真昼さんのいじわる」

 そんな何気ない会話をしながら僕らは出かける準備を整え、ドアを開けたのだが。

「あっ、二人共チャオ~」

 ちょうどドアから出て来たばかりの、お隣に住んでいる管理人の野崎さんとばったり出くわしてしまった。

「こんばんは」

「こんばんは」

 僕たちは二人して丁寧に挨拶を返した。

「それでこんな時間に二人はどうしたのって……こんな時間にやる事は一つか」

「あははは、そうですね」

 この時間にお惣菜が半額になる事を教えてくれたのは野崎さんだ。となれば必然的に僕らの目的は同じだろう。

 すると野崎さんがいきなり視線を鋭くして、僕らの目の前に立ちふさがった。

「……おのれ、やはり師弟は相争うのが運命なのか」

「野崎さん?」

 野崎さんはあちょおとか言いながら、手を変な風に動かした後、両手を上にあげた状態で手首を外側に曲げ、同時に片足を上げるという奇妙なポーズを取った。

「さあ、この先へ進みたくば我が屍を越えていけぃ!」

「え、え~っと?」

 まだ野崎さんの扱いになれていない僕らは顔を見合わせる事しかできなかった。

「なによ~、ノリ悪いわね~」

「いきなり野崎さんのノリについていける人の方が少ないと思います……」

 僕の突っこみに、真夜も隣で頷いて同意を示している。

 最近野崎さんに料理の手ほどきをして貰った真夜の方がその事はよく知っているに違いなかった。

「も~、二人共真面目過ぎない? もうちょっと適当に生きなさいよ」

 野崎さんは適当に生き過ぎだと思います。なんて言葉は飲み込み、はぁとかそうですかなどと適当に返しておく。

 これぞ世渡りである。

「じゃ、ま、時間も迫ってるし行きましょっか」

「はい」

 肩をすくめて野崎さんが先頭を歩きだした。多少つまらなさそうに口を尖らせていたのは見間違いではないだろう。

 だが僕にはそれよりもせっかく真夜と二人で外に出たのだから気にするべき事があった。

「真夜」

 僕は真夜に手を差し出した。

「あ、うん……」

 その手を、真夜は顔を赤くしながら握り締めてくれたのだが……。

 僕はそれで満足できなかった。

 一旦繋いだ手を解くと、真夜と指を一本一本絡めて繋ぎ直した。

 いわゆる恋人繋ぎというヤツだ。

「今度からはこうして繋ごう」

「う、うん」

 密着度が上がったことで、いつもより数センチ近くなった真夜の瞳に、僕の鼓動も加速する。それは真夜も一緒だった様で、

「ちょ、ちょっと恥ずかしいね」

 照れ臭そうに頬を掻いた。

「でも、ね」

「うん」

「……とっても嬉しいっ」

 真夜は最高に可愛い。僕は今、それを再確認した。


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