第3話 社長さんとお隣さん

「他にもいろいろと必要なものはあるだろうが、とりあえずガスコンロを持ってきたからこれを使ってくれ。それから冷蔵庫なんだが……」

 ドバンッと勢いよく部屋のドアが開かれ、威勢のいい声が飛び込んでくる。

 声の主は、この部屋を提供してくれた社長さん――頭に自称がつくけれど――の中田智之(なかたともゆき)さんだ。

 頭を金色に染めた、豪快な性格とそれに見合った体格の持ち主で、何でも屋みたいなことをしている人だ。

 どうやら肩に担いでいるガスコンロを僕たちの為にわざわざ持ってきてくれたらしい。

「…………」

「…………」

 ご厚意は嬉しい、とてもが付くくらいに。でもタイミングが悪かった。

 今僕が数ミリ体を倒せば眠っている真夜と僕の顔は重なってしまう。見ようによってはキスしようとしてるように見えなくもないだろう。

「…………」

「…………」

 沈黙が痛かった。それ以前に僕の体は完全に硬直してしまい、社長さんの方を向くことすら出来なくなってしまっていた。

「……すまん。後二十分したらまた来る」

 なんかやけに具体的な数字じゃありませんか!? その間に何しろって言うんですか!?

「ちち、違いますっ! これはそのっ、誤解なんです!」

 さすがに看過できず、僕は体を起こすと言い訳を始める。

 会ってからいつもにこやかに笑っている社長さんの目が、今だけはマジだった。

「分かった、それでいい。誤解だな、うん」

「なんでそんなに物分かりがいいんですか!」

「スキンはポストに入れとくから使ってくれ」

「分かってないじゃないですか! 違うんですって!」

「それからここは壁が薄いから声は我慢してくれ」

「違います! というか僕と真夜はまだそんな事したことありません!」

 実際にはしたくても出来なかった、が正しいかもしれないけど。

 同じ家には親も居たのだから。

 ……そうか、ここならできるのか……じゃない。そんな事今は関係ない。

「分かったから大声出すな。お前、結構恥ずかしいこと言ってるからな。それに隣にはちょっとめんどくさい奴が……」

「ふーん。トモは私の事そんな風に思ってたんだぁ」

 その声を聴いた瞬間、絡みつく蛇のように艶めかしい女性を連想してしまった。そのくらい女性の声は女を感じさせる艶っぽい雰囲気に満ちていた。

「げっ、マイ……」

 社長さんは顔を青くして隣に顔を向ける。見えてはいないのだが、お隣さんは入り口近くで社長さんに話しかけているらしかった。

 部屋の中に居る僕から女性の姿を見る事が出来ない。だがなんとなく派手そうな人だな、という感想を持った。

「ゲッって何よゲッって。失礼ね。一応これでもこのアパートの管理人なのよ?」

「そりゃそうだがな」

「ごめん、間違えたわ。このボロ家の管理人ね」

「そんな事言い直さなくていいわ! 大家の目の前でボロとか言うな。古めかしいって言え」

「どっちでも一緒じゃない」

 調子よくポンポンと会話が飛び交う。どうやら二人は相当に仲がいいらしく、会話に入れる様な雰囲気ではなかった。

「まあいい。待望のお隣さんだぞ」

「こんな部屋借りるなんてもの好きね~」

「そこら辺はまあ……」

 社長さんは僕たちの方をチラリと見て言葉を濁した。

 駆け落ちしたカップルを拾いました、なんて言い出しにくいに決まっている。

「……ふーん、訳ありって感じね」

 ゴソゴソと物音がすると、

「あっ、ちょっお前! 下!」

 社長の叱責をものともせず、一人の女性が姿を現した。

「チャオー、始めまして~。管理人の野崎麻衣で~す。よろしくね」

「は、はいよろしくお願いします、逆月真昼といいま……」

 語尾にハートマークでも付いてそうな挨拶をしたのは予想通り色っぽい女性で、茶髪に染めた髪にウェーブをかけて肩まで伸ばし、ぷっくりしたやけに赤い唇と、ぱっちりした目元が印象的だった。

 なにより豊満な胸をシャツ一枚でしかガードしておらず、下は……。

「マイお前パンツ見えてる! 完全に痴女だ、その行動は!」

 社長さんの指摘通り、履いていなかった。

「あら~、可愛い反応」

 彼女の痴態を見ない様に目を背けた僕を、野崎さんはくすくすと笑いながら甘い声でからかってくる。

「ねえ、あの子食べてもいい?」

「そんな事より早く自分の部屋戻れ! 履いてこい!」

「え~、これ見せパンだから大丈夫なのに」

 ……がっかりしてないからね? ホントだよ?

「も~、耳元で怒鳴らないでよね。仕方ない、ちょっと待っててね~」

 野崎さんは、自由奔放に引っ掻き回すだけ引っ掻き回すと自分の部屋に引っ込んでいった。

「ふう……」

「やれやれ」

 僕と社長さんは同時にため息をつき、顔を見合わせて同時に苦笑を漏らした。

 きっと考えている事も同じだろう。

 壁が薄いから言えないが、何とも言えない独特の価値観を持った女性で、僕の周りではお目にかかった事のないタイプの女性でもあった。

 ちなみに真夜は今の騒動の中でもすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。こちらもある意味大物だろう。

「あ、コンロありがとうございます。運ぶのは僕がやります」

 僕は今更ながらに社長さんの言葉を思い出し、玄関へと駆け寄っていく。

「いや、こっちは俺がやるよ。ガスの調整とかもあるしな。それよりも冷蔵庫を運ぶから下に降りといてくれ」

「何から何まで本当にありがとうございます」

「なぁに、人に住んでもらった方が家は傷まないからな。それに真昼も真夜ちゃんも住み込みの社員なんだから、そんなしゃちほこばるこっちゃねえよ。もっと仲良くやろうや」

 社長さんには本当に感謝してもしきれなかった。住むところだけではなく、働く場所まで提供してくれるのだから。

「ありがとうございます」

 僕はもう一度心からの感謝をこめて、腰を深々と頭を下げた。

「……どういたしまして。ほら、下に行って物置小屋前で待っててくれ」

「はいっ」

「っと、真夜ちゃんは……」

 社長さんは首を伸ばして室内を確認すると、

「寝てんのか。あれだけ騒いでも起きねえってことはよっぽど疲れてたんかね」

「いえ、真夜は一度寝るとなかなか起きないだけです。疲れてるのももちろんあったでしょうけど」

「そりゃすげえな。俺にもその技伝授してほしいぜ。最近眠りが浅い気が済んだよなぁ」

 関係のない事をぼやきつつも、社長さんはガスコンロを部屋の中に運び入れ、てきぱきと設置を始めてくれた。

 僕がそれをぼさっと突っ立って眺めているのは失礼だと思い、よろしくお願いしますの一言と共に再び頭を下げると、急いで物置小屋まで向かったのだった。


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