第10話 暗闇の中、溶けあうようなくちづけを


 考えてみれば、これは最初から仕組まれていたのかもしれない。

 一つの部屋に、男女が一人ずつ。しかもその二人は恋人同士である。

 そして部屋にはベッドがたった一つしかなく、布団も一組だけ。だというのになぜか枕は横に長く、二人が同時に寝る事ができるほどの大きさだ。

 間違いなく、状況が、運命がそれをしろと囁いていた。

「お、お兄ちゃん……」

 真夜は既に布団の中に潜っており、そこからカメのように頭だけ出して、期待に満ちた眼差しを僕へと向けていた。

 かくいう僕は、部屋の入口で踏ん切りがつかずに棒立ちしていた。

「な、なんだい?」

「そ、その……。早く、電気を消してほしいなぁって……」

「あ~ええっと……け、消すけどさ……」

「けど?」

「ほ、ホントに? ホントにするの? なんだったら今から社長さんの家に行って……」

 あまりにも踏ん切りがつかない僕にいら立ったのか、真夜はぷくりと頬を膨らませる。

「ダメだよ。もう夜遅いし、多分社長さんも寝ちゃってるよ」

「夜遅いけど、まだ十時くらいなんだから寝ては無いと思うなぁ……」

「もぉ。いいから早くして、お兄ちゃん」

「でも……」

 うじうじと言い訳を続ける僕に、真夜はいい加減堪忍袋の緒が切れてしまった様だ。唇を尖らせ、不満を顕わにする。

「お兄ちゃんはそんなに私と寝るのが嫌なの?」

「嫌じゃないけど……」

 むしろしたいというか、したら理性が切れちゃうというか……。

 色々と我慢しないといけないから辛いだろうし、絶対見惚れて眠れないとか緊張して眠るどころじゃなくなるとか……。

 原因は全部真夜が可愛すぎるのがいけないんだ。なんて罪つくりな女の子なんだろう。

「じゃあ一緒に寝てもいいはずだよね」

「いや、でも問題があって……」

 一番の問題はさっきも勝手に暴れ出した僕の息子さんなんだけどね。

「私はお兄ちゃんと寝たいの!」

「よし、寝よう!」

 真夜が放った変化球なしのストレートな言葉を前にして、僕は屈するしかなかった。

 世のお兄ちゃんは妹のわがままを全部聞かないといけない義務があるのだ。

「えへへ、やった」

 真夜は可愛らしく目を細めて喜んでいる。

「じゃあ、消すよ」

 僕は真夜の笑顔をずっと愛でていたかったのだが、そうなると真夜の願いをかなえられないので、仕方なく電灯のスイッチを切ったのだった。

 照明が消え、部屋の中が暗闇に包まれる。

 まだこの部屋で過ごし始めて日……というより時の浅い僕は、どうすればいいのか二の足を踏んでしまう。

「お兄ちゃん、こっちだよ。足元気を付けてね」

「真夜、悪いんだけど、もっと声を出してくれるかな」

「うん、分かった。こっちこっち。早くして、お兄ちゃん」

 真夜の声を頼りに僕は闇の中を歩き、ベッドまでたどり着いた。

 僕がベッドに上がるや否や、真夜が布団を僕にかぶせてくれた。その布団は真夜のぬくもりでほんのりと温かく、僕を優しく迎え入れてくれる。

 ベッドの中では僕らの距離が思った以上に近く、真夜の吐息が僕の顔に触れて心臓が一際大きく跳ねた。

「ふふっ。お兄ちゃんとこうして一緒に寝るのっていつ以来かな?」

「え~っと……幼稚園、かなぁ?」

「え~、そんなに前だったかなぁ?」

 そのころの僕らはこんな風に胸を高鳴らせることは無かっただろう。だから一緒に寝られたのだ。今は……少なくとも僕は煩悩にまみれている。

 僕はなるべく体を縮こまらせて、極力真夜に触れない様注意するしかなかった。

「お兄ちゃん」

「なに?」

「もっとこっちに来て」

「え……」

 人の気も知らないで~。人がどれだけ我慢してると思ってるんだ!

「お兄ちゃんの体、完全には布団に入ってないでしょ。風邪ひいちゃうよ」

 確かに真夜の指摘通り、僕の背中は外気に曝されていた。今はまだ風呂上りなため、さほど気にはならないが、このままいけば確実に冷えてしまうだろう。

「……そんな事無いよ」

 だが僕は真夜の身の安全を考えて嘘をついておく。

「うそでしょ。お兄ちゃん、嘘つくとすぐに顔に出るもん」

「え、ホントに?」

 指摘されて僕は思わず自分の顔をまさぐってしまったのだが、

「ほら嘘ついてた」

 それが真夜の狙いだった。

 今は電灯を消したばかりで、この暗闇の中お互いの顔すら見られないのだから、例え顔に出ていたとしても分かるはずはないのに。

「私はね、お兄ちゃんが何を考えてるかなんて全部わかっちゃうの」

「それは……困ったなぁ……」

「お兄ちゃんが私の事を大切にしてくれてるのは分かるよ。でも、私は……私はね……」

 この時この一瞬だけ、暗闇の中で真夜がどんな表情をしているのかが分かった。

 僕と同じ、少しだけ泣きそうになっている、とても切なそうな顔だ。

 想いを堪えて、堪えないといけなくて、苦しくて。

 ……でも、大好きで。

「私は一線を越えてもいいよ」

「……もう、越えてるよ」

 一線が何を意味するのかは分かっている。でも僕はわざとはぐらかした。

 それを踏み越えないためにも。

「お兄ちゃんが色んなことを考えてくれてるのも知ってるよ。でも私はね……」

 ふと、真夜の手が僕の頬に触れた。時間を置いて、もう片方の手が伸びてきて、僕の顔は真夜の手によって包まれてしまう。

「もう……我慢したくないよ、お兄ちゃん」

 それは僕もだった。

 あれだけ我慢して、だというのに無理やり引き離されてしまいそうだったから二人であの場所を逃げ出したのだ。

「分かってる。でも、状況が変わったんだ。僕たちは思いもかけない幸運に恵まれて、そして、これから別の道が掴めるかもしれないんだ」

 その道は、逃げ出した時に考えていたようなな道ではなく、これから先、ずっとずっと未来まで続く道で……。

「真夜と僕が、これから先ずっとずっと二人一緒に生きられる道をさ」

「……それは、嬉しいけど……」

「今真夜とそういう事したらさ、きっと僕は止まれなくなる。ずっと、ずっと真夜とし続けちゃうよ」

「あう……」

 もし今の経済状態で子どもが出来たらどうなるか。いや、その前に医者にかかった時点で二人の逃避行は終わってしまうのだ。

 保険証を使えばどの医療機関にかかったかが実家に通知されてしまう。僕らがどこに居るかが両親にバレてしまうのだ。

そうなれば僕らは間違いなく連れ戻されてしまうだろう。そうしたら今度こそ間違いなく僕らは引き裂かれてしまうのだ。

「だからさ、真夜……」

 目が暗闇に慣れて来たからか、朧気ながら真夜の顔を闇の中でも確認できる。

 僕はお返しとばかりに、真夜の顔を両手で包み返した。

「もうちょっとだけ、我慢しよう。二人で自活できるようになるまで」

「ぶー……」

 真夜は不満そうだった。でも、分かってくれたのか、それ以上その事には踏み込まずにいてくれた。代わりに、

「じゃあ、キスして」

 なんて可愛らしい我が儘を言って来た。

「あ~……」

「お兄ちゃんからしてほしいな」

「…………」

「はやく」

 暗闇で互いの顔が見えにくいからか、真夜は積極的だった。

「大人なキスはしないよ」

 止まれなくなりそうだから。

「うんっ」

 嬉しそうに笑う真夜の唇に、僕は軽く唇を触れさせた。

 ……数秒もしない内に、顔を離す。

「……もうちょっと」

 案の定、不満そうな真夜が追加を要求してくる。その誘惑に僕は……。

「分かった」

 抗えるはずが無かった。

 再び唇を合わせる。

 僕の感覚全てを唇一点に集中させ、真夜をひたすらに味わう。

 真夜の体温を。柔らかさを。吐息を。

 愛しい人の全てが、今僕の目の前に在って。僕と全てを通じ合わせていた。

「これで、いい?」

 感覚的にはたっぷり数十秒。十分な時間だった。――時間だけは。

「だめ、もっと」

 気持ちはまだ足りない。真夜も、僕も。

「……そうだね」

 今まで触れ合えなかった時間を取り戻すかのように、僕達は三度唇を合わせたのだった。


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