02、夕焼け空に手ェ伸ばすくらい

「どうだ、何か掴めたかね?」


 さっきよりも少しだけ近い位置でしゃがれた声がして、イツキは我に返った。

 殆ど無意識に伸ばしていた手に、我に返ってようやく気がつく。手元には何も掴んでいない。そんなことは分かり切っているのだが、そうと認識するといつも少しだけ気分が暗く落ち込んでしまう。

 そんな気持ちの中で律儀に答えてやるのも億劫で、イツキは黙ったまま老人の方を睨みつけた。不審者への警戒心というのももちろんあるが、ほんの少しだけ八つ当たりだ。


 じっとりと暗いイツキの視線をそのまま答えとでも受け取ったのか、老人は歯をむき出したままで肩を震わせた。ひぇひぇひぇ、と甲高い声を小刻みに漏らしている辺り、これがこの老人の笑い声らしい。


「まァ、なんだ。なかなかに滑稽なモンを見せて貰ったわい。ええ歳した大人が夕焼け空見てぼうっとして、そのまんま手を掲げる様子なんざ芝居がかり過ぎて普段見れたもんじゃないからなァ。ちょっとした不審者じゃろ」

「なっ……! あんたが言うのか、あんたが!」


 突然の不審者呼ばわりで反射的に噛みついてしまったが、こればかりは仕方ない。見慣れない正装でこちらを見ながらニタニタ笑っている見知らぬ老人の方がよっぽど不審者ではないか。

 そう主張すると老人は少しだけ笑いを引っ込めて、小さく鼻を鳴らした。――自分が不審者呼ばわりされるのは心外だってのか、とイツキは釈然としない。


 鼻を鳴らしたっきり何も言わず無表情でこちらを見つめる老人に、イツキの肩が無意識に強張った。そのまま無言で睨みあうことおおよそ五秒ほど。

 先に口を開いたのは老人の方である。


「ふむ、しかし。あれじゃな小僧」


 ぽつりと零れた独り言のようにも思えるそんな言葉に続いたのは。


「乾いているなどと豪語する割には、夕焼け空にだけは妙に感傷的なのだなァ」


 ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。その表現でイツキを指すのは、今朝メッセージをやり取りした友人だけだ。それ以外にイツキを指してそう言う人間はいないし、ましてこんな見知らぬ老人が何故その言葉を使うのか。

 思えば夕焼け空を見上げる前の事もそうだ。記憶の断片に至っては本当に親しい友人にも己の両親にも打ち明けた事など一度も無い。赤く染まった空に幼い手と見知らぬ少女の微笑みを幻視することを知っているのは、この世界中でイツキただ一人のはずなのに。


 そろそろ我慢の限界だ。胸の内に疑問をため込みきれずにイツキは老人を見据えて口を開いた。


「あのさ、爺さん。さっきからなんなんだよ」


 開口一番で雑な言葉が飛んだのは、別にイツキが普段から目上への態度を知らないからではない。相手を老人だからと態度を改めるより前に警戒心を刺激され過ぎた。


「さっきから、顔も見た事無いような相手に知られてる筈がない事ばっかり言ってくるよな。なんで知ってるんだよ。何者だよ。何がしたいんだよ。いい加減にしないとお前、警察呼ぶからな。徘徊老人に付きまとわれてます、って通報するからな」


 元々皺だらけの老人の眉間が、さらに皺を深くしたのがイツキには見えた。

 思った通りだ、と口の端で小さく笑う。不審者呼ばわりの件もそうだが、どうも得体が知れない割にこの老人は自分の自尊心を突かれるのを嫌うらしい。ちょっとした意趣返しの狙いもなくはないが、きちんと問いかけに答えなければ不名誉な扱いをするぞという牽制はこういう手合いによく効く。


「そう挑発せんでも、話すことは話すわい。まったく、生意気で骨が折れるのう」

「悪かったな生意気で。あと二十五歳は小僧呼ばわりされるほど子供じゃねえよ」

「儂から言わせりゃその倍は歳食うてても小僧じゃ小僧。ほれ、ええからついて来い」


 小さな反撃はあっさり返されて、その場でくるりと向きを反転させた老人がゆっくりと歩き去ろうとする。ついて来い、とは言われたが状況のわからないまま従うのも嫌で、イツキの足は動かなかった。

 背後の気配でそれを察したのだろうか、足を数歩進めたところで老人は一度立ち止まり、背中を向けたまま深々とため息をつく。


 少し懐の辺りをごそごそと弄ってから、ゆっくりと上半身だけ捻ってこちらを見た老人はその手をイツキの方へ向けて広げた。手のひらの上には金色の何かが乗っていて、きらきらと光っている。


「ほれ、コレ。小僧は見覚えあるじゃろ? 毎日のように見てるはずじゃ」

「見覚え……?」


 いったい何のことだ、と興味のほうが警戒心に一瞬勝って、老人の方へ一歩近寄ってその手のひらの中を覗きこむ。


 親指の爪より一回り大きい程度のそれは、ペンダントのようだった。

 金色で、平べったい正円形をしている。その外周部分はギザギザになっており、中心部分には真っ白のガラス玉らしいものがはめ込まれていた。

 ガラス玉を囲むように三か所、針で空けたような穴があり、金色の髪の毛かと思うほど細い鎖がその穴のうち二か所を通っている。

 ペンダントと形容はしたが、元からそうだったというよりは無理やり金の鎖を通してペンダントとして扱っているようにもイツキには見えた。


 その形状を、確かに老人の言葉の通りイツキはよく知っている。嫌というほど見覚えがあった。なんならついさっき見たばかりだ。


「これ、さっきも見えた、子供の時の」


 夕焼け空と共にイツキの視界に浮かび上がってくる、幼い己の手と微笑む少女。幻視する光景にはもう一つ。自分の手の中に乗せられている金色の、平べったいペンダントがある。

 目の前で老人の白い手袋に乗せられたペンダントは、その光景に存在しているものと非常によく似ている。

 いや、似ているというのは適切ではない。少なくともイツキは、自身の記憶にあるそれと、老人の手の上にあるそれに、違いを見つける事は出来なかった。完全に同じ物だと感じていた。


「ちょっと待て、爺さんこれどこで」

「欲しかろう、欲しかろう? お前さんはこれを夕暮れ時に何度も見たはずじゃ!」


 ひぇひぇひぇ、という甲高い笑い声が再び響いた。

 この笑い方は耳障りで嫌いだ、と顔をしかめながら、その問いかけには答えずイツキは老人からペンダントを取ろうと手を伸ばした。だが、一瞬早く老人の白手袋の方が引っ込む。外見年齢の割にやけにすばしっこい老人である。


「欲しかったら、大人しくついて来るがええわ。ほれ、この公園からでも見えとるじゃろ、あの店じゃ。さして遠くもないわい」


 再びこちらに背中を向けた老人の指が、そのまま彼の進行方向を指さす。角度はやや斜め上だ。


「あの店、って言われてもさぁ」


 公園の敷地外なのは分かるのだが、町はずれとはいえ別に周辺一帯が空き地しかないわけではない。指さす先にも背の低いビルや三角の屋根がいくつか並んでいて、どれの事だか見当がつかない。


「ついて来ればわかるじゃろう。ええからほれ、文句垂れずに来いと言うとる」


 そう言ったっきり、今度はイツキの制止にも耳を貸さず老人は再び歩き始めた。

 ――ああなるほど、あれ燕尾服えんびふくか。老人が背中を向けた事でようやくイツキは老人のジャケットが一般的なスーツのそれと違う理由を把握した。

 直に見たのは初めてだが、その特徴的な後ろ姿は一般的な雑学知識として聞いたことがある。少なくとも、おいそれと街中で見かけるような恰好ではない。


 このご時世に、ただの公園のど真ん中で燕尾服。ただでさえ胡散臭い老人が何を着ていようとどうせ評価はくつがえらないのだが、逆に胡散臭うさんくささの上乗せは青天井である。

 本当にこの変な老人について行っても良いのだろうか、と頭の中で冷静な部分が疑問を掲げる。たっぷり迷って、頭の中の天秤は最終的に警戒心よりも件のペンダントの方へと傾いた。


 どれほど胡散臭いとはいえ、相手は老人だ。最終的には強引に走って逃げてしまえば、仮に面倒な事や胡散臭い宗教だったとしても被害にあう事はあるまい。

 そんな考えが頭の中に湧いてきたことも背中を後押しした。試しに行ってみて嫌な予感がしたらとっと逃げればいいのだ、と自身に言い聞かせて、イツキは警戒心でぎこちない足取りのまま老人の後を追うのだった。


***


 老人の言葉は嘘ではなかった。言葉から受け取る印象ほど近いものでもなかったが。

 なるほど、確かにイツキたちがいた公園からもよく見える位置だ。老人の指の向きが若干上を向いていたのも含めて、まあ間違いではない。

 だがイツキは声を大にして言いたい。


「坂道を二十分もかけて登って! 息を切らしながら着くような場所を! さも目の前です、みたいな言い草で紹介するな!」


 老人が指さした方向に緩やかだが長い登り坂がある事に気がつかなかったのは一生の不覚である。

 決してきつい角度ではないが確かに傾斜を感じる坂道が延々続く道を少し登って、登り切ったと思えば角を曲がって、その先にはまた上り坂。それを昇り切るとまた反対側に道を曲がって上り坂。


 よくもまあこんなに上り坂ばかりを選べるものだとある意味感心するほど、とにかくイツキと燕尾服の老人は重力に抗う道をジグザグに歩き続けた。

 傾斜自体はそれほどでもない分、歩いた距離の割に高さをあまり感じないのに足ばかりが疲れていく。


 そうしてたどり着いたのは、随分と古風なレンガ造りの一軒家である。

 最後の坂道を登り切ったすぐ目の前に建っており、なるほどここから坂道の方を見下ろせばさっきまでいた公園が一応見えなくもない。ぐねぐねと右折左折を繰り返しながら登ったせいもあって、思ったほど遠いわけでもないようだ。


 直線で距離を見るならさして遠くはなく、公園からも確かにこの一軒家は見えるだろう。だがこれを「さして遠くもない、公園からも見えてるあの店だ」と平然と言い切るのは何かが違う。絶対に違う。


「嘘は言うておらんだろう。文句を垂れる元気があるのなら入らんか」


 憤慨するイツキにどこ吹く風といった様子の老人はそのままレンガ造りの家の扉を開き、その内側から手招きをしている。

 くすんだ色合いの扉の奥からは灯りは見えず、イツキの位置からではちょうど暗闇の奥から老人の上半身だけがこちらを覗き込んでいるように見えて不気味さも三割増しだ。


 何とはなしに、手招きする老人から視線をずらして建物全体を見上げてみる。

 二階建てだろうか。少なくとも目算では一階建ての高さではない。扉と同じようにくすんだレンガ造りの壁と、青みがかった屋根。そのどちらにも、あちらこちらに蔦がびっしりと巻き付いていて手入れされている様子はなかった。


 ――荒れた不気味な一軒家と、そこに住まう老人の亡霊。

 その光景にぱっと思いついたタイトルをつけるとしたらそれ以外にあるまい。

 やっぱり今からでも走って逃げてしまおうか、という考えが脳裏に浮かんだその瞬間。


「まァ、これが別にいらんというなら帰ってもええぞ。長い事追い求めて夕焼け空に手ェ伸ばすくらいにはセンチメンタルに浸ってるくせに、ただのジジイを怖がる気持ちの方が大きいならそれもよかろうて」


 そう言いながら金色のペンダントを老人が取り出して、軽く左右に揺らす。ひぇひぇひぇ、というしゃがれた笑い声ももちろんセットだ。

 なにせ癖を自覚した高校の時から見積もっても十年間、幻でこそ見かけても現実には一度だってお目にかかれなかったペンダントだ。あの光景についての手がかりであると同時に、ここを逃せば二度と手に入れることができない可能性も非常に高い。


 イツキに選択の余地は無かった。


「あぁもう、いちいち耳障りだからその笑い方やめろ! 行くよ行けばいいんだろ!」


 吐き捨てるようにそう言って、イツキは扉の方へ足を運んだ。さっきまで顔をのぞかせていた老人は、ペンダントを見せつけるだけ見せつけてさっさとその内側に引っ込んでしまっている。

 ドアノブに手をかけて、一度だけ深呼吸。それから覚悟を決めて、ドアを勢いよく開く。

 少しだけ埃っぽい空気に交じって、仄かに甘い香りがした。


 ――懐かしい。


 理由は分からない。心当たりも全くない。しかし嗅いだ瞬間、どうしてかイツキはそう思わずにいられなかった。

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