17、とても大事な何かの
どうやら勘違いではなさそうだ、とイツキが気付くのに、それほど時間はかからなかった。おそらく――いやほぼ間違いなく、目の前の黒猫はこの場所においてイツキの案内役を務めてくれている。
そんな「気がする」が「たぶんそうだ」に変わった理由の一つは、無人の出店が並ぶ通りを猫に導かれるまま歩き始めてほんの数分で、またも小さい子供の後ろ姿を見つけたからだ。
――そういえば、今日は他の人と来なくて良かったの? 俺は……その、最初から二人でお祭りに来たかったから。それよりほら、もっと色々見て回ろうよ。
聞こえてきたのはたったそれだけ。今度も大して重要なヒントでもなく、ほんの短い言葉だけではあったが、やはり間違えようもなくそれは小さなころの自分の声だ。そしてこれも先ほどと同じく、やはり声の聞こえないもう一人に向かって話しかけている言葉だった。相手はいつも思い出す記憶に必ずいる女の子だろうと、これもほぼ確信を持って言える。
「結局何なんだ、さっきから」
ぽつりと小さく漏れた声は、自覚している以上に疲れた色合いを含んでいた。今までと明らかに違う雰囲気、明らかに違う夢への入り方、明らかに違う状況。ただでさえ混乱する要素が多いのに、普段ならもう少し明確に存在しているはずのヒントがその役割を果たしていないのだ。戸惑いと混乱から精神的な疲労はどうしても濃くなる。
思い出すのは、意識はハッキリしているにもかかわらず妙に瞼だけが持ち上がってくれなかったつい先ほどの、いつもの声だ。
どうせイツキが全部思い出して、オルゴールを手放すなら。確かにあの声はそう言った。随分と思い詰めた口調だった。誰かとの何気ない会話ではなく、自分が思い出させて終わりにしたいとも言っていた。
随分と思わせぶりな物言いである。これまでにも遠回しで思わせぶりな言い方は何度もあったが、ここまで露骨なものも記憶にあまりない。おまけに今日に限って記憶さがしのルールが違う。宝探しではなく、かくれんぼだ。見渡す限りの出店通りで、何処に隠れているのか見当もつかないうえにどんな姿をしているのかも明確には分からない相手とのかくれんぼ。戸惑うのは決して自分の理解度が低いからではないとイツキは思う。
ちりん、と再び小さく澄んだ音色が耳に届いた。位置はすぐ足元からだ。
はっと気がついて目を向けると、小さな道案内がこちらを見上げている視線とぶつかった。子供の頃の自分の幻影を見てから足を止めて考え込んでいたので、それを咎めに来たらしい。にゃあ、と心なしか棘のある鳴き声を一つ聞かせてから、素早く踵を返した猫が再び先を歩き始める。この辺りで「たぶんそうだ」が「間違いない」に切り替わった。
一人で例の声とかくれんぼをするのは途方も無いからとりあえずの指針が欲しかった気持ちと、単に「こいつはどこへ連れて行こうとしているんだろう」という好奇心。ざわめきや気配はあれども人の姿が見えない夜店の通りが心細いという気持ちもほんの少し。尻尾を軽く揺らしながら先を歩く猫を追うことにためらいはもう無く、イツキの足取りは軽かった。
右も左も代わり映えしない、明るい提灯に照らされた道を歩き続けてどれくらい経っただろうか。決して短いものではなかったことだけは確かである。真っすぐに伸びているわけではなく、時折緩やかにカーブしたり十字路になったりもしていたがそれにしても現実の感覚で言うなら規格外の広さだ。そういう「真面目に考えると説明ができない」事についてはもう、早い段階で考えるのを止めることにこの一週間でイツキも慣れていた。
その道中で時折小さな子供の後ろ姿を見かけるとそのたびにイツキは足を止めた。どれも同じ服装をした後ろ姿で、近寄ると何気ない小さな会話をほんの少しだけ残してかき消えていった。どれも今までのヒントに比べると他愛も無い事ばかりで、けれど妙に気にかかったのだ。一つ一つは取るに足らない。だが見ているとその子供は――イツキがもう覚えていない昔のイツキの言葉のあちこちに不自然な固さがあった。覚えていないはずのその言葉に、何故だか手の平に薄く汗をかくような緊張を覚える自分をイツキは自覚していた。
きっとこれは、とても大事な何かの直前なのだ。
そう思うとたった二言三言の短い言葉でさえも蔑ろにはできない。猫はその辺りを理解しているかのような振る舞いで、イツキが何度足を止めても必ずその足元まで来て自分の鈴を鳴らすのだ。少しだけ不機嫌そうな棘を感じる鳴き声は最初の一回だけで、それからはずっと無言でイツキが気付くのを待っていた。どうだもう終わったか、と言うようにこちらを見上げる黄色い瞳と視線がぶつかると、素早く踵を返して再び歩き出す。その繰り返しである。
――今日は様子が変だって? そ、そんなことないよ!
当時を覚えていないイツキが端から聞いていてもすぐに察するくらい、わかりやすく取り乱した弁明だった。
――任せてよ、今日は絶対楽しかったって思ってもらえるから。
やけに気負った口調はいっそ微笑ましかった。その時の事を一切覚えていないから、どこか他人事のような感覚のせいだろうか。幼少期の恥ずかしい記憶を掘り起こされるような感覚は薄い。
――今日はさ、どのくらいまで遊べる? ……本当に? やった!
無邪気な歓声ひとつで、思い出せずともどんな会話だったのかはある程度察することができた。きっと少し遅くまで遊んでから、その「大事な何か」を言うのだろう。
そんな、本当にとりとめもない、しかも一方の声しか聞こえない幻影に何度足を止めて、何度通り過ぎただろうか。
ふと気がつくと、並んでいたはずの屋台が左右のどちらにも見当たらない場所にたどり着いていた。
小学生の時の教室よりは一回り程小さい。とはいえそれでも開けた場所としてはかなり広々とした印象を受ける。頭上に吊るされていた灯りもこの場所は少なくて、全体的に薄暗い。今まで聞こえていたざわめきも少し遠のいていた。祭りの最中を思わせる先ほどまでの道から、どうやらここは少し外れた場所にあるようだ。
にゃあ、という鳴き声が微かな鈴の音と同時に聞こえて、音のする方を目で追う。先ほどまでの道案内とはまるで違う機敏な動きで、猫がイツキの足元をすり抜けて後ろへと走り去っていく姿が一瞬だけ見えた。ちょっと待ってくれと振り返ったが、その時にはもう猫の後ろ姿すら見ることは叶わなかった。他より暗いこの場に、前足以外の全てが黒い猫が溶け込んでしまったらもう到底目では追えない。
「ここに案内したかった、ってことか」
すんなりとそう思えたのは、単なる勘だろうか。それとも記憶に残っていないだけでイツキの中の何かがこの場所に心当たりでもあるのだろうか。その答えはすぐに分かった。
ぼうっと、輪郭が白く発光する子供の後ろ姿。その隣にもう一人、少し背が高い黒髪が揺れていた。髪の長さと肩の細さが女性だと主張するその姿もイツキは見覚えがあった。この一週間、毎日の記憶さがしで最後にたどり着く少女の姿だ。とはいえ、こんな風に幼少期の自分と並んでいる姿を見るのはこれが初めてだが。
――俺さ、今日は大事な話があるんだ。
もじもじとしながら、うつむきながら。少年の声はそれでもハッキリと耳に届いた。
それを見て、聞いて、ああそうかと思い出す。記憶がよみがえる。何を言おうとしたのか、ではない。そんなものは最初から気付いている。思い出したのは「何を言われたのか」だ。どんな表情で、どんな言葉を――どんな声で言われたのか。
「俺、琴乃ちゃんの事が好きだ」
そんなありきたりな、歳の割に随分とませた言葉を言い切ってからたっぷり数秒。間を空けてからその少女は――名前を今までどうしても思い出せなかった、長い黒髪と穏やかな笑顔がよく似合うその人は少しはにかんで言ったのだ。
「まだイツキ君は子供だから、それが本当に好きかどうか、ちょっと心配だなあ」
わざとらしい口調でごまかしているが、少なくとも今のイツキには分かる。子供の頃のイツキは気付かなかったが、言葉の端々に少し嬉しそうな響きが滲んでいる。この時、確か自分は世界が終わったような気持ちでいたから余計に気がつけなかったが、こうして思い出しながら目の前で再現されてみると非常に分かりやすいものだった。
だからね、と言葉が続く。
「あと十年か、十五年か。それくらい後。イツキ君がちゃんと大人になって、それでも同じ気持ちだったら。その時にもう一回、聞かせてほしいな」
弾みそうになるのを堪えているのだと、一歩下がって聞いていればわかる声は確かにそう言った。
「……ああ」
口から零れたため息と同時に、どこか肩が軽くなったような気分になる。ずっと思い出したかった理由はきっとこの一瞬だ。漠然とだがそう感じたからだ。
一週間前に夢を見るようになってから、常にどこかで自分を追い立てていた何か。何としても思い出したいと思っていた何か。それを目の当りにして、イツキは小さく震えて、そして。
「さァて、どうする小僧?」
なんの前触れもなく聞こえた背後からの声に、弾かれるようにして振り返った。
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