07、無理に思い出さなくとも

 ジンの家を出たのは日が沈み切ってからだった。

 お互い一人暮らしの身分で門限も何もあったものではないが、翌朝は仕事であることを考えれば日が暮れてもなお居座るようなことはできない。


「今度は他のやつも呼んで誕生日パーティーしようぜ」


 玄関で最後にそう言ったジンからは、本当なら今日他の友人も集めるつもりだったが予定が合わなかったと聞いていた。そうだな、と小さく頷いて、イツキが帰路についたのがだいたい三十分ほど前だろうか。

 真っすぐ帰り着いたはずのイツキは、しかし家の少し前を通る道の真ん中でその足を止めていた。


「おぉ、小僧。今日の夕暮れは何か掴めたか」


 足を止めた理由は目の前に佇む、燕尾服姿の老人である。

 相も変わらずくすんだ色合いのボサボサ髪と上品な燕尾服がミスマッチな、アンティークショップの怪しい老人が相変わらずの不気味な笑い顔をして呼びかけてくるのには答えず、イツキは目を鋭く細めた。


「……なんでいるんだよ、爺さん」

「危害を加えるわけでもなし、別にそう警戒せんでもよかろうに」


 吐き捨てるようにして、イツキの方からも問いを投げ返す。昨日の店の位置を考えると、イツキの家の近くにこの老人がいること自体が既に異常事態だ。

 ましてや、さも待っていたかのようにイツキが来る方向をじっと見ていたのだ。警戒するなという方が無茶である。


 ひぇひぇひぇ、と相変わらずの耳障りな笑い声にも顔色を変えずに身構えていると、老人は小さなため息をついた後で「わかった、わかった」とその両手を肩の高さまで上げた。


「いやなァ、むしろ儂はお前さんが何故来なかったのか、と不思議で仕方なかったんだがな。昨日は例の箱、開けんかったか」

「オルゴールなら、聴いた」


 短く答えると、ふむ、と老人は首を小さく傾げた。


「小僧、神経が図太いのだなァ」

「どういう意味だ」

「そりゃあお前、夢を見ただろう。昨日の身構え方を思うと今日の昼前にでも、あの夢は一体なんだと掴みかかりに来てもおかしくないと思うておったが」


 そこまで聞いてイツキは老人の言いたいことを察した。


「あの夢はあんたの仕業か」

「人聞きが悪い事を言うでないわ。おかげ、と前向きに言い換えることも出来んかね」

「ふざけんな、変な草原の夢で誰とも知らない声に質問攻めにされる夢をどう前向きにしろっていうんだ」

「……ほう?」


 噛みつくようにまくし立てたイツキの言葉を聞いて、老人の眉が一度だけ、ぴくりと跳ねた。昨日と同じニヤニヤ笑いが少しだけ引っ込み、視線が少しだけ足元に落ちる。

 それほど間を置かずに「なるほどなァ、そうかそうか」と小さく呟いて老人は顔を上げた。その表情は先ほどまでと同じような胡散臭い笑顔だ。


「なんなんだよ、さっきからニタニタ笑いやがって。何かあるんなら説明しやがれ。そもそもなんでここにいるんだ」


 問い詰めるイツキだったが、その言葉に返事は返ってこなかった。

 代わりに老人が、一歩だけイツキの方へ詰め寄る。何かを考えるよりも早くイツキの足は一歩後ずさった。


がそうすることを決めたんじゃろう。なら儂が口を挟むことではなかろうよな。それでもがそう決めた以上、儂から小僧には三つ、言うておかねばならん事があるのだよ」


 一歩詰めたそのあとは無理に追ってくることはなく、ただ老人は真っすぐイツキの事を見ながらそう言った。呟くような、うっかりすると聞き逃しそうなくらいに小さな、秘密の話をするかのような囁き声である。

 思わずイツキの視線が左右へ一度ずつ泳ぐ。家のすぐ近くの道路は大通りから二つほど離れていることもあって、日が暮れると人気が少ない。今も、イツキと老人以外に人影は見えなかった。


「ええか、まず一つ。時間はな、有限じゃ」


 随分と意味深な口調だった。訝しむイツキの顔をそのまま返答としたのか、囁き声のまま、老人は続ける。


「夢じゃよ、夢。その夢は確かに、お前さんが求めているものをくれるさ。だが、そいつはいつまでも待ってくれるものではないぞ。思い出したいなら、夢を見なくなるまでに事を成さねばならん。そう長くはないでな、急げよ小僧」


 それから次、と言いながら老人は右手を顔の横に持ってきて、指を二本立てた。


「小僧も分かってはおろうがな、夢は、夢じゃ。夢の中で何があろうと、それは小僧の世界に何も与えん。何も変えん。例え小僧が何を望もうとな、その線引きは忘れてはならんぞ……ええな?」


 念押しをされて、ただ頷くことしかイツキにはできなかった。元々雰囲気の異様な老人が、詰め寄ってくるその姿は言葉にしようがない圧を感じさせたのだ。

 何を言いたいんだ、とか意味が分からないことをいうな、とか、先ほどまでならきっと言えたであろう返答はイツキの喉奥に詰まって上手く出てこない。


「それから、最後じゃな」


 老人の三本目の指が、ぴんと立った。


「小僧。お前には選ぶ権利がある。思い出すか否か、そのどちらかを選ぶ権利じゃ」


 ――思い出したくないなら、別に止めない。そのままこっちへおいで。君にはその権利も当然あるからね。

 夢の中で聞いた声とその三つ目の言葉は、権利という言葉で重なった。


「それ、昨日も聞いたよ。夢の中でだけどさ」

「そうじゃろうな」


 ため息混じりにイツキが主張すると、老人はさして驚いた様子もなく首を縦に振った。


「なんなんだよ、あの声も、あんたも。思い出さない権利ってどういうことだよ。思わせぶりな言い方すんなよな。あの夕暮れ時の女の子の事、まるで思い出さない方がいいみたいな言い方じゃないか」


 いつも己が手を伸ばすその光景について、イツキは今まで一度も誰かの前で口に出したことなど無かった。だが相手は初対面の時点で自分が夕焼け空に見ている光景を知っていた胡散臭い老人だ。今更回りくどい言い方をしたりごまかしたりする必要もイツキには感じられなかった。

 案の定、その言葉にも老人が驚いたような気配はない。

 言葉そのものは突拍子もない事を言っているはずなのにだ。明らかにイツキの言葉が指しているものを理解している態度だ。その事にイツキは、胸の奥で何かが引っかかっているような、粘ついたものがこびりついているような不快感を感じていた。


「全部知ってて分かってて、散々目の前でチラつかせたくせに教えないままで別に知らないでいる権利もある、だと? 馬鹿にするのも大概にしろよ、俺が何年それを知りたがっていたと思ってんだ。権利だのなんだの言ってないで知ってること話せよ。それとも全部知ってるけど喋れませーん、ってか? そんな都合のいい話が通ると思ってんじゃねえぞ」


 吐き出す言葉に棘がさっきまでより多く含まれていることも、自覚がある。挑発的な言葉を選ぶのは半分が昨日と同じように老人のプライドを突いて喋らせるためで、もう半分は単なる苛立ちだった。


 怒りを隠そうとせずにまくし立てるイツキを、老人は黙って見つめていた。ニヤニヤ笑いも引っ込んで、完全な無表情でだ。皺だらけの顔をまるで作り物であるかのように少しも動かさず、黙ってイツキの目を見据えていた老人は、イツキの言葉が一通り出終わるまで口を開くことは無かった。


「……都合がええ話なのはわかっておるがな」


 イツキの言葉が止まってからたっぷり五秒は待って、ようやく老人の口が開く。


「それでも儂は、こう言うしかないんじゃ。全部知っていて分かっている儂に話せるのは思わせぶりな事だけなんじゃよ、と。それはお前さんが夢で話したも同じじゃ。だから、さんざん聞いたかもしれんが、それでもあと一度、念押しをさせておくれ」


 どうかお願いだからと懇願するような老人の声は、この二日間でイツキが聞いたどれよりも穏やかで、何かを抑えている響きをしていた。

 何も言えなくなったイツキの沈黙に、老人は続けて口を開く。


「黛イツキ。夕焼け空にお前が見る、その光景をな。お前は無理に思い出さなくともええんじゃ。思い出すことを否定はせん。だがな、どうしても思い出さねばならないわけではない。お前がそう望むなら、夢の中で声にそう言えばええ。顔を見に行けばええ。相手に言いづらい、というのであれば今夜からオルゴールのネジを巻かなければそれで済む。そのことを、ようく覚えておくがええわ」


 老人はイツキの目から少しも視線を反らさずそう告げる。

 名乗った覚えのない名前を何故知っているのか、などというのはもはやわざわざ気にしようとも思わない。だが老人曰く念押しをする前に名前を呼ばれたというその事自体がイツキの胸中をざわつかせた。


 まるで神託であるかのような勿体ぶった口調で告げるだけ告げた老人は、そのままするりとイツキの横をすり抜けた。告げるべきことはもう告げたから帰る、ということか。


 目が動きを追う勢いそのままに、イツキは踵を返す。

 つい先ほどイツキのすぐ横を通って行ったはずの老人の姿は、日が沈んだ路地の暗闇に溶けたかのように、きれいさっぱり消えていた。

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