04、子守歌みたいだ、と

 家に帰るともう時刻は夜の八時を過ぎていた。


 元々休みだからと普段足を運ばないような距離まで出歩いていた事に加えて、最後に訪れた店の位置が悪かった。

 老人の後ろをついていった時の記憶を頼りに公園まで戻るだけでも一苦労だったし、そこから家までの道もそれなりの距離を歩く羽目になったのだ。歩き過ぎで足裏に鈍い痛みを覚えながらの帰宅である。


 七畳一間の、決して広いとは言えない一人暮らしの玄関で靴を脱ぐなりそのままベッドへ足を運ぶ。肩から掛けていた小さなバッグを足元に転がして、イツキは倒れ込むようにしてベッドの上へうつ伏せに寝転がった。


「あぁ、すっげー疲れた」


 一人暮らしを始めると意味のない独り言が増える、というのは昔から時折聞いていたが、大学卒業後すぐに一人暮らしを始めたイツキはそれが本当だということを既に散々思い知らされていた。

 聞く相手がいないのに一人で喋ったりするものか、と一人暮らし開始当初は思っていたがむしろそれは逆だ。それを咎めたり変な目で見る第三者がいないからこそ、独り言を躊躇ためらう理由が無くなるのである。


「洗濯物は明日やるとして、飯は……あー、カップ麺の買い置きあったっけ……?」


 口には出すが確かめるために立ち上がる気は全く出てこない。もうしばらく寝転がって足を休めてからでいいか、と自分を納得させてイツキは寝返りを打った。

 視界がぐるり、と向きを変えて天井を見上げる格好になる。その途中で視界の端に一瞬だけ、投げ出したバッグが横切った。


 ――ええか、小僧。今夜寝る前に必ず開けるんじゃ。


 脳内でしゃがれ声が響いたような気がして、イツキは視線をもう一度バッグのほうへ戻す。寝る前に必ず開けろと言われた小箱はバッグの中に突っ込まれている。一応、簡易だが包装はしてくれたので多少雑に突っ込んでいても傷がついたりはしていないだろう。

 視線は動かさないまま、右手を自身の胸元に軽く添える。本来求めていたほうのペンダントは今まさにイツキの首に掛けられていた。小箱のように無造作にバッグへ突っ込んでおかなかったのは、やはり自分にとっての本命がペンダントのほうだからである。


 とはいえ、雑に突っ込んでいようが本命でなかろうが、その小箱が一切気にならないというわけではない。むしろそれまでほぼ常にニタニタ笑っていた老人が、その時だけは笑みを消していたという事が小箱への興味を強めていた。


 箱の中には何があるのか、何を理由に老人は必ず開けろと言ったのか。

 帰り道は歩き疲れた足を動かす事で精一杯だったから考える余裕が無かった。だが寝転がって思考に集中しだすと、その疑問は見る見るうちに膨れ上がっていく。


「寝る前以外は開けるな、とは言われてないもんな」


 誰にともなく、言い訳のような言葉を前置いてからイツキは体を起こした。


 バッグから取り出すなり包みを引っぺがす。特に何かが描かれているわけでもない白い包み紙はすぐに剥けて、中からお目当ての小箱が顔を出した。


 ――これはこれで、やっぱ安い物じゃないと思うんだけどなぁ。手に取った小箱の蓋を開ける前に、改めてその全体を眺めながらイツキは眉間に皺を寄せる。

 確かにペンダントの裏面のように凝った掘り込みや装飾があるわけではないが、造りはしっかりしている。最初に老人が挙げた金額で手に入っていい代物だとは到底思えない。


 まあでも今気になるのは中身だ中身、と思考を無理やり中断してからイツキは蓋をゆっくりと開いた。


 ふわり、と老人の店に入った瞬間嗅いだのと同じ甘い香りが鼻をくすぐった。懐かしい、と感じる気持ちの理由を思い出せず戸惑いながらも、視線は箱の中身へ。

 じっくりとその中にあったものを眺めて、首を一度傾げて、ぽつりと一言。


「オルゴール……だよな、これ」


 小さなネジや、いくつものピンがついた円筒状の部品。細い板と細かい歯車。それらが組み合わさった形からイツキが連想できたのはその名前だけであった。

 実物を見たことは今までに一度もないが、雑学程度にその形状や名前を聞いたことがある、というたぐいの品。あの老人の服装や店で散々見た物の半数はそんな具合だった。オルゴールもイツキにとってはその部類だ。


 ――音が鳴らないのは、ゼンマイが巻かれてないからだよな。

 いつ聞いたかも思い出せないようなうろ覚えの知識から見立てをつける。

 イツキの持つイメージ通りなら、こういう箱の形をしたオルゴールというやつはゼンマイを巻いた状態で蓋を開ければ勝手に音が鳴りはじめるはずだ。


 その予想が正しいと証明するように、箱の隅にネジ巻き用の金具が転がっていた。金属製の爪楊枝のような形状で、片側の先端だけが平たく扇状に潰れた形が何となく鍵をイメージさせる。

 ならばこいつを差し込む場所はと箱を改めて確認すれば、箱の底面にそれらしい穴を見つけることもできた。


 知られているはずのない事情を知っている奇妙な老人から、記憶の断片を掴む手がかりのついでに、意味深な言葉と共に買った箱の正体はオルゴールで、ご丁寧にも手元にはネジ巻きもついていて。

 ――じゃあもう、巻くべきだろ。

 警戒心や不信感ではなく、わざわざ念押しされた事を訝しむのでもなく、真っ先にイツキの頭の中に浮かんだのはそんな言葉であった。


 蓋を一旦閉じてネジ巻きを差し込んでみると、思った通り底面の穴はサイズがぴったりだった。

 そのままゆっくりと、一回転、二回転。

 三回転目のちょうど半分くらいで、かちりと小さな音がしてそれ以上回らなくなった。


「なんか、思っていたより回らないものなんだな」


 少し拍子抜けだな、と思わなくも無かったが、元々からしてオルゴールに詳しいわけでもないイツキである。自分のイメージが過度なだけで実物は大抵こんなものなのかもしれない、とあっさり納得してネジ巻きを引き抜いた。

 ベッドのすぐ横に置かれた小さなテーブルの上にオルゴールを乗せて、蓋を開ける。


 ほんの少しだけ間を置いてから流れ始めたのは、ゆったりとしたリズムと柔らかい音色。決してうるさくはなく、むしろ聞くことに意識を向けなければ流れていることをうっかり忘れそうな、細やかで優しいメロディだ。


 子守歌みたいだ、とイツキは聞きながら思った。

 聞いていて心が落ち着くスローテンポと、柔らかい響きは寝る時の枕元にでも置いておけば実に心地よく寝られるだろうな、音もかなり小さくて、ほんの数分なら寝る前でも近所迷惑にはならなさそうだし――などと考えた辺りで気付く。


 まぶたが、とてつもなく重たい。意識も少しずつふわふわと曖昧になってきて、ああこれは寝ちゃうなぁとどこか他人事のように自覚した。

 ソファー代わりに座った格好でいたベッドに、もう一度上半身を投げ出す。夕飯は食べていないが元々空腹より歩き続けた疲労の方が大きかったし、そこへ子守歌代わりのオルゴールなど流したものだから眠気に抵抗する意思など今のイツキにあろうはずもない。


 緩やかに暗転してゆく意識の中でイツキは最後に、右手を自身の胸元へ添えた。そこにある固い金属の感触を握りしめたところでイツキの意識は完全に途切れた。


***


 頬を不規則に撫でる風の心地良い暖かさで、イツキは目を覚ました。


 薄く瞼を持ち上げて、明るい日差しがちらちらと揺れているのを少し見てからもう一度瞼を閉じ――


「待て! どこだここ!」


 ものの数秒と経たずに大声をあげながら飛び起きた。

 頬を風が撫でている、という時点で既に眠気が吹き飛ぶには十分な驚きである。窓を開けて寝た記憶など無い以上、自宅でそんな目の覚め方をすることは有り得ないはずなのだ。

 意識とは裏腹に未だ霞む視界のまま周囲を見渡す。

 そこは、見渡す限りの大草原だった。


 状況が呑み込めずに右を見る。

 視界の端まで延々と続く、深い緑色の絨毯が風にそよいでいた。


 目を軽くこすってから左を見る。

 遠くに木々がまばらに生えた林が見えるが、それ以外で視界を遮るものはその方向に一つも無かった。


 障害物がないおかげで遠くの空がよく見えているのだが、右も左も正面も、視界に映る空は全て柔らかなオレンジ色をしていた。夕暮れ時の空の色だ。

 それを確認するために空を見上げて、自分の真上にだけは遮るものがあることにイツキは気がつく。見上げるような巨大な木の根元に自分はいるのだ、とそこで理解した。体を少し後ろへ傾けると、すぐに固い木の幹が背中にぶつかった。


 ――ああ、なるほど。つまり俺は今、夢を見てるわけだ。

 目の当たりにした光景を全部合わせて考えるなら、イツキが思いつくのはその程度の理由しかなかった。イツキが現実で知っている場所の何処にもこんな景色は存在しないし、背後の木にしたって太さと高さが規格外過ぎる。

 背中を預けたままもう一度、今度は斜め後ろを見るように右へ動かしてみると木の幹はちょっとしたビルくらいの太さはありそうだということが分かった。両手を回してどのくらいの太さ、などという次元ではない。頭上で揺れる葉が見えていなければただ表面が軽く湾曲した壁である。


 非現実が過ぎる光景に加えて、意識が途絶える前の光景はきちんと記憶に残っていた。空気そのものが柔らかく包んでくれるような穏やかな音色を聞いて、それを子守歌のようだと思った所まできっちりと覚えている。

 その直後、唐突な眠気に抗い切れずに意識が途絶えて、目を開けたらこの光景だった。これが夢でないとしたらなんだというのか。


 こんな変な夢を見るなんてよっぽど疲れていたんだなぁ自分は、と苦笑しながらイツキは木の幹に自身の体重を預けた。ちょうどその時だった。


「あ、起きたかい? 黛イツキ」


 すぐ真後ろから唐突に己の名を呼ぶ声がして、イツキは背中に電流が走ったような勢いでその場から飛びのいた。

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