05、だから、そのためのお喋り

 木から一歩離れて立ち上がり、すぐに左右を見渡してみたが声の主らしい人影は見当たらない。視界に映るのは見渡す限りの草原と、見上げんばかりの巨大な木。隠れるような場所など、一つしかなかった。


「誰だ、脅かしやがって」


 どうせ木の裏側にでも隠れているんだろう、と言いかけて、それにしてはやけに声が近く聞こえたなと疑問が浮かんだ。

 とはいえそれが木の裏を確かめない理由になるわけもなく、少しだけ不機嫌な顔をしたまま木の反対側に回り込もうとして、その途端にもう一度声が飛んできた。


「ああ、待って。そのままそっち側にいてほしい。驚かせたのは、謝るからさ」


 最初に聞こえたのと同じく、すぐ近くから声は聞こえたような気がした。

 少しハスキー気味で、大人びていると表現するには声のキーそのものが少し高い。男女のどちらかと聞かれれば女性だと思うのだが、口調だけは完全に男のそれだ。


「姿見られちゃまずいってか」

「うん。ちょっと困るんだ。なあ……頼むよ」


 そんな問いかけを投げたのは、聞こえてきた声のトーンが最初と少し違っていたからだ。最初の一言に比べるといくらか早口な制止は、慌てているのが何となくわかった。

 見るなと言われれば見たくなるのが人のさがというもので、問いかけながらも結局足は止まらない。そこへ懇願するようなダメ押しは逆効果だ。どうせ夢なのだから従う義理もないだろ、と思いながら木の幹に手を添えて、


「思い出したくないかい?」


 ぴたり、とイツキの足が地面に貼り付いたまま止まった。

 何を、と聞くまでもない。周囲の空が夕焼け色をしている時点で、イツキがその言葉から連想するのはたった一つだけだ。


「思い出したくないなら、別に止めない。そのままこっちへおいで。君にはその権利も当然あるからね」


 でも、と声は続く。姿は見えず、木の向こう側にいるらしいのにやたらと近くから聞こえるその声はもう一度落ち着きを取り戻していた。


「ねえ、イツキ。これが、最後のチャンスだからね。好奇心でこっちに来ちゃうのは、少し勿体ないと私は思うよ」


 ゆっくりと言い聞かせるような、小さな子供に言い含めるような口調。

 子ども扱いというよりも、それほどまでに大事なことを真剣に確かめているのだとイツキは感じた。直前まで抱いていた「どうせ夢なんだから」の言葉で無視できない重さがそこにあった。


 少しだけ躊躇って、どうしようかとその場で足踏みを何度か繰り返し、それからイツキは――その場に黙って座り込んだ。ちょうど、一番最初に声をかけられた時と同じ位置で同じように背中を木の幹に預ける。


「ありがとう。本当にいいんだね」

「最後のチャンスだとか勿体ないとか言っておきながら、大人しく踏みとどまったらそれはそれで確認かよ」


 つくづく訳の分からない夢だ、と吐き捨てるようにして答えると返ってきたのは小さな笑い声だ。


「なんだよ、何が面白いんだ」

「夢だと思いながら、それでも頼みを聞いてくれる所は好きだなぁってだけ」

「すっ……?」


 最初に驚かされたのとはまた別の意味で不意打ちのような言葉に思わず素っ頓狂な声が出てしまう。口調が男っぽいとはいえ、聞こえてくる声の高さは完全に女性のそれだ。

 少しだけ面食らってから、あんまり軽々しく言うなよと小さくぼやいたイツキの言葉は聞こえなかったのか無視されてしまった。


「それじゃあ、イツキ。少しずつ思い出していこうね」


 代わりに返ってきたそんな言葉は、心なしか少し弾んでいるように聞こえた。


 思い出していこう、と言われてイツキは、自分の肩に少しだけ力が入るのを感じた。


「思い出すっていうのは、その、俺の」

「うん。子供の頃の記憶。なんか抜けてるのは分かるだろ?」


 言いかけて口ごもった言葉を姿の見えない声が拾って、やはり少しだけ楽しそうに聞こえる口調で肯定してくる。

 なんか抜けている、子供の頃の記憶。この時点でもう確定だ。夕焼けの空を見た時に思い出すあの光景以外には有り得ない。


 たかが夢、と侮ろうにもイツキだっていい加減これが「ただの夢」には思えなくなってきている。意識がはっきりしていることも、聞こえてくる声のことも。それともそう感じるところまで含めての夢なのだろうか。

 もしかしたら、という気持ちが胸の奥で小さな芽を出していた。


「……本当に、思い出せるんだな? どうやって?」


 思い出せないからといってどうというわけではない。ただ単純に知りたいという気持ちが強いだけの、記憶の切れ端だ。

 それでも本当に知ることができるのかもしれないと感じた瞬間、イツキは膨らんだ期待に生唾を飲み込んだ。


 どんな方法なのか。普通ではないにせよ夢であることを考えると目の前に再現されたりでもするのか。はたまた声だけの存在が語って聞かせるのか。

 どんな方法でも相手が声だけである以上まずは聞くところからだ。絶対に聞き逃すまいとイツキは自身の耳に全神経を集中させる。


 しばらくの間、声は沈黙していた。少し離れた位置で草原を揺らす風の音だけがイツキの耳に届く。そうしてようやく声が耳に届いた。


「そうだね、わかんないからとりあえずお喋りでもしようか」


 がくり、と音を立てそうな勢いで肩の力が抜けた。


「記憶を思い出すんじゃなかったのか」

「うん、それは間違いないよ」

「で、その方法がお喋りか?」

「ううん。方法わかんないから手始めにお喋りでもどうかなって」

「よし分かった、馬鹿にしてるな夢のくせに」


 言うなり立ち上がったイツキが、そのまま木の幹に手を当てて反対側へ回り込もうと歩き出す。足音が聞こえたのか、声は「わー待って待って! 早まるな!」と慌てた様子で止めてきた。

 その声があまりに必死なので、イツキは舌打ちを一つして足を止める。先ほどのように腰掛けることはせず、いつでも動けるようにと立ったままだ。


「一応言っておくとね、これも意味はあるんだよ」


 おずおずと、こちらの反応を伺っているのがよくわかるくらいには慎重に言葉を紡ぐその声にイツキは眉間のシワを深くした。


 ――さっきから何なんだこの声は。

 明らかに女の声で、男の口調を真似しているだけなのはわかる。基本的には落ち着いているようだが、さっきから木の裏側に向かおうとすると敏感にその気配を察知して取り乱す。姿も見えていないのに何故立ち上がるだけでわかると突っ込みたいがそれは棚上げだ。


 問題は今のような態度だ。

 思い出したいなら止まれと言われて腰掛けたイツキへの確認の時もそうだった。こちらの反応を慎重に確かめるような、物陰からそっと伺っているかのように控えめな声のトーンは、まるで虐めっ子になって小さな子供を怯えさせているような気分になる。決して居心地の良いものではない。


「……言ってみろよ、その意味とやら」


 続きを促したのは、知りたいという気持ちより単純に居心地の悪さに根負けした意味合いの方が強い。


「ちゃんと聞いてくれるんだ」

「うるさい。くだらない内容だったら今度こそその顔見に行くからな」


 露骨に安堵した様子の声に噛みつくような勢いで返すと、わかってるよ、と一言。ほんの少しだけ拗ねたような口調だった。

 なんでお前がそこで拗ねる、と全力で突っ込みを入れたくなるのを抑える。朝から出歩く先々で予定通りに事が進まず、妙な老人に連れられて散々疲れながら埃っぽい店に連れていかれ、帰り道で散々な思いをした末にこんな明らかに普通ではない夢を見ているイツキの方が拗ねたいくらいだ。


「私がね、イツキを知らなきゃ駄目なんだ。だから、そのためのお喋りさ」

「知らなきゃ駄目って、夢の中で? 夢を見ている本人の事を? 夢の中の変な声が?」

「うん。夢の中で、夢を見ている本人の事を、私が」


 はあ、とため息をつく以外にイツキには反応ができなかった。変だ変だと思ってはいたが、ここへきてもう一つ奇妙な話である。

 どれだけ妙な内容だろうと自分はここへ来る直前に寝ているわけで、その上でこの妙な光景というのだから夢なのは間違いないはずだ。要するに自分の頭の中で見ている光景とそこに住まう声が、その頭の持ち主をお喋りするまで知らない、とはどういう状況なのだろうか。


「つーかそもそも知ってるだろ。初対面から名前呼んでるし、覚えていない事についてもそうだし」

「その辺はね、さすがに事前に知っておかなきゃ話にならないというか。聞きたいのはもっと普通の事だよ。何が好きで、何が苦手で、初恋の人は誰で、今の趣味は何か……みたいな他愛のない事。私は黛イツキの今を知りたいんだ」


 最後の一言だけ、妙に力が込められていた。声だけだからだろうか、姿が見えている相手以上に、声の響きや弾み具合でイツキへ向けられた感情が何となく伝わってくる。

 真剣そのものの声が、どうかお願いだからと懇願しているようにイツキには思えた。

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