15、ぐらり、と視界が
どういうことだよ、と声にこそ出せないが、イツキの頭の中は酷く混乱していた。
しばらく視線を左右に泳がせてから、もう一度言い出しっぺの九条に視線を向ける。
「俺、本当にそんなこと言ってた?」
「う、うん。そのはず……だけど。変な人が店番やってる胡散臭い店だったけど、売ってるものは結構気に入ったって」
「俺、なんの店って言ったっけ」
「骨董屋、だったような……ええと」
元々仲間内で一番大人しい性格をしている九条は、問い詰められると自分の記憶に自信がなくなって来たらしい。少し視線を彷徨わせて言い淀んだその横で「確かちょっと違う」と野堀からも言葉が飛んでくる。
「黛から店の事聞いて俺が言ったんだよな、骨董屋みたいだなって。確かその時に違うらしいぜって黛が言って――」
「あー、そうだったそうだった! 自分でも骨董屋だなって思ったけど、店の人に滅茶苦茶訂正されたって言ってたんだよな。あれだよ、骨董屋じゃなくってアンティークショップって言えって怒られたってやつ」
胡散臭い店と、変な人。しかもその店はアンティークショップ。
それは――それはまるで、今イツキが遭遇している状況と同じ物のようではないか。
その時の俺は何を買ったって言ってた、と尋ねようとして、もしこれで返ってくる答えがオルゴールだったなら。
背筋を見えない何かに撫でられたような感覚で、ぞくりと肩が震えた。聞いたからどうなるというわけでもないはずだが、その質問だけはする勇気が出ない。
いや、聞くまでもないと言い換えてもいいかもしれない。
それにしても高校の二年の頃かぁ、とジンが横でしみじみと呟き、深いため息を吐く。そこから話題は上手い具合に過去の思い出話へと切り替わって、イツキの知らない過去の会話は話題の中心から離れた。思考が上手くまとまらないせいで相槌もまともに返せない状態になりつつあったので、イツキとしては非常に助かる話題変更である。
視線を横に向けて無言のまま小さく顎を引くと、ジンの方からは微かな苦笑と頷きが返ってきた。そうかもしれないとイツキが予想した通り、意図的な助け船だったらしい。
――少し頭の中を整理して、落ち着いてから話題に混ざろう。そう思って、気分を切り替えようと手元のグラスを煽る。高校からの付き合いがある男同士で飲む酒で高い物を求めるような理由もなく、おかげで一気に飲み干すのも躊躇いが無い。
高校二年の時に自分はそんな経験をしていたのか、と少し困惑は残るものの、やはり記憶に引っかかるものは特に感じられない。あの頃の自分はそんな会話をしていただろうか、という疑問は、すぐ隣で開催されている「当時こんな面白い事あったよな」という話題に引きずられて自然と、あの頃の自分はどんな生活を送っていたっけな、という方向へと流れる。
高校の一年生の頃にジンと仲良くなり、そこからジンを経由してここにいる面々とも話をするようになって、それから。
……それから。
「……あれ?」
ぽつりと、声が口の端から零れ落ちた。どうした、と尋ねてくる友人たちには「いや、次何にしようかと思って」と飲み放題のメニュー表を手に取って見せて誤魔化したが、心の中はそれどころではなかった。
高校の一年生の時の事は覚えている。ここにいる面々と仲良くなったのもその頃だ。
高校三年生の頃の事もきちんと記憶にある。その頃にはジンの縁結び好きは分かっていたし、ジンの方もイツキのスタンスを知っていた。彼がイツキを「乾いている」と評する言葉も、その頃には耳に馴染んでいたはずだ。
じゃあ、高校二年生の頃は? 軽く頭を左右に振って、そろそろ強くなってきた酔いを醒ます。
記憶を懸命に辿るが、そこにはどうしても思い出せない空白の期間があった。思い出せる部分との切れ目を頭の中で整理する限りだと、だいたい五月か六月くらいから、九月の末頃までだろうか。ちょうど今くらいの時期を中心にして、結構な広範囲だ。
クラスは確かに、野堀が言っていたように今いる五人の中でも二人が同じ教室だった事を覚えている。
だがそれはクラス替えがあってすぐの頃を覚えているから分かるだけだ。夏休みの記憶はすっぽりと抜け落ちている。いや、なにせあの桜庭ジンが友人にいるのだから海に行くなり夏祭りに行くなりと何かしらのイベントはあったはずだ。
しかしそれは覚えているというのとは違う。一年生の時も、大学受験のためにと勉強せねばならないはずの三年生の時でさえそうだったのだから「そうでないはずが無いだろう」というただの予想でしかない。
仮に「じゃあ実際にどこに行って何をしたのか」と問われたならイツキは一言も答えることができないのだ。
何かが、おかしい。そのことと、おそらく原因だろうと思えるものだけは分かった。
「……おい。おーい、イツキ?」
名前を呼ばれて我に返ると、声の主であるジンの頭の位置がさっきより低かった。一拍遅れて、ジンの頭の位置が低いのではないと気がつく。イツキのほうが、殆ど無意識に立ち上がっていたらしい。見れば周囲の友人全員がイツキの方に驚きの視線を向けていた。
「ごめん、ちょっと……トイレ」
言いながら、その場を一歩後ずさる。後ずさろうとして、さっきまで自分が腰かけていた椅子に足を引っかけた。
派手な音を立てて背中から倒れ込むイツキに、今度は友人だけでなく他のテーブルの客や店員の視線も集まってくる。慌てて立ち上がり、駆け寄ってきた店員に小さく「すみません大丈夫です」とだけ伝えたところで。
――ぐらり、と視界が揺らいだ。真っすぐに立っていられず、数回その場で足踏みをする。
「黛、本当に大丈夫か? ……飲み過ぎたか」
「いや……ごめん。別にそういうんじゃない、と思うんだけど」
聞こえてきた心配する声に何とかそれだけ答えるが、視界のぐらつきは少しずつ酷くなっていく。軽いパニック状態で、実の所声をかけてきたのが友人のうち誰だったのか判別がついていない。呼び方が「イツキ」ではない事から、ジン以外の誰かだろうとは思うのだが今はそれを考えている余裕はない。
この視界の不安定さと、同時に感じる手足の重さには覚えがある。この一週間、毎日欠かさず体験していた感覚だ。オルゴールの蓋を開けて、微かに流れる曲を聞いて、それから必ず訪れる感覚。けれど今はオルゴールの曲など聞いていないはずなのに。
状況が全く分からないままに、しかし瞼がじわじわと重たくなっていく。
さすがにこのまま、店の真ん中で意識を手放すわけにはいかない。何もわかっていないまま、その事だけを考えてイツキは友人たちのいた方向に背中を向けた。同じ面々で同じ店に来て呑んだ経験はこれが初めてではなくて、おかげでトイレの位置がこんな状態でもある程度わかるのは不幸中の幸いだ。
「あ、おいイツキ!」
名前の呼び方でジンだと分かる声が背後から飛んでくる。答える余裕は無く、足を止めない事にだけ意識を集中してトイレに駆け込む。個室に飛び込んで、後ろ手に鍵をかけ、殆ど倒れ込むような勢いでトイレに腰掛けたところで限界が来た。
急速に滲む視界。完全に力の入らなくなった手足。困惑の中でイツキの意識は暗闇の中に沈んでいった。
***
「イツキ」
声が聞こえた。一週間で聞き慣れたハスキーボイスだ。
姿が見えるわけではないと分かっていても、つい目を開けて姿を探そうとしてしまう。しかし、思ったように瞼は持ち上がらなかった。
「ごめん、少し強引だったかな。私にはそっちの事、はっきりとは分からないんだけど。でも、さっきのは多分、無理やりにでもこっちへ来てもらう必要があったんだ」
意識ははっきりしている。決して
「イツキ、前の事を思い出しそうになってたでしょ。それを思い出したら、多分、そのまま全部思い出せたんだと思う」
ざわめきが近づく。最初は単なるノイズだったが、その中に大人の声や子供の笑い声、歓声が入り混じっている事が分かるようになった。
どぉん、どぉん――と、太鼓のような音も規則的に耳に届く。
「前の時の事を思い出して、その時にイツキが見たことを思い出して、それで全部を思い出して――多分、イツキは二度とオルゴールを開けようとしなくなる」
やけにハッキリと断言するその声に、瞼が上がらないまま眉間に力が入った。
思い出すことが最初から今まで変わらない目的ではないか。
今までそのために宝探しの夢の中で言葉を交わしていた相手が何故それを遮るのだという疑問と、二度とオルゴールを開けようとしなくなるという言葉に感じた不穏さと。
「ごめんね。これは私の我儘だけど。どうせイツキが全部思い出して、オルゴールを手放すなら、ちゃんと最後にお別れの挨拶くらいはしたいんだ。他の誰かとの何気ない会話で、じゃなくて私が思い出させて、それで終わりにしたい」
ざわめきが近づいてくるのと同時に、すぐ近くにいたはずの声がゆっくりと遠ざかっていることに、イツキは気がついた。もう周囲のざわめきは遠くではなく、すっかりイツキを取り囲んでいる。
ちょっと待て、と呼び止めようとして、その時不意に瞼の重さが消えた。
目に飛び込んでくるのは赤、オレンジ、黄色。暖かい色合いのオンパレードだ。ついさっきまで暗闇だった反動で視界がまともに働かず、すべてが滲んだ絵の具のようにぼやける。
そのぼやけた景色の中で、細長い誰かの姿が遠のいていくのが分かった。白っぽい服を着ているらしい、と認識するのと、その姿がぴたりと動きを止めるのは同時で。
「イツキ。今日は宝探し以外の事をしようか。かくれんぼがいいな。私が隠れて、イツキが来るのを待ってるからね」
最後にそんな言葉を残して、白っぽいその人影は煙のようにかき消える。
周囲の光に慣れて視界がはっきりし始めるころには、そこに人影がいたという痕跡すら見つけられなくなっていた。
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