01、「乾いている」ことに満たされている
目を覚まして、日差しが窓から差し込んでいるのを認識するなりイツキは飛び起きた。
まだ霞む目元でベッドのすぐ脇に置かれた時計を掴んで時刻の確認。――普段ならもう身支度を終えて自宅最寄りの駅で電車を待っているような時間だ。
血の気が引く音を聞きながら大急ぎで布団を跳ねのけ、身支度を整え、スーツの袖に腕を片方通してから。
「……あ、今日休みか」
そのことをようやく思い出した。時計と同じように枕元に置いていたスマホを手に取ってみると、そこに表示されていた曜日は土曜日だ。
縁あって入社した今の会社は完全週休二日制だが、ここ最近仕事が慌ただしかったこともあって先週は土曜日も休日返上だった。そのせいで脳内の曜日感覚が少し狂っていたらしい。
なんだよ別に飛び起きる必要なかったじゃないか、と胸の内で小さく愚痴り、半分着かけていたスーツをもう一度脱ぐ。
せっかくの休日をどう過ごそうか、いっそ贅沢に二度寝でもしてやろうか――そんな風に考えた所で、手元に握ったままのスマホが三回、小刻みに振動した。メッセージアプリに誰かから連絡があった時のパターンだ。
こんな朝っぱらからいったい誰が、と思いながらアプリを開くと、高校の頃からの付き合いがある友人だった。
『誕生日おめでと。というわけで今日飲まないか?』
そうか今日は俺の誕生日だったっけか、とそのメッセージを見て気がつく。
メッセージが無ければおそらく思い出さないまま今日を終えていただろうな、と思いながら返事を打ち始める。
――今日が誕生日ってすっかり忘れてた。明日休みだし大歓迎。何時に集まろうか。
手短にそれだけ入力して、送信ボタンを押そうとした時、それよりも早く画面に追加のメッセージが表示される。どうやら向こうから追伸があるらしい。
『いつものメンバーで飲むついでにさ、俺の知り合いから女の子呼ぼうと思うんだ。可愛い子ばっかり揃えてやるから、ちょっと気合いれた格好で来いよ!』
げっ、と思わず声が漏れた。手元に鏡は無いが、もしあれば今の自分の表情こそが世に言う「苦虫を噛み潰した顔」というやつだろうなとイツキは自信をもって言える。
決して悪い奴ではないし人間関係にだらしないわけでもないのだが、いわゆる世話焼き体質。メッセージの送り主はそういうタイプの友人だった。
別に空気が読めないわけでもなければ明確な拒絶をされてなお強引に押してくる事こそ無いが、イツキに今回のようなお節介を焼くのは高校の頃から何度も経験している。
少しだけ迷ってから、イツキは入力し終えていたメッセージ文を削除して打ち直した。
『そういう事なら悪いんだけど俺はパスで』
返事は十秒と待たずに飛んできた。
『相変わらず、出会いは求めてない感じかぁ』
『誘ってくれるのは有難いんだけど、やっぱ興味出なくてさ。仕事も忙しいから恋愛どころじゃないし、自分の事で精一杯』
手早くそう返事を送信して、すぐさまアプリを閉じた。そのままスマホはベッドの枕元に軽く投げて、小さなため息を一つ。少しだけ間を空けてからスマホがもう一度メッセージ受信を告げたが、その内容は開かずともわかる。
――今日も乾いてるなぁ、イツキ。
高校の頃から何度も同じようなお節介を焼かれて、同じように何度もそれを断って、そのたびに返ってきたお決まりの文句だ。
決して非難する口調ではなく、馬鹿にするわけでもない。単に「じゃあ仕方ないかぁ」という程度の軽さで、でも少しだけ勿体無さそうな苦笑いをしながら。
最初こそ少しムッとしたりもしたが、決してイツキのスタンスを否定するわけではない「許容」の言葉なのだなということに気付いてからは神経を逆撫でされることも無くなった。
向こうも「乾いている」イツキのスタンスを許容して、それでも機を伺って向こうなりに「今ならいけるかもしれない」のタイミングで手を伸ばしてくる。
イツキもイツキで別に伸ばしてきた手を執拗に叩くことはしないし、機を伺っては手を伸ばしてくる向こうのスタンスそのものを否定はしない。価値観が根っこから異なっている友人と長く付き合うための、イツキなりのコツだった。
色恋沙汰に興味が無いわけではない。そういったことに興じる人を否定する気も無い。ただ本当に、いざ目の前にそういった機会が転がってきた時にどうにも一歩踏み込めない。
高校・大学と人並み程度に友人関係を築いていれば二度か三度は気の合う異性に引っかかるもので、告白されたことも数える程度にはある。
自分を想ってくれる異性というのはそれだけで男からすれば魅力三割増しになるもので、イツキも告白してきた相手に多少のときめきを覚えなくはなかったのだが返事はいつも「ごめん」だった。
どうして、と問われれば、イツキは「その生き方が合ってるから」と答える他にない。
――そうだぜ、俺は乾いてるんだ。そしてその乾いている事で不自由したことも困った事も無い。むしろ満足してるんだぜ。
言葉に出すといくら何でも問いかけてくる友人を突き放し過ぎている気がして実際に言った事は無いが、おおむね胸の内はそんな具合だった。
人生は乾いていてもそれ相応に満喫できる。恋愛のような潤いは欲しい人が欲すればいいしそれは否定しないが、あくまでそれは「あれば潤う」というものであって「無いと死ぬ」というような類のものではない。
極論、乾いていても仕事はできるし金は貯められるし人生は楽しめる。自分が気乗りしないのはつまり、無理に潤いを求めずとも自分が「乾いている」ことに満たされているから。
それがイツキの人生観だった。
***
結局その日は昼から買い物に出よう、と決めた。
スーツを着るようになってからは逆に滅多に着ることのなくなったラフな普段着で街中に出ると、最初に向かったのは近所の本屋だったのだが。
――本日をもって閉店となりました。長年のご愛顧をありがとうございました。
短く丁寧な文体の紙がその本屋の入り口前に貼られて、そこには三日ほど前の日付が記されていた。
最近立ち寄ってなかったもんなぁ、と少し寂しい気持ちを胸に抱えながらもその場を立ち去り、その近所にあったはずのゲームセンターに足を向ける。子供の頃は友達と共に時折遊びに行った懐かしい場所だし休日を過ごすのには申し分ないはずで。
「……全然違う店になってやがる」
まさかそこが服屋になっているとイツキは予想してすらおらず、思わずその場で膝から崩れ落ちそうになってしまった。
これが男性向けの服を扱っていそうなら「せっかく目の前まで来たし」と入ってみるところだが、店頭に並んでいるのは女性服オンリーである。おまけにかっちりとした高級路線の店であるらしく、ラフな格好をしたイツキは店の前に立っているだけでも若干浮いている気分になる。
ならば近くの定食屋にと向かえば時刻がちょうど昼過ぎだったこともあってか混みあっており、これも断念。別の場所で適当に食事を済ませてあちこち歩きまわって、最終的に行きついたのは町はずれにある公園であった。
ベンチに深く腰掛けて、ゆったりと深呼吸をする。
町はずれとはいえ公園の規模は決して小さいものではなく、遊具もあちこちに設置されているのだが人気は無い。子供が遊ぶ姿は探すまでもなく公園内のどこにも存在していなかった。今時はそれが当たり前とはいえ、土曜日の日中にここまで子供の気配がない公園というのも少し思う所が無いわけではないイツキだった。
どうやら今日は厄日らしい、と空を仰ぎながら眉間に皺を寄せる。本屋、ゲームセンター、定食屋と立て続けに思い通りにならないことが続いたものだから余計にそう感じるのかもしれないが、休みを満喫できたとは言い難い。
こんな事なら気乗りしないにしても友人からの誘いに乗っておけば良かったか……とも思うが、朝のうちに断っているし今更前言を撤回するのも気が引ける。
「……帰るか。どうせ行くあても無いし」
誰にともなく小さく呟いて、ふと。
視界の端で空の隅っこが赤く染まり始めていることに気がついた。立ち上がろうと足に込めていた力がすっと抜ける。
空はまだ青いが、徐々に陽が傾き始めていた。時刻はもうそろそろ夕方だ。歩き回っているだけで特に休日らしい何かをした自覚は無いが、それでも時間だけはきっちりと流れていたらしい。
このままここで待っていれば、すぐに夕焼け空になる。そう気づいて足の力が抜けた。要するに自分は夕焼け空を――より正確には夕焼け空が見せるいつかの記憶の断片を――待ち望んでいるのだと認める事に、抵抗は無かった。
あとどのくらいだろうか。五分か、十分か、もう少し。夕日が沈んでいく動きというのは存外に速いものだから、その程度なら待てる気がした。
いつ見ても、どこで見ても、目の前に浮かんでくるその記憶にどれだけ意識を集中させても、今までその景色が何なのかを思い出せたことは無い。
それでも次こそは、という気持ちは決して萎えない。
それくらいに記憶の断片を求める気持ちが自分の芯にある事の証明ではないだろうか、と友人曰く「乾いてる」はずのイツキがそんな風に感じるのは、自覚している限りでこの夕焼け空の幻視だけだ。
今日は何か思い出せるだろうか。手を伸ばして何か掴めるだろうか。
胸の少し上の当たりがざわついて、見えない何かに軽く締め付けられるような。
そんな感覚と共にもうすぐ来るであろう景色に備えて意識と五感を研ぎ澄ませる。
そうやって集中していたからこそ、気付けたのかもしれない。
――かちゃり。
うっかりすると聞き逃しそうな、聞こえても空耳だったかと思ってしまいそうなほどに微かな、軽くて硬質な何かの立てる音。
何かを思う前に、反射的に音が聞こえた方向へ視線が動いた。
人気がないくせに広い公園だ。音のした方に視線を遮るような障害物は一つだけしか。
いや、正確に言うなら「一人」だけしか存在していなかった。
それは、老人だった。
色素が残っているというよりは汚れたようにくすんでいるせいでグレーの髪。額の深い皺を見るに背が曲がっていてもおかしくないような老体が、背筋をぴんと伸ばしており、目算だがイツキよりも背が高い。
目の前というほど近くは無いが表情も読めないほど遠くはないその距離感で、老人はイツキの方を真っすぐ見据えたまま薄く黄ばんだ歯をむき出しにして口角を吊り上げている。笑っているのだろうか。
もう一つ気になる点があるとしたら、その老人の服装だ。
黒いジャケットと白いシャツ。イツキ自身が持っているようなスーツと比べると、ジャケットの形が少し妙なことと、その胸元からは白いハンカチらしきものが覗いていることが目についた。ポケットチーフというのだったか、とイツキはうろ覚えの記憶の中から名前を引っ張り出した。
なんにせよ、上から下まで一式そろえた見事な礼服である。ぼさぼさでくすんだ髪や黄ばんだ歯とかっちりとした服装が実にミスマッチだ。
――なんだ、この変なじいさん。
そう思いながら、視線は釘付けになってしまう。
夕暮れ時に土曜の公園で、こちらを見つめながらニタニタと笑う、妙に小綺麗な礼服姿の老人。ひたすらに違和感を放つその立ち姿は、妙に目を離しづらい存在感を纏っていた。そうやって凝視していると老人がゆっくりと口を開いた。
「なァ、お前さん」
しゃがれた声でそう口にしながら老人が手をゆっくり伸ばして、その指が頭上を示した。その仕草で気付いたがご丁寧に白い手袋まで嵌めている。
「見なくていいんか? 今日こそは何か掴めるかもしれんのだろ?」
「え、なんでそれを」
夕焼け空に幻視する光景を知っているようなその口ぶりに、反射的にそう問い返してしまった。老人はそれには答えず、空に向けた指を軽く揺らす。
いいから見ろ、とでも言いたげなその仕草につられて、イツキは目線を上へずらした。
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