第3話「洗礼」
「キコー!」
遠巻きから見ていたミナミが駆け寄ってくる。
「もう大丈夫よ」
恐ろしくて出てこられなかったのだろう。キコはミナミに優しく声をかける。
「どうだった!? どうだった!?」
「え? 何が?」
「本物よ、本物!」
「本物? 何が? 鎧?」
「違うよ! 人よ、人!」
「人? 何を言ってるの……」
怯えていたのかと思ったら、やたらテンションの高いミナミにキコはついていけない。
「信長よ! 信長! 織田信長どうだった!?」
「のぶなが……? あの人、信長のマネをしてたの? 鎧はすごかった、と思うよ」
「そうじゃなくて!!」
ミナミは耳が痛くなるほどに、声のボリュームを大きくする。
「あの人は本物の信長だったの!!」
「本物? 言ってる意味が分からないんだけど……」
「分からないも何もそのまんまだよ! あれは本当の織田信長で、ここは戦国時代なの!」
「へ?」
ミナミの言うことに、キコだけでなく、マキとナユタも疑問と呆れの表情を浮かべる。
「ついに気が狂ったな」
ナユタが思っていることをそのまま言った。
「狂ってないよ! ここ、どこだと思う?」
「神社」
「熱田神宮よ!」
「神宮? 原宿の?」
「それ、明治神宮だから! ここは熱田神宮。愛知県名古屋市の熱田神宮なの!」
「愛知? 頭おかしーんじゃ……」
ナユタは完全にイっちまったな、という哀れみの目でミナミを見る。
「そんな目で見ないで!」
そうはいっても、さっきまで東京の美術館にいたのだ。名古屋にいると言われても信じられるはずがない。
今度はキコが問う。
「熱田神宮って聞いたことあるけど、けっこう大きい神社でしょ? でも、ここは……」
朽ち果てた神社。
有名な神社がこんなボロボロなはずがない。
「熱田神宮は草薙の剣が奉られる霊験あらたかな神社。でも、戦国時代は戦争ばかりだったから支援者がおらず、荒れ果てていたのよ」
「戦国時代……?」
「うん。ここは紛れもなく、戦国時代の熱田神宮なのよ。あたしたちはタイムスリップしてしまったの」
タイムスリップ。
ミナミが真剣した顔をして言うので、キコたちはどう反応していいのか分からなかった。
「あたしも100%信じてるってわけじゃないよ。でも、それしか考えられないの。今日はおそらく、永禄3年5月19日。西暦で言うと1560年ね。さっきまでそこにいた武士たちは、織田信長。信長は熱田神宮で戦勝祈願をして、戦地に向かったの。その場所は……」
「桶狭間……」
キコが答える。
「そう。これから、桶狭間の戦いが起こるのよ。信長はこれから今川軍の本隊を襲撃して、義元を討ち取るはず」
「さっきの人が……」
教科書で見た、鼻の大きいうつろな感じのある信長とは全然違った。もっと強くて怖い何か。
そっか、あのときのすごい感じはそれだったんだ。
にらまれたときに感じた激しいプレッシャーが、天下布武を体現したという信長のものであったと思えば、いろいろ納得がいく。
「おい、ミナミ……。アタシにも分かるように説明してくれよ。アタシたちがどこにいるって……」
マキは激しく狼狽していた。
「マキちゃん、いい? あたしもよく分からないけど、タイムスリップしちゃったみたいなの。ここは400年以上前の名古屋。信長が武士団を率いて大暴れしていた時代なのよ!」
「タイムスリップ? 信長? 何言ってんだよ。漫画じゃあるまいし……」
「全部、真実よ。スマホ見たでしょ。電波が通じなくて当たり前、ここは戦国時代なんだから。あの人たちが鎧を着ているのもそう。すべて本物なのよ」
「本物? あの槍も本物だって言うのか? 刺されたら痛いのか、血が出るのか……?」
「た、たぶん……」
「馬鹿言うなよ! アタシらは平成に生きてんだぞ! 武士がいてたまるかっ! 歴史村かなんか知らねえけど、こんなところにはいらねえ! アタシは帰るぞ、東京に」
マキは自分の鞄を強引につかみ取り、一人去っていこうとする。
静かな境内に、ピシッと乾いた音が鳴り響く。
突然、ナユタが立ちはだかり、マキの頬を思いっきりはたいたのだ。
「見苦しいぞ、マサキ」
ナユタの発言に「なんてこと言うのー!?」とミナミの目は飛び出しそうになっている。
「何すんだよ……」
「見苦しいと言っている」
「は?」
「現実から目を背けるな。わたしたちは今ここにいるんだ。逃げたってしょうがないだろ」
ナユタはマキの目を正面からとらえ、毅然と言い張る。
ナユタらしくない真剣さだった。
「ナユタ……」
マキは目が覚める思いだった。
いつも甘えん坊のナユタが自分を叱るとは思わなかった。そして、彼女が自分のために平手打ちをかましてくれたのが、嬉しかった。
マキは急に愛おしくなって、小さくて可愛いナユタを抱きしめようとする。
「ぐほっ……」
マキが急に崩れ落ちる。
ナユタがマキの腹にボディーブローを入れたのだ。
「ええっ!?」
これにはキコも声を上げて驚かずにはいられない。
「甘えんな」
ナユタが言い捨てる。
「な、なんで……」
マキはまったく意味が分からないようである。
「女々しいぞ、マサキ。甘えていいのはわたしだけだ」
「そんなぁ……」
アタシも女なのにー、とマキはばたりと地面に倒れ込む。
「あー、はいはい。仲がよろしいこって」
目の前で起きた茶番を、ミナミが強引にまとめ始める。
「なんでこうなったかは置いておくよ。考えたって分からないし。とりあえず、今がどういう状況なのか、どうやったら元の時代に戻れるか探る必要があるよね」
「タイムスリップが本当だとして、ここは戦国時代なんでしょ? 歩き回るのは危険なんじゃ?」
「そうかもだけど、じっとしてたってお腹空くだけ。生きるためには何か食べないと」
キコはミナミの言うことはもっともだと思った。
「待てよ。食べ物ってどうすんだよ? そこらへんの木の実とか食ってなんとかする、じゃないよな?」
嫌そうな顔をするのはナユタ。
「野山に暮らすのは無理だと思う。何が食べられるか分からないし、虫とか出たら嫌だもん」
普通の女子高生にサバイバル生活など無理だ。それはナユタやミナミの限った話ではない。
「じゃあ、どうすんだ?」
「ここは……この時代の人に頼ってみるのはどうかな?」
「この時代の人? ってまさか……」
「信長と話してみようよ!」
ミナミがニカッと笑う。
「ミナミが信長と話したいだけじゃん……」
この歴史オタクがーと、ナユタはのけぞる。
「でも、それしかないと思う」
キコが同意する。
「え?」
「あの人はまた会ったら、礼をすると言ってた。あれが本当の信長だとしたら、合戦に勝つはず。帰ってきたら、保護してもらえないか聞いてみる価値はあると思う」
「なるほどな」
ナユタが珍しく、人の意見に同意した。
「意見はまとまったね! それじゃさっそく桶狭間にいこー!」
「桶狭間ってどこにあんだ?」
「今、調べるね」
ミナミがスマホを操作し始める。
マップアプリで名古屋の地図を出し、熱田神宮と桶狭間の距離を指で測る。ネットに接続できないから、計算は自分でするしかないのだ。
「10キロぐらいかな。ゆっくり歩いて2時間ってところね」
「2時間……?」
ナユタは極めて嫌そうな声をもらす。
「今は8時か9時ぐらいだと思う。歴史通りなら、信長はいったん善照寺砦に入って様子をすることになってる。それでお昼に砦を飛び出し、今川本陣を奇襲するはず」
「時間的には余裕ありそうね」
「うん。休みつつゆっくり歩いても充分間に合うと思う」
「ここでじっとしてても仕方ない。桶狭間に向かおう」
キコは地面に突っ伏しているマキを起こした。
二時間の道のりぐらい、たいしたことない。
そう思ったのが甘かった。
「もう無理……歩きたくない……」
ナユタは地面に大の字に寝そべっている。
舗装されていない道を制服の革靴で歩くのは、思った以上にきついことだったのだ。
「だらしないよ、ナユ」
マキはナユタを注意するが、あまり余裕はないようで、いつものようにスカートを直そうとはせず、道ばたの石にどっかり座り込んでいた。
「いいよ、サービスサービス。……ま、人なんていないけど」
たとえスカートの中が見えていたとしても、それを見る人はこの三人しかいないのだ。
ゆっくり一時間ほど歩いたが、人一人出会っていなかった。人通りの少ない道なのか、単純に戦国時代の人口が少ないためなのか。
「ナユ、起きて」
小声でキコが言う。
「えー、まだ全然休憩してないー」
「しっ。誰か来てる……」
「え……」
真剣なキコの声に、三人は深刻な状況だということを感じ取る。
キコは人の気配を感じ取っていた。
草をかき分ける音がする。青々と茂った草むらから、複数の人間が近づいてきていた。
ナユタはぱっと体を起こし、すぐに動けるようにする。疲れていると言ってたのが嘘のような機敏な動きだ。
ミナミはすでに恐怖に襲われ、口を押さえて声を漏らさぬようにしている。
「どうする? 走って逃げるか? ナユならアタシが背負って……」
マキはキコに耳打ちする。
「10人くらいいると思う。それにもう……」
四方からガサガサと激しい音が鳴り響く。
ひっそり近づくのをやめ、一気に間合いを詰めようとしているのだった。
不安に駆られ、ミナミの顔が真っ青になる。
「動くなっ!」
男が怒声を上げる。
鎧を着た男たちが草むらから次々に飛び出し、槍をキコたちに向けた。
武器を持った大人の男性に勝てるはずがない。抵抗できるわけもなく、四人は素直に手を上げる。
「何だ、女か」
リーダー格と見られる男がつぶやく。
それと同時に緊張が解かれたように、キコは感じた。
「……見慣れぬ格好をしておるな」
「ただの旅人です」
キコはなるべき平静を装って答える。
「旅人ねえ……」
男はニヤニヤした顔つきで品定めを始める。
そういう顔には覚えがあった。いつの時代も変わらないらしい。
「服を脱げ」
「ひっ!?」
裏返った声が上がった。
キコは一番に声を漏らしてしまうのはミナミだと思ったが、これはマキだった。
「追い剥ぎよ。この時代は服も貴重品だから、強盗は服を奪っていくの」
ミナミは顔をこわばらせながらも、歴史解説をする。歴史的な場面に立ち会っていることが少し嬉しいようである。
「ただ服を奪うだけだと思う?」
ナユタが憎々しい顔で言う。
「え? そうじゃない、の?」
「お子ちゃまが見る歴史書ではそうかもね。この手はズタボロに犯されて、最後は殺されて、東京湾に沈められるのがオチじゃない? 歴史知らないけど」
「ええっ……」
思いもしなかったようで、それは非常に情けない声だった。
「ここって愛知だろ? 東京湾遠いよな……。そもそも東京湾ってあるのかな? 戦国時代なんだよな……」
恐怖で混乱するマキがとぼけたことを言っているうちにも、男たちが迫ってくる。
男がこれほど大きい生き物だと感じたことはなかった。
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