第9話「市」
信長の妹・市に会った第一印象は“幼い”であった。
「おお! そちが噂の前田家の新当主か! 話はよーく聞いておるぞ! おかしなおなごと聞いておったが、思ったよりずうっとおかしな格好をしておるな!」
「は、はあ……」
綺麗に洗濯した真っ白な制服に興味津々。好奇心旺盛な少女で、ハイテンションな調子で話しかけてくる。
これから結婚する女性と聞いていたから、もっと大人の女性だと思っていた。しかし、どう考えても、自分より一つ、二つ年下の女の子だ。
ナユタに背格好は似ていて、彼女には失礼だが、現代の感覚でいうと小学校から中学生くらいに見える。
「その服、どうなっておるのじゃ?」
「ふひいっ!」
突然、制服のスカートをめくられて変な声を出してしまう。
「ほほう、帯なしでも留められておるのか。不思議じゃのう。裾が短いのは動きやすさを考慮してのことか?」
あちこちから眺められ、のぞき込まれ、非常に居心地が悪い。
しかし、主君の妹に対して文句など言えず、マネキンのようにされるがままになっている。
「ふむ、気に入ったぞ。そちをわらわの側仕えとしよう」
「側仕え、ですか……?」
「うむ。兄のもとに出仕する必要はない。登城したら、わらわのところへ来るといい」
「は、はあ……」
武士は、日が昇ったらお城に登って事務仕事をしているらしい。前田家の当主となったキコも、喪が明けたら登城するように言われている。
仕事と言われても何をしたらいいのか分からないので、信長に仕えるのと妹の市に仕えるの、どう違うのか見当もつかない。
「分かりました。お市様にお仕えいたします」
自分が信長に与えられた任務は、市を浅井家に嫁がせること。市に気に入られ、側にいられることは悪くないだろうと判断した。
「お、言いおったな」
市がニヤリとあくどい顔で笑った。
その顔は見たことがある。兄・信長にそっくりだ。
「そちはわらわの家臣。わらわに尽くし、わらわの利のために動く。相違ないな?」
「はい。その通りです」
「では、わらわが縁組みを拒むならば、そちは破談に協力してくれる、ということじゃな?」
やられた、とキコは思った。
信長の命令で、市を説得するように言われてここに来たことを見透かされていたのだ。
「それは……」
「まさか、いきなり約束を違えるのではあるまいな?」
「いえ、そういうわけではなくて……」
信長とは、縁談が成立すれば、刀を貸してもらえることになっている。自分が元の世界に戻るために、市には浅井に嫁入りしてもらわねばならない。ここで市に嫌われてしまったら、作戦は暗礁に乗り上げることになる。
市の顔が急に曇り、苦虫をかみつぶしたようにマユが寄る。
「はっ、面白き人間かと思うたが、見当違いじゃったな。もう、そちに用などない。往ね」
手で払いのけるような仕草を取る。
興味を一瞬にして失ったようだ。その態度は怒りを通り越して、凍り付くような冷たさを感じる。
「し、失礼しました……」
キコは土下座していた。
まさか自分がこんな簡単に、頭を床につけて謝ることができるとは思わなかった。心からの謝罪を体をして謝らなくてはならないと、体が勝手に動いたのだった。市にはそこまでさせる何かがある。
「とがめはせぬ。ただ去ればよい」
謝れるのに慣れているのだろう。土下座をされても、心はまったく動かない。
「あ、あの……一つよろしいでしょうか……」
「そちとは話をしとうないぞ」
市はキコを見ようとしない。
だがキコは市をじっと見つめ、話を無理に続けようとする。
「お市様は浅井に嫁ぎたくないのですか?」
「ふん、当たり前じゃ」
「それはどうしてでしょうか」
「はっ、誰が会ったこともない男のところへ行きたいと思う」
「そうですけど……。でも……」
市に去られてしまったら終わりなので、なんとか食らいつこうとするが、言葉が続かない。
その様子を見て、市は面白く思ったようだった。
「そちは結婚しておるか?」
「え? いえ……」
「見知らぬ男と結婚したいか?」
「いえ……」
この時代のことはよく知らないが、昔のお見合い結婚のようなものなんだと、キコは思う。親が決めた相手と一度顔を合わせるが、そこで選ぶということはできない。本人らの意志はまったくなく、次のステップは結婚と決まっているのだ。
自分に同じのようなことがあれば、当然拒否するだろう。家の深刻な事情があっても、相手を見ずに生涯共にする相手を決めることなんてできない。
「であろう? ならば、わらわの心が分かるのではないか?」
「はい、分かります。けれど、これは織田家のためで……」
何を言ってるんだろ、私……。
市の主張が正しいのは分かっている。なのに、信長の命令に従い、市を嫁がせようとしている。間違っているのは自分だ。
「ふむ。結婚が両家の縁を深めることには違いなかろう。それは古代から行われている営みゆえ、わらわも否定はせん。しかし」
「好きでもない人とは結婚したくない?」
「お、面白いこと言うな」
市がにやっと笑う。
「確かに、好きな者と結婚するほうが幸せに違いないな」
「分かります。私も、好きじゃない人と結婚しろと言われたら困ってしまいます……」
「そうかそうか。そちがわらわと同じ立場だったらどうする?」
「あ……。できれば……断りたいと思います」
言ってしまった。
これでは市を説得することなんてできない。任務は完全に失敗だ。
「ほうほう。家のことより、己のことを優先したいと申すか」
「はい……。やっぱり好きじゃない人と結婚するのは……」
「ふふ、愛い奴め。だが、わらわは必ずしも、そうは思わんな」
「え?」
「知る前から会う前から、相手を好きだというはあり得ぬ。好きになる前に結婚するのも、好きになったあとに結婚するのも、実は大差ないと思うのじゃ」
「そう……でしょうか……」
「うむ。結婚してから好きになればよいだけのこと」
「はぁ……」
市の言う意味が分からなかった。
市は好きでもない人と結婚したくない、という主張ではなかったのか。あとで好きになればよいと思うならば、なぜ浅井に嫁ぎたくないというのか。この時代特有のまったく違う考えなのだろうか。
「ある女がある男と出会うのには、巡り合わせというものがいる。隣の家に住むのがきっかけか、偶然ばったり街で会うこともあろう。親に決められた縁かも知れぬ。何にせよ、相手を好きになるのは出会ってからじゃ。わらわは、見知らぬ男と結婚すること自体は、それほど抵抗はない」
「はぁ……」
まだ高校生の自分にはよく分からない話だと、キコは思う。けれど、市のほうが年下なので、そういった持論を持っているのは尊敬できる。
「では、なにがお気に召さないのですか?」
問題はそこだ。
なぜ浅井との縁組みを断り、兄・信長が困るようなことをするのか。
「つまらぬからじゃ」
「へ……?」
思わずまぬけな声が出てしまった。
「そち、よい顔をするのう」
市にからかわれ、キコは赤面する。
これでは百面相だ。完全に市に操られている気がする。
「女が嫁いで同盟など、全然面白うない。確かに、それが世の習いなのかもしれぬが、だからこそつまらぬ。戦国とは下克上すら許された世じゃぞ。なにゆえ、下らぬしきたりに縛られねばならぬ。せっかく秩序が崩れた世なのじゃから、己がしたいように生きるのがよいではないか」
「そ、そうなのかもしれません……」
市のいうことを完全に理解できたわけではないが、この時代に対して反逆しようという心意気はよく伝わってきた。幼さゆえの反発という気がしないでもないが。
「ふむ。否定もせぬか。よいぞよいぞ。では、そちの意見を述べてみよ。わらわは浅井に嫁ぐべきか? それとも兄と戦ってでも断るべきか?」
「え? 私のですか……?」
急に戦うという単語を出されビックリしてしまう。ほんとに戦ってしまいそうで、簡単に返事ができない。
「そうじゃ、別にとがめはせぬ、好きに言うがよい」
「は、はい……。こういうのあまり得意ではないのですが……姫様のしたいようにされるのが一番いいと思います」
「ほう」
「細かい事情は私なんかには分かりません。でも、嫌なことならばやってもつらいだけです。信長様はこの縁談が大切なのかもしれませんが、当の本人である姫様のがほうが大きな問題です。姫様には結婚しない権利だってあるはず。望まないのであれば、断ってもいいかと」
「そう来たか! やはり面白い考えをする!」
「あ、ありがとうございます」
よく分からないが、偉い人に褒められるのは悪い気がしない。
「では、わらわに代わって、兄に断ってきてほしい!」
「えっ!? ダメですよ! そんなの!」
とっさに否定してしまう。
自分が信長に戦いを挑むなんてできるはずがない。すぐに文字通り、殺されてしまうだろう。
「断っていいと言ったはずじゃがな?」
「言いましたけど、こういうのは姫様が直接おっしゃったほうが……」
苦し紛れで言ってしまう。
それには市は大変不満そうだ。このあとすぐに興味を失い、また冷たい言葉を吐かれるのではないかと思える。
「分かりました、こうしましょう。姫様は信長様に言われて結婚させられるのが嫌なのですね?」
「む、そうなるかのう」
「では、自分の意志で結婚しましょう」
「うむ?」
「人に命令で、世の習慣で結婚するのが嫌なら、自分で会って、自分で好きになって、自分で結婚すればいいんです」
無茶苦茶なことを言っているなと、自分のことながら思う。
自分はもっと客観的に物事を遠くから眺めているタイプだ。こうして自ら何かを進めようとするのは、らしくない気がする。
「ほほう! それは面白い! さすがはそちじゃな! それでいこう! では、どうする? どうすれば、自分から結婚できるのじゃ!」
提案したほうが引いてしまうくらい、市が意見に乗ってくる。
「え、あ……そうですね……。直接会いにいくのがよいと思います」
「そうじゃな! よし、いくぞ! これより浅井領へ参る。すぐに手配せよ!」
「これからですか……?」
「思い立ったら吉日と言うじゃろう! 兄にバレたら面倒じゃ、今夜にも出るぞ!」
なんとか思いとどまらせようとしたが、説得はすべて無駄だった。彼女の好奇心、行動力は何にも勝る。やはり、天下を取った天才・織田信長の妹なのだ。
そして、こうなるのを予測していたのかもと思うと、末恐ろしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます