二、鷹の主(6)

 静かなのに明瞭な音。

 さざなみだ。

 風に揺れる水面みなも

 岸に打ち寄せる水。

 その先に果てはない。

 ただ洋々と広がる水。

 池でも、沼でもない。

 これは——海。




 弥守みもりうっすらとまぶたを上げた。

 戸口から漏れ入る光は既に茜色を帯びている。

 忍び寄る夜の気配を感じながら、弥守は数度まばたきをした。

 見憶えのない景色が瞼の裏に焼き付いている。あれは単なる夢想だろうか。自問すると同時に、自身がるものに無意味なものがないことを弥守は十分承知していた。

「ご気分は如何いかがです」

 不意にかかった声にびくりとする。

 かたわら飯綱いづな端座たんざしていた。

 驚いて身を起こそうとしたが、まだ気怠けだるさの残る身体はそれを拒んだ。弥守が顔をしかめたのを察し、飯綱がやんわりと弥守の肩をとこへ戻してくれる。

「ここは?」

鷲羽わしばの家です」

「私はいつから気を失っていた?」

「今日の昼に、皆で昼餉ひるげを囲んでいたときからです」

「そうか。日をまたいでいなくて安心した」

 自嘲のつもりだったが飯綱は取り合わない。

「お倒れになる前のことは覚えていらっしゃいますか」

「ああ——」

 気絶する寸前、恐ろしい呪詛の声が聴こえた。

 あれが何者が発した声か、弥守は既に知っている。

 誰に教えられたわけでなく、星見により鍛えられた己の直感が答えを示している。

 水をす元凶——あの赤星の声に違いない。

「また何か、ご覧になったのですね?」

 飯綱が微かに眉根を寄せた。本当にこの者は弥守をよく見ている。

「声がしただけだ」

 視えたわけではない。しかし、視えるより遥かに生々しい体験だった。有無を言わせず意識へ暴力的に侵入してくる声。身の内から全て燃やされるかと思える熱量。その熱源は、怨みであり、怨みの矛先は、であった。そのとき確かに、弥守は声と同調していた。鷹主彦たかぬしひこへ抱いた一抹の不審が、赤星の声が入り込む隙を生んだのだ。

「鷹主彦に聞いていただきますか」

「いや、いい」

 父に聞かせるほど実のあることは解っていない。声の主が解ったとはいえ、その目的も正体も解ってはいない。それより弥守の気懸きがかりは、己が晒してしまった失態の方にある。


「父上にまた心配をおかけしたろうな」

 折角、役目を果たす場を与えてくれたのに。機会を生かすことができなかった。

「あまりお気になさいますな」

 感情の起伏に乏しい声音。けれど不思議と冷たさは感じない。飯綱なりに慰めてくれている。

「鷹主彦は、弥守様がご無事でいらっしゃればそれで十分とお考えでしょう」

「私はそれだけでは嫌だ」

 口をいて出た言葉の語気は荒く、折角の慰めを無下にする。

 飯綱は珍しく目を見張った。弥守自身もまた、己の言動に驚き、思わず目をらす。

 これまでの自分なら、決して発しなかった。何故こんなことを言ったのか。

「……おかしいか」

「いいえ。ただ、嬉しく存じます」

 返ってきた言葉の意味を掴みかねて、弥守は再び飯綱へ視線を戻した。表情豊かではない男が、心なしか微笑んでいるように見えるのは気のせいか。

「弥守様はお父君のようになりたいと思っていらっしゃるのですね」

 それはそうだ。生まれてからずっと、立派な父の背中を見上げて育ったのだ。弥守にとって、父こそが目指すしるべだ。

「これまでの貴方にはなかった欲をお持ちになられた」

 飯綱の言わんとするところが掴めない。口数は少ないが、話の解りにくい男ではなかった筈なのだが。

「弥守様はずっと、鷹主彦のお役に立つことばかり望んでいらっしゃいました。星見の力を生かすのはお父君を支えるため、とご自身を律しておられた。少なくとも、私にはそう見えておりました。けれど、今は違いましょう」


 確かに、星見の才に目覚めたときから弥守には、己の力は忌むべきものだという考えが抜けなかった。故に自分が表立つ可能性など望むべくもなかった。だが、郷の危機を前にしたら——否、多津野たつのの成長を目の当たりにしたら、自分でも何かしたいと思った。飯綱の言う通り、欲が出たのだ。

 赤星を射落とし、世を救うのは多津野だ。それは揺るぎないことだと弥守は知っている。郷の民から慕われているのも多津野だ。やかたから出てむらの人々と接してみて思い知った。

 ひるがえって弥守自身はといえば、何もできない。星が読めても、父へ助言ができても、己が動いて何かを為すことはない。


「私はきっと、多津野が妬ましいのだ」

「そうでしょうとも」

 自嘲を込めて吐き出した言葉を肯定され、弥守は益々飯綱が解らなくなる。

「貴方もまた、鷹主彦の血を受け継いでらっしゃるのですから」

 淡々とした声が告げたのは、慰めや励ましではない。厳然たる事実だ。

 弥守が生まれ出でたときから定まっている事実。

 それを、意識の外に追いやっていたのはいつの頃からだったか。

「多津野様だけではない。かつてこの地へ我らを導いた方の魂が、血潮となって貴方の身の内にも流れている。その意味を、ご自身でも解っておいででしょう」

 解っている。解っているから、父の隣に立つ者として相応ふさわしくあろうとした。その筈だった。

「お父君のように立派な大人になりたいと望む若子わかごは郷にいくらでもおります。お父君を助け、郷のために働きたいと望む者も少なくないでしょう。しかし貴方が望むべきは、お父君のように、郷の民を導く者となることです」

 隣ではない。父と同じところに立ちたい——おさになりたい、と。そう望めというのか。

 そのようなこと、自分にできるわけがないとわきまええていたのに。

「……血を分けたというだけで長になれはしない」

 喉から絞り出した言葉は、自分に言い聞かせる程度の音量にしかならない。

「血を分けた者にしか、なれないものもございます」

 弥守の迷いを断ち切るかの如き速さで返される。しかしまだ、飯綱の言葉を素直に受け取る気になれない。

「そなたに何が解る」

 ついとげを隠さぬ物言いをしてしまった。それでも冷静さを崩さぬのがこの男だが、今はかすかに、その表情の下に押し殺しているものが見え隠れする。


「いくら鷲羽をうやましたったとて、私は鷲羽のようにはなれません」

 弥守はすぐにその意味に気付く。飯綱にとって鷲羽は養父であり、実の親ではない。

「そなたの親は——」

「死にました。十になる前に、山犬やまいぬが邑を襲った折に食い殺されて」

 元々薄い血の気がさっと退く。語る飯綱の声は冷めている。

孤児みなしごとなった私を邑長むらおさであった鷲羽が引き取り、親代わりになってくれました。しかし何人なんぴとも、実の父親になり代わることはできぬものです」

「そなたは鷲羽を父とは思うておらぬのか」

 昼にまみえたときは、そんなふうには見えなかった。鷲羽は飯綱を認め、可愛がっているように見えたし、飯綱も鷲羽を敬っているように見えた。

「私は実の父が如何なるものか知りません。それ故に私にとって父とは、鷲羽を置いて他にはおりません。しかし実の父というものを知る人にとって私は、鷲羽の子たり得ないのです」

 淡々と語る。故に、苦しい。

「大きく、強く、優しいあの人のようになりたくて、狩りのわざも、弓や剣の扱いも、いくさすべも、鷲羽から学べるあらゆることを身に付けました。けれどそうして励んでも、周囲の者の目に映る私は、鷲羽の弟子であって、息子ではなかった。親子と呼ぶには、あまりにも似ていなかったからです」


 弥守とは似ているようでまるで違う苦悩の物語。血の繋がりのあることがかせとなる者と、ないことが枷となる者。しかし、己の力では如何いかんともし難い現実を思い知った少年の絶望は、弥守にとって決して他人事ひとごとではない。


「周りの目を気にして鷲羽を父と呼べぬまま、独り立ちできる歳頃になったとき、鷹主彦の御子息の側仕えが必要だという話が伝わってきました。それを聞いた鷲羽は私を推挙すると言い出した。邑の中には良い顔をしない者もおりましたが、鷲羽は明瞭はっきりと、自身と同じ務めを託すのに飯綱ほど適した者はいない、と言って押し切った」

 鷲羽が言ったという言葉を聞いて、弥守は昼餉の席で向けられた父の目を思い出す。鋭い眼差まなざしは、我が子として、自身の魂を継ぐ者として弥守を認めようとしてくれていた。

「有り難く嬉しかったが故に、鷹主彦の元へ参じてからは、鷲羽の息子として相応しい働きをせねばという気負いばかりがございました。しかしやかたにはかつての鷲羽を知る者達も多く、邑にいた頃よりも鷲羽に似ていないという声は大きかった。鷹主彦にすら言われるほどに」

「父上に?」

 父にしてはあまりに浅慮な発言に弥守は眉をひそめる。飯綱はなだめるようにほんの少し微笑んだ。

「あの方は面と向かって私に鷲羽に似ていないとおっしゃいました。それと、似ていなくても構わない、とも」

 弥守は安堵のために嘆息する。

「いくら私が鷲羽になろうとしても、無理だと。鷲羽には鷲羽の才があり、私には私の才があると。鷲羽が私を寄越したことが私を息子と認めた何よりの証なのだから、私は私のまま務めを果たせばよい、と。そう言って頂いたときに、私は鷲羽を目指すことを諦めました」

 優れた観察眼。物事を俯瞰し分析できる知力。口の堅さ。何が起きても動じぬ冷静さ。弥守もよく知る飯綱の美点を、父は出会ってすぐに見抜いたのだろう。それを生かせと言ってくれるのは如何にも、父らしい。

「鷲羽が実の父でないことは変えられません。同じように、鷲羽が血の繋がらない私を育ててくれたこともまた、変わりません」

 西日にしびに照らされた顔は、何かから解き放たれたかのように穏やかだ。

「私は鷲羽の性質たちは受け継いではいませんが、務めの上では誰にも負けぬ力を授けてもらいました。私は私のやり方で、持てる力全てを生かして鷹主彦のために働こう——弥守様と多津野様のお側に付けていただいたときに、そう心に決めたのです」

 飯綱は自身のかせを解いたのだ。解いて、受け入れた。己に何ができるか。何をすべきか。己が何者であるか。それがどれほどのことか、弥守にはよく解る。


「鷲羽に感謝しなくては」

 ぽつりとつぶやく弥守を飯綱が不思議そうにのぞき込む。

「そなたを育て、つかわしてくれたことに」

 弥守は腕に力を入れ、何とか上体を起こした。飯綱と目線の高さが合う。

「そなたの働きに私は数え切れぬほど助けられている。今もそうだ。私が煮え切らぬ故、辛い話をしてくれたのだろう」

 古傷をえぐるような、決して面白いとは言えぬ話を。いくら欲しても手に入らぬものを諦めざるを得なかった者の物語は、弥守のものにはなり得ないのだと教えるために。

「……私は、父上に及ばぬことで郷の皆に失望されるのが怖い。おさを継ぐ者として相応しくないと言われるのが怖くて、星見の力を言い訳にして逃げていた」

 幼き日の絶望を繰り返しはしまいかというおびえは常に弥守の心の片隅にいる。

 鷹主彦は郷で暮らす人々の意思の表れだ。あの日に大人達から向けられた視線が、囁きが、もしも郷中さとじゅうから向けられたら。いくら長を自称したところで、民の総意を無視すれば、それは虚しいしるしでしかない。


「弥守様は鷹主彦となるに相応しいお方です」


 飯綱は弥守を見据え、当たり前だと言わんばかりに断言した。

「貴方には他人ひとの心がお解りになる。ご自身が心に傷を負うたことがあるからこそ、できることです。おさを支える役に留めるには惜しい。弥守様がお望みになれば、父君のような、いいえ、父君以上に優れた長にもなれましょう」

「私が——?」

 多津野ではなく、己が。たくましくはないこの身でも。

「ご自身を卑下する必要はございません」

 弥守の迷いを見透かした一言。

「弥守様は他の何人も持たぬ力を既に持っていらっしゃる。星見は貴方を縛る力ではないと私は思います。貴方にしか解らないし、使えない。どんなに鍛錬した武人にも手に入れることのあたわぬ武器に等しい。貴方ご自身が生かしたいと望んだときにこそ、最も良い結果を導くでしょう」

「父上の判断を仰ぐ必要はないと?」

「星を読み、真実を知るお方が他の人間の意をむ必要がどこにあります」

 しかし、と弥守は口籠る。追い討ちをかけるように飯綱が続ける。

「現に、此度こたびのことで弥守様はご自身の口から民へ星見について伝えようと動かれた。鷹主彦が語るより、星の示す行き先をじかた貴方の口から語ることの意義を、ご自分でも解っていらっしゃるからではありませんか」

 指摘され、弥守は今日出会った邑の人々の姿を思い出す。初めてやかたの外の人と接してみて、やはり自ら語らねばならぬと感じた瞬間があったことは事実だ。

 郷の外で水がれることを知らされたときの、堅香子かたかごの不安げな問いかけ。邑人むらびと達の強張った表情。住処すみかを追われる恐怖と苦悩の記憶が、この鷹森には残っている。

 忌まわしい記憶を未だに拭えない彼らに対して、前を向くための言葉をかけることができたのは、父ではなかった。父にできぬことが己にはできる。その可能性に気付きながら、己は無力だなどと言えるのか。

「——覚悟なさいませ」

 弥守に生きる道を示し、母を亡くした弥守と多津野の兄弟を育てた父。民からの強固な信頼を得て郷を導く長。その広い背を追い越す覚悟を。


「飯綱」

 はい、といらえがある。

「そなた、死ぬまで私を助けてくれるか」

 問うた先の顔が笑んだ気配がした。

「元より私は鷹主彦にお仕えする身ですので」

 弥守は夕闇の中でその答えを噛み締めた。

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