三、山の霊(2)

 空高く伸びた木立の葉蔭の間から佐久さくの姿を垣間見かいまみて、かたわらには水の音を聞きながら、多津野たつのは黙々と山道を進んでいく。

 弥守みもりを救うためにも、一刻も早く水源みなもとへ着かねばならない。

 ミツハのお陰で漠然とした不安は和らいだが、胸中にくすぶる焦燥感を消し去ることはできなかった。

 赤星あかぼしを射落とす手立てについて、多津野は未だ確信が持てないでいる。水源を目指せば道は開かれるとはいっても、具体的に何がどうなるのかは不詳のままだ。道筋が解っていれば、まだ落ち着いて役目を果たすことに集中できたかもしれないが。何をどうすればいいか解らない状態で期限だけを区切られて、焦らずにいられようか。

 はやる多津野の足にもミツハは涼しい顔でついてきた。山中である故、道は無論上り坂である。その華奢な身体で、息ひとつ乱さず、汗ひとつかかずに多津野に並び歩く様はいっそ不気味なほど平然としている。

 しかし、そんなミツハの様子に気をかける余裕が多津野にはない。先へ、とにかく先へ。ただ前だけを見て進んでいく若者の足を、涼やかな女の声が止めた。


「腹は減らぬのかえ」

 問われてやっと、多津野はミツハの顔を見た。

 その言葉の意図を示す感情は読み取れない。

 多津野は己の腹に手を当てて、思案する。

「いや——、よく解らない」

 朝から何も食べてはいない。しかし空腹感はない。それが腹が満ちているせいだとは多津野自身にも思えなかった。

「人の子は何か食べねば動けぬであろう。気をいたとて、己の身を壊しては事は成せぬ」

 ミツハの言う通りだ。今は、大きな不安に空腹感がかき消されているに過ぎない。このまま何もらずに険しい山道を歩き続けることができるはずがなかった。それを人ならざる者にさとされるとは。

「もしかして、おれを気遣ってくれているのか?」

 多津野はまじまじとミツハの顔を見つめる。

 眉根を寄せて目をらすその表情は、不本意だと言わんばかりだ。

「山の者どもがそなたを助けよと煩瑣うるさいからじゃ」

「山?」

 多津野は首を傾げる。

 ミツハは辺りを見回し、すうと深く息を吸った。

 そして、まるで美味いものを口にした直後のように、花唇から小さく吐息がこぼれる。その姿を見て少しだけ、多津野の身に忘れていた空腹感が蘇る。

「ここは良い山じゃ。人の手が入っておらぬ故、皆あるべき姿のままに生きておる」

「おれの郷の者はこの山には決して立ち入らないし、何も獲らない。それがこの地の神との約束だから」

 今回は事態の深刻さからむなく入山したが、山の中の命をいただくことには抵抗がある。それ故、多津野は干し肉など持参した食料でなんとか腹を満たしていた。

 ミツハはなるほどな、と呟く。

「そなたが何故、この山の者に好かれているのか解った気がする」

 多津野は再び首を傾げた。

「狩りが嫌なら木の実を摘んで食べればいいと言っているぞ」

「誰が?」

「誰、か——」

 ミツハは目を閉じた。耳を澄ましている。

「あえて言うなら、この山か。水も、木も、土も、風も。獣も、鳥も、虫も。この山に生き、この山を形造るもの全てが」


 知っている。多津野にとって、鷹主彦の子にとって、鷹森の民にとって、当たり前に敬うべきもの。

 この山には、霊が宿る。種々くさぐさの生命が息づき、繰り返される命の連なりの中でそれらは渾然一体となり、人のあずかり知らぬ力を帯びて、この山に宿っている。

 ある人はそれをこそ裂地さくちの神だと、またある人は裂地の神の棲まうが故に霊を宿すのだと言った。いずれにせよ、言葉では明確に解明しがたいその存在のあることを、鷹森の人々は信じてきた。


「あんたには、その声が聴こえるのか?」

「言ったろう。同じ言葉でしか通じ合えぬのは人間くらいじゃ」

 ミツハが口の端にかすかに浮かべた笑みは妙にはかなくて、多津野はどうしたらよいのか解らなくなる。それが人間に対する諦観からくるものであることを、多津野は何となく感じ取っていた。

「かつては石も草木も星も言葉を話した。それをある筋の神が封じ、己が子孫たる人間どもの言葉にのみ意味を与えた。以来、人のいるところでは黙るものばかりになったが、ここでは煩瑣いくらいに喋りおる。人の言葉しか知らぬそなたには聴こえぬのだろうがな」

 そんなにも煩瑣いなら、自分にも少しは聴こえるだろうか。多津野はじっと耳を澄ましてみる。


 山鳥のき声。風に揺れる葉擦はずれの音。水が岩にぶつかり流れ行く音。


 そういえば、あの滝壺でミツハを見つけたとき、多津野は何者かの呼ぶ声に導かれたのではなかったか。しかし今はいくら集中しても、淙淙そうそうという音がするばかりで、あのときのような声は聴こえてこない。

「だめだな。やっぱりおれには聴こえない」

 残念がる多津野を見てミツハはくすりと笑う。

「できぬと解っていても試すのだな、そなたは」

「やってみなきゃ解らないことだってあるだろ。それに、おれにも聴こえた気がしたんだよ、あんたにまた会えたとき。こっちに来い、って」

「ふうん」

「あれはつまり、山の声だったってことか。この山があんたに会わせてくれた」

 ざあ、と風が一迅いちじん、多津野とミツハの間を吹き抜けた。

「そうかもな」

 血の気のない瓜実顔うりざねがおが微かにほころぶ。不思議と血が通っているように見える。触れたら温かいのではないかと確かめてみたくなる。

 いつもそんなふうに笑っていてくれたら良いのに、と多津野は思った。

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