三、山の霊(2)
空高く伸びた木立の葉蔭の間から
ミツハのお陰で漠然とした不安は和らいだが、胸中に
しかし、そんなミツハの様子に気をかける余裕が多津野にはない。先へ、とにかく先へ。ただ前だけを見て進んでいく若者の足を、涼やかな女の声が止めた。
「腹は減らぬのかえ」
問われてやっと、多津野はミツハの顔を見た。
その言葉の意図を示す感情は読み取れない。
多津野は己の腹に手を当てて、思案する。
「いや——、よく解らない」
朝から何も食べてはいない。しかし空腹感はない。それが腹が満ちているせいだとは多津野自身にも思えなかった。
「人の子は何か食べねば動けぬであろう。気を
ミツハの言う通りだ。今は、大きな不安に空腹感がかき消されているに過ぎない。このまま何も
「もしかして、おれを気遣ってくれているのか?」
多津野はまじまじとミツハの顔を見つめる。
眉根を寄せて目を
「山の者どもがそなたを助けよと
「山?」
多津野は首を傾げる。
ミツハは辺りを見回し、すうと深く息を吸った。
そして、まるで美味いものを口にした直後のように、花唇から小さく吐息が
「ここは良い山じゃ。人の手が入っておらぬ故、皆あるべき姿のままに生きておる」
「おれの郷の者はこの山には決して立ち入らないし、何も獲らない。それがこの地の神との約束だから」
今回は事態の深刻さから
ミツハはなるほどな、と呟く。
「そなたが何故、この山の者に好かれているのか解った気がする」
多津野は再び首を傾げた。
「狩りが嫌なら木の実を摘んで食べればいいと言っているぞ」
「誰が?」
「誰、か——」
ミツハは目を閉じた。耳を澄ましている。
「あえて言うなら、この山か。水も、木も、土も、風も。獣も、鳥も、虫も。この山に生き、この山を形造るもの全てが」
知っている。多津野にとって、鷹主彦の子にとって、鷹森の民にとって、当たり前に敬うべきもの。
この山には、霊が宿る。
ある人はそれをこそ
「あんたには、その声が聴こえるのか?」
「言ったろう。同じ言葉でしか通じ合えぬのは人間くらいじゃ」
ミツハが口の端に
「かつては石も草木も星も言葉を話した。それをある筋の神が封じ、己が子孫たる人間どもの言葉にのみ意味を与えた。以来、人のいるところでは黙るものばかりになったが、ここでは煩瑣いくらいに喋りおる。人の言葉しか知らぬそなたには聴こえぬのだろうがな」
そんなにも煩瑣いなら、自分にも少しは聴こえるだろうか。多津野はじっと耳を澄ましてみる。
山鳥の
そういえば、あの滝壺でミツハを見つけたとき、多津野は何者かの呼ぶ声に導かれたのではなかったか。しかし今はいくら集中しても、
「だめだな。やっぱりおれには聴こえない」
残念がる多津野を見てミツハはくすりと笑う。
「できぬと解っていても試すのだな、そなたは」
「やってみなきゃ解らないことだってあるだろ。それに、おれにも聴こえた気がしたんだよ、あんたにまた会えたとき。こっちに来い、って」
「ふうん」
「あれはつまり、山の声だったってことか。この山があんたに会わせてくれた」
「そうかもな」
血の気のない
いつもそんなふうに笑っていてくれたら良いのに、と多津野は思った。
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