三、山の霊(3)

 真昼には緑が燃える。

 岩や木の根を覆うこけが、葉蔭の隙間から注ぐ陽の光を浴びて青々と輝く。

 しかし、一日の中で山がその美しさを誇るひとときは実に短い。陽が傾きへと転じれば、日暮れは思うよりも早くやってくる。山は闇に包まれ、夜目の利かない者は大人しく眠りにつくしかなくなる。辺りがよく見えている間に、今夜の寝床を見つけねばならない。

 空を仰ぎ見る。愛鷹が滑空していく。

 それに追随してしばらく苔生こけむした緑道を登った先で、佐久さくは急降下した。

 鬱蒼とした森を抜けると、急に視界が開けた。陽だまりがある。長い山歩きの中で、こんなにも明るい空間は久方ぶりだ。

 渓流のすぐ側であるからだろう。足元は岩が多く、木が生えにくそうな地形をしている。そのために陽がよく届くのだ。

 佐久の姿を探すと、陽だまりの中にぽつんとそびえ立つかばの木に留まっていた。側へ行こうと一歩踏み出す。



 ——助けて!



 頭をつちで打たれたような衝撃。

 金属を叩いたときに似た音だった。否、叫びだった。

 ぐわんぐわんと余韻が頭の中に響き渡っている。

 耳をつんざくほど甲高い女の声のような、地の底を這うほど低い男の声のような。

 多津野たつのは一歩を踏み締めたまま、微動だにできない。次の一歩を踏み出そうとしても、足が震えて動かない。進むことも、逃げることもできない。

 ひやり、と多津野の左手に触れるものがある。

 反射的に視線を向けると、ミツハが多津野の手を握っていた。

 黒玉ぬばたまの瞳が無言で頷く。踏み出した足の強張りが少しずつ退いていく。


 行ける。


 てのひらに感じる冷たさが意識を繋ぎ止めてくれる。

 多津野はミツハの手を確乎しっかと握り返して歩み出す。

 光に満ちた風景の穏やかさに反して、陽だまりの中にはぞわりと肌を逆撫でる気配が満ちている。

 樺の木から佐久が一点を見つめている。獲物を狙うときの目つきだ。

 多津野も同じ方へ目をやった。

 洞穴ほらあながある。どれだけ奥まで空いているのか判別できないくらい、暗い。

 あの中に何かがいる。

 背中の弓に手を伸ばし、一歩ずつ洞穴に近づく。

 ぎらり。

 と、光ったものに気づいた瞬間、多津野は飛び退すさって襲いくるものをかわした。

 洞穴から伸び、のたくっている、

 大樹の幹ほどもある太さ。陽の光を知らぬが如くに生白なましろく、表面はうろこでびっしりと覆われている。長大なそれは先端に向かって徐々に細く鋭く尖っている。

 のたうち、地面を数度叩きつけた後、それは勢いよく多津野目がけてい迫った。

 足をぎ払おうとしたか。しかし多津野もすんでのところで地を蹴り逃れる。

 これは、尾か。

 襲いかかる白銀のそれの向こう、洞穴の奥に光る双眸そうぼう

 それと目が合ったかと思うと、巨大な尾はするすると穴の中へと退いていく。

 次いで、沈黙。しかし殺気じみた空気は変わらない。



 ——助けて。



 まただ。

 多津野は脳内を打ち鳴らす声に顔をしかめる。

 正面の洞穴に目をらす。

 黄金色こがねいろ爛々らんらんと輝く視線は、何かを訴えているようだ。

 助けを求めているのは、なのか。

 緊張で全身の毛が逆立ち、多津野も獣のごとくじっと相手の出方をうかがう。

 攻撃してくる気配はない。

 ずず、ずず、と地面を擦る音。

 洞穴の中で巨躯きょくうごめいている。

 その身動みじろぎの中には、殺気とは別の感情が混じっている。

 苦しみ。痛み。憎しみ。それらを早く終わらせたい、という切望。

 暗い穴の中にこもってなかなか襲ってこないのは、あれ自身が襲撃自体を望んでいないからではないのか。望まぬことをいられて、ただそれを終わらせる術を持たず、もがいている。そうだとすれば、あれはきっと敵ではない。

 それに、佐久が動かずにいる。攻撃すべき相手ではないと知っているようだ。

 多津野は恐れを捨てて、洞穴へ向かって踏み出した。


「おい?」

 自ら危険に近づいていこうとする多津野をミツハが制止せんと手を引く。

「あんたにも聴こえただろう? 助けを求めているのがあいつなら、何とかしないと」

「正気か? どうすればよいかも解らぬくせに」

「おれには解らないことの方が多いよ。それで何もしなかったら、何もできない」

 多津野とて、ただ向こう見ずに動いているわけではない。声が聴こえたのだ。普段なら聴こえない声が。それが多津野の手を借りたくて上げてくれた叫びなら、何かできることがあるはずだ。

 深いため息と共に、ミツハは握った手の力を緩めた。

「好きにしろ」

「ありがとう」

 多津野は微笑み、前を見据える。

「あなたが何者かは知らないが、おれはあなたを傷つけたいわけじゃない」

 人の言葉が通じるのか解らない。しかし、多津野の心を示す手段はこれしかない。

「苦しんでいるなら、助けたい。あなたに触れても良いだろうか?」

 多津野の問いへのいらえはない。ただ、低くくぐもった呻き声に似た音がする。

 半歩ずつ、多津野はそれとの距離をつめていく。

 穴の中を覗けば、うごめくものが視認できる。

 とぐろを巻く鱗を纏った胴体。

 かつ、と暗闇に光が走る。

 爛々とえた金色の眼玉。

 洞穴の天井から多津野を睨む。

 大蛇だ。

 息をつく間もなかった。

 巨大な顎門あぎとが勢いよく暗がりから飛び出してくる。

 上下の顎から伸びる鋭い牙が、対峙するものを喰い千切ろうと迫る。

 逃げられない、と悟った刹那、背後で大きく飛沫しぶきの上がる音がした。

 肩口を涼風が吹き抜けた。かと思えば、水のかたまりが滝の如く大蛇目がけて撃ちつける。

 肩越しに振り返ると、ミツハが人差し指を大蛇へ向けていた。

 指先一つで水を操り、多津野を助けてくれたのだ。

 ひるんだ大蛇は真白の蛇身を陽だまりの岩場に横たえている。

 その太い首を一周するように、赤黒い文様のようなものがぐるりと書かれている。

 大蛇は頭をくねらせた。文様の描かれた首筋を地面に擦りつけている。それを拭おうとしているようだ。苦しいのか。首の文様はさながら首輪となって、この大蛇を縛りつけているのではなかろうか。


むごい仕打ちをする」

 かたわらでミツハが呟いた。この状況について何かを察している。

「あの首のは、何だ?」

「呪いじゃ。誰ぞの恨みが奴のからだを乗っ取ろうとしている」

 ミツハの言葉を聞いても、多津野には事態の全貌を理解することはできなかった。しかし、詳細を聞くのは後でも良いだろう。

「どうすれば助けられる?」

「首に書かれたものを欠けば」

「欠くって、どうやって?」

やいばか何かで、あの呪詛に傷をつけられればよい」

「傷を?」

 それでは、先ほどの己の言葉を違えることになる。

「呪いにけがされた霊を解放してやるのと、傷つけることを恐れて無限の苦しみを味わせ続けるのと、そなたはどちらを望むのじゃ?」

 ミツハの問いは無慈悲で正しい。多津野は何も言い返せず、奥歯を食い締める。

「おれに剣は使えないぞ」

 多津野は剣が得意ではない。ここへ持参した刃物も、枝を切るのに使う小刀だけだ。近接して戦うのは、どうも腰が引けてしまう。こうなるなら、飯綱いづなに厳しく鍛えてもらえばよかった。

「それでよかろう」

 迷う多津野の手にある弓をミツハが示す。

「矢で射ろというのか?」

 大蛇の首は太い。鱗も硬そうだ。そのうえ的となる首は苦痛のために激しく振られている。

「星を射ようとする者には、狙いやすい相手だと思うが」

 逡巡しゅんじゅんする若者を人ならざる女がせせら笑う。

 無理を承知で踏み出したのは多津野自身だ。何を今更躊躇ためらうのか。

「言ってくれる」

 確かに、ミツハの言う通り。目の前にいるのだから、天の星より射やすいはずだ。

 多津野は矢をつがえようと背に手を伸ばす。

わらわが返した矢を使え」

 ミツハと再会したときに、彼女が返してくれた一矢。言い換えれば、ミツハを初めて目にしたときに、彼女を賊から助けようと放った一矢。

「まさか、一発で仕留めろって?」

「そうなるな」

「簡単に言う」

「できぬのかえ?」

 小首を傾げるミツハにあおられ、迷いは消えた。

「主人の命令とあらば、やってやるさ」


 多津野は矢筒からその一矢を取り出す。矢羽の模様の違いで、どれがそれかは覚えていた。

 弓に矢を番え、引き絞る。

 大蛇は激しくのたくっている。その動きから目を離さず、多津野は首の文様に焦点を合わせた。大蛇が地に頭を擦りつけ、生白い首筋が露わになる。そのときに。

 指を離した。

 ぶんとつるが揺れ、伸張が解ける。切先きっさきが空を切る。

 その場から一切の音が消えた。

 しかしそう感じたのも一瞬であった。

 まもなく、かねを打ち鳴らすがごとき轟音ごうおんが脳髄を揺さぶる。

 あまりの不快感に耐えられず、多津野は膝をついた。なんとか視線を前方へ向ける。

 狙い通り、真っ直ぐに放たれた矢は白蛇の首、文様の中心に突き立っていた。

 大蛇は無数の牙の生えた大口を開け、威嚇の声を発しながら、死に際の苦悶に喘いでいる。

 多津野の視界の端を色白の小さな足が通り過ぎる。この轟音の中でも涼しい顔のまま、ミツハは大蛇の傍らまで歩み寄った。

「あれはそなたの民。恥知らずの者どもからそなたを救おうとしたがゆえの行い。ゆるしてやれ」

 黄金色の眼はミツハを見上げてから、多津野を一瞥いちべつした。

 大蛇は動くことを止め、大人しく巨躯を投げ出す。

 ミツハはおもむろに身をかがめた。首に突き立った矢を持ち、引き抜く。

 とぷり、と傷口から真っ赤な血が流れ出る。

 血の流れるに任せて、大蛇の眼玉から光が失せていった。

 やっと音が止んだ。

 辺りはすでに、夕暮れの色に染まり始めていた。

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水走考(みずはこう) 毛野智人 @kenotomoto

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