一、水の女(3)

 足が沈む。

 湿気を含んだ土はやわい。

 沈んだ足を上げてもう一歩を踏む。

 重い。足が重い。身体が重い。

 疲れているのだ。最低限の休息のみで済ませ、なるべく先へ進むことを優先してきたせいか。

 しかし多津野のこの疲れは、身体のせいばかりではない。心が疲れている。

 長い孤独は人の心を疲弊させる。特に、人里で他者と関わる暮らしに慣れている者ほど、一人にむ。話す相手がいないというのは、人の心を殺し得る。

 言葉を発しなくなって幾日過ぎたろう。

 鷹森の者にとっては人の出入りを禁じた山であるから、ともの帯同はない。山の入口までは幼い頃から多津野と弥守の教育係を務める男が見送りにきてくれたが、その後はずっと一人だ。旅の道連れは水の走る音だけ。

 誰かと言葉を交わすということは、物を食べ、水を飲むのと同じくらいに大事なことだと多津野は思い知った。言葉を発し、言葉を返される。己の他の誰かがいるから、己もそこにいるのだと解る。そうして己は己の心を保っていたのだ。


 うつむけばこけし、あおげば葉がう。

 どこまでも青の繁茂する道。


 米栂こめつが白檜曽しらびそで覆われた森は常に鬱蒼として、視界は代わり映えがない。

 広い山のどの辺りに自分がいるのか、もはや多津野には解らない。まるで山に呑み込まれてしまったかのような感覚に陥る。己の目的も忘れ、己が誰かも忘れて、ただ山の一部分になり果てる。不思議とそれは嫌ではなくて、むしろ魅力的にすら思える。

 誰かが一緒だったなら、兄が側にいてくれたなら、そんな幻惑に捕われはしないだろう。

 いつでも多津野の問いに正しい言葉を返してくれる兄。

 しかし今は一人なのだ。

 多津野を信じて、一人で送り出してくれたのだ。

 父も兄も、己が赤星を射落とすと信じて郷を守ってくれている。

 故に、この足だけは止められぬのだ。

 心が迷っても身体は動く。

 理性ではなく本能が命じる。

 水源みなもとを目指せと。


 ——さあ、さあ。

 ——来よ、来よ。

 

 多津野ははたと足を止める。

 水の音に別の音が混じっている気がした。

 流水の音とは別の。

 人の声のような。

 歌のような。

 耳を澄ます。


 ——そうそう


 相変わらずの谷川の音。

 木立の隙間から辺りを窺う。

 横目に辿っていたたにの上流に、滝。

 多津野は導かれるようにそちらを目指す。

 泥濘ぬかるんだ土に足を滑らせるのもいとわない。

 衣を泥で汚しながら岸辺に降り立つ。

 呆然と滝を見上げた。

 勢いよく落下する水。

 水面みなもに立つ白波。

 

 ——どうどう


 この音を歌声と思ったのか。

 多津野は己の耳に首を傾げる。

 否、もっと明瞭はっきりとしていた。

 確かにあれは声だったはずだ。

 滝の流れを追って視線を落とす。

 眼下には目の醒めるようなあおの滝壺。

 今度は、己の目を疑った。

 碧い水の中央にただよう人影。

 波紋に広がる長い黒髪。

 目を閉じ仰臥する瓜実顔うりざねがお


 あの女だ。


 水に消えたあの女。

 まさか。

 人恋しさが見せた幻か。

 唐突な再会に、そう片付けようとした。

 しかしその前に気懸きがかりを一つ見つけた。

 あまりに蒼白い肌。

 血の気のない白面。


 死んでいる?


 多津野は岸を蹴った。

 気付いたときには、もう水の中だった。

 無我夢中で女の元へ泳ぎつくと、くびを支えて抱える。

「おい、あんた!」

 身体を揺すって目醒めを促す。

「目を開けてくれ」

 冷たい。

 一体どれだけ水に浸かっていたのか知れぬほど、冷え切った身体。

 もしかしたらもう、手遅れかもしれない。

 焦燥に駆られ、細い肩を揺らす手に力が籠る。

「おい——!」

 一際強く肩を揺すると、柳眉が不機嫌そうに歪められる。

「——煩瑣うるさい」

 眠たそうにまぶたが上げられて、確かにその女は声を発した。

「……よかった」

 女の声を聞いて、多津野は安堵する。

 そんな多津野に対して、女は険しい表情を崩さない。

「お前は誰だ」

 え、と答えを探している間に、女の両腕が多津野に向かって伸ばされた。刹那、首にひやりとした感触。

何故なにゆえわらわさわれる? 奴らの手の者か」

 女の細い指が多津野の首を締めにかかる。

 奴ら、とは誰のことを指すのか見当もつかないまま、喉を圧迫されて否定することもできない。何とか抵抗しなければとも思うのに、毎日歩き続けた疲労のせいで手足をばたつかせることもできない。

 ここで死ぬのか、と覚悟した。

 父の顔が浮かぶ。

 郷の皆の顔が浮かぶ。

 兄の顔が浮かぶ。


 否、死ぬわけにはいかない。

 あの赤星を射るまでは。


 水が渦巻いた。

 多津野と女を囲うように、本来起き得ない流れを作る。

 逆巻さかまく水は多津野の首元までせり上がってくると、女の指に絡みついた。

 水が女の指を外していく。

 ——助けてくれている?

 目も十分に開かず、意識が混濁している多津野はただ水の為すがままに身を任せた。

 水は多津野の身体を優しく包むと、岸の方へと押し流す。

 多津野は感覚だけを頼りに岸辺の岩を掴んだ。渾身の力を込めて這い上がる。

 そのままくたりと身を横たえ、大きく息を吸っては吐く。

 女は水の中で瞠目している。

「そなた——何者じゃ」

 答えを口にする間もなく、多津野は気を失った。

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