一、水の女(4)

 赤い光。水をす灼熱の色。

 薄目で捉えても判る、その禍々しさ。


 ——早く、射なければ。


 意識がうつつへと急浮上する。

 多津野はね起きた。

 暗闇。

 覚醒したはずの視界が暗い。

 目をしばたたいても見えるものは変わらない。

 寝ぼけて視界が悪いのではない。

 もう夜だ。



「目覚めたか」


 かたわらから女の声。

 夜闇のせいか、寝起きで感覚が鈍っていたか、声がするまで気配に気が付けなかった。

 しかし目をらせば間違いない、あの女だ。水の中にいた女がそこにいる。


 月明かりのお陰で、何とか姿形はうかがい知れる。水中では裸身であったが、今は薄衣うすぎぬに身を包んでいる。白藍しらあいの衣が月光に朦朧ぼんやりと照る様は、薄明のよう。

 女は膝を抱えるようにして多津野の横に座っている。上目遣いの双眸そうぼうが、探るように多津野に向けられていた。結わずに流した長い髪の一房がはらりと女の片頬に垂れ、その隙から端正な顔立ちが見え隠れする。

 髪を結わない女子おなごの姿を多津野はほとんど見たことがなかった。女子は家の中か、湯浴ゆあみ水浴びのときくらいにしか髪を解かないものだと教えられていた。郷のおうならが見たらきっとはしたないと眉をひそめるだろう。しかしこちらの方が、この女には似合っていると多津野は思った。


「そなた、随分とこの山に好かれておるな」

 多津野がぼうと女を見ていると、女は不思議なことを口にした。

「水はわらわに逆わぬ。だのにこの山の水は、そなたを生かすことを望んだ」


 そうだった。久方ぶりに誰かに話しかけられたからか、気が緩んでいた。衣を着ているせいで今は人間らしく見えるが、多津野は先頃、この女に殺されかけたのだ。


「水は誰のものでもない。人一人にこだわりはしない」

 夜気によく通る涼やかな声。しかしその語り口からは、如何なる感情も読み取れない。

「そなたは何者じゃ?」


 己が何者か、など。多津野にとって、誰かにされたこともなければ、自らしてみたこともない問いだ。


「おれはふもとの郷のおさ鷹主彦たかぬしひこの息子だ」


 故に、多津野はさして深く考えることなく、あっさりとそう返した。郷で生まれてから、多津野は鷹主彦の子でなかったことがない。嘘偽りも隠すつもりもない。その他の答えを多津野は知らない。

 だが、女の眼光は炯々けいけいと鋭さを増す。

 どうやら女が求める答えとしては足りなかったらしい。

 何をしているわけでもない。ただ見られているだけなのに、狩場でどんな大物の獣と対峙したときをも遥かにしのぐ、圧。

 身体が縛られたように動かず、喉もひりつく。たったの一睨みでこうも容易たやす射竦いすくめられてしまうのか。この女、やはり。

 多津野は何とか声を絞り出す。


「あんたは、あやかしか」


 女からのいらえはない。

 ただ、鋭かった眼光が少し和らいだ。

 それが多津野の問いに対する答えなのかは判然としない。

 代わりに女は懐に手を差し入れ、何かを取り出した。


「これはそなたのものか」


 ほっそりとした白い手には一本の矢。見覚えのある灰青に黒のまだらの矢羽根。露草色の糸でいだ矢は、まぎれもなく多津野のものだ。

 多津野はこくりと頷く。


「大した腕じゃ。水が動かねば、この矢があの男のくびを貫いていたろう」


 女は地面に矢を置き、多津野に差し向けた。返す、という意味だろう。


「あのとき、男が死んだのを見ていたな」


 もう先ほどまでの圧は感じない。多津野は矢を受け取り、声を出してみる。


「あんたが水に消えるところも見た」

「ならば、再びまみえたときにも妾が人でないと解っていたろう。だのに何故、水に入った?」

「死んでるか、死にかけか、どっちか解らなかったから。とりあえず助けるしかないだろ」

「助ける? 妖だと思う相手をか」


 女の問いには、にわかには信じがたい、愚かな、とでも言いたげな非難じみた感情が混じっているように聞こえた。思わず多津野はむっとする。


「関係ない。死にかけてる奴を助けるのに、相手がどういう奴かで区別したりしない」


 人間であろうと、獣であろうと。妖者あやかしものだろうと。たとえ、神であっても。

 救える命なら、手を尽くす。救える見込みがなくても、看取みとることはできる。

 狩猟で命をいただくが故に、他の場ではあらゆる命を尊重する。鷹森の人々にとって、それが『裂地さくちの神』に対する敬意の表し方であった。

 あんたは違うのか、と多津野は女に投げた視線で問う。

 己が正しいと疑いもしない、無遠慮な若者のまなこだ。

 女は眉をひそめることも、いさめることもしなかった。いだ水面みなものように静かに、恬淡てんたんとただ多津野の眼を受け止めている。

 何を思っているのか、全く読めぬ。

 しかし確かに、心のうちに思惑を秘めている。故に、多津野と話しているのだ。用がなければ多津野が目覚めるまで側にいたりしない。問いを重ねるのは、何かを確かめているようでもある。

 ——知りたい。

 この女が何を考えているのか。何故ここにいて、多津野と話しているのか。


「そなた、何故この山にいる?」

 多津野の願望を見透かしたように問うてきたのは、やはり女の方からだった。

「郷を救うためだ」

 迷いなく答えた若者に、女は眉根を寄せる。

「救う?」

「このままでは、郷の外の水がれてしまう。そしたら水を求めて外の者達が我らの郷へ押し寄せるかもしれない」

「それで何故いけない?」

 正義感に満ちた若者を女は冷たく見据みすえた。

「何故、って」

「その水はそなたらが生んだものか」


 多津野は女の問おうとするところが掴めない。

 女はさらに問う。


「山からで来た水が通るところにそなたらが住み着いただけではないのかえ?」

「それは、そうだが」

「水があったのをそなたらが先に見つけただけ。己が生きるために住処すみかを求めるのは、生き物のさがじゃ。そこに水があるというのなら、それを求める者が他にいて何故いけない?」

 多津野は反論に窮する。

「水を独り占めするちからなど、汝等うぬらにありはせぬ。ただ人同士の都合で勝手に奪い合っているだけのこと。それでも他の者に渡したくないなら、争う他あるまい。そして弱い方が屈するのだ。それがことわりじゃ」


 それでは、鷹主彦のひきいた民は再び同じ辛苦を味わわねばならぬのか。

 外から来た者に元いた地を追われ、やっと見つけた安寧を手放せというのか。

 多津野は喉元までこみ上げた思いをこらえた。たとえ勢いに任せて吐き出しても、この女に説き破られてしまう気がした。それに、女の言葉が間違っていると言い切ることも、多津野にはできなかった。


「我が身が可愛くてすることを、人は容易く正しいと思い込む」

 女は唾棄だきするように呟くと、暗闇の方へ視線を転じた。


 沈黙。そして、滝の音。

 ここはまだあのあおい水の岸辺か。話が途絶えてやっと多津野は水の気配に気が付いた。



 鷹森の郷を南東から北へ貫き流れる水。

 多津野はそれを当然にあるものと思っていた。日々暮らす中で常に側にあったが故に、忘れていた。水を失えば生きられないこと。水もまた、山から借りた恵みに過ぎないこと。

 所詮、多津野が見ていたのは鷹森の郷の中だけだった。

 支流に頼って生活する他の郷邑さとむらの人々のことを思ったことがあったろうか。夏を迎えるというのに水がなくなり戦慄する姿を想像できたろうか。彼らを鷹森をおびやかす厄介者とすら考えてはいなかったか。いくさになったら打ち負かすべき相手と簡単に断じてはいなかったか。

 鷹に導かれて安住の地を求めた人々も、外の人々も、根本は変わらない。誰も皆、各々が身を寄せ合い生きていける場所を求めている。彼らもまた、安心して暮らしていたいだけ。そう望むのを妨げることは、何人なんぴとにもできはしない。

 しかし多津野は、鷹森の人間である。鷹主彦の次子である。

 目を閉じれば多津野を可愛がってくれた郷の皆の顔が浮かぶ。昔話を聞かせてくれた爺様、婆様。一緒に川遊びをした子ら。森で狩を教えてくれた大人達。いつも堂々として、郷を守ることに勤めていた父。優しくいつでも多津野を案じてくれた兄。

 多津野がまず第一に優先するのは、彼らだ。

 彼らが笑って暮らす場所を壊したくない。

 そのために、ここに来たのだ。


「おれは、おれの郷を失いたくない。それだけなんだな」

 女に伝えるためというより、己に言い聞かせるようにひとごちる。

「誰だって、生まれ育った地を捨てるなんて、できればしたくないはずだ」


 水を失うことになる郷外の者達だって、住み慣れた土地を離れるのは辛かろう。

 新しい土地を得るのは多少なりと苦しいものだ。元々無人の土地ならば、開墾にかかる労苦は覚悟せねばならぬ。先に住んでいる者がいるなら、奪い取るために自らの命を危険に晒すことも覚悟せねばならぬ。しかしその苦難を進んで選ぶ者がいようか。もう既に堪え難い苦難に晒されている現状があるから、そういう決断を強いられているだけではないのか。

 では、その状況が変わるとあらかじめ解っていたら?

 一時的な苦しみで済むと解っていたら、元いた土地を捨てずに堪え忍んではくれないだろうか。勿論、鷹森からも可能な限り手を差し伸べる。水が必要ならばんでくれて構わないし、避難してきた者も受け入れる。

 ああ、そうか。

 父と兄はそう考えて郷に残ったのだ。


「あんたの言う通り、人は身勝手だ。だから自分が生き残る最善の策を考える。だがその策は、奪い合いじゃない。争い始める前に、人は助け合えないか探るものだ」


 鷹森を守るために、外の郷邑を助ける。まずはそれが第一手だと、きっと父はそう考えていたはずだ。

 郷の只中ただなかだけではない。郷の周りに何があるか、来し方の鷹森が如何にしてあったか。そこに心及こころおよぶ者が、郷の行く末を導くことができる。それが、郷をということなのだ。


 ——父上にも、兄上にも、おれは遠く及ばない。


 鷹主彦を継ぐことなど、やはり自分にはできそうにない。離れてなお、思い知らされる。しかしまた、父の強く大きな手の感触も多津野は覚えている。ひしと掴まれた肩に、託されたものがある。郷のために為すべきことが、己にもある。

 父と兄の尽力が奏功するかどうか。そのかなめは多津野だ。多津野が赤星を射落とせばこそ、外への説得が意味を持つ。多津野がしくじれば、全ては徒労に終わり、いくさを止めるすべはなくなる。


「おれが、誰も水を奪い合わずに済むようにする」

 大仰だとそしられても構わない。己の無力は承知の上だ。それでもできることがそれしかないのだから、仕方ない。

「どうやって?」

 いつの間にか、女は再び多津野を見ていた。

「水がれるのを止める」

原因もとを知っているのか?」


 問われて、多津野は夜空を仰いだ。

 天頂には赫々かくかくたる巨星。


「知っているのだな」

 多津野は弾かれたように女へ視線を戻す。

 それだけでこの女が確信したということは、つまり。

「あんたも、知っているのか」


 多津野は目をみはった。

 女がかすかに笑んだ気がした。


赤星あれを鎮める。そのために、妾はここに来た」

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