一、水の女(4)
赤い光。水を
薄目で捉えても判る、その禍々しさ。
——早く、射なければ。
意識が
多津野は
暗闇。
覚醒したはずの視界が暗い。
目を
寝ぼけて視界が悪いのではない。
もう夜だ。
「目覚めたか」
夜闇のせいか、寝起きで感覚が鈍っていたか、声がするまで気配に気が付けなかった。
しかし目を
月明かりのお陰で、何とか姿形は
女は膝を抱えるようにして多津野の横に座っている。上目遣いの
髪を結わない
「そなた、随分とこの山に好かれておるな」
多津野が
「水は
そうだった。久方ぶりに誰かに話しかけられたからか、気が緩んでいた。衣を着ているせいで今は人間らしく見えるが、多津野は先頃、この女に殺されかけたのだ。
「水は誰のものでもない。人一人に
夜気によく通る涼やかな声。しかしその語り口からは、如何なる感情も読み取れない。
「そなたは何者じゃ?」
己が何者か、など。多津野にとって、誰かにされたこともなければ、自らしてみたこともない問いだ。
「おれは
故に、多津野はさして深く考えることなく、あっさりとそう返した。郷で生まれてから、多津野は鷹主彦の子でなかったことがない。嘘偽りも隠すつもりもない。その他の答えを多津野は知らない。
だが、女の眼光は
どうやら女が求める答えとしては足りなかったらしい。
何をしているわけでもない。ただ見られているだけなのに、狩場でどんな大物の獣と対峙したときをも遥かに
身体が縛られたように動かず、喉もひりつく。たったの一睨みでこうも
多津野は何とか声を絞り出す。
「あんたは、
女からの
ただ、鋭かった眼光が少し和らいだ。
それが多津野の問いに対する答えなのかは判然としない。
代わりに女は懐に手を差し入れ、何かを取り出した。
「これはそなたのものか」
ほっそりとした白い手には一本の矢。見覚えのある灰青に黒の
多津野はこくりと頷く。
「大した腕じゃ。水が動かねば、この矢があの男の
女は地面に矢を置き、多津野に差し向けた。返す、という意味だろう。
「あのとき、男が死んだのを見ていたな」
もう先ほどまでの圧は感じない。多津野は矢を受け取り、声を出してみる。
「あんたが水に消えるところも見た」
「ならば、再び
「死んでるか、死にかけか、どっちか解らなかったから。とりあえず助けるしかないだろ」
「助ける? 妖だと思う相手をか」
女の問いには、
「関係ない。死にかけてる奴を助けるのに、相手がどういう奴かで区別したりしない」
人間であろうと、獣であろうと。
救える命なら、手を尽くす。救える見込みがなくても、
狩猟で命を
あんたは違うのか、と多津野は女に投げた視線で問う。
己が正しいと疑いもしない、無遠慮な若者の
女は眉を
何を思っているのか、全く読めぬ。
しかし確かに、心の
——知りたい。
この女が何を考えているのか。何故ここにいて、多津野と話しているのか。
「そなた、何故この山にいる?」
多津野の願望を見透かしたように問うてきたのは、やはり女の方からだった。
「郷を救うためだ」
迷いなく答えた若者に、女は眉根を寄せる。
「救う?」
「このままでは、郷の外の水が
「それで何故いけない?」
正義感に満ちた若者を女は冷たく
「何故、って」
「その水はそなたらが生んだものか」
多津野は女の問おうとするところが掴めない。
女はさらに問う。
「山から
「それは、そうだが」
「水があったのをそなたらが先に見つけただけ。己が生きるために
多津野は反論に窮する。
「水を独り占めする
それでは、鷹主彦の
外から来た者に元いた地を追われ、やっと見つけた安寧を手放せというのか。
多津野は喉元までこみ上げた思いを
「我が身が可愛くてすることを、人は容易く正しいと思い込む」
女は
沈黙。そして、滝の音。
ここはまだあの
鷹森の郷を南東から北へ貫き流れる水。
多津野はそれを当然にあるものと思っていた。日々暮らす中で常に側にあったが故に、忘れていた。水を失えば生きられないこと。水もまた、山から借りた恵みに過ぎないこと。
所詮、多津野が見ていたのは鷹森の郷の中だけだった。
支流に頼って生活する他の
鷹に導かれて安住の地を求めた人々も、外の人々も、根本は変わらない。誰も皆、各々が身を寄せ合い生きていける場所を求めている。彼らもまた、安心して暮らしていたいだけ。そう望むのを妨げることは、
しかし多津野は、鷹森の人間である。鷹主彦の次子である。
目を閉じれば多津野を可愛がってくれた郷の皆の顔が浮かぶ。昔話を聞かせてくれた爺様、婆様。一緒に川遊びをした子ら。森で狩を教えてくれた大人達。いつも堂々として、郷を守ることに勤めていた父。優しくいつでも多津野を案じてくれた兄。
多津野がまず第一に優先するのは、彼らだ。
彼らが笑って暮らす場所を壊したくない。
そのために、ここに来たのだ。
「おれは、おれの郷を失いたくない。それだけなんだな」
女に伝えるためというより、己に言い聞かせるように
「誰だって、生まれ育った地を捨てるなんて、できればしたくないはずだ」
水を失うことになる郷外の者達だって、住み慣れた土地を離れるのは辛かろう。
新しい土地を得るのは多少なりと苦しいものだ。元々無人の土地ならば、開墾にかかる労苦は覚悟せねばならぬ。先に住んでいる者がいるなら、奪い取るために自らの命を危険に晒すことも覚悟せねばならぬ。しかしその苦難を進んで選ぶ者がいようか。もう既に堪え難い苦難に晒されている現状があるから、そういう決断を強いられているだけではないのか。
では、その状況が変わると
一時的な苦しみで済むと解っていたら、元いた土地を捨てずに堪え忍んではくれないだろうか。勿論、鷹森からも可能な限り手を差し伸べる。水が必要ならば
ああ、そうか。
父と兄はそう考えて郷に残ったのだ。
「あんたの言う通り、人は身勝手だ。だから自分が生き残る最善の策を考える。だがその策は、奪い合いじゃない。争い始める前に、人は助け合えないか探るものだ」
鷹森を守るために、外の郷邑を助ける。まずはそれが第一手だと、きっと父はそう考えていたはずだ。
郷の
——父上にも、兄上にも、おれは遠く及ばない。
鷹主彦を継ぐことなど、やはり自分にはできそうにない。離れて
父と兄の尽力が奏功するかどうか。その
「おれが、誰も水を奪い合わずに済むようにする」
大仰だと
「どうやって?」
いつの間にか、女は再び多津野を見ていた。
「水が
「
問われて、多津野は夜空を仰いだ。
天頂には
「知っているのだな」
多津野は弾かれたように女へ視線を戻す。
それだけでこの女が確信したということは、つまり。
「あんたも、知っているのか」
多津野は目を
女が
「
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