一、水の女(5)

「鎮められるのか? あれを?」


 多津野たつのは驚きのあまり身を乗り出した。

 女はその勢いに気圧けおされてやや後退あとずさり、怪訝けげんそうにする。


「そなたこそ、あれをどうにかするすべを知っているのではないのか?」

「おれにできるのは、あの赤星あかぼし射落いおとすことだけだ」

「射落とす、だと?」

 女は信じられないというような目で多津野を見た。

「あれが何なのか解って言うておるのか?」

「知らぬ」

 即答する多津野に女は唖然とする。

「何か知っているなら、教えて欲しい」


 悪びれる様子もなくそう言ってのける若者を、女は判断しかねているようだった。考えなしかと思えば妙にさといところもあり、事情に通じているのかと思えばまるでうとい。捉え難いが、腹に一物ある感じもしない。知らぬふりをして惑わせているわけではなく、本人は至って素直に、知らぬから教えを請うているだけなのだ。

 女はしばしその邪気のない顔を確かめ、多津野が本当に無知なのだと悟ると、盛大な溜息でもって答えた。


「何も知らぬのに、何故なにゆえに赤星を射落とせるなどと考えた?」

「兄上が、そうおっしゃったからだ」

「兄?」

「おれの兄上には星見ほしみの才があるのだ。ある夜、星々が一斉に流れ落ちた。やがてあの赤星が現れた。それを見て兄上が、水がれると仰った」

 ぐっしょりと冷や汗に濡れていた兄の衣。あのとき、もしかしたら弥守みもりは水が涸れて困窮する人々の姿を見ていたのやもしれぬ。

「元凶は赤星だと。水の流れを元に戻すために、赤星を射落とせと兄上は仰せになった」

 女は顎に手を当て、難しい顔をしている。

「そなたに星見の力はないのかえ?」

「ない」

「ではそれが確かかどうか解らぬではないか。そなた、天へ弓を引いて星を射るなど本当にできると思うておるのか?」

 多津野はかぶりを振る。

「正直なところ、自信はない」

 吐露した言葉は頼りない。しかしその目には希望がさんと宿っている。

「だが、兄上がご覧になったのだから、必ずできる」

 北天の一つ星にも似た、強い眼差し。

「兄上の読みは決して外れない。だからきっと、おれでも赤星を射ることができるはずなんだ」


 多津野にとって弥守の言は、絶対的に真である。弥守を誰より側で見てきた多津野にしか、その感覚は解らない。鷹森の者ですら、多津野ほどに弥守を信じてはいまい。兄の事情を知らぬこの女なら尚のこと、多津野が何故そこまで兄を信じるのか理解できないだろう。


「他には?」

「え?」

「他には何か申しておったか? そなたの兄は」

 てっきり戯言ざれごとと一蹴されると思っていた。先を促されるとは意外だ。弥守の予言を知りたがるということは、少しは信用してくれたのだろうか。

「あ、ああ。けど、兄上でも何処でできるのかは解らぬそうだ。ただ、水源みなもとを目指せとおおせだった。水源へけば道は開かれると。それに——」


 助けてくれる者もいる、と。

 そうか。

 多津野は女を見た。


「おれはあんたと行くべきなんだな」


 雲切れから覗いた皓月こうげつが女の細面ほそおもてを蒼白く照らし出す。

 やはり、綺麗だ。


わらわが怖くはないのかえ?」

「怖いさ」

 その美しさの下に命をも奪える力を秘めている女だ。恐れが全くないと言えば嘘になる。

「けど、知りたい。あんたと共に行った先に何があるのか」


 目の前の女と出逢ってから、多津野は己が郷の外のことを如何いかに知らないか気付かされた。郷が危機に瀕しているときに、長の息子がこれでは一族の足手まといになる。長の命令の真意をめねば、郷のために取るべき行いを見誤ることにもなろう。

 父と兄の——鷹主彦たかぬしひこの助けとなることが多津野の本懐だ。

 彼らの深慮に沿うために、己はまず知らねばならぬ。考える頭が足りないなら、せめて知ることを諦めたくはない。


「川であんたを初めて見たときに決めたんだ。何を見ても恐れないと。だから、どんなに怖いものや辛いことがあったとしても、おれは目を背けない」


 女は多津野を確かめるように凝然じつと見つめた。

 どんな色も混じらない、曇り一つない瞳。まるで、水鏡みずかがみだ。見つめられた者は、己の姿をそこに見る。そして映った己自身の未熟さを思い知るのだ。何の感情も読み取れないその瞳に、醜い己の心も全て見透かされそうで、思わず目を逸らしたくなる。しかし見透かされたとて、何か困ることがあるだろうか。美しくもなければ、偉大でもない。そこに映る己自身が全てだ。そう認めてしまえば、おそれる必要はない。気の済むまで、見通すがいい。


「不思議な子」

 多津野と視線を合わせたまま、ぽつりと女がこぼす。

「人間のくせに、濁りがない」

 一瞬、女の目は伏せられて、睫毛にかげる瞳が物憂げに揺れた、気がした。多津野がまばたきする間に、既に瞳にかかる翳は消えていた。

 女は凛乎りんことして多津野を見据える。

「そなた、名は?」

「多津野」

「多津野」

 初めて女に名を呼ばれ、多津野は思わず居住いずまいを正す。

「そなた、あの赤星を射落とすと申したな?」

 多津野は深く頷く。

「神を殺す覚悟はあるか」

 女の問いに息をんだ。


 神、と言ったか。

 此度こたびの件に神が関わっているということか。

 否、もっと直接的な可能性がありはしないか。

 即ち、赤星それ自身が——神、なのでは。


「そなたにその気があるなら、道を共にしてやる。少しでも躊躇ためらうなら、諦めて郷に帰れ」

 多津野の思考を断ち切るように、女は言い放つ。

「進めば命の保証はないぞ」

 そう言われて諦めるという選択肢を選べるほど、多津野は物分かりのいい男ではない。

「もう、腹はくくった。今更引き返すつもりはない」

 迷いはない。弥守の言った通り、導き手にも出逢えた。予言は必ず成就する。させてみせる。元より命に区別をつけぬのが鷹森の人間だ。何者が相手であろうと、狙うからには全霊をもって仕留めに行く。

 それよりこの女の方はどうなのだろう。多津野は道連みちづれができて心強いが、彼女にとって多津野は不要な存在に思える。


「あんたこそ、おれが一緒でいいのか?」

 女は小さく息をつく。吐き出されたのは、同意か、諦念か。

「丁度、人間の従者が欲しいと思っていたところじゃ」

 従者、と言われるのは新鮮だ。長の息子が誰かの従者になるなど、郷ではあり得なかった。郷の人々は多津野に親しく接してくれてはいたが、物心ついた頃から、多津野へ向く視線はどこか一段低いところから見上げるものばかりだった。多津野自身が見上げられるのは、父と兄しかいなかった。

「あんたほどのひとに、人間の助けなど必要か?」

「妾にもできぬことはある。それに、人間の相手は人間に頼むのが筋というもの」

「人間?」


 神ではない、のか。


「ああ。神の威をる人間。あの赤星をんだ奴らよ」

 多津野は耳を疑った。

 赤星を喚んだ?

 赤星が現れたのが、人間の仕業だと。そう言ったのか。

「奴らがこの山にいるのは解っておる。しかし、何処いずこに隠れているのかは解らぬ。探索を試みたが、一向に見つけられなんだ。人ならざる者の目をあざむく術をも心得ているらしい」


 水の中で首を締められたとき、女は多津野を何者かと勘違いしているようだった。あのとき「奴ら」と口にしたのは、その人間達を指してのことか。そうだとすれば、見つかったら息の根を止めねばならぬほど恐ろしい相手、なのか。

 多津野は臓腑が熱くなるのを感じた。

 鷹森の者にとっては聖域であるこの山中に、賊のみならず得体の知れない他所者よそものがいる。しかもその者達が、鷹森を脅かす元凶を招いたという。そう聞かされて、義憤に駆られずにはいられない。


「何のために、そんなこと」

「解らぬ」

 女は苦々しげに短く答える。

 いつもは清廉な相貌は嫌悪と憤懣ふんまんに歪められていた。多津野の前でこの女がこうも明瞭はっきりと感情を露わにするのは初めてだ。その怒りの理由は多津野の怒りとは別のところにあるのだろう。けれどその矛先ほこさきは、確かに同じ方を向いている。


「赤星を射ようとすれば、必ず奴らが妨げとなる。奴らも既に我らの動きを察しているやもしれぬ」

「向こうから仕掛けてくることもあり得るか」

 多津野の問いに女は頷き、話を続ける。

「しかし妾には奴らが見えぬ。故に、奴らから身を守るには、人の目がる」

 女は立ち上がり、多津野の目前へ歩み出た。そして真っ直ぐ、見下ろす。

「妾の目となれ」

 多津野は生まれて初めて、父と兄以外の者を仰ぎ見た。

「妾を守れ」


 曇りのない黒い瞳。その純黒に、射抜かれる。

 女の目はもはや、多津野を映す水鏡ではない。今はただ、女自身の揺るがぬ心をのみ、たたえている。


「さすればそなたを赤星へ導いてやる」


 大きくて優しい父とは違う強さ。姿は華奢ではかなげなのに、絶対に他の何にもけがれないと信じさせる強さ。

 ——このひとのために膝を折るのは惜しくない。


「なら、あんたの名を教えてくれ。主人の名も知らぬ従者じゃ格好がつかない」

 多津野の求めに女はきょかれたようだった。

 どう答えようかと泳がせた視線は、やがて夜陰やいんへ投げられる。

 そういえば昔、名は魂と現世うつしよとの結目むすびめだと兄が言っていたのを思い出す。名を知られるのは己の魂を相手に晒すのと同じことであるから、民の命をあずかる者は容易たやすく名を明かしてはならぬのだと。故に長は鷹主彦と呼ばれ、本当の名を隠すのだと。

 この女も、鷹主彦と似た運命を背負っているのだろうか。

 闇のとばりの向こうには、あおの滝壺とそこから溢れる一条の渓流があるはずだ。多津野の目には見えないけれど、この女の澄み切った目には見えるのかもしれない。

 女はただ、見えぬ流れを眺めている。

 多津野もただ、女の整った横顔を眺めた。



 ——どうどう

 ——そうそう



 水が走る音だけがこだまする。

「ミツハ」

 清流の音に女の声が重なった。

「呼びたければそう呼ぶがいい」

「——ミツハ」

 女が与えてくれた音を大事に口に乗せてみる。

 綺麗な音だ。

「何があっても、あんたを守ろう」

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