一、水の女(6)

 鳥のさえずりに目が覚めた。

 朝靄あさもやが晴れるにつれ、昨夜の記憶も蘇ってくる。

 ——ミツハ。

 辺りを見渡しても、あの女の姿が見当たらない。

 あれは、夢だったのか。

 確かに夢でも仕方がないようなことばかり起きた気がする。

 夢でなければ、旅の疲れが見せた幻か。

 それにしては記憶が鮮明すぎる。

 多津野は立ち上がる。足元がふらついた。

 なまった脚を叱咤して、滝の方へ歩き出す。

 空気は薄紅色を帯びている。

 日の昇るにつれ、紅は薄まり明るさだけが満ちていく。

 苔生こけむした岩の緑が冴え返る。

 立木の隙間から光が射せば、落水が飛沫しぶきと共に白く浮立つ。

 滝の前に立ち尽くし、多津野は瀑音を受け止めた。

 全身に清浄な冷気を浴びて、手足の指の先まで覚醒していく。

 ふと、磊々らいらいとした岩場のふちに目が留まる。

 見覚えのある白藍の薄衣うすぎぬが脱ぎ捨ててあった。

 多津野は淵を覗き込む。

「起きたのかえ」

 水の中に女はいた。

 初めて会ったとき、そして再び会ったときと同じように。

 確かな既視感に、これが現実であると実感する。

「夢ではなかったんだな」

「夢ならよかったか?」

「いや、うつつでよかった」

 多津野はなつこい笑みを浮かべる。

 女はそうか、とだけ呟いて多津野へ腕を伸ばす。

 多津野はミツハの腕を取り、水上へ抱き上げた。

「やっぱりあんた、冷たいな」

「そなたらのように血潮の巡る生き物ではない故」

 多津野は薄衣を拾い上げ、水から上がったミツハの身体に掛けてやる。滑らかで真っ白な肌は女自身の言う通り血の気がない。当人は平然としているが、多津野からするとやはり少し寒そうだった。

 襟を合わせ、帯を締め、ミツハは着々と身支度を整えていく。

 本当に共に行くのだ。一人で歩んでいたときにはなかった高揚感。まとにぐっと近付いた気分だ。このひととなら、やり遂げられる気がする。

 ミツハにならって、多津野もまた出立の支度をしようと荷を取りに行く。


 ——おう


 聞き慣れたき声がした。

 多津野は空を仰ぐ。


 ——おう

 

 多津野は荷の中から笛を取り出し、吹口ふきくちを唇に当てた。

 細く鋭く息を入れる。

 甲高い音が岩壁に樹々に跳ね返り、天まで駆け上がる。

 それに呼応するように、とりが啼く。

 木立に縁取られた蒼穹に黒い影が一つ。両翼を拡げ旋回している。鷹だ。

 鷹影は多津野目がけて急降下した。多津野はその速度を見計って左腕を差し出した。脚が伸びて鉤爪が優しく食い込む。

 優美な灰青の羽に覆われた立派な体躯。賢く勇猛な目つき。

 馴染みの顔に会えて、多津野の声は喜色を帯びる。

佐久さくじゃないか。どうした?」

 多津野の腕に留まったのは、自身の愛鷹・佐久だった。抜けた羽を多津野の矢羽根にするほどの、大切な相棒だ。鷹森に置いてきたはずだが、何故ここに飛んで来たのか。まさか、郷で何かあったか。

 きい、と一啼ひとなきする佐久の脚に何か結ばれている。

 長い紐。その途中で、様々な結目むすびめの玉が一定の間隔をあけて並んでいる。この結び方に言葉の意味が託されていることを多津野は知っている。狩のときなどに鷹主彦の一族が使う、距離の離れた相手へ意思伝達を図る手段。一種の言語のようなものだ。

 多津野は恐る恐る紐を手に取り、指先で慎重に触りながら結目を検分する。震える指を何度も往復させて意味を確かめた頃には、多津野の顔はすっかり蒼ざめていた。

 異変を察したミツハが多津野をうかがっている。

「多津野?」

 ミツハの呼びかけに多津野はやっとの思いで声を絞り出す。

「兄上が——人質になった」

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