二、鷹の主

二、鷹の主(1)

 山々は常と変わらない。

 今日もそこにあり、明日もきっとそこにある。

 悠然とたたずむその姿を見ていると、おのずと心が安らぐ。

 のこの刃の如く細やかに折れる尾根も、なだらかにいただきいたる稜線も、日がな一日眺めても見飽きることがない。

 季節が移ろうときはまた格別だ。

 山野が纏う色を変える時間は短い。その一時ひとときを見過ごさぬ者が鷹森たかもりでは褒められる。

 日に日に、山の青が濃くなっていく。夏が迫っている。

 命の盛りの季節。いつもならその訪れを喜ぶところだが、鷹主彦たかぬしひこと家臣らの顔から緊張が解ける気配はない。父に付き従う弥守みもりの顔もまた、強張っていた。


 多津野たつのが鷹森をって三日が経とうとしている。

 そろそろ、道標みちしるべには出逢えた頃だろうか。

 弟を想い、弥守は東を見遣みやる。

 神のむ山。

 そこから流れ来たる水。

 山の奥から止めなく流れ、この地を潤し、更に北へと注いでいる。

 鷹森を流れる川はこの一筋のみだ。この川が鷹森の人々の生命を支えている。弥守の星見では、この川はれはしない。それは幸いでもあるが、同時に災いでもある。鷹森の人々がこの川を失うことがあるとすれば、それは飢えや渇きのせいではない。人間同士の争いのためにそうなるのだ。水がなければ誰も生きていくことはできぬ。水を失った者達は必ず別の地へ水を求める。涸れずに残るこの川を目指してくるのは必定ひつじょうだ。

 恐らく、既に水は涸れ始めている。

 鷹森とは別の水源の川、池、沼。

 そこに住む人々の絶望した表情。

 あの夜、星々に見せられた光景が脳裏に蘇る。

 山向こうの他の郷ではどこまで事態が進んでいるだろう。

 一刻も早く、水が涸れるのを止めねばならぬ。鷹森を救うために。


 ——頼むぞ、多津野。


 祈り、たくすことしかできない己を歯痒はがゆく思う。

 弥守は生まれつきあまり丈夫でない。この身では、険しい山道を登ることも、弓を引くこともできない。

 精々が他人より物事がよく見通せるというだけ。それが己の運命であると、随分前に悟ったはずだ。それ以上に何かしたいなどと、できもしないことを望んでも仕方がない。それなのに、何故だろう。胸の奥がつかえた感じがする。

「弥守?」

 父に呼ばれ、顔を上げる。

「どうかしたか」

「いえ、大丈夫です」

 今は己の役目を全うせねばならない。

 郷の人々に危機をしらせ、大事に備える。そのために弥守は久方ぶりに館の外へ出たのだ。多津野を送り出した後、父と館の家臣達と協議を重ね、手分けをして郷中の各むらに事情を伝えて回ることとなった。誰よりもこの危機を知っているのは弥守だ。可能な限り自分の言葉で、皆に伝えたい。


 父の背を追い、目的の邑へ向かう。

 郷のほぼ中央を流れる川を渡った先の、西側の邑だ。

 大きないちいの木を目指し、川岸の坂を上っていくと、その先に茅葺かやぶきの屋根が見えた。坂を上るにつれ、屋根が一つ二つと増えていき、畑を囲むように家々が寄り合う景色が広がった。長閑のどかな邑だ。よくならされた土地で畑仕事をする大人子供の姿がある。そのうちの一人が弥守達に気付き、声を上げた。

 邑人の声を受けて、一番年嵩としかさらしいおうなが腰を上げる。邑人が支えようとするのを片手で制し、独りで畑の端まで鷹主彦一行を出迎えてくれた。結い上げた髪はすっかり白く、背中も曲がってはいるが、足の運びはしっかりしていた。恐らく、彼女がこの邑のおさなのだろう。

「息災か、堅香子かたかご

「この通り、身体はまだよく動きます。邑の若い者がよくしてくれますから、暮らしも不自由なく。彦の方こそ、少し老けたご様子」

「そなたが我らの元を去って十五年は経ったのだ。わしも流石に歳を取るさ」

 和やかに談笑する二人を、弥守は不思議そうに父のせな越しに見ていた。その視線に気付いたか、堅香子と呼ばれた嫗が弥守の方を見遣り、垂れたまぶたに隠れていた瞳を大きく見開いた。

佐々良ささら様?」

 嫗が口にしたのは、母の名だった。

「母をご存知ですか」

 弥守は思わず一歩前へ歩み出る。

 線は細いが背は女子おなごよりは大きい。弥守の姿を上下に眺めて、嫗は嘆息した。

「ああ、うむ、そうか。よう見れば男子おのこじゃ。するとそちらは——」

 嫗の視線に鷹主彦は頷いた。

「儂の息子。弥守じゃ」

「あのときの御子おこですか。大きゅうなられました」

 意をめずに立ち尽くしている弥守の手を両手で握り、嫗は目を細めて説いた。

「貴方様にお会いするのは初めてではございません」

「どういうことです?」

「貴方がお生まれになったとき、貴方様を取り上げたのは他ならぬこの私ですから」

 驚愕のあまり、弥守は息をむ。

「かつて私は鷹主彦のやかたに勤めておりました。そこで貴方の母君——佐々良様のお世話をさせていただいたのです。佐々良様が鷹森へいらしたときから、貴方様の乳離れのときまではお仕えしていたでしょうか。お懐かしい。本当に、ご立派になられて」

 丸い背中をなるべく起こして弥守を見つめる嫗の目の中に、慈しみの情が宿っている。そのような眼差しを他人から向けられたのはいつぶりだろう。

「すみません。そのような方がいたとは存じ上げず」

「よろしいのですよ。まだお小さい頃のことですし、私もその時分は既に老いておりましたから、大した働きはしておりませんもの」

「謙遜するな。そなたほどの働き者はおらぬ。我が家は堅香子がいなくては回らぬと父上からもよく聞かされていたぞ」

 鷹主彦が笑いながら口を挟む。

「父上の、父上から…」

 弥守が思案していると、堅香子は目を細めた。

「弥守様の祖父、先の鷹主彦の頃から館に仕えさせていただきました。幼き頃には、その前の鷹主彦をお見かけしたこともございます」

 つまり、弥守の曽祖父。この郷を築き、初めて鷹主彦を名乗った男。その人を、この嫗は見たことがあるのか。

 父よりもずっと長く生きている人。そのような人が存在するという事実に、弥守は驚く。館の中で過ごすだけでは知り得なかったことだ。

「堅香子はこの地が鷹森と呼ばれる前から生きている。儂も、そなたの祖父も、この者には逆らえなんだ。堅香子こそ、郷で一番の強者つわものやもしれぬな」

 冗談めかして父が加えた一言は余計ではなかったろうか。そう案じて弥守が堅香子を見てみると、柔和な微笑みの奥の目が笑っていない。

「ところで、彦。斯様かようなところまでいらしたのは、老耄おいぼれの話をするためで?」

 堅香子に下から顔を覗き込まれ、鷹主彦は慌ててせき払いをした。

 昔馴染みと言葉を交わしたせいなのか、いつも威厳ある父が若子わかごのようにも見える。館ではうかがえない父の姿が、弥守にとっては少し嬉しい。

「実は、皆に伝えたいことがあってな」

「伝えたいこと——?」

 曖昧な表現に、嫗は眉をひそめた。しかししぶかしんでも鷹主彦は黙って頷くだけ。その様子に事の重大さを読み取ったか、堅香子は鷹主彦に従った。

「よろしゅうございます。お伺いいたしましょう」

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