一、水の女(2)

 山のものにみだりに触れてはならぬ。

 鷹森の人間ならば誰もがそう、心得ている。

 山は生きている。

 人間が住処すみかを得るより遥か昔から、そこで生きている。

 遠目からは、動かず、老いず、形も変わらぬように見える。

 しかしその内実は全く異なる。ながい時間の中で絶えず変化を繰り返し、山は今の姿に至ったのだ。


 種を落とし、芽吹き、育つ草木。草木の実りに育まれる獣達。雨雪がみて流れ出す水。山中を這い渡る水が潤す土から新たに生まれる命。

 命が命を呼ぶ循環。それが山体の彼方此方あちこちで無数に繰り返される。どれか一つでも欠けてしまえば、今の山の姿はない。循環が絶たれたとき。そのときはきっと、山が死ぬときだ。

 物言わずとも、霊を宿している。

 生命豊かな山の姿を目の当たりにした鷹森の人々は、自ずとそう考えた。

 外から眺めるだけでは、ただ美しく端坐しているだけのように見えても、内には計り知れない恵みを秘めている。それは単なる偶然の産物ではなく、山自身の意思により保たれているのだ、と。


 先住者の財産を略奪することが恥ずべき行為であることは、他所者よそものに元々の住処を追われた鷹森の人々なら痛いほどよく解っている。

 しかし初めて山麓の未開の地にやってきた彼らには、山に頼る他に生きる術は残されていなかった。そこで彼らは山の霊に許しを請うた。山に立ち入り木をること、実りを摘み取ること、生き物を狩ること。ただし、手を付ける山は一つのみとすること。


 鷹森は四方を山々に囲まれている。

 西には連なる八つの峰。北には一際大きく、なだらかな稜線を持ちながら、煙を上げ、ときに灰を降らす山。この山の向こうから郷の人々は鷹森の地へやってきた。東から南にかけては全容の窺い知れぬほど険しい山塊。郷を流れる川の源は、この東の山の中にある。

 人々は西の峰の一つを糧を得る場と定め、立ち入るのも最小限に留めた。

 そうして山の恵みを借りながら、田畑を耕し、自分たちの食い扶持を繋いでいった。大きな災厄に見舞われることもなく、生活を営むことができるようになると、山の霊が彼らがここへ棲まうのを認めてくれたものと考えた。やがて山の霊は『裂地さくちの神』として鷹森の人々に崇められるようになり、特に東の山塊の入口、鷹森を見守るようにそびえる山におわすとされた。


 今、多津野がいるのはその山中だ。

 多津野もまた、郷と山のおきてを守って生きてきた。

 鷹主彦の息子という立場から、誰よりも山を敬い生きてきた。

 たった十五年で培われた人生観。あまりに純粋でもろいそれを、先程の光景は容易たやすく揺るがしてしまう。

 郷の人間が立ち入りを禁じている山の中に他所者がいたということの衝撃。

 他所者の命を躊躇なく奪った正体不明の女の存在。

 あの水柱みずばしらはあの女自身が起こしたものだったのだろうか。

 それとも水の方が女を守ろうとして起こしたものか。

 いずれにせよ、あれは賊の男が女に不用意に触れようとしたから起きたに違いない。

 山のものに触れてはならぬという掟に従ってきた多津野からすれば、賊の自業自得だという思いもある。ただ、弟分を亡くした男の方には、ほんの少し同情してしまった。多津野にも兄弟がいる。幼くして母を亡くした多津野は、兄と二人、互いを支え合って生きてきた。多津野にとって一番の恐怖は、兄を失うことだ。もっとも、弥守みもりはあのような分別に欠ける行動は絶対にしないだろうが。


 神の座す山。人の手が入らないが故に、妖者にとっても恰好のすみかとなるというが、あの女はもしやそのたぐいの存在か。


 ——綺麗なひとだった。


 何者かも解らない。危険な存在かもしれない。

 普通の人間であればそういう不安の方が先に立つだろう。

 しかし多津野は、勿論不安を覚えもしたけれど、そんなもやみたいな考えに囚われるほど、思慮深くはない。

 今までに見たことのない。何と形容したら良いかも思いつかない。そういう存在に出逢った感動の方が優ってしまった。

 山の中には、多津野の見たことのないものが、きっとまだある。

 目の前で起きている限り、いくら否定したくてもそれが現実なのだ。己の理解の範疇を超えていたからといって、目を背けるのは嫌だった。

 何を目にしても恐れはすまい。

 多津野はそう心に決め、獣道を踏み締めた。

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