一、水の女

一、水の女(1)

 鷹主彦たかぬしひこの郷の際にそびえる山々には数多あまた妖者あやかしものが棲まうという。

 山の中は静かではあるが、全くの無音ではない。大きな音はしないが、常に騒々ざわざわと音が絶えない。その正体は、葉擦はずれや鳥のさえずり、獣たちの跫音あしおとに過ぎないのだが、心にむらのある者は、山の深くへ行くほどに、そこにあやかしの声が混じっているのではないかという疑念に囚われてしまう。

 果たして多津野たつのはどうかというに、この若者には未だその心配はなさそうである。それは恐らく、心に斑ができるほどの経験を彼がしていないが故のことであろうし、また、彼がそれほど深く物事を考える性質たちの人間でないが故のことであった。


 もう二日、歩いた。

 初めての旅だからと食料はある程度持たされていたのと、水の近くを歩いているお陰で、今のところ飢えに苦しむことはない。

 水を遡って行け、というのは兄の命である。

 星見の力を持つ兄の弥守みもりが言うには、郷を流れる川が多津野を導いてくれるらしい。水源を目指して遡って行けば、あの星を射落すのに適した場所へ着くのだと。


 夜空に突如として現れた赤星。

 昼間でさえも天上にある。見るからに禍々しいその色は、血や炎を思い起こさせる。近づいたら熱そうだ。射落とせるところまで上って行ったら、あまりの熱にこちらが焼き殺されてしまうかもしれない。そう思わせるほどに恐ろしい輝きを放っている。

 やはりあれを射るには、空に近いところに行くしかないのだろう。水を遡れと言うのも、高みを目指せという意味だとも考えられる。

 川の水は山から来たる。蒼茫たる山の奥深くに源があって、そこから清水が流れ出でるのだと、多津野は兄に教えられた。


 多津野が生まれてから一度も離れたことのなかった鷹主彦の郷は、水に恵まれていた。多津野が辿っている川は水量に富み、濁ったこともない。その流れの途中に位置する郷は、峻厳な山々のあわいにあるものの、丁度そこだけは平らな地形であるので、麦や稲を育てることもできた。また、沢では魚を獲ることもでき、山に入れば獣を狩ることもできた。人が住むのにこの上ないその土地は、何代か前の父祖の時代に発見されたらしい。


 元々、郷を流れる川の更に下流の方、山をいくつか越えて下った地に、多津野の先祖は暮らしていたという。しかし、農耕と狩猟によりかてを得て静かに暮らしていたところへ、領地を拡大しようとした他所よその郷の者達が攻め込んできた。そのいくさで生き残った民が逃げ延びた末に、山に囲まれた未開の地を見つけたのだ。そのとき彼らをこの地へ導いたのが、鷹であった。狩猟のともとして鷹を飼い馴らしていた彼らにとって、鷹は活計たつきであった。彼らと長らく生きてきた鷹の方も、今更彼らと別れることができず、己が新たに生きる場所を求めていたのやもしれぬ。


 それ故に、新しい郷の長はこの地を見つけた鷹の主人として『鷹主彦たかぬしひこ』と名乗った。鷹主彦は、代々の長に受け継がれる称号である。多津野の父にも本来は千賀多ちかたという名があったが、長としての地位を継いだときから自他共に鷹主彦と称している。

 次は、弥守か多津野のいずれかが鷹主彦になる筈である。多津野は兄を差し置いて自分が郷を治めるなど考えられないのだが、兄の身体の具合を思うと自分が代わった方が良いような気もする。しかし身体の弱さを抜きにすれば、長として相応しいのが弥守であることは疑いようがない。きっと家臣らも満場一致でそう言うだろう。多津野は身体の丈夫さだけが取り柄のようなもので、弥守のように、皆の暮らしのために気を回したり、頭を使う能がない。兄のことを尊敬しているからこそ、多津野自ら長になりたいという願望は全くなかった。


 鷹の恩恵を受けて生き延びてきた経緯から、今でも鷹主彦の郷では鷹を珍重している。そのためにこの地は『鷹森たかもり』と呼ばれている。



 多津野は鷹森の東へと川を遡上していた。まだ外山とやまの中を上っているところで、これから深山みやまへと入っていかねば、水源へは辿り着かない。

 黙々と上流を目指しているところで、多津野の耳は山中においては珍しい音を捉えた。人の声だ。川の流れがある崖下を眺めると、人影がある。


「折角人里へ下りたのに、もぬけの殻じゃったな」

「しかしお陰で苦労せずに手に入ったものもあろう」

「いやあ、泣き喚く奴らから物を奪い取ることに面白みがあるのじゃねぇか」

「解らなくもないがね。俺も今回は物足りない気分さ」

「そうじゃろうとも」


 穏便でない会話をしている。鷹森にはあまり現れないが、人里に侵入して狼藉を働き、食糧や玉を強奪したり、娘たちを攫っていく輩があると言う。彼らは普段、どこの郷にも属さず、山の中に潜んでいるのだとか。それで山に飽いたら自分たちの飢えを満たそうと下山してくる。いつ、どこに現れるかは彼らの気まぐれで決まるので、十分な武力を持たない郷やむらは荒らされ放題になり甚大な被害を受ける。

 川岸の岩に座って酒をあおっている二人の男は恐らくそういった類の輩だろう。見つかったら危険だ。何故この山にいるのだという怒りを覚えつつ、多津野は木立の中に紛れるよう身を低くした。

 音を立てずに男たちの側から離れようとしたところで、赤ら顔の男が何かに気づいたような声を上げた。多津野は思わず身を固くしてうずくまる。


「どうした?」

「おい、兄者。あそこを見てくりゃれ」

 目つきの鋭い方の男は首を伸ばし、もう一方が指し示した方を見る。そしてすぐに溜息をついた。

「女か。全くお前は堪え性のない奴だな」

「へへ。だってヨォ、兄者だっておいらみてぇな醜男ばっか見てたんじゃつまらんじゃろ?」

「そりゃあそうだが」


 自分が見つかったわけではないとわかると、多津野は木立の隙間からこっそり男たちの方を垣間見た。

 兄貴分は首をひねっていぶかしんでいる様子だ。


「しかしあれは随分と……」

「上玉じゃろ?」


 狭い視界から二人の視線の先を多津野も追う。

 川の更に上流。蛇行する流れのほとりに、誰かいた。

 女だ。

 無垢な柔肌やわはだを露わにして水浴びをしている。

 真っ直ぐ艶やかな黒髪を掻き揚げると、かおが見えた。

 ――綺麗だ。

 異性を褒める美辞麗句をまだよく知らない多津野は、単純にそう思った。


「人里離れてあちらさんからおいでなすったんじゃから、お相手してもらわにゃならんなぁ」

 赤ら顔の男は下卑た笑いを立てながら、女の方へ近づいていく。

「おい、待て!」


 もう一人が慌てて制止の声をかけたがもう遅い。既に弟分は女と数十歩の距離しかない。

 女の身を案じ、多津野は矢をつがえて木陰から男目がけて引き絞る。


「よお、嬢ちゃん。おいらと愉しまねぇかい」


 にたにたと笑いながら男は尚も女に近づく。

 恐怖の故だろうか、女は無表情のまま微動だにしない。

 男は川に足を浸し、ざぶざぶと大きな水音を立てながら女の側へ歩み寄る。

 ついに男の手が女の肩に伸びた。

 まずい、と直感した多津野は思わず矢にかけていた指を離していた。

 ひよう、と矢が放たれたのと、多津野があつ、と声を上げたのはほぼ同時であった。

 またそれと同じ瞬間に、川から水柱が立って男を呑み込んだ。

 一瞬でき上がった水は派手な飛沫しぶきと瀑音を立てて形を崩し、元の流れに戻っていく。

 多津野は言葉を失った。何が起きたのか。

 静謐を取り戻した川と水面を流れ行く男の身体。そして、傷一つなく、涼しい顔で、川の直中ただなかたたずむ女が一人。

 まさか、あの女の仕業なのか?

 多津野は女から目を離せない。


「貴様! 俺の弟に何をした!」


 弟分を止めることのできなかった男は激昂し、女にやいばを向けて挑みかかる。

 すると今度は、女を包み込むように水が螺旋を描いて巻き上がった。

 女をすっぽりと覆い隠してしまったかと思うと、水は再び形を崩した。

 川は従前と同じに流れている。女は消えた。先ほどの男のように動かぬ身体が残されたわけではない。跡形もなく消えた。


「やはり化け物だったか……」

 残された男は悔しそうに呟くと、川面に浮かぶ弟分の身体を救いに行く。川岸に引き揚げると、蒼白い顔に縋りついて涕泣し始めた。

 賊とはいえ気の毒に思いながら、多津野はそっとその場から退散した。

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