水走考(みずはこう)

毛野智人

 いつもの夜だった。

 星見台に兄と二人で陣取り、楽を奏でる。

 気侭きままに笛を吹けば、兄が弦を爪弾く。

 決して上手いとは言えない笛の音にも調子を合わせてくれるところに、兄の優しい性格がよく表れていると多津野たつのは常々思っていた。兄の弥守みもりは人の気持ちのよく解る人だった。人の気持ちだけではない。鳥の声も、獣の声も、風の声も、森の声も、あらゆるものの心が解っているのではないかと思われるほど、物事を何でも見通せる聡明な人物だった。

 ふと、自分の下手な笛の音しか聞こえなくなって弦の伴奏が欠けたことに気付く。

 多津野は兄をうかがった。

 兄は夜空を仰ぎ見ている。

 何でも見通す澄んだ目を丸くして、これから起こることを見逃すまいとしている。


「兄上? どうかなさいましたか?」

 不審に思った多津野が訊くと、弥守はゆっくりと腕を上げ、天を指さした。

「見よ。星がつ」

「え?」


 言われるがまま視線を天上へ向ければ、奇妙な光景が広がった。

 闇夜を照らす星達が一斉に流れ始めた。天から地の方向へ幾千条も落ちていく。こんな空は見たことがない。まるで天が騒いでいるようだ。何が起こっているのだ。

 星が落ち終えたかと見えた頃、天頂に一際輝く赤い星が現れた。その赤はひどく禍々しい。血が沸き立ったかのような色だった。


「嗚呼、嗚呼」

「兄上?」

「父上の元へ行こう。早くお報せしなくては」

 弥守は額にびっしょりと冷たい汗をかいていた。身体も微かに震えている。あの星を見て何かを感じ取ったのだろう。星を見て予言をするのは兄の優れた能力の一つだ。今回も何か重大なことを読み取ったに違いない。多津野は兄の脇に肩を差し入れ、父のいる館の中へ連れて行った。


 多津野と弥守の父親はこの地を治める長であり、鷹主彦たかぬしひこという。森と水に恵まれたこの地を代々守ってきた。ここ数十年は戦もなく、郷の内には長閑のどかな日々が流れ、多津野は兄の弥守と共に暇があれば楽奏に興じて過ごしてきた。温々ぬくぬくと暢気に御曹司としての生活を享受していたのだ。それ故に、今、多津野は言い知れぬ不安に襲われている。これまでも兄の予言により、天候の不順や人里への獣の出現などの危機に対処したことはある。だが、今回は、この兄の震えは、そのような次元の問題ではないように多津野には思われた。


「父上、父上は何処いずこに」

 母屋に着くなり、家臣に父の居所を問う。

「寝所にてお休みでございます」

「すまないが起こしてきてもらえるか。兄上が星見のことで急ぎ伝えたいことがあるのだ」

「かしこまりました」

 家臣は急いで奥へと消えた。

 弥守は身体に力が入らないのか、多津野が支える分がどんどん重くなっていく。

「兄上。大丈夫ですか?」

「ああ。父上が来るまで、広間で待とう」


 兄の身体を支え直し、多津野は母屋の中の広間へ移った。今にも崩れ落ちそうな兄の上体を支えて床に座らせる。自分の袖で兄の額の汗を拭う。苦しそうな呼吸に多津野自身の胸も痛む。そうこうしていると、父が広間に現れた。


「息子達よ。急ぎの報せとは何事だ」

「父上。兄上が星見のことでお伝えしたいことがおありなのです」

「星見だと? その様子を見るに、凶兆か」

 途切れ途切れの息を抑えて、弥守はうなずく。

「空をご覧下さい。強大な赤星あかぼしが現れました」

 鷹主彦は眼を光らせて速やかに立ち上がり、戸を開け放って庭に出た。

 赤々と光る一つ星が目に入った瞬間、屈強な身体が強ばった。

「あれは――何と、禍々しい」

 多津野も改めて庭から赤い光を放つ巨星を見上げた。あまりの恐ろしさに全身が緊張してしまう。

「して、如何なる災厄が起こるというのだ?」

 鷹主彦が振り返り弥守に問う。

「水が、れましょう」

「水が?」

 多津野も予想だにせぬ言葉に兄を見る。

 何せこの郷は豊かな水で知れた土地である。山から来たる清らかな水によって、人々の生活は成り立っている。それがなくなるというのか? どうなってしまうのか、全く想像ができなかった。

「ご安心ください。我が郷の水は難事をまぬがれましょう。ただ、他の郷では水が涸れるところもあるかと」

 鷹主彦は低く唸った。

「すると、我が地の水を求めて攻め入ってくるやからもあるやもしれぬな」

「……ええ」

 弥守が苦しげに肯く。二人の冷静なやり取りに、多津野は一人慌てた。

「攻めて来るって、いくさになるというのですか?」

「生きるために、そのような手を取る者達もいるだろうな」

「そんな……」

「しかし、それはもう何も打つ手がなくなってからの話だ。お前の兄が何故こうして急ぎ星見を告げに来てくれたと思っておる」

 父の言葉に多津野はきょとんとする。

「戦にならぬよう、手を尽くすのが郷をあずかわしの役目じゃ。先に水が涸れると解っておれば、他の郷の者達を助けることもできよう」

 鷹主彦の大きな手が多津野の頭にぽんと触れた。

「しかし、事の根を断つことは儂にはできぬ。それについては、何か解るか?」

「あの赤星を射落とすこと。それが叶えば、涸れた地も再び潤います」

 弥守は真っ直ぐに言い切った。兄にははっきりとえているのだ。これから起きることの全てが。しかし、どうやって? どうやって天上の星を射ることなどできようか。如何なる弓の名手でさえ、天に向かって弓を引いても矢は届きっこない。龍に乗りでもしなければ不可能だ。

「それを成せる者がいるか?」

 鷹主彦が尋ねると、弥守は迷いなく肯く。

「ここに」

 弥守の指は傍らの弟に向けられる。多津野はへ、と素っ頓狂な声をあげた。

「おれ?」

 自分自身を指差して、多津野は弥守に確認する。

 弥守は微笑んで肯く。

「そなたが適任だと、星は言っているよ」

 星はそのようなことまで語るものなのか。だがいくら星が言ったとて、己にそのような難業が成し遂げられるとは、多津野には到底思えない。

「確かに弓には多少の心得がありますが…しかし、どうすればいいのか見当もつきませぬ」

 不安がる多津野を弥守はあやすように言い含める。

「その方法はそなたが考えるのではない。全ては星の導くがまま。そなたは流れに身を任せるだけでよい」

「流れに……?」

「そうだ。私にはそなたがあの赤星を射る姿が視えた」

「おれが……?」

 多津野は瞠目する。信じられない。

 暗い表情の弟に弥守は不敵に笑む。

「私の読みを疑うのか?」

「そんな! 兄上の星見は外れたことがありませぬ」

「そう。私の星見は外れない。何故だか解るか?」

 兄は目を細めて多津野に尋ねた。多津野は黙って首を横に振る。

「全ては定められているからさ。過ぎ去りし日から今、そして未だ来ぬ日に何が起きるか。星達は全てを知っていて、それを私に教えてくれる。私は自分が視たいものを視ているわけではない。定められたものを視ているに過ぎぬ。あらかじめ定まったことを読むのだから、外しようがない」

 いくら兄が説いてくれても、多津野には全く想像もできぬ事態だ。しかしこの兄が視たのだから、間違いない。

「安心しろ。そなた独りの力でどうにかできることではない。全ては定められている。そなたを助けてくれる者も当然いる」

「それは、兄上でも父上でもないのでしょう?」

「無論そうだ。我らはここに残り、郷が危うくならぬよう死力を尽くす。そなたの助けとなるのは、我らよりももっと大きな力を持つ者だ」

「それは一体何者なのです?」

 多津野が不安がって訊くと、弥守は顎に手を当てて一瞬宙を見てから、すぐに多津野に向き直る。

「さてな。しかし、会えばすぐにその者だと解るだろう」

 はぐらかされた? 恐らく兄はそれが何者か知っているのだ。知っていて、あえて隠したのだ。

「弥守。多津野が星を射るのは何処でのことか解るのか?」

 父がただすと兄は視線を落とし、いいえ、と答えた。

「あれがどこで起こるべき出来事か――それだけは解りませぬ」

 多津野は慄然とした。兄にすら解らぬ地に行かねばならぬのか。

「ただ、一つだけ解ることが」

「何だ?」

「水の流れを辿るのです。我が郷を流れる川をさかのぼり、遙か山の奥へ。そのみなもとけば、道は開かれましょう」

「ならば初めの一手は決まったな」

 父は兄と視線を交わした後、多津野に向き直った。そして、頑健で大きな手で多津野のまだ未熟な肩をひしと掴む。

「多津野。我が息子よ。の赤星を射るのに適した場所を探しに行きなさい。そして、それを射落として来るのだ」


 その命令は、父としてか、この郷の長としてか。

 父の目を見れば解る。鷹主彦は長として、郷を救うために可能な方策があるならばと、そこに賭けようとしている。そして同時に父として、息子がその可能性を実現することを信じて送り出そうとしているのだ。

 多津野はこのとき初めて、己の立場というものを真に理解した。

 郷の長たる鷹主彦の息子と生まれたからには、郷のために身を捧げねばならない。そのためにこそ、己はこの土地で温かく愛され育まれてきたのだ。


「――承知いたしました」

 自分でも驚くほど素直に、その任を引き受けていた。

 鷹主彦の次子、多津野。よわい十五の初夏のことである。

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