二、鷹の主(9)

 空が白み始めた頃、むらは朝に似つかわしくない騒がしさに包まれた。

 弥守みもりは慌てて身支度を整えて外に出る。家の外では鷹主彦たかぬしひこ鷲羽わしばが険しい顔を突き合わせていた。


「何かあったのですか」

 振り返った鷹主彦が弥守の問いを肯定する。

「西の山に人影が見えたと見張り番からしらせがあった」

 弥守は瞠目した。

「馬の姿も見えたというから、恐らくは宇都志うつしの者であろう」


 馬という生き物を弥守は見たことがない。野生の獣ではなく、いくさの道具とするために宇都志が飼っていると、昔語りの中で聞いたことがあるのみだ。想像で知るだけの生き物の名が出てきたことに、弥守は本当に宇都志が来たのだと思い知る。

 励ますように鷲羽が補足した。

「見えたのはせいぜい三人とのことです。いきなり攻めてきたわけではなさそうですから、焦らずともよろしいでしょう」

 それでもあちらから出向いてきたのだ。鷹森へ何らかの要求を突きつけてくることは覚悟せねばなるまい。


「山を下っています! 騎馬が三騎!」

 物見櫓ものみやぐらの方から伝令の声が上がり、邑人らもざわめき立つ。

よろいを着ているか?」

 鷹主彦が問えば、すぐに櫓から返答がある。

「葉の影に隠れていますが、恐らくは。刀も見えました」

 鷹主彦は顎を摩り、そうかと呟く。

「鷲羽。儂が着る鎧は余っておるか?」

「急ぎ持ってこさせましょう」

 まさか一戦交えるつもりではあるまい。話の展開について行けない弥守に、父が不敵な笑みを浮かべた。

「案ずるな。形だけじゃ。向こうが戦姿いくさすがたなのにこちらが丸腰では、あなどられかねんからな」

「ならば、私も」

 声が震えそうになるのをこらえ、弥守は願い出た。

「私にも鎧を着させてください」

 弥守の言葉にもはや鷹主彦は驚かなかった。黙って邑の者に鎧を用意させた。




 髪を結び直し、鎧装束よろいしょうぞくまとって、弥守は父と共に郷の西の際で相手を待った。

 初めて着る鎧はずしりと重く、鍛えていない身には動くことも辛い。しかしこれしきのことを堪えられずに、これから郷の危機に立ち向かうことなどできぬだろう。

 程なくして山裾やますそへ栗毛の動物が姿を現した。初めて見る馬の姿に、不思議と弥守の心は落ち着きを取り戻す。人に馴れた様子のその獣の目は穏やかで、敵意は感じられない。落ち着いた足取りに野生の荒々しさはなく、むしろ邑人の方が怯えと警戒心を露わにしている。人の感情が馬に伝わって気を損ねることがないか心配になる。

 近づいてくる騎兵は報告どおり三人。先頭の一人は最も若く見える。おそらく弥守より何歳か年嵩としかさだろう。その右隣にいる騎兵は如何にも百戦錬磨の強者、といった風情の壮年の武者である。さらに、若武者から一歩下がって左にもう一騎が控えている。


「待たれよ」

 鷹主彦の一声に、相手方は素直に足を止める。

「貴殿らは何処いずこからいらした? 何故なにゆえこの郷へ立ち入られるか?」

「我らは宇都志から来た。鷹森のおさに目通り願いたい」


 やはり宇都志の者たちなのだ。彼らが、鷹主彦とその同輩がこの地をひらくことになった因縁の相手。

 答えたのは三人のうち最も若い男で、彼の武具をよく見ると、腰に巻いた草摺くさずりの色の彩色の鮮やかさなどから、壮年の武者よりも彼の方が身分の高いことがうかがえる。


「この郷の長、鷹主彦はわしじゃ。宇都志の方々が一体如何なる用向きがあって参られた?」

 鷹主彦の眼光が鋭く相手を射る。

「長自ら既においでとは。話が早い」

 鷹主彦が凄んでも、若武者は怯まない。凛々しい面立ちにみなぎる自信は、決して若さ故の増長からくるのではない。弥守といくつも変わらないだろうに、なかなかの器量である。


「あなた方の周りの郷邑さとむらで水がれているのをご存知か?」

 弥守は息を呑む。既に宇都志にも知れている。

「川の水が涸れ、我が宇都志へ救いを求めてきた者たちが少なからずありましてな。各所を調べて回ったところ、鷹森から流れてくる水は涸れていない様子」

 弥守は飯綱の報告を思い出す。なるほど、水の涸れた邑の人々が逃げた先は宇都志であったか。

「確かに、我が郷の水は常と変わらぬ」

「水を失った者たちの中には、鷹森が呪詛によって他の土地の水をしているという噂が流れております」

 邑人たちの間に怒りを帯びたざわめきがひろがる。それを代弁するように鷹主彦は声を荒らげた。


「愚かな! 狩りの能こそあれど、我らに呪詛の心得などありはせぬ。それに、如何なる理由があって我らが他の郷の水を涸らさねばならぬのか?」

「我らとてお疑い申し上げるのは忍びない。しかし鷹森には優れた星見ほしみ巫女みこがおられるとも聞きますし、呪いの一つや二つ容易いのではと考える者もおります」

 星見の巫女、とは誰だ。母のことだろうか。しかし、弥守と同じく母の力については一部の者の間だけに秘されていたはずだ。何故そのような噂が流れるのだろう。

「それに、このような山際に追いやられたひがみもあろうと考える者もいるようで」

 皮肉っぽい笑みを浮かべる宇都志の若武者の言い草に鷹主彦は身を震わせ激昂した。

たわけたことを申すな! 我らが如何に苦心してこの地で安らかな暮らしを得たと思うておる!」


 かつて、何故に鷹主彦の一族が遠くこの地へと逃げ延びねばならなかったか。その元凶たる宇都志の者にあらぬ疑いをかけられ、怒りを覚えぬ者はこの郷にはいないだろう。

 この地で暮らす者たちは、安らかに、自分たちが飢えずに笑って暮らせればそれで良いのだ。他の郷の人を苦しめようとか、昔の仕打ちを恨んで宇都志へ報復しようなどということは微塵も考えていない。ただこの郷を失いたくないだけだ。それを僻んでいるとは、心ないにも程がある。

 しかしこの男は、それを承知の上で、けしかけている。


「ならば、鷹森が無実であるというあかしを立てて頂きたい」

 怒りを露わにする鷹主彦に対して、宇都志の若武者は冷徹に言い放った。それが父の怒りに更に油を注ぐのを察して、弥守は父を制して前へ出た。

「鷹森の周りで水が涸れていることは我らも承知しております。しかしそれは我らも望まぬこと。我らとて、隣り合う郷邑には無事であって欲しいのです。故に、水を取り戻すために手を尽くしておるところです」

「どういうことだ?」

 宇都志の若者が眉をひそめる。

「確かに鷹森の川は山に近く、しばらくは涸れる心配はありません。しかし、今あちこちで水を涸らせている大本おおもとを正さねば、この地の水とてどうなるか解りません。我らは最悪の事態を避けるため、兵を一人つかわしました。彼が全てを治めて戻ってくる筈です。さすれば涸れた川も再び潤いましょう」

「そなたらは大本を知っていると言うのか?」

「はい」

「その言葉を信ずるにあたいすると何故言える?」

 若武者の探るような視線に弥守はごくりと唾を呑む。ここは勝負所だ。


「貴方は先ほど、鷹森には星見の巫女がいると仰いましたね」

「ああ」

「それは恐らく私のことです」


 弥守があまりにも平然と告げたので、宇都志の者たちは唖然としている。

 鷹主彦が不安げに小さく弥守、と呼ぶ。

 弥守は父に構わず宇都志の者たちと対峙した。


「そなたは、男に見えるが」

 若武者がいぶかしげに問うてくる。

「ええ、男です。そもそも、鷹森に巫女はおりません。神のおわす山のふもとに暮らす我らに、巫女は必要ありませんので」

 鷹森の者にとって神は山に宿るが故に、社も巫女も持たない。この地で生きている時点で、日々、神は民と共にある。祈りの向かう先は山であって、人でも人が建てたものでもない。祭祀では民の代表として鷹主彦が儀式を執り行っている。

「鷹森に巫女はおりませんが、鷹主彦の子である私には星見の力がございます。それが口伝くちづてに星見の巫女がいるなどという噂にすり替わったのではないでしょうか」


 これは、はったりだ。

 鷹森の中ですら秘されていた星見の力について宇都志の者が知っていることと、今回の赤星の件は無関係ではない。弥守はそう直感した。弥守が彼らの知っていることと別のことを言って、否定するのか、信じるのか、さらに探ろうと興味を示すのか。その反応次第で、宇都志とどう交渉すべきか糸口が見つかるかもしれない。

 弥守を見極めようと若武者の視線がじっくりと頭上から爪先を往復した。


「そなた、まことに星見の力があるのか?」

 興味をもった。弥守は挑むように微笑む。

「無論です。私はこの目で、水が涸れ、人々が飢え渇く姿をました。じかに見てもいない者から吹き込まれた、鷹森に巫女がいるなどという話を鵜呑みにするよりよほど信頼できると思いますが」

「無礼な!」

 相手を揶揄する弥守の言葉に、今度は宇都志の武者が声を荒らげ、剣を抜いた。

「やめよ」

 若武者が部下をたしなめる。

「しかし早矢雄はやお様…」

「よい。向こうの言い分にも一理ある」

 早矢雄はやおと呼ばれた若武者は弥守に向き直る。

「そなた、己の読みを違えたことはあるのか?」

「星は未だ来ぬ真実を映します。ならば何故に違えることがありましょう」

 弥守は真っ直ぐに相手を見据えた。如何に己が無力といえど、星見の力だけは誰にも劣らない。自分は真実のみを視ているのだと、今の弥守は自信をもって断言できる。


「もし私を信用できぬと仰るなら、我らの兵が戻るまで私を貴方がたの元に置いてください」

「弥守?」

 かたわらで父が狼狽うろたえる。

 大それたことを言っているのは解っている。しかし今の自分にできるのはこのくらいのことしかない。それに、この若武者ならば、きっと乗ってくる。

「ほう。自ら人質になると申すか」

 早矢雄が値踏みするように弥守を眺める。

「早矢雄様。お父上のご指図にないことをなさっては——」

「人質を得るのは決して我らの不利になることではないだろう」

「しかし、男ですぞ」

 あちらも若武者の横に控えていた壮年の武者が狼狽えながら忠告している。

「我が家には姫子ひめこがおりませんので、残念ながら差し出せるのは私のみです」

 弥守は言いつつ苦笑を浮かべる。

「ご安心召されよ。病弱の身ゆえ私に武芸の心得はございませぬ。丸腰でおれば女子おなごと大差ない」


 弥守はいていた太刀を腰から外し、父に預けた。着ていた鎧も脱ぎ捨てる。衣だけになったところで、両手を広げてその身一つを相手に差し出す。

 馬の顔に目を遣ると、優しい眼差しに恐怖が退いていく。

 戦う意志のない、穏やかな表情で宇都志の者一人一人に視線を合わせた。やがて、宇都志の兵が抜いていた剣をさやに収めてくれる。弥守は母に似た柔和な顔立ちに感謝した。


「次の新月」

 宇都志の早矢雄は馬上から弥守を見下ろして言った。

「それまでに、そなたが言う通り水を涸らす元凶をどうにかできなければ、そなたの命はない」

 昨夜、月は既に満ちかけていた。すると、猶予はおよそ十五日か。

「よろしいでしょう」

「弥守!」

 父は尚も止めようとしている。しかし今更引き下がれない。これが弥守にできる最善の仕事だ。

「大丈夫です、父上。私は命を捨てに行くのではありません」

 昨夜の父との約束は決して違えない。

多津野たつのと私を信じてください。必ず、帰ります」

 二人とも。必ず、再びこの鷹森へ。

 鷹主彦はそれ以上はもう何も言わなかった。諦めか、信頼か。恐らくその両方だろう。自身の息子が郷のために生きるさだめにあることを、受け入れざるを得なかった。

 最後に弥守は背後を振り返り、飯綱いづなの姿を見つける。飯綱は何も言わず頷いた。きっと弥守の命を果たしてくれるだろう。


 弥守は宇都志の者らへ歩み寄る。まず早矢雄はやおの部下を窺うが、目を泳がせるばかりで埒が明かない。壮年の武者も手綱を握ったまま、動くのを迷っている様子である。ならば、と弥守は馬上の早矢雄をきつと仰ぎ見た。


「さあ、早く。私をお連れください」

 弥守に急かされ、早矢雄は口のを歪めた。

「良い度胸だ。流石は鷹主彦の継嗣けいしよな」

 言うや否や、早矢雄は弥守の腕を取り、自らの前に抱えるようにして騎乗させる。

「では、しばしご子息は宇都志にて預からせてもらいますぞ」

「無体な仕打ちは許さぬ」

「そちらが約束を違えぬ限り、丁重に扱います」

 早矢雄は不敵に笑い、馬の腹を蹴った。

 弥守は父の顔を振り返らず、ただ馬の背に縋りつき、ひづめが鷹森の土を蹴る音を聞いていた。

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