二、鷹の主(8)

 父の言葉を問い返そうとして、弥守みもりはその言葉を呑み込んだ。

 問うまでもない。胸につかえていたものがようやく腑に落ちた。


 ——そうか。だからだったのか。


 人も獣も木々も草花も、生けるものは皆、陽の光を求める。多津野たつのも周りの大人達も、晴れの日には外に出たがり、雨の日には退屈そうにしていた。対して自分は、晴れの日には力が入らず、雨の日には身体が軽くなった。それが何故なのか理由は解らず、生まれつき丈夫ではないせいだと思って自制してきた。


「陽の光がさわりとなる——母上は、そういう体質たちでいらしたのですね」

 弥守が全て悟った様子で確かめると、鷹主彦は頷いた。

「あいつは死の間際に至るまで、そのことを言わなかったが」

「それはきっと、残された時間をただの女として生きてみたいと望まれた故のことでしょう」

 鷹主彦たかぬしひこは悔しげに眉根を寄せる。

「やはり、そなたの方があいつの心をよく解っているな」

「私は——母上に似ていますから」


 だから、弥守だけが丈夫ではなかったのだ。

 陽の光を受け付けぬ性質を母からこの身に譲り受けていたから。

 昼間でも館の中にいなければ身体が優れぬのも、夜になると持ち直すのも。真昼の日差しを初めてまともに浴びて、身体が重くなったのも。身体の不調に気を取られ、普段の冷静さを欠いてしまったのも。そのせいで心に隙ができ、父を疑ってしまったのも。その結果、赤星あかぼしの同調を許したのも。


 堅香子かたかご項垂うなだれたままこぼした。

「思えば、日頃からお身体が優れぬときは、むらの者と館の外で畑仕事をなさったりした後でした。お会いした頃からか弱くていらしたので、それが特別のこととは気がつかず……。もうしばらくお仕えしておれば何か違っていたのではないかと、悔しくてなりませぬ」

「だから貴女は、私が行くのを気に懸けて下さったのですね」

 弥守の問いかけに堅香子は涙を拭いながら頷いた。

「しかし弥守様には半分は鷹主彦の血が流れていらっしゃいます。故にもしかしたら大事ないのでは、と望む気もございました」

「それはわしも同じじゃ。だが、そう上手くはいかぬな」

 陽光に半日晒されて、弥守は倒れた。あのときに倒れたのは赤星のせいではあったが、身体が弱っていなければ、赤星が付け入る隙は生じなかっただろう。

「弥守よ」

 炎の向こうから、父に神妙な面持ちで呼ばれる。

 弥守は背筋を正した。

「はい」

 炉の灯火ともしびに影を彫られたおもて日向ひなたで見る以上に精悍で、眼光は鋭い。

「鷹主彦の血を継ぐ者として郷のために生きることを選ぶというなら、それを止めることは儂にはできぬ。故に、一つだけ約束せよ」

「どのような約束を?」

「己の命を捨てることは考えるな。そなた自身は自分で守れ」


 すなわち、母のように命を削る選択をするな、と。

 それは鷹主彦の、父としての切実な願いであった。若くして大切な妻を失ったときの悲しみ。しかもその原因を知っていれば延命できたかもしれないと判ったときの悔しさは計り知れない。その上に自らの子まで失う悲しみまで味わうのは、酷だ。弥守とて、父を悲しませることを望んではいない。


「私は——母上とは違います」

 弥守は真っ直ぐに父を見つめ、微笑んだ。

「星見の運命から逃れるつもりはありません。隠すことも、拒むこともいたしません」

 聴こえるものに耳は塞がず、視えるものから目は逸らさずに、この身にできることに限りがあるなら、その限りのことはいとわずに挑みたい。

「陽の光が障りになると知れたのは幸いでした。知っていれば、己の身を守るために気を付けることができますから」

 胸中に抱えていた迷いは晴れた。多津野にも、誰にもできぬことをしよう。星見このの力で。

「そなたは確かに儂の息子じゃ」

 父の目尻に柔らかな皺が刻まれる。

 鷲羽わしばが静かに頷き、堅香子はさめざめと泣き濡れた。




 皆が寝静まった頃、弥守は一人、寝床を抜け出した。

 星々のいなくなった空には、皓々とした月と禍々しい赤星だけが残っている。

 うるさいと思うときもあったが、なくなってみると寂しいものだ。

 星がなければ未来を読めもしないのに夜天を眺めてしまうのは、その身に染み付いた癖のようなものだろうか。


「眠れませんか」

 ちらと肩口を見遣れば、飯綱いづなが立っている。

「昼間にあれだけ眠っていればな。それに、私は夜の方が調子が良いんだ」

「存じております。しかし夜は冷えますから、お身体は休めてください」

 うそぶくように言い訳をする弥守をたしなめながら、飯綱は毛皮の上着を弥守の肩に押し付けた。

「解っている。けれど今夜はなんだか落ち着かない」

「初めて見聞きなさることが色々とあったせいでしょう」

「館の外に出ただけなのにな。昨日までの私と、今の私はまるで別人のような気さえする」

「別人、というよりも、本来の弥守様に戻られたのだと思います」

「本来の私?」

 切長の怜悧な目で飯綱は肯定した。

「お優しく、賢い弥守様。心の痛みを知りながら、前へ進んで行くことのできるお方」

 気恥ずかしくなる褒め言葉に弥守は苦笑する。

「私にそれを教えたのは、そなただよ」

 飯綱は小首を傾げた。

「心が痛いと、どう癒せば良いのかよく解らないし、癒えるものかも解らない。誰かが肩代わりしてくれるものでもない。それを己だけのものだと抱え込んでいた私を引っ叩いて立ち上がらせたのは、そなただ」


 心に傷を負っているのは、決して弥守だけではなかった。それぞれに傷はみ、痛んでいた。飯綱が弥守と出会うまでに苦しんだ痛み。父が愛する妻を失って負った痛み。母が星見の運命に抗う中で感じた痛み。郷の人々が代々背負ってきた痛み。


「私の思い付かぬところでそれぞれに痛みを感じながら、生きているんだ。私だけうずくまっている必要はないじゃないか」

 引っ叩いてはおりませんが、と飯綱はたとえを律儀に訂正した。

「私には、弥守様が館の中で大事に守られることを望まれているようには見えませんでしたので。それに、貴方が思うよりずっと、館の外には貴方の手を必要とする者たちがおります。郷のためを思えば、弥守様に立って頂かなければ困ります」

 飯綱らしい言いように自ずと弥守の顔はほころぶ。

「早く会って、私を知ってもらわねばならぬな」

 多津野だけではない。弥守もまた、鷹主彦の子であることを。それだけではない。郷を守るために為すべきことは他にもある。郷の外がどうなっているのかも知らなければ。


「そういえば、外では水がれ始めていたというのは本当か?」

 多津野を送った帰り道の報告を弥守はまだきちんと聞いていない。

「はい。弥守様が読まれた通り、我が郷とは水源みなもとを異にする小川や池の中には、水のあとしかないところがいくつか」

「すると、他の郷から何らかの訴えが出るのも間もなくだろうな」

「それに関して、興味深い話を聞きました」

「興味深い話?」

塩買しおかいの者から聞いた話ですが——」

 山の恵みにより水にも大抵の食料にも困らない鷹森だが、塩だけは郷の外に頼るしかない。そのために月に何度か川の下流へ塩を求めに出かける役を担う者がいる。

「川下の先には、既に水を失った郷があるそうなのです」

「そこにいた者たちはどうした?」

「その郷はもぬけの殻で、一人残らず姿を消していたとか。亡骸なきがらすらなかったらしいので、こぞってどこかへ逃げたのだと思われます」

「逃げた——」


 どこへ?

 少なくとも鷹森には来ていない。

 まさか別の土地を一からひらこうというのか?

 それとも別の郷を頼ったか。

 だが、一つの郷を丸ごと受け入れることのできる郷などあるだろうか?


 飯綱に意見を求めようと弥守は顔を上げた。その視界の端にあり得ないものが映り込み、弥守の視線は飯綱を通り越し、宙空に向けられる。


「弥守様?」

 飯綱がいぶかしげに弥守をうかがっている。

 そのまま目をらすが、依然、夜の闇があるのみだ。

 しかし、先ほど確かに、視界に赤い光がちらついた気がした。

 あれは星の光ではなかった。灯火ともしびの色に見えた。

 あの方角、あの高さに灯火があるとすれば、水源の山——御座みくらの山中だ。獣が火を使うはずがない。ならば、誰かが松明たいまつを持って山に入っているということになる。弥守の知る限り、東の山に立ち入ることを許されているのは多津野だけだが、山の危険をよく知る多津野なら、夜に山の中を歩いたりはしないだろう。

「飯綱」

「はい」

「明日でいい。そなた、東の山のふもとを探ってきてはくれまいか?」

「探る、とは?」

「誰か人の入った跡が残っていないか調べて欲しい」

 飯綱は少しだけ驚いた様子を見せたが、すぐに弥守の意図をんで頷いた。

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