二、鷹の主(7)

 ぱちぱちとの炎が爆ぜる音が静かに響き、煮炊きの煙が茅葺かやぶきの天井のいただきへ昇っていく。

「お味は如何いかがです?」

 受け取ったわんを一口含めば、芋の甘さと香りが口の中に広がった。ほのかな塩気がまた一層、その風味を引き立ててくれる。昼餉ひるげの折には食欲もなく折角の馳走ちそうにもほとんど手がつけられなかった。食べるという感覚をやっとまともに受け入れることができた気がする。温かくとろみのある芋粥いもがゆは舌だけでなく臓腑にまで染み渡っていく。

 椀から顔を上げ、弥守みもりは笑んだ。

「美味しいです」

 それは良うございました、と堅香子かたかごは皺の多い目尻に更に皺を作った。


 弥守が目覚めたことを飯綱いづな鷹主彦たかぬしひこしらせに行くと、弥守の休む部屋に堅香子が現れた。父が隣のむらから呼び寄せたのだという。弥守の口に合うものを、という意図だと聞いたが、それだけのためにわざわざ呼ぶ必要があったろうか。

 弥守が食べ終わる頃に父と鷲羽わしばを連れて戻ると飯綱が言っていたから、堅香子も交えて何か話があるのやもしれぬ。


佐々良ささら様もお身体の優れぬときには好んで召し上がっておいででした。やはり、親子でいらっしゃいますね」

 炉の炎に照らされた弥守の顔を堅香子はしみじみと眺めた。その目は弥守を見ているようで、見ていない。りし日を、母の面影を追いかけている。

「私は母に似ていますか?」

 その眼差しをどう受け止めて良いか解らず、弥守は純粋な疑問を口にした。

やかたで母を知る者にも何度か言われたことがあります。私は母親似だと。けれど私はあまり母のことを覚えていないので解らなくて」

 弥守が覚えているのは、母がとても優しい人だったということだけだ。

「それはせんなきこと。佐々良様がお亡くなりになったときは、まだお小さくていらしたのですから」

 灯火ともしびの揺らめきに応じて、皺の奥のおうなの瞳がちらちら光る。

「よく似ていらっしゃいます。女子おなごであったら生き写しであったやもしれませぬ。そして、顔貌かおかたちのみにあらず、その性質たちも」

 性質。その言葉が指すものなど問うまでもない。

「母にも星見ほしみの力があったと、仰いましたね」

「ええ、確かに」

「ご覧の通り、私はあまり丈夫な身体ではありません。星見の力を得てからは特に。母も、そうでしたか?」

 弥守に問われ、堅香子は苦しげに目を閉じた。

 軽々しく思い出話に花を咲かせてはならない雰囲気。

 父でさえ母について多くを語ろうとはしなかった。昼の間は弥守が星見であることに否定的なのかと思ったが、それは弥守の思い過ごしであった。原因が弥守にないとするならば、母に何かあるのだろうか。

「母が星を読むことができたと、父は私に一言も教えてはくれませんでした。その理由を貴女あなたはご存知ですか?」

 逡巡しゅんじゅんしている。このおうなはきっと、弥守自身も知らぬ弥守のことを知っている。

「邑で別れたとき、貴女は私に無理をするなと仰った。あのあと私がどうなるか——貴女は何か気付いていたのではありませんか?」

 未だ口を開かぬ堅香子にれて、弥守は思わず身を乗り出した。


い先短い者を問い詰めてやるな」


 呆れたような優しく低い声に弥守は戸口を振り返る。

「父上」

 戸口をくぐり、鷹主彦が、続いて鷲羽と飯綱が入ってくる。

「そなたの母について語るのは、わしの役目じゃ」

 鷹主彦が部屋の一番奥のむしろに腰を下ろすと、二人もそれにならう。一同は炉を囲んで向かい合って座った。

「儂が浅はかであった故、そなたに要らぬ不安を与えた」

 弥守は火の向こうの父の顔を仰ぐ。

「何故、母上のことを隠していらしたのですか」

 いつも凛々しい山を描く眉は険しく歪み、眉間には後悔のために深い皺が刻まれている。

「そうするのがそなたの母の望みだと信じていたのだ」

 母の、望み。

「そなたなら解るか。星など読めぬ、ただの女として生きたいと望む心が」


 弥守の心の奥底が脈打つ。

 幼子おさなごの頃、弥守ががれ、しかし仕舞いこんだもの。

 ただ当たり前に陽を浴びて、寝起きし、笑い合って、生きてみたい、と。

 そんな望みを母もまた、抱いていたのか。


「そなたと同じように、佐々良もまた幼き頃より星の声を聴いたという。星見の力を買われ、それ故に周りからはその力のみを求められて生きてきたのだと言っていた」

 父が初めて語る母の姿に弥守は驚く。

 星見の力を求められて生きる、とはどういうことだろう。同じ力を隠して生きてきた弥守にはうまく想像ができない。かつての鷹森には星見を重んじる習慣があったのか。

「そなたの母はこの郷の生まれではない」

 弥守の疑問に父は一言で明解に答えた。同時に、更なる衝撃を与えた。

「——鷹森の人ではない?」

 弥守は二の句が継げず、口を開けたまま父を見つめた。郷はおろか、昨日まで館すら出たことがなかったというのに、母が鷹森の人間ではないという事実を突き付けられて、どう受け止めてよいか解ろう筈もない。

 鷹主彦は弥守の様子を見て、自ら話を続けた。

「佐々良は郷の外——何処いずこかは知らぬ、遠い地より逃げてきた女じゃ」


 逃げてきた。女の足で、暗い山を、谷を越えて。生傷を作りながら、死んでも構わないと思いながら。痛みだらけの身体を引きずって、ひもじさに喘いで。

 弥守の脳裏に逃げる女の姿がまざまざとよみがえる。

 そうか。母は自ら動いたのだ。己の星見としての運命から逃れるために。


「儂の父上がご健在で、まだ儂が鷹主彦と名乗っておらぬ時分のことじゃ。西の山で狩りを終えて館へ帰る道中、川辺で行き倒れている女が目に付いた。ひどく痩せて、息も絶えかけておったが、生きてはいた。すぐに死すべき命とも思えなかった故、館へ連れ帰り、介抱することにした」

 生けるものなら助け、死にゆくものなら看取る。全ての命を等しく扱う、鷹森の者なら当然の行動だ。

「あのときは驚きましたよ。大きな熊でも仕留めてくるかとお待ちしておりましたのに、細身の女子おなごを背負ってお帰りになったのですもの」

 堅香子が懐かしんで言うと、鷹主彦は鹿も仕留めて帰ったではないか、と抗議した。

「その頃からでございますね。わたくしが佐々良様のお世話をさせて頂いたのは」

 ああ、と鷹主彦は頷く。

「初めはろくに喋りもしなかったな」

「ええ。何かに怯えているような、疑っているようなお顔で。しかしそれも、千賀多ちかた様が夜毎よごと寝屋をおとない、話しかけていかれた故にほぐれたのです」

 無意識のうちか、昔語りで記憶が若返ったせいか、堅香子は父を元の名で呼んでいる。

「何も話さぬならこちらから尋ねるほかあるまい」

 鷹主彦は堅香子から視線を逸らし、頭を掻いた。照れている。堅香子はその様に喉の奥で笑声を転がすに留めた。咳払いをして父が続ける。


「館で共に過ごすうちに、徐々に自らのことを教えてくれるようになった。遠く西から逃れてきたこと、星を読み未来さきを見る力があること、そのせいで追われていること」

「追われている?」

「佐々良はかつて居たところでは、民を動かすために星を読んでいたと語った。その役は、力ある者の背に光を集めて返す鏡であったと」

 つまり、母は権力者、例えば郷の長のような人物の決断や行動を星見によって支えていたのだろう。明るい光を目指し、民が前を向いて生きられるように。

「それでは私と——」

「そうじゃ。変わらぬ」

 鷹主彦は沈痛な面持ちで弥守を見ている。

「あいつと同じ目にわせとうはなかったのにな」

 父がこれほど辛そうに語る姿を、弥守はついぞ見たことがない。

「佐々良が集めた光は次第に民を導くものではなくなっていった。強き光に民は平伏ひれふし、光を崇めた。星見の力は民のためではなく、民を統べる者ただ一人のために使われた。佐々良はそれをいとい、逃げ出したのじゃ」

 自分が同じ状況にあったなら、きっと母と同じように行動したろうと弥守は思った。それは弥守が母と似た役を果たしてきたからであり、また、弥守が鷹主彦の子であるからである。

「光の勢いを失った者どもは困り、佐々良を連れ戻そうと追ってきた。それを振り切り逃げるうちに、鷹森へ辿り着いたという」

 母の話に鷹森の人間ならば既視感を覚えずにはいられまい。圧倒的な力で郷の人々を屈服させた宇都志うつしに追われ、険しい逃避行の果てにこの地を見つけた先祖の記憶を持つ者ならば。両者は互いに共鳴し合い、惹かれ合ったに違いない。


「館に連れ帰った時点で既に、更に逃げるだけの力はもう佐々良の身に残ってはおらなんだ。外へ出せば野垂れ死ぬだけじゃ。鷹主彦の子として死に急がせることはできぬ。故に我が館でやしない、そのうちに、そのまま居着き、儂がめとった」

「あのときは驚きましたな。それまで色恋には無頓着でいらしたのに、突然に佐々良様を妻にすると言い出して」

 鷲羽が顎をさすりながら口を挟んだ。

「しかし不思議な女子であられた。誰にでもお優しいので、初めは警戒していた郷の者らもすっかり毒気を抜かれてしもうた。釣りや狩りで良い獲物があれば必ず佐々良様に差し上げに来たものじゃ」

「それは千賀多様のお蔭でございますよ」

 堅香子は皺の多い顔をほころばせる。

「星見のことは郷の皆には伏せて下さいましたけれど、それだけではなくて。唯々ただただ、好いた女子に接するのと同じ態度でいらしたので、気負うことなくお過ごしになれたのです。夫婦めおととなってからの佐々良様は、まことに幸せそうでいらっしゃいました」

 母は、星見の力とは関係なく、自分自身を見てくれる人に巡り会えたのだ。その幸福を、弥守も我がことのように嬉しく思う。

「ええ、解ります。父上は人の本当の姿を見抜いてしまう。それに、ご自身の心からの言葉しか仰らないので、固く閉じてしまった人の心でもするりと開けておしまいになるのです」

 母しかり、飯綱しかり、そして。

「私も、父上に救われました」

 弥守の言葉に鷹主彦は瞠目した。


「私が星見に目覚めた頃、父上は私の力をおそれることも、否定なさることもしなかった。私のるものが郷のためになると仰った」

「しかしそれは——、儂はそなたをどう扱ってよいか解らず、結局あいつが受けた仕打ちと変わらぬことをしたのじゃ。それでそなたを、星見という生き方に縛りつけてしまった」

 後悔の念を吐露する鷹主彦に対し、弥守はかぶりを振る。

「いいえ、それは違います。あのとき私は、星見の力をどう受け止めたらよいのか解らなかった。生かせばよいのか、殺せばよいのか。己のことが恐くて、生きることも怖かった。そんな私に、父上は生きる道を与えてくださったのです」

 弥守が話すのを見守っていた飯綱が鷹主彦の方へ居直って声を上げた。

「畏れながら。佐々良様と弥守様の境遇は似て非なるもの。星見の力の何たるかも知らぬ弥守様にとっては、その力を持ったこと自体を受け入れていただくことが先決であったかと。星見の生に縛られたとしても、生きる理由があれば、生きていれば、いずれはご自身の足で歩んで行かれます。幸い我らの鷹の主は、いたずらに予言の威をる方ではないのですから」

 さすが察しの良い男だ。すかさず弥守を補ってくれた。この流れに乗って、父の悔いを断ちたい。


「父上は私に、星など読めなければよかったと思ったことはないか、とお尋ねになりましたね」

 父が何故あの問いを投げたのか、今ならその理由が解る気がする。父もまた、迷い悩んでいたのだ。星見の力に縛られ、父祖からの血に縛られ、己の望みすら失くした息子を、その原因を作ったも同然の自身がどう導いてやるべきか。

「そう思ったことも確かにございます。しかし今は、母上から受け継いだこの力を郷の皆のために生かしたいのです」

 毅然と言い放つ弥守を見て、そうか、と鷹主彦は安堵を露わにして呟いた。

「佐々良もきっと、そう望んでいよう」

 潤む父の瞳が灯明とうみょうを常より多く反射する。

如何いかにただの女であろうとしても、あいつは星見の力から逃れられなかった。星月夜ほしづきよには視えたくなくとも先を視た。もしも無理せず今まで生き長らえていたならば、そなたと同じようにその力を郷のために生かそうと思うたやもしれぬ」

 堅香子が目頭を押さえて俯いた。すすり泣く声が聞こえる。

「私が——もっと早よう気付いておれば……」

「よい、堅香子。そなたの責ではない」

 おうなの涙の理由が解らず、弥守は父と堅香子を交互に見るしかない。

「弥守よ」

「はい」

「この先も館の外で動く気なら、陽の光には気をつけよ」

 弥守は眉をひそめた。

何故なにゆえに?」

「そなたの母は、陽の光によって死んだからじゃ」

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