二、鷹の主(3)
眩しい。遠い。
いつも側で見上げていた背中が、遠くなる。
真昼の日差しを受けた
夏に入り始めた頃の陽の光とは
日中のほとんどの時間を
民の暮らしを守ることに生涯を捧げた父。幼くして母を亡くした息子二人を育ててくれた父。誰より近くでその
その背に並び立てるような男になりたい。
そう願いながら十六になった。
全幅の信頼と憧憬とを抱いて見上げてきた背中。
それがどうして、こんなにも、遠い。
待って、と喉元まで込み上げた懇願を呑み込む。
——父上は隠していた? 堅香子の話を聞いてもなお、隠そうとしている?
これまで、父に隠し事をされたことはなかった。どんな疑問にも、訴えにも、真剣に向き合ってくれた。それなのにあのときばかりは、弥守の問いを黙殺した。堅香子の
何故、父は母のことを隠そうとするのか。
息子にも知らせたくない理由などあるだろうか。
実のところ、父は星見の力をよく思っていないのではないか。
父の真意が見えず、弥守の胸中には形の定まらない感情が
「具合が悪いか?」
父の声がした。立ち止まり、いつの間にか離れてしまった弥守を振り返っている。日差しで霞む視界のせいでその表情はよく見えない。
弥守は奥歯を食い締め、大股で父の元へ追いついた。
きっといつもの優しさで弥守を
「大事ありません。参りましょう」
父の目を見ず、前だけを見て弥守は言った。
再び歩き始めたとき、不意に父がぽつりと問うた。
「星など読めなければよかった、と思ったことはないか」
弥守は前を向いたまま、瞠目した。
「何故、そのようなことを
まさか父はそう思っているのか。弥守が星を読めず、他の子と同じようであればよかった、と。
そんなこと——
星見の力に目覚めたとき、弥守は自分が他の人とは違うのだと思い知った。他人に見えぬものが
母が亡くなって間もない頃だった。
六つか七つのときだ。
夜も深くなったというのに、寝所の外がさざめいていた。それがあまりに
一体この音は、どこからするのだろう。
元を探して家中を歩き回り、首を巡らせて見つけた声の主は、夜天だった。
家を抜け、空を見上げた。
満天の星。その
弥守はその場に立ち尽くし、何を言っているのかも解らないその声に耳を傾けた。
やがて、ばちん、と脳天に雷が落ちたかのような衝撃があった。
気を失ったかと思ったが、弥守は立ったままだ。相変わらず星々を仰いでいる。
しかし視界に映るのは、そこにあるはずのない光景だった。
見覚えのある子の姿。
いけない、と弥守は思わず叫んだ。
藪雨の足は流れに
弥守は恐怖のあまり震えていた。
自分は一体何を
理解ができない。否、したくない。
きっとただの幻だ。あれが
そう己に言い聞かせれば言い聞かせるほど、血の気が
やがて、弥守は気を失った。
目が覚めると、星空もさざめきも消えていた。
もう昼だ。いつもの寝所に横たわっている。
「あにうえ!」
「弥守様、お目覚めですか。ようございました」
入ってきた女の顔を見て、弥守の身体はがたがたと震え出す。
その女は、
「おや、まだお身体が優れませんか。良いんですよ。ゆっくりお休みくださいまし」
何も知らない女は、熊皮の
違う。この戦慄は、寒さのせいではない。そなたの息子が危ないのだと伝えたいが、何と話せば良いのか解らない。
「——藪雨は?」
唐突な弥守の問いに、女は
「川へ行きましたよ。弥守様が倒れたって聞いたら、美味いものを食わせてやらなきゃ、なんて言いましてねぇ」
弥守の顔は更に蒼ざめた。
「だめだ……すぐに、連れ戻さないと」
「急がなくても、そのうち戻って来ましょうよ」
「だめなんだ!」
珍しく声を荒らげた弥守を女は不審そうに見ている。
「どうか、なすったんですか」
弥守の脳裏に昨日視た光景が蘇る。あまりの恐ろしさに、目からは涙が
「藪雨が死んでしまう……」
「そんな、なんて不吉なことを!」
女は顔を
弥守は両手で顔を覆い、泣いた。
その日の夕刻、川で溺れ死んだ藪雨の
——弥守様が死を予言したそうな。
——しかも母親に
——
——幼くて浅慮でいらしたのじゃ。
——しかし弥守様がそうと
——
——あえてやったなら、呪うたと同じ。
——お顔は
——あれが次の我らの
藪雨の
皆、弥守の前では口を
館の主である鷹主彦は事態を収拾するため、弥守を
「そなた、藪雨が死ぬと知っていたのか」
父の問いは遠慮がなく端的だった。誰も弥守に直接に尋ねてくれぬ中、その態度は有り難かった。弥守は素直に頷いた。
「星が——煩くて、そしたら、視えて、溺れて……」
「死なせたく、なかったのに……どうして」
「親しい者の死に様を見たか。辛かったな」
涙を止めることができぬまま、弥守は父の大きな
「
父の言葉に救われた心地がした。自分でも何だか解らないものが視えるようになって恐ろしかった。その心細さを、やっと誰かに気付いてもらえた。そのままで生きていて良いと受け止めてくれた。
幼い弥守は父に
その後、父の差配により、藪雨の死の予言は悪夢が偶然に現実と一致しただけのこととされ、弥守に星見の力があることは隠された。
以来、弥守が予言を伝えるのは、父だけだ。多津野も長じるうちにその場に同席するようになったが、兄弟
視えることは変えようがない。星見として役立つしか、己に生きる道はないのだと諦めた。それでも、父の役に立てるなら、生きる価値のある道だ。
——そう思って生きてきたのに。
なのに、今になって星見である己を否定するつもりなのか。
やはり、星見の力をよく思っていないのか。
あの日の言葉は、嘘だったのか。
「私は星を読むことでしか、お役に立てぬのですから。今更、他の生き方など考えもつきませんよ」
作ろうとした笑みは曖昧な形になった。
父はそうか、とだけ言った。
また二人して黙々と歩いた。
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