二、鷹の主(4)

 鷹主彦たかぬしひこ弥守みもりに気付き、けやきの幹にもたれていた男が居住まいを正した。

 目元の涼やかさ故か、精悍せいかんさよりも怜悧れいりな印象の勝る若者だ。

「よく戻った。飯綱いづな

 鷹主彦に飯綱と呼ばれた男は鷹主彦に一礼する。

多津野たつの様は無事、御座みくらの山にお入りになりました」

「ご苦労だった」

 飯綱は鷹主彦の側近の一人であり、弥守と多津野の教育係でもある。弥守とは十ばかり歳上であり、弥守が星見に目覚めた頃から兄弟二人の側仕えを務めている。彼もまた、弥守の力を知る数少ない人間の一人だ。それだけ鷹主彦からの信は篤い。余計なことは喋らず、主人の意をみ、鷹主彦の目となり、手足となって立ち回ることができる。そういう男だった。此度こたびは初めて郷を離れる多津野の見送り役を任され、その帰りがてら近隣の郷の様子を探ってくるよう命じられていた。

「弥守様?」

 鷹主彦から視線を移し弥守の顔を見るなり、飯綱は心配そうに表情を曇らせた。

「お加減が優れぬのではありませんか」

 流石は長年弥守を側で見ているだけある。弥守が隠そうとしている不調を一目で見破ってきた。弥守はうっすらと笑みをたたえる。

「いや、大したことはないよ」

 これだけで彼には十分だろう。父を除く大人達の中で、弥守は飯綱を最も信頼している。弥守の秘密を口外せずに仕えてくれていることも信頼できる理由の一つだが、何より、飯綱は察しが良かった。星見の才に目覚めてからの弥守は、自らを抑えて、何がしたいとか何が欲しいとかいうことをほとんど口にしなくなってしまった。しかしこの男は、言わずとも弥守の望むように動いてくれる。実に優秀な家臣であり、気を張らずに側にいられる兄のような存在でもあった。

 飯綱はしばし弥守の微笑みを見つめ、何かを了解したように小さく頷いた。

「何かあればすぐにおっしゃってください」

 弥守の強がりを見抜きながら、いつものようにその意思を尊重してくれたのだろう。弥守は安堵した。飯綱は元々、表情の動きが大きくない。それが今は助かった。まだ父に弥守の不調は知られていまい。

「隣の郷はどうであった?」

 鷹主彦に問われ、飯綱の表情が緊張する。どうやら何もなかったわけではなさそうだ。

「興味深い状況でした。詳しくは鷲羽わしばの元でお話し致しましょう」



 西にそびえる八つ折れの峰々。

 その姿を初めて間近にし、弥守は息をんだ。

 峻厳にして崇高。遠くから眺めるのとは違う、その稜線を、岩肌を、この目で見上げて解るその存在感。このいかめしい山が、壁となって外敵からこの郷を守り、また狩場となって生きる糧を与えてくれるのだ。

 恵み多き連峰を背後にようし、鷹森の西端に位置するむらは、郷の防衛と食料調達の役を担っている。その邑のおさ鷲羽わしばという男であった。

 やかたから出ずに過ごしていても、鷲羽の話はよく聞こえてきた。かつて鷹主彦の側近として館にいたことがあるとか。しかしそれは、弥守が生まれる前のことであり、彼が始めに仕えていたのは先の鷹主彦であったとか。また、飯綱の養い親であるとか。そして、鷲羽の話が出ると誰もが口を揃えて言うのだ。熊みたいに頼り甲斐のある男だ、と。そう聞く度に、一体どんな人なのかと気になっていた。

 不意に、おおいと呼ぶ声がした。

 声のした方を見遣れば、幾人かの邑人むらびとを従えて、体格の良い壮年の男が山へ続く道からこちらへ手を振っている。

「鷲羽!」

 鷹主彦もまた、手を挙げてそれに応じる。

 あれが、鷲羽。髪の色は既に白が勝っているが、動きは矍鑠かくしゃくとしている。確かに熊、と形容したくなるのも頷ける巨躯である。衣の上からでも判る胸の厚みと腕の太さが、往年の彼の荒武者ぶりを物語っていた。

 鷲羽が鷹主彦の元へ辿り着けば、両者の顔は自ずとほころんだ。

「久しいな、鷲羽よ。息災であったか」

 鷹主彦が笑顔で声をかけると、鷲羽も嬉しそうにした。目元に刻まれた皺が、大きな体に似合わず好々爺こうこうや然とした雰囲気をかもしている。

「ご覧の通りじゃ。今も山の中を歩いてきたところで」

 鷲羽が後ろを一瞥すると、籠を背負った男達が鷹主彦らに会釈して去っていく。

「山へは毎日行くのか」

「ええ。狩りやら山の菜を採るついでに、他所者よそものの足跡がないか見回っておりますよ」

「ありがたい。頼りにしている」

 鷹主彦の言葉に、鷲羽は大きく口を開けて笑った。

「彦のお願いを聞いてやれるのも、もうわしくらいでしょうからなぁ」

 随分と父に遠慮のない男だ。堅香子かたかごにも父に物を言える雰囲気があったが、その根底には郷の長として、かつて仕えた館の主として父を敬う態度があった。鷲羽の場合はそれよりもっと父と親しい印象を受ける。

 弥守の心中を察したのか、飯綱が横からそっと耳打ちした。

「鷲羽はかつて鷹主彦の師であったそうです。幼少の頃から、狩りやいくさの術を手解てほどきしたとか」

 成る程。弥守にとっての飯綱のように、父にも若輩の時分があり、頼りにする大人がいたのだ。弥守の知る堂々たる父の姿からは想像ができないけれど。

「そちらが、例の御子おこですかな?」

 父の肩を過ぎ越し、優しい目が弥守を見下ろしている。弥守はその目を物怖じせずに真っ直ぐに見上げた。

「お初にお目にかかります。鷹主彦の長子、弥守と申します」

 弥守の挨拶を受けて、鷲羽はおおと感嘆した。

「見目は母君に似て柔らかいが、まなこは強い。その眼に宿る光は、確かに、父君譲りじゃ」

 弥守は驚き、返す言葉を見つけることができなかった。己の一部分でも、父に似ていると言われたのは初めてだった。

 病弱でなよやかな性質たちばかりが己ではない。鷹主彦の血がこの身に息づき、弥守という人間を成している。当たり前のことなのに、忘れていた。否、受け入れる自信がなかったのだ。日毎ひごとに成長する弟をの当たりにするうちに、己も次の鷹主彦になり得るのだとは到底思えなくなっていた。どうせ自分には無理だと、多津野の方が適任だと、諦めていた。星見として、陰で長を支える役に徹することばかり考えていた。——そうではない在り方が、あるのだろうか。

 弥守の葛藤を他所に、大人達の話題は飯綱へ移った。

「そなたの息子もいるぞ」

「おお、飯綱か! 久しいな」

「ご無沙汰しております。鷲羽」

 飯綱はうやうやしく頭を下げた。

「背が伸びたか」

「貴方の元を離れて十年近く経ちますから。それなりには」

 飯綱が弥守の側仕えとなってもうそんなに経つか。初めて会ったときは、飯綱も十六、七。今の弥守と同じくらいだった。自分と比べてみると、当時の飯綱は随分と大人びていたように思う。そのときから既に、今と変わらず落ち着き払った様子だったからかもしれない。

「鷲羽はお変わりないようで、何よりです」

 飯綱が安心したように声をかけると、心なしか鷲羽が若返ったように見えた。

「まだ使い途がありそうだからな。草臥くたびれてもおられぬよ」

 不敵な笑みで返してから、鷲羽は鷹主彦に向き直る。

「さて、鷹のしらせによれば、急ぎのお話がおありとのことでしたな?」

「ああ。あの、赤星のことだ」

 鷹主彦の視線を追って、皆、天頂の凶星を仰ぐ。

 鷲羽の眉間に深い皺が刻まれた。

「儂も丁度、気になっておりました。何やら禍々しい色じゃ。しかし」

 一転、険しい表情が破顔する。

「まずは昼餉ひるげと致しましょう」

 邑の屋根からは煮炊きの煙が上がり、食欲をそそる匂いがただよってきた。

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