二、鷹の主(5)

 家々に囲まれた広場に火がべられ、枝に刺した川魚が焼かれている。

 その火を囲むように車座になった鷹主彦らは、邑人むらびとから饗応を受けていた。

 干し肉と山菜を煮込んだ汁物に、穀物を潰して練り焼き上げた飯。春から夏にかけて山がもたらす恵みの滋味の数々。

 弥守みもりはありがたいと思いながらも、食事の味を愉しむことができない。

 燦々と照る太陽の下、開放的な気分で談笑する声。いつもなら微笑ましく感じるはずのそれが今は煩わしく、頭の中を揺さぶられるように響く。大人に混じって、子供の甲高い笑い声もする。気付けば、初めて見る郷の長への興味に駆られて、邑の子らも集まっていた。

 弥守のかたわらからも、鷹主彦たかぬしひこについてひそひそと語る子らの声が聞こえた。


「あれが多津野たつのさまのお父さま?」

「そうだよ。おれらを守ってくれる方だ」

「立派なおひげね」


 兄妹だろうか。兄と思しき方は髭以外に褒めるところがあろうとたしなめている。

 弥守はその話題よりも、この子らの口から多津野の名が出てきたことに驚いた。郷の長を鷹主彦ではなく多津野の父、と呼んだのだ。確かに、多津野は弥守と違って昼間によく館を出て郷の彼方此方あちこちで過ごしているようだった。この邑にも来たことがあるのかもしれない。

 やはり多津野の方が、鷹主彦の息子として邑人から認められているのだ。その事実を突き付けられたようで、弥守は胸にちくりとした痛みを覚えた。


 座が賑やかになったところで、鷲羽わしばがすっくと立ち上がる。

「若造どもよ。ここにおわす鷹主彦が如何にして我らの長となったのか、知らぬ者もあろう。この座で一番爺のこのわしが、僭越ながら聞かせてやろう」

 一同に向かって、鷲羽が朗々と語り始めた。

「かつて我らは川下の、北の山を越えた向こう、更に幾重もの山並の先にある地に住んでいた。周囲には小さな郷同士が寄り合い、互いに支え合って暮らしておった。ある者は獣を狩り、ある者は魚を獲り、ある者は種を蒔いてたなつものを育てた。各々が必要な役を分け持ち、暮らしは慎ましくも豊かで、安らかじゃった」

 邑人に混ざって弥守も思わず居住まいを正していた。

 鷹森に落ち着く以前の暮らしを知る者はもう郷にはほとんどいない。弥守も父や飯綱いづなから当時の話を聞いたことはあるが、それも伝聞の更に伝聞に過ぎず、何となく想像できる程度のものだった。鷲羽ならば、その時代を生き延びた人々とじかに接したことがあろう。

「しかし、安らかな日々に割って入る者があった。西の山の向こうから現れた、宇都志うつしと名乗る者どもじゃ」


 ——宇都志。その名は弥守もよく聞いている。彼らこそ、鷹森の者が最も恐れる相手。山向こうからこの地へ攻めてくる者があるとすれば、宇都志の奴らであろうと言われている。


「奴らは強かった。馬を駆り、くろがねの武器を携えて、我らの父祖の土地を踏み荒らした。そしてその地に住んでいた者達に宇都志への服従を迫った」

「服従? 他所よそから来たのに?」

 どこからか子供の一人が訊いた。

「そうじゃ。本来我らが生きるには、己の生きるかてだけ足りていれば良いものだが、奴らはそうは考えぬ。己を満たし、更に肥えることを欲する。そのために、他から奪うことを選ぶ。横暴で野蛮な奴らよ」

 鷲羽の太い眉の形が険しく歪む。

「そのたけき武の力をもって、戦うことに慣れぬ我らの父祖をおびやかし、その上に自らが立たんとした。そのとき寄り合っていた郷の多くが、その力の強さに恐れおののき、まともに戦うことなく屈していった。そうして驚くべき早さで宇都志の軍勢は川下の地を平げた」

 戦うことを諦めさせるほどの武力。それほどまでに強い者達が、眼前の山を隔てた向こうにいる。弥守のてのひらにじわりと汗が滲んだ。


「宇都志の勢いは増すばかりであったが、奴らのやり方に異を唱える者も現れた。ある鷹使いの男じゃった」

 それが何者であったのか。きっと皆、気付いている。話の行方を期待して聴衆の目が輝き出した。

「その男は特に戦いが得手というわけでも、人を采配する才覚があるわけでもなかった。ただ、とりや獣と心を通わせ、山を崇め、水を尊び、土を愛していた。儂らにとっては当たり前のことじゃ。だが、儂らの父母はその当たり前を、宇都志に奪われた。奴らは獣を使い、山を拓き、川を曲げ、土を掘り、郷の形を人間に都合良く変えていった。郷を支配するのは宇都志の長となり、山の神も霊もないがしろにされた」

 踏める土地は全て我が物であるかの如き振る舞い。山向こうでは、そんな横暴が許されるというのか。もしも弥守がその様を目の当たりにしたなら、どうしたろう。

「山ではなく他所者よそものこうべを垂れる人々の姿を見て、の鷹使いは我慢がならなかった。山々がもたらす恵み以上の取り分を力尽くで得ようとするやり方を、許せなかった。故に彼は、父祖から受け継いだ生き方を譲るまいと心に決めた。初めは一人の戯言ざれごとと思われたが、頷く者は日に日に増え、郷一つにも等しい数の同志が彼の元に集まった。その出自は一つではなく、宇都志に屈した其々それぞれの郷から、うちくすぶる思いを抱いていた連中が噂を聞きつけつどったのじゃ」

 ただ他人より己に正直であり、頑固であっただけ。しかしその姿は、そのとき己の心に蓋をせざるを得なかった人々の目には、極めて眩しく映ったに違いない。

「彼は己の元に集った仲間を従えようとはしなかった。かつて小さな郷同士が役を分け持ち支え合ったのにならい、各々おのおの活計たつきを見極めて役を決めてやった後は、事細かに命ずることはしなかった。己もまた、一人の鷹使いとして狩りにいそしんだ。だがそのおごらぬ性質たちかえって仲間から慕われ、自ずと彼らに持ち上げられていった」

 郷の長という立場は自ら得たものではない、郷の民の意思の表れなのだ、と弥守は父からよく聞かされてきた。今になって、その意味がよく解る。


「自らに従わない集団が現れたことを、当然に宇都志の奴らもしとはせなんだ。幾度か脅し紛いの警告をしたが、鷹使いの男は決して膝を折ることはなかった。互いに一歩も譲らぬ状況が数年続き、やがて脅しは争いへ転じた」

 どちらが先に手を出したかは、もはや定かでないだろう。全く相容れぬ両者の関係が極度に緊張していたことは想像に難くない。

「互いに支え合いながら生きてきた者達じゃ。いくさには不慣れじゃった。強大な宇都志の軍勢には到底敵わぬ。それでも善戦した日もあった。しかし命を落とした者も少なくなかった。勝ち目はないと見た鷹使いは父祖から受け継いだ地を離れ、逃げることを決めた。一部の勇猛な者は反対した。鷹使いは彼らを説き伏せた。逃げて、生きるのだと。逃げ延びた先で皆の役に立って欲しいと。必ずそなたのような力持ちが要るからと」

 その中に儂の父もおったそうだ、と鷲羽は付け加えた。

「鷹使いは集った仲間を引き連れ、山道へ逃げ込んだ。他所者の宇都志の連中には入り組んだ山の中は不利じゃ。対して鷹使いの一団は、彼の相棒たる鷹の導きで山道を迷わずに進むことができた。そして深い山を幾つか越え、ようやく追手の足の及ばぬこの地へ辿り着いたのじゃ」

 幼き堅香子かたかごもその一団の中にいたのだろう。女子供も共に山を越える苦労は計り知れない。追われている身では、当然十分に休息する暇もない。泣き愚図る子をあやすこともできない。命懸けの逃避行だ。その末にやっと見つけた息をつける場所。それが鷹森ここなのだ。


「鷹使いは皆をねぎらった後、各々好きに生きよと言った。自らもその片隅で密やかに生きるつもりでおった。しかし、好きに、と言われた彼らは、鷹使いの男を長として新たな郷を築くことを望んだ。そして鷹に導かれてこの地を見つけたが故に、その鷹の主たる長を鷹主彦、と呼んだ」

 鷹主彦。期待していた名がようやく登場し、一同の視線が父に集まる。それを受けて、今度は父が口を開いた。

然様さよう。鷹主彦とは、そなたらの父母が選び、定めた長に過ぎぬ。己の信ずるものを曲げずに生きることを選んだ気高き者達が、その心を一つに束ねる役を担う者を必要とした。儂が鷹主彦でいられるのは、皆がこの郷でつつがなく暮らしていたいと変わらず望んでくれているからじゃ。故に儂は、そなたらのために最善を尽くす。儂の父が、祖父がそうしてきたように。無論、儂の息子達も」

 鷹主彦が弥守を見た。

 その視線を追って邑人達の目も弥守に向く。

 向けられた幾つもの瞳が容赦無く弥守を品定めしようと待ち構えている。

 その中の一際鋭い眼光を辿れば、光に遮られず久方ぶりに見た父の顔。その顔はもう、弥守の庇護者としてのものではなかった。弥守が郷を任せるに足る器かどうか見極めんとしている。同時に、己の息子の力量を信じ、任せようとしている。


 父の心は変わってはいない。幼き弥守に信じると言ってくれたあの日から。

 星を読み、星に見せられるまま、他人ひとえぬ真実を語る。その力を生かせ、とその眼が命じている。


 震えそうになる声を抑え、弥守は邑人達と視線を合わせた。

「郷の外はこれまでにない危機に晒されています」

 弥守の言葉に一同がざわつく。

「空に奇妙な赤星が現れたのをご存知でしょうか。あの夜から、鷹森の外では小川や泉がれ初めているのです」

 大人達はいぶかしげに顔を見合わせている。

 やはり己が言っても信じてもらえないか。弥守が歯噛はがみする間に、飯綱いづなが立ち上がる。

「弥守様の仰っていることはまことです。鷹主彦の命を受け、郷の外の様子を見て参りましたが、確かにかつてあったはずの流れが途絶えているところがありました。このまま水が涸れ続ければ、鷹森を流れる水を求めて、他所者が我らの郷へ現れることもありましょう」

 半信半疑だった者達の表情に一気に緊張が走った。

 同じ邑の出で、鷲羽の養い子でもある飯綱が話せば、こんなに素直に聞き入れられるのか。否、それだけではない。きっと多津野が話しても同じように聞いてくれたろう。彼らにとって、弥守はまだ得体が知れず、頼りないのだ。

「まさか、宇都志が攻めてくるというのですか?」

 恐る恐る問う邑人に、鷹主彦が答える。

「初めからいくさになるとは限らぬ。そうならぬよう、話をつけるのが儂の役目じゃ。しかし、話が通じぬこともあり得る。それ故に、皆には備えてもらいたい。どちらに転んでも、我らの郷を守れるように」


 かつての宇都志の蛮行を聞かされたばかりの人々には、ことに恐ろしく聞こえたに違いない。皆、弥守と同じく戦というものを知らない。山に守られ、郷の外を知らない。だが、いたずらに恐れるのは賢明ではない。未来は決して絶望すべきものではないのだから。その未来を弥守はた。彼らの不安を和らげてやれるのは、自分だ。

 弥守は飯綱の横に並び立ち、どう受け止められるかを恐れずに語りかけた。

「全ての元凶はあの赤星です。今、我が弟、多津野があれを止めるために動いています」

 多津野の名を出すと、うつむきがちだった邑人達の視線が少し上向いた。

「私は星を読み、先がどうなるか知っています。多津野は必ずやり遂げます。だから、どうか信じて待っていてください。あの赤星が落ちるまで——」


 弥守は天を仰いだ。

 そらが動く。

 太陽と赤星が重なる。

 強烈な痛みが脳髄に走った。


 ——ゆるすな。燃やせ。


 何か聴こえる。うるさい。

 星のさざめきか。

 違う。もっと、重い。苦しい。


 ——き尽くせ。

 ——が命断ちし父の生ませたるものことごとく。

 ——が命断たれし後に生まれたるものことごとく。


 これは、呪いだ。


「弥守様!」

 薄れゆく意識に飯綱の声が残響する。

 弥守は既に自重を支える力を失っていた。

 手を伸ばすこともできず、その身はそこへどうと崩れた。

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