第17話 風伯
1
和尚さんは、自分の荷物は自分でまとめて直接神社に行くというので、俺は天子さんと一緒に転輪寺を出た。
予報では明日の昼にも台風が来るはずだけど、そんなことが信じられないくらい、からっと晴れて、空は青い。とても深い秋の空だ。
「天子さん。俺たちは神社に避難するんだね」
「うむ」
「村の人たちには声をかけなくていいんだろうか」
「声をかける、とは?」
「むかし洪水が起きたときには、村人はみんな地守神社に避難したそうじゃないか」
「時代がちがう」
「それはどういう意味?」
「もともと
「うん。それは知ってる」
「さらに二本の支流がこの村に流れ込んでおった。それは、ふだんは里人の暮らしになくてはならぬものであったのじゃ」
「うん」
「じゃが、今は水道がある。ゆえに支流は必要なくなり、代わりに一本の用水路だけが残された」
「うん」
「大きな土木工事が、比較的容易にできるようになり、川の流れは修正され、高い護岸が築かれた」
「そうなんだね」
「じゃから、昔のような洪水は、まず起こらぬ」
「そうか、安心なんだね」
「まあ、絶対に堤が切れぬとはいえぬが、よほどのことがないかぎり、だいじょうぶじゃ。そして今度の嵐はそう何日も続くものではないから、さほどに川の水量は増えぬであろう」
「そういえばそうだね」
「それに人々の家も暮らしぶりも、昔とはちがう。堅固な建築となり、二階建ての建物も多い。電気もないような不自由な木造の古い神社に避難せよと言うても、誰も来ないであろうなあ」
「そうか。そうだね」
「じゃが、先ほど法師どのが言ったように、あのかたの家と、転輪寺と、おぬしの家は、狙われるかもしれぬ」
「うん。どうやって狙うんだろう」
「それはわからぬ。結界があるから、法術による攻撃は届かぬはずじゃ。しかし風や水は結界を素通りするからのう」
「そこも訊いておけばよかったね。ごめん」
「いや。おぬしは見事に敵の正体と現状を暴き出した。あれ以上を望むのは無理というものじゃ」
「でも、攻撃方法を詳しく訊いておかなかったのは、失敗だった」
「無理をして、敵に魂降ろしじゃと気づかれておったら、取り返しのつかぬことになったかもしれぬ。上出来じゃろう」
「ううーん。雨と風か。待てよ、あのとき天逆毎は、〈いまいましいものは何もかも、雨で押し流し、風で吹き飛ばしてくれる〉って言ってたよなあ……。天子さん」
「うん?」
「神社には結界があって、強すぎる雨や風は通さないんだったね」
「そうじゃ。じゃから大災害のときの避難所ともなったのじゃ」
「ならやっぱり、村の人たちを避難させたほうがいいんじゃない?」
「というても、村人全員が立ち入れるほどの広さはないし、社殿に入れる者となると、さらにわずかじゃ。食事などの問題もある。家に閉じこもっておったほうが快適であろうなあ」
「……そうか。そうだね。雨師と風伯が襲いかかってくるとは言えないしね」
「言っても信じないであろうな」
「天子さんは、自宅に荷物を取りに帰らなくていいの?」
「うむ。二日や三日なら、何も問題はない。少々の着替えなどは羽振家に置いてあるしの」
「そうか。それにしても、ひでり神さまをどうやって移動しよう」
「ふむ。その答えが向こうから来たぞ」
何のことだろうと思うと、家の前に車が止まっているのがみえた。
大きな乗用車だ。アメ車っていう感じだな。
この車にはみおぼえがある。
写真だ。
写真のなかでは、この車の前で、少年時代の成三さんが、父親の
耀蔵さんが訪ねてきてくれたんだ。
2
「おい、大師堂。艶ばあさんを引き取ったってえじゃねえか」
「うん、まあ、一時的にですけど」
「あのばばあは独り身だもんなあ。えれえ。おめえはえれえよ」
「いや、あの。そういうわけでもないんですけど」
「なんでも、艶ばあさん、寝たきりになっちまったんだってえ?」
「そんな話、どこから?」
「いやまあ、村内の噂でよう」
「秀さんですね」
「う、ま、まあな」
「それで、何かご用でしたか?」
「それよ。寝たきりのばばあ抱えてよう、困ってんじゃねえかと思ってよ。何しろ明日来る台風は、記録破りの大型台風みてえだぜ」
「ここに着くころには、さらに大型になってるでしょうね」
「お? そんなこと、わかんのかい?」
「ただの勘です」
「さすが大師堂だな。なんか俺にできることがあったら手伝わせてくれ」
耀蔵さんて、ほんとに義理堅い人だ。
「助かります。実は、地守神社に避難するつもりなんです」
「はあ? だっておめえ、あんな吹きっさらしだぜ? 電気も通ってねえ。煮炊きする道具だってねえ。雨風だって、どのくれえ防げるもんやら」
「耀蔵さん」
「おう」
「あなたを男と見込んで頼みがあります」
「お、おう! 引き受けた!」
「とにかく神社に行かなきゃならないんです。何にも言わずに、移動を手伝ってください」
「ぃよっしゃ! 俺に任せとけ!」
それからあわただしく荷物を積み込んだ。
まず一度神社に行って、布団や衣類、タオル類、それに水や缶詰と懐中電灯などを降ろした。水はポリタンクで運んだし、ミネラルウォーターも十本あった。
次にひでり神さまを乗せて移動した。天子さんは、ひでり神さまに付き添ってもらうため、神社に残した。
そして最後に、食品や、もろもろの物を詰め込んで運ぶ。
荷物を詰めているとき、神棚が目に入った。
ちょっと迷ったけど、わが家のお社も、童女妖怪のお社も、地守神社に持っていくことにした。じいちゃんと、お父さんと、お母さんの霊璽も箱に詰めた。その前に置いてあった水虎の毛玉二つは、ジャンパーの左右のポケットに押し込んだ。手を入れると、ほかほかとして温かい。
せっせと荷造りしていると、訪問者があった。
「あらあ? どこに行くのかしらあ」
「山口さん、どうしたんですか、こんな日に」
「こんな日って、どんな日?」
「嵐が来ます」
「知ってるわ《アイ・ノウ》」
「……こんなやりとりも、何かの映画にありましたね」
「ふふ、話が通じてうれしいわ。やっぱり私たち、ベストカップルね。こんな日だから来たのよ。カップル麺を買い占めにね」
「カップ麺ですか。好きなだけ持っていってください。お代は一個一律百円にしておきます」
「どこに行くの?」
「地守神社です」
「あたしも行くわ」
「……へ?」
「あたしも行く、って言ってるの」
「な、何のために?」
「一つ。鈴太さんが嵐に備えて地守神社に避難するということは、地守神社には、何か特別な守護があるのよ」
「……」
「二つ。艶さんも連れていくんでしょう」
「ええ」
「女手があれば、何かと便利よ」
「……」
「三つ。吊り橋効果って、知ってる?」
「やっぱり来なくていいです」
「ひどいわ、鈴太さん。自分だけ安全な場所に避難して、あたしには死ねというの?」
「いや、山口さんの住んでる場所、高台じゃないですか。家も新築で立派な造りだし。この村で一番安全な場所の一つじゃないですか」
「ならどうして、艶さんの家に避難しないの?」
「う」
「あそこも高台で、小さいけれど家の造りは、すごくしっかりしてる。電気もガスも水道も完備してる。ソーラーシステムまであるから、停電にも対応できるわ」
「よくご存じですね」
「とにかく女の勘よ」
「え?」
「今回は鈴太さんと一緒にいるべきだって」
わけがわからない。だけど押し問答してる時間がもったいない。
何より、この人は、俺たちが妖怪を相手にしてることを知ってる。つまり、あんまり遠慮が必要ない。村に家族や親族もいないから、話が漏れる心配も少ない。というか、この危機が乗り切れれば、人の噂とか何とかいうようなものは、もうどうでもいい。
「耀蔵さん」
「おう」
「まことに勝手を言いますが、一度山口さんの家に寄ってもらえますか?」
「おう。いいけどよう。この女、おめえの何なんだい?」
「店のお客さんです」
「恋人よ」
「おいおい、山口さんよう。大師堂とは、うちの姪っ子が付き合ってるんでえ」
「付き合ってません」
「まとわりつかれてるだけよ」
「なにおう!」
「けんかはあとにしてください!」
「お、おう」
「ごめんなさいね、鈴太さあん」
「後部座席に詰めるだけの荷物しか運べません。山口さん、いいですね」
「上等よ。何とかするわ」
結局、車は、わが家から運び出す荷物で一杯になってしまい。山口さんの家には別途往復してもらうことになった。山口さんが着いたときには、空は薄暗くなっていた。
3
「鈴太よ。どういうわけで、あの女狐を連れてきたのじゃ」
「狐だと同族になっちゃうよ」
「揚げ足を取るでない。なぜあれを連れてきたのじゃ」
「連れてきたというより、勝手についてきたんだよ。文句があるなら本人に言って」
天子さんは、それ以上ぐだぐだ言わず、荷物を段ボール箱から取り出し始めた。
ぽつぽつと雨が降りだしている。暗くなってしまう前に荷物を整理して使いやすい状態にしておかなくてはならない。
祭壇も整理した。鏡や唐櫃は八足から降ろして段ボールに入れた。榊の花活けなど割れやすいものは新聞紙で包んで段ボールに入れた。食品はビニールに包んでわかりやすい場所に置いた。簡易調理器具や食器もひとまとめにした。懐中電灯は、一つを残してガムテープで固定してつけっぱなしにした。乾電池の数は充分に足りている。布団は敷きっぱなしでいい。山口さんは、寝袋を持参している。
和尚さんは、俺と山口さんが到着する前に、神社に来ていた。
オーバーコートのようなものを羽織っていて、右腕がないことは、ちょっとみただけではわからない。山口さんは、右腕がないことに気づいたけど、特に事情を聞き出そうともしなかった。和尚さんは、作業は手伝わず、部屋の隅でじっと瞑想している。
山口さんは、意外な手際のよさを発揮して、荷物の整理を手伝ってくれた。正直、大いに助かった。
「よし、と。こんなところね。それにしても、艶さん。全然目を覚まさないけど、お医者さんにはみせたの?」
「山口さん」
「はあい。なあに、鈴太さあん」
「艶さんは、人間じゃないんです」
「おい、鈴太」
「天子さん。いいんだ。艶さんは、食事もしなくていいし、排泄もしません。今はある事情で力を失って眠ってます。いずれ目を覚ましてくれると思うけれど、それがいつのことになるのかはわからないんです」
「わかったわ。二つだけ教えて」
「二つ? うん。答えられることなら」
「あなたは人間ね?」
「うん。俺は人間です」
「これから、何が起きるの?」
「……今こちらに近づきつつある台風は、雨師と風伯という敵が操っているんです。つまり敵の攻撃です。その攻撃をしのぎきれば、こちらの勝ちです」
「わかった。もうよけいなことを訊いて手間をとらせたりしない。あたしにできることがあったら、何でも言ってちょうだい」
「ありがとうございます。特に今のところ指示はないです。できることを何でもしてください」
そのとき、ラジオが台風情報を告げた。
「さらに勢力を拡大しつつある台風二十二号は、急激に速度を上げており、夜明け前には、岡山県全体が暴風域に入る見込みです。通常、台風が速度を上げるときには小型化するものであり、気象庁によれば、今回の台風の動向は説明がつかないとのことです」
4
その後台風はますます速度を上げた。
雨も強くなってきた。もう外は真っ暗だ。
風がびゅうびゅう吹き寄せる。風に吹かれて木々が上げる音がやかましい。
この神社の境内の周りには、びっしりと樹木が植えられている。だから横から吹いてくる風はさえぎってくれるんだけど、上から吹き下ろしてくる風は社殿を直撃する。密閉した造りとはいえないから、隙間から風が吹き込んでくる。石油ストーブを持ち込んでいなかったら、かなり寒い思いをしなくちゃいけなかったろう。
夕食は、パンと、カップ麺と、ドーナツだった。電気の湯沸かし器が使えないのは残念だけど、カセットコンロのボンベはたっぷりある。石油ストーブの上にも水の入ったヤカンを置いてある。
「カップ麺が宙に浮いて、中身が段々減ってるのは、どういうわけなの?」
「あ、そこに一人妖怪がいるんです」
「ちょっとサイズの小さな妖怪よね?」
「童女サイズですね。十二単を着たかわいらしい女の子の妖怪ですよ」
「あちしのかわいらしさに、ようやく気がついたですか」
「そういう言い方をしとけば、怖がらせずにすむだろう」
「仲がいいのね」
「いえ、全然」
和尚さんは、カップ焼きそばと、コーンビーフの缶詰だ。これなら床に置いて食べられる。フォークを使って、左手で食べている。
「さて、コーヒーをいれようかしらね。あ、紅茶がいい人がいたら言ってね」
「わらわは紅茶じゃ」
「りょうかーい。あ、女の子妖怪さんは、コーヒー? 紅茶?」
「油揚げがいいって言ってます」
「まあ、ひどい。鈴太さあん。小さな女の子をいじめちゃだめよ。和尚さんは、コーヒーにしますか? 紅茶ですか?」
「コーヒーをもらおう」
温かいコーヒーは、心も温めてくれる。
強くなる雨の音、がたぴしと建物が風を受ける音、木々が風に吹き付けられる音、ストーブの上でヤカンがしゅうしゅうと湯気を立てる音を聞きながら、不思議にゆったりした時間が、社殿のなかを流れていった。奇妙なもので、音というのはずっと聞いていると慣れてくる。激しい風音も、もうあまり気にならなくなってきた。
「ますます速度を上げておるようじゃな」
「夜中過ぎには、ここらも暴風域だね」
「鈴太よ、横になって休め。山口もじゃ」
「え? まだ眠くないです」
「それは気が張っておるからじゃ。今起きておってもすることはない。べつに眠らなくてよいから横になれ。体力をたくわえるのじゃ」
「はい」
「じゃ、あたしも遠慮なく、休ませていただきますわね」
「これ、寝袋を鈴太の横に移動するでない」
「山小屋では身を寄せ合って温め合うものなのよ」
「どこが山小屋じゃ」
真夜中になるころ、羽振村は暴風雨圏に入ったみたいだ。
外をみても、まっくらななかに、ざあざあと雨ばかりが降ってくるので、何がなんだかよくわからない。
ただ、風は少し静まっているように思った。
山口さんは、ひでり神さまにつきっきりで、汗をふいたり、手をさすったりしている。
ざあざあと、雨は降り続けた。
雨の音を子守歌に、うつらうつらとしていた。
どれほどそうしていたろうか。
遠くでどごおおん、という音が響き、少し遅れてびりびりと建物が震えた。
「む」
和尚さんが立ち上がった。そして社殿正面の扉に歩いてゆき、扉を開けた。
とたんに強い風が吹き込んでくる。
「きゃああ」
山口さんが悲鳴を上げた。
俺も起き上がって扉のほうに歩く。
そこには異様な光景が広がっていた。
5
天空には黒雲が渦を巻いている。
まだ夜は明けていないはずなのに、山の向こう側がぼんやり光っていて、変わり果てた村のようすが目に飛び込んできた。
水だ。
あたり一面の水だ。
地守神社の正面には広々と田んぼが続いている。
その田んぼが完全に水没している。
家々は、水のなかから突き出ている。家によっては床上まで漬かっているかもしれない。
なんということだろう。
まるで村がそのまま海になったかのようだ。
ひどく暗いので、被害のようすをはっきりみさだめることはできない。
だが尋常でない災害が今村を直撃しているのはまちがいない。
水はごうごうと逆巻いている。
異常な量の水が、村をひたしている。
神社の前の道路は、まるで川だ。逆巻く川だ。
川のようになった道路にあふれかえった濁流は、境内地の両脇に、だくだくと流れ落ちてゆく。
今までの洪水のときも、こんな光景が現出していたんだろうか。
「堤が切れたのじゃな。まさか、こんな短時間にこれほどの雨がふるとはのう」
天子さんだ。
その横顔は厳しい。
「こ、こんなことって。こんな山の上の村が、こんなに浸水するなんて。こんなこと、あり得るの?」
山口さんだ。ふかふかのダウンのジャンパーを着ている。鮮やかな赤色のジャンパーなのに、後ろから差してくる懐中電灯のあかりに照らされると、なぜかどす黒くみえる。
「天子さん」
「どうした、鈴太」
「村にあかりがみえない。どの家も真っ暗だ」
「うむ。停電したのであろうな」
「あれ? 何か聞こえない?」
ごうごう、ごうごうという、不気味な音が聞こえる。
少しずつ音は大きくなる。
「何の音じゃろうなあ」
和尚さんにわからないものが、俺にわかるはずがない。いったい何が起きようとしているんだろう。
ごうごう、ごうごうという音は、ますます大きくなってくる。
「何が、何が起ころうとしているんだ?」
俺が思わず声を上げた、その次の瞬間。
どどーんと、地を破るような音がした。
一匹の竜が天逆川の上流から飛び出して、転輪寺のある高台に襲いかかる。
そして水がはじけて高台の上部を砕き飛ばした。
「水じゃ! 濁流が空を飛んでおる!」
和尚さんに言われて気がついた。竜のようにみえたのは、水だったのだ。濁流が川を飛び出し、そのまま一本の巨大な水柱となって宙を飛び、転輪寺を直撃したのだ。あそこに和尚さんがいたら、命はなかったろう。
それにしても、これが、雨師と風伯の攻撃なのだろうか。なんというすさまじい攻撃だろう。今までの妖怪にも驚いたが、これはけたがちがう。まさに自然災害そのものだ。
こんな攻撃を、俺たちは耐えきることができるんだろうか。
6
少し落ち着いてくると、暗いなかだけど、辺りの光景が段々はっきりみえてきた。
よくみると、この境内地に降っている雨は、村やその向こうの山々に降っている雨より、明らかに勢いが弱い。ここが雨や風を和らげる結界を持っているという事実を、まざまざと実感した。
ごうごう、ごうごうという音が、またも響いてきた。
音は段々大きくなる。
そしてどごーんという破裂音とともに、二匹目の竜が川から飛び出した。今度の竜は、俺たちに横腹をみせて、左のほうに飛んで行く。長く続く巨大な水流は、本当に竜そのものだ。そして二匹目の竜は、有漢地区の南の端のほうに着弾して、山や家を吹き飛ばした。
ひでり神さまの家が直撃されたんだ。
そしてその近くには、山口さんの家もある。
「あたし、ここに来たおかげで、命が助かったのね」
呆然とした声で、ぼそりと山口さんが言った。
「山口の家は直撃されてはおらんようじゃ。しかし、土砂はかぶったであろうな」
「和尚さん」
「どうした、鈴太」
「こんな攻撃を、いくらでも繰り返せるとしたら、村は壊滅してしまいます」
「落ち着け」
「でも」
「わしも驚いた。しかし、雨師と風伯の力は想像を絶するものであるにせよ、
「あと一回?」
「長壁!」
「はいです」
「〈探妖〉を頼む」
「はいなのです」
「範囲は雲の上に届くほどの広範囲となるが、できるか?」
「相手が強力な妖気の持ち主ならできますです」
「対象は、雨師と風伯じゃ。極めつけに強大な妖気の持ち主じゃぞ」
「できます」
「和尚さん!」
「鈴太、どうした」
「今どうしてそんなむだを?」
「何がむだなのじゃ」
「だって、雨師や風伯の位置がわかったからって、何にもならないじゃないですか」
「位置が知りたいのではない」
「え?」
「おるかおらんかが知りたいのじゃ」
「えええっ?」
だって敵の総大将である天逆毎が、雨師と風伯を呼び寄せて雨と風で攻撃すると言ったんだ。本人がそう言ったんだ。
「長壁、頼む」
「はいです」
童女妖怪は、どこからともなく御幣を取り出し、さささっと左右に振った。気のせいか、今日は元気がいいような気がする。
「わかりました!」
はやっ。
「うむ。どうじゃった」
「ちょうどこの地点の真上、上空一万五千メートル地点に雨師がいます!」
一瞬、数字を聞きまちがえたのかと思った。
だけど、そうじゃないんだろうな。
この童女妖怪は、とんでもない能力を持っているんだ。
「うむ。台風の上じゃな。風伯はどうじゃ」
「いません」
「えっ?」
俺は思わず声を上げた。
「風伯がいない?」
「いないのです」
「探知範囲外にいるんじゃないか?」
「むっ。失礼です。今、日本本土上空には、風伯はいないのです」
日本本土上空とは、ずいぶん大きく出たものだ。
しかし、風伯がいない?
いったいどういうことだ?
「ふん。そんなことではないかと思うたわ」
「法師どの。説明してもらえるかの」
「風伯がいるにしては、風が弱すぎる。これは普通の台風の風じゃ。それも大した勢力のない台風のな」
「そういわれればそうじゃな」
「そもそも、天逆毎の持つ妖気で、雨師と風伯を同時に呼び出せるという話がおかしい。きゃつが一度に呼び出せるのは、雨師か風伯、どちらか片方だけなのじゃ」
そんなことがあるんだろうか。
でも、考えてみれば、二柱の神霊を同時に使役する、などとはひと言も言っていない。そして、現に雨師しか出現していない。
「あれ? しかし、この台風は異常な速度を出してたし、驚異的な勢力も持ってたはずじゃあ」
「そこは、雨師と風伯を、うまく使い分けておるのじゃろう。とにかく、雨師が顕現しておるあいだは、風の心配は無用じゃ。むっ」
ごうごう、ごうごうという音が、またも響いてきた。
段々強くなる。
ますます強くなる。
破裂音とともに、三匹目の竜が出現した。
そしてその食いつく先は……
「鈴太さんのおうちが!」
この位置からでは、はっきりとはわからないが、空中に伸び上がった巨大な水流が着弾したのは、確かにわが家のあるあたりだった。
〈四宝堂〉は壊滅したろう。筆も墨も、じいちゃんが書きため、収集した書の数々も。
だけど〈はふりの者〉が伝えてきたお社は無事だ。今、この神社に持ってきている。じいちゃんと父さんと母さんの霊璽も無事だ。そのことがうれしかった。
「さてさて。四発目を打つだけの力が残っておるかどうかじゃて。天狐よ」
「法師どの。何か」
「あの水の竜が、この神社に襲いかかったとして、この神社の結界は、それを防いでくれるじゃろうか」
「防がんであろう」
「そうじゃな。では、お前の結界で防げるか?」
「この場所で、一度なら防げると思う」
「よしよし。やはりここに避難して正解であったな」
「天子さん。この神社だと、結界が強くなるの?」
「うむ。一つには、わらわが独力で結界を張るのでなく、この神社の結界を補完する形で結界を張ればよい。一つには、境内をおおう樹木には、わらわが長い時間をかけて霊気を込めてきておる。それがわらわを助けてくれる。そして何より」
天子さんは、顔を俺のほうに向けて、にっこり笑った。
「おぬしがそばにいてくれるからのう」
「えへん。えへん」
「風邪か、山口? 寝袋に戻るがよい」
「神社の外では神霊との戦いが、神社のなかでは女同士の戦いが繰り広げられているのです」
「あっ」
「どうしたのじゃ、鈴太?」
「油揚げがない」
「ええええええっ?」
「持ってくるの忘れた」
「負けた。戦ってなかったけど、あちしは敗北したです」
童女妖怪が、がくっと床に突っ伏した。
「油揚げがどうしたの?」
「童女妖怪は、油揚げが好物なんです」
「あらあ、そうだったの」
そのとき、またもや、ごうごうという音が響いてきた。
音は段々強くなる。強くなるが……
「この音、さっきよりは弱いわねえ」
今までの三回に比べ、格段に音が小さい。
そして四匹目の竜が天逆川から飛び出した。
まっすぐこちらに向かっている。
そして天子さんが張った結界に衝突した。
どどどどどど、とすさまじい轟音が響き続ける。
最初は思わず目を閉じてしまったが、たたき付けられ続ける水の暴力を、俺は自分の目で確かめた。
その音が止まった。つまり水の竜の攻撃が終わった。
天子さんは前方に突き出していた両手を下げた。
「ふう。恐るべき圧力であった。もしも転輪寺を襲ったような大きな竜が最初にここを襲っておったら、押さえ切れなんだやもしれぬ」
「ふむ。戦いの流れは、こちらに傾いておるのう」
そうだ。和尚さんの言う通り、これは戦いだ。防衛戦という戦いだ。
こちらからの攻撃手段はないけれど、防ぎ続ければ敵は滅ぶ。
戦いには迷いや疑いや不安が最も悪い。
和尚さんが、わざわざ〈探妖〉をさせたのも、たぶんそのためだ。
相手の手の内を読み取って解説してくれるのも、たぶんそのためだ。
敵の状態を正しく知り、敵の攻撃を正しく予測することで、こちらの精神的な負担はぐっと軽くなる。味方の心を強くするのも戦いなんだ。
7
「そうか。そうじゃったのか」
和尚さんが言葉を発した。何に気がついたんだろう。
「鈴太よ」
「はい」
「
「はい」
「うむむ。それを聞いたときは、何をあたりまえのことを言うのかと思うた。この里は何度も大水害にみまわれておる。大水が結界の内に入ってこれるは自明の理とな」
「はい。俺もそう思ってました」
「じゃが、そうではなかった。洪水のときにか、別のときにかわからんが、天逆毎は、結界の内に水を投げ込む実験を、いつのまにか行っておったのじゃ。つまり、妖気の添わぬ水を投げ込むすべが、天逆毎にはあるのじゃ」
「あ」
「先ほどの水の竜は、その実験の成果なのじゃろうなあ」
「そう……なんですね」
「ということは、あの水の竜は、雨師の力というより、雨師の力を借りて天逆毎が作り出したものじゃという推測が成り立つ。実験のときには雨師はおらなんだじゃろうからな」
「なる……ほど」
「あれほどの攻撃を四度も繰り出した天逆毎は、相当に無理をしておるにちがいない。勝機がみえてきたぞ」
なるほど。
和尚さんのしっかりとした声でそう言い聞かされると、本当に勝利が目の前にあるような気になる。
指揮官の資質だな。
「あ」
「どうした、長壁」
「消えました」
「何が消えた」
「雨師が消えました」
「ほう。雨師の出番は終わりか」
突然、雨が格段に弱まった。
空をおおう黒雲も、こころなしか勢いが衰えたようだ。
そのせいか、少しだけ空が明るくなった。
もう夜明けも近い。
「あ」
「ちみっこ。今度は何だ?」
「出現します」
「なにっ」
「上空に、何かが出現しますです」
雨は、小雨といっていいほどに弱まっている。
俺は扉の外に飛び出して、上をみあげた。
「先ほどの雨師とは気配がちがいますです。しかし、強力な妖気です。近い!」
すさまじい勢いで、はるか上空に雲が渦巻いている。
どーん。
「太鼓の音?」
「太鼓の音ねえ」
どーん。
「いったいどこで鳴らしているのかしらあ」
どーん。
(まてよ。前にもこんなことがなかったか)
(妖怪が現れる前に、何かの楽器が鳴る音が聞こえたことが)
四方八方から雲が参集し、ぐるぐると旋回しながら凝縮しはじめた。
それは、神社の上空、わずか数十メートルの距離だ。
みんなも外に出てきて、上をみあげている。
「ばかな……」
「法師どの。どうした」
「みよ、天狐」
「みておる」
「結界のなかじゃ」
「あ!」
「今まさに、この里の結界のなかに、あやかしが出現しようとしておる」
「そんなことが」
「まさか、結界が失われたのか?」
「いや。法師どの。里の結界は健在じゃ。この神社の結界にも異常はない」
「では、あれは何じゃ!」
しゃんしゃんしゃん。
しゃんしゃんしゃん。
小型のシンバルをかき鳴らすような音が響く。
そして、神社の上空に、それは姿を現した。
身の丈は十メートルを超えている。
金剛力士のように筋骨隆々とした妖怪だ。いや、妖怪ではない。神霊だ。
方相氏がこどもに思えるほどの圧倒的な存在感を放っている。
これが、たぶん。
「風伯! まさかこの目で拝むことがあろうとは」
「法師どの。すさまじい神気じゃ。弱っておるはずの天逆毎が、これほどの神霊を顕現させることができたのかっ」
「わからん!」
いつのまにか、雨はすっかりやんでいる。
そのかわり、風が吹き荒れている。
遠くの山々の木々が引きちぎれんばかりに吹き乱されている。
神社の境内地にも風は吹いている。
でも、結界の効果なのか、さほど激しい風じゃない。
「そうか。自然現象なんだ」
「なにっ?」
「和尚さんが言ったじゃないですか。〈雨師や風伯ほどの神霊になると、自然現象に近い性格も持つ〉。弘法大師さまの結界は、風伯を自然現象だと判定したんです」
「なに? まさか。しかし」
風伯が、息を吸い込んでいる。みるみるうちに、腹が大きくふくれあがる。
「いかん! 天狐、結界を」
「心得た!」
天子さんが両手を空に差し上げた。
風伯は、ため込んだ息を、まっすぐ下に吹き付けてきた。
暴風が俺たちを包み込んだ。そんな感覚を覚えた。
実際には、風伯が吹き付けた息は、結界に遮られて、境内地には届いていない。荒れ狂う暴風は、半球型の障壁の外側をすべり落ち、辺り一帯にまき散らされている。結界の表面は白く泡立って、上空はまったくみえない。
境内地の前の道路やその向こう側の田んぼに満ちあふれた水が滝のように噴き上げられている。現実世界の出来事とは思えないものを、今俺たちはみている。
長い長い息が終わって、再び風伯の姿が現れた。風伯のほうでも、こちらをみている。
破壊できなかった神社を、風伯はどんな気持ちでみおろしているんだろう。
右手を肩の上に回した。
刀だ!
背中に巨大な曲刀を背負っていたんだ。
その巨大な曲刀を、ぶうんと風伯は振った。
小山のような大きさを持つ風の刃が俺たちに襲いかかった。
天子さんに声をかけようとしたけど、天子さんはすでに結界を発動する態勢に入っていた。
そして風の刃が結界に激突した。
「きゃあ!」
結界は緑色のまばゆい光を放って消滅した。
衝撃が俺たちを襲った。
俺は吹き飛ばされて、ごろごろと転がった。
素早く立ち上がって、あたりをみまわす。
みんな倒れている。
和尚さんだけが立っている。大地に足を踏ん張って、上空をにらみつけている。
俺は天子さんに駆け寄った。さっきの悲鳴は天子さんの悲鳴だ。
ぐったりとした天子さんを抱き起こした。
「ううーん」
生きてる。目を開いた。
かっ、と目に力がこもる。
「おのれ、風伯。鈴太、わらわを起こせ」
「うん」
俺は天子さんを抱き起こした。
上空をみあげれば、風伯が悠然とこちらをみおろしている。
天子さんは、両手を高々と上げ、十本の指を開いた。
たちまち、その指のすべてから赤い燐光が立ちのぼる。
十本の細く鋭い魔法の爪が、風伯に襲いかかった。
そして赤い爪は、風伯を切り刻んだ。
「やった!」
「やったわ」
俺と山口さんが歓声を上げる。
「だめじゃ」
和尚さんが、小さくつぶやく。
赤い爪は風伯に食い込み、そしてすり抜けた。
「そう……か。相手は風、か」
風に刃物が通用するわけはない。
風伯が、再び長大な曲刀を振りかぶった。
俺は絶望するしかなかった。
もはや守ってくれる結界はない。
天子さんも力尽きた。
俺たちの負けだ。
風伯が曲刀を振り下ろした。
絶大な威力の風の刃が、上空から襲いかかる。
それは俺たちのいる場所をわずかにはずれて、神社の社殿に着弾した。
爆発音が響き、ばきばきと、重量のある木材が折れ飛ぶ音がする。
爆発の余波と木片が、あたりに降りそそぐ。
俺は思わず目をきつく閉じ、手で顔をおおった。
再び目をみひらいたとき、目に入ったのは、屋根が消滅した社殿だった。
今、風伯の目には、横たわったまま動くこともできないひでり神さまの姿がみえているはずだ。
そうか。
そういえば、古代中国の妖怪大戦争で、風伯は人間軍を蹴散らしながらも、最後はひでり神さまに太刀打ちできず敗れたんだった。
今のひでり神さまをみて、風伯は、それが憎い敵だとわかるだろうか。
たぶんわかるだろう。
風伯が曲刀を振り上げた。
そのとき、俺の心に突然激しい闘志がわいた。
(まだだ。まだ終わっていない)
(何の力もない俺だけど、この心でお前を倒す!)
必殺の気迫を込めて、俺は風伯をにらみつけた。
ぶるぶると、俺の体が震える。
ジャンパーの左右のポケットが、まぶしい光を発した。
そこから何かが飛び出して、上空に向かう。
向かううちに、それはぐんぐんふくれあがって巨大になる。
手だ。
虎の手だ。
水虎だ。
水虎が残してくれた毛玉が、巨大な虎の手になったんだ。
風伯が、どんな顔をして、それをみていたかはわからない。
あっ、という時間もない、わずかのあいだに水虎の
二つの手のひらは、風伯を両側から襲う。
巨大な掌が打ち合わされた。
悲鳴のようなものが聞こえたような気もする。
少し遅れて衝撃波が地上に降りそそぐ。
消える。
消えてゆく。
水虎の執念でよみがえった巨大な左右の掌は、だんだん姿がぼやけてゆき。
そして、消えた。
空には何も残っていなかった。
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