第4話 こなきじじい

1


 羽振村はぶりむらには地蔵が多い。

 樹恩じゅおんの森への東側の降り口にある地蔵は、庚申こうしん地蔵とか柿の木地蔵とか呼ばれている。

 樹恩の森への北側の降り口にある地蔵は、閻魔地蔵とか地獄地蔵とか呼ばれてる。

 俺が気づいた地蔵は、この二つを含めて八つだ。ほかにもあるかもしれない。

 奇妙なことに、八つの地蔵は全部村の端っこにある。そしてこれまた奇妙なことに、八つとも外側を向いている。つまり、村のなかを歩いている人は、地蔵尊の顔をみたことはなくて、後ろ姿ばかりみているわけだ。

 八つの地蔵のほかに、石の狛犬や石の獅子など、いろいろな石のオブジェがあるんだが、そのなかでひときわ奇妙なのは、〈こなきじじい〉だ。

 〈三婆さんばあ〉の一人、ひでさんがそう呼んでいるので、そのつもりであらためてみてみたが、正直いって、〈こなきじじい〉にはみえない。ただ、妙に頭でっかちでアンバランスな造形と、口の両側に生えたひげのようなもの、老人が泣いているような情けない顔つきが、ちょっとだけ〈こなきじじい〉っぽい。

 だいたい、この〈こなきじじい〉は、ほかの地蔵なんかと比べて、格段に年代が新しい。ごく最近作られたといわれても信じるだろう。そして、俺には石の善し悪しなんかわからないけれど、どうにも安っぽい。造りも雑な感じがする。

 こんなふうにいうと、いかにも存在感のないがらくたのような感じがするけど、存在感だけは抜群だ。

 というか、気味が悪い。

 正直いって、直視ししたくない。

 なんでこんなに不気味な感じがするんだろう。禍々まがまがしいものや荒々しいものには災厄を振り払う霊力がある、って聞いたことがあるけど、きっとこの〈こなきじじい〉は、魔を祓うんじゃなくて、魔を引き寄せる働きがあると思う。

 それにしても、秀さん以外の人が〈こなきじじい〉と呼ぶのを聞いたことがない二、三人の人と、このオブジェのことを話したことがあるけど、みんな、〈あれ〉としか呼んでなかった。きっと名状しがたい何物かなんだ。

 そんな〈こなきじじい〉を、熱心に信心してる人がいる。


2


天子てんこちゃん。粉ミルクちょうでえよう」

野江のえか。粉ミルクじゃな。少し待て。そら、これでよいな」

「はい。お代金」

「うむ。釣りじゃ」

「ありがとうなあ」

「うむ。また来るがよい」

 俺は店のほうに出た。

「お客さんだったんだ」

鈴太りんたか。ちょっと特殊な客でな」

「今の女の人は、何て名前なの?」

大塚おおつか野江という。皆からは、のえ、とだけ呼ばれておるな」

「のえちゃん、じゃなくて?」

「うむ。人からは愚鈍と思われておって、誰も敬称をつけて呼ばぬ」

「ご主人も?」

「野江は独身じゃ」

「え? 今、粉ミルク買っていったんじゃ」

「想像妊娠、というようなものかのう」

「騒々しいニシン?」

「おぬし、妙なことに詳しいかと思うと、時々当たり前のことを知らんのう。本当は子などできておらぬのに、子が欲しいという思いが余って、本当に妊娠したかのような体の状態になることじゃ。吐き気がしたり、い物が欲しくなる。月のものが止まることさえある。野江の場合は想像出産とでもいうのかの」

 野江さんという女性は、何をやらしてもとろくさくて、人からはばかにされてばかりだという。

 料理は、さんざん時間をかけて正体不明の煮物を作る。焼き物を作っていたはずでも、最後には煮物になるのだそうだ。

 裁縫をすれば、破れていない所を破ってしまい、縫い付けてはいけない所を縫いつけてしまう。

 計算をすれば、絶対に合わない。

 会話をすればとんちんかんで、さっき言われたことをもう忘れている。

 ところがそんな野江さんに特技がある。

 〈花むしろ〉の職人さんなのだ。

 野枝さんの家にはそこそこ広い土間があり、その真ん中に、いぐさの織機が鎮座してるらしい。倉敷市の何とかという場所から取り寄せた織機だ。

 この織機を使って野枝さんが作る〈花むしろ〉は芸術品で、ランチョンマットほどの大きさの作品で、五万円ぐらいするらしい。十万を超える場合もあるという。

 嘘だろうと思うが、本当なのだ。倉敷にある民芸品店と専属契約をしていて、外国から来た観光客に絶大な人気があるらしい。

 俺は、〈むしろ〉という言葉から、藁でできた粗末な敷物を想像してた。ところが、〈むしろ〉と〈ござ〉を一緒にすると、〈花むしろ〉の職人さんは烈火のごとくお怒りになるらしい。それぐらい、〈むしろ〉というものに誇りを持ってるんだ。もっとも、電子辞書で引いたら、〈花筵……花茣蓙に同じ〉とあったのは秘密だ。

 いぐさは現在では高級品なのだ。だから、畳表も本当のいぐさを使ったものは高い。

 そんないぐさが、この里には自生してる。

 天逆川あめのさかがわを越えて羽振村に入る直前の小道を、ずっと左のほうに進んでいくと、美泥沼みどろぬまという沼があって、そこに自生してるらしい。長さがそう長くないので、畳表なんかには使えないけれど、野江さんは、そのなかで、これはと思ったものを切ってきて、それで〈花むしろ〉を作る。

 天子さんの家は、美泥沼のさらに先にあるそうで、時々、野江さんが採ってきたいぐさをみかけるそうだ。それが素人目にみてもふぞろいというか、色も艶もまちまちなんだそうだ。ところがそれを野枝さんが織ると、色調や艶のちがいが何ともいえない味になるんだという。

 しかも、見取図というか設計図みたいなのを作らず、全部頭のなかで計算して模様を織り出すらしい。一種の天才なんだろう。

 その野枝さんが、悪い男に引っかかった。

 男は、ふらりとこの町にやって来て、野江さんから搾り取れるだけ搾り取ると、そのままふいと姿を消した。

 野江さんがおかしくなったのは、それからだ。

 時々、日持ちのしない食材を二人前買う。

 人と話をしてて夕方になると、そろそろ帰って食事を作ってあげないと、あの人が、とか言って、急いで帰る。

 そしてあるときから粉ミルクを買うようになった。

 どうして粉ミルクを買うのかと聞いたら、こう答えたそうだ。

「おら、お乳の出が悪いけん」

 そういう状態が、半年ぐらい続いてたんだそうだ。

 もちろん、野江さんの家から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたことはない。

 こうして俺が野江さんのことを知ったのは、俺がこの村に来て一週間もしないころのことだ。


3


「天子さん、おらの赤ちゃん、みなかったかのう」

「いや。知らんな」

「そうかあ。みんな、知らん、知らん、言うんじゃ。誰かが隠しとるんじゃあるめえなあ」

「人の赤ん坊を隠すような者は、この村にはおるまい」

「そうかのう。うちの人はみなんだかのう」

「みておらん」

 野江さんは、赤ちゃん、赤ちゃんとつぶやきながら、村の奧のほうに消えていった。

 そんなことがあった翌日、野江さんがまたやって来た。

大師堂たいしどうさんやあ」

 大師堂、というのはわが家の屋号なのだそうだ。つまりこの場合、羽振家の当主である俺に呼びかけてるわけだ。野江さんの家には屋号があるのかな?

「こんにちは、野江さん」

 とたんに野江さんの顔が、ぱあっと花開いた。美人とはいえないかもしれないけど、笑顔はすごくいい女性だと思う。

「あんただけじゃあ。おらに、さんをつけて呼んでくれるのは」

「そうですか。それで、何かご用ですか」

「あそこじゃ。あそこじゃ」

 野枝さんは俺の先導をして店の北側に歩いていった。しかたがないので、俺もついてゆく。

「これじゃ。これ」

 野江さんが指さす先には、〈こなきじじい〉の石像があった。俺自身、数日前に、秀さんに、これは何ですかと聞いて、〈こなきじじい〉だと教えてもらったばかりだった。このときは、それを〈こなきじじい〉と呼ぶのが秀さんだけらしいことなんて、知らなかった。

「これは、こなきじじいですよ」

「やっぱり! やっぱりそうじゃったんか。ありがてえ、ありがてえ」

 野江さんは、座り込んで手をすり合わせ、〈こなきじじい〉を拝みはじめた。

 それからというもの、朝昼晩と、一日に三回、野江さんは、〈こなきじじい〉を拝みはじめた。

 赤ん坊の声で泣く老人の妖怪のどこがそんなにありがたいんだろう、と不思議に思ったけど、芸術家の感性はやっぱり一般庶民とはちがうんだ、と考えて自分を納得させた。

 野江さんが何を拝んでいるのか知ったのは、それから一週間ほどたってからのことだった。

「えっ? 〈こなきじぞう〉?」

「おぬし、野江にあの石像は〈子無き地蔵〉じゃと教えたそうじゃな」

「えっ? 俺が?」

「そうじゃ。子の無き者が願えば子を授けてくださるという、ありがたいお地蔵さんだと、野江に説明したというではないか」

 人間は、あまりに意外なことを言われると、頭のなかが真っ白になってしまうのだと俺は知った。

 天子さんは、渋茶をすすりながら、俺が再起動するのを待ってくれた。

「いや、そんなこと言った覚えはないんだけど」

「そうであろうな。じゃが、何かきっかけになることを言うておらんか?」

「え? きっかけ? ああ、そういえば、あの石像は何かと訊かれたから、〈こなきじじい〉の石像だよ、と教えてあげたけど」

「こなきじじい? 何じゃそれは」

「え? あの石像は、〈こなきじじい〉なんじゃないの? そう聞いたんだけど」

「誰にじゃ」

「秀さんに」

「ほう、お秀か」

「うん」

 天子さんが、〈お秀か〉なんて言うと、ほんとに時代劇みたいな雰囲気がある。

「お秀が言うたのは、確かに〈こなきじじい〉であったのか?」

 えっ?

「それはどんな字を書くのじゃ?」

 えっ?

 ほんとに〈こなきじじい〉かって聞かれても、ほかにどういう聞き方があると?

「この辺りで子泣き爺をみたことはないしのう」

 え?

「と、とにかく。そう聞こえたんだ。それに、俺は、〈子の無き者が願えば子を授けてくださるという、ありがたいお地蔵さん〉だなんて説明はしてないよ!」

「野江は、人の言うことを、めったに聞かぬ」

「はい?」

「じゃが、ごくたまに、まことに素直に人の言うことを聞き入れることがある」

「はい?」

「そして一度聞き入れたが最後、二度と訂正は受け付けぬ」

「いや。それで俺にどうしろと」

「生まれるかもしれんな、本当に子が」

 ここに至って俺は、天子さんにからかわれているのだと、ようやく気づいた。

 それで脱力して。

 その後お客さんから電話があったりして、この会話そのものも、すぐに忘れ去ってしまった。

 だから、そのとき天子さんが本気だったかもしれないなんてことは、考えもしなかった。


4


 相変わらず野江さんは、毎日三回やって来て、〈こなきじじい〉を拝んでる。いや、野江さんにとっては、〈子無き地蔵〉か。

 最近は、布巾を持って来て、石像を上から下まで、ごしごし磨き上げている。

 たぶん、あの石の材質じゃあ、布巾がぼろぼろになるだけで、あんまり石像は奇麗にならないと思うんだけど。

 赤ちゃんがいないと言って探し回るようになってからこっち、野江さんは粉ミルクを買わなくなった。今は、こどもがいなくて、一生懸命こどもが授かるようにお願いしている状況だ、という自己認識なんだろうな。

 こどもが欲しければ、地蔵尊を拝むよりほかにすることがあるだろうとも思うけれど、たぶん、それができないから、神仏にすがるんだろうな。

 野枝さんは、決してみにくい容姿をしてるわけじゃない。普通の顔だちをしているし、普通のスタイルをしている。

 ただ、女らしさが欠如している。

 いや、ちがうな。人間らしさが欠如してるんだ。

 うーん。それもちがうか。どう言えばいいんだろう。

 とにかく、野枝さんの顔をみると、何かが抜け落ちちゃった人だということが、一目でわかるんだ。

 変な宗教に心を持っていかれちゃった人のような感じ、とでもいえばいいんだろうか。 そこから感じる無機質さというか、気色悪さが、どうにも野江さんから〈女性〉を感じることを困難にしてる。

 この人を、詐欺目的とはいえ恋人扱いできた男の人というのは、腹が据わってると思う。いや、褒めてはいけないやつだが。この野江さんに、優しい言葉や甘い言葉を捧げ続けたんだろうか。プロってすごいなと思う。

「大師堂さんやあ。手ぬぎい、ちょうでえ」

「はい。前と同じのでいいですね」

「ありがとうなあ」

 ちゃんとした岡山弁では、〈てぬぐい〉は〈てぬぎい〉と発音される。〈ちょうだい〉は、〈ちょうでえ〉と発音される。これが最初は非常に聞き取りにくかったのだが、慣れてくると、〈てぬぎい〉は〈てぬぐい〉に、〈ちょうでえ〉は〈ちょうだい〉に脳内変換されて聞こえてくるようになった。脳の働きは偉大だ。

 野江さんの家は知らないんだけど、村の南西の端のほうにあるそうだから、ここまで歩いて二十分か、ひょっとしたら三十分ぐらいかかると思う。それを一日三回もやってくるんだから、きっとその願いは深いんだろう。

 〈子無き地蔵〉を磨き上げる野江さんをみる、天子さんの目つきが厳しいことに、ある日気づいた。どうしてあんなに怖い目でみるんだろう。

 野江さんが帰ったあとに〈子無き地蔵〉をみる目も怖い。

 毎日、毎日、野江さんは〈子無き地蔵〉を磨きに来た。

 ぶつぶつぶつぶつ何かをつぶやいているけど、あれはきっと、こどもが欲しい、こどもを授けてくださいと、お願いしてるんだろうと思った。

 そんなある日、事件は起こった。


5


「いたっ!!」

 〈子無き地蔵〉を磨いていた野江さんが、大声をあげた。

 俺は店のなかにいたけど、スニーカーを履いて商品にはたきをかけてたから、はたきを放り出して、すぐに表にかけだした。

 野江さんが石像の前に倒れて、体をくの字に折り曲げ、腹を押さえてのたうっている。その姿は、人間のようにみえなかった。地面にたたき付けられた牛蛙がのたうっているみたいだった。

「痛い、痛い、痛いっ」

 あわてて近寄ってひざまずいたが、何をしていいかわからない。

「だ、だいじょうぶですかっ」

「痛い、痛い、痛い、痛いっ」

 顔を左右に激しく振りながら、痛みを訴える。

 長い髪がばさばさになって顔を隠している。その乱れた髪になかば隠れながら、口を大きく開いて、痛い、痛いと叫び続ける。その口のまわりのしわが恐ろしい感じがした。

「どうした、野江?」

 俺の後ろから天子さんがやって来た。

 そして、座り込んで、野江さんが腹を両手で押さえている、その上に右手を当てて訊いた。

「ここか? ここが痛いのか?」

「痛い、痛い、痛いっ」

 相変わらず野江さんは、痛いとしか言わないが、ずっと横に振ってた首を、今度は縦に振った。

「鈴太。赤チンと脱脂綿と絆創膏を持って来るのじゃ!」

 俺は走って、言われたものを取り出し、持って行った。

「次は正露丸とコップに水をくんで持って来るのじゃ!」

 今度も言われた通りにした。

 正露丸とコップを小さな丸盆に乗せて持って来たんだけど、それを地面においていいか判断できなくてまごまごしていた。

 気がつけば、痛い痛いという悲鳴が止まっている。さっきは野江さんの手の上から天子さんが右手を当ててたけど、いつのまにか逆になっている。

 痛がってた場所に、天子さんが右手を当て、その右手の上に野江さんが両手を当てている。

 息は少し荒いけど、野江さんは少し落ち着いたみたいだ。でも、どんな痛みか知らないけど、その原因が解消されたわけじゃないはずだ。これからどうしたらいいんだろう。

 と思ってたら、天子さんが俺のほうをみた。

「その盆を下に置いて、野江を抱き起こせ」

「え?」

「正露丸を飲ませねばならん。上半身を起こすのじゃ」

「う、うん」

 女の人にさわるのって、勇気がいる。肩に手がふれたときは、ちょっとどきっとした。でも、そんなこと言ってる場合じゃない。両肩を持って、野江さんの上半身を起こした。意外に軽かった。

 天子さんは野江さんに正露丸を飲ませ、水の入ったコップを口に当てた。

「飲め」

 野江さんは、ごくり、ごくり、と水を飲んだ。

「落ち着いたか?」

 ぶっきらぼうな言い方だけど、天子さんの言葉は優しい。

 野江さんは、うん、うんと、声を出さずに二度うなずいた。

「よしよし。玉置たまき先生のところに行こうな」

 玉置先生という人は、六十代ぐらいの鍼灸師さんだ。この村には病院がない。ちょっとした病気は自分で薬を飲んで治すし、治らなければ玉置先生に診てもらうんだ。

 そう言われた野江さんは、首を二度横に振った。

「いやなのか?」

 天子さんが訊くと、今度は縦に首を振った。

「なぜ、いやなのじゃ?」

 野江さんは、しわがれた小声で返事した。

「赤ちゃん、とられる」

 その返事を聞いた俺は、背中に冷水を流し込まれたような気分になった。

「そうか。それなら家に帰ろうか」

 首を縦に振った。

「鈴太。手を貸せ。野江を立たせる」

 そして野江さんを立たせると、天子さんは野江さんに寄り添いながら、北西の方角に歩いていった。

 そのようすをみていて、今日はもう帰ってこないだろうなと思った。その通りだった。


6


 翌朝、何事もなかったかのように、天子さんはやって来た。天子さんが食事当番の日だったので、台所のことはお任せして、神社の掃除に出かけた。

 帰ってくると、朝食の用意はできていた。

 野江さんのことは、すごく気になってたが、食事中は訊かなかった。食事が終わってお茶を飲んでいるとき、天子さんのほうから話してくれた。

「野江は、帰ると落ち着いた。もう痛みもないようであった」

「そうなんだ。よかったね」

「腫れ物ができておった」

「腫れ物?」

「へそのすぐ上に、ぷくり、とな」

「ぷくりと?」

「例えていえば、大柄の男の手の親指を切り取って、貼り付けたような腫れ物じゃな」

「親指って」

「針でつつけばはじけそうなほど、ぷっくりふくらんで、しかも真っ赤に色づいておった」

「真っ赤な親指……」

「いや、親指というより、あれじゃな。たらこじゃ」

「たらこ……」

「たらこをへその上に貼り付けたような腫れ物じゃ」

「何かに刺されたのかな。蜂とか」

「そうかもしれんし、そうでないかもしれん」

「ムカデとか」

「そういうこともあるかもしれん」

「そんなに腫れたんなら、さぞ痛いだろうね」

「それがの。家に連れて帰ったころには、けろっとしておっての。そのまま一応寝かせたのじゃが、そのうち起き出してきて、〈花むしろ〉を織っておった」

「大丈夫なのかなあ?」

「痛みはないと言うておった」

「蜂とかムカデとか、毒のあるものに刺されたんだったら、そうはいかないね」

「わからん。人間の体というものは、わからんものじゃ」

「たいしたことなければいいけどね」

「昼はようすをみに行く。そのままこちらには帰らん。昼ご飯のおかずは冷蔵庫に入れてあるからの」

「ありがとう」

 昼ご飯のおかずは、たらこだった。


7


「法師どの。奇妙なことになった」

「名無しの石像の件じゃな」

「そうじゃ。秀が〈子無き地蔵〉と名づけした石像じゃ」

「秀が名づけをしたのかどうか、わからん。ほかの者のしわざかもしれん」

「そうよなあ。しかし、鈴太がうまく聞きまちがえて、〈こなきじじい〉と名づけ直した」

「あれの言葉には力があるからのう。しゅを掛け直したようなものじゃな」

「ところが、それを野江が〈子無き地蔵〉と聞きまちがえ、呪をまた掛け直した」

「ああいう一念の者の思いは強いからのう。強力な呪が掛かったじゃろうなあ」

「その〈子無き地蔵〉の石像を、野江は、毎日毎日磨きながら念を込めた」

「成就するはずのない願いじゃがな」

「法師どの。あの石像は、いったい誰が運んできたのであろう」

「それがわからん。最初はただの不出来な石像としか思わなんだ」

「だが、そうではなかったのう」

「そうではなかった」

「あれは、妖気をどんどん吸い込んでいった」

「そうじゃった」

「あれを持ち込んだ者は、あるいは持ち込ませた者は、そのことを当然わかっておったであろうな」

「……む」

「つまり、この里のことを知り、この里の役目を妨げようとする者があるということか」

「まさかに。しかも今さら」

「……そうよなあ。思い過ごしか」

「思い過ごしじゃろうなあ」

「まあ、偶然にせよ、そういう性質を持った石像が、この里に、結界のなかに持ち込まれ、どんどん妖気をためていった」

「そうよ。わしはそれを知って、これはうまいぐあいじゃと思うた」

「妖気をためて、それを結界の外に捨てれば、結界のなかの妖気は減るからの」

「そうじゃ、そうじゃ。よい考えじゃと思うた」

「それで、わざわざ、石像をわらわの目の届くところに運んだ」

「石像は運べるからのう。妖気は運べんが」

「法師どのに言われたように、わらわは、ただみまもった」

「そうじゃった」

「妖気がたまってゆくのをみまもった」

「だいぶたまっておったじゃろう?」

「ずいぶんとたまっておった」

「それが、どうにかなったのか?」

「消えた」

「何じゃと!」

「順を追って話す。わらわは、石像に妖気がたまるのをみまもっておったが、鈴太が帰ってきたので、このままではよくないと考えた」

「そうじゃったなあ」

「それで法師どのに、もう石像を捨てようと言うた」

「言うた、言うた」

「じゃが法師どのは石像をみて、まだ早いと言うた」

「言うた、言うた」

「そうこうしておるうちに、あの石像に〈子無き地蔵〉という呪が掛けられ、〈こなきじじい〉に掛け直され、また〈子無き地蔵〉に戻された」

「そこまでは聞いちょる」

「野江は〈子無き地蔵〉に強い祈りを込め続けた。つまり呪をずんずん強めていった」

「それも聞いた」

「すると石像が妖気を吸う勢いが強くなった」

「なに!」

「もうこれはいかんと思い、石像を捨てよう決めた矢先、野江が石像の前で倒れた」

「それで。それで、どうなった」

「野江は、腹が痛い痛いと言ってのたうち回った」

「それで、どうした」

「しばらくすると、落ち着いた」

「ふむ、ふむ」

「気がついてみれば、石像から妖気が抜けておった」

「そんなばかなことがあるか。抜けたとしたら、どこに行った」

「野江の腹に」

「……なんじゃと」

「野江の腹に、腫れ物ができた。その腫れ物からは、すさまじい妖気が立ちのぼっておったのじゃ」

「哀れな」

「妖気に取りつかれた人間は、もはや妖怪じゃ」

「しかり、しかり」

「しかもあれほどの妖気を取り込んだら、人間らしい心など吹き飛んでしまう」

「そうじゃろうなあ」

「わらはは野江を殺すために、家に送って行った」

「殺したか?」

「布団に寝かせて妖気のぐあいを調べたところ、妖気が消えておった」

「それはどういうことじゃな」

「わからん。一瞬たりとも目は離しておらんのじゃ。じゃから、妖気は今も野江のなかにあるはず。しかし、みえぬ」

「それが本当なら、この世ならざるところに隠れておるのじゃろう」

「わらわも、そう考えた。その状態の野江を殺しても意味がない」

「意味がないどころか、行き場のない妖気の塊が野放しになる。危険この上ない」

「じゃから、これから毎日、野江のようすをみる。今度妖気が顕れたら、野江を殺す」

「殺すしかないか」

「殺すしかなかろうなあ」

天狐てんこよ」

「何かな、法師どの」

「おぬし、人間を殺したことがあったかのう」

「……ない」

「では、わしがやろう」

「これは、鈴太を守るためにすることじゃ。〈はふり〉の者を守護するは、わらわがあのおかたから命じられた役目ぞ」

「石像のことは、わしが言い出したことじゃ。それに、結界のなかのあやかしを討つは、わしがあのおかたから命じられたこと。人には譲れん」

「……ならば法師どのに頼もう」

「そうしてくれ。そのときが来たら、知らせを頼むのう」

「心得た。かたじけない、法師どの」


8


 別人かと思った。

 野江さんのことだ。

 昨日、あんなに痛がっていたから、当分はこっちに来ないだろうと思ってた。

 そしたら、朝は来なかった。

 だから昼も来ないと思ってたんだ。

 だけど、来た。

 〈子無き地蔵〉を拝みにじゃなく、うちの店に来た。

「何か滋養のあるもん、ちょうでえ」

「ええっと。ここは、乾物屋ですよ?」

「乾物で何か滋養のあるもんを」

 謎の会話である。

 俺が黙り込んでしまうと、野江さんは、勝手に店のなかをみてまわり、一つの缶を手に取った。

「これにするけん」

 粉ミルクだった。

「ええっと。これを、どなたが飲むんでしょう?」

「おらの赤ちゃんに決まっとるじゃろ」

 そういいながら、おなかをさすった。

 たらこのようなものは、服の上からではみあたらない。

 ただ、その気になってみると、へその上あたりが、ほんの少しぷっくりしているかもしれない。

「あの……赤ちゃんは、まだ生まれてないんですよね?」

「みたらわかるじゃろ。まだじゃ」

 野江さんは、そう言いながら、右手でいとおしそうにおなかをさすった。

 その表情は、とても女らしくて、ちょっと奇麗だなと思ってしまった。

「なのに、粉ミルク、飲むんですか?」

「おなかのなかで飲むじゃろ?」

 いや、そんな当然みたいな顔で訊かないでください。

 俺の常識としては、赤ちゃんが粉ミルクを飲むのは、生まれてからあとだ。

 じゃあ、赤ちゃんが生まれる前に粉ミルクを飲んじゃいけないのか。

 赤ちゃんにいいぐらいのものなんだから、毒ではない。べつにお母さんが飲んでもいいはずだ。

 考えるのがめんどくさくなったので、素直に粉ミルクを売った。

 というか、うちは商売でやってるんだから、商品を売ってくれと言われて売らない選択肢はない。

「向こうから来てくれたのは好都合じゃったな」

「あ、天子さん。何が好都合だって?」

「独り言じゃ。気にするでない……しかし」

「しかし?」

「鈴太。おぬし、野江の体から邪悪なものは感じなんだか?」

「邪悪って。すごい表現だね。うーん。今日はべつに感じなかったかな」

「今日は?」

「あ、ごめん。深い意味はないんだ」

 結局、野江さんは、〈子無き地蔵〉を磨くどころか、拝みもせずに前を素通りして帰っていった。もう眼中にない感じだ。

 俺は、〈子無き地蔵〉がちょっと気の毒になった。それで、俺が〈子無き地蔵〉の顔を拝んでやろうと思って近寄った。

 〈子無き地蔵〉の顔は、相変わらず情けない笑顔だった。だけど……

(あれ?)

(何かが変わった?)

(何が変わったんだろう)

 べつに造形が変わったわけではない。だけど確かに何かが変わった。

(あっ)

(まがまがしさがなくなったんだ)

(これじゃ、普通の石像だ)

(って、何を考えてんだ、俺は)

(普通の石像でいいんだよ)

「どうしたんなら。女房もおらんのに、〈子無き地蔵〉に願掛けしちょるんか」

「うわっ」

 いきなり耳元で話しかけられてびっくりした。

 そこにいたのは腰のまがった老婦人、秀さんだった。

「あ、秀さん。今、この石像のこと、何て呼びました?」

「こりゃあ、おめえ。〈子無き地蔵〉さんじゃろうが」

 ショックだ。

 〈子無き地蔵〉と聞こえる。

 しかもさっきの、女房もおらんのに、という言葉からすると、やっぱりこれは〈こなきじじい〉じゃなく、〈子無き地蔵〉だったんだ。

「おい、大師堂」

「あ、はい」

「弓彦が亡うなったあと、鶴枝は再婚したんか?」

「え? いえ。父さんと母さんは、一緒に亡くなりましたけど」

「そげんこたあなかろう。二人がおめえを連れて村を出てから三年ほどしてじゃったか、鶴枝が、おめえを連れて里帰りしとったじゃろう。もともと鶴枝は、この村が嫌えじゃった。その鶴枝が弓彦に連れられてじゃのうて、おめえだけを連れてこの村へ来たんじゃけんなあ。弓彦が死んだからじゃと、わしは思うとったけど」

「いえ。父さんと母さんが死んだのは、四年ほど前ですよ。一緒に車に乗ってて亡くなったんです」

「ありゃあ、そうじゃったんか。おかしいのう」

 今の会話に、聞き逃せない情報があった。

 母さんが、この村が嫌いだったという情報だ。

 そういえば、そもそも父さんと母さんは、どうしてこの村を出たんだろう。

 父さんはじいちゃんの一人っ子だったみたいだ。家を継ぐ立場だったんだろう。それなのに出て行ってしまった。そして、どういうわけか、実家と没交渉だった。何があったんだろう。

(秀さんに訊くわけにもいかないか)

(今度配達に行ったとき、持言和尚さんに訊いてみよう)


9


「はっはっはっ。そりゃあ、ちがう」

「ちがうんですか?」

「おお。ちがう。鶴枝は、幣蔵と折り合いが悪かったわけでもないし、誰かにいじめられたということもない。そうじゃなくて、体質が合わんかったんじゃ」

「体質?」

「この里には、独特の〈気〉があってのう。合う人には心地よいんじゃが、合わん人には徹底的に合わん。鶴枝さんは敏感なたちで、どうしてもこの土地が合わんかったんじゃ」

「そんなことがあるんですか」

「あるんじゃ。むしろ二年も、よく辛抱した。お前もよく知っとるように、性格がいいし気遣いもできる人じゃった。何をしても手際よくしたしのう。出ていくときは、みんなに惜しまれとったよ」

「そうだったんですか」

「幣蔵さん以外に家族はなかったから、嫁いびりもなかった。他人の家の嫁をいじめて喜ぶような者もおらんかったしのう」

「まさか、おじいちゃんと父さんが仲悪かった、なんてことはないですよね?」

「仲は良かった。弓彦は、鶴枝に付き添って村を出たんじゃ。幣蔵はそれでええと思うておった」

「どういうことです?」

「羽振家は、この村で一番古い家じゃ。ほんとに長いこと、この村を守ってきた。じゃがもうその役目は終わりになるから、自分のあとの代の者は、外で自由に生きればいい。そう幣蔵は考えとったんじゃ」

「役目って、何です?」

「それは。ふむ。近々話すことになるじゃろう。とにかく幣蔵は、あと二、三年は生きられると思っちょった。そうすればすべてが終わると思っちょったんじゃ」

 このとき、俺は、じいちゃんと父さんがけんかしたわけじゃないと聞いて、心からほっとしてた。そのことは、ずっと心にかかってたからだ。

 そして、父さんと母さんが、ふるさとを追われたわけじゃなく、惜しまれて出て行ったということも、すごく俺を安心させた。

 だからこのとき、俺は、秀さんがくれた本当に大切な情報を、和尚さんに伝えなかった。父さんと母さんが、俺を連れてこの村を離れたあと、母さんと俺だけが、この里に来たことがあるという情報を。

 というより、この情報がどんなに大きな意味を持つのか、この時点では全然気づいてなかった。


10


「あ。髪、切ったんですね」

「そうなんじゃ」

「すごく似合ってますよ」

「そ、そうかのう」

「白いブラウスとカーディガンも素敵ですね」

「あ、暑うなってきたけんな」

 三日間続けて、昼前に野江さんがやって来た。

 少し話をしていくけど、べつに何も買っていかない。つまり、買い物に来てるわけじゃない。

 かといって、前のように〈子無き地蔵〉を拝んでというか、磨いているわけでもない。

 じゃあ何をしてるのかというと、たぶん俺と話をするためだけに、ここに来てるんだと思う。

 前に野江さんが言ってた。さんをつけて呼んでくれるのは俺だけだと。野江さんの心は、みかけよりずっと繊細で、心ない言葉や冷たい目線に敏感なんじゃないだろうか。

 そうでなくても、今の野江さんは、彼女の脳内設定によれば、〈行きずりの男の人のこどもを身ごもってしまったふしだらな女〉なのだから、人から好気のまなざしを向けられる。だから人には会いたくない。でも、おなかにこどもがいる喜びを、誰かと分かち合いたい。

 そんな野江さんが、少しは優しい言葉をかけてもらえる相手として認定したのが、俺だったんだろう。

 季節は、少しずつ夏の気配を感じさせている。薄着になった野江さんのおなかに、小さなふくらみがあることが、すごくリアルにわかってしまう。

 それは断じて赤ちゃんがいるようなふくらみじゃない。

 何かの虫に刺された痕が腫れ上がっている、といわれたほうがうなずけるふくらみだ。

 ぷっくり、という形容がぴったりだ。たらこを貼り付けたみたいだという天子さんの言葉は、うまいこと表現したもんだと思う。

 店先で、俺が野江さんと話すのを、天子さんは座敷のほうからじっとみていた。視線は野江さんのおなかに向けられてたんじゃないだろうか。ふと振り向いたとき、無表情な顔で野江さんを凝視する天子さんをみかけたときには、いつもぎょっとした。

 そこには普段俺に向けてくれる優しげなまなざしはなかった。

 冷たく凍るような、恐ろしい目つきだった。

 もしかして、嫉妬?

 俺が、ほかの女の人と親しげに話すのが気に入らないとか。

 そうならうれしいな、とこのときは思っていた脳天気な俺だった。


11


「よう来た天狐。それで、どうかのう、その後」

「まだわからぬ」

「そうか」

「野江の腹のふくらみは、この数日で、わずかに大きくなったようには思う」

「ふくらみのなかには、何が入っておるんじゃろうか」

「わからん」

「わしも一度みてみたいのう」

「出歩けるほど体調はよくなったのかえ」

「歩けんことはない。昨日も檀家の法事に行った」

「なんじゃ、そうか」

「いざとなれば多少の無理は利く。なんといっても、あやかしと戦えんようでは、お役目は果たせんからのう」

「それはそうじゃ」

「それにしても、まだ石の数はそろわんのじゃろうか」

「わからん。もうすぐじゃとは思う」

「そりゃ、そうじゃ。わしが数えた数も、天弧が数えた数も、もう満願に達しちょる。それを言うなら、幣蔵も、去年の暮れに満願じゃと言うておった」

「どうしてこんなに日にちがずれるのじゃろうか」

「それじゃがなあ。あのかたが、体調が悪かったり、何かの事情で石が積めなんだ日があろうが」

「それは知っておる」

「そのほかにも、もしかしたら積めなんだ日があるのかもしれん」

「あのかたが、石を積むのを休むとも思えん」

「そうではない。石は夜が開けると同時に現れる」

「そうらしいのう。みたことはないが」

「じゃが、日によっては、いつ夜が明けたか、はっきりせん日もある」

「それはそうじゃ」

「石はいつまであるのじゃろうか」

「なに?」

「石はいつまで、あの石の八足はっそくの上にあるのじゃろうか」

「取るまでずっとあるのではないか? そして、石を取ったら、翌日の朝、また別の石が現れるのであろう」

「わしもずっとそう思っておった。じゃが、そうでないかもしれん」

「というと?」

「消えてしまうのではないかな」

「消える?」

「ある時刻までに取らないと、石は消えてしまうのではないか、と思いついたのじゃ」

「……なるほど」

「そういう日が、これまでの長い長い年月のあいだに、ごくたまにあったとすれば、五十日や百日のずれができてもおかしくない」

「そんなこと、考えもせなんだ。思えば不思議なことじゃ」

「あのかたに訊けば、すぐ教えてもらえることなのじゃが」

「あのかたには、話しかけにくい」

「お前はもともとあのかたの眷属の末裔じゃろうに」

「眷属というより戦友かのう。しかし格がちがう」

「わしなぞ、かのおかたに呼び出されて引き合わされるまで、御名も存じ上げなかったわ」

「日の本の国では聞くことのない名じゃからな」

「そのときごあいさつして以来、一度も言葉をかわしておらん」

「なんじゃと。この長い年月、ひと言もかわしておらんというのか」

「そうじゃ。この前、幣蔵の葬儀のときも、顔を合わせて会釈はし合うたが、それだけじゃ」

「なんとのう。考えてみれば、妙なことじゃ」

「妙なといえば、このことの全体が妙じゃ」

「それもそうじゃ」

「そして、わしら二人が一番妙じゃ」

「確かにそうじゃな」

「はっはっはっはっはっ」

「ほほほほほ」


12


 今日も神社に着いたとき、神社から出て来る艶さんに会った。

 あちらもこちらに気づいたみたいで、深々とお辞儀をしてきた。だから俺も深々とお辞儀を返した。

 腰の低い人だ。だけど奇妙な気品があるような感じもする。

 俺が朝早く来たときに帰ってゆく秀さんに会うということは、あちらはもっと早く来てるってことだ。いったい何時に来てたんだろう。

 そんなことを考えながら、神社のなかと境内の掃除をして帰ろうとして、ふと思った。

 神社の正面にある石の八足。

 あれは最初から奇麗だった。

 長いあいだには、たくさんの泥がこびりついていて当然なのに、なぜか八足の上だけは奇麗だった。

 誰かがずっと掃除してたんだろうか。もしかして、その誰かというのは艶さんなんだろうか。

 そんなことを考えながら家のほうに帰る途中、バス停のほうに向かってあるく照さんをみかけた。ということは、今日は月曜日だ。

 乾物屋は日祝日関係なく開けてるし、最近はテレビをあまりみないので、曜日感覚がなくなってきてる。

 照さんと秀さんと艶さんは、三人合わせて〈三婆さんばあ〉と呼ばれている。

 その三婆の一人、照さんは、毎週月曜日の朝、バスで最寄りの地方都市に行く。総合病院に行くためだ。その総合病院で、朝から午後まで、いくつかの科を渡り歩く。どこかが格別に悪いというわけでもないようだが、やはり年齢相応に、いろいろと調子の悪い所はあるらしい。

 総合病院の待合には、かねてからの知り合いがある。総合受付の前の待合にも誰か知り合いがいるし、各科の待ち合わせでも、たいてい知り合いがいる。その知り合いたちとだべって時間を過ごすのが楽しみなのだ。

 そしてたくさんの薬をもらって帰る。道中の景色も、照さんの楽しみだ。

「町への行き帰りに、橋の上から天逆川あめのさかがわをみるんが、ほん好きなんじゃ」

 〈ほん好き〉というのは、〈本当に好き〉という意味だと思う。そのうち誰かに確認しとかなくちゃ。

 まあ、そんなわけで、照さんは通院を楽しみにしてる。ほんと元気だよ、この村のお年寄りは。

 さて、家に帰ると朝食の用意ができてた。

 食べ終えて、天子さんと話ながら、お茶を飲んでまったりして。

 そしてぼつぼつ店の掃除をしていると、入れ替わりお客さんが来る。

 この店はたぶん、情報収集と交流のスペースみたいな機能を持ってる。

 お客さん同士で話をかわすことも多い。店の外で話が始まると、木の古い長椅子を出してあげたり、灰皿を出してあげたりする。売り上げノルマなんてないんだから、商売といっても気楽なものだ。

 この日も昼前に野江さんが来た。

 うわ。

 生々しい。

 おへその上の腫れ物が、少し大きくなってる。なんか不気味だ。

 ところが不思議なことに、そんな不気味な腫れ物をおなかに貼り付けている野江さん本人は、憑きものが落ちたような涼やかな顔をしている。むしろ、晴れやかというか誇らしげというか、女であることを堂々と表明しているようなまぶしさがある。

 この状態の野江さんとなら、つきあいたいと考える男の人もいるんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、少しばかりとりとめのない世間話をした。

 あとで思えば、このときすでに異常は始まっていたんだ。


13


「うわ。また大きくなりましたね」

「うふふ。そうなんじゃ」

 少しずつ、少しずつ、腫れ物は大きくなっていった。

 そのあいだに、いろんなことがあった。

 〈やまびこ〉の事件もあった。

 〈ぶらり火〉の事件もあった。

 俺は、村の人のなかに段々知り合いも増えてきている。

 そして七月の初旬も過ぎようとするころには、野江さんのおなかは、ほんとに異常なことになってきてた。

 ここのところ数日の、腫れ物の成長具合は普通じゃない。

 一日ごとに、目にみえて大きくなってゆく。そして、大きくなるごとに、不気味さが増す。

 これはいったい何なんだろう?

 ただの腫れ物なんかじゃない。

 そんな普通のものじゃない。

 もっと異常で禍々しい何かだ。

 どこまで大きくなるんだろう。

 いつ成長がとまるんだろう。

 止まったとき、何が起こるんだろう。

「あれ? お化粧、してます?」

「わかる?」

 控えめな笑顔が美しい、と思った。

 まさか野江さんをみて美しいと思う日が来るとは。

 でも、ほんとに今の野江さんは、女らしくて、みずみずしくて、そして幸せそうだ。

 顔だけをみて会話してると、思わず言いたくなる。

「元気なお子さんが生まれるといいですね」

 そんな言葉は絶対に発してはだめだ。

 だって、野江さんのおなかで何が起きてるにしても、それは妊娠なんかではあり得ない。こどもの誕生を楽しみにすればするほど、あとで野江さんの悲しみも深くなる。

 かといって、今の幸せを壊したくない。ほんのわずかなあいだの夢だとしても。

「痛みはないのか」

 今日は珍しく天子さんが会話に参加してきた。

「へえ。痛みはねえけん。おとなしゅうしとってくれます」

「夜はよく眠れるか」

「へえ。そりゃもう。ぐっすり寝てます」

「そうか」

 そう言うと天子さんは、後ろに下がってしまった。掃除機の音が聞こえる。奧の掃除をしてくれているんだ。

「お体、大事にしてくださいね」

 帰り際の野江さんにそう声をかけると、振り向いて、まぶしいような笑顔でうなずいた。

 それからも、腫れ物が大きくなるスピードはゆるまなかった。むしろ加速した。それは恐ろしい出来事だった。

 誰かこの異常に気づいてないんだろうか。

 誰かこの異常を何とかしてくれないのか。

 俺の心の叫びを聞いてくれる人はいない。

 そして、さらに腫れ物は大きくなっていった。

 今や、はっきり人間の形をしている。いや、小さな地蔵のような形といったほうがいいだろうか。頭部と胴体のあいだがくびれているんだ。

 野江さんは、おなかをそのままにしておくのが苦しくなったのか、腹に包帯をぐるぐる巻いている。包帯を巻いたその上に、はっきりと小さな人間の形が浮き出ている。

 それをみていると、どきどきする。

 不安で不安で、じっとしていられなくなる。

 どうしてあんなものをおなかに抱えて、野江さんは平気なんだろう。

 おかしい。

 何かがおかしい。


14


「昨日、みたぞ」

「法師どの。みたというのは何のことか」

「野江じゃよ。野江の腹じゃ」

「野江の家に行ったのかえ?」

「来たんじゃ。わしに腹をみせていきよった。自慢げにのう」

「どうみた」

「妖気を感じたが、わずかなものじゃ」

「そうであろうなあ」

「つまり、石像にたまっておった妖気の大方は、まだみえんところに隠れておる。この世ならざるどこかにの」

「あれは、どこまでふくらむのであろう」

「さてと。わからんなあ」

「幸い、といってよいのか、野江は毎日鈴太のところに来る」

「野江は存外鋭いところがある。自分をきらわずに受け入れてくれるのが誰かを、直感的に知っておるんじゃな」

「この状態で野江の腹を攻撃したら、何がおきるかのう」

「野江は死ぬじゃろうなあ。腹のものも滅するかもしれん。じゃが、石像にたまっておった妖気の大部分は、どうなるかわからん。その場で現れるかもしれんし、別の所に現れるかもしれん」

「人に憑くかのう」

「人に憑くかもしれんし、何かのあやかしとなって現れるかもしれん」

「厄介だのう」

「厄介じゃとも」

「しかし厄介であっても、鈴太が危ないと判断したら、わらわはあれを攻撃する」

「鈴太の目の前でか?」

「それはわからんが、たぶんどこかに飛ばしてから処理する」

「そうじゃの。人目のあるところで野江を殺せば、何かと面倒なことになる。今はまだお役目の途中じゃからな」

「そうじゃ。途中じゃ」

「しかし普通の人間の目はごまかせても、鈴太の目はごまかせんかもしれんぞ」

「それならそれで、しかたあるまい」

「その前に、話してしもうたらどうじゃ」

「……今回の件が片付いたら話そう」

「……そうか」

「うむ」

「いっそ、こちらから出向いてはどうじゃな」

「ふむ。それもよいな。いや、それがよい。明日から毎朝、野江の家に行く」

「鈴太の朝食が遅うなりはせんか」

「……しかたなかろう」


15


 天子さんが来ない。

 神社の掃除を早めに済ませ、家に帰って朝食の準備をした。

 そして天子さんが来るのを待ってるんだけど、どうしたんだろう。

 一人で先に食べようかと思ったけど、やっぱり待つことにした。

 なんだか落ち着かない。

 テレビをつけては消す。またつけては消す。

 思えば、この村に来て以来、ずっと朝食は天子さんと一緒だった。

 ずっと一人で朝ご飯を食べてた俺なのに、二人での食事、しかもとびっきりのかわいい女の子との食事が、当たり前になってしまった。

 それがどんなに幸せなことだったのかなんて気づきもせずに。

 いや、ちがう。

 奇麗な女の人なら誰でもいいんじゃない。

 天子さんだから楽しいんだ。

 楽しい、というのともちがうかも。

 何ていうか、もっとおだやかで、もっと満たされてて、もっと……

 玄関のほうに人の気配がした。

(天子さんだ!)

 部屋一つを越え、上がりかまちを飛び降りて、俺は天子さんを迎えに、玄関にいそいぎ、あいさつをした。自分でもびっくりするような、明るくて元気な声が出た。

「おはよう!」

「お、おはよう」

 返ってきた返事は、天子さんの声とは全然ちがう声だ。

 そこにいたのは天子さんじゃなかった。野江さんだった。

(どうしたんだろう。声がひどくかれてるけど)

 こんな時刻に来たのははじめてだ。

 重そうにおなかを抱えて、ゆっくりと歩いてきた。

 この速度で来たんだとすると、家から相当時間がかかったんじゃないんだろうか。

 おなかをみて、驚いた。

 昨日より格段に大きくなっている。

 もう、赤ちゃんが生まれるときの大きさなんか、完全に追い越している。

 俺は急いで丸椅子を差し出した。

 野江さんは、椅子に座って、少し楽そうな顔をした。

「水を、一杯、もらえるじゃろうか」

「あ、はい。ちょっと待ってくださいね」

 冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、コップにそそいで丸盆に乗せ、上がりかまちを降りて野江さんにお盆を差し出そうとして……ぎょっとした。

 一回り大きくなっている。

 さっきみたときよりも。

 俺が水をくんでくる、わずかなあいだに、腹の腫れ物は成長したんだ。

 そんなばかなことがあるだろうか。だけど確かに大きくなった。

(まさか)

「み、水を……」

「あ、はい。どうぞ」

 お盆を差し出すと、野江さんは、コップを受け取り、ごくごくと飲んだ。

 俺はそのとき、ばかなことをした。

 目を離したら何か起きるか確かめようと、後ろを振り返ったんだ。

 部屋のなかのちゃぶ台や、カレンダーや、いろんなものをみまわして、少し時間を置いてから、ぐるっと体を回して、野江さんのほうをみた。

 大きくなってる。

 まちがいない。

 こいつ、人が目を離すと成長するんだ。

「あ、ありがと」

 コップをお盆で受け取って、座敷のほうに押しやった。

 運動した直後に水を飲んだので、野江さんは汗をかいている。そうでなくても薄い服が、その汗で透けてみえる。

 包帯の下の腫れ物は、くっきりとした輪郭だ。

 野江さんは、少し後ろに背をそらして、ぐっと口を引き結び、苦しそうに鼻で息をしている。両手は腫れ物を抱え込むような感じで下腹に当てられている。

 顔からはどんどん汗があふれ出る。体も汗をかいているようだ。

 腫れ物の色までが、うっすらみえてきた。

 熟れすぎた柿のような色だ。

 野江さんが、口を開けて、はあはあと、荒い息をつきはじめた。

 腫れ物の色が、段々濃くなってゆく。

 どす黒くなってゆく。

 もうすぐだ。

 もうすぐ腫れ物のなかのものが、正体を現す。

 腫れ物は、大きくなりながら、どす黒くなりながら、ますます不吉で凶悪な気配を強めていく。みる者を不安に陥れる波動を放ってくる。

 野江さんは、唇をかみしめ、顔をくしゃくしゃにして、苦痛に耐えている。

 いけない。

 このまま放っておいてはいけない。

 そのとき俺は、それをした。

 あとになってみて、どうしてそんなことをしたのかわかない。

 けれどもそのときは、自然にそうしていた。

 俺は思わず、心のなかで腫れ物に話しかけていたんだ。

(おい、お前)

(…………)

(お前、わかってるか)

(…………)

(どうして自分がこの世に生まれるのか、わかってるのか)

(…………)

(何が自分を生み出すのか、わかってるのか)

(…………)

(自分が何をしに生まれてくるのか、わかってるのか)

(…………)

(お前をこの世に生むのは、野江さんだ)

(…………)

(野江さんが、お前を生むんだ)

(…………)

(野江さんが、お前のお母さんなんだ)

(…………)

(野江さんが、〈子無き地蔵〉に願をかけた)

(…………)

(毎日毎日、願をかけた)

(…………)

(毎日毎日、歩いてやって来て、〈子無き地蔵〉に願をかけた)

(…………)

(必死の思いで願をかけた)

(…………)

(新しい命をください)

(…………)

(私に赤ちゃんをください)

(…………)

(いい子をください)

(…………)

(元気な子をください)

(…………)

(五体満足で)

(…………)

(肌がすべすべして)

(…………)

(いい笑顔で笑う)

(…………)

(素敵な赤ちゃんを)

(…………)

(立派にすくすく成長して)

(…………)

(親孝行して)

(…………)

(世のなかのお役に立つ)

(…………)

(立派な子を)

(…………)

(どうぞ私に育てさせてください)

(…………)

(そんなふうに願をかけた)

(…………)

(だからお前は生まれるんだ)

(…………)

(だからお前は命を得たんだ)

(…………)

(野江さんは、どんなに苦労をしても)

(…………)

(お前を立派に育てるつもりだ)

(…………)

(お前を幸せにするつもりだ)

(…………)

(だからお前は)

(…………)

(お母さんを幸せにするために生まれてこい)

(…………)

(いい子に生まれてこい)

(…………)

(わかったか)

(オカアサンヲ?)

(そうだ)

(シアワセ?)

(そうだ)

(イイコ?)

(そうだ)


 ちりーん。


 奧の部屋のお社の前に置いてあるはずの鈴が鳴った。

 とても奇麗な音でなった。

 すると、野江さんの腹の腫れ物は、ぐりぐりと前にせり出してきて。

 そして、ぽろりと転がり出た。

 俺は両手を差し出して、それをそっと受け止めた。

 玉のような赤ん坊だ。

 いつのまにかやって来た天子さんが、入り口のほうから、じっとその赤ん坊をみつめていた。


16


「信じられぬ」

「さっきから、そればっかりじゃな」

「自分の目でみたことが信じられぬ」

「いいから、順を追って、きちんと説明してくれんか」

「わらわは、今朝、野江の家に行った」

「ほう。行ったのか」

「行った。あれが危険なほどにふくらんでおったら、たとえ妖気の大部分がこの世に現れておらなんだとしても、法師どのを呼んで滅してしまうつもりであった」

「うむ。昨夜の話の通りじゃな」

「ところが野江はおらなんだ」

「危険を察知して逃げたのか」

「そうではあるまいな。今から思えば、腹が異常にふくらんでじっとしていられなくなり、助けを求めてさまよい出たのであろう」

「鈴太の家にな」

「鈴太の家にじゃ。そして鈴太の目の前で、あの異形は最後の成長を始めた」

「おぬしはすぐに野江を追いかけたのかの?」

「野江が鈴太の家に行ったとは思わなんだ。そのため近所を探して、時間を取ってしもうた」

「ふむふむ」

「もしやと思い鈴太の家に向かった。家に近づいたところで、鈴太の声が聞こえた。口でしゃべる声ではない。心でしゃべる声じゃ。心でしゃべる声なのに、練達の行者のようにはっきりした声じゃった」

「ああ、それは佐々の家のぶらり火のときもそうだったのじゃ。言うておらんかったのか」

「聞いておらんな」

「それはすまんことをした」

「鈴太は異形に言い聞かせておった」

「ほう。何をじゃ」

「お前は野江に祈られて生まれてくるのだ。野江はどんな苦労をしてもお前を幸せにすると願をかけた。だからお前のお母さんは野江だ。お前は野江を幸せにするために生まれてこい。そう言い聞かせておった」

「異形にそんなことを言い聞かせたのか?」

「言い聞かせたのじゃ」

「聞きはすまい。聞いたとしても、異形は異形じゃ」

「あの声を聞かせてやりたいのう。わらわは身がしびれた」

「ほう?」

「鈴太の声はじんじんと全身に響き、こちらを埋め尽くすのじゃ。わらわは声の海の深みでおぼれるかと思うた」

「なんとのう」

「一方、異形は成長しきっており、まさに闇の世界から妖気の塊が飛び出そうとしておった」

「なに?」

「それが出てきたら滅するつもりで、わらわは爪を振り上げた」

「そ、それで、どうなった」

「まさに妖気が異形の身に落ちる瞬間、異形が鈴太に質問をした」

「質問じゃと」

「はっきりとした意味はわからなんだが、お母さんを幸せにするのか、自分はいい子に生まれればいいのか、というようなことを聞いたと思う」

「異形が?」

「異形がそう尋ねたのじゃ。鈴太は、そうだ、と確信を持って答えておった」

「異形がそんなことを訊くわけがないし、答えを聞いたとして、どうなるというのじゃ」

「その瞬間、ついに妖気は異形のなかに入り、この世に生まれ落ちた」

「正体を現したか!」

「生まれたものは、けがれなき赤子であった」

「……は?」

「美しい赤子であった」

「そんなばかな」

「妖気のかけらもない、生気にみちた、ういういしい清浄な赤子であった」

「信じられん」

「みよ。法師どのもそう言うであろう」

「信じられるわけがない」

「それでもこれは、事実なのだ」

「…………」

「…………」

「のう、天弧よ」

「何かのう、法師どの」

「あやかしを滅することはできる。それだけの力があればの」

「うむ」

「特別な加護があれば、浄化することもできる」

「もちろんじゃ」

「じゃが、あやかしそのものである異形を、そのまま人間の赤子に作りかえることなど、誰にもできん」

「法師どの」

「何じゃ?」

「あれは、ただのあやかしだったのじゃろうか」

「ふむ?」

「ただの異形であったのか」

「異形以外の何物でもあるまい」

「野江が〈子無き地蔵〉に祈願を込め、あれが生じた。われらは、石像の妖気が乗り移ったのだと考えた。法師どのも、そう考えた」

「それ以外、どう考えられよう」

「確かに妖気は野江の腹に宿った。しかし、あの腫れ物のもとになったのは、野江の体の一部、野江の魂の一部ではないのか」

「む。そういえば、そうにちがいない」

「野江の体の一部と野江の魂の一部に、妖気が入り込んで、あの腫れ物となった」

「なるほど」

「野江の体の一部と野江の魂の一部なら、正常な清い赤子のもとになったとしても、不思議ではないのじゃ。ただし、生じた時点では異形の雛でしかなかったがの」

「むむ、むむ」

「異形の雛は成長し、そこに妖気の本体が入り込こもうとした。妖気という力を得て、異形は異形として誕生しようとした」

「むうう。それで?」

「しかし鈴太の言葉の力で、妖気という陰の力は、生命という陽の力に転じ、野江の体と魂の一部は、赤ん坊としてこの世に落ちたのじゃ」

「……よくわからん。しかし、そんなこともあるかもしれん、という気はしてきた」

「驚くべきは、鈴太の言葉の圧倒的な感化の力じゃ。なにしろ異形に、自分は人間の赤ん坊だと納得させたのじゃからのう」

「むちゃくちゃな話じゃのう」

「何度も何度も確かめたが、赤ん坊は確かに赤ん坊なのじゃ。そこに疑いの余地はない。法師どのもみにゆくがよい」

「行くとも。行かいでか」

「わらわにも、何がどうなったか、本当のところはわからん。だが、得られた結果は最上じゃ」

「最上じゃなあ。石像の妖気が完全にはらわれたのならなあ」

「しかも野江は念願の赤子を得た」

「ばっはっはっは。まさに、まさに」

「殿村を呼んだ。手続きをしてもらうためにの」

「男親のない子など、世のなかにいくらでもおる。とはいえ、野江はこれから重荷を背負うのう」

「背負いがいのある荷物よ」

「天弧」

「なにかの?」

「おぬしも赤子が欲しいか」

「……そうよなあ。自分の子を持ってみたいと思ったことはない、と言えば嘘になる」

「そうか」

「じゃが、法師どのも知るように、何十人という〈はふり〉の者の赤子を、母代わりとして育ててきた。子育ての味は、充分に味おうてきた」

「今、思いついたのじゃが」

「うむ。何かな」

「もしや野江は異形に操られたのではないかな」

「異形に?」

「異形に操られて、鈴太のもとに行ったのではないかな」

「鈴太のもとに? なにゆえ」

「〈はふり〉の者を害するため」

「……………………」

「考えられぬか」

「もし、そうだとしたら、この里の秘密を知り、それを妨げようとしている者がある、ということになる」

「そうじゃのう」

「これまで長いあいだ、そんなことはなかった。それが、本来なら満願を迎えておっても不思議のないこの時期になって、われらの役目を邪魔する者が現れるなど、あり得ることであろうか」

「それはそうじゃ。しかし、ここ数年、妙にあやかしが多い」

「確かに」

「そして、鈴太が来てからは、短い期間に三度も出た。しかもそのうち二度は、人間に取り憑いて生じたあやかしじゃ。これも今までにはなかったことじゃ」

「それはそうじゃな」

「いずれにしても、いよいよ心を引きしめねばならぬ」

「まさにそうじゃ」

「鈴太には話したのかの?」

「いや。折をみて話す」

「そうか」

「そうじゃ」

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