第5話 ひでり神

1


「砂持ちの袋、ちょうでえな」

「はーい。五十円です」

「ありがとう」

「毎度ありがとうございました」

 七月中旬に入り、急に〈砂持ちの袋〉を買いに来る人が増えた。毎日十人以上、多いときには二十人以上が袋を買ってゆく。

 在庫台帳をみたとき、〈砂持ちの袋〉と書いてあるのが何のことかわからなかった。

「七月の最後の土曜日に、そういうお祭りがあるのじゃ。そのときに、各家から砂を詰めて持ち寄る、そのための袋じゃな」

 天子てんこさんの説明を聞いても、やっぱり何のことかわからなかったし、どれがその商品か確認することを忘れた。

 だから、七月に入ってまもないころ、突然〈砂持ちの袋〉をくれといわれたとき、そのお客さんにどう対応していいかわからなかった。

 天子さんは、すっと奧から出て来て、入り口の右側のほうに立てかけてある、木の古い長椅子をどかして、その奧にある樽から、小さな麻袋を出した。

「これじゃな。五十円じゃ」

 へえ、これが〈砂持ちの袋〉というものなのか、と思った。

 立てかけた長椅子の足には、いつも提灯が掛けてあったのに、数日前に移動したので、なぜかなと思ってたけど、たぶんこのためだったんだ。

「天子さん、砂持ちというのは何なの?」

 最初に袋が売れた日、昼食のあとのまったりタイムに、俺は聞いた。

「うむ。砂持ちというのはのう」


2


 過去千年のあいだに八度、この村は水害に遭っている。

 千年に八度なら、たいしたことないじゃないかと思うかもしれない。

 しかし、その一度一度は、村を壊滅的に追い詰める被害を出している。

 この村の手前に天逆川あめのさかがわがある。

 天逆川は、西のほうから下ってきて、村の手前で南に曲がり、村を過ぎてからまた東のほうへ流れてゆく。

 この川の支流が羽振村に入っていて、それが羽振村をうるおしている。

 だけど、それこそ百年に一度もないような大雨のとき、天逆川は恐ろしい水の暴力となって、村を襲う。

 羽振村は、全体としてみると天逆川より低い位置にある。その羽振村が洪水に襲われたら、どこに逃げればいいか。

 地守神社だ。

 地守神社は、羽振村全体からみて、ほんのわずかながら高い位置にある。ほんとにゆるやかな登り坂と、十段あるかないかの階段分の高さなのだが、洪水となると、このわずかな高さが、はかりしれない価値を持つ。さらに羽振村の奧は削り取られたように切り立っていて、その奧には樹恩の森が広がっている。

 つまり、洪水の水は、地守神社の両横を流れて樹恩の森に落ちてゆく。

 だからみんな、洪水のときには地守神社に逃げる。

 地守神社の境内地に逃げ込んだ人たちだけが、生き延びることができたという。

 さて、洪水は恐ろしいけど、洪水の水が引いたあと、もっと恐ろしいことが起きる。

 疫病だ。

 川の氾濫とそのあとの疫病っていうのは、セットになっているものなんだそうだ。

 だから、洪水のあとの復興には、長い長い時間がかかる。

 最初の何回かの経験を経て、一つのしきたりができた。

 長雨が続いたら、各家の人たちは、袋に砂を詰めて用意し、いざというときには、川辺に積み上げて土嚢とするのだ。そしてまた、地守神社に食料を集める。家に置いたままだと、洪水が来たとき泥水に浸かって食べられなくなるからだ。泥によごれた食べ物を洗って食べれば疫病を流行させる。そのことを経験から学んだんだ。

 やがて、明治時代になって、大規模な工事が行われ。天逆川のカーブがゆるやかなものに修正され、川岸の土手が高くしっかり築かれたので、もう洪水の心配はなくなった。

 けれども、過去の惨事を忘れないため、先人の経験と知恵を伝えるため、年に一度、〈砂持ち〉を行う。

 これは、村内のすべての家が参加するという一大イベントなのだ。

 〈砂持ち〉の日、村内の家々の代表は、地区ごとに集合する。

 羽振村には六つの地区があり、それぞれ五十弱から六十程度の家がある。しかも家によっては親にこどもがついて来たり、複数のこどもで参加する家もあるから、各地区に集まる人は六十人から七十人程度になる。

 参加者はすべて、麻の袋に入った砂を手に持っている。以前は地区ごとに御輿を作って大樽を載せ、そのなかに各家から持ち寄った砂袋を詰め、笹で飾り立てて綱で引いたというが、今は各自が砂袋を直接神社に運ぶ。

 神社の境内には、あらかじめ樽が用意される。そこに持ち寄った砂を収める。

 そういう行事なのだ。

 これは一種の神事でもある。だから、〈砂持ち祭り〉とも呼ばれる。

 日が近づくにつれて、〈砂持ちの袋〉を買いに来る人は増える。ふだん、村の反対側の人は、あまりこの乾物屋には来ないから、はじめて会う人も多い。不思議なことに、買うときには、どこの地区のどの家の者かを名乗る。なんで買い物するのにいちいち名乗るのかわからないけど、そういう習慣なんだろう。

 というか、どうしてこの店に袋を買いにくるんだろう。ほかの店で売ってるほかの袋じゃいけないんだろうか。ネット通販で買った袋じゃいけないんだろうか。という疑問を感じたけど、わざわざ確認するようなことでもないので、天子さんに質問はしてない。

 提灯も売れた。ろうそくも。

 〈砂持ちの袋〉を買いにきた人は、二分の一ぐらいの割合で、提灯とろうそくを買って行く。〈砂持ち〉のときに、提灯も使うんだ。じゃあどうして全員が提灯を買わないかというと、あるお客さんの独り言を聞いてわかった。

「うーん。提灯はどうしょうかのう。まあ今年は去年のを使うとくか。ろうそくだけもらえるかのう」

「はい。一箱ですか? 三本ですか?」

「三本でええ」

「百円になります。毎度ありがとうございました」

 三本セットのろうそくを仕入れているわけじゃなくて、箱入りのろうそくをばらして、黄色くて安っぽい紙の封筒に包んで売ってるんだ。箱よりこっちのほうがよく売れる。三本で百円てのは、仕入れ値から考えるとちょっと高いんだけど、ちょうど行き帰りで使い切れるぐらいの分量なので、都合がいいみたいだ。

 なるほど考えてみれば当たり前の話で、去年提灯を買ってあるんなら、今年はそれを使えばいいわけだ。ただ、あんまり古い提灯だとみっともないので、適当に新しい提灯に買い換えていくんだろう。

 あと一週間で〈砂持ち〉が行われるという日、村長さんが来た。五人の人を連れて。その五人は、それぞれの地区の組頭くみがしらだった。

 安美あみ地区。

 松浦まつら地区。

 土生はぶ地区。

 御庄みしょう地区。

 雄氏おうじ地区。

 有漢うかん地区。

 この六つの地区にそれぞれ組頭がいる。村長さん自身も安美地区の組頭なので、村長さんを含めた組頭六人が村の役員だ。ちなみに、組頭六人は村会議員でもある。各地区の住民は、その地区の組頭に投票する習慣だそうだ。法律にはふれないんだろうか。

 その六人がいきなりやってきて、玄関口で俺にあいさつした。

「大師堂さん。いよいよ来週が〈砂持ち〉じゃ。ご面倒おかけするが、よろしゅうのう。心を込めて準備さしてもらうけん」

 そう言って村長さんが頭を下げると、後ろの五人も、よろしゅう、とか、お願いします、とか言いながら頭を下げた。

 俺はもう、びっくりしてしまって、目をぱちくりさせて、しばらくその場に立ちつくした。

 その日の午後、野枝さんが顔をみせた。

 もちろん、大事そうに赤ちゃんを抱えて。

 ほんとに幸せそうだ。赤ちゃんをみる野枝さんの顔は、限りなくやさしい。

 こんなに美人だったかなあ。

「大師堂さん。おねげえがあるんじゃ」

「はい。何を差し上げましょう」

「この子の名前を考えてくれんかのう」

「はい?」

「この子の名付け親になってほしいんじゃ」

「えええええっ?」

 俺が名前をつける?

 この赤ちゃんに?

「いや、そんなことは、俺なんかじゃなくて……そうだ。転輪寺の和尚さんに頼んだらいいと思いますよ」

「じゅごん和尚に頼んだら、この子の名は鈴太が考えるべきじゃ、いうて言われたんよ」

 あの和尚。無茶ぶりしやがって。

「無理です。とってもできません」

「そう言わんで、お願えします。この子を名無しにせんでちょうでえ」

 いや、どうして俺が名前をつけないと名無しになるんだよ。

「つけてやれ、鈴太」

「天子さんまで」

「お前が取り上げた子ではないか」

「えっ。いや。まあ、そう言えなくはないのか」

「それにおぬしの言葉には、特別な力がある」

「えっ?」

「おぬしがつけた名前の通りの生き方を、その子はするであろう」

「えっ?」

「おぬしが名に込めた願いが、その子を祝福するであろう」

 いや、だから、どうしてそんなに俺を追い詰めるんだ。

 そんなにプレッシャーを与えられたら、いよいよ引き受けられないじゃないか。

「わしも和尚さんに言われて、なるほどと思うた。この子の名づけ親は、鈴太さんしかねえ」

 ほかに名づけ親になってくれそうな友達……は、あんまりいなさそうだな。

「この子のお父さんになってやってつかあせえ」

 名づけ、が抜けてますよ、野枝さん。

 しばらく抵抗した俺だったけど、二対一では勝ち目がなく、赤ん坊までが泣き出した。しかたがないので引き受けますと返事すると、赤ん坊は泣きやんだ。三対一だったのか。

 大変なことになっちゃった。

「あと三日で届け出の締切なんで、明日中に決めてくれるかのう」

 なんでそんな時期までほっておいたんだ!

 その後さんざん悩んで七転八倒したあげく、名前を決めた。

 守生もりお

 野枝さん、自分を、自分の大事な人たちを守って生きるように、それだけの力をもらえるように。そんな願いを込めてつけた名前だ。


3


 村長さんたちがあいさつに来た日から、境内の大掃除が始まった。

 毎日いろんな地区の人が入れ替わりにやって来て、あちらこちらと奇麗にしてゆく。

 背の高い脚立を持ち込んで境内地を覆う木立を刈り込んでいく人。

 エンジンつきの草刈り機を持ち込んで、境内の周りの草を刈る人。

 社殿の外側を雑巾で拭く人。

 こどもたちも三々五々集まってきては、境内の草を抜いたり、枯れ葉を拾ったりしている。

 毎日段々神社が奇麗になってゆく。

 謎が解けた。不思議に思っていたんだ。

 管理する者が全然いないにしては、この社殿も境内も、その周りの木立も、そう荒れ果ててはいない。どうしてだろうと思っていたんだが、こういうわけだったんだ。

「境内だけではないぞ。社殿そのものも、百年に一度ぐらい、建て替えておる。村の者たちの意志によってのう」

 例によって天子さんが的確な説明をくれる。

 ほんとに心を読まれてるんじゃないか?

 とにかく、皆が境内を奇麗にしてくれるのをみて、俺も発奮した。

 早朝の掃除を毎日するほか、日中に時間をとって、掃除をするようになったのだ。

 脚立を社殿に持ち込んで、天井の掃除もした。

 これも不思議なことだけど、どんなにたくさんの人が境内の掃除をしていても、社殿のなかに入ってこようとする人は誰もいない。たまにこどもが物珍しそうにのぞき込んでいると、おとなたちが、そこに入っちゃだめだ、のぞいちゃだめだと叱っている。そういう慣習なんだろう。

 いよいよ当日が近づいてくると、社殿の両脇には、五脚ずつ、かがり火の台が据え付けられた。時代劇なんかでみかける、三本の足のやつだ。地面に置くのかと思ったら、そうじゃなく、足の部分から出っ張った部分に穴が空いていて、そこに太くて長い金具をハンマーで打ち込んで、地面に固定していた。

 そりゃそうだ。置いただけじゃ、風で倒れる。

 もちろん、近くには薪と消火器が準備された。

 こんなものがあるんですねえ、と村長に話しかけると、思わぬ返事があった。

「これはのう。村長に代々受け継がれてきておるんじゃ」

「えっ。そうなんですか。でも、それにしては新しいような」

「古うなったけんのう。去年ネット通販でさらを買うたんじゃ」

 恐るべし、ネット通販。こんなものも売ってるんだな。

 道から境内地に上がる十段ほどの石段の両脇には、ハロゲンライトが設置された。

 そしていよいよ、〈砂持ち〉の当日を迎えた。


4


「ほ、ほんとに、これ着るの?」

「うむ」

「……あ、いきなり脱がさないで!」

 天子さんが箪笥の奧から出してきたものは、着物だった。

 袴と羽織まである、本格的なセットだ。

「よし。やはりこの着物がぴったりじゃったの」

「袴、上げすぎじゃ?」

「足の長さからして、致し方ない」

「…………」

 着物を着るなんて、生まれてはじめてだ。

 しかも、天子さんが着付けをしてくれる。

 畳に膝をついて帯を締めてくれたり、袴の紐を結んでくれたりするとき、いい香りがして、ちょっとくらっとした。

 天子さんも、今日は着物だ。

 着物は淡い藤色で、帯は少し濃い藤色だ。すっきりして美しい。それでいて、匂い立つような色気がある。

「さて、行こうかの」

「天子さん」

「どうした」

「歩けない」

 和服の正装だから、当然足は白足袋だ。それに草履を履いたのはいいんだけど、どうやって歩いたらいいかわからない。

「右足と左足を順番に出せばよいのじゃ。行くぞ」

「あっ。待ってよ」


5


 蓬莱山。

 白澤山。

 麒麟山。

 〈三山みやま〉が夕焼けにそまるころ、〈砂持ち〉は始まる。

 俺はといえば、神社の前、石の八足の上手かみてに、紋付き姿でパイプ椅子に座っている。羽織には、五つ紋がある。背中と両袖と両胸に。五つの紋は全部同じデザインだ。丸に抱きひいらぎっていうらしい。

 石の八足の上には四角い大きなお盆が置かれ、その上にお供え物が盛り上げてある。

 餅。

 水。

 塩。

 米。

 するめ。

 干し柿。

 餅といっても、搗いた餅じゃない。有名メーカーの丸餅だ。十個入袋が二つ、袋入りのまま盆に置かれている。米も有名ブランド米の五キロ入り袋を、そのままお供えしてある。雑然としてるんだけど、何となく、これぞお供え物って雰囲気がある。

 天子さんは、石の八足の下手に、着物姿でパイプ椅子に座ってる。

 これって完全に俺とセットの扱いだね。

 おかしいな。

 天子さんて、乾物屋の従業員だよな?

 なんで当たり前のように、こんな席が用意されてるんだろう。

 一応俺は大師堂という屋号を持つ家の当主だし、この神社を代々管理してきた家だっていうんだから、こんな位置に座らされるのも、まあわからなくはない。

 でも、それと対になる位置に天子さんの席が用意され、天子さんが当たり前のように座った。これがわからない。

 天子さんは、朝来たとき、すでに着物を着てたんだから、こういう席に案内されるということがわかってたんだ。

 これは今年だけのこと、なはずはないよな。

 この行事のどこをとっても伝統通りって感じだ。まあお供え物のお餅が現代風になったり、上がり口のところにハロゲンライトが使われてたりするけど、それは本質的な変化じゃないと思う。

 あれ?

 ということは、ずっとずっと昔から、〈大師堂〉当主の席と対になる位置に、乾物屋の従業員が座るならわしだったんだろうか。

 そんなわけないか。

 あ、そうか。

 たぶん、本来なら、〈大師堂〉当主の奥さんが座る席なんじゃないだろうか。

 儀式ってのは形式が大事だから、奥さんの代わりに天子さんが座ることになったんじゃないだろう。なんといっても、身内みたいな人なんだから。

 納得。

 でも、ということは、今日の天子さんは、俺の奥さん役なわけか。

 そんなことを考えてると、ちょっぴり体温が上がる気がした。

 なんだか、横を向きにくい。

 向きにくいけど、ちらちらとうかがう。

 奇麗だ。

 夕日に照らされた天子さんは、この世のものとも思えないくらい奇麗だ。

 そよそよと吹く風に黒髪がそよいでいるけど、天子さんは直そうともせず、じっと前を向いている。

 まるで千年前からそうしてきたかのように。

 そして俺はといえば、天子さんがそこに座っていてくれるというただそれだけで、勇気がわいてきて、うれしくて、何でもできるような気になってくる。

 境内の奥手、神社の両側ではかがり火が焚かれ、その前に村の役員六人が、三人ずつ立っている。おそろいの法被はっぴを着て。

 その前には空樽と段ボール箱が置かれている。

 そのまま静かに待っていると、最初の集団が近づいてきた。

 薄暗くなりはじめた村の道を、提灯行列がやってくる。区域ごとに分かれていて、一つの団体は六十人から七十人だ。区域ごとに集まって出発するので、到着時間はまちまちだ。

 段々と近づいてくる。

 細い村道なので、ほとんど一列縦隊に近い。それで七十人近くというと、けっこうな長さになる。

 提灯の色というのは、不思議だ。灯りが生きてるような感じがする。その生きた灯りが七十個ほども、列をなして近づくさまは、濃さをましてゆく夕闇とあいまって、幻想的な風景だ。

 行列は、まったく無言というわけでもなく、こどもたちが何事かを話しながら歩いてるんだけど、それがまた妖精のささやきのようで、近づくにつれ、独特の期待感というか、高揚感のようなものが高まってくる。

 そしてついに、最初の団体が入り口にたどり着いた。

 今までは木と草が茂って、境内に入れば外をみることはできなかったけど、今は木々の隙間から、提灯行列をみることができる。浴衣を着てるこどももいるけど、大方の人は普段着だ。

 入り口のところだけは、ハロゲンライトで明るく照らされている。階段でつまづくと危ないからだろう。その階段をのぼって、行列の先頭が境内に入った。

 右手に提灯を持ち、左手に砂袋を持っている。砂袋というけれど、なかに入れるのは砂でも土でもいいらしい。ただ、できれば砂のほうがいいということになっているそうだ。

 先頭の人は、上手側の樽に近づいてゆき、ひょい、と手に持った砂袋を樽のなかに落とし、境内の端っこのほうに歩いてゆく。

 次々と、そのあとに続く人々が砂袋を樽に落としてゆく。下手の樽に入れる人はいない。あとで聞いたんだけど、区域ごとに入れる樽が決まっているんだ。

 あとからあとから、提灯と砂袋を持った人が境内に上がってくる。

 何がおかしいのか、きゃっきゃと笑っているこどももいる。

 一人の女の子の持っている提灯が、暗い。よくみれば、焼け焦げている。

 たぶん、途中で振り回して、ろうそくの火が周りの紙を焼いてしまい、火も消えてしまったんだろう。

 天子さんが、社殿の階段の脇に置いてある予備の提灯の一つに火をつけた。予備の提灯は何個か並べてある。竹の柄を取り付けた状態で地面に置き、提灯をたたんでろうそくをむき出しにしてあるのだ。むき出しにしておいたほうが点火しやすいからね。

 そして天子さんは、焼けて火の消えた提灯を持った女の子に近づき、新しい提灯を渡して、焼けた提灯を受け取った。

「ありがとう」

 女の子が発したお礼の言葉が、異国の呪文のように響いた。

 その団体の全員が境内地に上がり、砂袋を樽におさめると、全員が境内地に並んだ。そして村長が社殿の前に立った。

 俺と天子さんは、全員と向き合っている格好になる。なんだかどきどきしてきた。

 村長さんに合わせて全員が柏手を打つ。そして深々と頭を下げる。

「さあさあ、みんなお菓子を受け取ってつかあさいや」

 段ボール箱のなかに入った駄菓子を、一人に一つずつ渡す。おとなもこどもも、いそいそと受け取っている。

 ろうそくを取り換えている人もいる。かがり火の下には金属製の四角い缶が置いてあり、そのなかに古いろうそくを捨てる。かがり火を使って新しいろうそくに火をともし、それを提灯に差す。

 ここで取り換えない人は、道中で取り換えるんだろうな。

 そうして行列は、ぞろぞろと境内地を出て、村道を右に進んで帰っていった。

 ここに来るときには東南の方向から来て、帰るときには北西の方向に進む。たとえ神社より西にある区域であっても、わざわざ回り込んでやって来るし、帰るときも同じだ。

 そうしていると、二番目の団体がやって来た。

 その団体がまだ境内に上がりきらないうちに、三番目の団体がやって来た。

 三番目の団体は、二番目の団体が儀式を済ませて帰ってゆくまで、手前でじっと待っていた。

 二番目の団体が帰るころには、辺りはすっかり暗くなっていて、提灯の明かりは、ふらふらと宙を飛んでいるようにみえる。

 星が奇麗だ。

 満天の星が、村を照らしている。

 どうかすると、ふらりふらりと宙に揺れる提灯が、そのまま天にのぼってしまうんじゃないかと思える。

 そんなことを思ってるうちに、次々と団体がやって来ては帰り、ついに最後の団体が境内を降りた。

 六人の役員さんは、社殿の正面に回り、ぱんぱんと柏手を打って拝礼した。

 まるで俺と天子さんを拝んでいるようだ。そしてかがり火の台の奧に用意してあったバケツに、ゴミばさみで薪をつかんで入れていく。

 じゅうじゅう、ぼこぼと音がして、煙が上がっている。

 すべての薪をバケツの水に入れたら、六人の役員さんは、俺と天子さんにあいさつして、ハロゲンライトを消して、懐中電灯で道を照らしながら帰っていった。

 大きな二つの樽には、砂袋がいっぱいに詰まってる。これは、明日青年部の人が来て、車で河辺に運ぶんだそうだ。

 そのほかの機材も、片づけは明日になる。

 誰もいなくなった夜の境内で、俺は天子さんと二人っきりだった。


5


「鈴太」

 はい、と答えようとしたが、喉がひっついたようになって、声が出なかった。

 俺ときたら、天子さんと二人っきりだということに気づいて、なぜだか知らないけど、体中が甘くしびれたようになっていた。耳もじんじんするし、指先も、そして人にいえないような先っちょも、びりびりして、いっぱいいっぱいだった。たぶんこのとき、俺の顔は、真っ赤になっていただろう。

「鈴太」

 俺は、答える代わりに、右のほうを向いた。

 なんで首を回すだけのことに、こんなに力を入れなくちゃならないんだろう。

 天子さんは、空をみていた。

 すごく遠くをみるような目で。

 俺も空をみた。

 天空には巨大な月がある。

 その月の前を、薄い雲が通り過ぎる。

 天女が薄衣を脱ごうとしているみたいだ。

 柄にもなく、そんな叙情的な比喩が浮かんだ。

「そのまま、空をみながら聞くがよい」

 なんだか、天子さんの声が、いつもの声とちがう。

 どう言えばいいんだろう。

 生々しさのない声というか、透明な声というか。

 ああ、そうだ。

 いつか白澤山で散る桜のなかで舞いを舞ったときのような。

 時間と空間を超越した天子さんが、今ここにいるんだ。

「この里の成り立ちについて話そう」

 思わず俺は、天子さんのほうをみた。

 天子さんも俺のほうをみて、柔らかにほほえむと、もう一度空のほうに顔を向けた。

「それには、古い古い、伝説のような話から始めなくてはならぬ」

 そのあと天子さんの口から語られたのは、驚くべき物語だった。


6


 古代中国で、強大な力を持つ暴君が地上を支配していた。のちにその暴君は、〈蚩尤しゆう〉と呼ばれるようになる。

 蚩尤は、神の子であり、強大な霊力を備え、その配下には、雨師うし風伯ふうはくという二柱の神をはじめ、一騎当千のつわものがあまたいた。もともと地上を治めていたのは別の神の子である君主だったが、蚩尤は戦争によってその君主を倒し、地上を支配下に置いたのだった。

 ここに一人の少年がいた。少年は両親を蚩尤に殺された。そして人々が蚩尤に苦しめられる姿をまのあたりにして、人々をその苦しみから救いたいと願った。

 神々のなかの最も偉大な一柱であり、古代中国では〈天帝〉と呼ばれた至高神は、少年が王の資質を持っていることをみぬき、神気と試練を与えた。

 天帝がこのとき少年に与えた神気は、蚩尤が倒した君主の親たる神のものだった。この神は〈黄帝こうてい〉と呼ばれている。

 試練とは、放浪の運命と数多くの困難だった。少年は中国各地を放浪して、さまざまな敵を倒し、問題を解決し、実力と声望を得てゆく。

 少年は成長して青年となり、仲間をともなって故郷に帰った。そして蚩尤に戦いを挑んだのである。

 いったんは、青年の軍勢が優勢であるかのようにみえた。

 だが蚩尤は、隠していた配下のあやかしたちを解き放った。青年の軍勢は人間であり、あやかしと戦って倒せるのは青年だけだった。たちまち軍勢は危機を迎える。

 そのとき、青年が各地を放浪していたとき友誼を結んだ妖怪たちが駆けつけて参戦した。かくて争いは妖怪大戦争に発展した。

 配下が苦戦しているのをみた蚩尤は、最後の切り札である雨師と風伯を投入した。二柱の神はあまりに強力であり、青年の軍勢と妖怪たちは蹴散らされ、ちりぢりになった。

 ここに一人の少女がいた。この少女は実は黄帝の娘〈ばつ〉であり、父の神気を宿す少年のふがいなさにあきれて地上に降り、放浪の旅のなかで、陰から少年を助けてきたのである。

 〈ばつ〉は力を求めて日天(太陽)のもとに舞い上がった。そして、天界の名花とたたえられた美貌を失い、みにくいしわだらけの姿となりながらも、膨大な熱気をその身に宿すことに成功する。

 〈ばつ〉の参戦を受けて青年の軍勢は再び勢いを取り戻し、攻勢に転じた。風伯が暴風を吹き寄せると、〈ばつ〉はその風を吸い込んでさらに熱気を強めた。雨師は豪雨を降らせようとしたが、雲という雲は〈ばつ〉が近づくと消え去ってしまい、さしもの雨師も力をふるうことができない。そんな〈ばつ〉を、人々は〈ひでり神〉と呼んで敬い恐れた。

 ついに蚩尤の宮殿に乗り込んだ青年は、蚩尤の体を粉々に打ち砕く。

 長きにわたった戦争は終わった。地には平和が訪れたのである。

 青年は王となり、人々が笑って暮らせる時代が幕を開けた。

 〈ばつ〉は天界に帰ろうとしたが、帰れなかった。神の力を使いすぎたため、俗界の気が強くなりすぎたのである。

 王は〈ばつ〉に、いつまでも地上にとどまるようにと言った。〈ばつ〉はうれしかった。

 だが、〈ひでり神〉である〈ばつ〉は、そこにいるだけで周囲のすべてを干上がらせてしまう。干ばつが続き、多くの人々が死んだ。

 やむなく王は、ひでり神に追放を言い渡す。ひでり神は、従容としてこれを受ける。いつのまにかひでり神は、王を深く愛していたからである。

 東方の島国に飛来したひでり神は、富士山の火口に落ちた。ひでり神の膨大な熱気により噴火が起き、多くの人々が死ぬ。力を使い切ったひでり神は、長い眠りについた。

 やがて目覚めたひでり神は、すっかり熱気を失っていた。そこで天界に帰ろうとしたが、門でとめられた。多くの人を殺傷したことにより罪を得た彼女は、天界に戻ることを許されなかったのだ。そのとき彼女は、愛した王が、死後その功績により天界に召し上げられ、天帝のもとで活躍していることを知る。

 失意のまま地上に降りたひでり神を、一匹の妖狐がみていた。この妖狐は、かつて青年とともに戦った妖怪の子孫であり、ひでり神のことはよく知っていたのである。妖狐は、弘法大師空海を訪ね、救済を懇請した。

 大師はひでり神の運命をあわれみ、ひでり神に一つの道を示す。

「罪をあがなわんとすれば、贖罪の心もて積み石をせよ。すなわち罪を背負いし罪石の労苦もて、積徳の信行となせ。なんじが殺めし人の数は、かの国で二十八万三千五百六十五人、この国で十五万四千六百四十七人であり、合わせて四十三万八千二百十二人である。心から悔いてわびながら、一日に一石ずつ、四十三万八千二百十二の石を積まば、すなわち満願となり、天界はなんじを許し、しかしてその門を開いて歓喜のうちに迎えるであろう」

 ひでり神は、きっとその通りにする、と誓った。

 吉備国きびのくにの山中に、大師はひとつの聖地をみいだしていた。その里は天空のすべての星辰にみまもられた星見の里である。星見の里は、三つの霊山に守られ、霊力のこもる森を抱えており、呪的に安定した環境を備えていた。三つの山は、それぞれ蓬莱山、白澤山、麒麟山という名を与えられ、〈三山〉として関連づけられた。

 大師は、みやこに住む〈はふり〉のわざ、すなわち魂鎮めの修法ずほうに優れた陰陽師の一族から若き俊英を招き、〈はふり〉の姓を与え、星見の里を〈はふり〉の者の里とした。そして土地の有力者の娘を妻に迎えさせ、社を建立して〈つもり神社〉、すなわち徳の積もる神社と名づけ、ひでり神の荒々しい魂を祭らせた。ひでり神が積み石の積徳を成就し満願を迎えるまで、子々孫々その荒御霊を封じるのが役割である。万一にも満願を待たずして封印が破られることがあれば、ひでり神は邪神に戻るからである。

 そして大師は、この世ではない別の場所に、積み石の場を設け、骨ヶ原こつがはらと名づけた。骨ヶ原には、〈積神社〉の奧にある階段からしか行くことができず、その階段は、大師が骨ヶ原への出入りを許した者、すなわちひでり神にしかみえない。

 さらに万一にも骨ヶ原に立ち入る者がないよう、〈はふり〉の者の里が抱える森に、ひでり神に殺された人々の魂を集めた。それにより森は呪怨じゅおんの森となり、容易に人が近づけぬ場所となった。呪怨の森に集められた魂は、ひでり神の行が完成するとき、解き放たれて成仏するのである。

 そのうえで、〈はふり〉の者の里に結界を張った。封じられた荒御霊あらみたまの放つ邪気が、あやかしを引き寄せることを案じたのである。

 さて、〈はふり〉の者は、魂鎮めの修法に通じているとはいえ、人の身であり、生きられる年限は限られている。人は、その魂に刻まれた寿命を越えては生きられない。

 そこで大師は、ひでり神の荒御霊への封印を、〈はふり〉の者の血と結びつけた。そうすることで、〈はふり〉の者の子孫が居続けるかぎり、封印は維持される。

 この里に、大師は故郷四国から一匹の古狸を呼び寄せた。この狸はさまざまな呪法に通じている。結界により外の邪悪なものは入って来れないが、結界の内側には、ひでり神の荒御霊からこぼれ出る妖気により、時折あやかしが生ずることが予想された。大師は狸にあやかしを倒す使命と、それに足りるだけの寿命を与えたのである。古狸は、〈呪禁じゅごん法師〉の名を大師から授けられるが、人には〈持言じごん法師〉と名乗った。のち、住まいを寺に転じ、〈持言和尚〉となる。

 そしてまた大師は、ひでり神と自分を結びつけた妖狐に、〈はふり〉の一族をみまもる役目と、それに足りるだけの寿命を授けたのである。妖狐は大師の遺命を守り続けることで霊格を上げてゆき、千歳を越えたとき〈天狐〉という神格を得た。ただしもとは陰気の強い妖怪であるため、長時間結界内で過ごさない習慣となっており、村の外に住んでいる。

 地守神社の社殿の前には、小さな石の八足がある。毎朝、夜明けと共に、その八足の上に白い石が生ずる。その石を秘密の階段を下って骨ヶ原に積むのがひでり神の日課である。

 事が始まって以来、千二百年がすでに過ぎた。罪石(積み石)の数が満願の四十三万八千二百十二に達する日が、今まさに訪れようとしている。


7


 長い物語が語り終えられたあと、長い沈黙が訪れた。

 やがて俺は、一番気になることを訊いた。

「満願の日が来たら、天子さんは、どうなるんだ?」

「……さあのう。もともと、あやかしといえど、千年も生きる者はまれじゃ。わらわは本来の命の長さを越えて生きておる。それは使命を果たすために、かのおかたがお授けくださった寿命じゃ。じゃから使命が終われば……」

「そんなのだめだ!」

 思わず天子さんのほうを向いて叫んだ。天子さんは目を閉じてしばらく何か思いをかみしめていた。

「まあ、本当のところはどうなるかわからぬ。とにかく、千年を越えて果たし続けた役割が無事成就すること、それこそがわらわの願いなのじゃ」

「満願の日は、いつ来るのかな」

「それが、わからぬ」

「え?」

「事が始まった日から、四十三万八千二百十二日以上が過ぎておるのはまちがいない。ところが積み石は、まだその数に届いておらんようじゃ」

「どうして?」

「例えば洪水のときなどは、積み石をすることができなんだ」

「あ」

「そのほかにも、やむを得ぬ事情で積み石ができなんだことがある」

「そりゃそうだよな」

「ただし、明らかに積み石ができないような日があれば、たいていわらわも知っておる。それを計算に入れても、もうすでに満願が来ていなければおかしいのじゃ」

「どういうことなんだろう」

「そこで最近気がついたのじゃが、石の出現には時間制限があるのかもしれぬ」

「時間制限?」

「ある時間までに取らねば、消えてしまうような制限じゃ」

「……消えてしまう」

「ひでり神さまも、生きておる以上、都合もあれば体調もある。何かの理由で時間制限にまにあわなんだ日があるのではないか。そう考えればつじつまが合う。

「そうか。天子さんも和尚さんも、石を積むところをみてるわけじゃないんだね。でも、積まれた石をみたら、数はわかるんじゃないのかな」

「骨ヶ原には、ひでり神さましか入れぬ。わらわも法師どのも、積まれた石をみたことはないし、みることはできぬ」

「ひでり神さまって、誰なんだ?」

「おぬしは知っておるはずじゃ」

 そういわれて考えた。

 ひでり神。

 この神社に生ずる白い石を、神社の裏の秘密の階段を降りて毎日運んでいた人。

 そうか。

「艶さん、だね」

「そうじゃ」

 あの人がひでり神だったのか。人間ばなれしてるとは思ってたけど。

「何個積んだかを、艶さんに訊くことはできないの?」

「訊いてどうする」

「いつ終わるのかがわかれば、みまもりやすいじゃないか」

「あのかたは、ただ責めを果たすのみ。わらわは、それをみまもるのみ。みまもる者の都合で、あのかたを煩わせようとはおもわぬ。じゃが」

 天子さんが俺のほうをみた。

 一度収まった心臓のどきどきが、また復活してしまった。

「おぬしは、代々にわたってあのかたの荒御霊を封じ続けてきた一族の末裔。おぬしが訊きたいというなら、訊けばよかろう。あのかたも、おぬしの問いになら、答えてくださるはず」

「〈はふり〉の血を引く者が居続けるかぎり、封印は維持されるんだったね」

「さようぞ」

「じゃあどうして、お父さんは、この里を出たんだ? じいちゃんは、それを許したんだ?」

「幣蔵は、自分が生きておるあいだにすべてが終わる、と考えておったのじゃ。鶴枝は妖気に敏感なたちでのう。この里には、千二百年のあいだ法師どのが倒してきた妖怪の妖気がたまっておる。とても耐えられなんだのじゃ。じゃから、幣蔵は、弓彦に里を出ることを勧めた」

「お父さんは、この村の歴史と羽振家の使命を知ってたんだろうか」

「知らなんだはずじゃ」

「そうなんだ」

「里を出ても、幣蔵が死ねば遺産は弓彦のものになるからのう」

「じゃあ、俺を呼び戻したのは、予定の日が来ても満願成就しなかったから?」

「いや、そうではない。床についた幣蔵は、しきりにお前に会いたがったが、しかし、お前の人生を縛ってはならぬと、最後までお前を呼ぼうとはせなんだ。その一方で、弓彦と鶴枝が死んでいたとわかり、またお前の境遇を知って、叔父や叔母のもとには置いておけんと、強く思っておった」

「あれ? 殿村さんはお父さんとお母さんのことを一時期見失って、俺をみつけたのはごく最近のことだって言ってたけど」

「最近というのがいつごろのことか知らぬが、二月のすえごろには、叔父や叔母のおぬしへの仕打ちを知って憤慨しておった。それに、あれは三月の初旬じゃったか、おぬしが京大に落ちたと聞いて、涙を流して悲しんでおった。それはみな、殿村が報告したことじゃ。そもそも、あの男が本気で探しておったのなら、もっと早くに弓彦の死はわかっておったと思うがの」

「どうして俺に本当のことを言わなかったんだろう」

「幣蔵を冷たいやつだと、おぬしが思うことをいやがったのかもしれんな。あの男は、何かにつけ幣蔵の都合を第一にしておったからのう」

「じいちゃんの金払いがよかったから?」

「いや。ほとんど無償で働いておるはずじゃ。殿村という男は人間ではない。呪禁法師どのの眷属の末裔なのじゃ」

「そうだったんだ!」

 びっくりだ。あの人、人間じゃなかったのか。それにしても、弁護士ができるなんて、むちゃくちゃ人間の世界になじんでるなあ。

「幣蔵の遺志をくんで、殿村にお前を迎えに行かせたのはわらわじゃ」

「そうだったんだ。天子さんが俺をここに呼んでくれたんだ」

「うれしそうじゃの。この里はおぬしの肌に合うたかの?」

「うん。俺はこの村が好きだ。て……」

 天子さんのことも好きだ、と続けようとしたけど、口のなかが急にからからになって、言葉が出なかった。足元のペットボトルのお茶を飲んだ。

「て……?」

「でも、そうすると、俺はべつに何もしなくていいんだね。あと何日か、あるいは何十日かしたら、満願になって、千二百年の修業が成就するんだね?」

「それがのう。少し妙なことが起きておるようなのじゃ」

「妙なこと?」


8


「この村は結界に守られておる。じゃから、外からあやかしが入ってくることはない」

「うん。弘法大師さまの結界だね」

「そうじゃ。しかし、結界のなかに、ひでり神さまの荒御霊を封じてあり、その荒御霊そのものはまだ浄化されておらぬのじゃから、荒御霊から、わずかずつ、よこしまな気、つまり妖気が漏れ出る。その妖気が凝り固まって、何年かに一度、あるいは十何年かに一度、結界のなかにあやかし、つまり妖怪が生ずる。その妖怪を倒し、結界内の清浄を保つのが、呪禁法師どのの役割なのじゃ」

「うん」

「妖怪というのは、倒したといっても完全に消滅するわけではない。いくぶんかの妖気は残る。残った妖気が荒御霊から出る妖気と結びついて凝り固まれば、また妖怪が生ずる」

「きりがないね」

「それでよいのじゃ。妖気が凝り固まってあやかしとなり、あやかしを討つことで妖気の大部分は消滅する。その循環を繰り返すことで、それ以上の事態が起きることを防いでいるのじゃ」

「そうなんだ」

「法師どのをてこずらせるような強いあやかしはめったに現れぬし、現れても法師どのは倒してきた。あやかしが〈はふり〉の者に害をなそうとしたときは、わらわが守った。また、里人や外から来て住み着いた人間が、ひでり神さまと、法師どのと、そしてわらわについて疑念を抱かぬよう、わらわは神通力をふるうた。結界自体にも同様の働きがあったようじゃがの。そうしてこの里の平穏は守られてきた。とはいえ、あまりにも長き戦いに、法師どのは傷つき疲れておる。ところがここ百何十年か、あやかしが現れる数が減り、また現れたあやかしも、さほど力の強いものではなかった。法師どのもわらわも、このまま平穏のうちに満願成就の日を迎えられるものと思うた」

「うん」

「ところがここにきて、毎月のようにあやかしが生じておる。しかも、山口美保の場合と、大塚野枝の場合は、人間があやかしに取り憑かれた。今までなかったことじゃ。それに加えて、両方とも極めて強い妖気を宿しておった」

「佐々成三さんのぶらり火も、人間に取り憑いたよ」

「生きておる人間に取り憑いたわけではないし、あれはあくまで佐々が残した念が妖気と混ざって生じたあやかしじゃ。じゃが、法師どのが会うたときには、かなり危険なものになりかかっておったそうじゃ」

「へえ? そうなんだ」

「そして大塚野枝の場合、問題を起こした石像は、溜石たまりいしといい、妖気を吸収するという珍しい性質を持つ石なのじゃ。どう考えても、ある時点で誰かが結界のなかに運び入れたとしか考えられぬ」

「え? 誰かが結界のなかに?」

「そうじゃ」

「じゃあ、その誰かは、ここに霊的な結界があるって知ってるってこと?」

「そこはよくわからぬ。じゃが、結界のなかの妖気が強くなりすぎれば、結界は壊れる恐れがある」

「結界が壊れたら、何が起きるんだろう」

「外のあやかしがなかに入ってこれるようになるのう」

「敵討ちかな」

「なに?」

「蚩尤っていう人、人なのかな? は、たくさんの妖怪を配下に置いてたんだね?」

「そうじゃ」

「その妖怪たちは、ひでり神さまのことを、恨んでるだろうね」

「いくらなんでも、その時代から現代まで生き続けられるあやかしはおらん」

「天子さんは、どうなの?」

「なに?」

「天子さんは、ひでり神さまと一緒に戦った妖怪の子孫なんでしょう?」

「あ」

「それなら、敵の妖怪にも子孫がいて、そのなかには日本に住んでるやつがいてもおかしくないんじゃないかな」

「……考えたこともなかった。しかし、おぬしの言う通りじゃ。うむ……しかし……」

「しかし?」

「鈴太よ。あやかしというのは、利己的なものなのじゃ。自分のことしか考えぬ。自分の欲や自分の恨みで動くものであって、先祖の敵だからといって、それだけでわざわざ復讐しようなどとは考えぬ」

「じゃあ、天子さんは、例外なの?」

「恩を感じたり、恩を返そうと考えたりするあやかしは、あやかしにはちがいないが、少し種類がちがうのじゃ。わらわも、もともと狐の妖怪というより、森の精のようなものじゃった。しかも、白狐びゃっこをへて天狐となり、その本性ほんせいはすでに神に近い。いや、やはり、わざわざ他人の復讐をするようなあやかしがおるとは思えん」

「じゃあ、その方向性はいったん保留しておこう。じゃあ、結界を破ること、あるいはひでり神さまの満願成就を妨害して、誰かが何かの利益を得るとしたら、それはどんな利益なんだろう」

「おぬしは優れた思考力を持っておるのう。わらわは今、話についてゆきかねておる。利益、じゃと?」

「あやかしは、自分の利益や恨みで動くものなんでしょう。だったら、今回のことに敵がいるとして、その敵の動機は、恨みかもしれないし、利益かもしれない」

「うむ。そこまではわかる」

「恨みだとすれば、ひでり神さまへの恨みかもしれないし、呪禁和尚さんへの恨みかもしれないし、天子さんへの恨みかも知れないし、羽振一族への恨みかもしれない。そして、羽振村への恨みかもしれない」

「理屈はわかるが、法師もわらわもひでり神さまも、そして〈はふり〉の一族も、千二百年にわたって結界の外では働いておらぬ。恨みを買うようなことは考えられぬ」

「うん。でも恨みというのは、何かを相手にしなくても、相手がこちらをねたましいと思ったときや、相手が欲しかったものをこちらが手に入れたときにも生まれる感情だから、絶対にないとはいえないと思う。それに、羽振一族の本家は、まだ京都にいるのかな? そちらで買った恨みかもしれない。ただ、そういうことまで考えると特定がむずかしいから、そっちの可能性は保留しておくとして、利益のほうはどうなんだろう」

「おぬしは、ほんに深い考えを持っておるのじゃなあ。それで、利益とは何のことじゃ」

「荒御霊の封印が解けたら、何が起きるの?」

「ひでり神さまが邪神に戻る、とかのおかたはおっしゃっておられた。邪神となったひでり神さまは、大勢の人を苦しめ殺すであろうな」

「それが狙いなんじゃないかな」

「なに?」

「それを喜びとするようなあやかしはいないかな?」

「むむ。……いない、とはいえぬ」

「うん。これは可能性の一つにすぎないけど、なお検討する余地がある」

「何をどう検討するのじゃ」

「封印というのは、この神社にあるんだったっけ?」

「そうじゃ。祭壇の上段にある鏡に荒御霊を封じてある。それはおぬしの祖先がやったことじゃ。そしておぬしの祖先は、封印を強め長く保たせるために、箱のなかに護符を収めた」

「あ。あの箱か。その中身を最後にみたのはいつ?」

「明治時代のはじめに、この神社を建て直したときじゃ。そのとき、箱も新しくした」

「ということは、取り出したりみたりすることが禁じられてるわけじゃないんだね」

「うむ」

「なら、まずそれをみてみる必要がある」

「なぜじゃ? あれは〈はふり〉の一族以外、ふれることができぬ。何か起こるはずなどないぞ」

「あ、そうなんだ。うーん。でも、荒御霊の封印を解くには、何といっても、その護符をどうにかするのが一番の早道な気がするんだ。むだでもいいから、一度確認しておきたい」

「わかった。念のため、法師どのにも立ち会ってもらおう」

「それから、さっき言ってた石像は、〈子無き地蔵〉のことだね?」

「そうじゃ」

「それを持ち込んだのが誰かを、まず突き止めよう」

「突き止められるものであろうか」

「それはわからないね。でも訊いてみることはできる」

「ふむ。わらわはあまり人との付き合いがうまくない。鈴太がそれをやってくれるなら、助かる」

「ところで、和尚さんは、結界内のあやかしを討つのが役目ということだったけど、〈やまびこ〉のときは、現場は俺に任せっきりだった。お寺でご祈祷してくれたのかもしれないけど。それに、石像に妖気がたまっていたっていうのに、何かしようとはしてなかった。これはどういうことなんだろう」

「法師どのは、長年の戦いで満身創痍なのじゃ。今は体を動かすのもつらいようでな。それでもいざとなれば戦うであろうが。石像については、これは致し方ないのじゃ。石像に妖気がたまっていても、それをどうすることもできぬ。石像を壊せば妖気は散るであろうが、またどこかで集まる。それより、石像の妖気が形をとって現れたとき倒せば妖気は弱まって散る。そのほうが効率がよいのじゃ」

「ふうん? もしかしてそれは、誰かに妖気が乗り移るのを待ってたってこと?」

「いや。まさか妖気が直接人間に移るようなことがあるとは思っておらなんだのじゃ。これは法師どのもそうじゃったし、わらわもそうじゃ」

「でも、野枝さんに移った」

「そうなのじゃ。どうも何かがおかしい。この千二百年のあいだになかったようなことが、今起きようとしておるのかもしれん」

「そうだね。ひでり神さまとしては、今までやってきたように、積み石を毎日続けていくしかない。でも俺たちは、いろんな可能性にあたって、使命を妨げるものがあれば排除すればいい。ところで、天子さん」

「なにかの?」

「じいちゃんは、自分の代で使命は終わると考えて、父さんにこの里の秘密を伝えなかったんだね?」

「まったく伝えなかったかどうかはわからぬが、おおむねその通りじゃと思う」

「そしてじいちゃんは、年老いて体調が悪化しても、父さんを呼び戻そうとはしなかったんだね?」

「その通りじゃ」

「それなのに、俺はここにいて、里の秘密を知っている。これはどういうことなんだろう」

「ふむ。予定したより長引いたといっても、近々満願の日を迎えることを、幣蔵は疑っておらなんだ。もう一族の役目は終わったと考えておったのじゃ。じゃから幣蔵は、弓彦にもおぬしにも、この里の成り立ちと〈はふり〉の者の歴史を教えようとはせなんだ。わらわはそう理解しておる」

「じゃあ、天子さんは、なぜ俺を呼び戻したの?」

「肉親の情として、幣蔵はおぬしに会いたくて会いたくてならなんだのじゃ。もうこの世を去る日が近いと知って、その思いはなお強まった。これは直接聞いたことじゃから、まちがいない」

「そうなんだ」

「それでも、おぬしはおぬしの人生を生きるべきじゃと意地を張って、法師どのや、わらわや、殿村が、どんなに説得しても、おぬしを呼ぶことにうんとは言わなんだ。それでも、わらわは、おぬしが喪主を務めることが幣蔵の遺志にかなうと信じた。それにのう、一族の末裔であるおぬしに、この里のことを知っていてほしという気持は、きっと幣蔵のなかにあったと思う。一族の汗と血がしみ込んだこの里をのう」

「うん。いい村だと思う」

「そして、代々の〈はふり〉の者たちの御霊みたまは、長年にわたる使命が果たされる瞬間を、法師どのとわらわだけでなく、一族の末裔が立ち会うことを願っておると、わらわは思うたのじゃ」

「なるほど。それはそうだ。でも、それじゃあ、こうやって秘密を教えてくれたのは、なぜ?」

「それは、おぬしがそうさせたのじゃ」

「俺が?」

「おぬしは、言葉の力だけで、山口美保を人間に戻した」

「えっ? あれは護摩とお札の力でしょう?」

「札はあやかしの力の供給を絶つものであって、その以上のものではない。今にして思えば、あのとき法師どのが直接出向かなかったのは、法師どのが幽谷響やまびこに会えば、殺すほかなかったからかもしれぬ。そして法師どのは、おぬしの才能にうすうす気づいていたのかもしれぬ」

「才能? 俺に?」

「佐々の家の法要のときも、荒御霊になりかかったぶらり火を、言葉の力だけで鎮めて、しかも親兄弟に礼まで言わせたそうじゃな」

「あれはちょっとご参考までに言っただけだ。成三さんが素直だったんだよ」

「大塚野枝のとき、わらわは目の前でみておった。圧巻であった。まさに邪悪なあやかしとして生まれ落ちようとした異形に、言葉をかけただけで、自分は人間の赤ちゃんで、お母さんである野枝を幸せにするのが役目だと、納得させてしもうた」

「いや、人をそんな詐欺師みたいに」

「そばで聞いておるわらわの身もしびれた。おぬしの言葉におぼれそうになった。おぼれたいと思った。おぬしは、特別な力を持った人間じゃ。一族の血を強く受け継いだ人間じゃ。わらわはおぬしに、ともにいてほしいと思った。使命が果たされるまでともに戦い、果たされる瞬間をともに迎えてほしいと思った。じゃからおぬしに秘密を教えたのじゃ」

 ともにいてほしい。

 ともに戦ってほしい。

 長き人生の目的が達せられるその瞬間を、ともに迎えてほしい。

 天子さんが、そう願っていると知って、俺は歓喜した。

 俺が天子さんに必要とされ、求められているという事実に驚喜した。

 その喜びが、俺を大胆にさせた。

 俺は立ち上がって天子さんに近寄り、右手で彼女の左肩を、左手で彼女の右肩をそっとつかむと、彼女を立ち上がらせた。

 彼女の瞳が、俺を映している。

 俺と彼女は、お互いに息がかかるほどの距離にいる。

「俺の力が必要なんだね?」

「そうじゃ」

「俺に、ともに戦ってほしいんだね?」

「そうじゃ」

「俺と一緒に、願いが成就する瞬間を迎えたいんだね?」

「そうじゃ」

「わかった。俺は天子さんと一緒に戦う。天子さんとともに進む」

「おお!」

「だから、天子さん」

「うむ」

「使命が終わったら消えるなんて言うな」

「え」

「生きろ」

「…………」

「俺とともに生きろ」

「…………」

「俺は君のために生きる。君は俺のために生きろ」

「…………」

「俺は君が好きだ」

 天子さんは美しい両眼を、大きくみひらいた。

「君も俺を好きになれ」

 俺は思わず彼女を引き寄せた。

 彼女の瞳には俺が映っている。俺だけが映っている。

 俺の瞳にも、彼女だけが映っているはずだ。

 彼女だけが映る俺の瞳を、彼女はじっとみつめている。

 この瞬間の天子さんの美しさを表現する言葉は地上にはない。

 月明かりを浴びて、まるで森の妖精のような淡い光を放ちながら。

 彼女はそっと目を閉じ。

 くちびるを、俺に差し出した。

 俺はやさしく覆いかぶさるように、自分のくちびるを、そこに重ねた。

 自分の体が自分自身のものではないように感じた。

 それでいて、心臓は激しく脈打ち、血は全身を狂おしく駆けめぐり、俺は幸せにおぼれた。

 ふれあったくちびるのやわらかさが、脳髄をしびれさせる。

 俺は彼女を抱きしめた。

 腕と胸に感じる彼女の肉体が、まぎれもなく生身の人間であることを知って、俺はいっそう彼女をいとおしく思った。

 彼女がこんなに細くてか細いなんて知らなかった。

 彼女が、おずおずと俺の背中に回してくれた手が、俺の喜びを沸騰させた。

 いっそう強く抱きしめた。彼女は控えめに、俺に答えてくれた。

 無限とも思える時間が過ぎたあと、そっとくちびるを離すと、天子さんはうっすらと目を開けた。

「法師どのの勘違いかと思うたが」

「え?」

「そうでもなかったようじゃ」

「何のこと?」

「何でもない。忘れるがよい」

「すごく気になる」

「ふふ。さて、時間はずいぶん遅い。帰ろうかの」

 うん、と返事して体の向きを変えようとしたが、うまく自分の体がコントロールできず、俺はその場に倒れ込んでしまった。

「ど、どうしたのじゃ?」

「足が、しびれた」

 椅子に座ってても足がしびれることってあるんだね。はじめて知ったよ。


 その夜、変な夢をみた。

 誰かが闇のなかから話しかけてくるんだ。

「オトウサン。オトウサン」

「誰だ? 君は、誰だ?」

「オトウサン。オトウサン」

「俺に話しかける君は誰?」

「ミツケタヨ。ヤットミツケタ」

「何をみつけたんだ?」

「アイツ、ミツケタ」

「あいつ?」

「コレデシアワセナレルネ」

「幸せ? 誰が?」

「オカアサン、シアワセナル」

 天子さんの記憶で俺の心はいっぱいだったから、こんな夢をみたことは忘れてしまった。

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