第6話 長壁姫

1


 夜明け前に目がさめた。

 三時間も寝ていない。

 それなのに、すっと目がさめてしまった。

(ずいぶん早く起きちゃったなあ)

 昨日のことを思い出してみる。

 鈴太の腕のなかに、確かに天子さんがいた。

 そのかぐわしさ。

 そのか細さ。

 意外に豊満な胸。

 そして、あのくちびる……

 あれは、本当にあった出来事なのだろうか。

 現実とは思えないほど、素晴らしい出来事だった。

 ほんとに夢のなかのことのようだった。

(待てよ……)

 突然、俺は、自分が何を言い、何をしでかしたかを思い出した。

 いきなり彼女の両肩をつかんで、俺はこう言った。

〈俺は天子さんと一緒に戦う。天子さんとともに進む〉

〈だから、天子さん。使命が終わったら消えるなんて言うな〉

〈俺とともに生きろ〉

〈俺は君のために生きる。君は俺のために生きろ〉

〈俺は君が好きだ。君も俺を好きになれ〉

 そして、彼女の体を強引に引き寄せ……

「うわあああああああああ!」

 思わず叫んだ。

 叫びながら、布団の上でのたうち回った。

(なんてことを! なんてことを!)

(あんな恥ずかしいセリフを言うなんて!)

(あんなことをしでかすなんて!)

 俺は昨日の自分を責めた。

 責めて責めて責めまくった。

 それにしても、われながら不思議だ。

 俺は対人関係には、かなり臆病なほうだ。

 けっこう長い付き合いの友人でも、こちらの心のなかには踏み込ませないし、あちらの生活に踏み込んだりしない。

 たぶん、人から決定的にきらわれたり憎まれたりすることに耐えられないからだ。

 そんな俺が、昨夜はあんなにも大胆なふるまいに出た。

 いったいどうして、あんなことをしてしまったんだろう。

 相手の気持も確かめずに、一方的に気持をぶちまけ、強引にくちびるを奪うなんて。

 くちびる。

 天子さんのくちびる。

(うわああああああああ!)

 思い出すな。

 これ以上、思い出しちゃいけない。

 天子さんのくちびる。

(うわああああああああ!)

「だめだ。寝てなんかいられない。起きよう」

 起きて顔を洗ってジャージに着替え、神社の掃除道具一式を持って家を出た。

 まだ夜が明けきっていないが、白澤山の向こうにある朝日の光が、山の端をへて村をぼんやり照らしている。幻想的な景色だ。樹恩の森からあふれ出た霧が、こうやって歩く足元にも流れている。

(うわあ。夜明けは、こんなにいい景色だったんだ)

 歩くには充分な明るさだ。俺はとぼとぼ神社に向かって歩きながら、考えごとをした。

 天子さんに、ともに戦うといった自分の気持ちに嘘はない。

 どうしてそんな気持ちになったのか、自分でもよくわからないけど、天子さんがどうこうとかいう前に、これは避けて通れない道なんだという感じがしてる。

(なんで、そこでやめておかなかったかなあ……)

 ともに戦う。

 それはいい。

 うん。

 かっこいい。

 だけど、その次のセリフが、もうなんというか台なしだ。

〈俺とともに生きろ〉

〈俺は君のために生きる。君は俺のために生きろ〉

〈俺は君が好きだ。君も俺を好きになれ〉

 どっから出てきたんだ、こんなセリフ!

(ああ。もうダメだ)

 もう天子さんに顔は合わせられない。

 というか、もう今日から来ないかもしれない。

 なんであんなことしちゃったのかなあ。

(あ、でも)

 俺が抱きしめたとき、天子さんは、俺の背中に手を回してた。

 つまり、天子さんも俺を抱きしめ返してたんだ。

 ということは……

(いや。ちがうだろうなあ)

 あれは好意の表れとか、抱きしめ返したとかじゃなく、とっさのことでどうしようもなく、ただ反射的にそうしただけのことなんだろう。

(いやいや。でも考えてみると)

 考えてみると、天子さんは、悲鳴をあげたり、俺を突き放したり、ひっぱたいたり、神通力でこらしめたりしなかった。ということは、好意がある、ということなんだ!

(そんなはずないか)

 やっぱり、そんなことあるわけない。だって、天子さんが俺を好きになるような要素が、何一つない。俺が天子さんを好きになる要素は、いっぱいあっても。

 寝床を整えたり、おいしい味噌汁を作ってくれた天子さん。

 桜吹雪のなかで、天女のような舞いをみせてくれた天子さん。

 いつも後ろにいて、俺をみまもってくれていた天子さん。

 〈やまびこ〉のときだって、ずっと一緒にいてくれた。

 〈こなきじじいの〉のときだって、ずっと支えてくれた。

 だいたい、天子さんは、千年以上にわたってご先祖さまたちをみまもってきてくれた人だ。千年のあいだには、ずいぶん格好いいご先祖さまだっていたにちがいない。そんな人と比べたら、俺なんて。

 それにしても、美しかった。

 昨日の夜の天子さんは、人間とは思えないほど奇麗だった。

 あ。人間じゃないのか。

 ほんとに、何ていうか、森の精というか。

 そういえば、そんなことも言ってたような気がする。もともと森の精のような存在だって。

 エルフだな。

 うん、エルフだ。

 天子さんがエルフだとすると、持言、じゃなかった呪禁和尚さんは、何になるんだろう。

 オークだな。あ、魔法を使うから、オークメイジか。

 そんなたわいもないことを考えてるうちに、神社の近くまでついていたので、ふと目を上げて、目に入った光景に言葉を失った。

 雲海だ。

 いや、実際には霧かもやなんだろうけど、まるで雲海だ。

 三山の懐に抱かれて、樹恩の森から雲が湧き出て、その雲のなかに神社が浮かんでいる。そんな景色が目の前にある。

 神社の敷地は、村から少し飛び出している。その両側と後ろは切り立った崖になっていて、下には樹恩の森が広がっている。

 神社の後ろ側は、森がせり上がってきていて、森と神社との落差は十数メートルしかない。その向こう側はなだらかな下り坂になっていて、広大な森は、神社からみると、けっこう低い位置にあるように感じる。

 木の高さは均一じゃない。だから、まるで雲みたいにみえる濃密な霧のなかから、ところどころにこんもりした木のてっぺんが突き出していて、その下に続く樹影がぼんやりと浮かんでいる。

 天空の神社か。

 これ、もしかしたら、すごい観光地にできるかも。

 しようとは思わないけどな。

 境内への階段を上がった俺は、神社の正面にある石の八足に、やわらかな光を放つものが載っているのをみつけた。

「これが、積み石か」

 ひでり神さまの、贖罪の石。つぐないの石。

 これを四十何万個だったか、ひでり神さまのために死んでしまった人の数だけ積み上げたとき、罪は許され、死んでしまった人たちは成仏し、ひでり神さまは天界に帰れる。

(こんな形をした石だったんだ)

 丸い宝石のような形なんだろうと、何となく思ってたけど、ちがった。

 ごつごつしている。

 しかも、そんなに大きくない。

 考えてみたら、あんまり大きな石だと運べないし、丸い石だと積み上げられない。

 このぐらいの大きさで、こういう形なのが妥当なんだろうな。

 ぼんやりと発光している。やさしい光だけど、みかたによっては寂しい光にみえるかもしれない。この世のものではないことを教えてくれる光だ。

 後ろに人の気配がした。

 振り返ってみると、艶さんが、つまりひでり神さまが、境内地に上ってきたところだった。

 艶さんは、老人のような足取りで、こちらにやって来る。

 俺は道を開けた。

 艶さんは、俺に会釈して、前を通り過ぎ、神社の正面まで進み、八足の前でしゃがみこんで何事かを祈った。

 そして、八足の上の積み石を押し頂くと、神社の後ろ側に回っていった。

 今ならば、俺にも隠された階段がみえるような気がする。

 今すぐ神社の後ろ側に回り込めば、そこには階段が現れているような気がする。

 けれども、もちろん、俺はそんなことはしなかった。

 それは、俺が踏み込んでいい場所じゃない。

 俺は神社の掃除に取りかかった。

 終わるころには、すっかり太陽が昇りきっていて、早朝の神秘的な景色は、まるでまぼろしだったように感じた。


2


 帰り道でもいろいろ考え事をしていたので、家に帰って朝食の準備を整えた天子さんに会ったとき、思わずふつうにあいさつした。

「あ、おはよう」

「うむ。おはよう。食事にしよう」

「うん。手を洗ってくるね」

(よかった!)

 心からそう思った。

 そもそも天子さんが今朝来てくれなかったらどうしようとか、どんな顔で会えばいいんだとか、どう声をかければいいんだとか悩んでたけど、一気に突破してしまったわけだ。

 朝食の途中、つい、ちらちらと天子さんの顔をみてしまったのはしかたがない。

 食後のまったりタイムは、今朝はなかった。

「転輪寺に行くぞ」

「うん」

 道中で、こんな話が出た。

「そういえば、鈴太」

「なに?」

「〈子無き地蔵〉のことじゃがな」

「うん」

「あれはたぶん、最近持ち込まれたものではない」

「え?」

「この結界のなかで、あれだけの妖気がたまるには、相当に長い時間が必要なのじゃ。じゃからあの溜石は、何十年も前に持ち込まれたものかもしれぬ」

「そうなんだ。そんなに古そうにはみえなかったけどな。じゃあ、誰が持ち込んだかなんて、今さら村のなかで訊いて回ってもわからないかもしれないね」

「うむ」

 転輪寺についた俺たちは、和尚の私室に通された。

「二人そろうて何の用じゃな」

「鈴太にこの里の成り立ちと、われらの役目について話した。近頃の奇妙な動きについても話した」

「ほう。ついに話したか。重畳、重畳。これで遠慮なく相談事もできるというものじゃ」

「鈴太。そんな後ろのほうにいないで、もっと前に出よ」

「う、うん」

 といっても、呪禁和尚さんは、すごく大きくて、なんか圧倒されちゃうんだよ。今さらだけどね。

 その他大勢でいられるときはよかったけど、なんかあらためて羽振一族を代表してみたいな目でみられると、とっても居心地が悪い。

「どうしたのじゃ。ゆうべの大胆さはどこに消えた」

 天子さんが、とんでもないことを口走った。

「ゆうべ?」

 和尚さんが、すかさず突っ込みを入れた。

「まあよい。それで法師どの。鈴太が言うには、まず神社の封印の護符を改めるべきじゃというのじゃ」

「封印の護符を?」

「そうじゃ。鈴太」

「は、はひっ」

「……舌をかんだか?」

「ら、らいりょうふへふ」

「ちっとも大丈夫でない。ちょっと待て」

 天子さんは、びっくりするような行動に出た。

 右手の指先を伸ばして俺のくちびるにふれたかと思うと、人差し指を口のなかに突っ込んできたのだ。

(ひ、人前で、いったい何を!)

 あわてる俺におかまいなく、天子さんは、左手を握って指を二本立て、目と目のあいだに押し当てると目を閉じて、何か小声で呪文のようなものを唱えはじめた。

 やがて、俺の口のなかが温かくなってきた。

「よし。これで治ったであろう」

「えっ? あっ! 痛みが消えてる」

「わらわの神通力じゃ」

 ヒールか!

 天子さんはヒーラーだったんだ!

 すごいぞっ。

 あれ?

「天子さん、こんなことできるんなら、呪禁和尚さんの体も治してあげればいいんじゃないの?」

「わらわの癒やしのわざは、神霊やあやかしには効き目がないのじゃ」

「あ、そうなんだ」

 そんなこんなで簡単に打ち合わせをしたあと、俺たちは、とにかく神社に行って護符を確認することになった。

 神社に移動した。

「では、鈴太、唐櫃からひつのふたを開けよ」

「ぼ、俺が?」

「鈴太にしかできん。わしらが直接護符にふれたら失神してしまうし、箱ごと持っても体調がおかしくなる。まして、ただの人間がさわれば命にもかかわる」

「えっ? そんな大げさなものなんですか?」

「うむ」

「そうじゃ」

 何げなしに、はたきではたいたり、タオルでから拭きしたりしてたよ!

 そんな危険物なら、はじめから教えておいてほしかった。

 二人に凝視されながら、俺はおずおずと箱のふたを開けた。

 かなりどきどきしながら、なかをみた。

 箱のなかは、空だった。


3


「……ない」

「……どこに行ったのじゃ?」

 まさかほんとに紛失してるとは。

 どうすればいいんだろう、この事態。

 確かに、なかをみるべきだと言ったのは俺だけど、まさかほんとに異常事態が起きてるなんて、想定外もいいところだ。

「あの……なかには、何が入っていたんですか?」

「護符じゃ」

「おぬしのご先祖が作った護符が一枚、安置されておったのじゃ」

「護符って、紙ですか?」

「木じゃ。木に墨で文字が書かれておった」

「文字って?」

「表側には十二文字。これは神代文字で、わしにも読めなんだ。裏側には、上に六文字あって、これも神代文字じゃ。その下に漢字で〈急急如律令〉と書かれておる」

「きゅうきゅうにょりつりょう……」

 なんだろう。

 のうみそが、ちくちくうずうずする。

 何かの記憶が出てきたがってる。

 なんだろう。

 俺は何かを知っている。

 なんだろう。

「あっ!!」

 俺は神社を飛び出した。

 上がり口のところで、スニーカーを素早く履くと、家に向かってダッシュした。

 運動不足がたたって、家に着いたときは、足がよろよろだった。

 はあはあと弾む息を整えるのももどかしく、押入にしまい込んだ箱を出した。

 これじゃない。

 これでもない。

 もっと奧だ。

 あった。

 何重にも何重にも厳重に包装されてしまいこまれた、それでいて包み方はちょっと雑な……これだ。

 すっかり黒ずんだ木の板だけど、墨で何かが書いてあるのはわかる。

 謎の記号だ。片側は読めない。

 反対側の下のほうには、〈急急如律令〉と書いてある。これを〈きゅうきゅうにょりつりょう〉と読むんじゃないだろうか。

 俺は板きれを簡単に包み直すと、それを持って自転車で神社に急いだ。

「おお。戻ったか。急にどうしたのじゃ」

「天狐よ。鈴太の荷物から、ただならぬ気配がただよっておる」

 俺は自転車の籠から紙袋を出し、そのなかから木の板を出した。

「おお!」

「これじゃ! これこそが」

「やっぱり、これだったんですね」

「いったい、どこにあったのじゃ」

「押入のなかに」

「は?」

「なに?」

「あの、これ、とりあえず箱のなかに戻しましょうか?」

「そうじゃ」

唐櫃からひつのなかに、く収めよ」

「とく?」

「いいから」

 この足つきの木の箱は、〈からひつ〉とかいうみたいだ。まあ、名前なんてどうでもいいが。


4


「すると、護符は、おぬしの母の遺品のなかにあったのか」

「うん。これは絶対に手放すなって。お前が幸せになるために必要なものだからって、母さんはそう言ってた。中身はみたことなかったんだけど、引っ越しのとき、一度開けてみたんだ」

「なるほど。それで〈急急如律令〉という文言に反応したのじゃな。しかし鈴太よ。お前の母が、いったいいつこれを持ち出したというのじゃ」

「あ、和尚さん。そのことなんですけど、実は先日、秀さんから、妙なことを言われたんです」

 俺は、秀さんから聞いた話を二人に話した。

 つまり、父さんと母さんが、二歳の俺をつれてこの村を出てから二年か三年かあとに、母さんと俺だけがこの村に戻ってきた、という話だ。

「弓彦抜きで、鶴枝とお前だけが、じゃと。それは妙な話じゃ」

「鶴枝とおぬしがこの里に帰るなら、弓彦が同行せぬわけはない。大病でもせぬかぎりのう」

「天狐よ。この話を知っておったか?」

「知らぬ。はじめて聞いた。もしも鶴枝がそのとき幣蔵を訪ねたのじゃとしたら、わらわが知らぬということはないと思う」

「では鶴枝は、幣蔵にも内緒でこの村に帰ってきたことになるのう」

 それから二人は黙り込んでしまった。

 沈黙をやぶったのは、俺だった。

「この神社を最初にみたとき、なんだかとってもなつかしい感じがしたんだ。温かいものに抱かれているような」

「温かいもの?」

「うん。だけど、二歳のときに村を出たんなら、そんな記憶があるわけないから、気のせいだと考えたんだけど」

「四歳か五歳なら、記憶に残っても不思議はないのう。もしやその温かいものとは、おぬしの母かもしれぬ」

「うん。俺もそう思ったんだ。この神社で母さんに抱きしめられた記憶が心の底に眠っていて、神社をみてその感情がよみがえったんじゃないかって」

「天狐よ。整理してみよう。まず、この護符にさわれるのは、〈はふり〉の者だけじゃ。つまり、幣蔵か弓彦か鈴太の三人だけじゃ」

「幣蔵が護符を持ち出して弓彦に預けたなどとは考えられぬ」

「うむ。それは〈はふり〉の者とわれらが千年以上務めてきた役割を無為にすることじゃからなあ。幣蔵は、そんなことはすまい」

「わらわは、弓彦が護符のことを知っておったとは思わぬ。とすれば、弓彦が護符を持ち出す理由もない」

「手がかりになるのは、秀の言葉じゃ。鈴太が四歳か五歳のとき、鶴枝に連れられて里を訪れたという。しかも幣蔵の所には顔を出しておらん。何か困ったことでもあって、弓彦と一緒に来ることができなかったとして、相談する相手は幣蔵しかない」

「十中八九、狙いは護符であろうな。逆にいえば、じゃから弓彦にも内緒で来たのじゃ。しかし、鶴枝は護符のことを誰から聞いたのじゃ。なぜ鶴枝は護符を持ち去ったのじゃ」

「あの、お二人の話についていけないんですが。母さんが護符にさわることができたんですか」

「できぬ」

「もちろん、できんじゃろう」

「なら、どうして母さんが疑われてるんですか?」

「おぬしじゃ」

「鶴枝は、たぶんお前を抱き上げて、お前に命じて護符を唐櫃から取り出させ、何重にも包装させたのじゃ」

「あ」

 考えてみれば、そうにちがいない。

 じいちゃんも父さんも、大切な護符を勝手に運び出したりしない。つまり俺が犯人なんだ。

 なんてことだ。

「だけど、母さんは、なんでそんなことを俺にさせたんだろう」

「誰かに暗示をかけられた、とわらわは考えるが、法師どのはどうか」

「わしも同じじゃなあ。ただだましたとか、嘘を吹き込んだとかいうようなことでは、弓彦にも黙ってそれを行ったことが説明できんし、わざわざこの里に来て幣蔵にあいさつもせなんだのも、正常な状態の鶴枝では考えられん。あれはそういう女ではない」

「暗示をかけた者は、護符の意味を知っておったのであろうかのう」

「そうでなければ、古くさい木の板一枚を、わざわざ手間暇かけて神社から盗み出す理由がない」

「あ、あの。誰かが母さんを催眠術で操ったっていうことですよね。でも、護符が邪魔だったんなら、どうして捨てたり燃やしたりさせなかったんです?」

「今日のおぬしは、頭の働きが悪いのかえ? 暗示というものは、かけられた者が心底やりたくないことをさせることはむずかしい」

「そういうことよ。鶴枝も、暗示で動くその下側の無意識では、あれが何か大事なものだということはわかっておった。たぶん敵は、そこを逆手にとった」

「逆手って何ですか?」

「ほれ、お前が言うたではないか。この板は、お前が幸せになるために必要なものじゃと、お前の母は言うたのであろう」

「あっ」

つもり神社の、いや地守神社の祭壇にある護符は、鈴太の物であり、鈴太が幸せになるために必要なものだから受け取りに行け、と暗示をかければ、無意識の抵抗にあわず、暗示に従わせることができる。というより積極的に行動させることができる」

「その誰やらにしてみれば、護符を神社から取り去ってしまいさえすれば、あとはどうなろうとかまわなんだのであろうの」

 ここにきて、硬直していた俺の脳みそが、働きを始めた。

 何かがおかしい。

 何かが不自然だ。

 いったい何が不自然なんだ?

「あっ」

「どうした? 鈴太」

「何か思い出したかのう?」

「なぜ、どうして、和尚さんも、天子さんも、護符がないのに気づかなかったんだ?」

「それは……」

「不覚というほかないのう」

「それは、異常が起きなかったからだ」

「なに?」

「鈴太、何が言いたい?」

「異常が起きなかった。これは異常なことだ」

「異常が起きないのが」

「異常じゃと?」

「護符が失われたら、荒御霊を封じた神鏡は、たくさんの妖気を放出したはずなんだ。ところが和尚さんも天子さんも、そのことに気づかなかった。妖怪が増えなかったからだ」

「あっ」

「待て待て。妖怪が……増えなかった……から?」

「十六年前か十五年前、護符が持ち去られた。そのときから、妖気の放出は格段に増加したはずだ。当然、数多くの強力な妖怪が出現するはずだった。でもそんなことはなかった。逆に、ここ十数年は、ほとんど妖怪が出現しなかったし、したとしてもごく弱い妖怪だった」

「確かにそうじゃ」

「うむ。ここ十数年は、ろくにあやかしが出なかった。しかし、護符が失われていたのじゃから、確かにそれはおかしい」

「その妖気は《・・・・・・》どこにいったんだ《・・・・・・・・》?」

 和尚さんも天子さんも、黙り込んでしまった。

 俺は言葉を続けた。

「一つはっきりしたのは、敵がいるということだ。千二百年間現れなかった敵が」

 今や俺の頭のなかは、完全にクリアだ。一つ一つ言葉にして整理しながら、思考を進めてゆく。

「その敵は、十数年前、突然現れたのか? いや、ちがう。なぜなら、異変が始まったのは百何十年か前だ。そのころから、妖怪が現れる数が減り、現れたとしても、たいした力の妖怪ではなかった。そう天子さんは言った」

 和尚さんも、天子さんも、じっと俺のほうをみつめている。

「そのころから始まっていたんだ。俺たちの敵は、百数十年前から、妖気を吸い続けていたんだ」

 俺は思考をさらに推し進めた。

「敵は強くなった。だけど、もっとたくさんの妖気が欲しかった。だから、父さんと母さんと俺が結界の外に出たことは、その敵にとって千載一遇のチャンスだった。敵は母さんを操り、俺を使って護符を持ち去らせた。その結果、それまでとは比べものにならないほど濃い妖気が発生した。敵はそれをまんまと吸い取った」

「ま、待て、鈴太」

「なに? 天子さん」

「百数十年のあいだ結界にたまった妖気を吸っただけでも大変な妖気の量じゃ。それに加えて、護符がなくなってからの妖気の量といえば、いったいどれほどの量と濃さなのか、ちょっと見当がつかんほどじゃ、それを」

「それを?」

「それを吸えるような妖怪など」

「いないの?」

「……いたとすれば、とてつもない大妖怪じゃ」

「うむむむむ。鈴太よ」

「はい」

「実は、大昔のことじゃが、あふれ出る妖気を、天狐とわしで吸ってしまおうという話をした」

「和尚さんや天子さんにも吸えるんですね?」

「吸える。じゃが、よこしまな気を吸い続ければ、わしも天狐も邪妖に堕ちてしまうかもしれぬ。そう思えば、その道は選べなんだ」

「はい」

「ただし、わしにしても天狐にしても、一人で吸えるのは百年がせいぜいで、じゃから、どこかで妖気を放出しながら吸い続けることになる」

「はい」

「もしその敵とやらが、百何十年の妖気を吸い続け、ここ十数年の、おそらく濃密じゃったはずの妖気も吸い続けておるとしたら」

「としたら?」

「その敵は、わしや天狐より格上の妖怪であり、しかも想像もつかんほどの力をたくわえておることになる」

 三人とも言葉を失った。

 長いあいだ、沈黙が続いた。

 俺は話を前に進めるために再び言葉を発したけど、その声は少し枯れていた。

「さっきの話は、仮定の話であり、可能性の話です。物証といえるものはなく、状況証拠に推測を重ねただけのことです。敵なんかいなくて、母さんがノイローゼになって護符を持ち去っただけのことかもしれないし、百数十年前からの妖怪の減少も、長い目でみれば誤差程度のことなのかもしれません」

 そう言ってみたが、自分でも説得力のない発言だと思った。

 ノイローゼになったからといって、神社の護符を盗みにこんな山奥まで来るはずがない。それがどんなに強力で大切な護符かなんて、母さんは知らなかったんだから。

「ただ、最悪の状況を想定して備えをすれば、どんな状況にも対応できるはずです。だから俺たちは、最悪の想定に基づいて、調査と準備を進めなければなりません」

「調査と」

「準備じゃと?」

「はい」

「それはどういう意味であろうかの」

「何を調べ、準備できるというんじゃ」

「まず、ひでり神さまを訪ねないといけません」

「……なるほど」

「む。法師どの。わらわにはわからん」

「わからんか。護符が十年以上にわたって失われておったんじゃぞ」

「あ」

「ひでり神さまのお身に、何かさわりがないか、お尋ねせねばならん。そこに気がつかなんだとは、われながらうかつ」

「ふふ。鈴太の思考力は、なかなかのものであろう?」

「なんでお前が自慢げなんじゃ」

「体調に変化がないか訊きます。そのうえで、なお尋ねてみましょう」

「ほう」

「何をじゃ?」

「石は何個積めたのか。いつごろ満願成就の日が来るのか」

「なるほど」

「少なくとも、われらよりは見通しが立っておられよう。それにしても、ひどく弱っておられるのでなければよいのじゃが」

「今朝も、石を積みに神社に来ておられました。歩けないほど衰弱もしておられないし、平常心を保てないほど心が乱れているようすでもありませんでした」

「おお!」

「それはよかった」

「敵がどこまでの情報を持っているかわかりませんが、少なくとも、いつが満願成就かを知っているとは思えません。そこについて情報が得られれば、こちらは、その情報に基づいて作戦を立てられます」

「うむ」

「まさにそうじゃ」

「さて、お二人は、ひでり神さまの住んでいる場所を知ってますね?」

「むろんじゃ」

「訪ねたことはないがのう」

「では、行きましょう」

「うむ」

「おう」


5


 この家だったんだ。

 この家が、ひでり神さまの住まいだったんだ。

 こじゃれていて奇麗な家だけど、どんな人が住んでるのかなあ、と気にはなっていたんだ。

 そうか、ここがひでり神さまの家なのか。

 それはいいんだけど。

「なんで二人とも後ろにいるの?」

「うむ。わしらは脇役じゃからな」

「鈴太のあとに従うまでじゃ」

「いやいや。こんな十八歳の若造を前に立てちゃだめでしょ」

「そんなことはない。のう、法師どの」

「うむ。なんといっても〈はふり〉の家の当主なんじゃからなあ」

 二人とも、前に出ようとしない。

 しかたないなあ。

 それにしても、こぢんまりしてるけど、新しくて、いい家だな。

 屋根に載ってる、とっても大きなソーラーパネルが印象的だ。

 玄関ブザーを、ぽちっとね。

 ピンポーン。ピンポーン。

「…………」

「…………」

「…………」

 もう一回、押してみよう。

 ぽちっ、とね。

 ピンポーン。ピンポーン。

「…………」

「…………」

「…………」

 返事がない。

 ドアノブに手をかけて……。

 あ、回った。鍵がかかってない。

「おじゃましまーす」

 ドアを少し開けて、なかに声をかけた。

「ようお越し」

 返事があるとは思ってなかったので、とってもびっくりした。

「どうした。入ってくるがええ。どなたじゃな」

「あの。羽振鈴太です」

「なに。おお、これはこれは。ようこそおみえじゃ。さあさあ、お入りなされ」

 俺はドアを押し開けて、玄関に入った。

「おやおや。これはお珍しい。法師どのに、天狐どの」

「おじゃま申し上げる」

「失礼いたしまする」

 二人とも、妙に神妙だね。

 ひでり神さまは、パジャマを着てる。なんでイチゴ柄なんだ?


6


「新しくて奇麗な家ですね」

「ほほほ。みな、〈はふり〉の者のおかげじゃ。幣蔵どのは何かと気を遣うてくれて、行き届いて世話してくだされた」

 そうだったんだ。

 そういえば、じいちゃん、大金持ちだったね。ひでり神さまのお世話はして当然かもしれない。

「すごく立派なソーラーパネルですね」

「ほほほ。あれは、格別のお気に入りでなあ。日の光がこのように役に立つとは。まことにけっこうな機械じゃ。……うっ。ごほっ、ごほっ」

「あ、だいじょうぶですか?」

「……ああ。ご心配をおかけするなあ。だいじょうぶじゃ。いつものことでなあ」

「ご体調がよくないんですね」

「ああ。最近、どうもなあ」

「そのことで、おわびしなくてはならないことがあります」

「ほう? 〈はふり〉の新当主が、わしに、わびとな?」

「はい。十四年、あるいは十五年前、俺は地守神社の祭壇の護符を、里の外に持ち出してしまったんです」

「……そのころ、あなたは何歳じゃった?」

「四歳か五歳です」

「その年齢では、自分で考えてのことではあるまい」

「母さんと二人で、この村に帰ってきたみたいなんです」

「ほう」

「母さんは、誰かに暗示をかけられたのではないか、と和尚さんと天子さんは推測しています」

「それでわかった。十数年前から、心がひどくざわついてなあ。ざわつく心を抑えようとするのじゃが、これがなかなか力のいる仕事で、そのころから体調が悪くなってしもうたのじゃが。そうか、護符が失われておったのか」

「つい先ほど、そのことに気づいたんです。そして護符は、母さんの遺品のなかにありました」

「遺品? 鶴枝どのは……」

「亡くなりました。四年前のことです。父も一緒に亡くなりました」

「なんと。なんとのう。まだお若かったのに」

「護符は、つい先ほど、祭壇に戻しました」

「ああ、そうじゃろうなあ。急に体がらくになったんでなあ」

「お疲れのことでしょうから、単刀直入に申し上げます」

「うん。わざわざのお越しじゃ。何の要件かなあ」

「あなたの行が成就するよう、俺も、和尚さんも、天子さんも、全力で支えます。そのために教えていただきたいことがあるんです」

「何なりと。わしの答えられることなら」

「あと何日で、あるいはあと何個で、満願成就となるんでしょうか」

「……さあなあ。わしは最初から数など数えておらなんだ。じゃから、今何個積んであるのかは知らないのじゃ」

「そうですか」

「じゃが、満願は近い」

「え」

「はじめは骨ヶ原に降りるのは、大変な苦しみじゃった。死者の救われぬ魂が、わしを責め立てた。じゃが、石を運び続け、積み上げ続けてゆくうちに、次第に苦しみはひいてゆき、骨ヶ原は……わしに優しい場所になった」

「そう、なんですか」

「あと何個なのか、数はわからんが、あと少しであるのはまちがいない。そもそも、長い年月、大きな天災でもないかぎり、積み石を休んだことはない。ここ十数年のことなのじゃ。体調が悪くて朝動けない日が続いたのは」

「わかりました。ありがとうございます。次に、今から百数十年前から、何者かが結界のなかの妖気を吸い取っているように思われるんです。その何者かが俺の母さんに暗示をかけたんじゃないかと考えています。そういう敵に、お心当たりはありませんか」

「……敵、か。わしのことを恨む者は多いじゃろうが、しかし、今になって現れるような敵となると……。さて、思いつかんなあ」

「そうですか。お訊きしたいことは、その二つでした。何かお困りのことや、お助けできることはありませんか」

「お言葉に甘えて申すが、人参茶を少しいただけるとありがたい」

「人参茶ですね。すぐに持ってきます」

「ありがとうなあ」

「ほかにご入り用のものはありませんか」

「それだけじゃ」

「うちの電話番号はご存じですね?」

「短縮ダイヤルを登録してくれとる」

「何かあれば、いつでも遠慮なくご連絡ください。真夜中でもけっこうです」

「世話になるなあ。あなたもやさしい顔をしておる。〈はふり〉の者は、みなそうじゃ。ごふっ。ごふっ」

「あ、だいじょうぶですか?」

「うむ。ごふっ。ごふっ。すまんがベッドに戻らせてもらうなあ」

「お食事は、ちゃんととっておられますか?」

「茶は飲むが、食事はせんのじゃ。日の光がわしの主食じゃ。ほほほ」


7


「結局、二人とも、何にも会話に参加しませんでしたね」

「いやいや、あの神気に圧倒されるばかりで」

「鈴太はようも平気であったなあ」

「神気?」

「感じなかったのか。あれほど濃密な神気を」

「ひでり神さまが、やわらかい光に包まれているような感じはしましたが、圧力のようなものは特に感じなかったです」

「わしらはもともとが妖怪じゃからなあ。ひでり神さまは、もともとは天界の神族。下界で長くお暮らしではあるが、ああ近くに寄ると、焼けてしまうような気がする」

「わらわは、強い熱と光を感じた。まぶしくてお顔はよくみえなんだ」

「へえ。そうなんだ。さて、俺は自転車で店に帰って、高麗人参茶を持って来ます。そのあとで、これからのことを話し合いましょう。どこに集合しますか?」

「転輪寺か、乾物屋じゃろうな」

「ここからなら、乾物屋のほうが近いが、あそこは人が来る」

「そうか。内密の話には向かぬか。しかし転輪寺にも人が来るぞ」

「ならば、地守神社ならどうじゃな」

「ああ、それがよいのう」

「あ、そういえば、訊きたいんですけど、どうしてこんなに遠いんですか?」

「何がじゃ」

「ひでり神さまの家が、どうしてこんなに地守神社から遠いんですか? 神社の隣に、あるいは神社の敷地内に住んでれば、労力が少なくてすむのに。もう満願になってますよ」

「いや。この場所は、かのおかたがお決めになったんじゃ」

「その通り。この場所から、ある決まった歩法で、ある決まった順路で神社に向かうのじゃ。その道中に意味があるのじゃ」

「へえ? そうなんですか。じゃあ、あとで地守神社でお会いしましょう」

 俺は自転車に乗って乾物屋に帰り、高麗人参茶の三個入りケースを三つ紙袋に入れた。

 ぐう〜〜〜う〜〜ぅ〜〜。

 盛大におなかが鳴った。

 そういえば、もうお昼過ぎなのに、昼ご飯を食べてない。

 急いで湯を沸かすとポットに入れ、カップ麺を六個ほどビニール袋に包んだ。

 荷物を自転車に入れて出発した。

 ひでり神さまの家に行くと、奧のほうから、玄関先に置いておいてくれと言われたので、その通りにして家を出た。

 さあ神社に行こう、と俺は再び自転車に乗った。

 そんな俺を呼び止めた人がいる。

「おお、大師堂。自転車かあ。ちょうどよかったわい。これを松谷さんに持って行ってくれんかあ」

 照さんに頼まれた。

 松谷さんというのは、バスの運転手さんだ。

 もうすぐ、最寄りの地方都市行きの昼便が出発する。その前に届けろということなんだろう。荷物のなかみはわかってる。川海老の佃煮だ。これがおいしいんだ。俺も数日前にもらったばかりだ。独身の松谷さんへの心尽くしだ。

 バス停は神社とは反対方向だけど、これは断れない。遠いといっても、狭い村のなかのことだし。

「うん、いいよ」

「ありがとうなあ」

 自転車の前籠には、ポットを入れた紙袋と、カップ麺を入れたビニール袋が載っている。そのビニール袋の上に、預かった佃煮をちょこんと載せて、俺は自転車を走らせた。

 バス停に着くと、ちょうどバスが出発しようとするところだった。

「松谷さーん。松谷さあーーーん」

「おや、鈴太くん。どうしたんだい。そんなにあわてて」

「これ、照さんから差し入れ」

「お! 川海老の佃煮かあ。絶品なんだよね、これ」

「そうですよね。俺も大好きです」

「こんなうまいのは、ちょっと売ってないね。そうか、これを届けるために急いでたのか。ありがとう。じゃあ、出発するね」

「はい。ご苦労さまです」

「ばいばーい」

 バスをみおくった俺は、停留所の看板の横をみないようにして、自転車の向きを変えた。

「おい」

 聞こえない。

 何も聞こえない。

「ちょっと待つです、人間。お前、あちしがみえてるですね」

 さてと、何もないな。

「わざとあちしを視界に入れないようにしてるですね。そのわざとらしい動きは、あちしがみえてる証拠です」

 バス停の看板の左側にはベンチがある。右側には、なぜか大きな石が置いてある。その石の上にちょこんと腰掛けてる女の子がいる。

 そこまでは、べつにおかしなことじゃない。

 おかしいのは、その女の子の服装だ。

 十二単じゅうにひとえというんだっけ?

 百人一首に出演してる女の人が着てるような服だ。

 そして、地面につくんじゃないかと思うような長髪。

 ところが身長はといえば、俺の膝上ぐらいまでしかない。

 まちがいない。

 こいつは、関わってはならない相手だ。

 さて、ペダルをこいで、と。

 うわっ。

「こらっ。危ないだろっ! タイヤに抱きつくなよ!」

「やっぱりみえてるです! あちしがみえてるです!」

 俺は自転車から降りてスタンドを立て、女の子の両腕を前部タイヤから引きはがし、女の子を石の上にちょこんと載せた。そして自転車にまたがった。

「こらーーーっ。何事もなかったように出発しようとするなです!」

 そんな声は聞こえない。

 聞こえないったら聞こえない。

 自転車をこぐ。

 心地よいかぜが頬に当たる。

「いい天気だなあ」

「ぁぁぁぁぁぁっ」

 かすかに悲鳴のような声が聞こえた。

 あんまり悲しい響きだったので、つい後ろを振り返ってしまった。

 そこには、地面に両膝と片手を突き、片手を俺のほうに差し出してふるふると震えながら、飼い主に捨てられて絶望したヨークシャーテリアみたいな顔で、ぼろぼろ涙をこぼしている、小さな女の子がいた。

 俺は両手でブレーキをかけると、ひとつため息をついてから、自転車の向きを変えて、バス停に戻った。

「やった。やっぱり泣き落としに弱いやつだったですね! ああ! 行くな! 行かないでなのですっ」

「お前、こんなとこで何してんだ?」

「あちしは日本中を旅してるですよ」

「じゃあ、早く次の観光地に行け。じゃあな」

「ちょ、ちょっと待つです! お前、聞こえてるですか?」

「何が?」

「声です。あちしの声です」

 しまった。

 この声は、聞こえてないことにできてたはずだったのか。

 今からじゃ遅いよなあ。

「ちっ」

「舌打ち? 舌打ちしたですね?」

「うるさいな。それで俺に何か用か?」

「あ、あちしを運ぶです」

「何だって?」

「あちしを連れて行くです」

「お前みたいなのを連れて、どこに行けと?」

「できれば雨風のしのげる場所がいいです」

「埋めてやろうか?」

「地面の下は、もうこりごりなのです」

 すでにやったやつがいるようだ。

 その気持はわかる、と思った。

「運ぶのは、あちしではなく、あちしのお社なのです」

「お社?」

「これなのです」

 そういえば、ベンチの横に二十センチぐらいの石が置いてあるんだが、お社のような形にみえなくもない。

「おい、大師堂。何、独り言をしゃべってるんでい」

 すごくドスの利いた声で話しかけられた。

 鳥居、じゃなくて佐々耀蔵さんだ。そういえば、ここは耀蔵さんの家の前だった。

「あ、いや。こんにちは」

「おう」

 親の仇をみるような目つきでにらまないでください、お願いだから。

 わかってます。地顔なんですよね。

「この石、いつからあるんですか?」

「ああん、この石か? 昨日、松谷がバスから降ろしてたなあ」

 あなた、いつもバス停を見張ってるんですか?

「ちょっと調べたいことがあるんで、持って行ってもいいですか?」

「べつに俺に断る必要はねえよ。そんな石、持って行きたきゃ持って行きゃいい。俺だって……いや、何でもねえ」

「ありがとうございますです」

 童女妖怪が盛んに俺を拝んでる。

 だけど俺は、情にほだされたわけじゃない。

 あることを思いついたんだ。

 このままこいつを地守神社に連れていけば、和尚さんと天子さんがいる。

 悪い妖怪だったら、和尚さんに退治してもらおう。


8


「こ、この神社をあちしにくれるですか?」

「どうしてそういう話になる?」

「しょぼくれた、さえないガキだと思ってたですが、意外にみどころがあったですね……ああ! お社を崖から捨てるなです!」

「あれ?」

 神社の前の参道に、軽トラックが止まってる。

 境内では何人かの男の人が作業をしている。

 あ、そうか。

 昨日の片付けは今日するって言ってたっけ。

 あの軽トラは、砂袋を天逆川の堤防に運ぶためだな。

「おお、大師堂さんか! 昨日はどうも」

「こんにちは」

「こんにちは」

「ちわっす」

「さっき、天子さんと和尚さんが来て、あんたが来たら、転輪寺に来るように伝えてくれ、ちゅうことじゃった」

「あ、そうですか。ありがとうございます」

 童女妖怪は、じっと神社をみている。

「むうう。これは、だめなのです」

「何がだめだって?」

「この神社は、すごく立派で、あちしの住まいにふさわしいですが、先客がいるです。しかもなんだかまがまがしい先客なのです」

「ほう。そういうのはわかるんだな」

「もっと褒めるです。あちしは褒められれば褒められるほど力を出す子なのです」

「はいはい」

「大師堂さん。若いのに、独り言の癖があるんか」

「いえ、何でもないです。それじゃ」

 急いでその場を立ち去って、転輪寺に向かった。


9


 転輪寺に着いたけど、和尚さんも天子さんもみあたらない。

 広いお寺だし、裏の庭のほうにいたら、みつからなくても無理はない。

 和尚さんの部屋で待つことにした。

 童女妖怪が、お社を持って行けとうるさいので、廊下に置いてある。

「軽いお社だな」

「軽石でできてるです」

「貧相だな」

「むかっ。その言いぐさは許せないです。あちしを誰だと思ってるですか?」

「いや、知らん」

「あちしこそは、長壁姫おさかべひめなるぞ」

「ますます知らん」

「〈刑部〉と書く人もいるけど、それはまちがいなのです」

「そんな情報は、いらん。というか、口でいわれても字がわからん」

「〈白狐びゃっこ〉として長年功徳を積み、〈錦狐きんこ〉、すなわちにしきの狐となり、まもなく齢千年に達して天狐に上ろうかという、たぶん今、日本で一番偉い狐の精霊なのですよ! ひれ伏してうやまうがよいのです!」

「錦狐じゃと?」

「あ、天子さん。それに和尚」

 二人が急に現れた。どこにいたんだろう。

「妙な気配が一緒だったので、わらわが隠形の術を使ったのじゃ」

 また心の声に答えてくれましたね。

「ところで小さき狐の姫よ、錦狐とは何じゃ」

「おお、よくぞ訊いてくれたです。白狐というのは、神様がたの命にしたがい、人々に功徳をほどこす、ごくごく上位の立派な狐をいうですが、白狐として五百年以上修行を積むと、錦狐、つまり錦の輝きに包まれた狐の精霊となるです」

「ほう」

「錦狐の位階は高いです。地上に顕現しているあらゆる神霊がひれ伏すほど高いです!」

「それは知らなんだ」

「ふふ。田舎者の妖怪は知るわけもないことなのです。……ん?」

「どうしたのじゃ?」

「お姉さん。……もしかして、狐なのです?」

「いかにも」

「しかも意外と、年経てたりします?」

「まあ、そこそこじゃな」

 このとき、天子さんが目をみひらいた。

 体がやわらかく光を放つ。

 風もないのに長い黒髪がさわさわと揺れる。

 目は金色に輝き。

 耳はぴんと伸びて黒髪から突き出した。

 妖力というか神気というか、何かの力が天子さんからあふれ出している。

 ちびっこ姫はとみれば、いない。

 いた。

 三メートルほど後ろに下がって土下座している。

「てててててててて、てんこ、天狐さま」

「うむ」

「ててて、天狐さまとは露知らず、ご無礼いたしましたです」

「うむ。それはよい。それより、錦狐というのははじめて知った」

「はったりでございましたです」

「なに?」

「そんなのがあったらいいなあ、と思ったのです」

「ああ、口から出まかせか」

「そうともいうです」

「もうすぐ天狐になるのか?」

「すいませんです。ごめんなさいです。ちょっと三百三十年ほどサバ読みましたです」

「そうか。それにしても、千歳になれば天狐になれるというものでもないぞえ」

「はい。重々承知しております。なれたらいいなあ、と思ったまででございますです」

「ばっはっはっはっはっはっはっはっ」

 黙って聞いてた和尚さんが爆笑してる。

「ふふ。……まてよ」

「は、何でございましょう」

「そなた、長壁姫と名乗らなんだか?」

「名乗りましてございますです」

「姫路の長壁か?」

「は、はいっ。さようでございますです」

 そのとき、俺のおなかが、ぐうっと鳴った。

「和尚さん、天子さん。取りあえず、食事にしない?」

 お湯を沸かし直して、それぞれ好きなカップ麺を選んで、お湯をそそいだ。

「がきんちょ。ほんとにカップ麺いらないのか?」

「がきんちょではないです! 長壁姫さまと呼ぶです! あちしくらい霊格の高い狐になると、朝夕の霧を吸うだけで生きてゆけるですよ。人間の食い物なんか……」

 俺がカップ麺に入れるために、油揚げの封を切ると、童女妖怪の視線が、油揚げにくぎ付けになった。

「欲しいのか?」

「ほ、欲しくなんて……あ」

 油揚げを麺の上に載せて封をすると、童女妖怪が悲しそうな顔をした。

 そのあとも、じっと同じカップ麺のほうをみている。

 そろそろ頃合いかとふたを開けると、童女妖怪の顔が期待に輝く。

 箸で油揚げをつまんで持ち上げると、目をらんらんと輝かせ、前のめりになっている。

 油揚げを持ち上げたままカップ麺を右に動かすと、童女妖怪の首も右に動く。

 油揚げを持ち上げたままカップ麺を左に動かすと、童女妖怪の首も左に動く。

 俺は、カップ麺を顔の前に引き寄せ、油揚げにかじりつこうと、口を開けた。

 童女妖怪も口を開け、だらだらとよだれを垂らしている。

「鈴太。遊ぶのはそのくらいにしてやれ」

「ほーい。おい、がきんちょ。これ、やるよ」

 俺はカップ麺に箸を載せて、童女妖怪に差し出した。

「ほ、ほどこしは受けないです。でも、お供え物は受け取るです。たとえ貧相なインスタント食品であっても、氏子の真心のこもったお供え物は、喜んで受け取るで……」

 ごたくがうるさいので、俺はカップ麺を引っ込めようとした。

 だがそれより早く、童女妖怪は稲妻のような速さでカップ麺を奪い取っていた。

「ああ、なんという、この油揚げの照りとつやですか」

 かぷり。

「おお! 驚くべきジューシーさ。あふれる甘さとこく。これがインスタント食品とは信じられないです」

「うっさい。黙って食え」

「ふふふ」

「天子さん。何がおかしいですか」

「わしは、もう一個もらうぞ」

 和尚さんが、がさごそとビニール袋をあさっている。

「あ、はい。どうぞ」

「今度はこっちの焼きそばがいいのう」

「俺は生麺タイプにしようっと」

 ほんとに生麺だった。インスタントだとは思えなかったよ。


10


 食後のお茶タイムも終わり、いよいよ相談事の時間だ。

 和尚さんは、あぐらをかいて、腕を組んだまま、目を閉じている。寝てるの?

 天子さんがちびっこ妖怪に話しかけた。

「長壁姫よ」

「はいです」

「たしかそなたは、〈お告げ〉系の能力を持っておるのではなかったか?」

「はい。〈天告〉が使えるです」

「なに! 〈天告〉じゃと?」

「天子さん、どうしたの」

「鈴太よ、〈天告〉というのは、神威を通じて真実を導き出すわざじゃ。知り得ることに限界がない」

「何のこと?」

「何でもわかる能力なのじゃ。例えば、この里にあだをなそうとしておる敵の名が知りたいと願えば、たちどころに敵の名を教えてくれる」

「ええっ? それ、むちゃくちゃ強力な力じゃないか」

「そうじゃ。〈お告げ〉系の能力のなかで最上級の能力じゃ。それゆえ、制限も厳しい場合が多い。長壁よ」

「はいです」

「そなたの〈天告〉の制限を教えてくれぬか」

「はい。まず、一年に一度しか使えませんです」

「なるほど。一年の起点はどこか」

「昼が最も短い日でございますです」

「承知した。ほかには?」

「あちしが加護を与える人間を定め、その人間が質問したことにしか〈天告〉は発動いたしませんです」

「ふむ。そなた、今、加護を与えておる人間はあるのかえ?」

「ございませんですです」

「この一年以内に〈天告〉を使うたことはあるか?」

「ございませんです」

「そうか」

「ほかには」

 え?

 誰の声だ?

 と思ったら、和尚さんの声だった。

 いつのまにか、目を薄く開けている。

 天子さんも、童女妖怪も、びっくりして和尚さんのほうを向いている。

「〈天告〉のほかには能力はないのか」

「なんですか。このでかぶつ肥満じじいは。この錦狐の長壁姫さまに向かって、その……」

 あ、その設定、まだ続いてたんだ。

 童女妖怪のセリフが止まったなと思ったら、和尚さんが目をかっとみひらいている。

 小さいけれど力のある目。

 垂れかかる眉毛。

 ふっくらとしているけれど、どこか精悍さを感じさせる巨体。

 ああ、そうか!

 何かに似てると前から思ってたけど、達磨大師だ。

 和尚さんは、達磨大師に似てるんだ。

 気がつけば、童女妖怪が土下座していた。

「し、失礼いたしました! このような強大な法力をお持ちとは! さぞかし名のある大妖怪さまでございますです」

「よいから答えよ。ほかに能力はないのか」

「は、はいぃぃぃ。〈探妖〉が使えますです」

「なにっ」

 天子さんが驚いてる。〈たんよう〉って何ですかね?

「〈探妖〉とは、妖気あるものを探知する能力じゃ」

 あ、心の声にお答えくださり、ありがとうございます。

「長壁よ、〈探妖〉を使うには、何か制限はあるのか?」

「一日一回しか使えませんです。それと、探査対象を明確に設定したほうが、正確な探索が行えます。ほかには制限のようなものはありませんでございますです」

「では、今すぐ〈探妖〉を使ってはくれぬか」

「はいです。おもに何を探しますですか?」

「まず、この里の結界のなかに溜石たまりいしがありはせぬか、それを知りたい。そのほか、あやかしがいれば、それも知りたい」

「はい。それだけでございますですか?」

「今はそれだけで充分じゃ」

「それにしても、溜石とはまた、レアなチョイスでございますです」

「そうか?」

「あちしは六百七十年生きておりますですが、溜石を探知できたことなんて、たった三回しかありませんです」

「そうであろうなあ。じゃが、頼む」

「かしこまりましたです」

 童女妖怪は、どこから出したのか、ひらひらする紙のついた棒を取り出して、顔の前で左右に振った。

 そして、うんうんうなっている。

 あ、動作がとまった。ぐったりしてる。

「わかったです。……でも」

「でも、何じゃ?」

「これはおかしいのです。何かのまちがいです」

「何がおかしいのじゃ?」

「この結界のなかに、溜石が十二個もあるです」

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