第7話 金霊
1
「十二か所じゃと?」
「ふうむ」
「はは、こんなわけありませんですよね? おかしいです。あちしの〈探妖〉がまちがったことなんてないのですが」
天子さんは驚きをあらわにし、和尚さんは厳しい目をして、童女妖怪はあたふたしている。
「あの。和尚さん」
「なんじゃな」
「地図か何かありませんかね」
「おう。ちょっと待っとれ」
「あ、それと、赤い鉛筆かボールペンも」
「よしよし」
のそり、と和尚さんが立ち上がって部屋を出ていった。
小山のようだ。迫力あるなあ。
「もう一度〈探妖〉をかけてみるです」
「うむ? 一日に一度しか使えんのではなかったか?」
「ああっ。そうでした」
こいつ、ばかだ。
「それに、おそらくその探査結果は誤りではない。ところで、長壁よ」
「はいです」
「〈探妖〉は一日に一度使えるということじゃが、その起点はいつなのじゃ?」
「夜明けでございますです」
「なるほど」
和尚さんが地図と赤いサインペンを持って戻ってきた。
「童女妖怪。この地図に、溜石があった場所を書き込むことはできるか?」
「その失礼な言い方は即刻やめるです。だいたいなら書けます」
「だいたいでいい」
童女妖怪は、目をつぶって記憶を確認しながら、地図に八か所の丸をつけた。
「ううむ。見事に村中に散っておるのう。法師どの。どう思う?」
「人家の敷地内の場合もあるし、草原や藪のなかの場合もあるようじゃのう。長壁どの。おぬしと一緒に現地に行けば、詳しい場所は教えてもらえるのじゃな」
「もちろんなのです。でも、あちしが移動するには、あちしのお社を移動してもらわないとなのです」
「天狐よ。長壁どのの社を自転車に乗せて村を回って、正確な位置を確認していってくれぬか」
「わかった。じゃが、十二か所全部を回るとなると、なかなか時間もかかる。今日のうちに何か所か回り、明日に残りを回ろう。その前に、少し相談をしておこうかの」
「おお。よかろう」
「長壁よ」
「はいですです」
「そなたは姫路城の守り神のようなものと聞いておる。なぜ今、こんな所におるのじゃ?」
「話せば長い話になるのですが、姫路城の大改修で、宿ってたお社が取り壊されてしまったので、ここに来たのです。以上」
「短か! というか、がきんちょ、姫路城に住んでたのか?」
「がるるる! がきんちょではないのです! 長壁姫さまと呼ぶです!」
「はいはい。おさかべね。で、おさかべ、姫路城に住んでたのか?」
「姫路城の敷地内にある、小さなお社に宿ってたです」
「大改修のとき、敷地内の神社とかは、ちゃんと移したりしたんじゃなかったっけ?」
「不幸な事故で壊されてしまったです」
「無名な妖怪だったんだ」
「むかっ。ちがうです! 姫路城の長壁姫といえば、国宝級に有名な妖怪ですです! 知らないですか?」
「知らん」
「こんちくしょー! 無知にもほどがあるです。あちしは代々の姫路城城主にあがめられて、一年に一度お告げをして感謝され続けた偉い偉い仙狐なのです!」
「天子さん、〈せんこ〉って何?」
「仙術に通じた格の高い狐、ということじゃ」
「こいつ、仙狐なの?」
「仙狐に定義などない。本人がそうじゃといえば、そうなのじゃ」
「ふうん。おい、自称仙狐」
「自称ではないです! 侍どもがそう言って敬っていたです!」
「そんなに尊敬されて祭られてたなら、どうして大きいお社に祭ってもらわなかったんだ?」
「……言い出せなかったです」
「は?」
「いつのまにか偉い神様扱いにされて、今さらあんなちっぽけな社に宿ってるとは、言い出せなくなったですよ」
「それはまた……何というか」
「……何も言わなくていいです」
「それで、何が宿ってる社か、誰にもわからなくなって、大改修のどさくさまぎれに壊されてしまったと」
「いえ。その前に小さな改修があって、あちしの社は何年間か土に埋もれてたです」
「悲惨だな」
「それで大改修のときに、土を削って運ぶブルドーザーの一撃で、お社は粉々に砕かれたです」
「言いようもなく悲惨だな」
「あちしは復讐を誓ったです」
「えっ」
「大改修の責任者たちを全員呪い殺すことに決めたです」
「お、おい」
「だけどせっかくだから、大改修の終了はみとどけようと思ったです」
「うんうん。長年住んだ所だもんね」
「大改修は無事終了して、記念のイベントがあったです」
「ああ。二、三年前だったかな?」
「そのとき、あちしは感動したです」
「何に?」
「ぶるう・いんぱるすに決まってるです」
「は?」
「見事だったです。サンライズ。デルタ三百六十度ターン。スワン・ローパス。サクラ。ビッグハート。ほんとに美しかったです。そのアクロバット飛行に免じて、あちしは大改修の責任者たちを許すことにしたです」
「おお、やるな、ブルー・インパルス。そんなところで人助けをしてたとは」
「すみかを失ったとき、ちょうどお社に似た軽石があったので、宿ったです。そして世界遍歴の旅に出たです」
「へえ? どんな所を回ったんだ?」
「まず、桃太郎広場に行ったです」
「桃太郎広場?」
「後楽園の南側のほうであったかの?」
「いえ、そっちのほうじゃなくて、岡山駅前広場なのです」
「なんでそんなとこに行ったんだ?」
「あちしは自分では移動できないです。宿っているお社を運んでもらわないといけないです。姫路城の大改修のときのイベントに来てた人のなかに、あちしの姿がみえてあちしの声が聞こえる人がいて、その人が岡山方面に帰るとき、運んでもらったです」
(ははあ。気味が悪いんで、駅前に捨てられたな)
「でも二日目に、掃除の係の人が、お社をみつけて粗大ゴミに出しやがったです」
「たった二日の滞在か」
「あわや廃棄処分にされるところ、係の人が信心深い人で、事務所の前にお祭りしてくれたです」
(ただの軽石だもんな。道端に置いておいたんだろう)
「あちしは待ちました。あちしの声が聞こえる人が処分場にやって来るのを」
(聞こえても無視した人がいそうだな)
「そしてついに一昨日! カモをみつけたあちしは、お社の移動に成功したです!」
(こらこら。カモって言ってるぞ)
「ある町に一日滞在して、そこからバスに乗ったです」
「どうやってバスに乗ったんだ?」
「運転手さんが、あちしの声を聞けたですよ。それで、この村に運んでもらったです」
「松谷さんか! あの人も〈みえる〉人だったんだ」
「長壁姫よ。事情はだいたいわかった」
「は、はいっ。天狐さまっ」
「そなた、今、加護を与えておる人間はおらぬと申したな」
「いませんでございます」
「では、どうであろう。このおのこをそなたのあるじにしては」
「ええーっ」
「ええーっ」
「そなたら、仲がよいのう」
「天狐さまの仰せではございますが、こんなしょぼくれた、さえないガキに加護を与えるというのは」
「できぬか」
「です」
「立派なお社がもらえるのにのう」
「えっ?」
「そこなおのこはある店の主人でのう」
「店?」
「その店は乾物屋なのじゃが、神様のお社も売っておる」
「おおお!」
「商品のなかで一番立派なお社をもろうてやろうかと思ったのじゃが」
「一番立派な!」
「いやとあれば、致し方もない」
「このしょぼくれに、加護をくれてやるでございます」
「そうか。ということじゃ、鈴太」
「なんかすごく不本意なんですが」
「加護を与えた人間の質問でなければ〈天告〉は発動せぬという。今のわれらには、〈天告〉はぜひとも欲しいものじゃ」
「はいはい。わかりました」
「ところで、長壁よ」
「はいでございます」
「あやかしはおらなんだか?」
「この寺に二つ、超大物の反応がございました」
「わらわと法師どのじゃな。ほかには?」
「この辺りに、奇妙な反応がありましたです。あやかしのような、そうではないような」
童女妖怪が地図の一点を指し示したが、そこは、ひでり神さまが住んでる所だ。
「ああ、それはよい。敵ではない。ほかには?」
「あと、この辺りにも、何とも微妙な気配がありましたです」
「あ、それは野枝の家じゃの。ほかには?」
「ほかには何も。あ、神社からも何かの気配がしました」
「それもよい。溜石は十二個ということじゃったが、妖気を吸っておらぬ溜石はみおとした、というようなことはあるまいの?」
「それはないです。現に、十二個のうち三個は、ほとんど妖気がなかったです」
「ほう? その三個はどれじゃ?」
「一つは、これでございます」
童女妖怪が指し示したのは、佐々耀蔵さんの家だった。
「もう一つは、これでございます」
今度は、庚申口の地蔵の近くを指した。
「最後の一つは、ここでございますです」
それは、わが家の近くだった。
「おお! そういうわけじゃったか」
「法師どの。思い当たることがあるのか」
「鈴太と共に耀蔵の家を訪ねたとき、庭の柿の木の辺りに、あやしい気配があったんじゃ」
「そういうことは早く言ってもらいたい」
「すまんすまん。たいして妖気も強くなかったし、言うほどのことでもないと思うてなあ」
「和尚さん。天子さん」
「うん?」
「どうしたのじゃ、鈴太」
「これは、敵の攻撃だ」
「なんじゃと?」
「鈴太。説明してくれぬか」
「うん。敵は百数十年前からこの村の妖気を吸い、十五、六年前からは格段に多量の妖気を吸ってきた、という仮説を立てた。でもその次に何をするのか、何が目的なのかは、はっきりしてなかった。これがそうだったんだ」
「これとは何じゃ」
「溜石のことかえ?」
「最初のうち、溜石は、結界のなかの妖気を集めるために使われた。でも今はちがう」
「どうちがう」
「溜石に妖気をためる以外の使い方があろうか」
「山口さんは、どうしてあやかしに憑かれたのか。ご主人のことを想うあまり、木霊を取り込んでしまった? それはそうかもしれない。でも、和尚さんもびっくりするほどの力は、どこから得たんだ。それは庚申口の近くにあった溜石だ。あそこは、キノコ地図を頼りに森に入るとき、山口さんが通る場所なんだ」
「そうか!」
「どうしたのじゃ、法師どの」
「そんな強力なあやかしが結界を通れるわけがないと思うておったのじゃ。それもそのはず。あやかしに憑かれたあと、結界のなかで強大な妖力を得たのじゃ」
「そうか。この結界は外向きじゃからのう」
「天子さん。結界が外向きって、何のこと?」
「結界というものは、外から来る何かを封じるか、なかにある何かを封じるか、どちらかなのじゃ。この里の結界は、強いあやかしは決してなかに通さぬが、なかの妖気に対しては防御力がない」
「それだよ! それが敵の狙いなんだ。妖気がいっぱいに詰まった溜石を十二個も結界のなかに放り込んで、結界のなかを妖気で充満させ、結界を壊すつもりなんだ!」
「そうか!」
「結界を壊すじゃと?」
「天子さん、昨日の夜俺に教えてくれたじゃないか。結界のなかの妖気が強くなりすぎたら、結界が壊れるって」
「なんという……そんなことを考える者がおるとは」
「佐々成三さんは無念の思いを残して死んだ。じゃあ、どんな妖気と結びついてぶらり火になったんだ? 耀蔵さんの家に溜石があったんなら、その説明がつく。野枝さんのおなかに宿ったものについては、もう説明の必要もない」
「確かに。言われてみれば、その通りじゃ」
「なぜ、わらわも法師どもの、このように明かなことに気づかなんだのじゃ」
「千二百年も起きなかったんだ。頭が切り替わらなくても無理はないよ。それより、これからどうするかだ」
「そうじゃ。これからどうするかじゃ。残る九個の溜石を、どうすればええ?」
「捨てるのがよかろうな。結界の外に」
「今、村のなかは、危険なほど妖気があふれてるの?」
「いや。そうじゃない。里の妖気はごく薄い」
「鈴太のおかげじゃ。鈴太が、〈
「なら、溜石を捨てるのは急がなくていい。だって敵は、自分がなかに入ってこれないから、溜石で結界を破ろうとしてるんだよ。溜石を結界の外に出せば、敵に武器を返してやるようなもんだ」
「なる……ほど」
「鈴太の意見は正しい、とわらわは思う」
「毎朝おさかべに、溜石を確認してもらって、妖怪が生まれてたら対処する。いよいよ妖気がたまっていったら、和尚さんと天子さんに、少し妖気を吸ってもらう手もある。そうやって時間を稼いでるあいだに満願成就の日が来れば、俺たちの勝ちだ」
2
そのあとも相談がしばらく続き、結局、溜石の位置の確認は明日以降ということにして、今日はいったん乾物屋に帰った。案の定、留守のあいだに配達の注文が七件もあった。お金を置いて商品を持って行った人も同じぐらいいた。最近、けっこう商売が繁盛している。
「おや? 今日は野枝の伝言がないのう」
野枝さんは毎日来る。俺に会えなかった日は伝言を紙に書く。天子さんがいるときでも、なぜか天子さんには伝言せず紙に書く。〈お父ちゃんに会えなくて守生がさびしがってました〉とかいう内容で、読むだけで憑かれて、いや疲れてしまう。その伝言が今日はなかったということだから、これはいいことだ。
商品のお社を取り出すと、童女妖怪は喜々として移住した。抜け殻になった軽石のお社もどきは、道端に置いておくことにする。
童女妖怪の新しいお社は、わが家の神様のお社の隣に安置することになった。ちょっと不本意だがしかたがない。
俺は大急ぎで七件の配達を済ませた。山口さんちの配達もあったけど、上がってお茶を飲ませてもらう時間はなかった。帰宅すると晩ご飯の用意がしてあって、天子さんは帰ったあとだった。
晩ご飯はいなり寿司だった。童女妖怪は涙を流しながら食べていた。食べ終わると、寝た。寝ると消えた。お社に戻ったのだろう。
そのすぐあと、電話があった。
「おーい。元気?」
「うん、元気だよ」
少したわいもない雑談をしたあと、こんなことを間島は言った。
「そうそう。お前が住んでたおんぼろアパートな」
「こらこら。俺の城をおんぼろなんて言うな」
「すっげえ立派なマンションになったのな」
「えっ?」
「今日前を通ってさ。目を疑ったよ。前との落差に」
「マンション?」
「お前の伯父さん、金持ってたんだな」
電話を切ったあとも、間島の言葉が頭のなかでリフレインしていた。
〈お前の伯父さん、金持ってたんだな〉
そんなはずはない。
だって、伯父さんも伯母さんも、いつもいつも、お金がない、お金がないって言ってた。
本業のガソリンスタンドも、うまくいってなかった。そのようすは俺も多少は知ってる。確かに、あまりもうかってる感じはしなかった。従業員も減らしてたし。
じゃあ、その立派なマンションを建てるお金は、どこから来たんだろう。
貯金してた?
それは貯金はしてただろう。だけど、本業がうまくいってないのに、そんなに貯金ができるもんだろうか?
まさか。
まさか。
心のなかに何とも言いがたい思いが渦巻きはじめた。
そのとき電話が鳴った。
「夜分にすいません。実は父から頼まれまして」
「はあ?」
「お礼の品物を用意したので、大家さんの息子さんにあいさつに行ってくれっていうんです」
「ああ。なるほど」
「それと、兄さんは、たぶん何か月か家賃を払ってなかったはずだから、それも払ってくるようにと」
「あ、ほんとですね」
佐々成三さんは、通り魔に殺された。その遺品を大家さんの息子さんは律義に保管しててくれたんだけど、死んでからアパートが取り壊されるまで部屋はそのままだった。つまりそのあいだの家賃は払ってないことになる。今まで気づかなかった。
そこに気づいて、しかもわざわざ支払いをしようというんだから、佐々耀蔵さんもやっぱり義理堅い人だ。似たもの親子だな。
「それはそうと、俺のほうが年上だという誤解は解けたんですから、年下相手のしゃべり方でいいですよ」
「いや、もう、これが定着してしまいまして」
「それで、ご要件は?」
「あ、あのですね。できれば一緒に行っていただけないかと」
「一緒に? でも、もう相手の住んでる所も電車の乗り方もわかってますよね?」
「それはそうなんですが……」
「何か問題でも?」
「私は方向音痴ですし」
「スマホで地図を表示させたらいいんじゃないですか?」
「それに、何と言いますか」
「何なんですか?」
「東京は、通り魔が出るような所ですし」
「めったに出ません」
「あの、ご無理ですか?」
ずっと田舎暮らしに慣れてるから、大都会に行って人と会うということに気後れのようなものがあるのかもしれないな。
それにしても、溜石の件がある。今俺がここを離れていいとは思えない。
……だけど。
俺は間島の電話が気になってた。だから、ついこんな返事をしてしまった。
「いいですよ。一緒に行きます」
「ほ、ほんとですか? ありがとうございます!」
「それで、いつ行くんですか?」
「明日なら仕事が休めるんです」
「もうちょっと早く言ってくださいよ!」
「す、すいません。ごめんなさい」
なんでも、明後日から一か月間博多に出張なんだそうだ。
博多には一人で一か月行けるのに、たった一日東京に行くのは一人じゃだめなのか。それは博多に失礼でしょ。いや、東京に失礼なのかな?
達成さんは、そのあと、ほんとなら東京まで行くんだから何泊かしてゆっくり遊んでもらいたいんだけどと、くどくど言いわけをし始めた。
「いや、あの。俺、ずっと東京に住んでましたから、べつに今さらいいです。というより、ちょっとこっちで用事があって、早く帰れるなら、そのほうがありがたいんです」
「そ、そうですか。すいません。じゃあ、明日八時に車でお迎えにあがりますので」
「はいはい。八時ですね。それじゃ」
電話を切ったあと、天子さんに相談もせず東京行きを決めたのはまずかったかな、と不安になった。
でも、たった一日のことだ。
一日やそこらで、何も起きるわけないよな。
俺は寝た。
だけど、ぐっすりとは寝られなかった。
父さんと母さんの保険金。
事故の相手の会社から出たという見舞金。
立派なマンションのこと。
寝たあと、すごく気味の悪い夢をみた気がする。
なにか、のたうちまわって苦しんだような気がする。
朝起きたときには、夢の内容は覚えていなかった。
ただ、布団が汗で湿っていた。相当汗をかいたみたいだ。
3
珍しいことに、今朝は天子さんが遅い。
神社の掃除をして、朝食を作って待ってたけど、なかなか来ない。
「そろそろ食べてあげないと、お味噌汁がかわいそうなのです」
「お前は、味噌汁の油揚げが食べたいだけだろ」
そのうち、達成さんが迎えに来た。
早いよ!
約束より三十分早いよ!
しかたないので、急いで朝食を食べ、書き置きをして家を出た。
急用で東京に行くこと。
今日中に帰って来ること。
それだけを書いた。
〈愛しの天子さんに〉と書き加えようかと一瞬思ったことは秘密だ。
達成さんの車で岡山駅に行った。
東京駅に着くのは一時過ぎになるので、祭り寿司を買って新幹線のなかで食べた。
「そういえば、先方には連絡してあるんですか?」
「うん」
そういうところは要領いいんだな。まあ、社会人なんだから、当たり前か。
何事もなく東京に着き、何事もなく電車を乗り継いで、何事もなく、大家さんの息子さんの家に着いた。
案の定というか、お土産は受け取ったけど、家賃は受け取ろうとしなかった。
達成さんは、これは父からの感謝の気持ちですし、滞納した家賃は支払って当然ですと食い下がった。
なるほどなあと思った。
もしも耀蔵さんが直接来てたら、お金はけっこうですと言われたとき、それで話が終わってしまう。でも、父から預かってきたんですといわれれば、ちょっぴり断りにくい。だから耀蔵さんは直接来なかったのかもしれない。
「いや。家賃の滞納といわれても、亡くなっておられたんですから、しかたないですよ。こうしてわざわざ持ってきていただいたお気持ちだけで充分です。第一、母が亡くなってしまって、家賃の扱いについてはちゃんとした記録がみあたらないんです。だから、滞納分がいくらかなんて、わからないんですよ」
こちらもうまい言い方だ。だけど帳面がないなんてことが、本当にあるだろうか。まあ、ここは、達成さんに援護射撃しておくか。
「あの、この前ここに来たとき、遺品を保管してくださってました。そのなかにアルバムがあって、それをみた佐々耀蔵さんは、感激してました」
「ああ。そういえば、ずっとアルバムをごらんになってましたね」
「どんな写真をみてるのかな、と後ろからのぞき込んだら、耀蔵さんと成三さんが二人で写った写真でした」
「あ、そうだったんですか」
「成三さんは、音楽で身を立てるという夢を耀蔵さんに認めてもらえず、勘当同然の状態で上京しました。そんな成三さんが通り魔に殺されたと知って、耀蔵さんは、とてもショックだったと思います。後悔でいっぱいだったと思います。ところが、ここであの写真をみた。自分を恨んでるだろうと思った息子が、二人で写った写真を持っていてくれた。それで耀蔵さんは救われたんじゃないでしょうか」
「そんなことがあったんですか」
「それもこれも、成三さんの遺品をちゃんと保管してくださったからのことです。あのアルバムは、耀蔵さんにとって、何物にも代え難い価値があったんです。その感謝の気持ちを、どうにかして伝えたかったんじゃないでしょうか」
俺の援護射撃はここまででよかった。
もう一度達成さんが、家賃の入った封筒を差し出すと、今度は大家さんの息子さんも受け取ってくれた。
しばらく、お茶を飲んで談笑して、俺たちは家をあとにした。
4
「いやあ。無理を言って羽振さんに来ていただいて、本当によかった」
もしかして、作戦のうち?
いや、そうじゃないな。
こっちに来てみてわかった。達成さんは、まだ兄である成三さんの死を、どう受け入れていいかわからないんだ。だから、お兄さんの死の匂いのする話題を、どう受け答えしていいかわからない。大家さんの息子さんとも、どういう話をしていいかわからない。できることといえばお礼と、父親の耀蔵さんから言付かった土産と家賃を差し出すだけ。
だから、俺にいてほしかったんだろう。これは、仕事で人と話をするのとは、まったく別のことなんだ。
「あれ? 羽振さん。これ、駅への道とちがうんじゃありませんか?」
「あ、ちょっとだけ寄り道をします。一目みるだけですから」
「そうなんですか。どうぞ、どうぞ。まだまだ時間は余裕がありますから」
角を曲がって目に入ったものに、俺はあぜんとした。
何、これ?
もともと木造二階の二棟で、計十六部屋のアパートだった。
今は鉄筋三階の一棟で、計十二部屋のマンションが立ってる。
たった一階の差だけど、存在感は何倍もある。
マンションの前には駐車場があり、外側は高級感のある立木で囲まれてる。
別世界だな。
これ、相当お金がかかったはずだ。
あまりの光景に、俺が立ちつくしていると、後ろで物音がした。
伯母さんだ。
目が合った。
俺をみて驚いている。その表情に、恐怖に似たものを感じたのは気のせいだろうか。
その次に伯母さんが取った行動は、予想もしなかったものだった。
なんと、俺に声もかけず、声をかけるゆとりも与えず、くるりと振り向くと走って逃げたのだ。
「今の人、お知り合いですか?」
「知り合いにみえたんですけどね」
「羽振さん。この辺りでは、かなり恐れられてるんですね」
ちがうよ!
5
車で乾物屋の前まで送ってもらったときには、もう夜の十一時半を過ぎていた。
最近すっかり朝型になってる俺は、眠たくてしかたがない。風呂にも入らず、倒れるように寝た。ありがたいことに、布団は敷いてあった。
(天子さん。ありがとう)
幸福感に包まれて寝入ったはずだった。
だけど、その夜の眠りは気持のいい眠りじゃなかった。
とんでもない悪夢をみた。
俺は一匹の獣だった。
憎しみを込めて凶悪な目つきで獲物をにらみつけ、牙をむき出しにして、ぐるる、ぐるると、うなっている。
獲物は伯母さんだ。
その後ろには伯父さんもいる。
二人は恐怖のあまり、言葉もない。
さんざんに恐怖を味わわせたあと、俺は伯母さんの喉笛をかみ切る。
恐怖が絶望に変わる瞬間の表情は、ほんの少しだけ、俺の復讐心を満足させる。
だけど、こんなもんじゃない。
こんなもんじゃすませない。
俺は、原告席にいた。
被告席にいるのは伯母さんだ。
その後ろには伯父さんもいる。
裁判官は、閻魔さまだ。
西遊記の挿絵でみた閻魔大王であり、鎌倉のどこかのお寺でみた十王だ。
毛むくじゃらの手に、真っ赤な顔。ぎょろりとした恐ろしい目。口のなかには巨大な牙がのぞいている。
俺は被告たちの罪科を並べ立てる。
そのたびに、閻魔さまの形相は憤怒を加える。
被告席の伯母さんは、言い訳をまくしたてる。獄吏の鬼が、棘のついた金棒で伯母さんをこづいて黙らせる。俺は口の端に愉悦のかけらを浮かべる。
そして伯母さんと伯父さんは、八大地獄を引き回され、この世のものとは思えない悲鳴を上げ続ける。
俺はスライムだった。
ただのスライムではない。あるものの捕食に特化したスライムだ。
何の捕食かって?
金だ。
俺は金を食う。札束が好物だが、コインも食う。貯金通帳も証券も食う。
伯母さんの家の闇に潜んで、札束を、コインを、カードや通帳や金券をみつけると姿をあらわし、ばくりと食って闇に帰る。
伯母さんは、最初はとまどい、次にあわて、そして絶望した。
集金人が来ても金を払えない。買い物に行こうにもカードも現金もみあたらない。置いていたはずの場所に通帳がない。
やがて金を払え、という催促が来るようになる。手紙で、電話で。困った伯母さんは借金する。これで払えると思ったら、借りてきた金がなくなっている。俺が食べたからだ。伯母さんは、金を求めて家中をひっくり返しはじめる。引き出しを抜き取り、壁紙を剥がし、床に穴を開けて金を探す。やがて廃墟のようになった家のなかに座り込み、狂ったように笑い始める。
俺は詐欺師だ。
俺は査察官だ。
俺は極道だ。
俺は警察官だ。
俺は弁護士だ。
俺は魔獣だ。
ありとあらゆる姿をとって、ありとあらゆる方法で、俺は伯母さんを責め立てる。
伯母さんが不当に奪ったものを奪い返すために。
伯母さんが不当に得た幸せを徹底的に壊すために。
伯母さんの欲しがるものを取り上げるために。
伯母さんの尊大さを、不寛容を、価値観を、身分を、立場を、すべて否定し尽くすために。
だけど、どんなに伯母さんから金や物を奪っても。
幸福や充足を奪い去っても。
どれほどその血で喉をうるおしても。
俺の乾きは癒されない。
まだだ。
まだ足りない。
まだまだ全然足りない。
復讐は、これからだ。
6
憂鬱な目覚めだった。
頭は、強く揺さぶられたあとみたいに不快で不調だし、体は重い。
起きるのに、こんなに気力と時間を要したなんて、はじめてじゃないだろうか。
(とんでもない夢だったなあ)
あんな夢をみたということは、俺は伯母さんを憎んでいるんだろうか。
自分の心のなかがわからない。
確かにもやもやしたものはある。
もともと俺は、伯母さんにはいい感情を持ってなかった。
それは伯母さんが俺につらく当たってきたからだ。ことさらに迷惑顔をしたり、ことさらに恩着せがましいことを言ったり、さりげなく、俺がつらくなるようなことを仕掛けてきたからだ。
それに加えて、父さんと母さんの保険金と見舞金のことを知った。
本来俺に権利があるお金なのに、伯母さんと伯父さんが受け取って、しかもそのことを俺に教えてもくれていない。
そしてたぶん、そのお金を勝手に使ってる。
でも、だからといって、殺したいほど憎んでいるとは。
もしも夢でみたものが、俺の願望の表れなんだとしたら、とんでもない恨みを伯母さんに抱いてることになる。
いや。
いくらなんでも、そんなことはない。
これはきっと、あれだ。
カタルシスだ。
苦しんでいる伯母さんの姿を夢にみることで、俺の心のバランスを取ろうとしてるんだ。俺自身の内側から、そういう働きが起こってきたんだ。
そう考えると、少し心が楽になった。
そういえば、殿村さんから、保険金と見舞金のことを聞いて以来、夜が寝苦しいし、時々そのことを思い出して、荒々しい気分になる。いろんなものを投げ出して、どこかに引きこもりたいような気分になる。なんかもう、そのことを思い出させられるだけで、げんなりして、しんなりして、ほっといてくれ、っていう気分になる。そこにさわられるだけで痛い心の傷だ。
考えてみれば、これってひどい話だと思う。
俺は被害者だよ。
あっちは、いわば加害者だ。
なのに、被害を受けた俺のほうが、その出来事を思い出すだけで、恐れおののいて、みじめな気分を味わってるんだよ。おかしいだろう。
あっちは、どうなんだろう。
たぶんあっちは、こちらの苦しみなんか知りもしないで、そのお金で……。
やめよう。
考えれば考えるほど気分が悪くなる。いらついてくる。みじめな気分になる。
何にも得るところはない。
忘れてしまえ。
忘れてしまえばいいんだ。
7
「おはよう、鈴太」
「おはよう。天子さん」
「どうしたのじゃ? ひどい顔をしておるぞ」
「さえない顔だちは生まれつきだよ」
「これこれ。何をいじけておる」
「ごめん。ちょっとテンションが下がってた」
俺は、元気な顔をしてみせた。
「うむ。落ち込んでいるときは、そうして無理にでも明るい顔をするのじゃ。そうすれば、そのうち気持のほうも追いついてくる」
「そうだね。そうするよ」
「それでよい。ところで、おぬしが留守のあいだに、奇妙なことが起きた」
「えっ」
「まずは、〈探妖〉をかけてもらいたいのじゃが、長壁はどこじゃ?」
「朝ご飯ができるまでは、お社から出ないみたいだよ」
天子さんは、奧の部屋に進むと、長壁姫が憑いてるお社に向かって呼びかけた。
「これ、長壁よ。出てまいれ」
「はいです」
俺の横に、忽然と童女妖怪が現れた。
「起き抜けですまぬが、〈探妖〉をかけてもらいたい。溜石の探索が第一で、妖怪の探索が第二、そのほか妖気や神気を持つものの探索が第三じゃ」
「はいです」
どこから取り出したのか、ひらひらする紙切れがついた棒きれを取りだして左右に振り回している。今朝はいつもより多く振り回している。丁寧に探索してるのかな?
「溜石は十二個。妖気を失っているものが、うち四個。変わりなしですです。妖怪は、法師さまと天弧さまだけ。あと未確認神聖存在が一つと、神社の怪しげな気配が一つ。それに正体不明の微妙な気配が一つで、やはり変わりなしですです」
「うむ。昨日と同じか」
「四つ? 妖気のない溜石が四つって言ったの?」
「そうなのじゃ、鈴太よ。昨日の朝、おぬしが出たあと調べてもらったら、空っぽの溜石が四つになっておったのじゃ」
「おとといまでは三つだったね。ということは、一昨日の夜から昨日の朝にかけて、一つの石の妖気が石から抜けたんだ」
「そうじゃ。溜石から抜けた妖気は妖怪になるはずなのじゃ。ところが妖怪がどこにもおらぬ」
「それって、いったい……」
「まずは朝食にしようかの」
天子さんが朝食を作ってくれた。
味噌汁には油揚げが入ってなかったけど、厚揚げをオーブンで焼いたおかずがついていたので、童女妖怪は有頂天だ。しかも、天子さんと俺には二枚ずつなのに、童女妖怪には四枚だったから、機嫌のよさは天元突破だ。安いやつめ。
おなかが満ちて、俺の精神状態も落ち着いた。
童女妖怪は、食後の休憩だといって、お社に帰った。
「がきんちょのみおとし、ということはないかな」
「なかろうなあ。現に空になった溜石もきちんと探知しておるしなあ」
「誰かのなかに、あるいは何かのなかに隠れてるということは?」
「長壁なら、それでも探知できると思うのじゃがなあ」
「謎だね」
「謎なのじゃ」
「どうしよう」
「法師どのとも話し合うたが、どうしようもない。打つ手がないのじゃ。とにかく毎日〈探妖〉をかけてもらい、現れたら対処する以外にない」
「うーん。不気味だけど、しかたないね。あ、あと、正体不明の微妙な気配って、何?」
「うむ。野枝の赤子のことじゃった」
「ああ、なるほど」
「さて、これから転輪寺に行こう」
「うん。それはいいけど、何しに」
「〈天告〉についての相談じゃ」
「あっ。敵の正体がわかるんだっけ?」
「そうじゃ。長壁によれば、〈天告〉の起点は、昼が一番短い日ということじゃ。つまり冬至じゃな。今年はたしか、十二月二十二日であろう」
「起点ということは、その日から次の一年に入るってこと?」
「そうじゃ。つまり、一度〈天告〉を使わせると、次は十二月二十二日まで使えぬ。質問のしかたを慎重に考えねばならぬ」
「あ。俺にしか質問できないんだったか」
「うむ」
「一つしか質問できないんだね」
「質問は一つなのじゃが、うまく質問すれば複数の情報が得られる」
「え? どういうこと?」
「例えば、城が攻められそうなとき、敵将は誰か、と訊けば、敵将の名を教えてもらえる。ただし、将といえるような指揮官がいない場合や、明確な敵がいない場合、答えはない」
「うん」
「敵の攻撃布陣を訊けば、敵将と、うまくすれば部隊長の名、さらには敵軍の編成も教えてもらえる」
「なるほど」
「この城はどのように攻められるのか、と訊けば、布陣に加えて作戦の実施日時も教えてもらえる可能性がある」
「そうなんだね」
「いろいろと長壁に前例を訊いてみたのじゃが、これを複数の問いに分けても、答えがある場合があったそうじゃ。つまり、敵将は誰で、どういう布陣で、いつ攻めてくるのか、と質問したとき、答えがあったというのじゃ。三つの問いが一つの質問とみなされたのであろうな」
「あ。ということは、その質問が有効かどうかは、がきんちょにもわからないんだ」
「それはそうじゃ。強力な能力というのは不便なようにできておる」
「ふうん?」
そのあと、俺は天子さんと一緒に転輪寺に行った。
そして質問内容を相談した。
〈この里を攻撃している者の名と、目的と、理由を知りたい〉
これが協議の結果まとまった質問内容だ。
ただし、失敗できないチャンスなので、もう一日各自で内容を考えてみることになった。
乾物屋に帰ると、山口さんが来ていた。
服が一段と刺激的だ。ふわっとした白い上着をまとってるけど、ほとんどシースルーなんだ。そして、淡いピンクの洋服の下に、くっきり下着の一部が透けてみえる。
そういえば、もう八月だったんだ。
でも、これって、ほんとに普通の服なの?
こんなの着て歩いて犯罪にならないの?
それにしても、なんてたわわな胸。
あそこには、きっと男の夢が詰まってるんだ。
「山口か。欲しい物があれば持って行けばよかったのに」
「あら、天子ちゃん。私を追い出して、二人で何をしたいのかしら?」
「配達なら、いつものように紙に書いておけばよい。ほれ、そこに紙切れと鉛筆がある」
「あら? なんか反応が、前とちがうわね」
「や、山口さん。何かご相談ですか」
「そうなのよう。うーん。やっぱり鈴太さんは優しいわねえん」
これみよがしに、山口さんが俺の右腕を両手で抱きしめる。当然、俺の右手は山口さんの胸の谷間で幸せ状態になる。
「ふむ? 発情期かの?」
「ひどいわあ、天子ちゃん。ちょっと甘えてるだけよう」
「鈴太が迷惑しておる。さっさと用事を済ませるがよかろう」
「うーん。迷惑なんかじゃないよね、鈴太さあん?」
甘い息が鼻孔をくすぐる。こ、こんな攻撃は、天子さんがいないときにしてほしかった。
ちがうだろっ。何を考えてるんだ、俺。
「うっ。あのっ。何と申しますか」
「ふふっ。照れてるのね。可愛いわ。やっぱり鈴太さんは、私の癒しね」
「あの。何のご用でしょうか」
結局、山口美保さんの用件とは、キムチ鍋を作るのに、だしは何で取ればいいかという相談だった。これは俺にも答えられない質問だったけど、あれこれやりとりするうちに、羅臼昆布とトビウオを使うことに話が落ち着き、それを買って帰っていった。
それにしても、この暑いのに、鍋か。しかもキムチ鍋。
さぞ汗が出るだろうな。すると……
「鈴太よ」
「はっ、はいいいぃぃぃぃ!」
「下心が顔全体ににじみ出ておる」
「そ、そんなことは、ありまっしぇん」
「ふむ。一つだけ申しておく」
「は、はひっ」
「これはあくまで一般論じゃ」
「はい?」
「一般論として、心して聞け」
「はいい?」
「おぬしに、言い交わしたおなごがおるとする」
「へ?」
「そのおなごの前で、ほかのおなごとなれなれしくしてはならぬ。絶対にじゃ」
「はいぃぃぃぃ? いや、あの、さっきのあれは」
「これは千二百年のいにしえより変わらぬルールじゃ。しかと覚えておくように」
「そ、それは誤解です!」
「わらわは用事ができたので帰る。ではな」
そのまま天子さんは、すたすたと帰ってしまった。
俺の何がいけなかったんだ?
べつに、なれなれしくなんかしてないよ?
山口さんの腕をふりほどかなかったのがいけないのか?
でも、お客さんだし。
ふりほどこうとしたら、あの胸がいよいよたゆんと……
よくわからない。
よくわからないけど、一つだけわかることがある。
用事ができたっていうのは嘘だ。
だって、俺を守る以外、どんな用事があるっていうんだ。
「昼ご飯はまだなのです?」
「うるさい」
その日は不思議とお客さんの少ない日だった。
野枝さんも来なかった。
夜になって寝た。
また、悪夢をみた。
今日の俺は大蛇だった。
伯母さんがおなかのなかで、どろどろに溶けていくのを感じて、うきうきしていた。
そして俺はなめくじだった。
粘液を浴びた伯母さんが、じゅうじゅうと醜くしぼんでいくのが愉快だった。
そして俺はカマキリであり、おぞましいミミズであり、猛毒を持つ蜂であり、食人魚であり、巨大な蜘蛛だった。
目が覚めたとき、昨日以上に大量の汗をかいていた。
そして、昨日以上に不快な目覚めだった。
8
「鈴太。目が死んでおるぞ」
「あ、天子さん。おはよ。会えてうれしいよ」
「む。一夜にして腕を上げたのかえ」
「朝ご飯できてる」
「ほう。流し技も身につけおったか」
食事をしようとちゃぶ台の前に座ると、ちゃっかり童女妖怪が出てきた。
「油揚げが」
「どうした、ちみっこ」
「油揚げがないです」
「毎食毎食、油揚げは使えないよ」
「油揚げがないです」
「次の機会を待て」
「油揚げがないです」
「ええいっ。鬱陶しい! これでも食ってろ。油揚げと大根の葉っぱのごま油炒めだ!」
「油揚げなのです。でも、小さいし少ないのです」
「取込中すまんが、長壁」
「はいです」
「〈探妖〉をかけてもらいたい。溜石の探索が第一で、妖怪の探索が第二、そのほか妖気や神気を持つものの探索が第三じゃ」
「はいですなのです」
童女妖怪は、ひらひらする紙のついた棒を振り回し、何やら呪文を唱えた。
「溜石は十二個なのです。妖気を失っているものが四個。妖怪は、法師さまと天弧さまだけ。あと未確認神聖存在が一つと、神社の怪しげな気配が一つ。以上でございますです」
「あれ? 野枝さんの赤ちゃんは?」
「長壁。正体不明の微妙な気配はどうなったのじゃ?」
「いないですね。今日は結界のなかにはいないのです」
「おかしいなあ。あ、倉敷に納品に行ったのかな」
「ああ。打ち合わせをかねてか。そういうことは、時々あるようじゃの」
その後、朝食を済ませた天子さんと俺は、転輪寺に行った。
童女妖怪は留守番だ。連れていくには、お社を移動しないといけないが、こういうものは、あまり移動させるものではないらしい。
「さて、法師どの。質問内容については、昨日の打ち合わせの通りでよいかの。それとも修正があるかの」
「わしにはない」
「あの、天子さん」
「なんじゃ、鈴太に何か意見があるのか」
「〈この里を攻撃している者の名と〉の〈名〉という部分を、〈正体〉に言い換えてはどうかと思うんだけど」
「なるほど、一理ある」
「鈴太。その質問のしかたじゃと、名がわからん場合があるぞ」
「うーん。そうですけど」
「うむ? わらわにはよくわからぬぞ」
「天狐よ。鈴太の名を教えよと質問したら、〈天告〉は何と返す?」
「羽振鈴太と答えるじゃろうの」
「では、鈴太の正体を教えよと質問したら、〈天告〉は何と返す?」
「羽振家の当主の鈴太、であろうかの」
「そういう答えになるかもしれんし、乾物屋の主人という答えになるかもしれんし、十八歳で身長百六十八センチ、少しやせ気味の日本人男子、という答えになるかもしれん」
「ああ、なるほど」
「遠回しの質問は、遠回しの答えを引き出す。素直に名を訊いたほうがよかろう。鈴太よ。あやかしが固有名を持つことは、あまりない。じゃから名を聞きさえすれば、種族名がわかる。そうすれば、わしと天狐には、相手の正体や能力がわかるはずじゃ。心配はいるまい」
(うーん)
(そういう意味で心配したんじゃないんだけどなあ)
俺には、漠然とした不安があったんだけど、うまく説明できなかったので、次の意見を発表した。
「それと、相手の居場所も訊いたらどうかな、と」
「ほう」
「あ、そこには気づかなんだわい」
質問に加えられることになった。
そこで、乾物屋に帰って、童女妖怪を呼び出し、俺は訊いた。
「〈天告〉を頼む。この里を攻撃している者の名と、目的と、理由と、居場所を知りたい」
童女妖怪は、どこから出したのか、身長の倍も長さがある白木の棒に五色のひらひらがついた物を取りだして、左右に力強く振った。何やら呪文を唱えている。ずいぶん長く続いたあと、左右の動きが止まり、顔の前でぶるぶると震わせて、それからほわっと力を抜いた。
「わかったのです」
「うむ」
「答えは?」
「この里を攻撃している者の名は、
9
天狐さんと俺は、転輪寺にとって返した。
「天逆毎じゃと?」
「確かにそういう〈天告〉が下った」
「この里を襲う目的は、ひでり神さまの抹殺。理由は、復讐。確かにそういう〈天告〉だったのじゃな?」
「うむ」
和尚さんは、考え込んでしまった。
「あ、あの。天逆毎というのは?」
「ん? ああ。有名な大妖怪じゃな。もとは、
「なのじゃが?」
「川からは出られん。じゃから、川に近づきさえせねば、怖い敵ではない」
「そうじゃ、鈴太。しかも天逆毎は大妖怪ではあるが、しょせん普通の妖怪にすぎぬ。わらわと法師どのを同時に相手取って勝てるほどの力はない」
「そうよ。まして、ひでり神さまを抹殺するじゃと? もしもひでり神さまが邪神に戻られたら、天逆毎ごときは一瞬で灰にされる」
「で、でも、相当大量の妖気をためこんでるんでしょ?」
「それが
「そこよ、天狐。どうにもこれはちぐはぐな話ではないか」
しばらく流れた沈黙を破ったのは、和尚さんだった。
「これはどうも、鈴太の言った通り、正体を訊くべきであったかもしれんなあ」
「法師どの、というと?」
「天逆毎と〈天告〉があったのだから、敵は天逆毎にちがいあるまい。だが、たぶん、ただの天逆毎ではない」
「そうよなあ。だいたい、天逆毎の寿命などせいぜい二百年であろう。ひでり神さまに復讐するというのは、いかにも話が合わぬ」
「うーん。よくわからないけど、とにかく敵は天逆毎という妖怪で、天逆川にいるんだね。そして目的は、ひでり神さまを滅ぼすこと。でも、神様を滅ぼすことってできるの?」
「この場合は、満願成就をさまたげれば、ひでり神さまからしてみれば抹殺されたも同然ではあるが。どう思う、天狐」
「それもよくわからぬ話よのう。ひでり神さまを滅ぼそうと思えば、やはり神々の力をもってするしかないと思うが」
「ふうむ」
結局、敵の名と居場所はわかったものの、正体ははっきりしなかった。
10
「あら、鈴太さあん。また天子ちゃんとお出かけだったの?」
「山口よ。同じ手は、もう使えぬと知れ」
「何か、妙に戦闘的ねえ、天子ちゃん。今日はちょっとしたお知らせがあって来たのよ」
「知らせじゃと?」
「そうよ。野枝さんが、村から出ちゃったの」
「なにっ」
「えっ? ど、どういうことですか?」
「あら、興味津々? ちょっと妬けちゃうわね」
「村から出て、どこに行ったというのじゃ」
「愛しい人のところ」
「なんじゃと?」
「ほら。去年の秋口にこの村に来てた、ちょっとワルげの、ちょっといいオトコ」
「ああ。野枝をだました男じゃな」
「迎えに来たのよ、野枝さんを」
「なんじゃと?」
「ええええっ?」
「さっき、引っ越し屋さんが来て、荷物を運んでいったのよ。野枝さん本人は、昨日のうちに村を出たみたい」
本人が立ち会わない引っ越しっていうのもすごいけど、突然村を捨てた野枝さんの行動力にも驚きだ。
でも、好きな人と一緒にやっていけるなら、こんなに幸せなことはない。
「ライバルが減ってほっとしたところなんだけど、もう一人のライバルがいつのまにか先手を打ってきたみたいね」
「何か言うたか?」
「何でもないわ。今日はこれで帰ります。またねえ、鈴太さあん」
「は、はい」
このとき、俺の記憶のなかに、うずうずとうずくものがあったのだが、形を取らないまま霧散して消えた。
11
敵の名はわかったものの、戦いは膠着状態のままだ。溜石の状況も変わらない。
天子さんは、〈探妖〉の結果を、毎日和尚さんに報告に行ってる。和尚さんにも打つ手がないようで、何か変化が起きるのをじっと待つ日々だ。
俺は相変わらず悪夢をみている。最初に悪夢をみたのが七月三十一日だから、昨夜で四夜連続で悪夢にうなされたことになる。
鏡をみても、実にひどい顔をしている。げっそり痩せて、目の周りは落ちくぼんでいて、生気がない。
今日の天気のよさがうらめしい。これでは外に出るのもおっくうだ。
あ、誰かがやってきた。
一緒にいる若い女の子は誰だろう?
「こんにちは。大師堂さん」
「こ、こんにちは」
「天子さんも、こんにちは」
「うむ」
「鈴太さん。顔色よくないわね。だいじょうぶ?」
「はい。らいじょうぶです」
「あんまりだいじょうぶじゃないわね。ところで、この子、覚えてる?」
「え? さ、さあ?」
「成三の法事のとき、たまたま帰ってたんだけど、そうか。覚えていないか。まあいいわ。この子はうちの末っ子よ。名前は
「は、はあ」
未完成交響曲の未完で〈ひでひろ〉?
それはいったいどういう読み方ですか?
「ひでちゃん。ごあいさつなさいな」
「こんにちは。足川未完です」
おとなしそうな感じの
「夏休みで帰ってきたの。でも田舎は退屈らしいから、ちょっと相手をしてあげてね。それじゃ」
「え?」
女の子を残して、未成さんは帰ってしまった。
どうしろっていうの?
「野枝が去ったと思えば、今度は未完か。まったくお前というやつは」
オレのせい?
この事態はオレのせいなんですか?
「ちくしょう。暑っちいなー。おい、コーラねえのか」
はい?
今のご発言は、どなたが?
「ぼけっとしてんじゃねえぞ、この野郎。さっさとコーラ出しな」
未完さんでした。
「い、いや。コーラはないんだ」
「なんでえ。しけてやんなあ。ああ、暑っちー」
そう言いながら未完さんは、服の襟を左手で開いて右手を扇にして風を送り込みつつ、家のなかに上がっていった。
「ちぇっ。麦茶しかねえ。しかたねえ。我慢してやるよ。おい、コップどこだ」
「冷蔵庫の右側の戸棚じゃ」
「お、サンキュー」
なぜか三人で、ちゃぶ台を囲んで麦茶を飲むことになった。
「ふわあ。まあ、田舎にゃ田舎のよさがあるよな。まったり感っていうかさあ」
「京都に帰ったらどうですか」
「おい、鈴太。あたしを邪魔者扱いにすんじゃねえよ」
「いや、邪魔者ですから」
「はっはっはっはっはっ。こんな美人をつかまえて、その言いぐさはねえだろう」
「すいません。事情があって、いっぱいいっぱいなんです。お帰り願えませんか」
「その顔色みりゃ、わかるよ。今度は何に取り憑かれてんだ?」
「今度は?」
「あんた、成三さんの幽霊にからまれてただろ?」
「ぶふうーーーーーっ」
「きっ、汚ったねえなあ! 何しやがんだ!」
「ほう。おなごに茶を吹きかけるとは。大胆なアプローチじゃな」
「げほっ、げほっ、げほっ」
「お、おい? だいじょうぶか?」
「しかも同情を引くとは、恐るべき精進。さすがじゃ」
「天子さん、あんた親戚なんだろ? 鈴太に冷たくないか?」
「親戚ではないのう。赤の他人というわけでもないが」
「はあ? なんだそりゃ」
それから未完さんは事情を話してくれた。
未完さんも〈みえる〉側だったんだ。
あの場面で成三さんのぶらり火が、ちゃんとみえてたらしい。
そして母親である未成さんは、末娘のそういう体質を知ってた。
俺から、あのときの真実について話を聞いた未成さんは、それをラインで未完さんに伝えた。つまり、悪霊になりかけた成三さんを俺が説得して、家族にお礼を言ってから成仏させたことをだ。
大いに興味を引かれた未完さんは、大学最初の夏休みに、俺のようすをみに、わざわざ帰郷したというわけだ。
「おい。そろそろ腹が減らねえか?」
食事してく気まんまんですね。
「今日は鈴太が炊事当番なのじゃ」
「へえっ。鈴太、めし作れんのか。女子力高えっ」
「何とでも言ってください。そうめんでいいね」
「おお。そうめんは大好物じゃ」
「きりっと冷やして頼まあ」
「油揚げは大盛りがいいのです」
「なんだ、このちっこいの? 鈴太の妹か? 油揚げが好物なのか?」
あ、みえるんですね。聞こえるんですね。
俺はさっさと食事の準備をした。
「うめえっ。なんだこのうまさは」
「これ、汁を飛ばすな。おなごのくせに行儀の悪い」
「うめえんだから、しかたねえだろ。おい、鈴太。これ、どこのそうめんだ?」
「鴨方そうめんだよ」
「でかした! やっぱりそうめんは鴨方だよな。それでこそ岡山県人だ」
いや、俺は岡山県人じゃ……いや、今は岡山県人なのか?
「麺つゆにつかったちび油揚げも風情があるのです」
はいはい。ちびっこは満腹になったらお社に帰りましょうね。
俺の願いは聞き届けられたようで、童女妖怪はさっさと消えた。
「ふうー。食後は熱い茶がうめえな」
「あぐらをかくな。下着がみえる」
「みせてんだよ」
「なんじゃ。そなた、鈴太に気があるのか」
「あたしは、こんな体質だからさあ。本気で腹割って話せるダチがいねえんだよ。小せえころからそうだった。だから、鈴太みたいな……」
「そんなことはないよ」
「えっ?」
「あやかしがみえるとか、みえないとか。そんなことは、友達になったり、心を許して話し合ったりするのに、ほとんど何の関係もないんだ」
「お、おう」
「そんな理由で人に心を開かないなんて、ばからしいよ。絶対音感を持った人は、世の中のすべての音が音符に置き換わって感じるかもしれないけど、それはその人の人間としての魅力に直接は関係ない」
「そ、それはそうかもしれないけどさ」
「心を開かない理由なんて、いくらでも思いつく。でもそれは、自分の臆病さをごまかしてるのと、どうちがうの?」
「いきなりきついとこ突くなあ」
「好きになった人がいるなら、ぶつかってみなきゃ。それでだめだったら、それは運命の人じゃなかったってことなんだ」
「鈴太よ。急に雄弁じゃの」
「出会ってしまったら、出会って運命を感じてしまったら、その人に思いを打ち明けるべきなんだ。相手が年上だろうが、自分より経験豊かだろうが、あるいは人種がちがおうが、国籍がちがおうが、そんなことは関係ないんだ」
「お、お前」
「なに?」
「じょ、情熱的なんだな」
「いや、そういうわけでもないけど」
「あ、あたしなんかの、どこがそんなに気に入ったんだ?」
「え?」
「ちくしょう。また来るぜ」
顔を赤くして、未完さんは去っていった。
俺は呆然として、その後ろ姿をみおくった。
「天子さん。俺は何をまちがえたんだろう」
「うーむ。何をまちがえたわけでもないと思うが。妙なことになったの」
「押してはいけないスイッチを押してしまったような気がする」
「ま、運命じゃろう」
「ひどいよ、天子さん!」
「今出てったの、足川さんちの未完ちゃんじゃなかった?」
「山口さん!」
「ふふ。こんにちは。あら、そうめん? おいしそうねえ。鈴太さあん、私、お昼ご飯まだなの」
背中に天子さんの冷たい視線を感じながら、俺は山口さんにそうめんをふるまった。
ほかにどうしろっていうんだ!
その夜も悪夢はやって来た。
次の日も山口さんと未完さんはやって来た。
次の夜も悪夢はやって来た。
これで七夜連続で悪夢にうなされたことになる。
鏡のなかの俺は、いよいよやつれきっていた。
そんな日、思ってもみない人から電話がかかってきた。
12
「伯父さん? どうしたんです? 突然電話なんて」
「う、うん。鈴太くん、元気かなって思って」
伯父さんにはお世話になった。父さんと母さんが死んでしまったとき、かけてくれた言葉の優しさや、そのあと家に来ないかと自然に誘ってくれた思いやりは、思い出せば今でも胸が温かくなる。
〈でも、本当にそうか?〉
〈最初から保険金を狙って、優しいふりをしたんじゃないか?〉
えっ?
今のは、俺の心の声か?
本当に俺が思ったことなのか。
それは、ちがう。だって伯父さんの優しさは、父さんと母さんが生きてたころから変わらない。父さんと母さんにも、何かと気遣いをしてくれてた。なのに俺は、どうして伯父さんを疑ったりしたんだ?
「あ、あの。一人暮らしだよね? 寂しくないかい?」
「ええ。夜は一人ですけどね。日中は、おじいさんのときから続いてる美人店員さんが来てくれるんです。それに、いろんな人が店に来てくれて。うるさいぐらいにぎやかですよ」
「へえ、そりゃ、よかった。でも、店員さんを雇ってるんだ。小さな村の乾物屋さんなんでしょ。だいじょうぶなの?」
「うーん。もうかるってこともないけど、ぼちぼちやっていけそうな感じです。弁護士の殿村さんもついててくれますしね」
「そういえば、凄腕そうな弁護士さんを雇ってるんだよね」
「ええ。俺が成人に達するまで財産の管理をしてくれてます」
「だいぶ費用もかかるんじゃないの?」
「え? 殿村さんですか? あの人はですね、若いころ祖父の世話になったとかで、ほとんど無償でお世話してくれてるんです」
「あっ、そうなんだ。なるほど」
「俺はこの村になじみがないけど、祖父やその先祖はずっとここに住んでましたからね。仲間扱いですよ。村の行事なんかにも参加します。村社会は助け合いですしね。照さんておばあさんがしょっちゅう川海老の佃煮を差し入れしてくれるんですけど、これがもうほんとにうまいんです」
「そうなんだ。受け入れてもらってるんだ。よかったなあ。はは。君も知ってるように、この地域も、けっこう村社会が残っててね。ご近所の目とか口とかも村的というか、平気でずけずけ踏み込んでくるところがあってね。練馬大根の出荷量も日本一なんだよ」
「はは」
村社会と練馬大根の関係はよくわからなかったけど、たぶん冗談なんだと思って笑っておいた。
「そちらは皆さん、お元気ですか?」
「うん。元気にしてる……と言いたいんだけど」
「え? 何かあったんですか」
「うん。いや、あ、そういえば、東京に来てたんだって?」
「ええ。近くに行ったのにあいさつもしなくてすみません。実は」
俺は、行方不明の村人の捜索に同行した話をした。
「へえ。それで二回も上京したんだ。わざわざマンションをみに来たわけじゃないんだね」
「マンションを? ああ。建て直すとは聞いてましたから、どんなふうになったかなって気になって、用事が終わったあと寄ってみたんですよ」
「そ、そうだったんだね」
それから、しばらく、伯父さんの言葉は途切れた。
たぶんこのあとに、本当の用件が出て来る。そう思ったので、俺は辛抱強く、伯父さんが次の言葉をしゃべるのを待ち続けた。
「あ、あの。こんなことを言って、驚くと思うんだけど」
「はい?」
「つ、妻を、許してやってくれないかな」
「えっ? 伯母さんを……許す?」
「妻は毎日、鈴太ちゃんごめん、鈴太ちゃんごめんって言って、泣きわめいている」
「どういうことです?」
「う、うん。奇妙な話なんだ。すごく奇妙な話なんだ。実はね」
それから伯父さんが話したのは、驚くべき内容だった。
マンションの前でばったり俺に出会った日、まだ夕方にもならないのに、伯母さんは寒気がするといって寝た。そして、苦しそうにうんうんうなり続けた。
起こしても起きない。寝たままのたうち回って苦しんでいる。そして時々、絞め殺されているのかと思うような悲鳴を上げる。医者を呼んだけど、医者にも何の病気かわからない。心因性のものでしょう、と言われただけだ。
朝になると目が覚めたけど、一晩でげっそり痩せて、白髪も増えて、まるで十年も年を取ったみたいだった。
日中も、何をする元気も出なくて、一日中ぼうっとしている。買い物に行こうとしても、財布が取り出せない。怖い顔をしたおじいさんがいて、財布も、カードも、通帳も、伯母さんが取り出そうとすると目を剝いて怒るからだ。そのおじいさんは、伯母さんにしかみえない。つまり幻覚だ。
夕方になると、こてんと寝た。だけどそれは安らぎの眠りじゃなかった。前日にもまして苦しみ、うなされ、大声で悲鳴を上げ、あげくのはては、地の果てまで届くんじゃないかというような声で、自分が悪かった、お金は返すから助けてくれ、そんな目でみないでくれと、わめき回る。
翌日は、大きな病院の精神科に連れて行った。さんざん待たされたあげく、何の異状もないという診断結果だ。不思議なことに伯母さんは、病院にいるときは静かに落ち着いていて、受け答えもまともだったそうだ。
ところがいったん家に帰ると、恐怖に身を縮め、伯父さんにはみえない何かにおびえている。外出して気張らししてはどうかと勧めても、首を振って家から出ようとしない。夜が来れば眠る。眠るのは恐ろしくてしかたないのに、眠ってしまう。
そして苦しみ、のたうち、罪を告白して許しを乞う。大声で。
たった二日で、近所の人が伯父さんたちをみる目ががらりと変わった。伯父さんたち一家に向けられるのは、軽蔑と、物問いたげな好奇のまなざしだった。
三日目には、同居していた長男の幸一さん夫婦が家を出た。とても耐えられなかったのだ。
マンションは、不動産屋さんの斡旋でもう全部入居者も決まっていて、あとはオープンのための最終契約をするだけなのに、伯母さんは業者さんとまったく話ができない。伯父さんはここまで内容に関わっていないので、どうしていいかわからない。
そして近所から苦情が出た。あんなに大声で夜中わめき回られたのでは迷惑だというのだ。無理もない話なのだが、では伯母さんをどこに連れていけばいいのか。何か所かの病院に電話してみたが、対応は親切なものではなかった。
四日目になると、伯母さんの人相は鬼気迫るものになった。いよいよ骨と皮に痩せ細り、髪の毛は真っ白になり、歯はぼろぼろに欠け、目はぎょろりと剝けて血走り、眉間には憤怒の皺が刻まれ、鬼婆そのものの姿をしているという。
近所からの苦情は、ひどく辛辣なものになってきた。鈴太くんのご両親の保険金を内緒でもらっちゃったんですってね、道理でご立派なマンションをお建てになったこと、とはっきり言う人までいる。伯母さんの所業は近所中に知られているのだ。なにしろ自分で大声で事細かに毎晩告白しているのだから。
必死で受け入れ施設を探したけれど、みつからない。この出来事が始まったころから、伯父さんは夜はとても眠れないので、日中に伯母さんの近くで仮眠し、夜は少しでも伯母さんの看護をと努めるけれど、伯母さんは少しも安らぐようすがない。その悶絶のありさまをみまもるうちに、伯父さん自身の体調や精神状態もおかしなことになってきた。
五日目に、マンションの建築を任せた会社がやってきて、管理契約は結ばないことにしましょう、と言い出した。伯父さんは大いにあわてた。
この会社はもともと、建物引き渡し後もメンテナンスを担当してくれ、居住者の募集から家賃の徴収、住民との折衝まで、すべての管理事務を一手に引き受ける約束だった。ところが引き渡しは済んだものの、管理契約の本契約が結べていなかった。というのは、伯母さんが管理料金などについて細かくクレームをつけたためだ。そのため、本来ならとうの昔に済んでいるはずの管理契約が結べていなかった。いよいよ入居時期が目前とあって、どうでも契約を完了しなくてはならない時期に、伯母さんが変調を来したのをみて、管理会社が契約を結ぶのを断ってきたというわけである。
今まで建設会社との交渉にまったくタッチしていなかった伯父さんは、途方に暮れながら、相手の言い分をただ黙って聞くほかなかった。
これからどうすればいいんだろうと思案しながらマンションまでふらふらと歩いていった伯父さんが目にしたのは、壁の至る所にスプレーで書き込まれたいたずら書きだった。そしてそのいたずら書きの大半は、伯母さんの所業を暴露し揶揄するものだった。
六日目、現金が必要になって伯父さんは郵便局に行った。なぜかカードがみつからないので、通帳で現金を引き出した。そのとき、預金額がごっそり減っているのに気づいた。幸一さんのしわざだ。幸一さんには、時々カードを渡して決済などを頼んでいたから、ゆうちょ銀行の暗証番号は知っている。家を出るときカードも持って出たのだろう。
その幸一さんから電話がかかってきた。社長が母さんのこと知って、今月いっぱいで解雇されることになったと幸一さんは言い、伯母さんと伯父さんを口ぎたなくののしったそうだ。
この日から、インターホンや電話が鳴っても、伯父さんは出なくなった。
七日目、伯母さんの睡眠中の悪夢は続いているけれど、叫び声はすっかり枯れて小さくなった。もう告白の言葉は出ず、出て来るのは、俺に許しを乞う悲鳴のような懇願ばかりだ。
かくして今日、八月七日、伯父さんは俺に電話をかけてきたというわけだった。
「頼む、鈴太くん。こんなこと頼めた義理じゃないのは百も承知だけど、許す、と言ってくれないか。それで妻は助かるんだ」
13
事情はどうあれ、あの伯父さんが、許すと言ってくれと懇願しているんだ。俺は、〈許す〉と言おうとした。
だけど言葉が出なかった。
何かが俺の喉をふさいだ。
どうして許さなくちゃいけない?
許す必要がある?
嘘をついたのは伯母さんだ。
お金を奪ったのは伯母さんだ。
父さんと母さんの命と引き換えに、俺に残された保険金と見舞金。
それは父さんと母さんの最後の贈り物であり、俺の幸せのために使われるはずだったお金だ。
そのお金があれば、あんなにバイト三昧の生活をしなくてよかったし、合格してはいけないんじゃないかと不安を抱えながら受験することもなかった。今ごろは、京大のキャンパスで、楽しく豊かで有意義な学生生活を送れていたんだ。
幸せだったはずの俺の人生を奪ったのは誰だ?
血にまみれた不当な金をむさぼったのは誰だ?
伯母さんじゃないか。
伯母さんには、それだけの罪がある。
伯父さんも、ずるい。
いくら伯母さんが、保険金や見舞金を横領したとしても、伯父さんが断固として反対すれば、そんなことはできなかった。
目をつぶったのは伯父さんだ。それは共犯と同じことじゃないのか?
苦しめ。
もっと苦しめ。
苦しみながら死んでゆけ。
それがお前たちにはふさわしい。
そのとき、俺の心のなかで、こんな言葉が響いた。
〈お前は、伯父さんと伯母さんから、不幸しかもらっていないのか? 幸福は少しももらっていないのか?〉
父さん?
今のは確かに父さんの声だった。
でも、父さん。それはどういう意味ですか。もちろん、多少はいいこともしてもらいました。だけど、保険金や見舞金を俺に黙って自分たちのものにしてしまった悪事と比べれば、そんなの全部帳消しでしょう。いや、帳消しにはならない。悪事のほうが断然まさっています。その差額分を、今伯母さんは支払ってるんです。ちがいますか?
問いかけたけれど、父さんの答えはなかった。
俺は、父さんならどう言うだろうか、と考えた。
父さんなら、こう言うだろう。
「悪事は帳消しにはならない。だけど、してくれたよいことも、なかったことにはならない。お前は伯父さんと伯母さんに、悪い思い出しかないのか。いい思い出はまったくないのか」
俺は、それに、こう答える。
「それは、あります。だけど」
「あるなら、それを思い出せ」
「思い出す?」
「そうだ。一つ一つ、思い出してみるんだ」
俺は、伯父さんと伯母さんによくしてもらったいい思い出を思い出そうとした。
何があったかなあ。
ああ、そうだ。伯母さんは大根を畑で作っていて、よくその葉っぱを食べさせてくれた。大根の葉っぱって、実はものすごく栄養豊富だし、とてもおいしいんだ。刻んだ油揚げと一緒にごま油で炒めて。ほんの少しだし醤油を落として。時々は人参の細切れなんかも入っていて。父さんも母さんも、伯母さんの作る大根葉の炒め物が大好きだった。
そういえば、あの料理、俺も今では作るけど、もともと伯母さんに教えてもらったんだった。人参の葉っぱでも同じ料理を作ってくれた。人参の葉っぱは、苦くて、何というか味が濃いんだ。その苦さがうまい。だけど人参の葉っぱは小さいから、収穫してから料理できる状態にもっていくまでえらく手間がかかる。そういう手間は惜しまない伯母さんだったなあ。
父さんと母さんが死んだあとも時々、伯母さんは大根葉や人参葉の炒め物を作ってくれた。あったかいご飯にまぶして食べると、またうまいんだ。あれを食べると、父さんと母さんの笑顔を思い出して、幸せな気分になれたんだった。
伯父さんには、いろんなお菓子を買ってもらった。新発売のお菓子を買っては、俺にくれた。だから俺は小学校では、いつも最先端のお菓子の味を知っていて、友達と話がはずんだ。いろんな所に連れて行ってももらった。景色のいい所、楽しい所。あんまりお金のかかるところに連れて行ってもらったことはないけど、東京タワーとスカイツリーには上らせてもらった。高い所の好きな伯父さんだった。若いころには画家になりたかったとかで、よく多摩川のほとりで写生をしてた。そうだ。河川敷でキャッチボールもしてくれたんだった。
「伯父さんには伯父さんの人生があり、そのなかにはいいものも悪いものもある。それをみんなひっくるめて伯父さんという人間なんだ。一つ悪いことをしたからといって、伯父さんという人間の人格全部が、人生全部が否定されていいとはいえない」
「でも、父さん。伯父さんと伯母さんのしたことは、罰せられないといけない」
「罰することでお前が不幸になってもか」
「え?」
「鈴太」
「はい、父さん」
「今、お前は、不幸か? それとも幸福か?」
今俺は不幸だろうか。幸福だろうか。答えは決まっている。
「父さん。今俺は幸福です」
「そうか。それはよかった。せっかく得たその幸福を、今のお前の命の喜びを、憎しみというよごれて曇らせてはもったいない、と父さんは思う」
「命を、憎しみで、くもらせる?」
「自分の人生を包む愛に気づけ。自分の幸せに気づけ。その愛を、幸せを裏切らずに生きてゆけ。そのほかのことは、小さなことだ」
「そうよ。鈴太」
「母さん!」
「あなたには、光のなかを歩んでほしいの」
「光の……なか」
「人の一生には明るい部分と暗い部分がある。悲しみと喜びがあり、憎しみと感謝があり、幸福と不幸がある。不幸ばかりをみつめて歩いてほしくないんだ」
父さんの言うことは、ちょっとむずかしくて、今の俺には完全には理解できない。それでも一つだけ理解できることがある。父さんも母さんも、俺が憎しみと復讐で心を埋め尽くされた人生を歩くことを望んでいない。幸福と感謝に満ちた人生を歩むことを望んでいる。
わかったよ、父さん、母さん。
伯父さんや伯母さんには思う所もある。
けれど、父さんと母さんのために、俺は二人を許します。
「……あの、鈴太くん?」
あまりに長い沈黙だったので、伯父さんが不審に思ったようだ。
「許します」
「……え」
「伯父さんを、伯母さんを、俺は許します」
「り、鈴太、くん」
「それだけじゃない。感謝します」
「えっ」
「今まで、お世話になりました。伯父さんと伯母さんが、俺にしてくれたこと、思い出してました。大根葉の炒め物。お菓子。スカイツリー。多摩川でのスケッチやキャッチボール。おいしかったです。楽しかったです。感謝してます。ありがとうございました」
伯父さんの返事はなかった。
やがて、すすり泣きと嗚咽が聞こえてきた。それは長いあいだ続いた。
俺はそっと電話を切った。
たぶんもう二度と、俺は悪夢に悩まされないだろうと予感しながら。
伯母さんもそうだといいな、と思った。
14
「ううむ。わらわが転輪寺に行っておるあいだに、そんなことがあったのか」
「うん」
「鈴太」
「ん?」
「おぬしは、よき父御と母御に恵まれたのう」
「うん」
いい雰囲気にひたっていると、来客があった。
「おい、いるか」
「あ、
「おう。こんちは。天子さんも、こんちは。ところで腹が減ったなあ」
「なんと、来るなり食事の催促かえ。今日はわらわが炊事当番じゃ。少し待っておれ」
「おう。わりいなあ。ていうか、交代で食事当番とか、まるで夫婦じゃねえか」
「はは。夫婦とはね」
「うん? 鈴太?」
「なんだい」
「あんた。言葉遣いが変わったか?」
「そうかな。そういえばそうかもしれないな。奇妙な感じがするか?」
「い、いや、奇妙ってことはねえよ。むしろこっちのほうが、あたしは……(好きっていうか)」
「うん? 何て言った?」
そのとき何かが空中を飛来してきて、俺の頭を直撃した。
「痛いっ」
「こ、これ、お玉じゃねえか。おーい、天子さーん。お玉が飛んできたぞーっ」
「すまーん。手が滑った−」
「これは手が滑ったって範囲なのかね? あれ、鈴太、うれしそうだな」
俺は笑い出した。とても楽しかった。
そうだ。
天子さんや、未完さんや、みんなとの楽しい語らいがなかったら、どうなっていたろう。もしかしたら、復讐心に取り憑かれてしまっていたかもしれない。
こうやって笑い合える人たちが、俺を救ってくれていたんだ。
「あらあ。何かいい雰囲気ね。妬けるわ」
「あ、山口さん。こんにちは。何を差し上げましょう」
「あら。今日は顔色がいいわね。何かいいことがあった?」
「はい」
山口さんは、少しだべったあと、石鹸とティッシュの配達を注文して帰った。
昼ご飯は、油揚げ入りのオムライスだった。
もちろん童女妖怪も出現して食べた。
どうも童女妖怪は未完さんと気が合うようだ。
どうでもいいけど、最近わが家の油揚げ消費量がすごいことになってる。
食事が終わってまったりしていると、新居達成さんが訪ねて来た。このときには童女妖怪はお社に帰っている。
「あれ、達成さん。一か月間博多じゃなかったんですか?」
「いや、それは最長の場合ですよ。早く終わったので帰ってきました」
「何度も言いますが、俺にはそんな丁寧な口調で話さなくていいんですよ」
「いえ。人間関係がもう出来上がってますから」
「お、達成さん」
「あ、未完ちゃん。来てたんだ」
「ここ、居心地よくてよう」
「あれ? 京産大の春学期試験て、もう終わってたんだったかな?」
「まあ、だいたいね」
「なんだい、それは。はは」
「未完さん。達成さんには口調を変えないんだね」
「おうよ。この人はあたしの正体を知ってるからよ」
「はは。鈴太くん。未完ちゃんは、裏表があるから、びっくりしたでしょ。でも実はそうじゃなくて、全部表なんだよ」
「ああ。わかります。どちらにしても隠し事がないですね」
「そうそ。いやあ、うれしいなあ。未完ちゃんのいい所、しっかりわかってくれてて」
「恥ずかしいこと言ってんじゃねえよ」
「未完ちゃん。羽振さんには、成三にいさんのことで、ほんとにお世話になってるんだからね」
「知ってるよ。わざわざ達成さんについて、何日間も成三さんの消息を追っかけてくれたんだろ。その話は母さんからさんざん聞かされた」
「うん。そうなんだ。でも、それだけじゃない。先月の三十一日には、成三にいさんが住んでた家の大家さんの息子さんに会いに東京に行ったんだけど、そのときも同行してくれてね」
「へえ。そいつは知らなかったぜ」
「俺が、ぜひ一緒に行ってほしいとお願いしたんだ」
「それでのこのこついていったんだ。お人よしだぜ、まったく」
「息子さんは、父さんからの土産は受け取ってくれたんだけど、最初、未払いの家賃は受け取ってくれなかったんだ。そのときね……」
恥ずかしいことに、達成さんは、あのときのやり取りを克明に再現した。
「へえー。〈あのアルバムは、耀蔵さんにとって、何物にも代え難い価値があったんです。その感謝の気持ちを、どうにかして伝えたかったんじゃないでしょうか〉ってか。あの偏屈者の耀蔵伯父さんの気持ちを、よくわかってんなあ」
「そうなんだよ。羽振さんは若いけど、そこに気づける人なんだ」
「へへ。あんたが褒められると、なんだかあたしもうれしいぜ」
「そういえば、羽振さん、もう一度京大受けるんでしょう?」
「えっ?」
「きょ、京大だってえっ!」
「うん。東京で羽振さんの高校の同級生とばったり会ってね。羽振さん、ほんとなら京大に楽々合格できるぐらい学力があったのに、体調か何かが悪くて不合格になったらしいよ」
「お、おい! それほんとかよ。京大だって」
「うん。京大を受験して不合格になったのは事実だよ」
「じゃ、じゃあ、来年は京大に入るのか?」
「いや……」
「それもよいではないか」
「天子さん?」
「先のことはまだわからぬ。しかし、もう一度京大を受験するつもりで勉強してはどうじゃ」
「でも、この店があるし、ここに住むことが遺産相続の条件だし」
「その辺りは殿村と相談してみねばならんのう。しかし、幣蔵の遺志は、お前をこの村に縛りつけようとするものでなかったことは確かじゃ」
「来いよ!京都に。そしたら、すげえぜ。一緒にさあ、哲学の小径を歩こうぜ。貴船神社の七夕のライトアップみてよ、それから、大文字焼きみてよ。保津川下りに嵐山の紅葉だろう。ちきしょう。なんだか燃えてきたぜ」
「意外にチョイスが乙女モードだね、未完ちゃん」
「わ、悪いかよう」
「ふふ。ずいぶん未完に気に入られたようじゃな。まあ、京大に限らぬ。おぬしは、まだまだ勉強したり遊んだりしてよい年齢じゃ。大学への進学も考えておいてよい」
「う、うん」
今さら受験しようという気はあまりなかったけれど、せっかく言ってくれることをむげに否定したくはなかった。だから、あいまいな返事をした。
「まあ、とにかく、羽振さん。未完ちゃんのことを、よろしくお願いします」
「えっ?」
「よせやい。照れるじゃねえか」
達成さんは帰っていった。
未完さんも、親から呼び出されて帰っていった。
そのあと、妙なお客が来た。
「おう、大師堂」
「こんにちは、耀蔵さん」
「高野豆腐と豆板醤をもらおうか」
「はい。こちらになります」
「ありがとよ。ところでよ」
「はい?」
「足川ん所の未完との話、俺は反対しねえからよ」
「はいい?」
それだけ言うと、肩を
いったい、これは何なんだろう。
未成さんといい、達成さんといい、耀蔵さんといい。
どうしてみんなして、未完さんを推してくるのか。
佐々一族の陰謀か?
15
その夜は、悪夢をみることもなく、ぐっすり眠れた。
翌日になっても、溜石の状況は変わらなかった。つまり、全部で十二個あって、妖気が抜けた石がそのうち四個だ。三個については妖気がどうなったかわかっているけど、最後の一個については、妖気がどこにあるのか、いまだに不明だ。
午前中には、山口さんと、秀さんと、そのほか五人ほどお客があった。未完さんも来たけど、俺がお客の対応に忙しくしていると、気を遣ったのか、そのまま帰っていった。
今日は俺が食事当番だ。天子さんと童女妖怪と三人で昼ご飯を食べた。今日は童女妖怪も、まったり食後のお茶を味わっている。
そのとき珍しい人が来た。弁護士の殿村さんだ。
「やあ、鈴太くん。こんにちは」
「あ、殿村さん。こんにちは」
「天子さま。お久しぶりでございます」
「うむ。何かと世話になる」
「もったいないお言葉です。今日は、鈴太くんに報告と相談があってまいりました。そちらのかたは?」
「ああ。これは姫路の長壁姫じゃ。縁あって鈴太に加護を与えることになった。いわばわれらの仲間じゃ」
「ほう。それはありがたい。長壁姫さま、弁護士の殿村隆司と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「はいです。お寺の法師さまと似た匂いがしますですね」
「はは。さすが。私は法師さまの眷属の末裔でございます」
「殿村よ。法師どのから聞いているかもしれぬが、鈴太は先祖のこととこの里の役割をすべて知った」
「はい。これで私も心置きなく相談ができるようになりました」
殿村さんは、いきなり驚くようなことを言った。
「さて、鈴太くん。本来なら君には敬語を使うべきだが、成人となるまでは、このままにさせてもらう。昨日、伯父さんから電話があった。君のお父さんとお母さんの保険金と、事故の相手からの見舞金、総額五千五百万円ほどを、君に返却したいということだ」
「えっ」
「とても前に話したときと同じ人とは思えなかった。奥さんも同意しているんですかと訊いたが、その答えが少し意味不明だった。君は事情を知っている、とも言っていた。いったい何があったのか、教えてもらえないだろうか」
天子さんには二度目の話になるけれど、俺は、この一週間の出来事について、できるだけ詳しく殿村さんに説明した。
「なるほど。そんなことがあったのか。ようやくわけがわかった。それで、鈴太くん。君はこのお金を受け取る意志があるだろうか」
「伯父さんと伯母さんはマンションを建てました。お金を全額返却してもらうと、困ったりはしないでしょうか」
「ふむ。その事情については私は知らない。だけど君は、先方に不都合がないようにしたいと考えているんだね」
「はい」
「驚いた。君はわずかな時間でずいぶん成長したようだ。受け答えから感じる人格が、格段にしっかりしている」
「それから、殿村さん」
「何かな」
「十四歳のときから四年半ほど、俺は伯父さんの世話になりました。まず、アパートに無償で住ませてもらいました。学費も払ってもらいました。時々ですが、服や食事も提供してもらいました。こういう諸々を、俺がもらう予定のお金から差し引いていただきたいんです」
「理にも情にもかなった申し出だと思う。さっそく算定してみよう。五百万円を越えることはないと思うがね」
「そしてまた、父と母が生きていたころから、食べ物を持ってきてくれたり、お菓子を買ってくれたり、遊んでくれたりしました。そうしたことへの感謝の印として、先ほどの金額に一千万円上乗せしたいんですが、可能でしょうか」
「もちろん可能だ。ふつうに取り運べば贈与ということになるが、この場合、税金があまりかからない方法があると思う。検討してみよう。ただしそれは、横領という犯罪を犯した伯父さん夫婦を許すということだ。そこはわかっているんだね」
「その事柄だけを取り上げれば犯罪かもしれません。しかし、伯父夫婦が生きた全体が罪であったわけはないし、俺や父母にしてくれたことの全部が悪いことだったわけではありません。そう考えると、そもそも俺には、伯父夫婦を罰する権利もないし、許すというのもおこがましいと思います。感謝をすることで、全体としてはよい出来事だったと、父と母に宣言したいんです」
「……その答えに、君は自分自身でたどり着いたのか」
「はい。保険金だとか見舞金だとかのことを取り払って考えてみれば、伯父さんも伯母さんも、いろいろとよいものを、父さんや母さんや俺にくれました。お金のことを知らなければ、俺には感謝しかなかったでしょう。この村に来られた幸福をかみしめるだけだったでしょう。そこにお金が加わったために、感謝が憎しみに代わり、幸福が不幸に変わるとしたら、それはおかしな話ですよね。それではお金にも申しわけありません。だから少しでもみんなが幸福になるように、そのお金を使いたいんです」
ちりーん。
〈
鈴の音が鳴り、突然後ろから声がしたので、俺は振り向いた。
家の神様のお社の前に、一人の老人が立っていた。
その顔は作り物じみているが、どこか愛嬌がある。能面に似ているといえば似ているし、遮光器土偶に似ているといえば似ているだろうか。きらびやかな着物をまとっていて、白い房のある棒を右手に持っている。
「か、
童女妖怪が驚いている。
〈かねだま〉とかいう老人は、白い房を俺の頭の上に振り上げた。
〈善行を積む者よ。なんじに
ふぁさっと、頭の上を房がなでた。〈かねだま〉は、にっこり笑うとお社のなかにすうっと消えた。
「か、金霊をみたのははじめてではないですが、こんなに霊力の強い金霊に会ったのは、はじめてです」
「私は、はじめてみました。あれが金霊さまですか」
「〈かねだま〉って何ですか?」
「妖怪だが、精霊に近い存在だね。神の使いといってもいい。善行を積んだ人間に天から福を与える役割を持つといわれ、金霊さまが訪れた家は財産を得て繁栄するという」
「あ、お金の精霊で〈かねだま〉ですか」
「そうだね」
「これは、法師どのに報告し、相談せねばならぬ。鈴太、殿村、ついてまいれ」
16
「ばっはっはっはっはっ。そうじゃったのか。これは驚いたわい。愉快(ゆかい)じゃ。まことに愉快じゃ!」
「面白がっておる場合ではあるまい。法師どの。一つまちがえばどうなっておったことか」
「四つ目の溜石の妖気は、さてどこに潜んで何をしでかすものやらと、毎日やきもきしておったものを、東京で伯母夫婦を懲らしめ、最後には善き金霊となって鈴太を祝福し、〈はふり〉の家の社に鎮まったというのじゃからなあ。ばっはっはっ」
「あの社に入るとは、ずうずうしいやつじゃ。金霊のくせに」
「ぶっくっくっ。それはまあ、長年にわたり、さまざまな神霊を勧請してきた社じゃからのう。いわば貴賓むけの客室のようなもの。さぞ居心地よかろうて」
「あの。和尚さん。天子さん。話がみえないんですけど。四つめの溜石の妖気がどうしたんですか?」
「鈴太よ。お前が達成と東京に出かけたのが、七月の三十一日じゃった」
「はい」
「お前が出かけたあと、わしらは長壁姫の〈探妖〉により、四個目の溜石から妖気が抜けたこと、それなのに結界のなかに妖怪がみあたらぬことを知った」
「はい」
「それもそのはず。妖気は三十日の夜にお前に取り憑いておったのじゃ。そして三十一日の朝早く、お前と一緒に東京に行った」
「えっ」
「結界のなかにはおらんのじゃから、いくら探してもみつかるわけがない」
「でも、俺はその日のうちに帰ってきましたよ」
「お前がマンションの前で消化しきれぬ思いを抱えておったとき、あるいはその前からかもしれんが、保険金と見舞金をめぐるお前の執着により、妖気は金霊となって形を結んだ。しかして、その憎しみの対象である伯母に、金霊は取り憑いた」
「あ」
「金霊には、表の姿と裏の姿があってのう。表の姿では、無欲な善人に金運を与えるが、裏の姿では、強欲な人間から金運を奪い罰する」
「そうだったんですね」
「伯母とやらは、相当に金に執着があったようじゃなあ。裏の姿をとった金霊にとっては、またとない宿主であったろうよ」
「そうか。伯母さんの悪夢は、金霊のせいだったのか」
「その金霊が、お前のもとに戻ってきた。それがいつのことなのかは、はっきりわからん。伯父との電話で許すと言ったとき、つまりお前の側が執着を捨てたときかもしれん。伯父と伯母が金を手放すことを決めたときかもしれん。とにかくお前のもとに帰ってきた。もともとつながりがあるのじゃから、距離など関係ない。まばたき一つのあいだに、ひょいと帰ってきたじゃろう」
「殿村さんと話をしてたときには、もうあそこにいたんだ」
「まちがいなくおった。もしもお前が殿村に対して、金に執着する言葉をはいておったら、さあ、どうなったかのう」
「私もそれを考えると身震いがします」
「じゃが、お前は言うたのじゃな。そこにお金が加わったために、感謝が憎しみに代わり、幸福が不幸に変わるとしたら、それはおかしな話だ。それではお金にも申しわけない。少しでもみんなが幸福になるようにお金を使いたいのだと」
「あれは、すさまじい答えでした。私は感動しました」
「金から自由になった者にしか言えぬ言葉じゃ。まさに最上の答えじゃな。その瞬間、金霊は裏から表に転じたのじゃ。お前が金というものを祝福したからじゃ。じゃから金霊はお前を
そう解説されてみて、自分がどれほど危険なところにいたかがわかった。
無事に終われたのは、ほとんど奇跡のようなものだ。
あらためて、父母に感謝した。
それから、気持を切り替え、殿村さんのほうを向いた。
「殿村さん」
「何かな」
「この機会にお訊きしておきたいんです。俺がこの村に呼び戻されたいきさつを」
「……いつか話さなければと思っていた。今がそのときなんだろうね」
「それはわらわも聞いておきたい」
「わしは寝る」
そう言うと、和尚さんはごろりと横になった。横になっても雄大だ。トドの昼寝といったところか。
「それにはまず、君のご両親が、どうして里を出たのかというところから始める必要がある」
17
君の祖父であられる幣蔵さまは、早くにお父上を亡くされた。突然のことだったので、〈はふり〉の家に伝わる秘儀は、ほとんど受け継ぐことがおできにならなかった。もっとも、その秘儀というものは、千二百年のあいだに徐々に失われてきており、そう多くのものが残っているわけではなかった。それでも、少しでも受け継げるのとそうでないのとは、大きなちがいだ。
結果として、幣蔵さまは、神社のお清めをする以外、〈はふり〉の家の者としてのお務めを果たすことができなかった。呪禁さまは法力であやかしを退治したし、ごくまれに迫る危機から幣蔵さまを守るのは天狐さまの役割だ。だが自分にはできることが何もない、そのことに苦しんでおられた。
もちろん、〈はふり〉の家の血そのものが尊いのであって、その血を継ぐかたがこの里に居続けてくださるそれ自体が役割なのだ。そのことはよくご存じだった。それでもなお、無力感や虚無感のようなものを、お抱えであったと思う。そんなことはまったくそぶりにも出されなかったけれどね。長年近くにお仕えした私だからこそ、感じ取ることができたのだと思う。
ご自身については、それでいいと思っておいでだった。だが、千二百年続いた役割が終わろうとしているときに、ご子息である弓彦さままでが同じ苦しみを抱えることはない、と幣蔵さまはお考えになったのだと思う。言葉にしてそうおっしゃったわけではないが、幣蔵さまの行動から、そう感じられた。
決定的だったのは、君の誕生だ。この輝く新しい命を、この里の役目に縛りつけるべきではない、と幣蔵さまはお考えになったのだ。あのかたが君のことを、どれほど大切に思っていたか、それを伝える言葉を私は持たないが、みているだけでせつなくなるほど、君のことを愛しておいでだった。
だから、鶴枝さまがたまたま妖気に敏感な体質だったことは、いい理由になった。幣蔵さまは弓彦さまに、妻とこどもの幸せのため、里を離れるようお命じになった。
この里の歴史と〈はふり〉の家の使命について、幣蔵さまは弓彦さまに教えておられなかった。だが、弓彦さまは、うすうすおおよそのところは感じ取っておられたのではないか、と私は推測している。でなければ、ほかのことでは幣蔵さまの命令に逆らったことのない弓彦さまが、あれほど里を出るのをいやがった理由が説明つかない。
里を出た弓彦さまと鶴枝さまと君のことを、私は追跡していた。いつでも連絡が取れるようにとね。それに気づいた幣蔵さまは、追跡をやめるようにとおっしゃった。幣蔵さまから受けた明確な命令にそむくわけにはいかない。弓彦さまが住民票を移さずに転居されたのをきっかけに、私は弓彦さまの追跡を一時中断した。
そのことは今でも後悔している。もしもすぐに手を尽くして弓彦さまの動静を把握していたら、あんな過酷な労働を続ける弓彦さまをお助けすることもできたかもしれない。いや。こんな仮定は弓彦さまにも君にも失礼だな。とにかく、弓彦さまの暮らしぶりについて、私は一時期まったく知らなかった。だが、いずれ時がくればいつでも探し出せる自信があった。
遺産のことについては、幣蔵さまは何度も何度も私にお命じになった。自分の死後、弓彦さまを探し出してきちんと相続させるようにとね。その段取りが整っていることを、何度も私に確認なさった。
今話しながら、ふと思ったんだが、幣蔵さまが弓彦さまとの連絡を途絶えさせたのは、ご自分の体力の衰えと関係があったのかもしれない。ご自身がお倒れになったとき、連絡がつく状態であれば、弓彦さまはこの里に帰ってきてしまい、自らを縛り付けてしまうという不安があったからかもしれない。
あるいは、連絡がつく状態であれば、ご自分自身が弓彦さまに、帰ってきてくれと頼んでしまいそうなので、あえて連絡先も知らない状態にしたのかもしれない。
とはいえ、幣蔵さまは、この里の使命はもうまもなく終わると信じて、この十数年を過ごしてこられたから、こうした推測はまちがっているかもしれないけれどね。
事情が変わってきたのは、この数年だ。もうとうに迎えているはずの満願成就の日が来ない。これは、呪禁さまや天狐さまにはおわかりになりにくいことだろうけれども、日に日に老いてゆくみずからの寿命をみつめながら、幣蔵さまの心では、段々不安が大きくなっていったんだ。
何事もご自分で決めて命令するだけだった幣蔵さまが、私にいろいろな点で意見を求めるようになられた。
実は私は、弓彦さまを外に出すのには反対だった。里の暮らしには自由がないなどということはない。本質的な自由など、どこに行けば手に入るというものではなく、どこにいては手に入らないというものでもない。そして何より、弓彦さまには、満願成就の日をみとどける義務があると信じていた。
それは素晴らしいことだと思う。千二百年のあいだ、大切なお役についてきた一族の子孫が、ついに営々と続けられてきた努力が結実する瞬間をみとどけられるのだ。誇っていいことだ。その時代に居合わせながら、その場面をみとどけないとしたら、あの世に行ってからご先祖さまがたにどう言いわけできるだろう。
幣蔵さまは、胸を張って弓彦さまに、その瞬間をともにみまもろう、と言うべきだったのだ。きっと心のなかでは弓彦さまも、そう言われたいと願っていたはずだ。これは推測にすぎないが、弓彦さまは、どこにいても長く定着するような暮らしをされなかった。それは、いつでもここに帰って来られるようになさっていたのではないかと思う。
そういう意見を私は申し上げた。そしてまた、お孫さんである君にも、この里をみせるべきであり、この里の空気を味わわせるべきであり、歴史的瞬間に立ち会わせるべきだ、と申し上げた。君の体に流れる血が、そのことを喜ばないはずがない、と申し上げた。
この意見には、幣蔵さまは大いに心を動かされたようだった。そしてまた君をこのうえなく愛しておられたから、どんな理由をつけてでも君をこの里に迎えたいという気持もお持ちのようだった。しかし同時に、ご自分のわがままで君の人生をゆがめてはならないとも考えておられた。これははっきりと言葉にしておっしゃったことがあるので、まちがいのないことだ。
そんな幣蔵さまが、昨年の暮れ、老齢と病のため、お倒れになった。私は申し上げた。今こそ弓彦さまを呼び戻されるべきですと。だが幣蔵さまはうなずかれなかった。もうまもなく満願成就の日は訪れるはずであり、自分が死んだからといって、その悪影響が現れるのは何十年も先になるだろうから、弓彦を呼び戻す必要はない。そうおっしゃった。あやかしの出現が減っていたから、その言葉には反論できなかった。まさか平穏さの背後で妖気を吸い取っている者がいるなど、そのときには想像もできなかったのだ。
私は独断で、弓彦さまの行方を捜した。そして四年も前に亡くなっておられることを知って愕然とした。その時点では君が伯父夫婦のもとに引き取られているという程度のことしかわかっていなかった。私はそうした事実を幣蔵さまに告げた。
幣蔵さまは大変な衝撃を受けられた。そして、君の生活を応援するために金銭の援助をするよう私に命じられたのだ。
私ははじめて幣蔵さまの命令を拒否した。なぜなら、その金銭の援助が本当に君の助けになるかどうかわからなかったからだ。私の説明を聞いた幣蔵さまは、それはもっともなことだとご理解なさり、君の生活ぶりを調べるよう命じられた。
君が学費を稼ぐために、勉強する時間もないほどアルバイトに明け暮れていて、それでもなお、京大合格確実というほどに学力をつけていることを知って、幣蔵さまはお泣きになったよ。
私にはいくつも不審な点を感じたので、弓彦さまの死亡事故のことを調べた。事故そのものは不幸な偶然としかいいようのないものだとわかったが、弁護士の立場を利用して事故相手の勤務先を調査し、多額の見舞金という名目の和解金が出ていたことを知った。そのほか、君がきわめて不誠実かつ不当な仕打ちを受けていることがわかった。
幣蔵さまは憤慨なさった。しかしそれでも、君を呼び寄せようとはなさらなかった。そうではなく、君の望む進学ができるよう取りはからえと、お命じになった。どこかマンションを借りて自立させ、伯父夫婦とは手切れさせて、充分な生活費と学費を援助するようにとね。どのみち、幣蔵さまがご帰幽になられたら、遺産はすべて君のものだ。ほかに受け取るべき人はいない。
だが、この時点で京大の入試は、すでに終わっていた。不合格でしたとご報告したとき、幣蔵さまは、またもお泣きになった。
今こそ君を里に迎えるべきだと、私は勧めた。だが幣蔵さまには、別の不安ができてしまった。君にきらわれてしまうだろうという不安だ。君の立場からしてみれば、幣蔵さまは、弓彦さまと鶴枝さまと君を里から追い出した人であり、その後まったく援助も与えなかった人だ。弓彦さまが亡くなられたときも、葬儀にさえ顔を出さなかった人だ。その後君が苦しんでいるのに、助けの手を差し伸べようとはしなかった人だ。わずかな援助があれば、君は実力を発揮して京大に合格できていただろう。死期が近づいているからと、今さら相続人である君を呼び寄せようなどとすれば、ひとでなしだと思われてもしかたがない。幣蔵さまは、君に軽蔑されることを恐れたんだ。
私からの相談を受けて、呪禁さまも天狐さまも、君を呼び寄せるべきだと幣蔵さまを説得したが、幣蔵さまはうなずかれなかった。だが、財産の相続の手続きと、死後の不動産等の管理については、私の助言を受けて、取り運びを進めてくださった。
危篤となられた幣蔵さまに、私は申し上げた。君に遺産を譲るについて、一時期でいいからこの里に住むことを条件とするべきです、と。
「ああ、ええなあ。それがええなあ。鈴太がここに住んでくれたらなあ。できれば乾物屋も継いでほしいけどなあ。天子さんがついておってくれるからなあ」
私は、ではそれも幣蔵さまの意志としてお伝えします、と約束した。
呪禁さまと天狐さまと私がみまもるなか、幣蔵さまは最後に君の名を呼んで、神様のみもとに帰られたよ。
天狐さまは、ただちに君を呼び寄せて葬儀の喪主を務めてもらうと決断され、そのことを取り進めるよう私に命じられた。
君にはじめて電話するときには、いささかとまどった。私は以前から君のことを知っていたし、みかけていたからね。だが、前から知っていたと言うわけにもいかない。だから、最初の電話のとき、少々奇妙な物言いをしたような気もする。それからまた、幣蔵さまが、君やご両親の事情を知って放置していたと思われると困るので、ご両親の死や君の近況をいつ知ったかについては、少々矛盾する説明をしてしまったように思う。
君がこの里に来て、喪主を務めてくれて、幣蔵さまはきっと喜んでおられると思う。私は遺産のことについて、わざと最初は説明しなかった。遺産の大きさが君の心をゆがめるかもしれないと危惧したからだ。喪主を務めきったようすをみとどけてから、注意深くその情報を君に与えていった。君の反応は好ましいものだった。しばらく生活して里の空気になじんだら、実は移住の条件はもう果たされたので、今後はどこに行ってもいい、と告げるつもりだった。
その後の君のありようは、私の想像をまったく超えたものだった。何の知識も技術も持たず、それどころか自分がどういう使命を持つ一族の末裔であるかも知らないまま、君は〈幽谷響〉を鎮め、〈ぶらり火〉を鎮め、大塚野枝氏に取り憑いた妖気を、呪禁さまにも天狐さまにも実行不可能な方法で浄化し無垢な赤子に変えてみせた。君の働きをみて、幣蔵さまがどんなに喜んでおられるかと思うと、なぜか私も誇らしい気持になる。
あらためて、鈴太くん。よくぞこの里に戻ってきてくれた。よくぞ自分に起こる理不尽から逃げず、立ち向かい、最良の、いやそれ以上の結果を出してくれた。君のような人が〈はふり〉の家の役割を締めくくってくれることを、私は深く感謝している。
18
この人の言葉に嘘はない、と思った。
じいちゃんが、父さんや母さんや俺のことを思ってくれていた思いの深さを知って、俺は新しい涙を流した。
天子さんも、不明だった点が明らかになって納得したようすだった。
話が終わると和尚さんがむくりと起きた。たぶん寝ながらも、ずっと話を聞いていたように思う。
和尚さんと天子さんと殿村さんは相談事があるというので、俺は一人で乾物屋に帰り、注文の品を配達して、夕食を済ませ、風呂に入り、神様のお社とご霊璽を拝んで寝た。
翌日、神社の掃除を済ませて帰ってくると、天子さんが朝食の準備を済ませて待っていてくれた。そのことが、何ともいえず幸せだった。
朝食のあと、童女妖怪が〈探妖〉を行った。
「あ。妖気の抜けた溜石が五つになってます! そして五つ目の溜石の近くに、強力な妖怪が出現してますです! 妖怪の名は……」
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