第3話 ふらり火

1


 転輪寺にお酒の配達に来た。

 最初のころは、毎日一升瓶一本ずつ注文があったので、毎日来ていた。

 たぶん和尚さんは、注文にかこつけて、俺のようすを気にかけてくれてたんだと思う。その証拠に、ある時期から、お酒の注文は、六日に一度、一升瓶六本ずつになった。もう六日に一度顔をみられればいいということなんだろう。

 お寺の門をくぐったところで、ばったり知り合いにあった。

 弁護士の殿村さんだ。

 殿村さんは、俺がここに移住したあとは、毎週のように電話をくれて、近況を訊いてくれた。一か月めには、わざわざ足を運んでくれた。その後、電話の頻度は落ちたけど、今でも俺を気づかってくれてる。忙しい人で、いっぱい仕事を抱えてるだろうに、おじいさんからの依頼は特別に大事にしてくれてるみたいだ。

「ああ、鈴太くん。これから君のところに行こうと思ってたんだ。配達かい? それならここで待ってるよ」

 俺が配達を終えるまで、門のところで待っててくれて、そのまま一緒に乾物屋に来てくれた。

 奧に上がった殿村さんは、お社とご霊璽に拝礼して、正座したまま体の向きを変え、俺と向き合った。

「鈴太くん。大事な話がある」

「はい」

「君のお父さんとお母さんが亡くなられたとき、保険金が下りていた」

「え?」

「保険金は、車の事故にかけていたものと、生命保険と、二種類だ。金額は確認していないけれど、一千万円以上であることはまちがいない。そのほか、事故を起こした相手側の会社から、見舞金の名目で二千万円が出ている」

「はじめて知りました」

「そこが問題なんだ。伯父さん夫婦が受け取っている。君の親権者としてね」

「しんけんしゃ」

「親代わりの義務と権利を持つ者、という意味だ。この保険金を奪い返す手続きをとってもいい。というより君にはその権利がある。だが、私の意見を聞いてもらえるかな」

「もちろんです」

「君が成人するまで、その手続きをするのはみあわせてほしい」

「それはかまいませんが、どうしてです?」

「私は故羽振幣蔵氏の遺言によって、羽振家直系の子孫である君の財産を管理する立場にある。ただし、正式に裁判となった場合、親権とのからみで、その立場が微妙になることもないとはいえない。その事態は絶対にさけたいんだ」

「つまり、伯母さんが、こっちの財産に手を出してくるというか、手を出せる可能性がある、ってことですね」

「伯母さん限定なのか。まあ、そういうことだ。低い可能性なんだけどね」

「殿村さんのご意見に従います」

「ありがとう。信頼してもらえると、とてもやりやすい。ただ、その場合、あとで手続きをしたとして、全額はもどらない可能性がある」

「ああ、使い込んじゃった場合ですね」

「そういうことだ。それでも、まったく取り返せないということはない。いずれにしても、保険金と見舞金を足したところで、羽振家の資産からいえば微々たるものだ。とはいえ、君のご両親の命と引き換えに君が得たお金なんだ。伯父さんと伯母さんは、正しくない方法でそれをわが物にしている。それがこのままでいいとはいえない」

「そのことは、俺が成人したら、また考えることにします。教えてくださって、ありがとうございます」

 隣の部屋にいた天子さんには、この会話が聞こえていたはずだけど、何も言わなかった。

 夜になって布団に入ったとき、もやもやとした気持が湧いてくるのを押さえられなかった。

 保険金?

 見舞金?

 何千万の?

 そんなものがあることを、教えてももらってなかった。

 そのことがくやしかった。

 伯母さんに対する憎しみがわいた。だけど人を憎むのはいけないことだ。憎んでも何にもならない。自分の心がささくれたつだけ、こちらが損をする。

 そう自分に言い聞かせて、憎しみともやもやを、心の底に押し込めた。


2


 翌日、朝食をすましてまったりしていると、駐在さんの平井ひらいさんが巡回してきた。

「いやあ、昨日夜も、ぼや騒ぎがあってのう」

 平井さんは、上がりかまちに腰を下ろし、汗を拭きながらながら言った。

駒田こまだのとこじゃ。奥さんがみつけて消化器で消したから、大事にならんですんだ。ほんまによかった」

 天子てんこさんが、お盆に麦茶を乗せて奧から出て来た。

 平井さんの前にお盆ごと置いたんだけど、しぐさが奇麗だ。

 こういうのみてると、天子さんは、やはりおとなの女の人なんだと思う。

「いやいや、すまんのう、天子ちゃん」

 顔をくしゃくしゃにして笑う平井さんは、ほんとに人のよさそうなおっちゃんだ。

 でも、黙ってると、やせぎすで筋張ってて、ちょっと怖い。駐在さんやるより、任侠方面に進んだほうが、人相には合ってたと思う。

「先週も、なんか似たようなこと、ありましたね」

 俺がそう聞くと、平井さんはこちらに向き直った。その顔、やめてくれ。まじめ顔になると、正直怖い。

「そうじゃ。新居あらいんとこからぼやが出た」

「ああ、そうそう、新居さんとこでしたね」

 新居達成たつじょうさんは、気弱そうな笑顔が印象的な、すごくおとなしそうな人だ。あれで三十歳近いっていうんだから、びっくりだ。結婚してて、奥さんは、すごくこじんまりした、かわいい人だ。お似合いのご夫婦だと思う。

「達成のやつは、居間でテレビみとったら、急にカーテンが燃えたゆうとったけど、そげんばかなこたあねえわなあ。ありゃあ九分九厘、たばこの火の不始末じゃろう」

「それなら、わざわざおぬしに届け出たのは、なぜじゃ」

 天子さんが話しかけたので、平井さんはにこにこ顔で振り返った。

「いや、そりゃ、豪造ごうぞうの手前、そうせにゃあおえんかったんじゃ」

「豪造さんて、達成さんのお父さんですよね」

「そうじゃ。義理のじゃけどな」

 だから、こっち向くときはまじめな顔するの、やめて。怖いから。

「え? 実の親子じゃないんですか」

「豪造にはこどもがなかったけん、達成が七歳ぐらいじゃったかに、もらい子にしたんじゃ。達成からすりゃ遠慮もある。豪造はあの通り、きつい性格じゃけんなあ」

 つまり、自分のたばこの火の不始末でカーテンを燃やしたけど、自分の不始末とはいえなかったので、知らないうちに燃えたと家族には話した。そんなら駐在さんに届けなきゃあということになって、今さらほんとのことは言えなくなって、不審火だと届け出たと、そういうことなんだろうか。

「現場検証はしたのであろうな」

「天子ちゃん、むずかしいこと知っとるんじゃなあ」

 へにゃりと顔が崩れた。なんで天子さんには、こんな笑顔を向けるんだろう。

「もちろんしたよ」

「カーテンが燃えたというが、いきなりカーテンが燃えるのはおかしい。ゴミ箱は燃えておらなんだか?」

「カーテンのほかには、何も燃えちょらんかった。しかもカーテンも、下側から火が移った感じじゃのうて、真ん中へんから燃えとった」

 ということは、出火の原因となった何かが、直接カーテンにふれたということだ。だけど、たばこの火から、そんなに簡単に燃え移るものなのかな。まあ、燃えやすい素材もあるのかもしれないけど。

 平井さんは、そのあともいろいろ話をして、麦茶のお代わりを飲みほすと、駐在所に帰っていった。


3


「天子さん。変な話だね」

「面妖じゃな」

「めんよう、ってどういう意味だっけ?」

「不思議な、という意味じゃ。むかしは、めいよう、と言っておった」

「へえ」

 天子さんは、むかしのこととか、すごく詳しい。物知り女子だ。

 ほんとに妙な話だった。

 昨日あったという駒田さんの家のぼや騒ぎだけど、場所が普通じゃない。いや、普通のぼや騒ぎに詳しいわけじゃないけど。

 二階だったそうだ。二階の物干し場で涼んでいたら、手すりに置いたうちわが燃えたというのだ。奥さんである成子しげこさんの目の前で。びっくりして悲鳴を上げ、それを聞きつけたご主人が事情を聞き、事件かもしれないと思って、夜だけど駐在さんに連絡したというわけだ。駐在の平井さんは、自宅に帰ってたけど、電話は転送されるようにしてたんだそうだ。それで、急いで着替えて駆け付けた。

 奥さんはしらふだったそうだ。そして奥さんもご主人も、たばこは吸わない。奥さんが自分で火をつけたとしか思えない状況だ。だけど平井さんによると、茂子さんはまじめでしっかりした人で、その証言は疑えないらしい。

 けど、何もないのに突然発火するなんてことがあるだろうか。

 もしかして、発火能力者?

 なわけはないか。

「どこからか火の粉が飛んできたり、なんてことはないかな?」

「さあのう。まったくないともいえんであろうな。夜に花火をしていた者がおったか?」

「うーん。俺は気づかなかったなあ。でも自分の家の庭で、打ち上げ花火じゃない花火をしてても、わからないだろうね」

「それはそうじゃの。何にしても家もやけず、誰も怪我もせんかったのじゃ。そこはよかったといわねばならん」

「そうだね。ところで、昼ご飯、何が食べたい?」

「洋食がよいのう」

「りょーかい」

「スープつきでの」

「らじゃー」

 それっきり、俺は二件のぼや騒ぎのことは忘れた。

 まさか三度目があるとは思わなかったんだ。

 しかも自分がその目撃者になるなんて、まったく想像もしてなかった。


4


 平井さんから二件のぼや騒ぎのことを聞いた二日後の夕方、足川たるかわの奥さんから電話がかかってきた。大至急お醤油がいるので、申しわけないが配達してもらえないか、という電話だった。奥さんは、ちょっと足の具合が悪い。年齢も若いとはいえない。ここはお役に立たなくちゃいけない場面だ。

「毎度ありがとうございます! もちろん、いいですよ。すぐ行きます」

 田舎では、夜になると暗くなる。羽振村には、街灯も少ないし、煌々と電気をともしたコンビニもない。家々の明かりも、どこか遠慮がちだ。

 だけど、星が明るい。

 これは実際にみてもらわないと話が通じないと思う。とにかく、たくさん星が出てて、しかもすごく強く光ってるんだ。空のなかにぽつぽつ星があるんじゃなくて、星の隙間に夜空がある感じだ。

 どうしてこんなに星が奇麗なんだろう。空気が澄んでいるからだろうか。

 ここに天文台を作ったら、よく観測できるんじゃないかと思う。

 星々に照らされた三山みやまも奇麗だ。

 暗いんだけど、まっくらじゃなくて、何かいろんな色が混ざった暗さなんだ。そして闇のなかで星明かりに応えるように、まるで生き物のような存在感を放ってる。あの三つの山にも、いろんな生き物が住んでいて、こうしている瞬間にも、生きるための営みをしてるにちがいないんだ。

 そんなことを考えながら自転車を走らせていたら、足川さんの家がみえてきた。

 あ、奥さんが玄関の外に出てきた。

 俺は自転車のペダルをこいで坂道を上りながら、奥さんに会釈した。

 奥さんは右手を小さく上げて、何かを言おうとした。

 そのときだ。

 ぽわっと小さな炎が現れた。

 何もない空中にだ。

「ひ、人魂っ?」

 俺は思わず声を上げた。

 人魂というのがどんな形をしてるのか知らないけど、ほかに言葉を思いつかなかった。だけど、そう声を上げたあとで、火の玉と呼んだらいいんじゃないかと思いついた。火の玉は、奥さんの顔の真正面二メートルぐらいのところに出現し、ぷかぷかと浮かんでいる。

 俺は五メートルほど手前に自転車をとめて、呆然と火の玉をみていた。

 奥さんは、その怪奇な現象にちょっとびっくりしたみたいだけど、そのあとは、怖がってるようすもなく、じっと火の玉をみている。

 最初はじっと浮かんでいた火の玉なんだけど、段々と右に左に、上に下にと、ちょこちょこ移動しはじめた。まるでいらいらしてるみたいに。

 そのうち、炎がぶあっと大きくなった。これは危ないんじゃないかと思った俺は、奥さんに注意しようとした。

 出ない。

 声がでない。

 それどころか、体が動かない。

 もしかして、金縛り?

 いや、金縛りというのは血液中の糖分がなくなったら起こるんだ。さっき晩ご飯食べたばかりだから、そんなはずはない。それともこれは、そうじゃない金縛りなんだろうか。

 このときになって、やっと俺は、二件のぼや騒ぎのことを思い出した。大きな火事にならなかったからよかったけど、ひとつまちがえば大変なことになっていたんだ。そして今目の前に起きていることが、大変なことにならないとは限らない。

「あ、危ないですよ!」

 声が出た。

 その声を聞いて、奥さんが俺のほうに振り返った。

 そして火の玉も振り返った。

 いや、火の玉に裏と表があるのかとか、どうして振り返ったことがわかったんだとかいわれたら困るんだけど、とにかくそんな感じがしたんだ。

 気のせいか、火の玉のなかに、顔がみえるような気がした。そしてその顔は、とても悲しそうな表情をしているような気がした。

 ふるふるっ、とふるえて、火の玉は消えた。

 あとには無言の空間と、奥さんと、俺が残された。

「あ、あの。お醤油、持って来ました」

「あ、ありがとう」

 なんて間の抜けたことを言うんだろうと、自分にあきれたけど、ほかに言うべき言葉が出てこなかった。

 俺はお醤油を差しだし、奥さんは受け取った。

「あ、あの」

「なにかしら?」

「怖く、なかったですか?」

 奥さんは、しばらく考えてから、こう言った。

「そうね。怖くなかったわ。なぜかしら。でも、何となく、とても懐かしい感じがしたの」


5


 翌朝やって来た天子さんに、この話をすると、それは、じゅごん和尚の領分だからというので、二人で転輪寺てんりんじに向かった。

「そりゃあ、ふらり火じゃのう」

「ふらり火」

「思いを残して死んだ人の思いが、陰気に取り込まれ、炎をまとって現世に現れるのがふらり火じゃ」

 あ、やっぱり人魂だったんだ。

「危険なことはないんですか?」

「危険なふらり火もある。強い恨みを残して死んだものがふらり火になると、大火事を起こして相手に復讐する」

「危険じゃないですか!」

「じゃが、昨夜足川未成みなりのところに出たふらり火は、今聞いた話の限りでは、復讐をしようとしているわけではないようじゃな」

「ほかの場合はどうなんでしょう。ぼや騒ぎにはなってますが」

「ぼや騒ぎ?」

 俺は、じゅごん和尚に、二件のぼや騒ぎについて、説明した。

駒田成子しげこに、新居達成に、足川未成じゃと? みんな佐々さっさの一統じゃのう」

「佐々?」

「佐々耀蔵を知らんか? 乾物屋からは少し遠いのう。バス停の前の家じゃ」

 この村にはバス停があり、朝と夕方にそれぞれ、最寄りの地方都市とのあいだを二往復する。村のなかには幼稚園はあるけど、小学校も中学校も高校もないから、学生にとってはバスは重要な通学の手段だ。片道一時間というと大変なように、俺は感じるけど、みんな当たり前のように思っているようだ。

「ようぞうさん、ていうんですか。佐々さんは知ってます」

鳥居耀蔵とりいようぞうの耀蔵という字を書くんじゃ」

 鳥居耀蔵。

 江戸時代の南か北か忘れたけど、町奉行をした人だ。すごく陰謀をめぐらす人で、厳しい取り締まりをしたから、〈妖怪〉なんて呼ばれてたらしい。ある漫画では、鳥居耀蔵は実は拳法の達人で極悪非道なことをして部下に裏切られて殺されちゃうけど、史実では、江戸を追放されて四国のほうに行って、すごく優しい人になって領民に慕われたんじゃなかったっけ。中島みゆきの小説でも、鳥居耀蔵のそのころを扱ってたと、むかしバイトしてたコンビニの店長が言ってた気がする。あ、中島みゆきは歌手か。作家の人は何て名前だっけ? 中島らも? ちがうな。

「駒田成子は、耀蔵の娘。新居達成は、耀蔵の弟。足川未成みなりは、耀蔵の妹じゃ」

「ええっ?」

 鳥居、じゃなかった、佐々耀蔵という人には、妹が一人と、娘が一人と、息子が二人いたそうだ。

 妹の成子さんは、足川家に嫁いで足川未成という名前になった。

 長男は、三成みつなりさんといい、東京で働いているという。村を出るとき耀蔵さんとけんかをしたらしい。たぶん勘当されたような格好で出ていった。耀蔵さんに三成さんのことを聞いても、まったく返事をしないらしい。

 次男は、こどものころ新居家に養子に行った。新居達成さんだ。新居家というのは、もともと佐々家の分家だったそうだ。

 そして娘は駒田家に嫁いで、駒田成子となった。

 でも、そうすると、三つの事件が全部同じ家の関係者に起きていることになる。

「あまり人の家の家庭の事情には首を突っ込まんことにしとるんじゃが、事が妖怪のこととなると、ほってもおけんのう」

「妖怪、なんですか?」

「さっきも言うたように、思いを残して死んだ者の思いが、陰気に取り込まれて生ずるのがふらり火じゃ。陰気というのは、陰性の霊気のことで、妖気というてもええ。ふらり火というのは、もとの魂そのものではのうて、無念の思いが陰気によって具現しておるものじゃ。今は害がないようにみえても、いつ危険なものに変ずるかわからん」

「足川未成さんのところで俺がみたのは、ふらり火だとして、駒田さんと新居さんのは、どうなんでしょう。やっぱりふらり火なんでしょうか」

「わからんのう。じゃが、そうかもしれん。耀蔵に話を聞いてみる必要があるのう」


6


 じゅごん和尚は、なぜか俺を連れて佐々家を訪れた。

 耀蔵さんは、息子と娘がぼや騒ぎにみまわれたと聞くと、ひどく心配そうに事情を聞いていたが、話が足川さんのことに及び、不審な火を俺が目撃したと聞くと、ひどく不機嫌になり、うさんくさそうに俺をみた。

 すごく居心地が悪かった。こんなとこに連れてこないでほしかった。

 じゅごん和尚さんは、耀蔵さんの不機嫌なようすには動じないで、淡々と話を進めた。

「それで聞きたいんじゃがのう。佐々の一統か親しい人で、心残りを抱えて死んだというような者はおらんか」

「和尚! あんた、うちの家にけちをつけに来たんか。心残りを抱えて死んだとは何なら! そげえなもんが、うちにおるわけなかろうが! おかしなこと言うなら帰ってくれ!」

「あんたのところには、奇妙な火の玉は出とらんかの?」

「そげえなもんが出るわけがなかろうが! この科学の時代に、何ちゅうばからしいことを」

「三成は元気にしとるんか?」

 耀蔵さんは、突然黙った。

「一番最近で、消息がわかっとるんは、いつのことかのう」

 耀蔵さんは、じゅごん和尚さんから目をそらし、庭のほうをにらみつけて、黙りこくっている。不機嫌を絵に描いたらこんな感じかというような顔だ。

「耀蔵。三成は……」

「帰ってくれ」

 庭をにらみつけたまま、小さい声で耀蔵さんが言った。

 その顔は、相変わらず怖い表情をしている。

 でも俺には、悲しみをこらえているようにもみえた。


7


 朝食を食べ終わったころ、駐在の平井さんが来た。

 ほんとによく来る。

 そして、天子さんをみては、みっともないぐらいくずれた顔をする。

 もしかして、このお巡りさん、天子さんに……。

 いや、そんなことはないだろう。

 でも、もしかしたら。

「わらわはちと用事がある。午後にまた来る」

 そう言い残して天子さんが出て行くと、平井さんは愕然とした顔をしていた。

「平井さん。お茶、冷めますよ」

「あ、ああ」

 しばらく男二人で渋茶をすすっていたが、できるだけ何げないようすで、俺は訊いてみた。

「平井さん。天子さんをみる目が、とっても優しいですよね」

「あ、わかるかのう」

「そりゃあ、もう」

「いやあ、天子さんはなあ、うちの娘にそっくりでなあ」

「え、娘さんに?」

「ああ。今は岡山市の大きな商店街にある百貨店に勤めとってなあ。寮に入っとるけん、めったに会えん。天子さんと話をしとると、娘が帰ってきたような気になるんじゃ」

 なるほど。

 そういうわけだったのか。

 心のなかでちょっと失礼な想像をしていたことは、永遠の秘密にしよう。

 平井さんが帰ったあと、ひまになった。

 お客さんも来ないし、配達もない。

 ちょっと昼寝でもしようか。

 そう思っていたら、来客があった。

 秀さんだった。

 何を買うでもなく、上がりかまちに腰を下ろし、当然のようにお茶が出るのを待って、じゅるじゅるすすりながらだべった。結局何も買わずに帰ったが、ちょっと引っかかる話をしてくれた。

「秀さんは、艶さん、照さんと仲がいいですよね」

「べつに仲がええわけじゃあねえけど、昔の話ができる人間がほかにおらんけえのう」

「三人は幼なじみなんですか?」

「照とは二つちがいじゃ。艶とは……はて。艶は、どうじゃったかのう。艶がこどものころを、わしゃ知らん。はじめから婆さんじゃったような気がする」

 いや、そんなはずはないでしょうと心のなかで突っ込みつつ、もしかしたらそんなこともあるかもしれないと思った。

 ここは、そんなことがあっても不思議じゃない村なんだ。

 秀さんかあ。

 お秀さんていう手裏剣使いの女の人が活躍する漫画があったなあ。あれは、何て漫画だったか。


8


 翌日昼前に、意外な来客があった。

 新居達成あらいたつじょうさんだ。

 おどおどしたようすが何だかおかしい。

 達成さんは、家に配達に行ったときに会ったことはあるけど、この店に来たことはない。

 そんな達成さんが、しかもこの時期に俺を訪ねてくるなんて、ふらり火の関係の用事なんだろうな。

 と思ったら、やっぱりそうだった。

 じゅごん和尚は、佐々耀蔵さんを訪ねたあと、達成さんを訪ねていたんだ。

 和尚の話を聞いて、達成さんは、やっぱり、と思ったそうだ。

「兄さんの声が聞こえた気がしたんです。だけど誰もいない。兄さんかい、って暗がりに向けて話しかけても返事がない。そんなことをやってたら、急にカーテンが燃えたんです」

 つまり、達成さんには、ふらり火はみえなかったんだ。

 こういうのって、みえる人とみえない人があるものなんだろう。

 俺はみえる側。未成さんもみえる側。そして達成さんはみえない側っていうことになる。

持言じごん和尚さんの話を聞いて、成子姉さんと、未成叔母さんに、話を聞きに行ったんです。そしたら」

 ん?

 今、〈じごん和尚〉って言わなかった? 〈じゅごん〉じゃなくて。

「じごん和尚ですか? じゅごんじゃなくて」

「え? 食いつくとこ、そこですか。ええっと、和尚さんのお名前は、〈持つ〉っていう字と〈言葉〉の〈こと〉で、持言和尚だと思いますけど」

「そうだったんですか! みんなが〈じゅごん和尚〉って発音するもんだから、〈じゅごん〉なんだと思ってました」

「まさか、はは。そんな海生哺乳類みたいな名前で檀那寺の和尚さんを呼びませんよ」

 そーですよねー。

 そうか。持言和尚か。覚えとこう。どういう意味なんだろう?

「すると、成子姉さんも、火の玉を、ふらり火ですか? ふらり火をみたっていうんです。それで三人で、昨日、父のところに行きました」

 父っていうのは、耀蔵さんのことだろう。で、足川未成さんと駒田成子さんと新居達成さんがそろって、耀蔵さんの家に行ったと。

 しばらく世間話をしてたら、耀蔵さんのほうからふらり火の話を出したそうだ。お前たちのところにも、ふらり火が出たのかって。

「お前たちも、っていうんですから、父のところにも出たっていうことでしょう。もうびっくりして、お互いに事情を話し合ったんです」

 どうでもいいけど、達成さんは、俺より十歳は年上だと思うんだけど、なんでこんなに丁寧な口調なんだろう?

「私のところが最初じゃなかったんです。その三日ほど前に、父のところに兄は現れてたんです」

 その夜、耀蔵さんは、庭に人の気配を感じたんだそうだ。それで思わず、〈三成か? 帰ってきたのか?〉と話しかけた。だけど返事はない。それでもやっぱり人の気配があるので、耀蔵さんは、何度も話しかけた。そのうちに急に、庭の柿の木の葉っぱが、少し燃えた。燃え上がるほどじゃない。ほんの少し焦げるぐらいにだ。そしてそれっきり、誰かがいる気配は消えちゃった。

「父は、兄に何かがあったんじゃないかと心配になって、それから毎日、いらいらしてたそうなんです」

 俺は急に思い出した。そういえば和尚さんと二人で耀蔵さんを訪ねたとき、耀蔵さんは話の途中で庭のほうをにらみつけてた。あれは、庭の柿の木をみつめてたんじゃないんだろうか。

「あの柿の木は、以前はおいしい柿が成ってたんです。三成にいさんが採ってくれて、よく二人で食べました」

 成子さんと未成さんと達成さんは、仲が悪いわけじゃないけど、それほどすごく仲がいいということもないらしい。

 ところが三成さんは、成子さんとも未成さんとも達成さんとも、すごく仲がよかった。みんなそれぞれたくさん思い出があるらしい。

 だから、三成さんが音楽の仕事をしたいって言って、耀蔵さんに勘当され、一人で東京に出て行ったのを知って、三人はさんざんに耀蔵さんを責めたらしい。それからというもの、三人は耀蔵さんと疎遠になり、昨日家を訪ねたのは、本当に久しぶりだということだ。

「それで、兄さんは今どうしてるんだ、今どこにいるんだという話になって、父が一枚の葉書をみせてくれたんです」

 その葉書を達成さんは、俺にみせてくれた。

 差出人の住所をみて、俺は思わず、あっ、と声を上げた。

「俺が東京で住んでた場所の、すぐ近くだ」

「やっぱりそうですか」

 今朝、達成さんは、転輪寺に行って、じゅごん、じゃなくて持言和尚さんに会ったそうだ。そしてこの葉書をみせたら、これは鈴太が住んでおったという地名とよく似ている、と言われた。そこで、俺に会いに来たというわけだった。

「もう三年以上、音沙汰がないんだそうです。この場所に行ってみたいんですが、とても一人では……。鈴太さん。ご無理を承知でお願いします。一緒に東京に行ってくれませんか?」

 その後切々と、達成さんは、三成さんを心配する心のうちを語ってくれた。

 そりゃあ、大好きなお兄さんが音信不通となったら、心配だろうな。

 しかも、故郷で、一番親しかった人たちのところに、奇妙な出来事があった。ふらり火と呼ばれる妖怪が出たとしか思えない出来事だ。そして、ふらり火というのは、この世に強い思いを残した人の、その思いから生ずるんだという。

 お兄さんに何かあったんじゃないかと、思えてしかたない。

 その気持ちは、ほんとによくわかる。

 どうせ俺は、時間の自由が利く生活をしてる。店をほってはおけないけれど、天子さんに留守をお願いできるなら、三日や四日、達成さんに同行することは何でもない。

「天子さん。申しわけないんだけど、三日か四日、留守にしていい?」

「よいとも。必要なだけ留守にするがよいぞ」


9


 翌朝、早便のバスで村を出た。

 バスが出発するとき、ふと佐々家のほうをみたら、耀蔵さんが庭側のサッシを開けて、立ったままバスのほうをみている。思わず会釈した。

「達成さん、耀蔵さんがみおくってくれてますよ」

「えっ? あ、ほんまや」

 達成さんは、とっさの場合には岡山弁が出るようだ。

「そんなことする人じゃねえんじゃけどなあ」

「東京に三成さんを探しに行くって話、しましたか?」

「いや。私はしてないです」

 あ、標準語もどきに戻った。

「けど、叔母さんと姉さんには、昨日きにょう晩、電話して、今朝の早便のバスで東京に行くということと、案内役で鈴太さんがついて来てくれるという話はしました。父さんに話すとしたら、叔母さんかでしょうか」

 もしかして達成さんは、〈きにょう〉というのを標準語と思ってるんだろうか。それとも、〈きのう〉と発音しているつもりで〈きにょう〉と発音してるんだろうか。どっちにしても、おもしろいからそのままにしとこう。

 バスのなかは、小学生が一番多く、中学生がその次で、高校生が一番少ない。そのほか、お勤めに行く人も何人か乗ってる。

 達成さんは、やたらと気を遣ってくれた。バスを乗り換えるときも、お菓子やら飲み物やら、果ては漫画雑誌まで買ってくれた。岡山駅に着いたときも、まず新幹線の指定席を買ってくれて、それから駅弁を買ってくれた。

「この駅ならではの駅弁ってありますか?」

「うーん。祭り寿司でしょうか」

 祭り寿司は、まあまあおいしかった。


10


 東京駅に着くと、達成さんは、急に挙動不審になり、俺の背中に隠れるようにして、あちこちをみまわしていた。

 山手線で池袋に行き、私鉄に乗り換えて、四つ目の駅で降りた。

 わずか三か月まで住んでた町なんだけど、なんだかよそよそしい感じがした。それでも、行きつけの喫茶店や書店をみると、すごく懐かしい気分になった。

 葉書を頼りに、三成さんの住んでいたアパートを探す。時々電柱に貼ってある住所表示で位置を確認する。

 そもそも、羽振村を出る前に、グーグル先生に住所の位置は教えてもらってたから、だいたいの場所はわかってる。

 あ、やっぱりここだ。

 グーグルマップをみて、そうじゃないかとは思ってたんだ。

 行きつけの居酒屋の隣だ。

 バイト代が入ったとき、この居酒屋の昼定食のカツ丼を食べるのが、最高の贅沢だった。懐かしいなあ。まだランチタイムだから、新幹線のなかで祭り寿司を食べたんでなきゃ、ここでカツ丼を食べたんだが。失敗したな。

 さて、確かに住所の場所に来たんだけど、アパートがない。

 ここにアパートなんかあったかなあ。どうだったっけ?

「鈴太さん。ここですよね? 地図の場所、ここを指してますよね」

「ええ。でも、アパートがないですね」

「アパート、どこに行ったんでしょう?」

 いや、アパートがどこかに行ったりはしないと思う。

 うん。

 こういうときは、知ってる人に訊くべきだ。

「達成さん。この店で訊きましょう」

「えっ?」

 とまどっている達成さんにかまわず、俺はのれんをくぐって店にはいった。

「らっしゃい! お、久しぶり」

「お久しぶりです」

 ランチタイムは夜に比べれば店員さんが少ない。その店員さんのなかで一番若い人が声をかけてきた。この人が実は店長さんなんだ。

「今日はお客じゃないんです。あのですね、この葉書の住所みてもらえますか。このアパート、ないみたいなんですけど」

「あ、これね。覚えてない? 前は隣にあったんだよ。だけど、持ち主が死んじゃって、あとを継いだ息子が売り払っちゃってね。今はビルが建ってる。前は木造の二階建てのアパートだったよ。角の所に松の木が立ってた」

 そう言われて思い出した。前は確かにアパートがあった。それに、ビルを建てる工事をしてるときも、何度も前を通ったんだった。

「アパート取り壊したのって、いつごろでしたっけ?」

「うーん。二年ぐらい前だったかなあ。今のビルができてからは一年ちょっとだよ」

 つい先ほどまでは、この住所に行けば、三成さんに会えるものと思ってた。もし引っ越ししてたとしても、問い合わせればゆくえはわかるだろうと思ってた。ところが手がかりが切れてしまった。

 俺は呆然としたけれど、すぐにあることを思い出した。

「そうだ! 達成さん。写真を。三成さんの写真を持って来てましたね?」

「えっ? ああ、持って来てます」

「出して」

「はい」

 だからどうして年下の俺に、そう丁寧なの?

「店長さん。この人は新居達成さんといいます」

「は、はじめまして」

「こんにちは」

「この写真みてください」

「うん。この写真の人がどうかしたの?」

「写真の人は、達成さんのお兄さんなんだけど、音信不通になっちゃったんです。それで岡山のほうから探しに来たんです。隣がアパートだったときに住んでたんで、この写真は十年ほど前のものらしいけど、店長さん、みおぼえないですか?」

「うーん。うん? ああ、この人。覚えてるよ。もっと髪を伸ばしてたけどね。時々夜来て、日本酒を飲んでた。楽器のケースのようなものを、いつも持ってたような気がする」

「やっぱり。こんなに安くてうまい店の隣に住んでて、来ないわけないと思った」

「うれしいこと言ってくれるねえ」

「それで、この写真の人を、最後にみかけたのはいつですか?」

 店長さんは、ほかの店員さんも呼び集めて、そのことを訊いてくれたけど、誰の記憶もはっきりしないようだった。ただ、アパートが取り壊される直前までは、時々この店で飲んでたようだ。

「この人がどこに行ったかなんて、わからないですよね」

「うーん。あんまり長居をしない人だったし、ほとんど話をしたことはないんだ。お役に立てなくて、悪いね」

「アパートの大家さんの息子さんて人の連絡先とか、わからないですよね」

「わからないなあ」


11


 その後、俺たちは喫茶店に入り、相談した。

「羽振さん。どうしたらいいでしょうか」

「まずは、その大家さんの息子さんを探すことでしょうかねえ。アパートを取り壊すについては、住民に出ていってもらわないといけないわけで、行き先を斡旋したか、そうでなくてもどこに行ったか知ってる可能性があります」

「そ、そうですよね! なるほど。息子さんて人に訊けば、兄さんのゆくえがわかりますよね!」

「わかる可能性は高くないと思いますけど、とにかく訊いてみたいですね。それと、不動産屋さんですね」

「不動産屋?」

「息子さんて人が直接転居先を紹介できるとは思えないので、どこかの不動産屋さんに斡旋を頼んだはずです。あるいは、三成さんが直接斡旋を頼んだかもしれません」

「そうか! 羽振さん、よくそんなこと思いつきますね」

 いや、誰でも思いつくと思うよ。

 それから近くの不動産屋さんを検索したけど、意外にたくさんあった。

 そのうち二件を訪ねたけど、何の手がかりもなかった。

 夕方になったので、池袋に移動してホテルを取り、ファミレスで食事して寝た。


12


 翌日は朝から不動産屋を回った。

 全然手がかりはつかめなかった。

 昼は、あの居酒屋でカツ丼を食べた。

 おいしかった。

「どう? 何かわかった?」

「あ、店長さん。今のところ手がかりなしです」

「そう。大変だね。頑張ってね」

「ありがとうございます。カツ丼、おいしいです」

「うんうん」

「もしかして、ちょっと大盛りにしてくれました?」

「それは秘密」

 結局、二日かけて不動産屋さんを回った。範囲を広げてたくさんの不動産屋さんに行ったけど、何も得られなかった。

 ほんとはこのとき、殿村さんに電話して相談したら、何かいい方法を教えてもらえたのかもしれない。だけど、そのときは、そんなこと思いつかなかった。

 だから、歩き回った。

 夕方、池袋に帰って、食事しながら相談したけど、二人で知恵を絞った結果出た結論は、アパートがあった周辺で聞き込みをするという、何のひねりもないものだった。

 翌日は朝から聞き込みをした。だけど空振りばっかりで、午前中で近所を回り終えてしまった。

「帰ろうか」

 力なく言ったのは達成さんだ。

「ええ」

 ほかに返事のしようもなかった。

 二人は私鉄の駅に向かった。

「おい、羽振」

 改札から出てきた人物に声をかけられたけど、がっかりしてたし、ぐったりしてたので、俺の脳細胞は、すぐには反応しなかった。

「羽振!」

「え? あっ。間島」

 それは高校の同級生だった。

「久しぶり。今、どうしてんの?」

「あ、岡山に実家があって、そっちにいる」

「大学はどうなったんだよ」

「落ちたの知ってるだろ」

「まさか京大一本だったのか?」

「うん」

「なんちゅう自信」

 いや。自信じゃなかったんだけどね。

「だから、今働いてる」

「働いてる? まあ、前からバイトはしてたみたいだけど」

「お前は?」

「これから大学。今日の講義は昼からだから」

 そういえば、ここには日本有数の学生数を誇る大学の芸術系の学部があったんだった。

「大学、楽しいか?」

「おお、楽しいぜ。特に五時以降が」

「何だよ、それ」

「お前も、今年はまた受験すんだろ?」

「うーん。たぶん、しないと思う」

「何でだよ。もったいない。お前、京大でも充分合格圏内だったはずだろ? 体調でも崩してたのか?」

「いや、実力だよ」

 そんな話をしばらくしたが、講義の時間が迫っているらしく、間島は別れを告げ、あわただしく去っていった。

「羽振さん。高校を出たばっかりだったんですね」

 だから、何でそんなに丁寧なんですか。

「ええ。まあ」

「年上かと思ってました」

 そんなわけないだろ! と心のなかで突っ込んだ。

 その後は特に会話もなく、池袋駅についた。

 JRに乗るには、一つ上の階に上らないといけない。その階段に差しかかったとき、音が聞こえた。


 ちりーん。


「えっ?」

「羽振さん、どうしました?」

「今、何か聞こえました?」

「特には、何も」

 おかしいなと思いながらも、もう一度階段に向かって歩きだそうとした。


 ちりーん。


 俺は立ち止まった。この音は無視しちゃいけない気がした。

 振り向いて、今来た方向に戻りはじめた。

「えっ? えっ? 羽振さん。どうしたんですか? 忘れ物ですか? あ、カツ丼を食べに行くんですね」


 ちりーん。


 また鈴の音が聞こえた。

「達成さん」

「はい」

「鈴の音、聞こえてませんよね」

「鈴? ええ。聞こえてません」

 俺は立ち止まって、周囲をみまわした。

 そして、壁の貼り紙に気がついた。

 四日間、ここを毎日往復してたけど、こんな貼り紙があるなんて、気づいていなかった。

 尋ね人の貼り紙だった。

 今年の五月二十五日から六月三十日にかけて、近辺で五件の通り魔事件があった。そのうち、この場所で六月一日に刺された人が死んだ。身元がわからないので、心当たりの人がいたら届け出てほしい、という内容だ。

 死んだ人は、三十歳前後の長髪の男性。デニムのシャツとウインドブレーカー、ジーパンとスニーカーという姿で、トランペットを携帯していたと書いてある。

 そして、容姿の特徴が添えてある。

 三成さんは、死んでいたんだ。


13


 警察署に行った俺たちは、写真をみせて、こちらの事情を説明した。警察署では何枚も写真を撮っていて、達成さんが、三成兄さんにまちがいありません、と言った。

 驚いたことに、知らせを聞いて耀蔵さんがすぐに飛んできた。しかも、足川未成さんも、駒田成子さんも一緒だ。未成さんのご主人が、岡山駅まで車で送ってくれたらしい。

 まずは、事情聴取と書類の記入があった。遺体は火葬されて社会福祉法人が管理しているという。引き取りは翌日ということになった。五年たつと無縁墓地に葬られてしまうけど、今ならまだ遺骨を引き取れるんだそうだ。

 俺たちは、ホテルに部屋を取った。

 未成さんと、成子さんと、達成さんから、すごくお礼を言われた。みつかってよかったですねえとも言えず、返答に困ってしまった。

 耀蔵さんは、ほとんど口をきかなかった。

「兄さんの前に三成が現れたの、ちょうど三年目の命日だったんですね」

 未成さんが感慨深げにいうと、耀蔵さんは膝の上で握りしめたこぶしを震わせていた。

 翌日、警察に行くと、驚きの情報があった。

 なんと、三成さんが住んでいたアパートの大家さんの息子さんの連絡先を教えてもらえたのだ。

 池袋警察、恐るべし。

 まだ一日もたってないのに、どうやって探したんだろう。

 息子さんのほうには警察から連絡がいっていて、耀蔵さんが電話すると、三成さんの荷物を残してあるから、よかったら取りに来てくださいと言われた。

 息子さんは、もとのアパートから目と鼻の先の近くに住んでた。

 このビルには達成さんと来て、これこれの人を知りませんかと尋ねたことがある。だけど守衛さんは、知らない、としか言わなかった。たぶんほんとに知らなかったのだろう。

 カラーボックスとか、ファンシーケースとか、布団なんかは処分してしまったそうだ。食器とかも処分した。残ってるものは、三成さんのものだという鞄一つに入っていた。

 荷物のなかに、写真のアルバムがあった。それを開いた耀蔵さんが、世にも恐ろしい顔で写真をにらみつけている。何が写ってるんだろうと思って横からのぞきこんだら、耀蔵さんと三成さんが二人で写ってる写真だった。もしかしたら、耀蔵さん、涙をこらえていたんだろうか。

「本当にありがとうございました。このお礼はあらためて」

 未成さんが頭を下げると、息子さんは人のよさそうな笑顔を浮かべて手を振った。

「いやいや、お礼なんて。突然帰ってこなくなったそうで、私としても、どうされたのかと心配してたんですよ。通帳と印鑑も残ってましたしね。でもまさか、通り魔にやられてたなんてねえ。お気の毒です」

 警察が帰してくれたのは、三成さんの商売道具だったというトランペットと、あとは身につけていたものだけだった。財布もスマホもなかったという。犯人が持ち去って、処分してしまったらしい。


14


 数日後、転輪寺で法要が行われた。なぜか俺も呼ばれた。

「天子さん。こういうときは、お香典をさせてもらったらいいのかな。それともご霊前? ご仏前?」

「何も持っていかんでよいと思うぞ」

「そういうわけにはいかないでしょ」

「おぬし。妙なところで律義じゃな。幣蔵に似ておる」

「え?」

 結局、ご霊前と表書きした金封に一万円を入れて持っていった。

 受付がなかったので、ご焼香のとき、仏前にそっとお供えした。

 意外に大勢の人がいた。そりゃそうだ。耀蔵さんは一人暮らしだけど、足川家も駒田家も新居家も、家族全員が列席してる。特に足川家は、こどもも孫も多かった。

 読経の途中で、三成さんが出てきた。

 お経をあげてる持言和尚さんの前方上空に、ぽわんとふらり火が浮かんだのだ。

 不思議なことに、ふらり火は、怒っているように感じた。

 俺は思わず、心のなかでふらり火に話しかけた。

(三成さん。もしかして、怒ってませんか)

(怒っている。オレは怒っている)

(どうして怒ってるんです? みつけてほしかったんでしょ?)

(そうだ。オレはオレをみつけてほしかった)

(なら、みつけてもらったんだから、よかったじゃないですか)

(そうだ。よかった。でも、よくない)

(何がよくないんですか?)

(オレはほうっておかれた。長いあいだ。オレは長いあいだほうっておかれた)

(ほうってたんじゃありませんよ。みんな心配してたんです)

(心配してた?)

(そうですよ。お父さんの耀蔵さんも、叔母さんの未成さんも、お姉さんの成子さんも、弟さんの達成さんも、みんなみんな心配してたんですよ)

(未成叔母さんや、姉さんや達成が、心配してた)

(みんな、ずっと三成さんのことを心にかけてたんですよ)

(それなら、どうして迎えに来てくれなかった。オレを冷たい場所にほうっておいた)

(行ったじゃないですか。知らせがいったらすぐに駆け付けたじゃないですか。すべてを放り出して、三成さんを迎えにいったじゃないですか!)

(すべてを放り出して、オレを迎えに来た?)

(そうですよ)

(……なら、どうして、みんな幸せそうなんだ?)

(えっ?)

(オレは死んでしまったのに。オレは冷たくなったのに。どうしてみんなは幸せそうなんだ)

(幸せでいいじゃないですか)

(なにい?)

(三成さんは、小さいとき、未成さんに幸せにしてもらったんじゃないんですか?)

(未成叔母さんに、オレが?)

(未成さんとの思い出があるんじゃないんですか?)

(思い出? ……ああ、そういえば、よく歌を歌ってくれたなあ)

(歌を歌ってくれたんですか? 未成さんに歌を歌ってもらったんですか?)

(叔母さんは、とっても歌がうまいんだ。いい声をしてるんだ)

(いい声ってどんな声なんですか)

(つややかで、なめらかで、りきまないけど存在感のある、素晴らしいアルトなんだ)

(歌がお上手だったんですね)

(関西二期会の正会員だった)

(プロか!)

(そうだ。オレは叔母さんの歌を聞いて音楽が好きになり、ペットを始めたんだった)

(いい叔母さんだったんですね)

(自慢の叔母だ)

(成子さんはどうなんですか? 達成さんはどうなんですか? いい思い出があるんじゃないんですか?)

(もちろんだ。もちろん、いい思い出がある。いい思い出ばっかりだ)

(なら、未成さんや、成子さんや、達成さんが幸せになったら、三成さんも幸せですよね?)

(オレが、幸せ?)

(三成さんを幸せにしてくれた人が幸せになれたら、三成さんも幸せに決まってるじゃないですか)

(そうか。決まってるのか。オレは、幸せなのか)

(そうですよ。幸せな人生だったんですよ)

(なら、オレはもう消えていいのか?)

(ええ。……いや! まだだめです。まだすることがあります)

(何を、オレは何をすればいい?)

(お礼を言わなくちゃ)

(お礼?)

(ありがとう、ってお礼を言うんです。オレを幸せにしてくれてありがとうって)

(ありがとうって言うのか。誰に?)

(未成さんに。成子さんに。達成さんに。そしてお父さんに)

(おやじ? おやじに礼を言うのか? オレが)

(そうです。お父さんをみてごらんなさい)

(おやじを? おやじの何をみる?)

(うなだれているでしょう。がっくりしているでしょう。あなたが死んで、残念で残念でたまらないんです。そんなお父さんをそのままにして、あなたは消えてしまうつもりですか?)

(おやじをそのままに? うなだれたままに? いや、だめだ。そんなのはおやじじゃない)

(だったら、言うんです)

(何を? オレは何を言えばいい?)

(ありがとう。おれはおやじの息子に生まれて幸せだった。ありがとう。そう言うんです)

(そう言えばいいんだな?)

(はい)

(そうか。そうする。お前もありがとうな)

(どういたしまして)

 強く燃えていたふらり火は、やさしい色の炎になって、そしてふわりと消えた。


15


 翌日、足川未成さんが訪ねてきた。足のぐあいは、だいぶいいみたいだ。

「昨日は、ほんとうにありがとう。いえ、昨日だけじゃない。今回のことでは、あなたには感謝しても感謝しきれない。ありがとうございました」

「いや、そんな。頭を上げてください」

「これからますます、この店をひいきにするわ」

「毎度ありがとうございます」

「あら、ふふ。ところで、あなた」

「はい?」

「火の玉、みえていたんでしょう?」

「えっ」

「何か、話してたわよね?」

「いえ、あの」

「話してたでしょう。けっこう長いあいだ」

「は、はあ」

「そのあと、火の玉は、やさしい色になって、そして消えた」

「そ、そうでしたっけ?」

「何を話してたの?」

「いや、それは」

「教えてくれるわね」

 結局ごまかしきることができず、俺は正直に三成さんとのやりとりを伝えた。

 そのあとが大変だった。

 いきなり店先で号泣しはじめちゃったんだ!

 通行人の白い視線が俺に突き刺さる、突き刺さる。痛い、痛いってば。もう、どうしていいかわからない。

 でも、しばらくすると落ち着いて、俺が差し出したティッシュボックスから、次々ペーパを抜いては鼻をかみながら、教えてくれたんだ。

 あの夜、三成さんが、夢に現れたんだそうだ。笑顔で。

「叔母さん、歌を歌ってくれてありがとう、オレを幸せにしてくれてありがとう」

 そう言って、手を振って消えたんだそうだ。

 三成さんて人、意外と義理堅いな、と思った。


16


 その二日後、今度はなんと佐々耀蔵さんが来た。

大師堂たいしどう、世話になった。この通りだ」

「い、いや、そんな。頭を上げてください」

「未成の次男を養子にもらうことになった。それに佐々家を継がせる」

「あっ、そうなんですね。おめでとうございます」

「ふん。めでたくもねえけどな。まあ、それだけ伝えとく。和尚にもよろしく言っといてくれ」

「はい」

 耀蔵さんは立ち去りかけて立ち止まり、顔だけ振り返って、何かを言いかけた。

「あの晩な」

「はい?」

「いや。何でもねえ」

 そして結局続きは言わないまま帰っていった。

 それにしても、〈大師堂〉って、いったい何なんだろう?

「大師堂というのは、羽振家の屋号じゃな」

「あ、天子さん。俺の心を読んだの? やごう、って何?」

「屋根のやに、号令のごうで、屋号。家のニックネームじゃな」

「へえ?」

「この里の古くからの家には屋号がある。名乗れるのは本家だけじゃがのう」

「そうなんだ。じゃあ、屋号で俺を呼んだんだ」

「そういうことじゃ」

「どうして名前でなく屋号で呼んだんだろう?」

「一つには、おぬしを羽振家の当主と認めたということじゃ。もう一つには、敬意を表したのじゃな」

「敬意?」

「佐々家の屋号は〈南廼家みなみのや〉という。南側の家じゃな。この村のしきたりでは、屋号は〈堂〉が一番格上で、〈屋〉がその次、〈家〉がその次となっておる。お前を〈大師堂〉と呼んだのは、格上の家の当主として扱うたわけで、あの男の精いっぱいの敬意の表現なのじゃ」

「ふうん?」

「よくわかっておらんようじゃの」

「うん。でも、佐々さんの機嫌が悪くないのはわかるよ」

「それがわかっておればよい」


17


「法師どの。いや、このたびは驚かされた」

「ほう? それだけ長生きして、まだ驚くことがあるんか」

「法師どののほうが、少し年上であろうに。こっそり鈴太について東京に行ったのじゃ」

「やっぱりか。そうじゃないかとは思っとった」

「四日ばかり三成を探して歩き回り見つからず、通りがかったところに手がかりがあった。じゃが鈴太はそれに気づかず、通り過ぎるところじゃった」

「ふむふむ」

「そのとき、鈴が鳴ったのじゃ」

「鈴? 〈にぎびの鈴〉か?」

「そうじゃ。かのおかたの鈴じゃ」

「かのおかたの鈴を、東京に持って行ったのか?」

「いや。鈴はこの里に置いたままじゃ」

「なんとのう」

「しかも、鈴太のほうで働きかけたのではないのに鳴った。鈴のほうが勝手に鳴ったのじゃ」

「ううむ。守護が働いたのか。ということは守護霊の働きか」

「あるいは、鈴太の霊力がよほど高く、鈴が強く感能しておるからじゃ」

「これは、いよいよ本物じゃなあ」

「本物じゃ」

「ならば、この里の秘密を教えるか」

「教えてよいと思う。が、今少しようすをみる」

「そうか」

「そうじゃ」

「こちらも鈴太には驚かされた」

「ほう。言うてみよ」

「三成の法事をやった。まあ葬儀みたいなものじゃ」

「知っておる」

「度胸の最中、ふらり火が現れおった」

「なに? 転輪寺にか? しかも法師どのの目の前に?」

「そういうことじゃ。かなり力を持ったふらり火じゃった。しかも悪念にとらわれかけておった」

「そうなってしもうたか。ならば法師どのが払うたか」

「いや。鈴太が言い聞かせた」

「は?」

「言葉で道理を説いて聞かせ、荒御霊となりかけておったふらり火に、お前は幸せなのだと納得させた」

「言葉だけでか? そんなばかな」

「そして、消える前に、叔母と姉と兄と父に、自分を幸せにしてくれてありがとうと礼を言え、と説き聞かせた」

「……まことの話か?」

「あんなのははじめてみたわい。鈴太は、格別の力は何も持ち合わせておらんし、あやかしを調伏するわざも学んでおらん。じゃが、言葉の力であやかしを鎮めることができる」

「驚いた」

「一つ思ったことがあるんじゃ」

「言うてみよ」

「鈴太は、その気になれば、とてつもないプレーボーイになれるかもしれん」

「それはない」

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