第2話 幽谷響


1


 朝起きると顔を洗い、奧の間のお社に手を合わせて拝むのが、俺の日課だ。

 お社は、背の低い箪笥の上に置いてあり、お社の前には、三つのご霊璽れいじが置いてある。

 ご霊璽っていうのは、要するに神道式の位牌だ。

 じいちゃんの葬儀が終わり、四十九日も終わってから、俺はじゅごん和尚さんに訊いた。何しろじゅごん和尚さんは、毎日一升瓶を一本配達させるので、俺は毎日和尚さんと顔を合わせてる。

「あの、じいちゃんの位牌って、ないんですか?」

「ない」

「どうしてですか?」

「位牌というのは亡くなった人を拝むめあてじゃ。お前のうちには神様のお宮があるじゃろう」

「はい」

「その横に、小さな箱があるじゃろう」

「はい」

「そのなかにはのう。〈羽振家はぶりけ遠祖とおつおや世々祖よよのおや之霊神のみたまのかみ〉と書いた木の札が収めてある。それを目当てにご先祖さまを拝むんじゃ。じゃから位牌はいらん。そもそも位牌は仏教のもんじゃ」

「いや。葬式は仏教だったじゃないですか。四十九日も仏教でしょう?」

「わしが今は僧侶なんで、仏式でやっただけのことじゃ」

「今はって。前はちがったんですか」

「前は、今でいう修験道や陰陽道のほうじゃったのう」

「へえ? それはともかく、じいちゃんを拝む目当てが欲しいので、ご位牌を作ってください。それから、お父さんとお母さんのご位牌も作ってください」

「そうか。お前がそう言うなら、三人の霊璽を作ってやろう」

 そんなやりとりがあって、三人の霊璽ができた。それを最初に拝んだときは、何ともいえずうれしかった。こんな気持は、人には説明しにくい。

 霊璽の横には、ひどく古ぼけた鈴が置いてある。きたない鈴だけど、これは父さんの形見だ。何か由緒がある品のようで、父さんはとてもこれを大切にしていた。

 鈴を振った。

 がちゃがちゃと、にごった音がした。

 父さんが、この鈴をとても澄んだ奇麗な音で鳴らしてたような気がしたんだけど、あれは気のせいかなとも思っていた。

 ところがこのご霊璽の横に置いたとき、とても奇麗な音で鳴ったんだ。

 びっくりしたけれど、すごくうれしかった。それからは、毎朝一回鳴らすようにしてるんだけど、やっぱりにごった音しか出ない。

 天子さんは、まだ来てない。

 俺は、地守神社に行くことにした。

 最初に行ってから、週に二、三度は掃除に行ってる。

 境内を囲む木々がみえ、それから背の高い草がみえてきた。まるで神社を隠すようにびっしり生えている。

 木立のなかから、一人の老婦人が出て来た。

(あ、つやさんだ)

 それは〈三婆さんばあ〉の一人、艶さんだった。

 艶さんは、俺がこの村に移住したとき、最初にあいさつに来てくれた人だ。すごく丁寧にあいさつしてくれた。そのことを駐在の平井さんに話したら、びっくりしていた。艶さんは、とっても無口で、人と関わろうとしないらしい。

 今みかけた姿にも、何というか、近寄りがたい雰囲気があって、俺は黙って後ろ姿をみおくるしかなかった。この神社の境内地に俺と天子さん以外の人が入るのをはじめてみた。

 境内のなか入ったけど、べつに変わったところはなかった。変わったところがあったら困るんだけど。

 それにしても、社殿の真ん前にある、この石の八足はっそくは、謎だ。

 八足というのは、平たい板の両側に四本ずつの足をくっつけた祭壇のようなものだ。社殿のなかには木の八足がある。これは神様へのお供え物を乗っけたりするらしいんだけど、こんなところにお供え物を置かせて、どうしようっていうんだろう。

 社殿のお掃除をして、境内も竹箒でお掃除すると、家に帰った。

 天子さんが来ていて、朝食の準備ができていた。


2


「うーん。迷うわねえ」

 山口美保やまぐちみほさんが、胸の前で腕を組んで身をよじった。

 ふわり、と成熟した女性の匂いがただよってきて、俺はどきっとした。

「ねえ、鈴太さあん」

「は、はい」

「やっぱり一番高いのが、一番おいしいのかしらね」

「そういうわけでもないですよ。料理によってもちがいますし、材料との相性もあります。どれが上とか下とかいうより、それぞれ個性がありますから。人によって味の好みもちがうでしょうし」

「そうねえ。男の人でも、それぞれ好きな女のタイプはちがうものねえ」

「そうですね」

「鈴太さんは、どういうタイプが好きなの?」

「え?」

「だから、ね」

 山口さんが、一歩俺に近づく。

 思わず息を吸い込んだ拍子に、俺の鼻は山口さんの匂いを吸い込んでしまう。

 あたまがくらくらする。

 山口さんは、ちょっと身をかがめて、上目遣いで俺の目をのぞき込み、ふふっと、小さく笑った。

 俺の目は、山口さんの胸の谷間にくぎ付けだ。

 思わず、ごくり、と喉を鳴らした。

「鈴太さんは」

「は、はい」

「どういうタイプの」

「は、はい」

「昆布が好きなの?」

「え?」

「ふふっ」

 いたずらっぽく、山口さんが笑う。

 もちろん山口さんは、こちらが誤解するように話している。

 からかわれているのだ。

 でも、そこに悪意は感じない。

 むしろ、……いや、何を考えてるんだ、俺は。

「うーん。いつも俺はいつもありあわせのものを使ってますけど、たとえばこの利尻りしり昆布は、透明感のある上品なだしが取れます」

「あら、そう」

「こっちの羅臼らうす昆布だと、ちょっと黄色っぽい、こくのあるだしが取れます。この羅臼は上級品ですから、ほんとに黄金のようなだしが出ると思いますよ」

「そうなのね」

「こっちの日高昆布もいいだしが取れますが、昆布自体が肉厚で、柔らかく煮えるので、佃煮や昆布巻きに使ってもいいし、だしを取ったあと味付けして食べてもおいしいですね」

「くわしいのね。そういえば、鈴太さん、お料理できるんだったわね」

「自炊が長かったですから」

「その年で苦労してるのね。でも、昆布でだしを取ってたの? インスタントじゃなくて」

「結局そのほうが安上がりだし、味噌汁って、毎日飲むものですからね。インスタントじゃ、飽きちゃいます。といっても、最近はフリーズドライの味噌汁なんかで、すごくおいしいのが出てますけどね」

「だし昆布を使ったら、高くつくんじゃないの?」

「料亭のようなだしの取り方をするわけじゃないです。だしは二種類か三種類の素材で取ります。だし昆布とカツオとか、カツオとイリコとか」

「料亭のだしの取り方はちがうの」

「あんまりくわしく知ってるわけじゃないですけど、料亭だと、例えばカツオならカツオだけでだしを取って、それを基本のだしにしてると思いますよ。ほんとにたっぷりのいいカツオを使って。それに、一番だしと二番だしを取って、それぞれ別の用途に使ったりしてるんじゃないでしょうか」

「鈴太さんは、どうして一種類の材料からだしを取らないの?」

「複数の素材を使うと、少しの量でしっかりしただしが取れるんです。でも、種類をたくさん使いすぎると、味が殺し合うことがあります。たとえば、昆布とカツオとイリコって、みんな海のものでしょ。海のものを三つも使うと、くどいです」

「へえー。なるほどね。昆布って、大きいままのほうがいいだしが取れるって、ほんと?」

「さあ、どうでしょう。俺は小さく四角く切って使ってます。お茶の缶のなかにビニール袋を入れて、そのなかにしまっておくんです」

「そんな使い方をしてるんだ」

「そして、夜のうちに鍋に水を張って、そこにひとつまみの昆布を入れておくんです」

「え? 前の晩からだしを取るの?」

「そうしておくと、じんわり水にだしが溶け出して、翌朝コンロにかけると、すぐにだしが取れるんです。で、沸騰する前に昆布を出して、カツオをぱらりと落としてすぐに引き揚げる」

「カツオもしばらく煮たほうが、しっかりだしが取れるんじゃないの?」

「うーん。さっといさぎよく引いたほうが、逆にカツオらしい風味がでますね。煮物とかに使うんだったら、しばらく泳がしてもいいですけど」

 会話しながらも、俺の視線はちらちらと山口さんの胸の谷間に引き寄せられる。

 女の人の胸って、どうしてこんなに色っぽいんだろう。

「何を煮るかで、どの昆布がいいかは変わるのね」

「ええ。結局料理は相性と好き嫌いです。どの材料ならどの昆布がいいか。どの組み合わせがその家庭に合うか。それは実際に試してみなくちゃわかりませんね」

「じゃ、いろいろ試してみることにするわ。この利尻昆布をちょうだいな」

「まいどありがとうございます」

「ふふ。初々しくていいわね」

 山口さんは、だし昆布のほかに、みりんと醤油と小麦粉と、それからインスタント・ラーメンをたくさん買った。とても持てる量じゃないので、あとで配達します、と俺は言った。

 山口さんが帰ったあと、冷たいお茶を飲もうと思って居間に上がると、昼ご飯の準備を終えた天子さんが、ちゃぶ台の前に座って、テレビをみながら、湯飲みでお茶をすすっていた。

 その前には、俺の湯飲みが置いてあり、なかにはお茶が入っている。

「あ、お茶淹れてくれたんだ。ありがと」

「うむ」

 なぜかちょっと後ろめたさを感じながら天子さんにお礼を言い、お茶を飲んだ。

 ほどよく冷めていて飲みやすいんだけど、妙に渋いお茶だ。

 ほっこりしていると、天子さんが、ぽつりと言った。

「春過ぎて夏来にけらし薄衣うすごろも

 お、和歌かな。急にどうしたんだろ。

「谷の眺めは絶景かな」

 俺は盛大にお茶を吹いた。


3


 昼ご飯が終わると、天子さんに店を任せて、自転車で配達に出た。

 今日の午前中は、配達の注文が三軒もあったんだ。

 二軒の配達をすませ、最後に山口さんの所に向かう。

 何で山口さんの所を最後にしたのかというと、山口さんの家は、ちょっときつい坂道を登りきった場所にあるので、少しでも荷物を減らしておきたかったんだ。

 けっして、最後の配達だからと、あわよくば飲み物の一つもごちそうになろうなどと考えたわけじゃない。

 それにしても、都会では、配達に来た人にお茶を出したりはしないけど、田舎では、当たり前のように飲み物を勧めてくれる。そのかわり、店に来たときも、ゆっくりできるときは、お茶やお茶請けを出すのが当たり前だ。たぶん昔は、どこでもそうだったんじゃないだろうか。この村では、まだそういう風習が残っているんだ。

 みえてきた。

 山口さんの家だ。

 小高い丘の上に、張り出すように立つ、田舎には不似合いな、しゃれた作りの家だ。

 山口美保さんは、去年、ご主人を亡くした。

 十歳ほど年上の、すごく落ち着いて、頼りになる人だったらしい。

 デザイン評論家という、よくわからない職業の人だった。

 美保さんが通っていた大学に臨時講師で来たとき二人は知り合い、美保さんの卒業と同時に二人は結婚し、羽振村に家を建てて移り住んだ。

 ご主人も美保さんも、べつに羽振村に親戚や知り合いがいたわけじゃない。

 ご主人は田舎を旅するのが趣味で、この羽振村を一目みて、ひどく気に入ったらしい。

「これこそ原初の風景だ」

「ここには、日本中から失われてしまった大自然の活力と魅力がある」

「この風景をみているだけで、俺の心は初期化され、力が湧いてくるんだ」

 そんなふうに言っていたらしい。

 去年の秋、ご主人は山で足を滑らせて谷に落ち、死んだ。

「でもね。幸せな死に方だと思うのよ。長患いして苦しんだわけじゃなくて、大好きな山歩きをしてて死んだんだから。そうでしょ?」

 そう聞かれて、うん、と答えるほかなかったけど、本当のところ、幸せな死に方なんてあるのかどうかよくわからない。生きてたほうが幸せに決まってる。幸せじゃなかったとしても、生きていれば、そのうち幸せになれるかもしれない。

 山口さんは、俺が父も母も祖父もなくして天涯孤独だと知ると、妙な親近感のようなものを感じたようで、いろいろと打ち明け話をしてくれるようになった。

 すごく年上のような感じがするけれど、山口さんは、まだ二十代だ。俺と、それほど年が離れてるわけじゃない。

 そして確かに、俺と山口さんは、似たところがある。埋めきれない寂しさのようなものを、俺もずっと胸の奥に感じている。山口さんの痛みは、もっと生々しいだろうけど。

「こんにちはー」

「あら、こんにちは。早いわね。ありがとう」

 勝手口で声をかけると、すぐに山口さんがドアを開けてくれた。

 注文された品を配達して帰ろうとすると、上がって行きなさいと勧められ、俺は靴を脱いで部屋に上がった。

 案内されるまま、ダイニングルームの机に座って、出された麦茶を飲んでいると、机の上に置いてあるノートが目に入った。

「あ、これはね。キノコ地図なの」

 そう言いながら、ノートを俺ほうに、すいっと差し出した。

 〈樹恩の森食用茸分布図〉と表題が書いてある。

「キノコ地図、ですか?」

「ええ。夫が山歩きが趣味だったというのは話したわよね」

「ええ」

「山に入って風景をみるのが好きだったんだけど、おいしいキノコを探すのも好きだったの」

「へえ、そうなんですね」

「羽振村の奧に広がる樹恩じゅおんの森は、キノコ天国なんですって。それで夫はキノコの地図を作ったのよ」

 じゅおんのもり、か。そういえば名前を教えてもらったけど、どんな字を書くのかわからないなあ、と思ったことを思い出した。

「そんなにたくさんキノコが採れるんですか?」

「量がたくさん採れるというわけじゃないけど、とびきり珍しいキノコや、ものすごくおいしいキノコが採れるのよ」

「知りませんでした」

「あの人は、そう言って喜んでたわね」

「それはよかったですね」

「ううん。よくないの」

「え? どうしてです?」

「私ね、キノコが嫌いなの」

「ありゃ……」

「だから、採ってきたキノコは、主人が一人で食べてたの。焼いたり煮たりしてね」

「そうだったんですか」

「何であんな物を、おいしいおいしいと言って食べるのか、ふしぎだった」

「うーん。キノコは好き嫌いがありますからね」

「そうね。だからあの人は、私を責めなかった」

「優しいご主人だったんですね」

「そうなの。でも、思い出してみるとね、つらいの。本当は、私にも、キノコを食べてもらいたかったんじゃないかって。一緒に珍しいキノコを味わってほしかったんじゃないかって……」

「山口さん……」

「どうして。どうして私は、食べてみようとしなかったんだろう。食べてみたら、好きになったかもしれないのに……」

 それからしばらく、山口さんは口を閉ざした。

 それまで、何となく山口さんのほうをみずに話をしていたんだけど、首をひねって、隣に座っている山口さんをみた。

 両手で顔をおおって震えていた。

 やがて嗚咽おえつが始まった。

 それは静かな嗚咽だったけれど、泣き叫ぶよりも、心の苦しみが伝わってくる嗚咽だった。


4


 その日からというもの、山口さんは、毎日午前中に乾物屋に来るようになった。

 そして、何かを買う。

 買った物は、持って帰らない。

 缶詰一個でも、配達お願いね、と言う。

 もちろん、俺は、喜んで配達した。

 商品を配達すると、決まってお茶をごちそうになった。

 麦茶を、アイスミルクティーを、ハーブティーをごちそうになった。

 お茶を飲みながら、山口さんがご主人の思い出話をするのに耳を傾けた。

 ご主人を亡くした女性の家に男である俺が毎日上がり込んで、二人っきりで時間を過ごすということに、後ろめたい気持ちもあった。

 でも俺は、山口さんと過ごす時間が楽しかった。

 いや。楽しというのとは、ちょっとちがう。

 せつなくて、つらくて。

 それでいて、甘やかで、ひめやかで、心地よくて。

 山口さんの匂いを吸い込みながら飲むお茶は、ふしぎな魅力を持っていた。

 山口さんの息の匂いは、たまらないほど素敵だった。

 ある日、山口さんが、店に来なかった。

 次の日も、来なかった。

 その次の日にやって来て、こう言った。

「キノコ鍋を作ろうと思うんだけど、だし昆布は何がいいかしらね」

 少し話をしたあと、結局羅臼昆布を勧めた。

「じゃ、あとで配達しますね」

「あら、いいわ。軽いし。今日は自分で持って帰るわね」

 昆布の入ったビニール袋を提げて歩き去って行く山口さんを見送りながら、俺は何だか取り残されたような気分を味わっていた。

 次の日、山口さんは、うどんを買った。

「じゃ、あとで配達しますね」

「悪いわね。お願いね」

 配達を断られるんじゃないかと思いながら口にした言葉だったので、そう返事されて、妙にうれしかった。

 昼食が終わると、すぐに配達に行った。

「じゃ、天子さん。お店お願いするね」

「うむ。心置きなくゆっくりしてまいるがよい」

 そこまで言われると、逆にあまりゆっくりできない気持ちになる。

 でも、天子さんというのはふしぎな人で、俺はどういうわけか、天子さんが、俺と山口さんのことを勘ぐるんじゃないかとか、悪く思うんじゃないか、なんていう心配をしていない。

 変な言い方かもしれないけど、天子さんになら、手の内をみせてもかまわない気がする。

 俺は人付き合いには臆病なほうなので、どうして天子さんにこんなに心を許しているのか、自分でも奇妙だと思う。

 田舎のゆったりした空気が、俺の心を解きほぐしてくれたのかもしれない。

 うどんを配達に行くと、山口さんは笑顔で迎えてくれたけど、上がってお茶を飲めとは言わなかった。

「ありがとうね」

 そう言った山口さんの息の匂いが、ちょっぴり生臭い感じがした。


5


 どんよりした天気だ。

 今日は朝から一人もお客さんが来ない。

 山口さんは、どうしているだろう。

 もう一週間も顔をみせてない。

 仕事が忙しいんだろうか。

 山口さんは、小物入れとか布の手提げ袋なんかのデザインをして、お金を稼いでいる。

 ご主人が生きてたときからそうだったらしい。というか、ご主人の指導で技術を磨いて、ご主人の紹介した会社にデザインを売ってるということだ。

「天子さん。ちょっと出てくる」

「うむ」

 俺は自転車に乗って、山口さんの家に向かった。

 坂の下で自転車を降り、長い上り坂を自転車を押して上っていく。

 雲が渦を巻くようにして、空を覆っている。

 傘を持ってくればよかったかな、とふと思った。

 みえた。

 山口さんの家だ。

 おしゃれな家なのに、なぜか今日は不気味にみえる。

 新築といっていい新しさなのに、なぜか今日はひどく古びてみえる。

 少し息をきらしながら、坂を登りきった。

 勝手口に回る。

「こんにちはー」

 しばらく待ったが、返事がない。

「まいどー」

 少し大きな声を上げた。だけどやっぱり返事がない。

 留守なんだろか、とは思わなかった。

 俺は、山口さんが家にいることを確信していた。

 息を大きく吸おうとして、胸がこわばっているのに気づいた。

 どうして俺は、こんなにどきどきしているんだろう。

 思いきって息を吸い込み、大声を出した。

「ごめんください!」

 その大声は、俺自身の耳をじいんとしびれさせた。

 そのしびれが消えるまで待ったけれど、返事はない。

 意を決して、勝手口のドアノブに手をかけ、回した。

 ノブは回った。

 ドアを開けて、家のなかに足を踏み入れた。

 いる。

 確かに人がいる。

 ダイニングルームに人のいる気配がする。

 そのときだった。

「うっ!」

 突然声がして、僕は心臓が止まるかと思うほど、びっくしりた。

「うっ!」

 また、同じような声がした。

 山口さんの声だ。

 だけど、何て言えばいいのかわからないけど、ふつうの声じゃない。

「うっ!」

 まただ。またこの声だ。

「うっ!……うう……」

 喉を詰まらせたような声が途切れ途切れに響き、その合間に、嗚咽するような、すすり泣くような声がする。

 ごそごそというような、奇妙な音も聞こえてくる。

 ふと思い出した。

 野良犬がゴミ箱をひっくり返して、生ゴミを食べているのをみたことがある。どうしてそんなことを思い出すのかふしぎに思ったけれど、今聞こえてくる音は、あのとき聞いた音と、どこか似ている。

 そっと靴を脱いで部屋に上がった。

 何度も来たことから生まれる気安さに助けられ、俺は部屋を横切って、ダイニングルームをそっとのぞいた。

 いた。

 山口さんが、いた。

 椅子に腰掛け、深く身を折って、まるでテーブルに突っ伏すような姿勢をとっている。

 うつむいているから顔はみえないけれど、髪はぼさぼさだ。

 いつも綺麗にしていた山口さんが、そんな髪をしているということが、俺に強い衝撃を与えた。

 けれど、来ている服も、体全体の雰囲気も、確かに山口さんだ。

 山口さん、と声をかけようとしたけれど、俺の喉はつぶれたようにちぢこまり、息を通そうとしてくれない。

「うっ!……うっ!……おええっ……うう……うっ!」

 まるで悲鳴のようなうめき声をあげながら、山口さんはテーブルの上の何かをむさぼっている。

 それを両手でつかんで口に運び、むしゃむしゃと咀嚼そしゃくしては、無理やりに飲み込んでいる。

「ぐえっ……ぐえっ……ううっ……うっ!」

 山口さんは、手を止めようとしない。

 せき立てられるように、何かを口に運んでいる。

 そのとき俺の鼻が、機能を取り戻した。

 生臭い。

 ひどくこの部屋は生臭い。

 ゴミ箱には、何かの包装紙のようなものが乱雑に突っ込まれている。

 山口さんが何かをむさぼっているそのテーブルの上には、ビニール袋と紙包みのようなものが散乱していて、そこから生臭い匂いが立ちのぼっている。

 肉屋の紙包みだ、と気づいた。

 紙包みに生肉のかけらが貼り付いていて、それが臭気を放っているんだ。

 そのとき山口さんが、顔を上げて、こちらをみた。

 あの美しい顔がみられる、と思った俺の期待は裏切られた。

 白かった顔はどす黒く染まり、赤茶色の血管が顔中を網の目のように覆っている。

 それは人ではない何かの顔だった。

 ひび割れた口の周りは、赤く汚れている。

 その何かは激しい勢いで立ち上がると、俺を突き飛ばして駆け出した。

 俺は壁に頭を打ちつけ、ふうっと意識が遠くのを感じた。

 

6


 目を覚ました俺は、ふらふらと立ち上がった。

 たぶん意識を失っていたのは、ほんのわずかな時間だと思う。

 後頭部がずきずきと痛むので、手を当ててみた。ひどく痛んだけれど、手をみるとべつに血も付いていない。

 靴を履いて、首筋をさすりながら勝手口を出た。

 いない。

 みわたすかぎりの場所に、山口さんはいない。

 俺は自転車に乗って、坂道を下りた。

 そんなに急いだつもりじゃなかったけれど、たぶんだいぶスピードが出てた。そのせいで、坂を下りきった角から、ひょこりと出てきた人に、危うくぶつかるところだった。

 急ブレーキをかけ、ハンドルを思いきり右に切って、どうにか衝突をのがれた。

「ありゃあまあ、あぶねえのお」

 ひでさんだった。

 秀さんは、〈三婆さんばあ〉と呼ばれる強烈な三人のおばあさんの一人で、この近くに住んでいる。

「年寄りを殺す気かあ。気をつけにゃおえんで」

「す、すいません」

「おめえ、山口んとこ、行っとったんか」

「え、ええ」

「留守じゃったろうがあ」

「え? ええ、まあ」

「今、美保さんに会うたけん」

「ええっ? どこでですか?」

庚申口こうしんぐちのとこじゃ。わからんか。樹恩じゅおんの森の入口じゃあ。ほれ、柿の木がある地蔵さんの横の小道じゃ」

「あ、わかりました」

「後ろ姿をみて声をかけたけど、気づかんふうで、山のほうに入って行ったんじゃけどなあ。おめえ、ほんまに気をつけにゃおえんで」

「すいません。気をつけます」

 秀さんに対しては、とにかく下手に出て礼儀正しくすることだ。それでも運が悪ければ小一時間説教をくらうけど、口答えしようものなら、お説教の時間が三倍になる。

 この日は、機嫌がよかったのか、用事があったのか、幸いにもそれ以上お小言は続かず、秀さんは、腰の曲がった姿勢のまま、ひょこひょこと歩き去った。

 どうしようかと思ったが、とにかく一度乾物屋に帰った。

 そして、天子さんに事情を話した。

「ふうむ。転輪寺に行こうかの。これは、じゅごん和尚の領分じゃ」


7


幽谷響やまびこ、じゃろうなあ」

 話を聞いたじゅごん和尚は、そう言った。

 山彦やまびこがどうしたっていうんだろう。

 それが山口さんに起きた異変に、どう関係するっていうんだろう。

 俺の不審そうな顔つきに気づいたじゅごん和尚は、紙に文字を書きながら説明してくれた。

「やまびこは、〈山彦〉とも書くが、〈幽谷響〉とも書く。今は声の反響を差していうが、もとはといえば、山に生ずる怪異、要するに妖怪なのじゃ」

「よ、妖怪?」

「そうじゃわい。長い年月を深い山のなかですごした老木には、木の精が宿ることがある。これを〈木霊こだま〉という」

「は、はあ」

「木霊が、人の強い想念にさらされると、その人間に乗り移ることがある。これが幽谷響やまびこじゃ」

「山口さんに、その木霊とかいうのが乗り移ったっていうんですか」

「たぶん、そうじゃ」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

はらえばええ。ちょっと待っとれよ」

 ゆらりと立ち上がったじゅごん和尚は、のしのしとお寺の奧のほうに消えた。

 しばらくすると、両手に何かを持って戻って来た。

「よいしょ、と」

 巨体を丸い敷物の上に下ろすと、和尚は手に持った物を床においた。

 細くて平べったい小さな木だ。

 長さは十センチちょっとだろうか。

 赤い判子のようなものが押してあり、その下に、俺には読めない字がびっしりと書き込んである。

 その細い小さな木を十本ほどまとめて細い縄で縛ってある。

 縛った塊は四つだ。

護摩木ごまぎは、一本あればそれで充分なんじゃが、一本では遠くに投げられんからのう。縛ったまま持って行くがええ。それも四束じゃ。大サービスじゃ」

「あ、あの。これをどうしろと」

「投げつけるんじゃ」

「投げつける? 山口さんにですか?」

「そうじゃ。直接ぶつけてもええが、足元に落ちればそれでええ。とにかく山口美保の体の近くに護摩木を投げ込むことじゃ」

「そうすると、どうなるんですか」

「護摩木に封じられた法力を嫌がって、木霊が出て行く。木霊が出てゆけば、山口美保は、もとに戻る」

「もとに戻れるんですか!?」

「話を聞いたところ、まだ木霊に憑かれてそれほど時間はたっとらん。だいじょうぶ。戻れる」

 正直言って、信じられない話だ。

 妖怪が実在するということも、この妙ちきりんな木切れで妖怪が追い払えるということも。

 けれど俺は、山口さんの姿をみた。

 信じられないような振る舞いをみた。

 さっきみたあの光景は、あまりにも鮮明で、みまちがいだとか気のせいだとは思えない。

 でも、気のせいでなかったとしたら、あれはいったい何だったのか。

 妖怪。

 そんなものがいるはずない。

 ないけれど、この村にならいるかもしれない。

 たぶん、都会にいたときの俺だったら、本気にしなかったと思う。

 けれどこの村に来て、この村の空気を吸い、この村の風景をみなれたあとなら、じゅごん和尚の奇妙奇天烈な説明が、それほど理不尽なことだと感じない。

「あの。じゅごん和尚さん」

「何かのう」

「もし、このままにしておいたら、美保さんはどうなるんでしょう」

「何か月もそのままにしておいたら、木霊が山口美保に同化してしもうて、切り離せんようになるじゃろうなあ」

「同化?」

「そして畜生道に墜ちる」

 それを聞いて、俺の心は決まった。

 畜生道っていうのがどういうものなのかわからないけど、もう説明を聞くまでもない。

 美保さんを、このままほっておくことは絶対にできない。

 助けられるかもしれない方法があるなら、それをやってみる。

「じゅごん和尚さん」

「ん? 何じゃな」

「駐在さんにも説明して、おとな何人かで手伝ってもらったほうがいいんじゃないでしょうか」

 艶ばあさんの言葉によれば、山口さんは樹恩の森に入って行った。

 俺一人では、とても見つけられない。

「うーん。本人のためを思えば、あまり騒ぎを大きくせんほうがええがのう。天子どの」

「うむ」

「鈴太について行ってくれんかのう」

「もとよりそのつもりであった。鈴太、参ろう」

「う、うん」

 蓬莱山、白澤山、麒麟山を合わせて三山みやまというそうだ。三山と、三山に囲まれた森、つまり樹恩の森は、羽振家の所有だという。

 それにしても、このお寺に来てからの天子さんは、すごくおとなびてみえる。心なしか言葉遣いまでちがうように感じる。

 そんなことを考えながら、俺は立ち上がった。

 四束の護摩木を手に持って。


8


 天子さんがずんずんと歩いていく。

 俺はそのあとをついていく。

 すぐに柿の木がみえてきた。

 石のお地蔵さんもみえてきた。

 天子さんは、迷いもなく、お地蔵さんの前を通り過ぎて、小道に踏み込んでいく。

 小さな道標があって、〈庚申口〉と彫ってある。

 小道といっても、実際には道とはいえない。

 左右から草が生い茂っているその切れ目のようなものだ。

 草を踏み分けながら、俺も小道に入っていった。

 少し歩いて気がついたんだけど、思ったよりも、ずっと歩きやすい。

 草の切れ目に沿って歩くと、あまり草に足を取られることがない。

 たぶんここは、ずっと前には道だったんだ。

 いや。今も道だ。

 足の下に砂利を敷き詰めたような感触がある。

 この道の下には草の根が生えていないので、左右から生えている草をかき分けさえすればいい。だから、歩きやすいのだ。

 少し降りた所に、小さな池があった。

 天子さんは、池を回り込んで先に進む。ここからは登り坂だ。白澤山のほうだろうか。木に覆われた道を歩いていると、現在位置がわからなくなる。

 こんなにみとおしが悪いのに、天子さんはすいすいと山を登っていく。

 もう道はない。ただ木々をかき分けて進むだけだ。

 左右から木の枝が伸びているので、俺は必死になって枝をかわしたり、払いのけたりしながら進む。

 どうして天子さんは、枝に邪魔されずに歩いていけるんだろう。

 やっぱり、そうとう山道に慣れているんだろうな。

 そうやって一生懸命山道を登っていたとき、突然奇妙な声が聞こえた。

〈い〜〜ふぉ〜〜〜〜〜〉

 鳥?

 いや、鳥のような小さな生き物が出せるような声じゃない。

 もっと大型の動物だ。

〈い〜〜う〜〜うぉ〜〜〜〜〜〉

 もう一度聞こえた。

 前を歩いていた天子さんが足を止めて、左前方をにらみつけている。

〈い〜〜う〜〜ふおお〜〜〜〜ん〜〜ん〜〜〜〉

「こちらじゃな」

 ぽつりと言葉を発して、左側に向きを変えた。

 あの声がした方角に向かっているんだろうか。

 でも、俺も、どちらのほうから聞こえてくるのかと注意しながら聞いてたけど、方角なんかわからなかった。

 山のなかで響いてくる音は、ふだん聞き慣れた音とちがう条件で響いてくるから、方角なんかわからない。

 以前、騒音測定機器のメーカーのバイトをしたことがある。

 そこは、研究機関を持っていて、地方自治体や地域住民から頼まれて、騒音測定をしてる。

 道路なら道路の回りの一定区間にマイクを設置して二日とか三日とか四日とか、ずっと測定を行い、そのデータをクライアントに提出する。クライアントはそのデータをもとに、

「この道路の騒音の最大値は、法定基準をはるかに上回るから、音を防ぐ壁を作ってくれ」

 というような交渉をしたりする。

 そのバイトをしてるとき、職員の人たちから、音と音響について、いろんなことを教わった。

 そのなかに、

 〈音の方向を察知する能力は、経験的な学習によって獲得される〉

 ということがあった。

 人間は左右二つの耳を持っているから、ステレオで音を聞くことができる。

 ある音源から耳に音が到達する時間は、左右の耳で微妙にちがう。また、直接耳に入る音なのか、頭骨や表皮を伝わって聞こえてくる音なのかなど、音質もちがう。その到着時間のずれと、音質の差を、脳が分析して、どっちの方角から来た音なのかを判別するんだ。

 その判別は、生まれたばかりの赤ん坊にはできない。成長に伴ってだんだんとできるようになっていく。

 音が上のほうから聞こえてくるのか、下のほうから聞こえてくるのかも、人間は判断できる。

 考えてみたら、これは奇妙なことで、耳は左右二つしかないんだから、左右の方角は聞き分けられても、上下の方角が聞き分けられるわけがない。でも、できる。

 どうしてできるかというと、経験によって、

 〈こういうふうに聞こえてくる音は、上のほうから来る音だ〉

 と判定できるからだ。

 逆にいうと、慣れない音響条件の場所で聞くと、判断に誤りが出る。

 俺も、特殊な音響条件の部屋で実験したことがあるけど、てっきり下のほうから聞こえたと思った音が上のほうの音だったり、前から聞こえたと思った音が後ろの音だったりした。

 山のなかなんて、場所によってひどく音響条件がちがうはずで、遠くの物音の方角なんて、わかるわけがない。

 わかるとしたら、天子さんは、それがわかるほどに、この山に慣れている。

 あるいは、ただ耳で聞くだけじゃない、何かの感覚で方角を感知している。

 とにかく、天子さんの足取りにはためらいがない。

 そのことが、今はとても頼もしかった。

 いきなり、見晴らしのいい場所に出た。

 空がかげり始めている。

 ずっと深い森を歩いていたから気づかなかったけど、もう夕暮れが近いんだ。

「いうぉ〜〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜」

 近い。

 今までのように遠くでかすかに響く声じゃなく、すごく生々しいこえだ。

 いうぉ〜〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜

 いうぉ〜〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜

 いうぉ〜〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜

 山彦がこだましている。

 天子さんが斜め前方をにらんでいるので、その視線を追った。

 いた!

 切り立った崖のようになった場所に立って、虚空を見上げて叫んでいる。

「い〜〜ううおぉ〜〜お〜〜〜ん〜〜」

 叫び声を山彦が追いかける。

 それは人間の声のようではない。

 そもそも生き物が発するような声ではない。

 木の枝に吹き付ける風が鳴るような音であり、木が引き裂かれるような音だ。

 そして、なんとも哀しげな声だ。

「いうぉ〜〜〜うう〜〜〜おう〜〜おう〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜〜」

 天子さんが左に向きを変えて歩き始めた。

 あわててあとを追う。

 天子さんの足取りは速い。急いでいる。

 その急ぎ方が俺を不安にさせる。

 いったん森のなかに入り、ぐるぐると右に左に進んでいった。

 もう一度目の前が開けたとき、びっくりするほど近くに、それはいた。


9


 それは確かに山口さんだ。

 薄いニットのブラウスも、紺のスカートも、見覚えのあるものだし、体の輪郭と長い黒髪は、間違いなく山口さんのものだ。

 けれど、いったい、この首は何なんだろう。

 この手は何なんだろう。

 この足は何なんだろう。

 それは人の首でも手足でもない。

 まるで年をへた枯れ木だ。

 いったいどんな呪いを受けたら、人間がこんなふうになってしまうんだろうか。

 山口さんの向こうには、巨大な月が浮かんでいる。

 山口さんは、月に向かって吠え続ける。

 物悲しげな声を張り上げて。

〈い〜〜ううおぉ〜〜お〜〜〜ん〜〜〉

〈い〜〜ううおぉ〜〜お〜〜〜ん〜〜〉

 天子さんが、俺のほうをみている。

 そうだ。俺にやることがあったんだ。

 ウインドブレーカーのポケットに右手を突っ込んで、護摩木の束を一つつかみ取った。

 そして、一歩ずつ、音をさせないように気をつけながら、そっと山口さんに近づいた。

 もう二十メートルもない。

 俺は護摩木を山口さんに向かって投げた。

 ところが緊張していたとみえて、とんでもない失投になった。ぜんぜんあさっての方角に飛び出した護摩木の束は、地面にぶつかって音を立てた。

 山口さんの吠え声が止まった。

 いいうぉん、いいうぉんと、哀しげな木霊だけが響き、そしてその木霊も小さくなって消えたとき、山口さんは振り向いた。

 はっとした。

 古い古い木の表皮のように、しわがれ、固まった、醜い顔だ。

 鱗にびっしり覆われたようにもみえる。

 俺はあわてて右ポケットに手を突っ込み、もう一つの護摩木の固まりをつかんだ。

 そしてそれを投げつけた。

 護摩木は、山口さんの五メートルほど手前で地に落ち、少し転がって、そして爆発した。

 まさか爆発するとは思っていなかったので、腰が抜けるほどびっくりした。

 爆発のあと、すごい煙が立ちのぼって視界を奪われ、俺は立ちすくんでしまった。

 その煙をぬっとかき分けて、山口さんが目の前に現れた。

 鱗のような木の皮でびっしり覆われた顔のなかの目が、赤い光を放っている。

 憎しみに満ちた目だ。

 その赤い憎しみの目で、山口さんは俺をにらみつけた。

 目と鼻の先に現れた山口さんの恐ろしさに、俺は身動きもできず、ただぼうぜんと、その顔らしきものをみつめていた。

 山口さんの顔が、ぎろっと横に向いた。

 そこには天子さんがいるはずだ。

 山口さんは天子さんとにらみあっている。

 その山口さんの顔を、俺は間近でながめている。

 なんて……

 なんて恐ろしい姿なのだろう。

 これが人間だったなんて、信じられない。

 あの美しい山口さんだったなんで、信じられない。

 顔は、びっしりと醜い鱗のようなもので覆われている。

 鱗と鱗の間からは、腐った肉のような地肌がみえる。ひどく痛々しい感じがする。

 さっきはわからなかったけれど、意外に目は大きい。

 今は赤く爛々らんらんと輝いている。

 ちがう。

 憎しみに燃えている。

 何に対する憎しみかはわからないが、それが憎しみであるのは間違いない。

 ひどくいやらしい匂いがする。

 腐臭だ。

 生ものが腐った匂いだ。

 俺は自分の左手を意識していた。

 俺の左手はウインドブレーカーのポケットに突っ込まれている。ポケットには二束の護摩木が入っている。その一つを、左手はきつくにぎりしめている。

(も、もう一回……)

 一度では効果がなかったみたいだけど、もう一度やれば、今度こそ効果が出るかもしれない。

 こんなに近くなのだから、絶対にはずさない。

 今度は体に直接当てられる。

 そうしたら、和尚さんの言ったような効き目が現れるんじゃないだろうか。

 そんなことを考えていると、山口さんが、俺のほうに向き直った。

(攻撃しようと思ったのが、みぬかれた?)

 心臓を捕まれたような気がした。

 体は金縛りにあったようで、指のさきさえぴくりとも動かせない。

 蛇ににらまれたカエルというのは、こんな感じなんだろうか。

 そのとき。

 山口さんの目が変わった。

 確かに変わった。

 赤い狂気の色は消え、優しげな目つきになった。

 でもそれはほんの一瞬のことで、たちまち目は赤い炎で満たされた。

 山口さんは、くるりと身をひるがえすと、ひとっ飛びで崖の下に飛び降りた。

 俺は山口さんを追って、崖の突端まで走った。

 もうみえない。

 いや、みえた!

 走り去って行く山口さんがみえる。

 ちらちらとだけど、眼下の森のなかを走り去っていく山口さんがみえる。

 俺の左に人の気配がした。天子さんだ。

「追っかけなくちゃ!」

「いや。どうもこれはおかしい。一度和尚の所に戻る必要がある」

「でも! こうしてるあいだにも!」

「落ち着け、鈴太。もう日が落ちる。夜の森は危険じゃ」

 言われてみれば、日は傾いて、色も赤ずんでる。

 俺には村がどの方角か、全然見当もつかない。

 天子さんが帰るというなら、一緒に帰るしかない。

 それに夜の森と聞いて、すごく怖くなった。

 さっきまでの勢いはしぼんでしまって、俺は臆病者に戻ってしまった。

 帰りの道は、ずいぶん遠く感じた。

 俺は、晩ご飯も食べず、倒れるように寝た。

 ずいぶん早く寝てしまったせいか、夜中に目が覚めた。

 山口さんのことを考えた。

〈長い年月を深い山のなかですごした老木には、木の精が宿ることがある。これを〈木霊こだま〉という。木霊が、人の強い想念にさらされると、その人間に乗り移ることがある。これが幽谷響やまびこじゃ」〉

 そう和尚は言った。

〈木霊が、人の強い想念にさらされると、その人間に乗り移ることがある〉

 木霊が勝手に山口さんに取り憑いたんじゃない。

 山口さんの強い思いが、木霊を引き寄せたんだ。

 山口さんの強い思い。

 それはいったいなんだろう。

 きっと、ご主人のことだ。

 山口さんは、後悔してた。

〈思い出してみるとね、つらいの。本当は、私にも、キノコを食べてもらいたかったんじゃないかって。一緒に珍しいキノコを味わってほしかったんじゃないかって。どうして私は、食べてみようとしなかったんだろう。食べてみたら、好きになったかもしれないのに〉

 キノコを食べてみようとしなかったことを、後悔してた。

 たぶん、それだけじゃない。

 ご主人生きてるあいだに、あれをしてあげてたら、これをしてあげてたらと、後悔していた。

 後悔というのは、寂しさだ。

 ご主人を亡くして、寂しくて寂しくてたまらない、その心の隙間を、後悔で埋めてたんだ。

 そうでもしないとしかたないくらい、心の隙間は大きかったんだ。

 俺にはわかる。

 俺も同じだから。

 父さんと母さんを失ったことは、今でも埋めようがないほどの心の隙間になっている。

 まてよ。

 俺は山口さんを人間の世界に引き戻そうとしてるけど、それは正しいことなんだろうか。

 今はもしかして、山口さんは、ご主人と一緒なんじゃないだろうか。

 人間ではないものになって、ご主人の霊と一緒に、森で暮らしてるんじゃないだろうか。

 一緒に幸せに暮らしてるんじゃないだろうか。

 あの醜い姿は、森で生きていくなら必要な姿だ。

 あの姿のままで、山口さんは幸せなんじゃないだろうか。

 人間の世界に引き戻そうとするのは、俺の身勝手なんじゃないのか。

 いや、ちがう。

 あの哀しい叫び声。

 あれはご主人を呼ぶ声だ。

 満たされない思いを訴える声だ。

 今の山口さんは、幸せじゃない。

 だから人間の世界に呼び戻さなくちゃいけない。

 生きてれば、幸せにだってなれるんだ。

 心の隙間が完全に埋まることはないかもしれないけど、心の隙間を抱えたままでも、人間は幸せになれるんだから。


10


「な、なに!? なんじゃと?」

 俺の話を聞いて、じゅごん和尚はひどく驚いた。

「あの護摩木が爆発なぞするわけが……いや、まさか……」

 和尚は、むっつりと黙り込んだ。

 ずいぶん長いあいだ無言で考え込んでいたが、いきなり目を開くと、頭を下げた。

「すまんかったのう。そこいらの木霊が取り憑いたんじゃろうと簡単に考えておったが、ちがったようじゃ」

「あ、あの和尚さん。いったい山口さんには、何が取り憑いているんですか?」

「木霊にはちがいない。それは間違いない。じゃが、そんじょそこらの木霊ではない。恐ろしく年をへた、霊力の強い木霊じゃ」

「霊力の強いこだま?」

「そうじゃわい。あの護摩木に込められた法力を浴びれば、たいがいのものは、たまらずにはじき飛ばされてしまうはずじゃ。ところが、この木霊は、はじき飛ばされるどころか、逆に護摩木のほうが爆発した。木霊の霊力に耐えきれなんだのじゃ。この木霊はそんじょそこらの老木の化生けしょうではないわい。森のあるじといってよいような、それこそ神木なみの霊力をたくわえた古木の精じゃ。そうとしか考えられん」

「どうすればいいんでしょうか」

「手はある」

 じゅごん和尚は、奧のほうから、一枚のお札を取り出してきた。

「このお札を、木霊の本体である老木に貼るのじゃ。わしゃあ、このお堂で護摩行をしながら、念仏を唱え続ける。封魔の真言しんごんをのう」

「木霊の本体である老木?」

「そうじゃ。札を貼れば、木霊は本体に戻る。わしの念仏で本体に縛り付ける」

「その本体の老木っていうのは、どこにあるんですか」

「それは、わからん」

 じゅごん和尚は、そう言いながら、天子さんのほうをみた。

「わらわにもわからぬ。あの森ではほとんど感覚が使えぬのでな」

 天子さんにもわからないとしたら、そんなもの、探しようがない。

 あの広い広い森で、一本の古木を探すなんて、そんなこと……

「あっ」

 思い出した。あれだ。

「ちょっと出てきます!」

 俺は転輪寺を飛び出して、走った。

 向かう先は、山口さんの家だ。

 坂を登りきったときには、すっかり息が切れていた。

 はあはあと、しばらく呼吸を調えて、俺は背を伸ばした大声をあげた。

「ごめんくださーい。失礼しますー」

 どこかで誰かがみてないともかぎらない。一応声をかけて、勝手口から家に入る。

 靴を脱いで上に上がると、ダイニングルームに歩いて行った。

 あいかわらず、ひどい匂いだ。

 壁にかきむしったような跡をみつけて、胸が痛んだ。

 奧の棚の上に……あった。

 そこには十何冊かのノートがあった。

 山口さんのデザイン帖だ。前にみせてもらったことがある。

 けれど、今探してるのは、デザイン帳じゃない。デザイン帳に使ってるのと同じ文具メーカーのノートで、中身のちがうやつだ。

 あった!

 これだ。このノートだ。

 〈樹恩の森食用茸分布図〉と表に書いてある。

 山口さんのご主人の残したキノコノートだ。

 山口さんのご主人が、山を歩き回って、いいキノコの採れる場所を記録していったノートだ。

 山口さんは、ご主人がキノコを好きな気持ちに寄り添えなかった自分を悔やんでいた。

 その山口さんが、キノコ鍋に合うだし昆布を買いに来た。

 そのキノコは買ったキノコだろうか。

 ちがう。そんなわけない。

 山口さんは、ご主人が残した宝物の地図を頼りに、ご主人がみつけたキノコを採ってきたんだ。

 そこで古木に出会った。

 ということは、古木が生えているのは、このキノコノートに書いてある場所のどこかだ。とっておきのキノコが採れる場所だのはずだ。

 俺はページをめくっていった。

 どれだ。

 どれが、そうなんだ。

 ふと、あるページで手を止めた。

〈絶品キノコ群生地! まさに宝の山〉

 大きな字で、そう書いてある。

 これだ。ここにちがいない。

 しかも、キノコって、秋に採れるのが多いと思うんだけど、この場所には、今の季節にちょうどおいしいキノコがいくつかある、とノートに書いてある。

「手がかりがつかめたようじゃな」

 いつのまにかやって来ていた天子さんに、俺は力強くうなずいた。


11


 さすがにデザインの先生をしていた人の地図だと思う。すごくわかりやすい。

 俺と天子さんは、無言で森のなかを進んだ。

 ふしぎなことに、今日は枝や草が、あまり気にならない。もしかしたら、森を歩くコツを身につけたんだろうか。とにかく先を急いだ。

 しょっちゅう地図に目をやり、目印をみおとさないよう、気をつける。

 わかりやすい地図だけど、地図のガイドからはずれる場所に出たら、たぶんもう戻れない。

 二時間ほど歩いたとき、さすがにしんどくなって休憩した。

「食べるがよい」

 天子さんは、おにぎりとペットボトルのお茶を用意してきてくれていた。

 なんて用意がいいんだ。それに引き換え、こんな大事なことを忘れるなんて、俺はなんて馬鹿なんだ。

「天子さん、ありがと。ずっと持ってきてくれたんだね。ごめん」

「よい。なかなか見事な歩きぶりであった。さすがじゃ」

 今日の天子さんは、おとなモードだ。ちょっとぐらい甘えても許される感じがする。

 おにぎりを食べ、お茶を飲むと、すっかり元気が回復した。

「お、もう行くのか」

「うん。あ。天子さん、しんどい?」

「ふふ。わらわを気遣うとは、千年早い。じゃが、ありがとうの。だいじょうぶじゃ」

 再び俺たちは、ずんずん進んだ。

 たぶんものすごい距離を歩いたと思う。

 ふつうのときであれば、こんなに奧に入ってだいじょうぶなんだろうかと心配するぐらい山の奥に踏み入って、とりわけ樹木の密集した一帯を過ぎたとき、突然視界が開けた。

「わあ」

 思わず声が出た。

 それは森のなかにぽっかりとできた、円形状の広場だ。

 その広場の中央に、みたこともないほど立派な木がそびえ立っている。

「ほんとに、ご神木みたいだ」

 引き寄せられるように、その大木に近寄っていく。

 樹皮は、この木が過ごしてきた年月の長さを物語って、ひどく古びて硬質化している。

 それでいて、この木は生きている。

 生きている植物特有の生気を放っている。

 すぐに近づけると思ったのは目の錯覚で、なかなか木にたどり着かない。

 近づけば近づくほど、巨樹はその威容を明らかにしていく。

 ほんとに、立派だ。

 もうあと五、六歩で樹幹にたどり着くというとき、突然何かが目の前に現れた。

 山口さんだ。

 いや、もう服と髪以外では、まったく山口さんだと判別できない、なれの果てだ。

 本当に、こんなになってしまった山口さんが、もとに戻るんだろうか。

 と、山口さんの目が、かっと見開かれ、赤く燃え上がった。

 恐怖が全身をひたした。

 そうだ。山口さんにとっては、というか山口さんに取り憑いた木霊にとっては、俺は敵だ。なにしろその木霊を祓おうとしてるんだから。

 山口さんが、俺に一歩近づいた。

(しまった。こ、殺される)

 あの木の幹のような腕で殴りつけられた、本当に死んでしまうかもしれない。

 しかも相手はふつうの人間じゃない。とんでもない怪力かもしれないのだ。

 恐ろしさで足がすくんだ俺は動けない。

 そのとき、俺の後ろから、天子さんが進み出て、ちょうど俺の右側に並んだ。

 山口さんが、天子さんのほうをみた。

〈ぎい〜ぎ〜〜ぎぃ〜〜〉

 とてつもなく古い木の扉を無理やり開こうとしたときのような、引き裂かれる木のような奇怪な声を、山口さんは口のような穴から出した。

 そのまま山口さんは、天子さんとにらみ合っている。

 俺はそっと、左に寄った。

 やはり山口さんは、天子さんとにらみ合ったままだ。

 そっと、そっと、俺は回り込んで、大木のほうに向かった。

 山口さんの横を過ぎるときには、突然攻撃されやしないかと、どきどきした。でも、山口さんの注意は、すっかり天子さんにくぎ付けだ。

 こうなったらもう、山口さんは、どうでもいい。

 すぐ目の前に迫った古木に、俺は進む。

 ウインドブレーカーのポケットから、お札を出した。

 あれ?

 釘も糊も持ってきてないけど、どうやってこの巨大な木に、このお札を貼り付けたらいいんだ?

 もしかして、やらかした?

「ぐわああああああっ!!」

 声がして、気配がした。

 山口さんがこちらに近づく気配だ。

「うわああああああっ」

 俺はみっともない悲鳴を上げながら、手に持ったお札を巨木にたたき付けた。

 ばちっ、

 と音がして、お札が強烈な光を放った。

 それは一瞬のことだったけど、まばゆい光はお札を押さえつける俺の手を素通りして、辺り一帯を素早く照らした。

 人間の体のほとんどは水分だっていうけど、本当だな、と俺は妙に間延びした感想を思い浮かべていた。


 ちりーん。


 静まりかえった森に、鈴が鳴る音が響き渡った。

 俺は、お札を木に押さえつけたまま、後ろを振り返った。

 山口さんが倒れていて、その後ろでは、天子さんが静かにほほえんでいた。


12


 俺と天子さんは、羽振村に帰った。

 山口さんは、俺が背負った。

 固くて痛くて背負うのはつらかったけど、そのつらさをがまんすることが、俺が山口さんにできることなんだと思った。

 着いたときには、もう夜だった。

 転輪寺に行くと、和尚さんはお堂のなかで火を炊いていた。

 火の前に座り、左手を手刀のように立てて大きな数珠を巻き付け、右手は二本の指を立てて顔の前で揺らめかせながら、何語だがわからない念仏のようなものを唱えている。

 体の右側には護摩木が積み上げてあって、時々火のなかに放り込んでいる。

 和尚さんは、ちらりとこちらをみると、念仏を唱えるのを少しのあいだやめて、早口で、はっきりと言った。

「家に帰って休め。もう心配いらんけえなあな。ご苦労じゃった」

 それだけ言うと、また念仏を唱えだした。

 よくわからないけど、今やってるこの儀式みたいなものが、山口さんを人間に戻してくれるんだろう。

 山口さんを背負って、家に連れていき、布団を敷いて寝かせた。

 服を着たままだけど、しかたない。

 気のせいか、体が少し柔らかくなってきた気がした。

「疲れたじゃろう。わらわは少し片付けをしてから帰る。おぬしは、もう帰れ」

「ごめんね、天子さん。じゃあ、帰らせてもらうよ」

「うむ。今日はよくぞいたした。おぬしの振る舞いは見事であった」

 俺は乾物屋に帰った。

 ひどくおなかがすいているのに気がついたので、インスタントラーメンを食べた。

 ふとご霊璽の横の鈴をみた。

 古い古い鈴だ。

 父さんの形見だ。

 あの古木にお札をたたき付けたとき、鈴の音が聞こえた。

 いったい、あの鈴の音は何だったんだろう。

 この鈴が鳴ったんだろうか。

 お札も不思議だった。

 糊も何もついていないのに、手を放してもお札は大木にぴたっと貼り付いて、剥がれるようなようすがなかった。

 今でも貼り付いたままのはずだ。

 木霊はもう、大木に戻ったんだろうか。

 そういえば、あの大木の根元には、たくさんのキノコが生えていた。

 少し持って帰ればよかった。


13


 翌朝、天子さんが来なかった。

 かわりに、朝から〈三婆〉が三人そろってやってきた。

 この三人のおばあさんたちは、その強烈な個性から、村で〈三婆〉と呼ばれているけれど、べつに親戚でも何でもない。住んでる所も別々だ。格別三人が仲がいいわけでもないらしい。

 といっても、三人そろうとそれなりに話がはずむようだ。

 お茶と漬物を出して、俺は横で話を聞いていた。

 ほんとのところ、早く山口さんのようすをみにいきたかったけれど、店にお客さんだけを残して外出するわけにもいかない。

 長話のあと、つやさんは、するめを買って帰った。

 てるさんは、洗剤と大量のカップ麺を買って帰った。あとで配達しないといけない。

 秀さんは、太い蝋燭を三箱も買って帰った。 

 その直後に天子さんが来た。

 びっくりしたことに、山口美保さんも一緒だ。

「昼食を作るからの」

「う、うん」

 天子さんは、それだけ言うと、すすっと奧に入った。

 山口さんと二人店先に残された俺は、何を言えばいいのかわからない。

「茶わん蒸しを作ろうと思うんだけど、どのだし昆布がいいかしらね」

「茶わん蒸しですか、そうですねえ……」

 話をしながら、ちらちらと山口さんのようすをうかがった。

 何ともない。

 あの奇怪な変体の跡形もない。

 前の通りの、おとなびて美しい山口さんだ。

 ただよってくる香りも、とてもかぐわしく、好ましい香りだ。

 豊満な胸も、前の通りだ。

 いつも通りだ。いつも通りの山口さんだ。

 山口さんは、いたずらっぽい笑顔を浮かべ、人差し指で胸元を少し押し下げた。

「もう少し、みる?」

 ばれてた!


14


「いやいや、今回の件にはびっくりさせられたわい」

「わらわも肝が冷えた。もう少しで神通力をふるうところであった」

「しかし手は出さなんだのじゃな?」

「うむ。いよいよとなれば手を出すつもりであったが、まずは鈴太のようすをみとどけようと思った」

「で、どうじゃった?」

「鈴太から直接聞いたであろうに。みごとに木霊を鎮めおった」

「うむむむ。何を教わっておるというわけでもあるまいに。〈はふり〉の一族の血じゃなあ」

「それにしても、あんな強力なあやかしが、結界のなかに入って来るとは」

「そこじゃ。結界が弱まっておるということもないんじゃがなあ」

呪怨石じゅおんじゃくがたまりすぎたかのう」

「それは今さらじゃ。それにしても、今は大事な時期じゃから、これ以上は呪怨石を増やさんほうがええじゃろう」

「法師どのやわらわが倒せば、どうしても呪怨石が生ずるからのう」

「鈴の音が聞こえた気がしたんじゃが、まさか」

「それそれ。〈にぎびの鈴〉よ」

「おおお! やはりかのおかたの鈴か!」

「そうよ。木霊を鎮めるとき、持ってもおらんのに鈴が鳴った。あのように澄んだ音で鳴るのは、実に久しぶりのこと」

「懐かしいのう」

「懐かしいとも」

「鈴太が持っておるということは、やはり弓彦が持っておったんじゃな?」

「そうよ。勝手に持っていくはずはないから、幣蔵が渡したのであろうな。幣蔵め、わらわが鈴はどこかと訊いたときには、しらばっくれおって」

「ばっはっはっ。そう言うな。弓彦とのあいだに絆が欲しかったのじゃろうよ」

「そうよなあ。そしてその絆によって鈴太がこの里に帰ってきたのかもしれぬ」

「美しい音じゃった。やはり〈はふり〉の者じゃなあ。最後の最後にこんなに強く血をひいた者が出るとは。それで、一族の秘密を教えるつもりか?」

「まだ早い。もう少しようすをみることにいたす」

「ばっはっはっ。それもよし。何だか楽しみになってきたのう」

「たぶん鈴太がおるだけで、神社の封印は強まっておるはず」

「そうじゃ、そうじゃ」

「ふふふ。鈴太は、意外に肝が太い」

「ほう」

「人間からすれば、あの木霊の姿は相当に恐ろしいものであろうに、まったく臆するようすもなかった」

「山口の後家に懸想しておったんじゃないかのう」

「そんなことはない。いささか乳に気を取られておっただけのこと」

「それを懸想というんじゃ」

「そうとしても、ああもはっきり姿を現したあやかしに、堂々と向こうてゆけるものではない。やはり鈴太は肝の太いおのこよ」

「ほうほう。ふんふん」

「そのうす笑いはなんじゃ。そもそも、あやかし退治は本来法師殿の役目。あまり鈴太に危ないまねはさせんでほしい」

「ばっはっはっ。すまん、すまん」

「いずれにしても、もうすぐじゃ」

「もうすぐじゃ」

「満願の日は近い」

「近いとも」

 

 





 



 

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