羽振村妖怪譚(改訂版)

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第1話 天狐

1


羽振はぶりくん。買い物?」

 突然声をかけられて、俺は驚いて振り返った。

 そこには森口麗子もりぐちれいこさんが立っていた。

 しかも距離が近い、

 顔が、かあっと赤くなるのを感じた。

「うん」

 返事をした声が、少しかすれている。

 みっともないぞ、と自分をたしなめた。

 しかたないじゃないか、突然あこがれの女性ひとに声をかけられたんだから、と自分で自分に言い返した。

 私服姿の森口さんは、制服の何倍も奇麗だった。

「スニーカーを選んでるんだ。へえ?」

 彼女は一歩前に進み、腰を折って並んだスニーカーに顔を寄せる。

 俺は、揺れる森口さんの髪をみて、何だか幸せな気持ちになった。

「うん。この二つのうち、どっちにしようかと思ってるんだけど」

 俺は二つのスニーカーを指さした。

 一つはナイキのエアフォース・ワン。真っ白なスニーカーだ。

 もう一つはアシックスの黒いビジネス・スニーカーで、本革だ。

 どちらも、今まで買ったことがないような上等のスニーカーだ。

「羽振くんには、こっちが似合うと思うな」

 森口さんが指したのはナイキの白いスニーカーだった。

「うん。そっちにするよ。ありがとう」

「どういたしまして」

 輝くような笑顔だな、と思った。月並みな表現だけど、それ以上の言葉が思い浮かばない。

「麗子。行くわよ」

 年配の女性が声をかけてきた。森口さんのお母さんだろうか。

 俺はあわてて、年配の女性にぺこりとお辞儀をした。相手も会釈を返してきた。柔らかな笑顔を浮かべて。

「羽振くんが元気そうでよかった。じゃ、また会おうね」

「あ、うん。さよなら」

 去って行く森口さんに、精いっぱい元気そうな表情で別れを告げた。

「さよなら−」

 振り返って手を振る森口さんの笑顔を、俺は心に焼き付けた。

 森口さんに会うのは卒業式以来だ。あのときも森口さんは、また会おうね、と言って笑ってくれた。それは、大学に入ったら京都で会おうね、という意味だ。

 ところが俺は京大に落ちた。森口さんは同志社に合格した。

 俺が京大に落ちたことを、たぶん森口さんは知ってる。だから、元気そうな俺をみて、よかったと言ってくれたんだ。

 高校に通った三年間、ひそかにあこがれ続けた森口さんだけど、バイトが忙しいし金もないから、ついにデートには誘えなかった。だから自分の思いを打ち明けることもできなかった。今は少しばかり胸が痛むけど、これは淡い初恋というやつなんだろうな。

 とにかく、最後に会えてよかった。さっきの〈また会おうね〉は、〈もう二度と会うこともないけど、お互い元気でいようね〉という意味だ。

 会ったのが今日でよかった。もう少し早かったら、つまり俺の新しい人生が開ける前に会っていたら、こんな元気な顔はしていられなかっただろう。

 でも、今日の俺はだいぶ明るい顔をしているはずだ。それに、いつもかつかつだった俺が、こんな高いスニーカーを買おうとしてるときに、ばったり出くわすなんて、ほんとに運がいい。

 やっぱり人生ってのは、悪いことも起きるけど、いいこともあるものなんだ。


2


 大学受験に失敗した俺は、あわてて就職先を探したけど、そう簡単にみつからない。

 今住んでいるアパートは伯父さんの持ち物だ。老朽化が進んでいて、建て替えることになっている。

 建て替えるあいだ、伯父さんは自分の家に住めと言ってくれてる。けど正直言って、伯父さんの家には、行きづらい。何しろ伯父さんの長男の幸一こういちさんは去年結婚したばっかりだ。伯父さんの家に行けば、新婚さんと同居することになる。それに、伯父さんは好きなんだけど、伯父さんの奥さんは苦手だ。

 といっても、ほかにどうしようもない。

 アルバイトはしてるけど、家賃と生活費を稼げるほどじゃない。今までだって、伯父さんが自分のアパートにただで住ませてくれたし、援助もしてくれたから、高校を卒業できた。

 こんなときには、父さんや母さんが生きていたらと思う。でも死んでしまったものはしかたがない。母さんに優しい兄さんがいたことに感謝するべきだろう。

 大学に行けたら、生活費は自分で何とかするけど、学費は伯父さんが出してくれることになっていた。でも伯父さんの本業の自動車修理工場は、あんまりうまくいってないようだ。それなのに、幸一さんと同居するために、びっくりするほど大規模な改修工事をやったばかりだから、大変だと思う。

 だから、大学受験に失敗して、ちょっとほっとしてるところもある。もし合格しちゃったら、四年間、肩身の狭い思いをすることになったはずだ。

 あとは仕事をみつけて自立すればいい。

 それで仕事先を探し始めたけど、そうすぐにみつかるものじゃない。

 そんなある日、弁護士を名乗る人が訪ねてきた。

「弁護士の殿村とのむら隆司りゅうじと申します」

「は、はい」

羽振鈴太はぶりりんたさまですね」

「はい」

「失礼ですが、お父さまのお名前を教えていただけますか」

羽振弓彦ゆみひこです」

「お母さまのお名前は?」

鶴枝つるえです」

「ああ、やっぱり。やっぱりあなたがそうでしたか。今になってみつかるなんて。でも間に合ったというべきなのか」

「あの……?」

「羽振弓彦さまの出生地をご存じですか?」

「いえ。知らないんです」

「弓彦さまのお父さま、つまりあなたのおじいさまのことはご存じですか?」

「いえ。聞いたことがありません」

「そのおじいさまが亡くなられました。鈴太さまには、ぜひそのご葬儀にご出席いただきたいのです」


3


 バイト先の店長に電話を入れ、数日間休みを取らせてもらった。

 殿村さんも、どこかに電話をかけていた。

 そして、あわただしく出発して東京駅から新幹線に乗り、岡山に向かった。

 殿村さんが駅弁を買ってくれた。

 うまかった。

 道中、いろいろと話を聞かせてもらった。

 殿村さんは、何年も前からお父さんのゆくえを探していたらしい。

 お父さんは、何回目かの引っ越しのときから、住民票を移していなかったそうだ。

 住んでいたアパートの大家さんが亡くなってしまって、そこから追跡がむずかしくなった。

 伯父さんの家には何度か連絡をとったのだという。

 そのたびに伯母さんが対応して、お父さんとお母さんがどこにいるか知らないし、連絡もとれない、と答えたらしい。真っ赤な嘘だけど、あの伯母さんなら、いきなり弁護士さんから電話があったら、そういう対応をするかもしれない。

 だから、殿村さんは、お父さんとお母さんが死んだことも、つい数日前まで知らなかった。おじいさんの容体が悪化して、もう一度区役所に問い合わせをして、お父さんとお母さんが五年前に死んでいたことを知り、伯父さんの家を訪問して、ついに俺のことを突き止めたというわけだ。

 殿村さんは、俺がどんな暮らしぶりをしているか、叔父さんと叔母さんがどんなふうに手助けをしてくれているかなどを、いろいろ訊いてきた。

 お父さんとお母さんが亡くなった交通事故について、あれこれ質問してきた。

 保険金も見舞金もなかったと話すと、ちょっと変な顔をしていたけど、ほんとになかったんだからしかたがない。

 岡山駅で殿村さんはタクシーを拾った。

 これにはびっくりした。

 なぜかというと、岡山駅からバスで一時間半かかる地方都市があって、じいちゃんの住んでいた村は、そこからさらにバスで一時間近くかかるって聞いていたからだ。つまり、二時間半もタクシーに乗ることになる。

(まさかその料金は俺に請求してくるんじゃないだろうな)

 窓の外のみなれない景色をみているうちに、タクシーは、名前に聞き覚えのある地方都市に着き、そこからさらに山奥に進んだ。

「距離的には、そんなに遠くないんですけどね。遠回りしないと着けないので、時間がかかるんですよ」

 やがて車は大きな川にかかる橋に差しかかった。

「この川は天逆川あめのさかがわという川です。なかなか立派でしょう。ここを渡れば羽振村はぶりむらまではすぐですよ」

 その言葉通り、しばらくすると木々の向こうに村がみえた。

 山のなかに、ひっそりと寄り添うように建つ、ちょっと古めかしい家の数々。

「ここで降りましょう」

 駐車場でも何でもないただの草原で車を止めると、殿村さんはそう言って車を降りた。俺も降りた。

 ものすごい山奥だ。

 でも、なんだろう。

 車から降り立って、山々のたたずまいと村の家々をみているうちに、ふしぎな懐かしさが込み上げてきた。

(ここが、俺のふるさとなんだ)

 新鮮な空気を胸の奥に吸い込むと、その空気が体のすみずみにまでしみ込んでゆく。体のあちこちが元気になってゆくのを感じる。この村の空気は、俺を元気にしてくれる空気だ。

(なんて気持ちいいんだろう)

 帰るべき所に帰って来たんだという感じがする。


4


 じいちゃんの家は乾物屋だった。

 こじんまりした乾物屋の奧の部屋に布団が敷いてあり、じいちゃんが寝ていた。

 黒い和服を着た綺麗な女の人が部屋にいて、じいちゃんの顔を覆っていた白い布をはずした。

(誰だろう? じいちゃんの孫なのかな? いや、娘?)

 その女の人が誰かということも気になったけど、俺の意識は、じいちゃんに向いていた。

(じいちゃん……)

 たくさんのしわが刻まれた、男らしく、毅然とした死に顔だった。

 どんな声をした人だったんだろう。

 どんな顔で笑う人だったんだろう。

 死に顔をみているうちに、ぽたぽたと涙が流れ落ちた。

(俺に家族がいたなんて)

(じいちゃん)

(生きてるうちに会いたかったよ)

(生きてるうちに来られなくて、ごめん)

 俺は、はじめて会ったじいちゃんに、取りすがって泣いた。


5


 葬儀会場はお寺だった。

 なんと、俺が喪主だった。

 びっくりするぐらいたくさんの人が詰めかけた。

 みんな俺に名乗ってあいさつをした。

 まだこどもといっていい俺に、大のおとながかしこまってあいさつするのは変な感じがしたけど、これが葬儀ってもののしきたりなんだろう。

 昨日のあの女の人は、ここには来ていない。どういうことなんだろう。

 ほんとに大勢の人がやって来た。

 本堂には入りきらなくて、縁側に座布団を敷いたり、庭に椅子を並べたりして会葬してた。

 俺は早々に足がしびれてしまった。

 そんな俺に、殿村さんは、ささやき声で言った。

「正座じゃなくていいよ」

 そう言われて、足をくずした。

 最初は横に足を投げ出したけど、その姿勢もつらくなったので、あぐらをかいた。

 ちらと周りをみると、ほかにもあぐらをかいている人はけっこういる。

 葬儀が終わったら火葬場に行くものとばっかり思ってたが、ちがった。

 なんとひつぎを何人かでかついで、山のなかに入り、埋めたのだ。

 あらかじめ大きな穴が掘ってあった。

 びっくりした。

(死体って、火葬にしなきゃいけないんじゃないの?)

 そんな俺の心配をよそに、棺には上から土がかけられ、木の墓標みたいなものが差し込まれ、和尚さんが何かお経のようなものを唱えて、埋葬は終了した。

 みんなが立ち去ったあとに、一人のとても年取った女の人が、しゃがみこんで頭を垂れ、ずっと何かを祈っていた。その白髪の女の人が〈艶婆つやばあ〉という名前だということは、あとになって知った。


6


「鈴太か! すっかり大きゅうなったのう。ばっはっは。弓彦ゆみひこによう似ちょる。幣蔵へいぞうの面影もあるのう」

 みんなが帰ったあと、殿村さんと和尚さんにあいさつに行ったら、いきなりそんなことを言われた。

 羽振弓彦は、父さんの名前だ。

 羽振幣蔵が、じいちゃんの名前だ。

「あ、あの。俺を知ってるんですか?」

「うん? ああ、覚えちょらんか。無理もないのう。この村を出たとき、お前はまだ二歳かそこらじゃった」

 衝撃の事実だ。

 なんと俺は、この村で生まれたらしい。

 それにしても、この和尚さん、狸の置物にそっくりだ。

 屋島狸っていうんだっけ?

 店先になんか置いてある、焼き物の狸にそっくりな顔つきと体つきだ。

 くりくりっとして奧に引っ込んだ両目。

 突き出た鼻。

 顔にはうぶ毛がいっぱい生えていて、特に口の周りはびっしりとうぶ毛で覆われている。というか、これ、ひげなんだろうか?

 みごとな太鼓腹で、笑うとゆさゆさゆれる。

 ちょっと妖怪じみた和尚さんだ。

 けど、人なつっこい感じで、親しみを感じる。

 和尚さんは、〈じゅごん和尚〉と呼ばれていた。

 どんな字を書くんだろう。

 そういえば、ジュゴンとかマナティに似てなくもないけど、まさかあだ名じゃないだろうな。

 この村の人には、きっとこのお寺の檀家だんかさんも多いだろうし、檀那寺だんなじの住職さんを海洋生物のあだ名で呼ぶとか、ちょっと怖すぎる。

「いやいや、よう帰って来てくれたのう。うん、うん。まあ、もう今さら大丈夫とは思うけど、やっぱり鈴太が帰ってきてくれて安心じゃ。ほんまによう帰って来てくれたのう」

 やたら喜びをあらわにするフレンドリーな和尚さんに、いろいろ聞いてみたいこともあったけど、とにかくこの日は疲れていたので、家に帰った。殿村さんも一緒だ。

 家に帰ると、殿村さんの布団と、俺の布団が、別々の部屋にちゃんと敷いてあった。誰が敷いてくれたんだろう。


7


「さて、鈴太くん。羽振幣蔵氏には、生きている家族は、君しかいない。君に遺産を譲りたい、というのが幣蔵氏の遺志だ」

「俺しか?」

「そうだ。幣蔵氏のおもな遺産は、広大な山林だ。この村の後ろにみえる三つの山がそうだ。それからこの羽振村はぶりむらの三分の二ほどが幣蔵氏の所有だ。預金もある。そしてもちろん、この乾物屋とね」

 びっくりだ。

 小さな乾物屋をやってた人なんだから、遺産というようなものがあるとは思わなかった。

 山が三つだって? いくら田舎とはいえ、それはすごいんじゃないんだろうか。あ、でも家を建てたりするには、確か宅地指定とかがいるから、そんなに財産価値のある不動産じゃないのかもしれない。

「相続にあたっては、条件がある」

「条件、ですか?」

「うん。それは、君がこの村に住むことだ」

 それはまさに、俺が今願っていることだ。

 ふしぎなことなんだけど、俺はここに住みたい。ぜひ住みたい。

 この二日間のうちに、強くそう思うようになっていた。

 ここに住むことが遺産相続の条件だなんて、こんな好都合なことはない。

「住みたいです。俺はここに住みたいです。この乾物屋に住んでいいんですか?」

「うん。もちろんだ。ああ、できればこの乾物屋を続けてほしい、と幣蔵氏は言っておられた」

「え? でも、乾物屋のことなんか、俺わかりません」

「この乾物屋には、神籬天子(ひもろぎてんこ)さんというベテランの店員さんがいる。できたらその人を引き続き雇ってほしい、とも幣蔵氏は言っておられた」

「ひもろぎ、てんこ? あっ。もしかしたら、最初の日にこの乾物屋にいてくれた人ですか」

「そうだ」

「それは助かります。あ、でも、その人を雇い続けられるほど、収入があるかどうか」

「彼女の給与は、幣蔵氏の資産から自動的に支払われるようになっている。そんなことでびくともする資産ではないから、安心していいよ」

「そ、そうなんですか」

「ちなみに、相続税の処理についても、生前の幣蔵氏から指示されている。山林は売却せず、預金から支払うことになっている。税金は莫大な金額になるが、それでも君や、将来結婚する君の妻、それにこどもたちが生活するのに充分な額が残る」

「け、結婚ですか」

 少し声が裏返ってしまった。

「うん。それに土地の使用料や山林の木材を伐採した代金が定期的に入ってくるから、率直に言って、君も君の家族も働かなくても食べていける」

「働かずに生活、ですか」

「対価を得る労働だけが尊いわけではない。お金にならなくても、世の中のためになる事業をしたり、自分自身の興味が持てる研究をしたりするのも生き方の一つだ。まあ、そんなことはおいおい考えればいい。とにかく、君には選択肢が多いわけだ。ただし、村の外に移住することはできないし、長期間この村を留守にすることも、故人の遺志にかなわない。そのことはよく覚えておいてほしい」

「はい」


8


 それから数日というものは、あれこれと手続きについやされた。

 伯父さんの家にも殿村さんはついてきてくれて、いろいろと説明をしてくれた。

 降って湧いたような話に、伯父さんは驚いたけど、俺にふるさとがあると知って、涙ぐんで喜んでくれた。ほんと、いい人だ。この人が伯父さんで、よかった。

 伯母さんは、俺がじいちゃんの遺産を相続すると聞いて、人のよさそうな笑顔で、でも目を爛々らんらんと輝かせながら、どんな遺産ですかと質問してたけど、殿村さんが、小さな乾物屋を継がれることになります、と言ったら、急に興味をなくしたみたいだ。

 役所にも行った。

 たくさん書類を書いて判子を押したけど、まだこれは正式の手続きじゃないらしい。ほんとの遺産譲渡は、俺が成人してから行われる。それと、お試し期間というか、経過観察というようなこともあるらしい。今のところは殿村さんが責任を持って、いろんなことを代行してくれてるようだ。

 手続きが終わると、殿村さんは帰って行った。来月一度ようすをみに来ると言い残して。

 引っ越しは、あっけないほど簡単だった。

 財産といえるようなものは、ビニールバッグ一つに詰め込める程度の服と、古いノート・パソコンと古いギターと、それから書類が少々と、思いっきり古ぼけた鈴が一つだけだ。家具といっても、みんな壊れかけたようなものばかりで、そのままにしておけば解体のとき一緒に処分してくれるという。

 けれど俺は、捨ててしまう物も綺麗に整理して、部屋の大掃除をした。

 さよなら。ちっちゃな、ちっちゃな、俺の城。

 今まで、ありがとう。

 さあ、羽振村での生活が始まる。


9


「今さら鈴太を呼び戻さんといかんかったんか」

「言うてくれるな。幣蔵の頼みゆえのう」

「幣蔵も、弓彦が役割から解き放たれて、自由に生きてゆくことを喜んでおったじゃろうに」

「そうだったのじゃが、やはり死期が迫ってみて、孫に帰ってきてほしいと思うようになったのであろうな」

「生きとるうちには会えなんだけどのう」

「鈴太は幸せに暮らしておったとはいえぬ。それを知った幣蔵は、一族の財産を継がせたいと思うたのじゃ。そしてわれらの庇護のもとに、新たな出発をさせたいと思うたのじゃ」

「一族の重荷も継ぐことにはならんか?」

「秘密を明かす必要が起きなければ、教えなければよいだけのこと」

「まあ、それはそうか。それにしても、この村に住むことが遺産相続の条件とは」

「それは伯父や伯母から鈴太を守るための方便が半分じゃな。あとの半分は、一族の血がしみこんだこの里を、最後の末裔にみてほしかったのじゃと、わらわは思う。いずれにしても、時が来れば役目は終わる。鈴太を縛るものもなくなる。そのあとの人生を、一族の財産を使って自由に生きればよい」

「そうじゃなあ。鈴太にとっては、人生の選択肢が増えるといえば増えるわけじゃなあ」

「鈴太がどんな人間なのか、どんなことを望むのか、それによってもわらわたちの動きは変わる。あの一族が今日まで尽くしてくれたことを思えば、その末裔に少しばかりの褒美があってもよい」

「長い時間は、わしらにはないぞ」

「それはわかっておる。昨年のうちには終わると思っておったくらいじゃからの」

「鈴太は、いきさつを不審には思うておらんか?」

「殿村がうまくやってくれたようじゃ」

「あいつは人間のあいだで鍛えられとるからのう」

「鈴太がどんな子に育っておるか、わらわは楽しみでしかたがない」

「素直な子に育っておるようじゃった」

「それにのう、呪禁法師じゅごんほうしどの」

「何じゃな、天狐てんこよ」

「長い長い物語の最後を締めくくるには、やはり法師どのとわらわと、そして〈はふり〉の者がそろうておらねば、格好がつかんではないか」

「それもそうか」

「長かったのう」

「長かったとも」

「もうすぐじゃのう」

「もうすぐじゃとも」


10


(誰だ、この子?)

 朝の六時から訪問者だ。

 眠い目をこすりながら玄関口に出てみると、高校生ぐらいの女の子が立ってた。

 身長は、俺より低い。

 俺は、同級生のなかでは身長が高いほうじゃなかったけど、その俺より、このは背が低い。まだ発育途上なんだろう。

 といっても、それは至近距離だからそう思うので、もう少し離れてみれば、身長が低いとは思わないだろうと思う。

 なぜかというと、スタイルが抜群にいい。

 顔も小作りで、初々しく、花が咲いたように美しい。

 切れ長の目と、すらりとした眉毛と、純日本風を感じさせるみどりの黒髪。

 ため息のでるような美少女だ。

ふわりとした白いブラウスと紺色のスカートが、とてもよく似合っている。

 いつもの俺なら、どきどきしてまともに会話もできないような相手だ。だけど、このところいろいろあって精神的に疲れきっていたのに、眠いところを起こされ目覚めきっていない俺は、自分でもびっくりするような振る舞いに出た。

 つまり、不機嫌そのものの声で、こう訊いたのだ。

「あんた、誰?」

「おはよう、鈴太どの。そういえば、この前はちゃんとあいさつもしておらなんだのう。わらわは、この店の店員で、神籬天子ひもろぎてんこと申す者。こたびは、ご祖父幣蔵へいぞうどの身罷みまかられ、まことにあたらしく存ずる。また、わらわを引き続きお雇いくだされるとのこと、厚く礼を申す」

 今どき、〈わらわ〉なんて一人称を使う人がいるんだなって驚いたけど、岡山県は〈去ぬる〉とか〈死ぬる〉とかのナ行変格活用が残ってるような土地柄だから、そういうものなのかもしれない。

 というか、言い回しがむずかしくて、あまり理解できなかった。

 けど、あいさつのなかに、聞き逃せない単語があった。

「ひもろぎ、てんこ、さん……」

「さようじゃ」

「ひもろぎ、てんこ、さん……」

「うむ」

「ひもろぎ……ええっ? ひもろぎさん!? あの、和服美人の?」

「確かにこの前会うたときは和服を着ておったのう。美人というのも正しい」

「えええええええっ!?」

 驚いたけど、なるほど、と思うところもあった。

 なぜかというと、和のテイストだ。

 少女の着ている服は、確かに洋服なのだが、ちょっとみると和服のような印象なんだ。

 風通しのよさそうな白いブラウスは、どんな構造になっているかよくわからないけど、長い襟がついていて、まるで和服のように左右を重ね合わせている。袖も先っぽが広がっている感じで、やっぱり和服っぽい。その下にはいている紺色のスカートも、すごく長めで、ひだもついていて、まるではかまのようだ。

 ひもろぎ・てんこというひとは、〈和服美人〉だと強く脳にすり込まれていたので、和服美人つながりで、目の前の少女がひもろぎ・てんこだといわれて、そういえばと納得することができたのだ。

 約十分後、寝間着からジャージに着替えた俺は、ちゃぶ台の前に座って、天子さんのれた茶を飲んでいた。

「へえー。ひもろぎ、って、こう書くんだ」

 ずずっと茶をすすりながら、ちゃぶ台の上に置かれたレポート用紙に、天子さんが自分の名前を書くのをみていた。

「てんこ、って、天の子って書くんだ。珍しい名前だね」

「うむ。この名を名乗れる者は、めったに現れぬ」

「へえ? すごいんだね」

「ふふ。素直なおのこじゃな。もっとほめてよいぞ」

「そういえば、部屋が綺麗だけど、もしかして天子さん、掃除してくれてた?」

「うむ」

「そうなんだ。ありがとう」

「礼には及ばぬ。羽振の者の世話をするのがわらわの仕事。しかし、鈴太どのがこうして帰還したのじゃから、住宅のほうは自分で掃除するがよい。店の掃除はわらわも手伝うがの」

「うん。ところで、その、〈どの〉っていうの、やめてくれないかなあ」

「わかった、鈴太」

 いきなり呼び捨てかよ、と思ったが、話をしていると、思ったより年上に思える。見た目は若々しくて、高校生ぐらいにしかみえないのだけれど。むしろ俺のほうが、こんな口の利き方でいいんだろうか。社会人同士だし。でも、もうそうなってしまってるし、気を悪くしているみたいでもないから、まあ、よしとしよう。

「さて、行かねばならぬ所がある。はたきと、ほうきと、奇麗な布巾、雑巾と、バケツの置き場所はわかっておるかの」

「いや、わかんない」

「では、まずそこからじゃの」


11


 村のずっと奧の奧の端っこに、木々と背の高い草に囲まれた石段があった。

ほんの十段ばかりのその石段を登ると、平らに整地した地所があり、神社のようなものがあった。

(うわあ。なんてすごい眺めなんだ!)

 神社の後ろはすとんと低くなっていて、眼下に映るのは広大な森林だ。そしてその向こう側に、三つの山がそびえたっている。

 山は乾物屋からでもみえるが、この場所でみると、ほんとに風格というか、何ともいえない雰囲気を持ってる山だ。

 真っ正面にみえてる、ひときわ高い山が、蓬莱山ほうらいさん。たしか羽振村からいうと北東の方向にあたるはずだ。

 右にみえるのが、白澤山はくたくさん

 左にみえるのが、麒麟山きりんざん

 ちょっと大げさなネーミングだと思ったけど、ここでみると、そんな名前がぴったりだと思えてしまう。

 目線を神社に戻すと、奇妙なことに気がついた。

 上がり口の真ん中に、小さな石の台が置いてある。台というか何というか、石版の両側に四本ずつ足をくっつけたような格好だ。

 神社の正面の階段の下には、ふつうお賽銭箱とかを置くんじゃないだろうか。まあ、お賽銭箱を置いても、お金を入れる人がいるかどうか知らないが。

 それにしても、不思議な感覚だ。

 この神社をみて、懐かしい気持がした。

 何か温かいものに抱かれているような感覚がした。

 こんな建物のことは俺の記憶には残っていないけど、小さいころ来たことがあるから懐かしく感じるんだろうか。いや、二歳かそこらじゃ、覚えているわけないか。

「これじゃ、外用のほうきも持って来たほうがよかったね。草を刈る鎌もいったかも」

 境内地は、雑草がたくさん生えている。葉っぱもたくさん落ちている。

「それはいずれ、またやるとよい。まずは社のなかじゃ」

 戸を開けてなかに入ると、なかは意外とよごれていない。むしろ綺麗といえる。

「天子さん。このお社のなかも、掃除してくれてたのかな?」

「いや。ここの掃除をできるのも、祭具にさわれるのも、羽振の家の者だけじゃ」

「そうなんだ」

 中央の奧には掛け軸のようなものが掛けてあり、その前に祭壇がある。神社などでみかける二段の台だ。上側の段には、まんなかに古代の鏡みたいなものが、その両脇に名前は忘れたけど平安時代なんかに使ってたお酒の器が、ふちのある木の台に載っけて置いてある。

 下側の段のまんなかには、足つきの木の箱が中央に置いてあって、その両脇に白い花活けがある。花活けには黒く枯れた枝が残っていて、祭壇の上や床の上に、黒く干からびた葉っぱが落ちている。

 俺は、天子さんに指示されながら、まず祭壇の掃除をした。不思議なくらい、ほこりは積もっていなかった。

 「上の段のご神鏡は、あとで奇麗な布巾で拭くとよい。木箱は、外側は拭いてよいが、なかをみてはならぬ」

 まずはご神鏡にはたきをかけて、布巾でから拭きした。

 酒器のなかのお酒は外の木の根元にまいて、なかに水を入れて洗い、持って来たお酒をそそいだ。

「神に供えた酒は、お神酒みきというのじゃ」

 それは聞いたことがある。

 花器も中身を捨ててなかを洗った。そして境内に生えていた木の枝を切り、新しくお供えした。

「その木は、さかきというのじゃ」

 さかき。

 聞いたことがあるような気がする。どんな字を書くんだっけ。

 箱は、外側からはたきをかけ、布巾でから拭きした。

「そういえば、天子さん。この神社っていうか、お社、何をお祭りしてるの?」

「ふむ。土地を守ると書いて〈地守ちもり神社〉と呼ばれておるの。本当はちがう名前があったのじゃがな」

 本当はちがう名があった?

 奇妙な話だと思ったけど、それ以上は聞かなかった。

 俺は掃除しながら、いろんなことを天子さんに訊いた。

「この村の名前って、羽振村はぶりむらだったね」

「うむ」

「俺の名前も羽振なんだけど、羽振村出身だから羽振なのかな?」

「いや。この村で羽振という名字を許されておるのは、もとの村長むらおさの一族だけじゃ。つまり、今はおぬしだけじゃな」

「村長だったんだ、うちの家」

「というより、この村には、もともと羽振家の者だけが住んでおった」

「えっ? そうなのか」

「うむ。羽振家は神官の家柄での。この社ができたとき、ここにやってきた。そこにあとから人々がやって来て住み着くようになった。今は村の三分の一ほどが自己所有の地所に住んでおるが、もともとは羽振家が貸し与えたものじゃったのじゃ。ほとんどの家は古くから続いておって、羽振家に世話になってきておることをよく知っておるから、羽振家からの頼み事は断らんし、羽振家当主の葬儀ともなれば、村人全員が駆けつける」

(そういうわけだったんだ)

(どうりで、じいちゃんの葬儀、やたら人が多いと思ったけど、あれ、村人全員だったのか)

(それにしても、この社が村の起こりだったんだ)

(この社の周りに村ができたんだ)

(だから、今は役目も終えて荒れ果てたけど、こうやって羽振家の者が、時々お掃除してあげるんだな)

 そう思うと、なんだかお社の掃除をすることが、誇らしくなってきた。


12


「ふうー。腹減った」

「ご苦労じゃったの。さっそく朝食を作るからの」

 天子さんは、ほんとにまったく掃除を手伝ってくれなかった。

 お社の掃除は羽振家の者がするということをはっきりさせるためなんだろうか。

 俺が一服しているあいだに、天子さんは手際よく二人分の朝ご飯を作ってくれた。

「いただきます」

「頂戴いたす」

 あ、味噌汁、おいしい。

 それに、この味は……。

「おとといと昨日と、ご飯を作ってくれてたの、天子さんだったんだ」

「ほう? その通りじゃが、味噌汁を飲んだだけでわかったのかの?」

「うん」

「舌の感覚は鋭いようじゃな」

「そうでもないけど」

「これからも毎朝、食事は作りに来る。昼ご飯もな。夕食は作り置いておくから、温め直して食べるがよい」

「えっ? そんな、悪いよ」

「幣蔵が生きておったあいだは、ずっとそうしておったのじゃ。あやつは料理がまったくできなんだからの。習慣になってしもうたから、今さら生活を変えたくない」

「でも、天子さん、ご家族あるんでしょ?」

「いや。わらわは一人暮らしじゃ」

「あ。……ごめん」

「うむ? 謝られるようなことではない」

 一人暮らしなんだったら、ここに来て一緒に食事をするほうが楽しいだろうな。

「でも、それなら、晩ご飯も一緒に食べて行けば?」

「家のほうでもやることがあるしの。この季節は昼が長いが、山のなかは、早く暗くなる。日が落ちる前に家に着いていたいのじゃ」

「あ、そりゃあそうか」

 山のなか?

 いったい天子さんは、どこに住んでるんだろう。

「わかった。でも、実は俺も食事は自分で作る習慣なんだ」

「ほう」

「だから、代わりばんこにしようよ、食事当番」

「ふむ。それも楽しそうじゃな」

「うん! そうしよう」

 それから、村のことをいろいろ聞きながら食事をした。

 すごく楽しかった。

 高校のとき、昼ご飯は学校で食べたから、一人ということはなかったけど、朝ご飯と晩ご飯は、いつも一人で食べてたから、こうやって誰かと話しながら朝ご飯を食べるなんて、ちょっとした事件といっていいほど画期的なことで、俺はかなりうきうきしていた。

 しかも相手はとびきりの美人なんだから、ちょっぴりぐらい舞い上がっても当然だろ?

 あっという間に食事は終わり、天子さんと俺は、食後のお茶をすすった。

「あのお社は、毎日掃除したらいいのかな?」

「毎日? いや、そこまでせんでもよい。幣蔵は、元気なときでも週に一度ぐらいじゃったな。最後は月に一度じゃった。それでも、死ぬ前の月まで、毎月一日になると、地守神社のお清めをしておった」

「ふーん」


13


 乾物屋での暮らしが始まった。

 一見雑然としてるけれど、意外に機能的に商品が配列されていた。

 空間をうまく使って狭い範囲に多くの物を詰め込んでいるから雑然とみえるが、よく売れる品は出しやすい所にあり、奧のほうにはめったに売れないけれど、たまには要望のある珍しい品などが置いてある。

 乾物屋というけれど、実際には何でも屋だ。お酒だってある。

 村には酒屋があるけれど、この乾物屋とは相当に距離が離れていて、この店でお酒を買う固定客が何人かいるのだ。

 気合いを入れて店の掃除をしたら、売れ残りの古すぎる商品も出てきた。なかでもびっくりしたのは、ソビエト連邦産のズワイガニの缶詰だ。製造年月日はみずに、こっそり捨てた。

 奇妙な民芸品みたいな物もいっぱいあった。

「天子さん。これ、何?」

「うん? ああ、それは海が荒れたとき波に沈めると、人間が溺れずにすむおまじないの人形じゃな」

 こんな山奥で、そんな物を買う人がいるんだろうか。それに、海が荒れるっていうけど、瀬戸内海が?

「これは?」

「ああ。それは、死人を掘り起こして盗む妖怪が出たとき、死体を動かせなくする飾り物じゃな」

 そういえば、じいちゃんの棺桶のなかに、おんなじ物が入ってた気がする。

 田舎って、こういう古い習わしをちゃんと守るんだ、と感心した。

 迷信といってしまえばそれまでだけど、これもある意味伝統の一種かもしれない。

 まあ、そういう習わしがあるんなら、売れる可能性はあるわけだ。

 午前中は、来る人のようすがのんびりしている。ぽつりぽつりと、散歩のついでみたいに寄って、長話をしていく。お客さん同士で話すこともある。そういう人には、お茶と漬物を出す。

 昼食後から夕方までのあいだは、けっこうお客さんが多い。この時間帯のお客さんは夕食のしたくを始める前の空いた時間に、ちょっとした物を買って行くお客さんで、買い物をしたらすぐ帰ってしまう。

 これでも俺は、バイト歴が長い。コンビニのバイトもやった。

 コンビニでバイトしたときは、こんなわずかな面積にこれほどの種類の商品があるのかとびっくりしたが、この店の品ぞろえというか、多種多様さは、コンビニを上回るんじゃないだろうか。

 それでもカテゴリー別に固まって配置されているのを理解してからは、目的の商品にたどり着くのが早くなった。

 というか、たいていの場合、お客さんのほうで、自分の欲しい物がどの辺りにあるか見当をつけて、そこから気に入った商品を取り出すことが多い。

 問題は値段だ。

 値段の一覧表を書いたノートはあるが、これはカテゴリー別になっていなくて、古い物から順に書かれている。売値を変更した場合や、その商品の仕入れをやめた場合は線を引いて消してある。

 とてもじゃないけど、このノートじゃ、値段はすぐにわからない。

 最初のうちは、全部天子さんに訊いた。

 そして古いノートパソコンを駆使してカテゴリー別の値段表と五十音順の値段表を作った。

 名前をみても商品と結びつかない物がたくさんあって、困った。

 ジンヤライ

 トモスケ

 サンダラボッチ

 モンガエシ

 ヤマノカミオクリ

 タノカミムカエ

 かたっぱしから天子さんに聞いた。

 天子さんは、俺が聞いたことは全部知っていて、いちいち商品と、その使い方を教えてくれた。

 名前だけわかって値段のわからない物もたくさんあった。

 おふだの類はほとんどそうだ。

「あ、お札はの、売り物ではないのじゃ。必要とする者がいたら、ただで渡せばよい」

 何でこんなにいろんなお札が、と思ったけど、よく考えたら神主の一族なんだから、先祖代々伝わってるのかもしれない。

 ということは、このお札、じいちゃんが作ったんだろうか。

 一番困ったのは、方言だ。

 最初のうちは、ちんぷんかんぷんだった。

 こてこての岡山弁というのが、こんなにもわかりにくいものだとは思わなかった。

 でも、何とか会話しているうちに、聞き慣れていった。

 そうすると不思議なもので、脳内で勝手に翻訳して聞き取れるようになった。

 わからない単語は、天子さんに聞いた。

「みててしもうたけん(なくなってしまったから)」

「おえりゃあせんが(だめだなあ)」

 こういう言葉は、意味を教えてもらわないとわからない。

 少しずつ、岡山弁のボキャブラリーを増やしていった。

 最初に話し合った通り、料理は二人で毎日交代で作ってる。

 日曜日にも平然と通勤してきたので、最初はびっくりしたけど、何というか、この村では、曜日感覚というのは、あまり重要じゃない。


14


「法師どの」

「なんじゃな」

「少し酒が過ぎるのではないか」

「ばっはっはっ。酒はうまいのう」

「毎日一本ずつ、鈴太に配達させておるな」

「おお。毎日ではめいわくじゃったか。それなら週にまとめて十本にしようかのう」

「配達のことを言うておるのではない。法師どのの体のことを言うておるのだ」

「ばっはっはっ。酒ぐらい好きに飲ませてくれ。わしのたった一つの楽しみじゃ。それにな。正直言って、酒を飲んでいないと体の痛みとだるさに耐えられんのじゃ」

「長年の戦いで疲れきった体じゃからのう。無理もない」

「鈴太はどうじゃ?」

「ほんに素直な子じゃ。かわいいものじゃ」

「はっはっ。気に入ったか?」

「大いに気に入った。幣蔵に会わせてやりたかったのう。明日は花見に連れて行ってやろうと思う」

「連れて行く? ばっはっは。おぬしが行きたいんじゃろうが」

「もちろん、わらわは花見をしたい」

「どこに行く?」

「白澤山じゃな」

「白澤山に別れを告げてくるか」

「そのつもりじゃ」

「わしのぶんまで、存分に名残を惜しんできてくれ」

「心得た。それからのう」

「何じゃな」

「一升瓶のケースは六本入りなのじゃ。注文するなら六本か十二本にしてもらいたい」

「……すっかり商売にそまっちょるのう」


15


 今日は突然花見になった。

 朝、天子さんが来るなり、今日は花見に行くぞ、と宣言したんだ。

 天子さんは、たくさん料理の材料を持ってきた。煮染めとかは、作ったのを持って来た。一緒に素材を料理して、ごちそうを作ったんだ。

「あ、でも、お店を閉めることになるなあ」

「閉めずともよい。これを出しておくのじゃ」

 それは底の浅い箱と貼り紙だった。メモ用紙と鉛筆がくくりつけてある。

〈留守にしてます。商品の代金はこの箱に入れてください。配達の注文は、メモ用紙に書いて箱に入れてください〉

「こんなに浅い箱じゃあ、簡単にお金を取れるよ?」

「お金が取れないと、お釣りがいるとき困るじゃろう?」

 なるほど。そうですか。性善説なんですね。

 それにしても、今日の天子さんは、みるからにうきうきしている。

 まるで、こどものようだ。

 普段おとなびているから、なおさらそう感じる。ギャップ萌えだな。

 行き先は白澤山だということだった。

 確かに白澤山には、桜が咲いてる。東京ではもう桜は散りきってるころだけど、やっぱり山のなかだから、咲く時期も散る時期も遅いんだろう。

 二人は店を出て、てくてく歩いた。白澤山と羽振村のあいだには樹恩じゅおんの森があるけど、今日はそこを通らない。その手前の細道を外側から回り込むと、森を通るのよりずっと早く白澤山に着けるんだそうだ。

 天気はいいし、とびっきりかわいい女の子と二人っきりで花見だ。俺もうきうきした気分になってもいいはずだ。

 ずいぶん長いこと歩いた。

 春の山や森をみつめる天子さんのうれしそうな顔をちらちらみながら歩くのは、とっても楽しかった。

 山に着いてしばらく歩くと、すごくみはらしのいい所に出た。

「うわあ。こんな所があるんだ」

「よいながめであろう?」

「うん! 最高だね」

 さっそくビニールシートを引いて花見場所を確保すると、料理を広げようとした。

 そのとき、風が吹いてきたんだ。さああああっとね。

 桜の花びらが舞った。

 花見のベストポジションに選んだくらいだから、桜に囲まれた場所だ。その桜の木々から、一斉に無数の花びらが躍り出て、風に遊んでひらひらと空間を埋め尽くした。

 桜しかみえない光景というものを、俺は体験した。

 それは感動の光景だった。

 心臓をつかまれたみたいに硬直してしまって、ただただ舞い狂う桜にみとれていた。有名な忍者が使う茶色の木の葉のように、桜にはしびれ薬が含ませてあるにちがいない。

 木から吹き散らされた花びらは、地面に落ちるはずだ。

 地面に落ちるまでの短い時間、風に吹かれているだけのはずだ。

 だけど、とてもそうは思えなかった。

 桜は意志を持って落下をこばみ、宙を飛び続けようとしていた。

 振り返ってみれば、ごく短い時間のことだったんだろうけど、ほんとに時間が止まったかのように、俺には感じられたんだ。

 ふとみれば、桜吹雪のなかに天子さんがいた。

 まるで妖精のようだ。

 いつもと表情がちがう。

 透明な表情、とでもいえばいいんだろうか。

 すぐそばにいるのに、手の届かない遠くにいるように思える。

 そんな表情を、天子さんはしている。

 まっすぐ立ったまま、右手を軽く握って体の前に突き出した。

 手の甲が上を向いている。

 あ。

 今、天子さんは和服を着ているんだ。

 軽く握った手は、和服のすそをつまんでいるんだ。

 なぜかそう思った。

 普通の和服じゃない。巫女さんが着るような服だ。

 天子さんは、ひょいと右手をたぐるしぐさをした。

 俺の目には、ありもしない和服の袖の垂れた端っこが、ひょいと天子さんの右手の上に載るのがみえた。

 天子さんは、そのまますうっと腰を落とした。

 頭は揺るがない。

 右にも左にも、前にも後ろにも、まったく揺るぐことなく、体と一緒にすうっと沈んでいく。

 左手は、左の太ももの上に載ってるんだけど、何かを持ってる。

 扇だ。

 天子さんの左手には、閉じた扇が握られている。

 それからおもむろに頭を下げた。お辞儀をしているんだ、と思った。

 そんな天子さんに、さらさら、さらさらと、桜が舞い落ちる。

 右手は動かない。だから、お辞儀した頭の前に右手がある。

 右腕に包まれるように、美しい黒髪が、まっすぐに垂れている。

 しばらくその姿勢を保ったあと、頭を起こした。

 すうっと体が上がっていく。少しあがってぴたりと止まった。

 まだ膝は曲がっている。

 右足を、つつっと後ろにひく。

 体全体が右に回転しはじめた。

 右足を軸にして左足が地面の上をすべっている。

 上半身はまったく動かない。

 九十度ほど回転すると、ぴたりととまる。

 今度は左足を、つつっと後ろにひいた。

 体全体が左に回転してゆく。

 まん前を向いても回転はとまらず、そのまま左に回転してゆき、九十度ほど左を向くと、ぴたりと止まった。

 もう一度右足をひき、今度は右に回転して、正面でとまった。

 そうしているあいだにも、桜は右に左に渦を巻いて踊りさざめき、時に止まったかのようにゆっくりと宙に舞う。

 まるで天子さんが、めまぐるしく模様の変わる着物をまとっているかのように。

 あ、左手を前にのばした。扇は何もない空間に向かって突き出されている。

 それに右手を添えて……扇を開いた!

 ゆっくりと扇は開かれてゆき、完全に開ききると、右手が離れた。

 左手だけで持った扇が、ゆったりと、しかし大胆に左方に回転してゆく。

 天子さんの左手は伸びきっているので、扇はずいぶん体から離れている。

 体の真横まで動いてから、扇の角度が変わった。

 今までは水平に向いていたのに、わずかに外側が起きた。

 そのままゆっくりと扇が右側に回転してゆく。

 まるで何かをすくい取っているかのように、重量感のある回転だ。

 体の正面まできたとき、ふいに扇はくるりと回転した。

 扇に運ばれてきた何かは、たぶん今、天子さんの正面に浮かんでいる。

 右手に持ち替えられた扇は、同じように右側から正面にかき寄せられ、何かをすくい取った。

 あ。

 扇を両手で持った。

 軸の部分じゃなくて、裸の竹の上に紙が覆いかぶさるその境界線あたりを、両側から持っている。

 何かが扇に載っかっているんだ。

 その載っかった何かを、ずずっと前に突き出して、天子さんは頭を下げた。

 これはお供えだ。神様に何かをお供えしたんだ。

 その扇の上に、さらさらと桜の花びらが載り、次の瞬間には、その花びらを風がさらっていった。

 頭を起こし、扇の柄を右手で持つと、右上から左下に鋭く切り下ろした。

 かと思うと、やはり右手で、左上から右下に鋭く切り下ろした。

 すくっと立ち上がり、扇を頭の上に高くかかげると、体を右から左にゆっくり回転させてゆく。扇が放つ光で下界のすべてを照らしているかのように。

 腰を落とした。

 今度は空から落ちてくる何かを扇で受けて、口に運んで飲み干した。

 別の場所から落ちてくる何かを扇で受けて、もう一度口に運んだ。

 左足を軽く曲げたまま、右足を高く上げた。

 靴を履いているはずの足が、まるで足袋を履いているかのようにみえる。

 持ち上げた右足の裏はまっすぐで、完全に大地と並行だ。

 その右足がまっすぐおりて、大地を踏みしめる。

 もう一度右足が持ち上げられ、大地を踏みしめる。

 体が右に九十度回転し、左に百八十度回転し、右に九十度回転する。上半身にはわずかなゆらぎもない。

 そして静かに扇をたたみ、左手に持って腰にあてると、ひょいと右手を体の前に掲げて袖を折って手の甲に載せ、深くお辞儀をした。長いお辞儀だった。

 それは、舞いが終わったことを告げるあいさつだった。

 巫女服を着た妖精だった天子さんが、急に洋服の少女にもどり、俺のほうをみて、にこっと笑った。

 それから二人は食事をした。

 会話はほとんどなかった。

 それでよかった。

 何も語り合う必要はなかったから。

 おいしくて、きれいで、気持よくて、幸せだった。

 日が傾きかけて、風が少し冷たくなったので、二人は帰り支度をした。

 この場所からは、麒麟山と蓬莱山と、樹恩の森と、そして羽振村が一望できる。

 天子さんが、その風景をじっとみていた。まるで心に焼き付けようとするかのように。

 気がつけば天子さんは泣いていた。

 はらはら泣く、という言葉があるけど、どういう意味なのか、このとき俺ははじめて知った。

 次々と途切れることなく天子さんの美しい両眼から、涙が流れ落ちる。

 みひらいたままの両眼から、流れ落ちる。

 それは吹く風に運ばれて飛んでゆく。

 どこへともなく飛んでゆく。

 涙と涙はつながらない。一つ一つ別の水滴として風に運ばれてゆく。

 それでいて途切れることなく、はらはら、はらはらと、涙は空に舞う。

 ああ、そうか。

 さっきの桜は、山の涙だったんだ。

 山がはらはら、はらはら、泣いていたんだ。

 それにしても、どうしてこんなに切ないんだろう。

 どうしてこんなに胸がしめつけられるんだろう。

 俺は、押し寄せてくる、この甘やかな苦しみの正体を知っている。

 心をふるわせる、この気持を何と呼ぶのか知っている。

 これが、そうなんだ。

 こうして満開の桜のなかで、俺は恋に落ちた。

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