第10話 火車


1


 翌日は、朝から雨だった。

 上陸しかけて上陸しなかった台風六号の影響だという。

 水びたしの風景をみながら、ふと思った。

(もしも昨日が雨だったら)

(水虎は水たまりを自由自在に行き来できるから)

(居場所を特定して攻撃することなんか)

(とてもできなかっただろうなあ)

 そんなことを考えているうちに、重大なことに気づいた。

(いや、そんな必要なかったじゃないか)

(周りは田んぼだらけなんだ)

(水たまりだらけだったんだ)

(狭い用水路なんかじゃなく)

(田んぼに逃げられたら)

(絶対につかまらなかったんじゃないか?)

 どうして水虎は用水路に逃げたのか。

 こちらの探知能力や攻撃能力を知っていたはずはないから、油断したのかもしれない。

 だけどそうじゃないかもしれない。

 なぜそんなことを思うかというと、天子さんが言っていたからだ。

〈殺して。俺を殺して〉

 それは一昨日、天子さんが聞いた水虎の言葉だ。

 死にたがっていたんだ、水虎は。

 だから殺すことができた。

 そうでなければ、とても俺たちの歯が立つような相手じゃなかった。

 何しろ、神話時代の妖怪大戦争で大活躍したほどの妖怪なんだ。

 敵同士じゃなくて、味方として会いたかったよ。

「鈴太」

 呼ばれたので振り向くと、天子さんがいた。

「食事を作ったぞ。さあ、食べよう」

「あ、ありが……あれ? 今日は、俺が食事当番じゃなかったっけ?」

「うむ。まあ、よい。とにかくたべよう」

「うん。ありがとう」

 いつのまに、天子さんが来ていたんだろう。

 あ、童女妖怪も出現してる。

 なんで心配そうな目で俺をみてるんだ?

「いただきます」

「頂戴いたす」

「いただきますです」

 静かな朝食だった。

 雨が強くなってきたから、そんなふうに感じたのかもしれない。

 ちょうど食事が終わったころ、村役場から電話があった。

 今日も一日外出禁止だそうだ。

 昨日と同じく、武装警官隊がやって来るので、安心してほしいと言っていた。

「村長は、自衛隊の出動を要請したようじゃがの」

「そうなんだ」

「岡山城よりも大きな恐竜が出たとか騒いだために、かえって信じてもらえなかったようでの。それでも、二日続けて怪我人が出たことにまちがいはない。しかも、一昨日は警官も三人負傷した。今日は三十人規模の武装警官隊が捜索にあたるそうじゃ。雨のなか、ご苦労さまなことじゃなあ」

「ふうん」

「もっとも、昨日も一昨日もバスは運行しておったし、自家用車で仕事に行く者もおった。村の生活に大きな変化はないの」

「うん」

「……では、〈探妖〉をしてもらうことにするかの」

「そうだね」

「長壁よ」

「はいです」

「〈探妖〉を頼む。まずは溜石じゃ。数が変わっておらぬかどうか、妖気の抜けた石の数が変わっておらぬかどうか、探索してもらいたい。次に妖怪の探索を、そしてそのほか妖気や神気を持つものの探索を頼む」

「はいなのです」

 童女妖怪は、ひらひらの紙切れのついた棒を、ふんぬふんぬと、しばらく振り回し、やがて言葉を発した。

「溜石の数は十二。妖気の抜けた石の数は六。同じですね。そのほかには、ひでり神さまと、天子さまと、法師さま。あとは神社ですね」

「よし。では、明日は、天逆毎の気配を探ってもらうことにしよう。鈴太、それでよいのじゃな?」

「え?」

 天子さんがしゃべった言葉は聞こえてたし、理解してたんだけど、急に判断を求められても答えられない。

「ああ、それでいいんじゃないかな」

「……そうか」

 お茶を飲みながらぼおっとしていると、電話がかかってきた。

「あ、村長さん?」

「そうじゃ! すまんけどのう! これから武装警官隊が麒麟山に入るけん。許可をもらいたいんじゃ!」

「え?」

「いや。じゃから、あんな大きな恐竜が、村んなかに隠れとるわけがなかろうが! 安美地区に出たちゅうことは、麒麟山に棲んどるにちげえねえけん! 武装警官隊が麒麟山を探すことになったんじゃ! いや、本当は昨日も大師堂さんに許可をもらわにゃおえんかったんじゃけえど、ばたばたしとってうっかりしたんじゃ。今日は正式に許可をもらおう思うてのう!」

 そういえば、麒麟山は俺の所有なんだ。法律のことは殿村さんに任せっきりだけど。私有地に捜索に入るわけだから、そりゃ、所有者に許可を取るだろう。

「ええ。もちろんです。どうぞどこにでも入って調べてください」

「おお! そう言うてもらえると助かるけん。ほんなら!」

 村長さんのテンションは、どうしてこんなに高いんだろう。

 電話を切ったあと、しばらく、ぐわんぐわんと耳鳴りがした。

 天子さんは、その後、和尚さんの看病に行くでもなく、店のあちこちを片づけている。

 どういうわけだか、童女妖怪もお社に帰らず、ごろごろしながら漫画を読んだりしている。

「この続きはないですか?」

「ん? ああ、それはまだ3巻までしか出てないよ」

「そうなのですか。続刊が待望されるのです」

「そーだね」

 午前中は、お客さんが一人も来なかった。

 まあ、来るとも思ってなかったけど。

 結局、天子さんは、昼ご飯も作ってくれた。

 そのあと、和尚さんのようすをみると言って、家を出た。もう今日は帰って来ないと言い残して。

 いつのまにか童女妖怪も消えた。

 午後三時半ごろ、山口さんが来た。

 傘を差した山口さんが、段々近づいてくるのを、ぼうっとみていた。

 絵になる人だなあ、と思った。

 玄関をくぐり、傘を畳んで、山口さんは、店のなかをしばらくうろうろしていた。

「これとこれ、くださいな」

「はい。……あれ?」

「どうかした? 鈴太さん」

「高野豆腐と、豆板醤。ちょっと前、誰かが同じ組み合わせの買い物をしてくれたような記憶が」

「ああ、それ。あるバラエティー番組で紹介してたのよ」

「へえ? 高野豆腐と豆板醤をですか?」

「そうよ。おいしいらしいわよ」

 思い出した。

 耀蔵さんだ。

 だけど、ということは、耀蔵さん。バラエティー番組をみて、しかもその番組で紹介された料理を自分で作るんだ。

 意外な一面を知った気がする。

「……あの、鈴太さん」

「はい?」

 山口さんは、俺の目をみようとしない。目線を下に落としたまま、何かを言いよどんでいる。

 二人は無言のまま、視線も合わせないで、しばらく向き合っていた。

「何でもないの。また今度にするわ」

 そう言って、山口さんは帰っていった。

 そのあとを追うように雨脚が激しくなった。


2


 翌日は小雨だった。

 今日も神社の掃除に行かなかった。これで三日間連続でさぼったことになる。

 早くから天子さんが来てくれて、朝からけっこう凝った料理を作ってくれた。

 食事が終わって、〈探妖〉の時間になった。

「では、今日は、天逆毎の探知を行うが、鈴太よ」

「なに?」

「天逆毎の探知も行いつつ、やはり結界のなかにも異常がないか、調べてもらったほうがよいであろうかのう」

「うーん。いや、今日は、結界外の探知にだけ集中してもらったほうがいいと思う」

「ほう。なぜじゃ?」

「探索範囲を広げたり、探索内容を多くしたりして探索して、それでもし天逆毎が探知できなかった場合、その範囲にいなかったのか、精度を上げれば探知できていたのか、あとで迷うかもしれない。今はまず、とにかく天逆毎を探知することが大事だと思う」

「なるほど。して、天逆川のどの辺りを探知すればよいと思うかの」

「そうだなあ。長壁」

「はいです」

 俺は地図の上に鉛筆で印をつけた。

「これぐらいの範囲なら、天逆毎がいるかどうか確実にわかるか?」

「天逆毎というのは、法師さまに負けないほどの妖気を持つのですね?」

 俺は天子さんのほうをみた。

「そう思ってまちがいない」

「なら、その十倍の範囲でもいけるのです」

「そんなら、これならどうだ?」

 俺は、自分の家から十キロぐらいの位置で印をつけた。

「問題ないのです」

 俺は天子さんと目線を合わせ、うなずいた。

「それでは、長壁よ。頼むのじゃ」

「はいです」

 童女妖怪は、紙のついた棒きれを振り回して〈探妖〉を発動させた。

「ここにいたのです!」

 指さしたのは、県道が天逆川と交差する地点から二キロほど上流だった。

「ここか……」

 今はじめて、はっきり敵の姿を捉えたわけだ。

「とんでもない妖気なのです。しかも邪悪そのものの気配なのです。こんなやつが日本にいたとは、びっくりなのです」

「もう、天逆毎の気配は覚えたな?」

「忘れようにも忘れられないのです。夢に出てくるのです。ぶるぶる」

「じゃあ明日からは、結界内で溜石と妖怪の探知をしつつ、天逆毎の位置を探知できるかな」

「できる、と思うです」

「それから」

「何ですですか?」

「ほかの妖怪の気配は感じなかったか?」

「この川全体が、無数の小さな妖怪でいっぱいなのです」

「そう……か」

 なかば予期してた答えだ。だけど実際に聞いてみると、敵の勢力の大きさに、心が緊張する。

「まてよ。ちびっこ」

「はいです」

「村のなかの、たとえば用水路なんかには、妖気は感じなかったか。今日じゃなくて、昨日とかその前とか」

「感じたといえば感じたのですが」

「ですが?」

「この里は、というかこの結界は、もともと妖気がいっぱい詰まってるので、用水路がどうとかは、特別感じないのです」

「あ」

 そういえばそのはずだ。しかもたぶん、村のなかでも妖気の濃い場所もあれば薄い場所もあるはずだ。なにしろ千二百年分のあれこれがたまってるんだから。

「顔が引き締まってきたの」

「え?」

 天子さんが、俺のほうをみて、うれしそうな顔をしてる。

「天子さん、うれしそうな顔してる場合じゃないよ」

「うむ。そうであった。鈴太、転輪寺に行くぞ」

「え? これから?」

「うむ」

「隠形をかけて?」

「いや。里のみなも、ずいぶん自由に出歩いておるぞ」

「そうなんだ」


3


「和尚さん。だいぶぐあいがいいみたいですね」

「はっはっはっはっはっ。ようやく調子が戻ってきたわい」

 今日の和尚さんは、ちゃんとお坊さんの服を着て座っている。血色もいい。

「法師どの。敵の位置がわかった」

「ほう」

「鈴太。説明を」

「うん」

 俺は地図を広げて説明した。

「ふむふむ、ふうむ。天逆毎がそこにいるか」

 和尚さんは、右手で丸い顎をぞりぞりこすりながら地図をにらんだ。

「川のなかに棲むような妖怪ですから、しょっちゅう位置を変えてるかもしれませんけど」

「それはそうじゃろうなあ」

 和尚さんは何かを考えているようすだ。

 もしかしたら、こちらから攻めていくとしたらどうするか、頭のなかでシュミレーションしてるのかもしれない。

 だけど、できれば外に出ないで満願成就の日を迎えられれば、そのほうがいい。

「あ」

「どうしたのじゃ、鈴太」

「妖気」

「うん?」

「一昨日、水虎を倒したとき、妖気はどうなったの?」

「ああ、大量の妖気が出たのう」

「出たんだ」

「出たが、わらわが吸うた」

「ええっ?」

「おいおい」

「そ、それって大丈夫なの?」

「それが不思議なことに、邪気は感じなんだ。吸い込んでみても、気分が悪くなることはなかった。それどころか、わらわは今、体中に力があふれておるのを感じる」

「天狐よ。無茶をするでない」

「法師どの。わかったことがある」

「ほう。何じゃ」

「鈴太がおると、わらわの力は高まる」

「お! やはり、そうじゃったか?」

「え? 何のこと?」

「鉄鼠との戦いでも、神通力がよく練れたが、水虎との戦いでは、かつてないほど強い結界ができた」

「うむ」

「それは、俺と関係あるの?」

「ある。もともとわらわの神通力は、〈はふり〉の者を守るためのもの。今までも、わらわの力をよく引き出した〈はふり〉の者は何人もあった。じゃが、鈴太の場合は格別じゃ」

 よくわからないけど、俺が近くにいると、天子さんは、安定して大きな力が使えるようだ。それはうれしい話だ。

 そう知ってみると、水虎との戦いのとき、俺が一緒に行くことに天子さんが反対しなかった理由もわかる。あの、〈だいじょうぶのようじゃな〉という言葉の意味もわかる。

「言うまでもないが、長壁も同様じゃ」

「え?」

「長壁はおぬしに加護を与えておる。じゃから、おぬしが近くにいれば、より強く、より確かに通力が使える」

「そうだったんだ」

「ゆえに、これからの戦いで、おぬしはわらわたちと共にあらねばならぬ。よろしゅう頼むぞ」

「うん!」

「そうか、そうか。鈴太は〈にぎびの鈴〉も鳴らせるしのう」

「それよ、法師どの」

「にぎびの鈴?」

「家の神前に置いてあるではないか」

「ああ! 父さんの形見の鈴」

「幣蔵は、あれを鳴らすことができなんだ。おぬしは、もう何度も鳴らしておるのう。しかもことさらに美しい音で」

「え? いや、あれは振っても奇麗な音は出さないよ。父さんは奇麗な音で鳴らしていたのに」

「なに?」

「弓彦が?」

「そこは驚くところなの?」

「あれはのう、〈はふり〉の者が、かのおかたから賜った特別な品なのじゃ」

「えっ?」

「〈和びの鈴〉というて、正しく力を引き出せば、物事をなごめ整える働きを現す」

「そう……なんだ」

「もちろん門外不出の品じゃ」

「それを弓彦が持っておったということは、幣蔵が貸し与えたのじゃろうなあ」

「げ。ほんとは持って出ちゃいけなかったんだ」

「相談されれば断固反対したじゃろうなあ」

「わらわも、とてもうなずくことはできなんだ」

「じゃから、内緒で弓彦に持たせたのじゃろう」

「今にして思えば、それもおはからいであり、お導きであったのじゃろうなあ」

「そうよ。それにしても法師どの。弓彦があの鈴を鳴らせたとは、驚きじゃ」

「ううむ。確かに」

「あの。それで、俺があの鈴を鳴らしたというのは?」

「あの鈴は、振って鳴らす鈴ではない。祈りによって鳴らすのじゃ」

「祈り? 俺は鈴に祈ったことなんてないよ」

「おぬしが山口を案じて人間に戻るよう祈ったとき、鈴は鳴った」

「……あ!」

「おぬしが佐々成三のことを案じて池袋駅の地下を歩いておるとき、尋ね人の貼り紙を通り過ぎようとしたとき、鈴は鳴った」

 そういえば、あのときは、鈴が鳴ったような気がして、そのおかげで貼り紙に気づいたんだった。

「野枝の腹の腫れ物から、まさにあやかしが生じようとしたときも、鈴が鳴った。そして無垢な赤子が生まれ落ちた」

「そういえば、そうだった」

「金霊が裏から表に変じたときも、鈴が鳴った」

「うん」

「水虎の死を悲しんでおるときも、鈴が鳴った。そして白い毛玉が残った」

「……うん」

「おぬしが何かを強い気持ちで思うとき、鈴は鳴り、そこで何かが起こるのじゃ。おぬしは〈和びの鈴〉の加護を受けておる。まちがいない」

「そうだったんだ」

 なんてことだ。俺ははじめから、弘法大師さまに、ご先祖さまに守られていたんだ。

「あれ?」

「どうかいたしたかえ?」

「池袋駅の地下で鈴が鳴って貼り紙に気がついたなんて話、天子さんに話したっけ?」

「む……」

「うわっはっはっはっはっ。それはのう、鈴太よ」

「はい」

「存外過保護ということじゃ」

「はい?」


4

 翌日、翌々日と、変わったことは起きなかった。

 天逆毎は、日によって位置が何キロもちがった。けど、いずれにしても、この村の近くをうろうろしている。

 警察の山狩りも続いていた。

 次の日、つまり八月の二十日は日曜日だった。月曜日から通学が再開される。大規模な山狩りは終了だということだった。

 村長は、引き続き山狩りをしてほしいと県に申し入れたが、何しろ足跡一つみつかっていないので、これ以上大がかりな動員は無理らしい。ただ、県警の捜査員が二、三人、引き続き山の調査を断続的に続けるということで、うちにあいさつに来た。

 うだるような暑さだった。

 そういえば、山の上の村だからなのか、七月はそうひどく暑いという感じはしなかったけど、この日の暑さはきつかった。

 昼ご飯が終わって、ぼうっとしていると、突然店先に、誰かが立った。

 モンペをはいたおばあさんだ。そのおばあさんが、いきなり叫びだした。

火車かしゃが来るぞー! 火車じゃ。火車が来る。やって来るぞーー!」

 この小さな体のどこからこんな大きな声が出るんだろう。

 鬼気迫る顔つきだ。

 唖然としてみていると、おばあさんは、たったったっと小走りで走り去った。

「火車が来るぞー! 火車が来るぞー!」

 あ、隣でもやってるみたいだ。

「あれは、五頭ごとうせんじゃ」

「ごとう?」

「土生地区の五頭じゃ。五つの頭と書く。三人兄弟で一つの家に住んでおる。長女が今の五頭千。千は、百千万の千。その弟で長男の五頭大地郎だいじろう。大きな地の郎と書く。その弟で五頭海路かいろ。海の路地と書く」

「三人兄弟? ほかに家族は?」

「千はもともと独身じゃな。大地郎と海路は、それぞれ連れ合いに先立たれて独り身じゃ」

「ふうん。で、〈かしゃ〉って何?」

「火の車と書く。あやかしじゃ」

「妖怪っ? あのおばあさんは、妖怪が出るって予言してたの?」

「誰かが死んだのじゃろうなあ。おそらくは……」

 死者が出ていた。それがわかったのは、さらに翌日だ。

 千さんの弟の五頭大地郎さんは、一年ぐらい前から近くの町の病院に入院してた。あまりぐあいはよくなかったらしいが、その大地郎さんが、とうとう亡くなられたんだ。和尚さんのところから帰ってきた天子さんが、そう教えてくれた。

 そんな話をしていると、一人の細い老人が店先に立った。

「おい。火車よけをくれ」

「はい?」

「ああ、鈴太。こちらじゃ」

 天子さんが取り出したのは、お札と飾り物だった。

 その飾り物にはみおぼえがある。

 じいちゃんの棺にも、同じ物が入っていた。

〈ああ。それは、死人を掘り起こして盗む妖怪が出たとき、死体を動かせなくする飾り物じゃな〉

 天子さんが、この飾り物のことを、そんなふうに説明してくれたのを思い出した。

「いくらかのう」

「飾り物は八百五十円じゃ。お札は売り物ではないので、代はいらぬ」

「そうかあ。へじゃあ、これで。ありがとうな」

「うむ」

 少しよろけながら、その老人は帰っていった。

「あの人が、五頭海路さん?」

「そうじゃ」

「あのお札は何?」

「〈禁反魂呪きんはんごんしゅ〉と書いてあったであろう。死者の魂というのは、死後しばらくのあいだあの世とこの世の端境におる。その落ち着かぬ魂を引き寄せてよからぬ術をかけぬよう封ずるまじないじゃな」

「今のお札、一枚しかなかったね?」

「うむ」

「どこに注文して仕入れたらいいの?」

「どこからも仕入れられぬ。あれは〈はふり〉の者にしか作れぬ」

「あ。そうなんだ」

「それはそうと、今夜が五頭大地郎の通夜じゃ。転輪寺に行くぞ」

「え? 俺も?」

「そうじゃ。あやかしが出るかもしれぬゆえのう」


5


 喪服なんか持っていないけど、普段着でいいと天子さんが言うので、ほんとに普段着で転輪寺に行った。

 五頭海路さんが喪主だ。

 千さんはいなかった。なんでも、昨日あちこちで火車が出るとふれて回ったあげく、倒れて頭を打って入院したらしい。

 ほかには家族も親戚もない。

 夜の七時になると近所の人が集まってきて、読経があった。

 それが済むと、みんな帰ってしまった。

 なんと、海路さんも帰ってしまった。

 死者だけを残して、これでお通夜といえるんだろうかと思ったが、これもこの地方の風習なんだろうか。

「まあ家族もないし、海路も年寄りじゃからのう。それに皆、火車が怖いのじゃ」

「みんな火車を知ってるんですね?」

「火車は、よく出るからのう」

「よく出るんですか?」

「この百年で八回出たかのう。この里は、もともと妖怪が出やすいんじゃが、火車は特によく出る」

「そ、そうなんですね。火車って、どんな妖怪なんですか?」

「やせこけた老人の姿をしておって、死者の体を盗んでゆくのじゃ」

「ええっ」

「地方によっては、火車に盗まれた死体は火車になり、その魂は永遠に成仏できん、などと信じられておるが、実際には死体が火車になったりはせん」

「じゃあ、なんで死体を盗むんですか」

「食うためじゃ」

「げ」

「通夜のときがよく狙われる。その次に、葬送の行列が危ない。まれには、埋めた死体を掘り起こすこともある」

「手ごわい妖怪なんですか?」

「いや」

「あれ?」

「特別な力は何も持っておらん。ただ、跳躍力だけはあって、死体を抱えたまま、軽々とこの寺の屋根に飛び上がったことがある。あれはたまげた」

 あ、死体を取られたことがあるんですね。

「しかし、それ以外はこれといって何の能力もない。ちょっと力が強い人間程度の筋力があるだけじゃ。ただし狂気に取り憑かれておって、何の遠慮もないから、普通の人間が相手をすると危険じゃ。あと、接近戦になるとかみついてこようとするので、ちょっと気をつけたほうがええなあ」

「あの、俺、どうしてここに呼ばれたんでしょうか」

「ん? 呼ばれたというのは、天狐にか?」

「ええ」

「さてのう? 〈はふり〉の者として、火車くらい知っておけということじゃろうかのう。まあ、本人に訊いてみるがよかろう」

「はあ」

 天子さんは、台所でお茶わんの片付けをしている。

 それにしても、昼の暑さがうそのような心地よさだ。

 転輪寺は、ほんのちょっとだけ小高い場所にある。

 なんでも、もともとはもっと低い場所だったらしい。洪水のたびに流されて、ほんの少し高く土を盛り上げて再建する、その繰り返しで、とうとうこの高さになったんだそうだ。

 境内は木々に覆われていて、村のようすはみえない。

 その代わり、開け放した障子からは奇麗な夜空がみえる。

 じっとみていると、宇宙にこの寺だけしかないような不思議な感覚に包まれてゆく。

 ほんとに奇麗な星空だ。

 古いお寺の本堂からそれを眺めているということがまた、幻想的な気分にさせてくれる。

 だけど振り返れば、後ろには棺桶があって、死体が入っているんだ。ちょっとホラーだ。

 あ、天子さんが帰ってきた。

「天子さん。俺はどうしてここにいるんだろう」

「さあのう」

 さあのうって、何それ。

「わらわと一晩過ごすのはいやか?」

 そんなふうに訊かれたら、いやだとは言えないじゃないか。

「ふふ。梅昆布茶を入れてきた」

「うん。ありがとう」

「天狐よ。わしの茶は?」

 あ、いたんですね、和尚さん。

 結局その夜、火車は出なかった。

 俺は夜明け少し前に、別の部屋で寝させてもらった。

 翌日は朝の間に葬儀があった。けっこう大勢が会葬した。

 知らない人が多かった。土生地区の人が多かったんだと思う。

 土生地区の組頭が場を仕切って葬列が組まれ、麒麟山に死体を埋葬した。

 その一角は、西区域の住人の亡きがらを埋葬してよいと、百年以上前から羽振家の当主が許可を与えているらしい。

 火車は出なかった。


6


「五頭千さんが亡くなったんですか?」

 その驚くべき知らせを持ってきてくれたのは、平井巡査だった。

「いやあ、そうなんじゃ」

 平井巡査は、巡回の途中、五頭海路さんの家に寄った。

 海路さんは、兄が死んだ衝撃と葬儀の疲れで寝込んでいた。

 そのときちょうど、町の病院から電話がかかってきて、救急車で搬送された千さんが亡くなったと知らせてきた。

 平井巡査は、身分を告げてその電話に対応し、たった一人の遺族はとても遺体を引き取りに行ける状態にないので、村役場と相談のうえ、対処を相談すると返事したのだそうだ。

 そして海路さんと相談のうえ、平井巡査が遺体を引き取りに行くことになった。

「それはええんじゃが、海路さんが、えらい気にしとってのう」

 何を気にしているかといえば、火車だ。

 兄である大地郎さんの死に不審はない。長年の持病をこじらせ、高齢のため体力が落ち、徐々に症状が悪化して亡くなった。

 だが、姉である千さんの死に方は、普通とはいえない。高齢であるにもかかわらず、きわめて健康で気力もあり、実際よく動いていた。その千さんが、弟である大地朗さんの死に遭い、〈火車が来るぞ〉と狂ったようにふれて回り、倒れて、そのまま命を失った。

 俺などからみれば、炎天下に大声を上げながら走り回れば、命を縮めもするだろうと思うのだが、この村の感覚からすると、それは〈火車に憑かれた〉ということになるようだ。

「じゃけんのう、まずは大師堂さんで、〈火車よけ〉をもろうてきてくれと頼まれたんじゃ」

「事情はわかった。しかしのう。〈火車よけ〉の飾り物はあるが、お札がないのじゃ」

「な、なんじゃとお!」

「大地郎の棺に入れたのが、最後の一つじゃったのじゃ」

「そ、そりゃあ大変じゃ。すまんが大至急作ってくれえ!」

「と、言われてものう」

 天子さんが、ちらりと俺をみた。

 えっ、なに?

 何ですか、その視線は?

 まさか、俺に作れと?

 俺は顔の前で両手を交差させた。ばつ印だ。

 そんなお札の作り方なんて知らない。作りようがない。

 だけど、俺のサインを平井巡査は別の意味にとってしまった。

「申しわけねえ、大師堂さん。お札を作るのは、そりゃあ大変じゃと思うんじゃ。けえど、ここは五頭家のため、この村の安全を守るため、どうか協力してやってつかあさい」

 そう言って、帽子を脱いで深々とお辞儀した。

「いや、あの。作れるものなら作りますが、作れないんです」

「そう言わんとお願いします。この通りじゃ」

 平井巡査は、さらに深々と頭を下げた。

「そんなこと言われても……」

「作ってやったらどうじゃ」

「えっ」

 天子さん。どういう無茶ぶりですか。

「おお! 作ってもらえるんか。ありがてゃあのう。ご遺体は明日引き取って、明日の晩が通夜じゃけん。お札は、明日の朝、頂きに来るけん。ほいじゃあ」

 平井巡査が帰ったあと、俺は恨めしげに天子さんをみた。

「そんな目でみるな。そもそも、一昨日、五頭大地郎の棺に入れたお札は、幣蔵が作ったものでのう。何の効力もない」

「え?」

「それでも幣蔵は、お札を作り続けた。里の人々の心の安寧を守るためにのう」

「そうだったんだ」

 じいちゃんは、一族に伝わってた秘儀を受け継げなかった。

 だから、お札の作り方も知らなかった。

 だけど、みんなが求めるから、何の効果もないのは百も承知で、偽のお札を作り続けたんだ。

 そうと知ったら、気が変わった。

 俺も作ろう。何の効果もない、まがいもののお札だけど。

「では、準備をしておく」

 天子さんは、そう言って、奧の書斎に硯や筆やお札の紙を準備した。

「ええっと。〈禁反魂呪〉って書くんだっけ?」

「そうじゃ」

 俺は神棚とご霊璽に手を合わせ、心を落ち着けてから、筆に墨を含ませた。

 ちょんちょんと、筆の穂先を硯で整え、さあ書こうと筆を持ち上げた。

 ところが、書き出せない。

 一度、墨を付け直して、もう一度筆を持ち上げた。そして長方形の紙片に筆を下ろそうとした。

 だけど、できない。

 どうしてだろう。

 どうして俺は、この紙に字を書けないんだろう。

 べつに、うまく書こうなんて思ってもいない。

 そもそも書道なんて全然得意じゃなかったし。

 だけど、この紙に字を書こうとすると、筆がおりない。

 もう一度、穂先の墨の具合を整えてから、俺は筆を持ち上げた。

 そして、ふと思いついて、筆をうんと下のほうに持って行った。字でいうと、〈呪〉という字を書く辺りまで。

 そうすると、筆を紙に近づけても抵抗を感じない。つまりこれが正解だったんだ。

 俺は、〈禁反魂呪〉という字を、下から書いた。

「ふう」

 書き終わって、筆を置くと、汗をかいていた。

「その書き方は、どこで習うたのじゃ」

 天子さんが、冷えた麦茶をちゃぶ台に置いて、そう訊いた。

「え? 習ってなんかいないよ。でも、こうしないと書けなかったんだ」

「……ほう」

「あ、そういえば」

「ん? 何じゃ?」

「あの飾り物も、じいちゃんが作ってたのかな?」

「いや。あれは倉敷民藝館から取り寄せるのじゃ」

「すごいな倉敷民藝館……」


※この物語はフィクションです。倉敷民藝館には、火車よけの飾り物は売っていません。たぶん。


7


 翌日となり、平井巡査がお札を持ってゆき、千さんのご遺体が転輪寺に運ばれ、そして天子さんと俺は、転輪寺に来た。

 読経は夜の七時からだった。

 会葬者は、天子さん、俺、童女妖怪の三人だけだ。

 つまり村の人は、誰も来なかった。土生地区の組頭は、まだ日が高い時間にあいさつに来たそうだけど。

「皆、怖いのじゃ」

「え? 火車が怖いの?」

「そうじゃ」

「そんなに強い妖怪じゃないんでしょ?」

「あのなあ、鈴太。そんなふうに強い弱いであやかしの恐ろしさを語れるのは、おぬしだからじゃ。普通の人間は、あやかしであるというだけで怖いものなのじゃ」

 なんてことだ。俺はもう普通の人間じゃないらしい。

「それにのう。火車に目をつけられると、自分が死んだとき、火車に乗り移られて火車になってしまう、と皆は信じておる」

「あ」

「あんなあさましい姿になるのは誰でもいやなものじゃ。千は、火車が来る、火車が来ると叫びながら死んでいったのじゃからのう。そのときから火車に取り憑かれておったと皆は思うておる。ゆえに今夜は誰も来ぬ。明日、埋葬のときには土生地区の者が集まるじゃろう」

「夜食は油揚げがいいのです」

「さっき食べたじゃないか、揚げ饅頭を」

「むきーっ。揚げは揚げでも、揚げちがいなのです!」

「お前は揚げ饅頭をばかにするのか」

「い、いや。そういうわけではないです」

「謝れ。東京や湯布院や静岡や天童をはじめ、全国の揚げ饅頭に謝れ」

「ご、ごめんなのです」

「これこれ、意味不明ないじめをするでない」

 なぜか今夜は童女妖怪が一緒だ。

 昼ご飯を食べているとき、お通夜の話になり、火車が出るかもしれないと聞くと、自分からついて行くと言い出したのだ。

 幸いに、村の人は誰もいないので、思いっきり童女妖怪をからかうことができる。

「あれ? 曇ってきた?」

 今日も暑い夜なので、本堂の障子は開け放しだ。

 つい今しがたまで、星がさざめいて、砂金をまぶしたような光が空を埋め尽くしていた。それが急に陰ってきたのだ。

「風が。風の流れが変わった?」

 吹いていたさわやかな風が、急に、生暖かくなった。山間の奇麗な空気を吸っていた鼻が、奇妙な生臭さを感じている。風はさらに重みを増して、肌にねばねばまとわりついてくる。


 じゃん、じゃん、じゃん。


 遠くの空で、音がした。

 楽器の音のように聞こえる。小型のシンバルのような音だ。


 じゃん、じゃん、じゃん。

 じゃん、じゃん、じゃん。


 音が少し近づいてきた。

「法師どの。これは」

「ふむう。妙鉢みょうはちの音のようじゃなあ。ずいぶん鳴りのいい妙鉢じゃが」

「妙鉢?」

「もとは中国で儀式に鳴らした楽器じゃ。日本では仏具として使われ、邪気はらいにも使う。この寺にもあるぞ」


 じゃん、じゃん、じゃん。

 じゃん、じゃん、じゃん。


 今度はずいぶんはっきり聞こえた。

 風が熱を帯びてきたような気がする。

「出た! 火車ですです!」

「なにっ」

「どこじゃ」

「あちらの方角に!」

 童女妖怪が指さした瞬間、それを合図としたかのように、天の一角が燃えた。

「むっ」

「これは」

 よくみれば、燃えているのは天ではない。

 いつのまにか空を雲が覆っていて、その雲に炎が反射して、めらめらと燃えるような光を放っているのだ。

 空の下で燃えているその何かは、木々の隙間からもみえる。


 ぐらん、ぐらん、がらん。

 ぐらん、ぐらん、がらん。


 巨大な樽を無理やりに転がすようないやな音が続けざまに鳴り響く。

 鳴り響くごとに近づいてくる。

 今はもう、木立のすぐ向こうに迫っている。


 ぎしぇええええェエエエエェェェェッッッッ!


 断末魔の叫びのような奇怪な声が鳴り響き、それは木立を飛び越えて、寺の境内に姿を現し、どしんがしゃんと降り立った。

 でかい。

 誰だ、やせこけた死体のような姿だと言ったのは。

 これは、そんなものではない。

 身の丈は三メートルをはるかに超えている。

 ぎょろりとした巨大な目。

 黄色の虹彩のなかの黒い瞳孔は、猫のように縦に裂けている。

 人間なら口にあたる部分には、猛禽類のようなくちばしがある。

 顔だちの全体が、どこかでみたような気がする。

 そうだ。

 舞楽の蘭陵王の面に似ているんだ。

 上半身は裸だ。だが、やせこけてはいない。筋肉と筋が浮き出ている。虎でも殴り殺せそうな暴力の香りを感じさせる肉体だ。

 頭頂には髪がないが、頭の横と後ろからは、茶色の髪が流れ出て、腰にまで届いている。

 腰には獣の皮を巻き付けている。

 太ももとすねは人間に似ていなくもない。

 だが、足は獣のそれであり、指から突き出した爪は、深く地面に突き刺さっている。

 何より異様なのは、それが曳いているものだ。

 それは両手に真っ赤に焼けた鉄の取っ手をつかんでいる。その取っ手は体の左右で後ろに折れ曲がり、紅蓮の炎に包まれた台車のようなものにつながっている。

 台車の炎は、おどろおどろしく燃えさかっている。台車には巨大な車輪がついているが、その車輪もまた燃えている。

 その炎に照らされて、境内と本堂は一気に明るくなった。

 俺は凍り付いたように、その恐ろしい怪物を、恐怖のまなざしてみつめるほかなかった。


 ぎしぇえええエエエエェェェェェッッッッッ!


 天を振り仰いで怪物が叫び声を上げた。

 血をはくような、全身全霊を込めた叫びだ。

 俺は、金縛りにあったようになってしまい、指一本も動かすことができない。

 ただ呆然として、怪物の真っ赤な口のなかに生えた無数の鋭い牙と、尖った毒々しい舌をながめていた。

 叫び終えた怪物は、ぎょろりと本堂のなかをにらみつけた。

 その目線が、五頭千さんの棺を捉えると、怪物の瞳はあやしく輝いた。

 怪物は、右手を鉄の取っ手から放して前方に伸ばし、ぐい、と一歩前に出た。

 ばちばちと、緑色の火花が散って、怪物の右手がはじき飛ばされた。

 よこをみれば、天子さんが両手をかざしている。

 バリアーだ。

 その横では和尚さんが立ち上がり、ごつい珠のついた数珠を右手に構え、左手は手刀の形に伸ばして額に当て、何やら呪文をつぶやいている。

 怪物が、今度は両手でつかみかかった。

 その十本の指からは長い爪が伸びている。人間などひと掻きで胴を真っ二つにできそうな爪が十本である。その圧力はただごとでない。

 しかし、激しい火花が散って、怪物は押し返される。

 そのとき、和尚さんが、かっと目をみひらいて数珠の珠を一つ握りしめ、怪物めがけて投げつけた。

「喝!」

 投げつけられた珠は、狙いあやまたず、怪物の額に命中し、轟音を立てて破裂した。

「ぎゃうっ!」

 衝撃を受けて怪物はのけぞった。

 和尚さんは、立て続けに数珠の珠を投擲した。

「喝!」

「喝!」

「喝!」

「喝!」

「喝!」

「喝!」

 それはすべて怪物の体に当たって、はじけ、怪物にダメージを与えた。

 そのダメージは、ただ爆発の衝撃によるものだけではない。怪物の髪が、白く凍りついている。和尚さんの放つ数珠は、凍結爆弾なのだろう。たぶんこの怪物は炎の属性を持っている。だから凍り付かせる攻撃はダメージが大きいんだ。

 爆発した箇所が、白く引きつっている。怪物は苦しそうだ。

 被弾した左目は、うまく開かない。

 だが、和尚さんの攻撃に一瞬の隙ができたとき、怪物は思いもよらない行動に出た。

 くるり、と回転して、燃えさかる炎の台車の陰に隠れたのだ。

「む」

 和尚さんは、再び数珠から珠を何個かもぎ取ると、立て続けに三個投擲した。

「喝!」

「喝!」

「喝!」

 だが飛来した珠は台車の炎に吸い込まれてしまった。

「うぬ」

 和尚さんは憎々しげに怪物をにらみつけながらも、数珠から珠をもぎ取り続けている。

 怪物は炎の奧で、にたりと笑った。

 そして奇妙なしぐさをした。

 手のひらを上にして右手を突き出すと、くいっ、とその右手の指を内側に折り曲げたのである。

 もう一度伸ばして、もう一度指を折り曲げた。

 いったい何をしているのか。

 がたん、と大きな音がしたので、俺は振り返った。

 開いている。

 棺の蓋が開いている。

 まるではじけ飛んだように棺から離れて、蓋が床に落ちている。

 そして、棺のなかの死体が起き上がった。

 それは不思議な光景だった。

 まるで何かに引っ張られるように、体を伸ばしたままで、ひょこっと死体が起き上がったのである。

「ぐうう」

 俺の喉から、思わず妙なうなり声が出た。

 その俺の目の前で、死体の顔が変容してゆく。

 ぎりぎりと音を立てながら、死体の顔が変わってゆく。

 目は大きく丸く、瞳孔は縦に裂け。

 口は尖って嘴となり。

 顔全体に金属的な皺が走り。

 千さんの死体は怪物そっくりの姿になった。

 そして両手を振り上げた。

 その両手に爪は鋭く伸びている。

 目線の向かう先には天子さんがいる。

「天子さん! 危ない」

 いまだに身動きできない俺は、精いっぱいの声を出して天子さんに警告した。

 だけど天子さんは動けない。

 動けば境内の怪物が飛び込んでくるかもしれない。だから動けない。

「だめだ、だめだ!」

 何もできずに、ただ声を上げる俺の足元で、童女妖怪が何かを振り回した。

 あれだ。

 毎朝〈探妖〉を行うときに使う、ひらひらした紙のついた棒きれだ。

 その棒きれを童女妖怪が振り回すと、床に落ちていた何かの紙切れが、ふわりと宙に浮いた。

 千さんの死体が前に動きはじめた。最初はゆっくり、そして段々速く。

 あと二歩で天子さんに届くというとき、童女妖怪がひときわ強く棒きれを振った。

 ばさばさっと、紙が空気を切る音がした。

 すると、空中でためらうようにふわふわ浮いていた紙切れがひらりと飛んで、千さんの額に貼り付いた。

 お札だ。

 俺が書いた偽物のお札だ。

 そのとたん、千さんは動きをとめた。天子さんに爪を振り下ろす、まさにその直前の態勢で。

 天子さんはといえば、そんな背後での動きに気づかないかのように、一心に障壁を維持している。

「南無破邪禁錮呪!」

 和尚さんの野太い呪文が響きわたった。

 みれば、和尚さんの手から、何かがするすると伸びてゆく。

 紐だ。

 数珠の紐だ。

 すべての珠を取り外した数珠の紐が、するすると伸びてゆく。

 そして、怪物を守る台車の炎に突入し。

 そのまま焼け落ちることもなく炎を突破し、怪物にからみついた。

「クエェェェェェェッ!」

 思わぬ事態に、怪物は悲鳴を上げる。

 だが呪文のかかった紐は容赦なく、ぐるぐると怪物を縛り上げてゆく。

 和尚さんは、左手を懐に突っ込むと、何かのお札を取り出して、それを右腕に当てた。

「破邪招来金剛力!」

 ぐぐぐっ、と右腕の筋肉が盛り上がる。

「ふんぬっ」

 和尚さんが紐を引っ張る。

 怪物も、おとなしく引っ張られはしない。

 その巨体と筋力とを駆使し、体全体で紐を後ろに引こうとする。

 しかし和尚さんはびくともしない。顔を真っ赤にそめて、小さなまなこを根限りにみひらきながら、容赦なくぐいぐいと紐を引き絞る。

 たまらず怪物がつんのめる。

 和尚さんは、さらに紐を引く。

 ぐえっと小さな悲鳴を上げて、怪物はみずからが曳いていた炎のなかに落ち込んだ。

「グエエエエエェェェェェェッッッ!」

 どうもあの炎は、怪物自身をも焼いてしまう性質があるようだ。

 たぶん何物も焼き尽くさずにはおかない、特別な炎なのだ。

「グエッ。グエッ。グエッ」

 必死で顔を持ち上げて逃げだそうとするけれど、和尚さんはごうも揺るがず紐を引きしめている。その姿は、東大寺の仁王像のようだ。

「グェェ」

 小さな悲鳴を上げて怪物が崩れ落ちた。

 すかさず和尚さんは本堂を飛び出して境内に降り、炎の台車を迂回して怪物に近寄る。

 そして、手に持っていた三個の数珠の珠を、続けざまに、倒れた怪物の頭部辺りに撃ち込んだ。

「喝!」

「喝!」

「喝!」

 こちらからは、炎が邪魔になってよくみえないけど、それで怪物の息の根が止まったようだ。

 すると台車の炎が収まってゆき、やがて空気に溶けるように、台車そのものが消えてなくなった。

 和尚さんは倒れた怪物をみおろしている。倒れていても、その巨大で奇怪なすがたには異様な威圧感がある。その怪物も、地に吸い込まれるように消えた。

「ふうぅーーーーっ」

 大きな息をついて、和尚さんが地にへたり込んだ。

 天子さんも、一つ大きく息をはいて、手を降ろした。淡い緑色のバリアーも消えた。

 何かが倒れるような音がした。

 千さんの死体が倒れている。お札も額から剥がれ落ちている。

 戦闘は終わったのだ。


8


「すまん、鈴太。酒を持って来てくれ」

 精も根も尽き果てたようすの和尚さんが、小さな声で頼んできた。

「はい」

 俺は台所に走って、一升瓶とどんぶりを抱えて戻った。

 和尚さんにどんぶりを渡し、お酒をそそぐ。

 とくとくといい音がする。この音は好きだ。お酒の匂いがぷうんと漂う。

 お酒がそそがれるようすを、和尚さんは優しい目でみている。

 どんぶりは、左手だけで、底から持っている。

 どんぶりに半分ほどお酒をそそいで、俺は一升瓶を引いた。

 和尚さんは、ゆっくりと、どんぶりを口に運び、飲み始めた。

 こくこく、こくこく。

 お酒が喉を通ってゆくのがわかる。

 そのままどんぶりは段々傾いていく。

 指を大きく開いた和尚さんの毛深い左手が、段々はっきりみえてくる。手が大きいので、どんぶりが湯飲みにみえてしまう。

 ついにどんぶりは顔の上に達した。

 しずくの余韻を味わったあと、どんぶりは豪快に口から引きはがされた。

「ぷふあぁぁ」

 満足しきった顔で、和尚さんが酒臭い息をはいた。

「さてと」

 後ろから声がした。天子さんだ。

 俺が振り向くと、天子さんは、俺のほうをみて言った。

「後始末をせねばならんのう」

「あとしまつって?」

「遺骸をそのままにはしておけまい」

 千さんの死体のことだ。確かに、このままというわけにはいかない。

 俺は和尚さんのほうをみた。そんな俺の心の声を読み取ったのか。天子さんはこう言った。

「法師どのは今、力尽きておる。そっとしておけ」

 俺は天子さんのほうに振り返った。

「まさか、か弱いおなごに、遺骸を担がせる気ではあるまいの」

 童女妖怪はどこかと探した。

 いない。

 俺が首にかけてるお守りに帰ったんだろう。そういえば、お守りが何となく少し重い。

 結局、俺は一人で死体を棺に戻した。


9


 天子さんが晩ご飯を作ってくれた。

 ご飯を目の前にすると、俺は自分が腹ぺこなのに気づいた。

 童女妖怪もちゃっかり出現して、もりもりご飯を食べている。まあ今日は活躍したから許してやろう。

 和尚さんは、おかずをつまみながら、ちびちびお酒を飲んでいる。さっきの迫力が嘘のように、力が抜けていて、心なしか体つきも一回り小さくみえる。

「長壁よ」

 天子さんが童女妖怪に話しかけた。

「ふぁいでふ」

 口のなかのものを食べてから返事しろよ。

「あれは、何であった?」

「火車でしたです」

「まちがいないか?」

「まちがいなく火車と判定されました」

「そうか」

 俺は天子さんに訊いた。

「話に聞いてた火車と、ずいぶんちがってたけど」

「そこじゃ。わらわも火車は何度もみたが、あんな姿はしておらなんだ。法師どの。あれはいったい何であったのじゃ」

「さあなあ。わしにもわからん。しかし、思い出したことがある」

「ほう」

「火車、というのはもともと、地獄の獄卒が引く火の車のことを指すという伝えがあるのじゃ」

「なに? では先ほどのあれは、地獄から来たものであったのか?」

「いや、まさか。それならとてもわしらの手にはおえんじゃろう」

「では、先ほどのあれは、いったい何なのじゃ?」

「さっきのあれは、火車が溜石の霊気を帯びた姿だったんじゃろうなあ」

「えっ」

 俺は思わず声を上げた。

「なんじゃ、鈴太。気づいておらなんだのか」

「気づく、って何を?」

「五頭の家は、土生地区の溜石の、すぐそばにある」

「あっ」

 俺は地図を取り出して、五頭の家を探した。

 あった。

 本当だ。土生地区に二つある溜石のうち、南側の溜石は、五頭家のすぐそばにある。

「あ、そうか。それで五頭さんの家でお弔いが出たとき、和尚さんも天子さんも、火車が出ると考えたんだね」

「その可能性は高いと思うた。しかし、大地郎の通夜にも葬列にも火車は出てこなんだから、目ちがいかと思うたがの」

「そうか。和尚さんも、戦闘準備万端だったんだね」

「いや、あれほどのものが出てくるとは思うてもおらなんだからのう。思わず取っておきの数珠を使うてしもうたわい」

「法師どの」

「うん?」

「火車のもともとの本体が、地獄の獄卒が引く火の車であるとして、それがなぜ死体おろく食らいのあさましいあやかしに変じたのじゃ」

 和尚さんは、漬物を口に放り込んで、一口お酒を飲んだ。

「さあのう。そんなことは知らんし、伝わっておらん。しかし思うに、地獄の獄卒は、我慢がならなんだのではないかのう」

「がまん。何へのがまんじゃ?」

「悪人は死ねば地獄に落ちて、裁きを受ける」

「うむ」

「じゃが死ぬまでは、地獄の獄卒といえど、手出しはできぬ」

「それは当然じゃ」

「この世には、山ほど悪人がいて、善人を苦しめている」

「む」

「その悪人は、地獄に落ちるそのときまで、悪事を重ね、この世に小さな地獄を生み出し続ける」

「確かに」

「それが地獄の獄卒には、我慢できなんだのではないかのう」

「というても、地獄の者が現世の者を、どうにもすることはできぬ。それが摂理じゃ」

「そうじゃ。どうすることもできぬ。そのどうすることもできぬもどかしさが、怒りの炎を現世に飛ばした。それがわしらの知る火車なのではあるまいか」

「ほう? しかし、それなら、なぜ火車は死体を盗み、食らう?」

「現世に仮の姿を現したとしても、できることは限られておるのじゃろうなあ。しかし、魂を失ってしまった死体を食らうことぐらいはできる」

「食らってどうする?」

「恐ろしさを教える」

「なに?」

「悪事をする者どもに、恐ろしさを教える。悪人でも死んだら安楽が得られると思ったら大まちがいじゃと、死んだ者を裁き罰する者があるぞと、火車は教えておるのではあるまいか」

 しばらく沈黙が空間を支配した。

 やがてぽつりと、天子さんが言った。

「あまり効き目はないみたいじゃがの」

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