第11話 骨女
1
「さて、では長壁よ、〈探妖〉を頼む」
「はいです」
いつものように童女妖怪が、紙切れのついた棒を振り回して、うんうんうなり声を上げ、〈探妖〉を行った。
「出ました。妖気の抜けた溜石は七つに増えてますです。でも結界のなかには新しい妖怪は出現してないのです。天逆毎は探知範囲内にみあたらないです」
「うむ。ご苦労であった」
七つ目の溜石から抜けた妖気は、昨日、火車になった。その火車を昨日のうちに倒したんだから、新しい妖怪はいなくて当然だ。
「あ、天子さん」
「なにかの」
「昨日、火車を倒したとき、妖気が出たね」
「うむ。妖気が凝り固まって妖怪になり、その妖怪を倒せば、再び妖気が生まれる。ただしもとの妖気よりは、よほど減っておる。そのようにして、この里に危険なほどの妖気がたまらぬようにしてきたのじゃ」
「昨日出た妖気は、そのままなのかな」
「放置した。吸えば吸えぬこともなかったが、転輪寺の境内地は聖域ゆえ、妖気を放置してもすぐに異状は起こらんと思うての」
「そうなんだ」
食後のお茶をまったり楽しんでいると、電話がかかってきた。
「もしもし」
「あ、ひで……艶さんですね」
「そうじゃ。すまないが、時間のあるとき、お越し願えんかな」
「はい、もちろんです」
すぐに駆けつけてもよかった。
でも、それではかえって気を遣わせるだろう。
「午後の配達のときに寄りますね」
「よろしゅうお頼み申します」
(あ、そういえば、ひでり神さまが童女妖怪をみたいといっていたっけ)
童女妖怪は、お社に帰りもせず、寝転がって漫画を読んでいる。
「おさかべ」
「うぬ。へなちょこがあちしを名前で呼んだです。何をたくらんでるですか」
「午後に自転車で配達に行くんだけどな」
「それがどうしたです」
「一緒に行くか?」
「……え?」
「お守りに入って、俺がそのお守りを身につけてれば、ずっと姿を現したまま、自転車に乗ってられるだろう?」
童女妖怪が、ぽかんと口を開いたまま固まっている。
「ほう。それはよい。長壁は依り代のそばを離れられぬから、この村にいるといっても、この村のことはほとんど知らぬであろう。村内観光というのも悪くない。ここは美しい村じゃ」
童女妖怪は、まだぽかんとしている。
そんなに驚くようなことか?
「あ、あ、あちしを……」
「お、再起動したか?」
「あちしを、どこに捨てる気なのです?」
「ちがうよ!」
だが、それはいいヒントだな。
用事が終わったら、お社ごと、いつか捨ててやろう。
樹恩の森がいいかな。誰も入らない森だから、二度と出てこられないだろう。
2
昼ご飯の前に、童女妖怪はお社に帰った。そして昼ご飯のときに再び現れた。
「ほう。衣装を変えたか」
「はいです」
え?
凝視したが、いつもと同じ
衣装替えなんてしたようにはみえない。
みえないんだけど、天子さんは衣装を変えたかと訊き、童女妖怪は、はいと答えた。ということは衣装替えをしてるんだろう。
もしかしたら、まったく同じ衣装を着替えてるんだろうか。
(それって、何か意味があるのか?)
昼ご飯は冷麺だった。具には刻んだ油揚げが交じっている。
食事中も、童女妖怪は、何やら浮かれたようすだった。
「さて、行こうか」
「よきにはからえ」
澄ました顔をして童女妖怪が言う。
店にあった自転車は、むかし風のがっちりした自転車で、荷台も大きい。
その荷台に籠が据え付けてある。いつもこの籠に商品を入れて配達するんだ。
今日はその籠に座布団を敷いて、童女妖怪を乗せた。
「じゃあ、行ってくるね」
「うむ。わらわは法師どのの具合をみにまいる。夜は帰ってこぬでな」
「わかった」
「出発しんこー」
童女妖怪が右手を振り上げてぐるぐる回している。
俺は自転車を走らせて東に向かった。
村の東の端っこで自転車を止めた。
「ここは庚申口というんだ。ほら樹恩の森への入口があるだろう。ここを降りていくと、左に下って樹恩の森に進む道と、右に登って白澤山に進む道に分かれるんだ」
「ほええ」
ここは村の絶景ポイントの一つだ。
村のどこからでも
ここに来ると三山それぞれの裾野から山が立ち上がってゆく景色を一度にみることができる。しかもこの角度からみると、泰然とした蓬莱山と、すらりとした麒麟山と、複雑な稜線をみせる白澤山という、それぞれの持ち味がとてもはっきり対比されていて、美しい。眼下には樹恩の森が広がっている。
夏の森っていうのは、エネルギッシュな感じがする。みているこちらも元気をもらうような気がする。
三山のなかでは、蓬莱山が、一番緑が濃い。樹恩の森は、もう目の前にみえていて、少し歩けば森のなかに入ってしまう。そしてゆっくり中心部に向かって下ってゆく。森の一番深い場所でも、木のてっぺんは、庚申口よりずっと低い。ところが森の深い所では、驚くほど高い木々が生え連なっている。たった一度しか入っていないけれど、幽玄とでもいうんだろうか、実に雰囲気のある森だ。
「三山というのは、霊的に結びつけられているのです」
「え、そうなの」
「そうだとは思ってたですが、ここからみて、はっきりわかったです。三つの山が霊的に関連づけられ、結界を形成してるです」
「ああ、そういえばそうだった」
「結界は、村を守るとともに、あの辺りを」
童女妖怪は、地守神社の真下を指さした。
「覆い隠すように調整されてるです」
「へえー」
そこには〈骨ヶ原〉がある。ひでり神さまが、石を積み続ける場所で、ひでり神さま以外の者が入れないようになっている。
「もともと山には霊気が集まりやすいです。ゆったり広がる高地のなかの突出した三つの山に集まる霊気を、結界の維持だけに使ってるです。しかも」
童女妖怪は後ろを振り返った。
この位置からだと、ちょっとみえにくいが、羽振村の南西方向、つまり蓬莱山の反対側にも山地が広がっている。その山地に降る雨がすべて天逆川に流れ込む。
「裏鬼門、すなわち
「そんだけ霊気に守護されてても、百年に一度ぐらいは大洪水が起こったみたいだけどな」
「えっ? これだけ霊的に安定してる地形で、大洪水なんか起きるわけがないのです」
「でも起こった。この千年に八度もね。いずれも村に破壊的な被害を与えたというし、そのあとの疫病にも村は苦しんだ」
「疫病?」
童女妖怪は、何かを考え込んでいる。
「もしかしたら……」
「え?」
「……いや、何でもないです。さあ、そろそろ次の場所に行くですよ」
「お、おう」
次の場所も何も、今日はただ一つの場所にしか行かないけどね。ここは、ひでり神さまの家に行く東よりのコースだ。真ん中のコースのほうが若干距離は短いけど、今日はあえてこのコースを選んだ。
俺は童女妖怪を自転車に乗せ、うんこらしょとペダルを踏んだ。
ここからは少し坂を登らないといけない。
そして坂を登り切ると。
みえた。
山口さんのうちだ。
ここしばらく、すれちがいが多いのか、顔をみてない。
どうしてるかなと思って、こちらのコースを選んだんだ。
あれ?
家の前に大きな乗用車が。
高そうな車だ。
熊本ナンバー。
そういえば、山口さんは熊本生まれだと聞いたことがある。
実家から来た人なんだろうか。
大学は東京だったので標準語をしゃべるようになったけど、興奮すると熊本弁が出ると言ってた。
熊本弁ばりばりの山口さんというのも、ちょっと想像つかない。
「おい、おさかべ」
「何ですか?」
「これからお得意さんの家に寄るから、ちょっとお守りに入っててくれるか」
「いいですよ」
「呼んだらすぐに出てこいよ」
「もちろんなのです」
3
「ほほほほ。呼び出して、あいすまん」
「いえ。いつでもお呼びください。あ、それはそうと、今日は、おさかべを連れてきてるんです」
「そのようじゃなあ」
「今、呼び出しますね」
「よいとも」
「おい、おさかべ!」
「呼ばれて登場、あっ!!」
湧き出てきた童女妖怪は、一瞬ふんぞり返って顕現したが、直後に超高速土下座をしてみせた。しかも平伏した姿勢のままで、素早くかさこそかさこそと後退し、部屋の隅まで下がってみせた。器用なやつ。
「こいつがおさかべです。おい、おさかべ、ごあいさつは?」
「こここここここ、これこ」
「これこ?」
「こ、これは畏れ多くも天界の神様、〈ばつ〉さまであらせられられますですか」
「ほほほ。そのように恐れずともよい」
「きょきょきょ、恐縮にござりますです!」
「そなたが長壁姫か。一度会うてみたかったのじゃ」
「恐れ多いことでごじゃます!」
かんでる。かんでるよ。
「そうかしこまられると、話もできぬ」
「はははははは、はいっ」
「顔をみせてはくれぬか」
そのまま童女妖怪はしばらく平伏していたが、やがておずおずと顔を上げた。
「もそっと」
そのことばに促されて、童女妖怪は完全に顔をあげた。
「おお。まことに可憐な姫よ」
「きょ、きょ、きょ」
「そなた、〈天告〉と〈探妖〉が使えると聞いた」
「ははははは、はひぃ」
「優しい心根を持っておるのじゃなあ」
「……はひ?」
「つらい道をたどってきたのであろうなあ」
童女妖怪は頭を下げた。
「鈴太どの」
「はい」
「〈天告〉というのは特殊な能力じゃ」
「はい。とても強力な力だと聞いています。知りうることに限度がないと」
「そうじゃ。探知の系統のなかで最も強力な神通力じゃ。天界の神ならぬ者がこれを身につけるには、その者の一切をささげねばならぬ」
「一切を……ささげる?」
「そうじゃ。自分の身を守る
「困っている者、弱き者に奉仕する、ためだけに」
「それほどの代償を払って得る力なのに、自分のことはみえず、自分自身のつごうで問いを立てることもできぬ。誰かの頼みを受けてしか、〈天告〉は発動せんのじゃ」
「誰かのためにしか使えない能力……」
「〈天告〉は、誰かの願いに応じて発動し、その誰かが知りたいと望んだ真実を告げる。じゃが、真実がその誰かにとって喜ばしいものとは限らぬ。となればその誰かは、真実を告げた者を恨み呪う」
「あ……」
「それでも誰かの役に立つことを願いながら〈天告〉を続けるしかない。〈天告〉を持つとはそういうことなのじゃ」
童女妖怪は頭を下げたままだ。
「鈴太どの」
「はい」
「長壁どのは、六百年以上生きておるとのこと」
「はい。そう聞いています」
「それはもはや、あやかしの寿命ではない。神霊や精霊に近かろう。それだけの長命が得られたということは、長壁どののしてきたことを天が喜んだということじゃ」
顔を伏せたままの長壁の肩が震えている。
「長壁どの」
呼びかける声は、限りなく優しい。
「よくなされたなあ」
泣いている。
小さな小さな声で、童女妖怪が泣いている。
「それを言っておきたかったのじゃ」
ぽたぽたと、童女妖怪の顔の辺りからしずくが落ちた。
「これからも、鈴太どののこと、この里のこと、よろしくお頼みしましたよ」
童女妖怪は、平伏したままで涙をこぼしながら、何度もうなずいた。
俺はかけるべき言葉も思いつかず、ただ黙ってそのようすをみていた。
「そうじゃ、鈴太どの」
「は、はい」
「来ていただいたのは、これを渡すためじゃ」
ひでり神さまが渡してくれた小さな紙袋をみると、なかに二つの白い毛玉が入っていた。
「これは、水虎の……」
「これはどうも、あなたのそばに置いておくほうがよい気がするのじゃ」
「いいんですか」
笑顔を浮かべて、ひでり神さまはうなずいた。
俺は紙袋から二つの毛玉を取り出すと、じっとみつめた。
「それ、ちょと貸すです」
いつのまにか童女妖怪が復活している。
「返せよ」
童女妖怪が受け取ると、小さな毛玉がやたら大きく感じる。
それをぱふぱふと、顔全体に押しつけている。
「やさしい感じがするのです」
「よだれをつけるなよ」
「よだれなんかこぼしてないです!」
「あ、油揚げ!」
「ど、どこ。どこにですか?」
「ほら、よだれが」
「ええっ?」
「ほほほほほほほほ。あなたたちは、本当に面白いのう。仲がようてけっこうじゃ」
「ええーっ」
「ええーっ」
「ほほほほほほほ。ほほほほほほほ」
しばらく談笑したあと、ひでり神さまの家を出た。
また童女妖怪を連れてくることを約束させられて。
「さあ、次の場所に行くのです!」
「帰るよ」
「ええーーーっ?」
「帰るんだよ」
「ええーーーーっ?」
「帰るんだってば」
「ええーーーーーっ?」
じっと目をみる。
うるうるしてる。
冗談めかしてるけど、ほんとに悲しそうな目だ。
ちくしょう。しょうがない。
「帰り道に二、三か所寄ってってやるよ」
「やった! やったのです。やはり正義は勝つのです!」
結局、村内の見晴らしのいい場所を五か所も回ったので、帰り着いたときには完全に夜だった。
三か所目で、童女妖怪は石につまずいて転んだ。
鼻をすりむいて、血がにじんでいた。
精霊に近い妖怪だということだけど、実体化してるときは、怪我もするようだ。
4
翌朝、天子さんがやって来て、和尚さんの具合がよくないと言った。
「またも寝ておってなあ。起こしても起きぬ。があがあいびきをかいておる。顔色がそう悪いというわけでもないし、生命力が弱っているというようすもない。まあ、次の戦いに備えて体力を回復させておるのじゃろう」
もともと和尚さんは、千二百年にわたって続いた戦いで、傷つき疲れていた。百年ちょっと前からは妖怪の出現頻度も下がり、特にここ十何年は弱い妖怪しかでなかった。そこへもってきて、鉄鼠との戦いは激戦で、和尚さんはかなり大きなダメージを受けたみたいだ。さらに三日前には火車と戦ったが、これもみるからに強い敵で、和尚さんはそうとうに無理をしたんだと思う。
できればこのまま、しばらく休ませてあげたいものだ。
と、そんなことを思っていたら、次の妖怪が出た。
「天逆毎がいます。今朝はかなり村に接近してますです。八つ目の溜石が妖気を失ってますです。近くに妖怪が出現してます。骨女です」
「骨女か」
「天子さん、ずいぶん渋い顔してるね。手ごわい敵なの?」
「うん? ああ。強いか弱いかでいえば、弱い」
「へえ?」
「長壁よ。して、骨女はどこにおる?」
「ここです」
「……
天子さんの表情はますます渋い。
童女妖怪が指さしたのは、安美地区の北側に残った溜石だ。
どういうわけか、溜石十二個は、六つの地区に、それぞれ二つずつ配置されている。
安美地区にも北側と南側に一個ずつ溜石があった。南側の溜石は水虎を生み出し、今度は北側の溜石が〈ほねおんな〉とかいう妖怪を生み出したわけだ。
そのほか、これまでに、松浦地区からは鉄鼠が、土生地区からは火車が、御庄地区からは守生と金霊が、雄氏地区からはぶらり火が、有漢地区からは幽谷響が生まれている。
これで残った溜石は、松浦地区に一つ、土生地区に一つ、雄氏地区に一つ、有漢地区に一つで、計四個だ。
「そういえば、天子さん」
「うん?」
「妖気を失った溜石が、これで八個になったわけだけど」
「そうじゃな」
「これはそのままにしておいていいのかな?」
「どうにかしようがあるのかえ?」
「結界の外に捨てるということもできるよ」
「む」
「妖気を失った溜石は、また少しずつ妖気を吸ってるんだね」
「それはそうであろうな」
「そのまま置いておけば、やがてまた妖気をためて妖怪を生み出すだろうか」
「理屈のうえではそうなる。しかしそれには長い年月を要するじゃろうな」
「あ、そうなんだね。それならむしろ、村の各地域で妖気を吸ってくれてるわけだから、結界内の妖気が強くなるのを抑えてくれてるわけか」
「そういえばそういうことになるの」
「ふうん。なら、妖気が抜けた溜石は、そのまま放置がベストか。じゃあ、妖気が詰まってる溜石は、どうなんだろう」
「どう、とは?」
「このまま放置したほうがいいのかな」
「放置せぬとしたら、どうするというのじゃ」
「一か所に集めるという手もある」
「集める、か。しかし、どこに」
「和尚さんのところに」
「ふむ」
天子さんは、しばらく考え込んだ。
「いや。やはりそれは考えものじゃ。すぐそばで生じたあやかしが、いきなり法師どのを襲うこともあろう。わらわの援護なしに強力なあやかしと戦えば、法師どのも傷を負う」
「じゃあ、地守神社の境内はどうだろう」
「ほう……それは面白い考え方じゃな。じゃが、わらわには判断がつかぬ。法師どのが目覚めたら相談するがよかろう。さて、わらわは出てくる」
「え? もしかして、骨女を退治しに行くの?」
「そうじゃ」
「和尚さんが動けないんでしょう? 一人で行くの?」
「そうじゃ」
「危険だよ」
「骨女はのう、たった二つしか妖力を持たぬのじゃ」
「えっ。そうなの?」
「それは、〈魅惑〉と〈吸精〉という力でのう。人間にしか効き目がない。つまりわらわには効かぬのじゃ」
「へえ?」
「それにしても、長く放置すると危険なあやかしなのじゃ。わらわはもう行く」
「あ、俺もついて行くよ!」
「おぬしが? いや、おぬしは危険じゃ。骨女の〈魅惑〉にやられるかもしれぬ」
「でも、天子さんだけを、そんな危険なところにやれないよ!」
「……む。その気持ちはうれしいが」
「それに、俺が行けば、漏れなくおさかべもついてくるよ」
「……む」
童女妖怪をみると、うんうんとうなずいている。
昨日、村内観光をさせてやったからか、今日はすっかりおとなしい。
「言い合っておってもしかたないのう。では、ついてまいれ。しかし、絶対に骨女に触れられてはならんぞ。一瞬でも肌が触れれば、たちまち〈魅惑〉にかかってしまうからのう」
5
「ごめんくだされ」
インターホンのブザーを押し、天子さんが声をかけると、しばらくして男の人の声で返事があった。
「はーい」
「神籬天子じゃ。ちと用があって参った」
ここは安美地区の宗田家だ。大きくて奇麗でびっくりした。金持ちの家なんだろう。
家のなかから土間に降りる気配がして、ドアが開いた。
「これはおめずらしい。まあ、どうぞなかへ」
天子さんと俺を招き入れたのは、二十代半ばの男の人だ。この人が表札の二番目に名前があった、宗田浩一さんなんだろう。
「いや実は用事があるのは、この家に今おられる
「え?」
溜石は、この家の裏手にある木立のなかにあった。
〈骨女〉はどこかと童女妖怪に訊いたところ、この家を指さしたというわけである。
「女性? というと、まさか
「この家におる若く美しいおなごじゃ」
「どうして神籬さんが安奈さんのことを?」
この浩一さんという人は、おどおどしているというか、内向的というか、すごくおとなしい感じのしゃべり方をする。
「おお! 天子さんじゃねえか。ようこそお越しじゃ」
奧から出てきた人物が天子さんに呼びかけた。五十代後半ぐらいの年齢だ。この人が表札の一番目に名前があった、宗田哲生さんなんだろう。
「それに大師堂の若ご主人もおみえか。ごきげんよろしゅう」
「こんにちは」
「実はのう、天子さん。うちに嫁が来ることになったんじゃ。結婚式にはあんたらも呼ばしてもらうけんのう」
「ほう、それはめでたい」
「いやあ、
「五年越しとあれば気心も知れておろう。どこで知り合うたのじゃ」
「うん? はてのう、どこじゃったかのう。とにかく二人は前々からの恋人同士なんじゃ」
「はは。大いにけっこう。そのおなごのことを、
「はて、いつじゃったかのう」
「お父さん。ずっと前じゃ」
「そうじゃ。そうじゃ。ずっと前じゃ」
「ほう、そうか」
どうもおかしい。本人同士がどこで知り合ったとか、お父さんはいつからその女性を知っているかとかいう質問を天子さんがしたとき、哲生さんは、目を宙に浮かせて、何とも間抜けでみっともない顔をした。知性を失ったような顔だ。
もしかすると、二人とも、〈魅惑〉とかいう妖術にかかってるんだろうか。
「お客さまですか?」
奧から若い女性が出てきた。
俺と同じか、ほんの少し上ぐらいの年かな。
なんて可憐な人だろう。
それでいて、右目の下にある泣き俺ろが、とても色っぽい。
「ふむ。なるほど。骨女にまちがいないの」
そう言いながら、天子さんが右手を振り上げた。
俺は思わず、その右手にしがみついた。
「何をするの! だめだよ!」
「あ、こら、離せ」
「この人に何をする気なんだ。この人は妖怪なんかじゃない!」
「鈴太! これ、離せというに」
俺と天子さんがもみあっている、そのかたわらを若い女性が走り抜けた。ああ、はだしで走っちゃだめだ。怪我するよ。
「鈴太! このばか者!」
天子さんが、左手の手のひらで俺の頬を引っぱたいた。
「いたた。何するんだよ」
「離せ。おのれ、逃がしてしもうたか」
「え? 今、俺は何を」
「追うぞ!」
「え? え? え?」
わけがわからないまま、玄関口を飛び出した天子さんを追いかけた。
五十メートルほど先の坂道を、ぴょーん、ぴょーんと飛ぶように走る、奇怪なモノがいた。
骨だ。
骸骨だ。
骸骨が走っている。
その後ろ姿を天子さんが追う。
天子さんを俺が追う。
村の端まで追って、天子さんが立ち止まった。
左の道、つまり美泥沼を通って麒麟山の山頂に向かう道に、骸骨は走り込んで行ったようだ。
そしてこの道は、つい先日、五頭大地郎さんと千さんのご遺骸を埋葬するために通った道でもある。
「どうしたの? 追わないの?」
「ここが結界の端になる。そこに地蔵がみえておろう」
あ、そうだったんだ。
村の端っこにあるお地蔵さんは、結界の境界を示してたのか。
「まあよい。結界の外に出るとは愚かなあやかしじゃ」
「え? どうして?」
「あれだけの妖気を持っておれば、出たが最後、結界のなかに入ることはできぬ」
「一キロほど離れた場所で、骨女は止まってるです。こちらのようすをうかがってるような感じがするです」
突然、童女妖怪登場。
そうか。宗田家を出るとき、すばやくお守りに戻ったのか。それとも、お守りを持った俺が走って離れたから、自動的にお守りに戻ったのかもしれない。
「それにしても、鈴太よ。よけいなことをしてくれたのう」
「え? 俺がいったい何をしたって……」
俺は自分が何をしたかを思い出した。
「ええっ? なんであんなばかなことを」
「ふむ。正気に戻ったようじゃの」
「て、天子さん、ごめん。邪魔しちゃった」
「骨女の〈魅惑〉にかかったようじゃの。しかたあるまい。ふつうは骨女に直接さわられねば、〈魅惑〉にかからん。じゃが先ほどは、目線を合わせただけで〈魅惑〉にかかったようじゃ。溜石の力を得て強力になっておるのじゃろうな」
「ごめん。ほんとにごめん」
「もうよい。帰るぞ」
てっきり追いかけて倒すんだと思ってたけど、なぜか天子さんはそれ以上追う気持がないようだった。
6
「ごめん。ほんとにごめん。無理言ってついていったのに、天子さんの邪魔をするなんて。ほんとにごめん」
「もうよい。わらわも、骨女に触れられてはならぬとしか言っておらなんだ。今回の骨女があのような能力を持っておるとは誰にも予想できぬ」
「ごめん。ほんとにごめん。あんな骨なんかにたぶらかされて」
「あんな骨? まあよい。それよりそろそろ食事の支度をしてくれぬか」
「ああ、はい」
「
「どういう罰だよ」
食事が終わると、童女妖怪はお社に引き上げた。
「骨女のほうは、もう心配することもないが、宗田のせがれが心配といえば心配じゃな」
「え?」
「問題は、骨女が現れたのが今朝のことなのか、昨日のことなのかじゃが」
「今朝突然現れたにしては、宗田家になじんでたね」
「そこじゃ。おそらく昨日のうちから入り込んでおったのであろうなあ」
「そうだとすると、何が問題なの」
「骨女は、一度情を交わした男からは、離れていても精気を吸うことができる」
「え」
「昨日のうちから入り込んでおったなら、宗田のせがれは、もう骨女のとりこになっておるやもしれぬな」
「精気を吸われると、どうなるの?」
「一日や二日は、何ということもない。十日も続けば、痩せ細って死ぬじゃろうな」
「ええっ」
「やむを得ん」
「いや、それはちょっと」
「とはいえ、敵地に飛び込んで戦うこともできぬ」
「あ、それ、不思議に思ってたんだ。どうして結界の外に追いかけなかったの?」
天子さんは、少し困ったような目つきで、じっと俺の顔をみた。
「法師どのやわらわが結界の外に出るのは、天逆毎の思う壺かもしれぬ。そう言うたのは、鈴太、おぬしではないか」
「あ」
そうだった。こちらは敵の正体を知ったばかりだけど、相手は百何十年ものあいだ、この里を狙っているんだから、こちらの強みも弱みもよく知っていると考えるべきだ。そう俺が言ったんだった。そう言って、和尚さんや天子さんが、天逆毎に対して反撃に出るという案に反対したんだった。
「わらわなりに、そのことについて、いろいろ考えてみた。おぬしの考えには正しいと思われる部分もあるし、正しくないかもしれない部分もある」
「何が正しくて、何がまちがっているんだろう」
「正しいとかまちがっているとか断言できるほど、わらわは賢くない。ただ、ふに落ちることと、承服できぬことがある」
「ふに落ちることって何?」
「敵が長年にわたって準備をしておるということじゃ。じゃから、相手はこちらのことをよく知っており、それなりの対抗策を考えておるということじゃ。そして法師どのとわらわを目障りだと思っておるということじゃな。ああ、それから、天界の神であるひでり神さまを、ただの天逆毎が抹殺などできるわけがないのであり、相手にはこちらの知らぬ秘密があるということじゃな」
「じゃあ、承服できないことというのは?」
「おぬしは、鶴枝とおぬしが結界の外に出たのは、敵にとって千載一遇の機会であったというた。じゃがそれは信じられぬ」
「え?」
「そもそも、この千二百年のあいだに、〈はふり〉の者が里の外に出入りすることなど、いくらでもあった。まさか付け狙っている敵がいるなどとは、ごく最近まで思いもしなかったのじゃからな」
それはそうだろうと思う。完全に引きこもっていなければならない理由はなかったんだから。
「わらわも何度も結界の外に出た。今年に入ってからも遠出したことがある。むろん隠形をかけてのことじゃがの」
「そうなんだ」
「その折にも、べつに付け狙われているような感じはなかった」
「気づいてないだけかもしれないよ」
「そうでなくても、わらわの住まいは麒麟山のふもとにある。毎日そこに帰っておるのじゃ。つまり、毎日結界の外に出ておる。もちろん結界を出るときには隠形をかける」
「うん」
「そもそも、いかに敵に力があっても、結界を出入りする者をいちいち調べることなど、できるわけがない。相手が大きな妖気を持っておれば、近づけばそれとわかるじゃろうが、離れておっては無理じゃと思う。しかもそれを昼夜の別なく何十年も続けるなど、絶対に不可能じゃ」
「うーん。そうなのかなあ」
「その点について、いろいろ考えたが、やはり無理じゃ」
「でも、お母さんは、やつに操られた」
「それは確かにそうじゃ。じゃがおそらく、ずっとみはられておって、鶴枝が結界の外に出たのでただちに敵の手に落ちたというようなことではなく、もっと別の成り行きがあったのではないかと思う」
「うーん」
「まあ、その点については、こちらには判断材料が少なすぎるから、いずれにしても確かなことはいえぬ」
「うん。まあ、それはそうだね」
「少し別の話をしようかの」
「うん?」
「ここ百数十年のあいだ、わらわが知っておるだけでも、この里の者で行方知れずになった者は何人かおる」
「うん」
「そのなかに、殿村の祖父がおる」
「えっ」
「有能で責任感の強い男であった。里の外で役目を果たしておったのじゃが、妻と子に連絡もなく、姿を消した」
「そ、それは」
「その後、いつまでたってもゆくえがわからぬ。よしんば事故で死んだにせよ、死体も発見されぬというようなことは考えにくいのじゃがな」
殿村さんのおじいさんなら、この里の秘密も知っていたはずだ。
「天逆毎の手に落ちておったとすれば、あの失踪の謎が解ける」
「なるほど。……でも、そうだとすると」
「ん?」
「いや。俺もいろいろ考えていて、いくつか解けない謎にぶつかったんだ」
「ほう」
「その最大のものは、天逆毎は、いったいいつ、ここにひでり神さまがいると知ったのか、ということなんだ」
「なに?」
「天逆毎は、ひでり神さまに復讐したがっている。つまり、もともとひでり神さまと、何らかの関係があるんだ」
「もちろんそうであろう」
「天逆毎は、ひでり神さまに復讐したい。そして天逆毎は、天逆川に棲んでいる。つまり、この村をうかがえる場所に棲んでいる。そのことに何の不思議もないように思える」
「当然であろう。あのかたに害をなすのが目的となれば、別の場所におるほうがおかしい。水のなかにしか棲めぬあやかしなのじゃからの」
「うん。でも、天逆毎の寿命って、せいぜい二百年かそこらなんでしょ?」
「うむ。詳しくは知らぬが、まあその程度のものであろう」
「天子さん」
「うむ、何じゃ」
「ひでり神さまがここにいることは、日本中の妖怪にとって常識なのかな?」
「なにをばかな。そのようなことを知っておるものなど、この里の外にはおらぬ」
「そうだろうね。なら、天逆毎は、どうしてそのことを知ってるの?」
「それは、殿村の祖父を……いや、そんなはずはないか」
「殿村さんのおじいさんをさらって、この村の秘密を知ったとすると、なぜこの村に目をつけたのかがわからない。でもこの村に目をつけていたんでないとすると、殿村さんのおじいさんを拉致できた理由がわからない」
「む、む」
「何百年も探し回って、ここに疑わしい村があると気がついたというなら、まだわかるんだ。でも、天逆毎にはそこまでの寿命がない。そして天逆毎の攻撃は百数十年前に始まっている。殿村さんのおじいさんが行方不明になったのもその時期だという。これはいったいどういうことなんだろう」
「わからぬ。どういうことなのじゃ」
「俺にもわからない。だけどこの謎が解けたら天逆毎の正体もわかるんじゃないかと思うんだ」
「なる……ほど」
「まあ、今すぐには結論の出ないことだからね。それはそうと、骨女を追って結界の外に出なかったのは、どうしてなの?」
「うむ。わらわが結界の外に出たからといって、天逆毎にはただちにそれを知ることはできぬ、とわらわは考えておる」
「うん」
「じゃが、結界の外であやかしと戦えば、話は別じゃ」
「あ」
「神通力を使えば、わらわはここにおると、天逆毎に教えておるようなものじゃ」
「そうか」
「鈴太が言う通り、天逆毎は、法師どのとわらわを排除したいと考えておるはずじゃ」
「うん」
「麒麟山には小さな川や池がいくつもある。どこでどう天逆川とつながっていないともかぎらぬ。地下を通ってつながっている場合もあろう。また、かりに水の近くに行かなんだとしても、仲間や眷属がいないともかぎらぬ。おぬしが言うように、敵には準備の時間がいやというほどあったのじゃ」
「確かにそうだ。結界の外は危険だ」
「そうであろう」
「そうか。それじゃあ、宗田浩一さんは、死んじゃうんだ」
「いや。手はある」
「どんな手があるの?」
「怨霊を退けるお札が残っておる」
「そりゃいいや! じゃ、すぐに届けてくる」
「待て待て。息子があやかしに取り憑かれておるというような話を、すぐには信じまい」
「あ、そうか」
「それに、必ず宗田のせがれが骨女のとりこになっておるともかぎらぬ。とりこになっておれば痩せ細っていくから、親が異状に気づいて困り果てたとき、お札を持っていってやるのがよかろう」
「なるほど。ちょっと気の毒だけど、それしかないな」
「まあ急ぐことはない。骨女の本体は結界の外に出てしもうて、もうなかには入ってこれんのじゃからの」
「そういえば、天子さん、骨女が出たと聞いて、ずいぶん渋い顔をしてたね。それと、宗田の家の近くに出たと聞いて、なんか妙な反応だった」
「ああ。それにはいきさつがあるのじゃ」
7
もう三百年近く前になるかのう。
安美地区に
武左右衞門の家は、もとをたどれば武士の家柄で、四国のどこやらで家老をしておったというのじゃがの。この村に流れ着いてきたときには、ろくに財産もなかったが、綿の栽培でもうけて家財をたくわえ、百姓代にまでなった。百姓代というのは、名主や組頭と並んで三役と呼ばれた村役人じゃ。
この村がもともと〈はふり〉の者の里じゃなどということは知りもせず、知っても気にせぬ男であった。そのころ、〈はふり〉の当主は、地守神社の神官ということになっておった。武左右衞門は、村の三役であることを鼻にかけ、何かと偉そうにしておった。
武左右衞門の一人息子を
この新兵衛が、嫁を取ることになった。年貢米上納のときに、よその村で知り合うた娘じゃ。
なかなか派手な婚礼が行われたようじゃが、なぜか〈はふり〉の当主も法師どのも呼ばれなんだ。
嫁そのものの評判はよかった。美人で気立てもよく、働き者だという。
ところが、婚礼から十日たっても、
ああ、おぬしには何のことかわからぬかの。当時は、別の村から嫁が来るときには、その村の檀那寺と村役人が作った書類が、嫁入り先の村役人と檀那寺に届けられたのじゃ。〈当村の誰それが貴村の誰それに嫁ぐについて、こちらの人別帳から抜くので、そちらの人別帳に加えてほしい〉という書類と、〈誰それは代々わが宗旨の信徒にまちがいない〉という書類じゃな。そのころは、寺が戸籍の管理に関わっておったのじゃ。旦那寺の住職である法師どのは、それを受け取って確認の書類を移転元に出さねばならんのじゃ。
不審に思うた法師どのは、名主に問い合わせた。すると名主のほうでは、送一札は届いておるという。ところが、その書類を探してもみつからぬ。これはおかしなことじゃと、法師どのは直接その嫁に会いにいった。そこで嫁が骨女という妖怪じゃとわかったのじゃ。
ところが、嫁の正体がわかる前に、少々厄介なことになっておった。
なんと、村の男五人が、その嫁のもとにこっそり通うておったのじゃ。嫁入りしたばかりの若い娘が、五人もの男を引き込んで浮気というのは、ただごとでない。
もちろん、そのことは露見せずにはすまぬ。新兵衛は、狂ったようになって嫁を責め立てた。すると嫁が言うには、思いが遂げられなければ死ぬほかないと迫られて、仕方なしに体を許したのだという。そう言われてみれば、嫁の美しさと色気はただごとでない。気の迷う男が出たのも美貌ゆえのことかと、新兵衛は、嫁の不義を許すことにした。ただし、父親の武左右衞門の怒りはそれではとけず、不義を働いた五人の男たちを呼び出して、棒でさんざんに打ち据えさせたという。五人のうち三人は嫁も子もおったのじゃから、少し異様な出来事であったがのう。
そういう外聞の悪い出来事も我慢して、嫁を家に置くことを、父も息子も決めたわけじゃ。そうしたところ、その嫁があやかしであり、美しく若い女どころか、醜い骨の化け物だとわかったのじゃ。
ただし、法師どのが嫁の正体を看破して倒したときには、すでに新兵衛と五人の男たちを救うには遅かった。新兵衛と五の男たちは骨と皮ばかりにやせ衰え、まもなく死んでしもうたのじゃ。
この村の結界は、法師どのとわらわが死なず老いず、不思議のわざを使うことを、あやしませぬ働きがある。あやかしが退治されれば、そのあやかしがなした奇態を忘れ、都合よく得心するのじゃ。
ところがこのときは、そうはならなんだ。息子と嫁をなくした武左右衞門は、気がふれたようになって法師どのを責め立てたのじゃ。何の罪もない嫁を法師どのが殺して、そのために息子も死んでしもうたとな。あのときは、安美地区の家の者が総出で転輪寺に押し寄せるような騒ぎとなった。あわや火をかけられる寸前までいったのじゃ。
ほどなく、武左右衞門が変死して、騒ぎも収まったが、のちのちまで法師どのと安美地区の者らとのあいだにはしこりが残った。わらわがあとで調べてわかったのじゃが、あのとき転輪寺を焼き払おうとした者たちは、新兵衛の嫁に、つまり骨女に背を擦られたり肩を揉んでもらったりしておった者ばかりじゃった。かねて骨女は、触れた男に〈魅惑〉をかけると聞いておったが、その通りだったわけじゃな。
ところで武左右衞門の死は衰弱死じゃった。その死にざまは、息子のそれとまるで同じであった。なんと武左右衞門は、息子の嫁に手を出しておったのじゃな。それがこのときまで死ななんだのは、恨みを晴らさんとする骨女の執念だったのじゃろうなあ。
その後、分家が息子を養子に出して、武左右衞門の跡を継がせた。その子孫が宗田哲生であり浩一というわけじゃ。
8
武左右衞門、新兵衛親子の話を聞いたあと、宗田浩一さんに対する俺の同情は、一気に冷めてしまった。
まあ、ほっといてもすぐ死ぬわけじゃないしね。
死にそうになったころ、そっとお札を持っていってあげよう。
いや、そんなややこしい一族の末裔なんだったら、お札なんか持っていったら、さてはこの病気は貴様のしわざか、とか言われかねないかな。
(見捨てようか)
そんなことを考えながら、午後はあちこち配達に駆け回り、この日は終わった。
翌日、天子さんの作った朝食を食べたあと、〈探妖〉タイムとなった。
「溜石の総数十二、うち妖気の抜けた石は八。ここまでは昨日と同じなのです。骨女はここにいますです」
童女妖怪は、麒麟山の裾野近くを指さした。
「む。西区域の者らの亡きがらを埋めてある場所じゃな」
「そして、骨女の周りに、五体の妖怪が発生しています」
「なにっ」
「妖怪の名が表示されないのです。名もない妖怪なのです」
「それは、まさか、死人が墓から起きたのか?」
「わからないのです」
天子さんが考え込んでいる。
「そういえば天子さん。五頭さんのご遺骸は、麒麟山に埋めたね」
「あ? ああ、そうじゃな」
「じいちゃんの亡きがらは、白澤山に埋めたね」
「うむ」
「そもそも今の日本では、人が死んだら火葬にしなくちゃいけないんじゃないの? 勝手に山に埋めてもいいの?」
「ふむ。かつては個人宅に勝手に埋葬することもできた。墓地に埋葬しなければならぬようになったのは、明治十七年ごろじゃったかの」
「へえ」
「第二次世界大戦後、ポツダム体制下での法律も、このときの法律とそう大きく変わらぬ。そして現在の〈墓地、埋葬等に関する法律〉でも、おおむね主要な内容は引き継がれておる」
「そうなんだ」
「この法律では、土葬はべつに禁止しておらぬ。ただし、埋葬するのはきちんと許可を受けた墓地でなくてはならぬ。この里では、西区域の者は麒麟山の、東区域の者は白澤山の墓地に埋葬するならわしとなっておる」
「あれ? それ、うちの私有地じゃ」
「その一角が、正式に認可を得た墓地になっておるのじゃ」
「ええっ。そうなの?」
「当然、埋葬の際には、埋葬許可書が提出される。〈死体火葬許可書〉という書類じゃ。この里では村役場が発行する。東京や大阪などの大都市では条例で土葬禁止地域を指定しておるので、その地域では〈死体火葬許可書〉に火葬場が〈何月何日に火葬を執行した〉という判をついておらねば、埋葬はできぬ」
「そんなふうになってるんだ」
「この里の場合、書類は法師どのが受け取り、あとで殿村が受け取って、財団の担当者が処理しておる」
「財団?」
「〈はふり〉の家の財産を管理する財団じゃ」
「そんなものがあるんだ!」
「聞いておらなんだか。それなら聞かなかったことにせよ。時がくれば殿村が説明するであろう。ちなみに、法師どのは、その財団の霊園管理部の部長ということになっておって、給料が出ておる」
「びっくりだ。それはそうと、骨女とその五体の妖怪は、ほっておいていいの?」
「ううむ。放っておいてよいとはいえぬ。さりとてわらわが結界を出て倒しに行くのは危険がある。しかも合わせて六体となると、勝てぬかもしれぬ」
「和尚さんの復調を待つしかないのかなあ」
「もし出るとしたら、わらわと法師どのの二人で出る。がしかし、それも法師どのが目覚めて相談してのことじゃ。今は成り行きをみまもっておるしかなかろう」
「そうだね」
9
俺たちは、そっと成り行きをみまもるつもりだったけど、成り行きのほうでは俺たちをほっておいてくれなかった。
昼前のことだ。
「おい! 大師堂!」
怒鳴り声がしたので、何かと思って外に出た。
宗田哲生さんと浩一さんがいた。うしろに四人ほど、男の人がついて来ている。六人とも、ひどく目つきが悪い。
「ここに、神籬天子がおろうが!」
浩一さんが、がなり立てた。
昨日聞いた、人のよさそうなやさしい声とは似ても似つかない、じゃりじゃりとした声だ。
「て、天子さんに何かご用ですか?」
「うるせえ! 小僧は黙って、神籬を呼んでこい!」
「わらわに何か用かえ」
「て、天子さん。来ちゃだめだ」
「おい、神籬! 安奈ちゃんに何をしやがった」
浩一さんが血走った目をみひらいて食ってかかった。
目が落ちくぼんでいる。昨日あったときには、おぼっちゃん然とした印象だったけど、たった一晩でずいぶん人相が変わった。顔色も、病人のように青白い。
「昨日から、安奈ちゃんが帰ってこん。お前がいじめて村を追い出したんじゃ!」
どう考えても、昨日、天子さんが骨女をいじめたとはいえない。倒す寸前だったけど、実際には何もしていない。
とすると浩一さんは、偽の記憶を植え付けられてる。
誰に。
もちろん骨女だ。
どうやら骨女は、一度〈魅惑〉のとりこにした相手は、結界の外からでも新たな幻影を植え付けられるみたいだ。
「いじめた覚えはないのう」
「なにを!」
「ぬかせっ」
「どついちゃろうか!」
それにしても、六人の暴徒を相手に、どうしてこんなに落ち着いていられるんだろう。俺は、がたがた震えないでいるのが精いっぱいだというのに。
「あ、安奈ちゃんは、山で一晩過ごしたにちげえねえ。なんてかわいそうな」
「わらわが追い出したわけではない」
「な、殴ったじゃねえか」
「殴ってはおらぬ」
「しかも、あることないこと言い立てて、安奈ちゃんをいじめやがって。あんなひどいことを言われたら、誰でもショックを受けるわ!」
「そうじゃ、そうじゃ!」
浩一さんだけでなく、哲生さんも記憶をいじられているようだ。
「どうしたんなら!」
後ろのほうから声がした。
平井巡査だ!
これは助かった。
「宗田さんじゃねえか。どうしたんなら、血相変えて」
「平井さん、神籬天子を逮捕するんじゃ!」
「天子ちゃんを逮捕? 何をあほうなことを」
「この女はうちの嫁をいじめて追い出したんじゃ」
「ちょっと落ち着け。天子さんは、よその家の嫁をいじめたりする人じゃねえ。それにのう、他人にいじめられたからというて、なんで嫁さんが出ていかんとおえんのなら。あんたらがかぼうてやりぇええじゃろうが。それより浩一に嫁じゃと。いつ結婚したんなら」
「式はまだじゃ。けえど、五年越しの付き合いで、やっと結婚が決まったんじゃ。それで一昨日来たんじゃけど、この女が追い出しよったんじゃ」
「待て待て。式もまだじゃいうのに、家に来たんか? そりゃ、どういうことなら。第一、哲生さん。あんた先週わしに、浩一にええ嫁がおらんかのういうて相談しよったじゃないか」
「何じゃと?」
「とにかく一度帰れ。帰って頭を冷やせ。それで、天子さんに何か聞きたいことがあるんじゃったら、わしを通せ」
哲生さんも浩一さんも、ほうけたような顔をしている。
それから平井巡査は、しばらくお説教してから、六人を帰した。
「天子さん。だいじょうぶじゃったか」
とろけたような笑顔で、こわもて巡査が言った。
「だいじょうぶじゃ。しかし、助かった。礼を言う」
「ええんじゃ。何かあったら、いつでも言うてえなあ」
10
そんなことがあったし、麒麟山の墓地のことも気にかかったけれど、俺はとにかく商売に精を出した。
今日は配達が十二軒もある。めずらしく山口さんからも電話で注文があった。
ほかの注文を済ませてから山口さんの家に向かうと、もう夕方近かった。
「あら、ありがとう」
「いえ」
「鈴太さあん。ちょっと上がってお茶でも飲んでいかないかしら」
ちょっと迷ったが、山口さんは俺の手を取って引っ張った。
ダイニングルームの机の前に座り、香りのいいアイスティーで喉をうるおしていると、俺の向かい側に山口さんが座った。
無言だ。
なぜか、無言だ。
アイスティーを飲み終わって、氷が、からんと音を立てた。
「ごちそうさまでした。それじゃ……」
「夢をみるの」
「え?」
山口さんは、手元に目線を落としたまま、突然話し始めた。
「変な夢なの」
「夢、ですか?」
「私は、その夢のなかで、みにくい怪物になるの」
「えっ」
「古ぼけて枯れた木のような、みにくい怪物に」
「そ、それは」
「そして私は森のなかに入っていこうとするの。だって怪物だから」
「森に、ですか」
「でも、そんな私を止めてくれる人がいたの」
「止めてもらえたんですね」
「あなたよ」
「……」
「そしてあなたは、不思議な術で、私を人間に戻してくれたの」
「……」
「最初は断片的な夢だった。それが何度も何度も繰り返され、やがてつながって、意味がわかってきたの」
「そ、そうなんですか」
「あれは、本当にあったことなのね?」
「え」
「私、五月の終わりごろに、二日ほど、記憶のない日があるの」
「はい」
「ずっと気になっていた。だけど思い出さなかった。思い出すのが怖かった」
「……はい」
「何があったのか、真実を知りたいの」
「はい」
「教えて」
そうまで言われて、とぼけることはできない。
俺は、あの日の出来事を、山口さんにすべて話した。
山口さんが、キノコ鍋を食べたあと、おかしくなってしまったことを。
生肉をむしゃむしゃ食べていたことを。
樹恩の森で
和尚さんの作ってくれたお札を持って、天子さんと俺が森に入り、一度目は失敗し、二度目で霊木を封じ、山口さんが人間に戻ったことを。
「そう。そういうことだったのね」
「はい」
「ありがとう。鈴太さん」
山口さんは顔を上げ、まっすぐに俺の目をみつめた。
「あなたに会えてよかった。あなたでよかった。私のために無理をしてくれたのね。ありがとう」
「い、いえ」
「ふふ。そのときにはとっても勇気があったのに、今日はずいぶん、うぶなのね」
「は、はあ」
「そんなところも可愛いわ」
「お、恐れ入ります」
「なにそれ。他人行儀ね」
それからしばらく話をして、俺は山口さんの家を出た。
11
翌日、〈探妖〉の結果、骨女の位置はかわらず、名無しの妖怪は十体に増えていた。
和尚さんは、相変わらず寝たままのようだ。といっても、時々起きてお酒を飲んでいるらしい。まだ体力回復中なのだろう。
天子さんに、昨日の山口さんとの会話を報告した。
「ほう。覚えておったか。あの者は、この里に住むようになって日が浅いからのう。結界の効力がまだ届ききっておらんのかもしれぬ。それに、本人があやかしに変化してしまうなど、これまでになかったことじゃからのう」
「ここで思い出したんだから、もう忘れないだろうね」
「そうじゃろうなあ。抱えて生きるには、ちとつらい記憶じゃがのう」
「うん」
「おや。今日も来たようじゃの」
「えっ。宗田さんが?」
「鈴太」
「なに?」
「わらわはここにおらぬほうがよい。隠形を使うて転輪寺に行き、和尚をみまってから帰ることにする」
「うん。それがいい」
この日は、哲生さんと浩一さんのほかに、六人の男がついてきてる。
「出て来え、神籬ぃ!」
「ここにおるのはわかっとるんじゃ!」
俺は、足の震えをこらえながら、店先に出た。
「こんにちは。何かご用ですか」
八人は、目を血走らせ、殺気立っている。怖いよ。
「とぼけたこと抜かすな! 神籬を出せぇ!」
浩一さんは、昨日以上に荒々しい。そして、はっきりと痩せてきている。たった二日でこんなにも痩せるものなんだろうか。
「天子さんはいませんよ」
「嘘をつくんじゃねえ!」
驚いたことに、哲生さんも人相が変わっていて、目の下にくまができている。
まさか、哲生さんも精気を吸い取られてるのか?
「嘘じゃありません。疑うなら、調べたらどうですか」
「ええじゃろう。どこに隠れとるか、探しちゃる」
八人の男たちは、ずかずかと土足のまま座敷に上がり込んだ。
トイレや風呂はもちろん、押入まで開けている。
神棚を乱暴に押し倒されたときには、ぎりぎりと歯を食いしばった。
戦ってはだめだ。勝てないということもあるけれど、暴力をふるったら、こいつらと同じことになってしまう。
いや、そうじゃない。
この人たちは、操られてこんなことをしてるんだ。
そう自分に言い聞かせて、ぐっと我慢した。
実際、全員、目つきがおかしい。口走ることもおかしい。まともな理屈が通じる状態とは思えなかった。
男たちは、さんざん家を荒らし回って帰っていった。
そのあと、荒らされた家を片づけた。
足跡でよごれた畳を雑巾で拭いていると、急に悔しさが込み上げてきて、ぽたりぽたりと涙がこぼれた。
この日もたくさん配達の注文があったけど、山口さんからの注文はなかった。
12
次の日、名無しの妖怪は十五体に増えていた。
「長壁よ」
「はいです」
「名無しの妖怪の妖気の質はどうじゃ」
「はい?」
「骨女と似ておらぬか」
「似て……たように思うのです」
「そうか」
「天子さん。名無しの妖怪の正体がわかったの?」
「わからんが、墓場じゃからのう。やはり死体であろうかのう。それにしても、骨女が眷属を作るなど聞いたこともない。やはり溜石の妖気から生まれたあやかしは、普通では考えられぬような力を持つようじゃの」
朝食が済んで早々に、天子さんは消えた。
ところが、長壁が消えない。
「おい、おさかべ」
「何ですか」
「お社に帰れ」
「もう少し出てるです」
「もうすぐあいつらが来る」
「……」
「お前、危ないから、お社に帰れ」
「……もう少し出てるです」
「危ないだろ。お前、実体化してるときは、簡単に怪我するじゃないか」
「あいつらには、あちしはみえないです」
「みえるやつが混じってるかもしれないだろ」
「……」
「第一、お前がいても、何の足しにもならないだろ」
すごく恨めしい目で、童女妖怪が俺をみあげている。
だけど今は、お前の出番じゃないんだよ。
「この次、妖怪相手のときには、お前を頼りにするから、今日は引っ込んでろ」
「……へなちょこ。危なくなったら、すぐ逃げるですよ」
「わかったよ」
「約束するのです」
「約束するよ」
「なら、お社からみまもってるのです」
そう言って、童女妖怪は消えた。
「ばか。気をつかいやがって」
俺はちゃぶ台の前に座って、残ったお茶を飲み干した。
震えている。
手が、震えている。
昨日も一昨日も、心の準備をする時間なんかなかったから、逆に怖くなかった。
今日は、来るだろうとわかって待ち構えている。
そのことが、こんなにも怖い。
俺はまだ十八歳だ。
年配の人に怒鳴られるだけでも怖い。まして相手は武器を持っていて、何かあればそれを振り回してくるだろう。そのことが、こんなにも怖い。
足音が聞こえる。今日も大勢だ。
「こりゃあ、大師堂! 出て来え」
俺は大きく息を吸い込んで、両手の手のひらで頬をたたいた。
玄関口に出てみると、哲生さんと浩一さんと、その後ろに十人の男の人がいる。
みんな目つきがおかしい。怒りと憎しみを、強く感じる。
それぞれクワやスコップやツルハシを持っている。
いつもと同じように、先頭にいるのは浩一さんだ。浩一さんは、鎌を持っている。
浩一さんの人相は異常だ。
痩せてるというような段階じゃなく、しゃれこうべの上に皮を張り付けたような容貌になっている。
目だけが丸く大きく見開かれていて、血走ってぎらぎらして、狂気を感じさせる。
唇は薄紫色に腫れ上がって、口の端からはよだれが垂れている。
まっすぐ歩けないで、少し傾いて、かくかくと前に進む。まるで操り人形のような動きだ。
俺はもう一度大きく息を吸い込んだ。こんなやつらを相手にするには、腹に力が必要だ。
「魔女を出せ!」
枯れてしわがれた声だ。空気がかすかす喉を通る音が混じっている。ハスキーを通り越して非人間的な声だ。
「魔女って、誰のことですか」
「神籬天子じゃ!」
「天子さんが、どうして魔女なんですか」
「村を呪ったじゃろうが!」
「呪ってなんかいません」
「この村は祟られとる。魔女のしわざじゃ!」
「どうして天子さんのしわざだとわかるんですか」
「あの女に決まっとる!」
「天子さんのしわざだという証拠をみせてください」
そう言うと、哲生さんや後ろの人までが騒ぎ出した。
「うるせえ!」
「ごちゃごちゃ言わんと、神籬を出せ!」
「殺しちゃる。殺しちゃるぞ」
「おめえ、あげえな女をかばうんか!」
「こいつも同じ穴のむじなじゃ」
「こげえなやつ相手にしても、らちがあかん」
「入れ、入れ。どっかに隠れとるぞ」
「どけや、こら!」
大勢のおとなに寄ってたかって怒鳴りつけられるというのは、はじめての経験だけど、こんなに体力と気力を消耗するものなんだ。
だけど今日は、俺も負けてはいない。いつまでも負けてちゃいけないんだ。
「こ、ここは通しません」
「なんじゃとお!」
「ふざけんなよ、こらあ」
「昨日もこうやって大勢で押し寄せて、家中を荒らし回ったじゃないですか」
「それがどうしたんなら!」
「悪人をかくまうんか!」
「おめえも怪我してえんじゃな」
「昨日もみつからなかったでしょう!」
突然俺が大声を出したら、男たちが一瞬ひるんだ。
「だけど天子さんはみつからなかったじゃないですか! 今日もみつからなかったら、どう責任を取るつもりですか! 証拠もみせず、天子さんを悪者だと決めつけて、人の家を荒して。あんたたちは暴徒だ!」
「なんじゃと!」
浩一さんが、右手の鎌を大きく振りかぶった。
俺は恐怖のあまり、大きく後ろに跳び下がって、尻もちをついた。
浩一さんが右手を振り下ろし、鎌を投げつける。何の容赦もない全力の投擲だ。
俺は思わず目を閉じた。まぶたを閉じるその瞬間、何かが何かにぶつかる音がして、緑色の火花がみえた気がした。
鎌は俺に当たらなかった。鎌がぶつかった衝撃もないし、痛みもない。後ろのほうで物音がしたような気がしたので振り返った。土間から座敷への上がり口に、鎌が突き刺さっている。
そのときだ。
「おどりゃあぁぁーーーー!」
誰かの声が聞こえた。
「てめえら、何さらしとるんじゃあ!」
このドスの利いたヤクザ声は。
左から飛び込んできた耀蔵さんは、玄関口に立っていた浩一さんの顔を殴りつけた。浩一さんは吹っ飛んだ。
誰かが玄関口から走り込んできた。
達成さんは、へたり込んでいる俺の前で身をかがめた。
「羽振さん。だいじょうぶですか」
「あ、ああ。だいじょうぶです」
玄関先では、もう一人の声が響いている。
「お前ら、全員、そこを動くな」
平井巡査の声だ。
達成さんが、俺を助け起こしてくれる。
玄関口に歩いて行った。
玄関の前には、耀蔵さんが立ちはだかっている。
「耀蔵さん、どうしてここに?」
「おお、大師堂、だいじょうぶか?」
「ええ。おかげさまで」
「
謙ちゃんというのは平井巡査のことだろう。たしか、平井謙吉という名前だったはずだ。
玄関の外にでてみると、平井巡査が宗田哲生さんと十人の男たちと対峙していた。
浩一さんは、完全にノックアウトされたみたいで、玄関の脇に倒れている。そりゃ、あの骨太のこぶしで思いきり顔を殴られたらたまらないだろうと思う。
それにしても、哲生さんと十人の男たちのようすが変だ。
さっきまでは、怒りに満ちた表情で、体中から殺気を放っていたのに、今はぼうっとしてうつろな顔をしている。
俺は倒れて気絶している浩一さんをみた。
骨女が本当に操れるのは浩一さんだけなんじゃないだろうか。その浩一さんを通して、哲生さんや十人の男たちを操っていた。中継である浩一さんが気絶したので、操りの糸が切れてしまったんだ。そういうことなんじゃないだろうか。
「わしゃあ、わしゃあ、いったい何を……」
「何をも糞もあるか。その手に持ったクワで、何をする気だったんじゃ」
平井巡査の口調はきつい。
「哲生さん」
「お、大師堂」
「さっき浩一さんが、俺に鎌を投げつけたのは覚えてますか?」
「ええっ? 何をばかな……。あああああっ」
衝撃を受けたような顔をしている。記憶がないわけじゃないようだ。
「息子は、わしらは、いったい何を。なんちゅうことを……」
平井巡査が一歩前に出た。
「おめえら、凶器準備集合罪の現行犯じゃぞ。それだけじゃねえ。殺人未遂じゃ!」
「さ、殺人未遂」
哲生さんが呆然とつぶやいて、手に持っているクワを取り落とした。
後ろの十人も、手に持ったスコップやツルハシを地面に落とした。
「平井さん、ありがとうございました。助かりました」
「天子ちゃんは? 天子ちゃんに怪我はなかった?」
「天子さんは今日は朝だけ来て、すぐに帰りましたよ」
「ああ、そうなの。それならよかった」
いや、よくはありません。俺の心配もしてください。
「どうしてここで騒ぎが起こってるとわかったんですか」
「向かいの
南部さんの家は一番のご近所だ。ここら辺りの家は、庭が広かったり、家の横に畑があったり木立があったりして、家同士が密集していない。南部さんの家の母屋は敷地の後ろのほうにあるけど、ここの家の入口ぐらいならよくみえるだろう。
「ツルハシや鎌を持った十人ぐらいの男が、大師堂に押し寄せてきたというて。いや、何かあったら知らせるように頼んどったんじゃ」
なるほど、平井巡査の配慮のおかげだったのか。
「平井さん。ありがとうございました」
「うんうん。天子ちゃんによろしく伝えてな。それで、こいつら、どうしてほしい?」
「悪い夢でもみたんでしょう。今は正気に戻ったみたいですし。それより、浩一さんの顔色が悪いのが気になります。とにかく今は、浩一さんを連れて帰ってもらうのがいいんじゃないでしょうか」
平井巡査は哲生さんに向き直った。
「宗田。とにかく今は、浩一を連れて帰れ。落ち着いたら、お前、派出所に来て事情を説明せえ」
「あ、ああ。わかった。えらい騒がせてすまん」
「謝るなら大師堂に謝れ」
「た、大師堂さん。すまんじゃった」
俺は黙ってうなずいた。
哲生さんと十人の男は、浩一さんを連れて帰っていった。
俺は、平井巡査にお礼を言った。
「平井さん、ありがとうございました」
「また何かあったら連絡してな」
「はい。耀蔵さん。達成さん。本当にありがとうございました」
「少しでも恩返しできたんならよかった」
「いいってことよ、身内のことじゃねえか」
いや。あなたと俺は身内じゃありませんから。
ふと南部さんの家をみると、窓から奥さんがこちらをみている。
俺は深々とおじぎをした。
13
昼ご飯の準備をして、童女妖怪を呼び出した。
「またあいつらが来たですね」
「お前、お社のなかにいても外のことがわかるのか?」
「寝てたらわからないです。起きてて意識を集中してたら、ぼんやりと感じるです。強い神気や妖気を持った人が近くに来ればわかるです」
「ふうん。呼びかけられたら聞こえてるよな」
「はいです」
「あれ? お前、食事ができると勝手に出てくるじゃないか。あれ、食事ができるのをみてるわけじゃないのか?」
「みてはいないのです。でも、油揚げの香りは特別なのです」
「ふうん? まあいいや。食事にしよう」
「いただきますです」
「いただきます」
食事が終わると、童女妖怪はしばらくごろごろしながら漫画を読んでいた。
ぽつぽつと来客があり、それから五軒ほど配達に回って帰ってくると、童女妖怪は消えていた。
今日はもともとなら天子さんが食事当番の日だけど、もう帰ってこないので、俺が作らないといけない。カレーうどんにしよう、油揚げの入ったカレーうどんというのも、なかなかおつなものだ。
タマネギを焦げ茶色にしんなりするまで炒め、水とブイヨンの素を入れ、揚げと人参と豚肉の薄切りとネギを入れてことこと煮立てる。ここで充分に時間をかけるのがうまみを引き出すこつだ。
電話がかかってきた。
「鈴太さぁん」
「あ、山口さんですね」
「そうよ。小豆島の醤油を一升瓶で六本、すぐに欲しいの。悪いんだけど、持って来てもらえないかしら」
俺は思わず時計をみた。
もう夕方といっていい時間だ。
こんな時間に配達の注文とは珍しい。
しかも一升瓶のお醤油が六本とは。いったい、一人暮らしの山口さんが、どうしていっぺんに六本もお醤油を買うんだろう。
「明日、父が来るの。お土産にしたいのよ」
それでわかった。うちが仕入れている小豆島醤油は、島の小さな醤油屋で作っている。独特の風味があって、俺はとても気に入っている。最近、小豆島のお醤油が、わりと人気を呼んでいて、その店の製品は特に評価が高い。ところが、生産量は急には増えない。だから、直接島に行って買うのでなければ、以前から取引のある店でしか買えない。幻の醤油なんて呼ばれているようだ。
お父さんということは、熊本から来るんだろう。あちらにももちろんおいしい醤油はあるだろうけど、お土産としてこの醤油は悪くない。
「わかりました。すぐに持っていきます」
「悪いわねえ」
俺は醤油を引っ張り出すと、自転車の荷台に取り付けた籠に入れて、太いゴムバンドでしっかり止めた。
最初のうちはゆるい下り坂だけど、最後はわりときつい登り坂だ。自転車は昔風のしっかりした造りで、一升瓶を六本載せてもびくともしないかわり、ペダルは重く、自転車そのものもかなり重い。俺は自転車から降りて、押して坂を登った。
もう夕陽は落ちかかっている。すぐに夜がやってくるだろう。
いつものように裏口に回った。
「こんにちはー」
「あら、早かったわね。ごめんなさいね」
山口さんが戸口を開けてくれた。
くらっとした。
女の人の香りが、こんなにも強烈なものだと、はじめて知ったような気がする。
そして目に映る山口さんの姿の何もかもが、俺の男の部分を直撃する。
べつに山口さんが、ことさら扇情的な服を着ていたというわけじゃない。
むしろいつも着てる服のほうが刺激的だ。
今日着ている白っぽい服は、下着が全然透けてみえない。
だけど、そんなことじゃないんだ。
少しとろんとした目つき。
上気したように色づく頬。
ほんのちょっと乱れた髪。
ピンク色のなまめかしい唇。
少しかすれた声。
そのすべてが、女であることを強烈に訴えている。
(い、いったい何があったんだろう)
「悪いんだけど、奧まで運んでもらえるかしら」
「あ、はい。もちろんいいですよ」
一升瓶が六本入ったケースは、正直俺でも重い。山口さんにはとても持ち上がらないだろう。俺はスニーカーを脱いで家に上がり、ケースをうんしょと持ち上げた。
「どこに運びましょう」
「こちらにお願い。帰りがけまで内緒だから、ちょっと秘密の場所に置いておきたいの」
サプライズということなのかな?
まあ、山口さんには山口さんの考えがあるんだろうから、俺がとやかく言うことじゃないけど。
(えっ? この部屋)
「ここって寝室じゃないんですか?」
「うふふ。そうよ。ここならみつからないから」
そりゃみつからないよ。いくら娘の家でも、いきなり寝室をのぞき込んだりする男性はいない。
「うわっ」
「あら、どうしたの?」
「い、いえ。何でもないです」
部屋に一歩踏み込んだとたん、濃密な女の人の香りが鼻に飛び込んできて、思わず声を上げてしまった。
「そっちの隅に置いてほしいの」
「はい」
部屋の隅には、ちょうどケースを置けるくらいのスペースがあった。
そこにケースを置いて、手を放した、その瞬間だった。
かちりと音がした。
「え?」
(今の、ドアが閉まる音じゃ……)
振り返ったとき、部屋の電気が消えた。
完全に消えたんじゃなく、スモールライトがついている。だけど、明るい部屋が急に暗くなったから、一瞬視界が奪われた。
ぱさり、と音がした。
俺は、ごくりとつばを飲み込んだ。
山口さんは上着を脱ぎ捨てた。そこにあったのは、下着だけをまとった肉感的な肢体だった。スモールライトに照らされて、白い豊満な体が幻想的に浮き上がっている。
声を上げようとしたけれど、喉が詰まって声にならない。
ゆっくりと山口さんが近づいてくる。
何もできず立ちつくしている俺の首筋に、やわらかな二本の腕が巻き付く。山口さんの顔が迫ってくる。思わず俺は目を閉じた。
唇にやわらかいものが押し当てられた。ルージュだかリップクリームだか知らないけど、なめらかな感触だ。
ぬるっとしたものが、唇を割って入って来て、俺の舌にからみついた。
俺の脳髄はとろけてしまって、もう何も考えられない。意識のすべてを口と舌に集中して、この経験したことのない快感を味わい続けた。
いつのまにか山口さんの体を抱きしめていた両腕に力がこもる。山口さんも、身を揺すりながら強く俺の頭をかき
長い長い口づけのあと、唇と唇が離れた。
「ああン」
甘い声が耳朶に響く。その小さなうめき声は、じいん、と脳髄がしびれるような快感を俺に与えてくれる。
山口さんの息が酒臭い。洋酒の香りだ。それも、飲んだばかりのお酒の香りだ。その呼気を胸深く吸い込みながら、俺も酔ったようにふらふらした。
山口さんが、体を押しつけてくる。俺は押されるままに数歩あとずさった。
と、膝の少し上の部分が弾力のある何かにぶつかる。
ベッドだ。
俺はそのままベッドに座り込んだ。
山口さんがしがみついてくる。ううん、ううんと、ねだるような鼻にかかった声を上げながら。
俺は山口さんを抱きしめて体を左にひねり、その女体をベッドに押し倒した。それから深くベッドの奧に上がり込み、右手を山口さんの腰に回して持ち上げ、その全身をベッドに横たえた。びっくりするほど軽々と持ち上がった。
今度は俺のほうから唇を重ね、俺のほうから舌を挿し入れた。その感触に俺は夢中になり、口の角度を変えながら、さんざんに山口さんの口中を蹂躙した。
俺の左手は山口さんの頭の下にあり、俺の右手は山口さんの腰の下にある。
左手をさらに深くベッドの下に滑り込ませて山口さんの顔の真下まで進め、右手は山口さんの肌の感触を味わいながら上に持ち上げ、左胸を捉えた。
その柔らかな胸をぐっとつかむ。
「ああっ」
山口さんが突然唇を離して痛みを訴えた。
「ご、ごめんなさい」
「うふふっ」
山口さんは妖艶な笑みを浮かべて、口を開いたままキスしてきた。
俺は強くなりすぎないよう気をつけながら、右手でその至高のふくらみを愛撫した。さすったり、やわらかくもんだり、つかんだままたゆんたゆんと左右にゆすった。
「ああ……ああ……ああん」
耐えきれず山口さんが声を上げる。なんて官能的な声なんだろう。
山口さんが下半身をよじり、ねだるように太ももをすりつけてくる。俺の興奮はたえきれないほど高まってゆく。
もう一度、俺は山口さんに深く深く口づけた。
どれほどそうしていたろうか。
山口さんは、左手を俺の背中から離して、二人の重なった体のあいだに入れようとした。俺はその動作を助けるために、少し体を浮かせる。すると山口さんの左手は胸のあいだに滑り込んで何かをした。
小さな音が聞こえた。俺は下をみおろして、音の正体を知った。
ブラジャーのホックが外れた音だった。
山口さんが体を起こそうとする気配を感じて、俺も体を起こした。
起き上がった山口さんは、ブラジャーを脱いでベッドの下に落とした。
今俺の目の前に、上半身裸の山口さんがいる。
生まれてはじめてみた、女性の生の乳房だ。映像や画像ではみたことがある。でも実物はまったくちがった。
俺は、ごくり、とつばを飲み込んだ。
「もしかして女の人の裸をみるの、はじめて?」
「は、はい」
「ふふ。うれしいわ」
そういいながら、山口さんは俺に身を寄せてきた。俺は山口さんの体を抱きしめた。その耳元で、山口さんがささやいた。
「あなたも脱いで」
俺は熱に浮かされたように、Tシャツとズボンを脱ぎ捨てた。
そして山口さんと肌を重ねた。
これが女の人の体なんだ。そう思いながら、胸で山口さんの胸の感触を味わった。
もう目が慣れてきたので、山口さんの表情がはっきりとみえる。
せつなそうな顔をしている。それでいて優しそうな顔だ。
その瞬間、山口さんの顔に、別の人の顔が重なった。
天子さんだ。
天子さんの顔が、オーバーラップした。
天子さんの静かな笑みが、俺の胸に突き刺さった。
はちきれんばかりにふくれ上がっていた欲望のかたまりが、急速にしぼんでゆく。
沸騰していた汗が冷めてゆく。
山口さんは、ちょっと不思議そうな顔をして、俺の体温を確かめるかのように、そっと身を寄せてきた。そのしぐさには、先ほどまでのなまめかしさはない。
「何を思い出したの?」
まっすぐな質問だ。だから、俺もまっすぐに答えた。
「天子さんを」
山口さんは、ほほえんだ。優しいほほ笑みだ。だけどなぜだか泣き顔にみえた。
「そうなんだ。それじゃ、しかたないわね」
そう言って、ベッドに寝転がり、くるりと転がって俺に背を向けた。
俺は何も言わず服を着て、ドアの所に行き、ロックを外して部屋の外に出た。そして音をできるだけ立てないようにドアを閉め、勝手口から家を出た。
もうまっくらだ。なぜか俺は泣いていた。どうして泣くのか、自分でもわからない。でもこの暗闇なら、誰も俺の涙をみることはない。
家に帰ると急いでカレーうどんを仕上げ、飛び出してきた童女妖怪と一緒に食べた。
「女の匂いがするです」
「そこは気づかないふりをしておけ」
シャワーを浴びて寝床に入った。
14
なかなか寝入ることができなかった。
やはり興奮していたし、心のなかは、すごく混乱していた。
山口さんは、どうして急にあんなことをしたんだろう。
今まで、俺に気のあるようなふりもしていたけれど、あれはお遊びのようなものだと思ってた。
だって、山口さんは、今でも亡くなったご主人を強く愛しているのだから。
喪失感のあまり妖怪になりかけたほど、愛しているのだから。
そんな山口さんが、俺に体を与えようとしたのは、いったいなぜなんだろう。
寂しかったから?
つらさを埋めるため?
俺にはおとなの女の人の心理はわからない。俺がもうちょっとおとなだったら、あのまま山口さんを抱いていたんだろうか。
途中でやめてしまって、彼女を傷つけてしまったろうか。
わからない。
何もかもわからなかった。
妙なことを考えついた。
骨女のことだ。
骨しかないけど、もとは女だったんだろう。
骨女は幻覚をみせてまで、男に愛されたい。
それは男の精を吸うためだ。男の精を吸わないと、骨女は生きてゆけない。
生きてる女も、同じかもしれない。
愛するだけじゃ、だめなんだ。
愛されないと、だめなんだ。
男から愛をもらわないと、せつなくて、せつなくて、生きてゆけないんだ。
すべての女の人がそうであるわけじゃないし、そういう女の人も、いつもいつもそうであるわけじゃない。
だけど、時々、どうしようもなく愛されたくてしかたがなくなることがあるんじゃないだろうか。
それとも。
それとも、もしかしたら。
もしかしたら、物の怪になってしまったことを思い出したからかもしれない。完全に物の怪になってしまう寸前だったことを知ってしまったからかもしれない。
だから、まだ自分は人間だと確かめたかったんじゃないだろうか。人間を愛し、人間から愛される存在だと、体で納得したかったんじゃないだろうか。自分は人間だというしるしを、体に刻んでほしかったんじゃないだろうか。
そうだとしたら、俺は助けを求めて差し伸べられた山口さんの手を、無情にはねのけてしまったことになる。
わからない。
わからない。
そんなことをもんもんと考えているうちに、いつのまにか午前一時を過ぎていた。
寝苦しいなと思っていたら、すうっといい風が入ってきた。
何とも気持がいい。重苦しさが吹きはらわれた。
あれ?
家に帰ってから、この部屋の窓を開けたかな?
いや、まあ、開いているんだから開けたんだろう。
俺は、布団を深くかぶり、目を閉じて呼吸を落ち着けた。
うつらうつらと浅く寝入っていた。
音がする。
遠くから音が近づいてくる。
枯れた木を何十本も打ち合わせるような音だ。
がちゃがちゃ、かつんかつん、こんこん、ぽきぽき。
音は段々近づいてくる。
俺は布団をはね上げて飛び起きた。
Tシャツを着てジーンズをはくと、居間に走り込んで電気をつけ、お社の前で呼びかけた。
「おさかべ、起きろ!」
少し時間を置いて、ぼーんと童女妖怪が現れた。
「今、油揚げになった夢をみてたですよ」
「目を覚ませ。何かが近づいてくる」
「えっ」
童女妖怪は突然北西の方向に顔を向けた。
「来るです、こちらから。その数二十体。あやかしなのです!」
二十体。
その数を聞いて、俺は近づいてくるものの正体がおぼろげながらにわかる気がした。
最初の晩は五体。二日目の晩は十体。そして昨日の晩は十五体の妖怪が出現した。結界の外に出た骨女が、麒麟山の墓地に行って出現させた妖怪だ。たぶん、死体か何かを操っているんだ。
書斎に移動して、棚を開き、書きためておいた〈禁反魂呪〉のお札の束を持って玄関に急いだ。
「おさかべ! 外だ。外で迎え撃つ!」
「はいです」
家を飛び出して右に走った。この位置まで来れば、麒麟山の方角に続く道がみとおせる。
みえた。
「うわっ。何だ、あれは?」
それは骸骨だった。二十体の骸骨だ。
二十体の骸骨が、何か巨大な生白い荷物を抱えてやって来る。
おどけたような動きだ。まるで遊んでいるような歩き方だ。それが逆に恐ろしい。
「スケルトンか。聖水があれば効いたのかな?」
二十体のスケルトンは、わがやから五十メートルほどの距離にある草原で停止した。そして手に持った荷物を、ぽーん、ぽーんと草原の中央に投げ込んだ。そのなかに、巨大なしゃれこうべがあるのに気がついた。
あれは、骸骨だ。巨大な骸骨だ。ただし、ばらばらの骸骨の部分品だ。とてつもない巨人の骸骨をばらばらにしたものを、二十体のスケルトンは手分けして持ってきたのだ。
何のために?
草原の真ん中には、巨大な骨が積み上がった。
するとスケルトンたちは、その周りで輪を作って踊り始めた。
「盆踊り?」
佐渡おけさの動きに少し似ているような感じがする。愛嬌のある、おどけた踊りだ。だがそれを真夜中の草原で、スケルトンが踊るとなると、奇怪そのものの光景だ
「あの大きな骨、とてつもない妖気です」
「大きな骨の正体はわからないか?」
「うーん。あれは妖怪ではないです」
「え? そんなはずはない」
「この距離であちしがみてるのですから、確実です」
大きな骨は、大きな妖気を持っているという。それをこのスケルトンたちが結界のなかに運び込んできた。つまり……。
「そうか! あれは骨女なんだ。骨女の部品なんだ!」
「えっ? そんなはずは……そうだとしても、どうしてあんなに大きいですか?」
「人間の精気を吸ったからだろうな。たぶん、浩一さんだけじゃなく、哲生さんも、ほかの十人も吸われてる。もっと大勢かもしれない」
そのとき、がらがらと骨がぶつかりあう音がして、何かが組み立てられた。
「足だ。巨大な骸骨の足だ。そうか、あの踊りには、巨大な骸骨を組み立てる呪力があるんだ」
「ええっ」
もう一つの巨大な足が組み上がった。
「おさかべ、ほうけてる場合じゃない!」
「は、はいです」
「
「で、できますです」
足の上が、腰に向かって組み立てられていく。
「じゃあ、踊っているあの骸骨たちの額に、このお札を一枚ずつ飛ばせ!」
「はいです!」
どこからともなく紙切れつきの棒を取り出すと、うんうんうなりながら、左右に振り回した。
すでに巨大な骨の腰が完成している。
「えいっ」
ひときわ大きく棒きれを振ると、一枚のお札がひらひらと飛んで、一体のスケルトンの額に貼りついた。とたんにそのスケルトンは停止した。
「よし、次々に行け!」
「はいですっ」
ぐいと棒きれを振り回すと、十枚以上のお札がひらひらと宙に舞った。そのお札を一枚ずつスケルトンに飛ばしていく。
もう巨大骸骨は胸まで組み上がっている。
まずい、まずい。
こんなものが動き出したら、どうにもならない。戦いようなんてない。
童女妖怪は必死でお札を飛ばしている。もう十二体のスケルトンを停止させた。
巨大骸骨の肩が組み上がった。
スケルトンは次々に停止してゆく。
あと二体!
間に合いそうだ。
巨大骸骨の右腕が組み上がったところで、すべてのスケルトンが停止した。
「ふう〜〜〜っ」
俺は地面にへたり込んだ。
その膝のうえに童女妖怪が座り込んだ。
「ま、間に合ったです」
「よくやったぞ」
「えへへ」
そのときである。
ぎしぎし。
みしみし。
不気味な音がし始めた。
「な、なんだ?」
ばきっ、ばきっ。
太い枯れ木が折れるような音がして。
巨大骸骨が動きだした!
腰をかがめて右手が地面をあさっている。
何かを拾い上げて左肩につけた。
「こ、こいつ、自分で自分を組み立ててるんだ!」
「あっ!」
「どうした?」
「骨女です! この巨大な骸骨は骨女です!」
みるみる左手が完成した。
そして巨大骸骨は、両手で頭蓋骨を持ち上げた。
「おさかべぇ! 巨大骸骨の額に、お札を貼り付けろ!」
「は、はいですぅ!」
ぐるぐると棒きれを振り回し、えいやっと掛け声をかけて、お札を飛ばした。
巨大骸骨は、まさにその瞬間完成した。
その完成した頭部に向かって、まっすぐにお札は飛んでゆき。
胸の辺りで失速してひらひら舞い落ちた。
「と、届きません!」
もう一回やってみろと言いかけて、俺はみた。
巨大骸骨の虚ろな眼窩に妖しい火がともるのを。
「う、うわっ」
なぜか巨大骸骨は、俺に向かって、どしん、どしんと歩いてきた。ものすごい歩幅だ。
そして右拳を振り上げて、まっすぐ打ち下ろしてきた。
「うひゃああああっ」
悲鳴を上げながら、俺は転がって逃げた。
どかん!
とすさまじい音がした。
みれば巨大骸骨の右拳が、深々と地面にめり込んでいる。
あんな攻撃を受けたら、一撃で死んでしまう。
そして巨大骸骨は、もう一度右拳を振り上げた。
尻もちをついたままの俺は、どこにも逃げられない。
巨大骸骨が、かたかたと音を立てて笑った。そして右拳がさらに高く振り上げられる。
俺の前に何かが躍り出た。
童女妖怪だ。童女妖怪が俺の前に立ちはだかって、両手を必死に広げている。
「だめだ!」
巨大な右拳がまさに振り下ろされようとしたとき、大声が響き渡った。
「破邪招来轟火爆炎!」
怪物の頭蓋骨が爆発した。
頭部を失った巨大骸骨は、それからしばらくのあいだ、右拳を振り上げた姿勢を保っていたが、びしびし、ぴきぴきと、ひびが走るような音がして、骨と骨とは結合の力を失い、やかましい音を立てながら崩れ去った。
左のほうをみると、南部さんの竹垣の角に呪禁和尚さんがいる。
「やれやれ、まにおうたか」
それだけ言うと、和尚さんも地面にへたり込んだ。その後ろから、天子さんが現れ、こちらに歩いてきた。
「おぬしが起きて結界を出るとは思いもせなんだ」
「結界?」
「あれが近づいてくるのがわかったゆえ、わらわは家を結界で包んで、法師どのを呼びに行ったのじゃ」
「あ、そうだったんだ」
その結界は、外からの攻撃を通さないかわり、内からなら外に通れる種類のものだったんだろう。
つまり、家でじっとしてれば、俺は安全だったんだ。
「守っててくれたんだね」
「当然じゃ。わらわの住まいが麒麟山にあるとは、村の者たちは知らぬゆえ、鈴太の家が狙われたのじゃな。それに骨女めは、鈴太自身も狙っておったようじゃ」
「そうか。午前中に浩一さんが鎌を投げつけてきたとき、何かにはじかれて助かったような気がしたんだけど、あのときも天子さんが結界を張ってくれたんだね」
「うむ。わらわは姿を隠して、ずっと鈴太のそばについておったゆえな。もっともあの鎌は、結界で防がずとも当たらなんだじゃろうがの」
「ありがとう、天子さん」
「よいよい。それより、立て。夏とはいえ、夜中は冷える。人の身にはこたえよう」
「うん」
俺は立ち上がった。
「すごい騒ぎだったけど、ご近所さんたちは起きてこないね」
「あの骸骨どもの妖気を浴びると、ふつうの人間は眠ってしまうようじゃな」
「あ、そうなんだ」
「骨はすぐに消えてなくなるであろう。おぬしは家に帰って休め。わらわは法師どのを送ってくる」
「そうさせてもらうよ。もうくたくただ」
童女妖怪の姿はない。あいつも疲れてお社に帰ったんだろう。
「じゃあ、お休みなさい」
「うむ。お休み」
天子さんに背を向けて、俺は家のほうに歩き出した。
歩きながら、考え事をしていた。
さっきの天子さんの言葉が、妙に気にかかる。
そしてもう一度、天子さんの言葉を思い出して、俺は衝撃につらぬかれて立ち止まった。
〈わらわはずっと鈴太のそばについておったゆえな〉
午前中も、ずっとそばにいてくれた。隠形で姿を消して。
真夜中にも、ずっとそばにいてくれた。
(ということは……)
(山口さんの家にいたときにも……)
体は固まったように動かない。
首だけで振り返る。
ぎりぎりと音を立てて骨がきしむ。
血の気が引くというのは、こういう状態をいうんだろう。
振り向いた俺をみて、天子さんは静かに笑いを浮かべた。
菩薩のようなほほえみだった。
だが俺にはなぜか、般若の顔に思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます