第12話 鵺
1
テレビでは、台風15号が紀伊半島に上陸したというニュースを報じている。
岡山県の内陸部では夕方から夜中にかけて雨が降ったというが、この村にはまったく影響がなかったわけだ。
ただしわが家には別の種類の台風が上陸している。今のところ不気味なほど静かだけど。
その超大型台風、つまり天子さんは、ちゃんと朝やって来て食事を作ってくれた。俺はびくびくと天子さんの顔色をうかがいながら、朝食を口に運ぶ。味なんかわからない。天子さんは、いつも通り普通に朝のあいさつをしてくれた。そのいつも通りというのが怖い。
いつ暴風雨が吹くんだろう。こんな生殺しには耐えられない。いっそ今すぐ怒りを爆発させてほしい。神通力は使わないでね。
「そういえば天狐様」
大切りの油揚げの入った味噌汁を、ふうふう吹いて一口食べた童女妖怪が言葉を発した。
「なんじゃ」
天子さんの声の調子は普通だ。
「昨日、というか今朝、骸骨たちが大きな骸骨を運んできたときなのです」
「ふむ」
「大きな骨は、妖怪だとは表示されなかったのです」
ここで俺は思わず質問をした。
「そういえば、前にも〈表示〉と言ってたな。名前が頭のなかに表示されるのか?」
「目をつぶって近くを探るときは、頭のなかに表示されるです。目で相手をみると、妖怪や妖気を帯びたものの上に、ぽわんとしたものが出てきて、名前があるものだったら名前が表示されるです」
便利な能力だな。
童女妖怪は天子さんに向き直って質問を続けた。
「ところが、右腕まで組み上がったとき、〈骨女〉と表示されたですよ」
「ほう?」
「あれはどういうことなのか、天弧様ならおわかりですか?」
「いや、わからん。そもそもなぜあのような強力な妖気を持つものが結界のなかに入れたのか、不思議でならぬ」
「あ」
「ん? どうした鈴太」
「同じだ」
「同じ? 何がじゃ?」
「溜石と」
「なに」
「溜石は強い妖気を持つけど、ただの石だ。それ自体は人格を持っていない」
「うむ」
「そして誰かに運んでもらえば、溜石は結界のなかに入れる」
「それはそうじゃ……ああ、そうか」
「骨女は、ばらばらになるとただの物体になるんじゃないかな」
「なるほど」
「ただし強い妖気を持ってるけどね」
「それなら溜石と同じじゃ。ならば結界を通ることもできよう」
「そしてなかで組み立てたら〈骨女〉に戻るんだ」
「そんな手があったか」
「同じ方法を使われたらほかの妖怪も結界に入って来られるね」
「自分の体をばらばらにできる妖怪など、ほかにはあるまい」
「それなら安心だ」
「うむ」
童女妖怪が、じっと俺をみてる。
「お前、意外に頭いいです?」
頭を両側からぐりぐりしてやった。
天子さんと自然に会話させてくれたお礼だ。
そのあと、恒例の〈探妖〉タイムとなった。
今朝、天逆毎は村から一キロほどの地点にいた。妖気が残った溜石の数は四つで変わらない。童女妖怪はお社に帰った。
食後のお茶を吹いて冷ましながら、俺は覚悟を決めた。
(こちらからは山口さんの話題は一切出さないし、こちらからはあやまらない)
(天子さんが山口さんのことを言い始めたら)
(ただちに土下座する)
そう決断すると心がらくになった。
俺は天子さんに話しかけた。童女妖怪がいなくなると、こんな簡単なことをするにも、けっこう勇気が必要だった。
「お、和尚さんはどうなの?」
「今朝は無理やり起こしたからのう。寺に帰るなり倒れるように眠った。できれば十日か二十日はそっとしてやりたいのじゃが」
「そのあいだに妖怪が出なければいいんだけどね」
「うむ。それはそうと、法師殿を連れて参ったときには、骸骨どもが倒れておったのう」
「あ、スケルトンね」
「すけるとん?」
「下級の骸骨のモンスターのことを、そう呼ぶんだ。ファンタジー小説ではね」
「ほう? で、あれはもしや、おぬしの作ったお札で倒したのかえ?」
「うん。俺の偽物のお札でも、何とか効果があったみたいだ」
「効果があるのなら、もはやそれは偽物ではあるまい。火車との戦いの折にも、
「どうして、作り方を知らない俺が作ったお札に、効果があったんだろう?」
「ふむ。わらわは長年〈はふり〉の者と過ごしてきたゆえ、お札にどのような文字を書くのかは知っておる。神事の手順や作法も知っておる。それを幣蔵にも教えてやった。しかし幣蔵の作るお札には効果がなかった」
「そうなんだ」
「お札の字を書いたあと、〈はふり〉の者は、左手を握って人さし指と中指を額に当て、右手のこぶしから人さし指と中指を、こんなふうにお札の上で振っておった」
天子さんは、動作をしてみせた。右手を高い所から振り下ろして空中を二回たたき、さらにちゃぶ台をたたく寸前まで振り下ろした。そして、左右を払いながら右手を振り上げた。
「この動作を九回繰り返すのじゃ。何か呪文を唱えておったが、それについて訊いたとき、呪文はあるにはあるがその文言が呪力を持つわけではなく、心の持ちようが大事なのだと言うておった」
「心の持ちよう」
「そうそう。それと、何かを禁ずるお札を書くときには、おぬしがやっておったように、下側の文字から書いておった。幣蔵がそのまねをしても何も起きなかったのじゃがのう」
「そうなんだ」
「おぬしには、陰陽師としての才があるのかもしれぬ」
「一族の血なのかなあ」
天子さんは、それには答えず何かを考えている。
「京か。京に行けば……」
そのつぶやきは小さな声だった。
「え? 京? 京都に行くって言ったの?」
「いや、何でもない。それより、お札を書きためておいてはどうじゃ」
「あ、そうだね。いつ何がいるようになるかわからないからね」
「どれ。一度お札を確認しておくか」
「え? 最初にみせてもらったので全部じゃないの?」
「あれは店頭に置いてあったものだけじゃ。お札の大部分は書斎の棚に入れてある」
天子さんと俺は書斎に移動した。
書斎に入るとき、俺は入口の柱に掛けてある板を指さして訊いた。
「そういえば、前から気になってたんだけど、これは何?」
「ん? 読めぬか? 〈
「いや、字は読めなくもないんだけど、意味がわからない」
「ふふ。なるほど。今ごろは、あまりこういうことは教わるまいのう」
「こういうことって?」
「むかし、北宋の
「へえ?」
「わけがわからんという顔じゃな。〈文房四宝〉という言葉を知っておるか?」
「いや。知らない」
「文房とは、文章の文に女房の房と書く」
「文房具の文房?」
「そうじゃ。文房とは、書斎という意味なのじゃ。文房四宝とは、筆、墨、硯、紙を指す。その四宝を納めた小さな建物じゃから四宝堂じゃ」
「ふうん」
よくわからなかったけど、じいちゃんがこの部屋を大事にしてたことは、よくわかる。部屋の空気というか、質感が、ほかの部屋とはまるでちがう。ここはほかの空間から切り離された別の小宇宙だ。天子さんも、この部屋は格別大切に掃除してくれている。
「こちらの棚にお札が入っておる。こちらには筆と硯と墨じゃな。そちらがわには紙がしまってある」
前にもざっとはみたつもりだったけど、こんなにお札があるとは気づかなかった。紙の量と種類もなかなかだ。
「こちらの押し入れには、歴代のご先祖が書いた書が入っておる。この上の一角が、幣蔵の書じゃな」
「じいちゃん……字がうまかったんだ」
「そうじゃなあ。字を書くのは好きじゃったなあ」
「天子さんも字が上手だね」
「まあ、たしなみ程度にはの」
「俺に教えてくれないかな」
「ほう。書をいたすか。よいぞ。教えてやる」
以前は習字なんて興味もなかったけど、なぜか急に書道をしてみたくなった。
「練習用の安い筆を取り寄せよう。わらわがみつくろって殿村に注文しておくから、少し待て」
「うん。筆なんか何でもいいよ」
「はは。安いから悪い筆というわけではない。自分に合った筆を使うのが一番よいのじゃ」
「〈弘法は筆を選ばず〉っていうけどね」
「その言い回しは、わらわは好かぬ」
「え? どうして?」
「かのおかたは、道具を大事になされた」
「かのおかたって、弘法大師様だね」
「そうじゃ。かのおかたは、嵯峨天皇に〈
「そうなんだ。なら、〈弘法は大いに筆を選ぶ〉というのが本当なのかな」
「はは。まさにそうじゃ。ただし、かのおかたは、どんな筆を手に取っても、その筆が生きるような字をお書きになられたにちがいないから、その意味では〈弘法は筆を選ばす〉という言葉も、まちがいというわけではない」
その後しばらく、天子さんによる弘法大師談義が続いた。
なんと弘法大師という人は、中国で筆の作り方もマスターしたらしい。ほんと万能の人だ。チートだ。実は異世界から来た人なんじゃないだろうか。
2
日が変わって九月一日となった。
じいちゃんの葬儀があったのが三月十八日で、俺が羽振村に移住してきたのが三月二十六日だった。もうあれから半年近くが過ぎたわけだ。
今朝神社を掃除に行ったとき、空気がひんやりしているのを感じた。こんな山の上では、秋の気配が忍び寄るのも早いんだろう。
今日も天逆毎は村から一キロほどの場所にいた。溜石の状況は変わらない。
天気はどんよりしている。午前中は五人ほどお客があった。
昼ご飯のあとラインに返信していると、天子さんが訊ねてきた。
「
「うん。今日の昼ごはんは、自分で作ったお弁当だって」
「ほう」
以来毎日一通、ラインが届く。
最初のうちは、わが家でたべたうどんがおいしかったとか、そうめんがおいしかったとかいう話題ばかりだった。
やがて、今日はどこの店で何を食べたかという話題がおもになった。
けっこう写真がついてくるんだけど、どれもなかなかおいしそうだ。
自分でお弁当を作ったというのは、はじめてだ。
「どんなお弁当だったのか書いてなかったし、写真もついたなかったんで、中身を訊いたよ」
「ほう。しかし、はじめて作ったお弁当とあらば、そうたいした中身でもあるまい。訊くのはかえって失礼ではないかの」
「そんなことないよ。一生懸命作ったんだろうから、そこは褒めてあげなくちゃ」
「ほう。どういうふうに褒めるのじゃ」
「そりゃあ、おいしそうだね、俺も食べたかった、とか何とか」
「ほう」
うん?
天子さんの目が、少し座ってないか?
「ずいぶん、女の心理に詳しいようじゃのう」
(しまったーーーっ!)
(地雷を踏んでしまったーーーー!)
(自分のほうからこんな話題を振るなんて、俺の、ばかやろーーっ!)
「どうした? 顔色が悪いようじゃが」
(く、来るなら来い!)
(いつでも土下座してやる!)
そのとき、誰かが玄関に来た。
(やったーーー)
(救いの神だーー)
「こんにちは。鈴太さあん」
(うわーーーーーっ!)
(なんでよりによって今来るんですかーー!)
サンダルを履いて店先に出た。
今日の山口さんは、珍しいことにスーツ姿だ。
「こ、こんにちは」
「あら? 顔色が悪いわよ。天子さんもこんにちは」
「うむ」
「あのね。今日はお別れのごあいさつに来たの」
「え?」
「熊本に帰ることになったの」
「そ、そうなんですか」
「鈴太さんにはお世話になったわ。天子さんにも」
「い、いや。そんなことは」
「本当にありがとうございました」
山口さんが深々と頭を下げた。
長い黒髪がばさりと垂れて、地面につきそうだ。
「じゃあ、さようなら」
そう言うと、くるりと振り向いて、歩き去っていった。
「熊本に……帰るんだ」
天子さんは無言で山口さんの後ろ姿をみつめていた。
3
午後にやってきた秀さんが、いろいろと話を聞かせてくれた。
秀さんはゴシップ好きで、芸能界の恋愛事情に詳しい。そして町内のいろんな人の事情に詳しい。
「ご主人の葬儀はご主人の実家であったんじゃけどな、そのあと山口はこの村に戻ってきたんよ。そうしたら、熊本のお父さんが来てなあ、三日ほど村で過ごしていきよった。そいでなあ、山口の籍を離れて実家に戻ってこいちゅうて、懇々と諭したんじゃ」
どうしてそんなことを知ってるんですかと訊こうかと思ったけど、やめた。
「ところがなあ、あの家と土地は亡くなったご主人が貯金のほとんどをつぎ込んで買うたもんやし、家の設計は二人でやったもんやしなあ。気が済むまでここに住ませてほしいいうて、お父さんを押し切ったんよ」
秀さんは、みてきたように説明を続けた。
「それからもお父さんは、時々来たんよ。そのたんびに山口は、もう少し待ってくれ、もう少し待ってくれ言うて、ここを引き払う日を先延ばしにしてきたんじゃ」
そうだったのか。
自宅で仕事もしていたし、生活は安定しているようにみえた。
だけど山口さんは、まだ若い。再婚や、新しい生活のことも考えていい年齢だ。
こんな村にいては再婚相手なんかみつからない。お父さんが帰って来いと言うのも当然だ。
「お父さんは熊本で、いくつか会社を経営しとる金持ちなんじゃ。じゃから実家に帰れば生活に不自由はせんのじゃがなあ。ここは空気もええし、景色もええ。傷心を癒すには悪くない場所じゃと、ご両親は思っとった」
秀さんが、ずずっと渋茶をすする。いい音立てるなあ。
「風向きが変わったのは、ほれ、虎騒動じゃ」
「あ」
水虎が出たのが、八月の十二日だった。
十三日には青年団の人が二人負傷し、十四日には猟友会の人が五人と警官が三人負傷した。そのあと、武装警官隊が村内や麒麟山を捜索する騒ぎになった。その騒動が新聞で報じられていたらしい。
秀さんによると、その記事を読んだ山口さんのお母さんがひどく心配して、とにかく娘さんを連れ帰るようにご主人、つまり山口さんのお父さんに強く要求した。それで、お父さんも仕事のつごうをつけて、立て続けに何度もやって来たんだという。
そういえば、八月二十五日には、山口さんの家の近くに熊本ナンバーの高級車が止まっていた。たぶん何度目かにお父さんがやって来てたんだろう。
「母親が泣いて心配して帰ってくるように言っちょると、繰り返し父親に言われてのう。山口もしぶしぶ帰郷する腹を決めたんじゃ。家は不動産屋に相談して売るための査定を頼んどるようじゃ」
どうしてそんなことまで知ってるのか不思議だけど、とにかく、山口さんのようすはわかった。
秀さんが帰ったあと、天子さんがぽつりと言った。
「山口がおぬしを誘惑したのは、賭のようなものじゃったのかもしれぬなあ」
誘惑という言葉が天子さんの口から出て、俺はどきりとした。
「賭?」
「本当は、この里に残りたかったのかもしれぬ。じゃが、両親は熊本に帰れと強く勧める。この里と自分をつなぐものはない。あるとすれば、おぬしじゃ」
「俺?」
「自分を人間の世界に引き留めてくれたおぬしなら、自分をこの里につなぎ留めてくれるかもしれぬ。そんなふうに期待したとしても不思議はない」
あのときの山口さんとの会話の内容が、完全に天子さんに知られている。
「おぬしが山口を抱いておったら、山口はこの里に残る道を選んだのじゃろうかのう」
「そうなのかな」
「わからん。逆にこの里の思い出を自分の体に刻みたかったのかもしれぬ」
俺は天子さんの顔をみた。天子さんは、遠くをみるような目つきをしている。
「天子さんにもわからないんだね」
天子さんが首をめぐらして俺をみた。
「わからん。千二百年も女をやっておるが、女の気持ちはわからぬ」
「天子さんにわからないんじゃ、俺にわかるわけない」
「そうじゃな。じゃが、わからずとも、おなごを慰めたり、励ましたりすることはできる」
「できるかな」
「うむ」
結局、この話題はそれきりになった。
それ以上追求はされず、責められず、この話題が蒸し返されることはなかった。
正直、俺はほっとした。
もしも山口さんが村を去る決心をせず、村にとどまっていたら、きっとこんな穏やかな結末にはならなかったろう。
だから山口さんが村からいなくなるのは寂しいけど、俺は一方で、事の成り行きに奇妙な安心を感じてもいた。
4
翌日は雨だった。夜中から降り始めたらしい。
岡山は、〈晴れの国〉と呼ばれるほど、降雨日が少ないらしい。
実際、俺が引っ越してきてから、雨の降る日は数えるほどだ。
梅雨のときでも、七月の前半に雨の日が続いたのを除けば、これというほどの雨降りはなかった。
だから、こんな山の向こうまでずっと雨に煙っている風景ははじめてみる。
都会に降る雨とは、全然質がちがうような気がする。うまくいえないけど、神聖な水が天から降りてきて、山々を清めているみたいだ。
バケツをひっくり返したというほどの雨の量ではないけれど、それでもかなりの量の雨が絶え間なく落ちてくる。さえぎるものがないから、みわたすかぎりの雨空だ。
その雨空のなかに、三山のシルエットが、淡いパステル色でぼうっと浮き上がっている。
今日は神社の掃除は休みにした。配達の注文も断るつもりだ。一日外に出たくない。
こんな日だというのに、天子さんはいつも通りにやってきた。傘は差してたんだけど、着いたときにはびしょぬれだった。〈隠形〉を使っても雨にぬれないというわけにはいかないんだろうな。
わが家には、天子さん専用の衣装箪笥がある。
そこから乾いた服を出して、浴室で体を拭いて着替えをした。
そしてきちんと朝ご飯を作ってくれた。
千二百年ものあいだ、必要なときには、ご先祖さまたちにも同じように食事を作ってくれていたんだろうと思うと、不思議な気がする。
電気やガスがない時代に、土間でご飯を炊き、おかずを作る天子さんを想像してみる。
(似合ってる)
「何を思い出し笑いしておるのじゃ」
「むっつりすけべなのです」
なぜか今日は童女妖怪も、食事ができあがる前に出現して、漫画を読んでいる。
二人して俺をからかっているが、そのからかい声も、どことなく湿っぽい。つまり、アンニュイでソフトだ。
溜石には変化がなかった。
この日は、一人の来客もなく、一本の電話もかかってこなかった。未完さんからのラインが届いただけだ。
だらだらとして一日を過ごした。
天子さんもだらだらとしていた。
童女妖怪もほとんど一日中出たままで、だらだらしていた。
たまには、こんなけだるい一日があってもいい。
5
翌日は朝から晴れだった。
からっと晴れて、空には雲一つない。
三山も、風呂上がりみたいにさっぱりしている。
この日、新たな妖怪が出現した。
「九つ目の溜石から妖気が抜けたです。妖怪が出現!
「鵺じゃと。また厄介な」
「むかし御所の屋根に現れて、弓で退治された妖怪だね?」
「うむ」
生返事をしながら、天子さんは何かを考え込んでいる。
「して長壁よ。場所はどこじゃ」
「妖気が抜けた溜石はここなのです。鵺の現在位置はここなのです」
童女妖怪が地図を指さす。
妖気が抜けた溜石は、雄氏地区南側の溜石だった。足川家の南西だ。
そして鵺の現在位置は足川家の東側にある小さな森のなかだ。この森は雄氏地区と有漢地区を隔てていて、この森があるために、雄氏地区と有漢地区は行き来の便が悪い。
「鈴太」
「うん」
「おぬしは転輪寺に行き、法師どのを起こして連れてきてくれ」
「えっ? う、うん。わかった」
「わらわは、ただちに鵺のもとに行き、結界に閉じ込める」
「えっ! き、危険じゃないかな」
「鵺はのう、移動速度が速い。そして森や屋根の上を素早く移動するので、目に止まりにくい。とにかく神出鬼没のあやかしでな。もしかすると〈隠形〉持ちかもしれぬ。取り逃がすとあとが面倒なのじゃ」
「う、うん」
「わらわでは倒しきることはできまい。じゃが足止めならできる。法師どのを起こすのは一苦労じゃろうが、よろしゅう頼む」
「わかった」
あわただしく天子さんは出ていった。
「おさかべ。お守りに入ってくれるか」
「わかったです」
俺は童女妖怪の入ったお守りを首にかけると、自転車に乗って転輪寺に急いだ。
転輪寺に登る坂の入口で、自転車を止めて、そのまま走って坂を登った。荷物を積んでないんだから、自転車を押して登る必要はない。
「こんにちはー!」
大声であいさつしたけど、もちろん返事はない。
「上がりますよー!」
と言いつつ、スニーカーを脱ぎ捨て、寝室を目指した。
「入りますね」
障子を開けてなかに入ると、和尚さんが布団に寝ていた。
「和尚さん! 起きてください!」
和尚さんは、ごうごうといびきをかくばかりで、俺の声など聞こえたようすもない。
「和尚さん! 和尚さん!」
一段階声量のギアを上げて呼びかけた。だが、何の反応もない。
体を揺すってみた。
それでも反応がないので、布団を少しめくって、じかに体を揺さぶった。
「和尚さん! 和尚さん!」
俺の声は、もう悲鳴に近い。
和尚さんの体は大きく、重い。渾身の力をこめて、強く押し、そして引いた。
「和尚さーーん!!」
耳元で、力のかぎり怒鳴った。
でも、だめだ。
それからしばらく俺は、和尚さんを揺さぶり、声をかけた。
「これはだめですね。意識が全然沈んでますです」
「そんな。それじゃ、どうすればいいんだ。天子さんが待ってるのに」
「一度張った結界は、かなり長い時間維持できるはずです。とにかくここは、一度天狐さまのところに行って、報告と状況確認をするです」
それはもっともな意見だった。
俺は役割が果たせなかった無念さを抱えながら、寺を出て、自転車をこいだ。童女妖怪を荷台の籠に乗せて。
6
鵺がここにいる、と先ほど童女妖怪が示した場所は、わが家からならかなり近い。
転輪寺までのほうが倍以上の距離があるし、高低差もある。
つまり、天子さんが敵と遭遇してから、もうだいぶ時間がたってるはずだ。
焦る心のまま、しゃにむにペダルをこいで、俺は現場に向かった。
雄氏地区と有漢地区を隔てる森がみえてきた。
静かだ。
戦いの気配はない。
自転車を止めた。ここからどこに行けばいいのか。
「あそこなのです!」
童女妖怪が南側を指さした。
俺は自転車でそこに向かう。
白いものが地面に落ちている。
(天子さんだ!)
自転車を止めて駆け寄った。
「天子さん!」
天子さんがうつぶせに倒れている。
俺は天子さんのそばにひざまずいて、恐る恐る頬にさわった。
少し冷えてるけど、死体の温度じゃない。
「生きてる。よかった」
「毒状態です」
「なにっ」
「鵺は、頭は猿のような姿で、胴体は虎のような姿で、尻尾は毒蛇です。たぶん、尻尾の蛇にかまれたです」
「い、医者に、医者にみせないと」
「落ち着くです。あちしらの体には、人間の薬は効かないです」
「えっ」
「とにかく家に連れて帰るです。布団に寝かせるです」
「わかった!」
俺は天子さんを抱き上げ、そのまま家に向かって走りだした。
しばらく走ってしんどくなり、少し立ち止まって呼吸を調えた。
そこからは小走りで急いだ。
玄関を上がるときにも天子さんを抱いたまま、スニーカーを脱ぎ捨てた。
客間に入り、そっと天子さんを畳に横たえると、急いで客用の布団を敷き、天子さんを寝かせた。
湿り気のある草の上に倒れていたから、服の前のほうが湿っている。バスタオルで上からそっと服の湿り気を取ってから、薄い掛け布団をかけた。
何かできることはないだろうか。
運んでくるとき思ったのは、体温が下がっているということだ。
俺は、布団のなかに手を突っ込み、天子さんの手をさすった。さすってさすって、さすり続けた。
その成果なのかどうかわからないけど、死んだ人のように白かった顔に、少し赤みがさしてきたような気がする。
「添い寝するです」
「え? お前がか?」
いつのまにか童女妖怪が座っている。
そういえば、こいつをほったらかしにして帰ってきたんだった。前に、ある程度の距離が離れたら自動的にお守りに戻るようなことを言っていたから、今あらためて出現したんだろう。
「何をばかなことを言ってるですか。へなちょこが添い寝するです」
「ええええっ! な、何を、何を」
「口をぱくぱくするのをやめるです」
「そ、そんな。こんな状態の天子さんに、そんなことをするなんて」
「妄想はやめるです。天狐さまは、へなちょこ一族の守護を続けて神格を得たです」
「う、うん」
「つまりそれは、加護を与え続けたということです」
「加護を……」
「加護を与える者と、加護を与えられる者は、補い合う関係にあるです」
「補い合う関係……」
「つまり、加護対象が近くにいると、いろいろな能力が上がるです」
「え」
「だから、へなちょこがぴったりくっついていれば、天狐さまの体力も回復力も底上げされるはずなのです」
「そう、なんだ」
「ほかに効果的な方法は思いつかないです」
「添い寝。……天子さんに、添い寝」
「早くするです! 一刻を争うですよ! 天狐さまの生命力は相当弱ってるです!」
「は、はいぃぃ」
手負いのゴブリンのごとく荒れ狂う童女妖怪にせき立てられ、俺は下着姿になって布団に滑り込んだ。
冷たい。
それに、湿り気がある。バスタオルでは充分に湿り気を取り切れなかったようだ。
俺は自分の体に、熱くなれ、と念じた。熱くなって、天子さんの服を、体を、温めるんだ。
もう恥ずかしがっている場合じゃない。
俺は、天子さんにぴったりと寄り添った。
ふわん、といい香りがする。
化粧品の匂いじゃない。作り物の匂いじゃない。
天子さんの体からあふれ出る、天子さんそのものの匂いだ。
あの夜のことを思い出した。
〈砂持ち祭り〉の夜のことを。
俺は天子さんとともに進むと誓った。天子さんとともに戦うと誓った。
天子さんのために生きると誓った。
その気持ちは、今も変わらない。
「死ぬな」
俺は天子さんを抱きしめ、耳元にささやいた。
「生きろ」
やがて俺は眠りに落ちた。
7
目を覚ましたときには、真夜中だった。
俺の右腕は、天子さんの頭の下にある。そして天子さんの右腕は、俺の胸に絡みついている。
温かい。
天子さんの体が温かい。
助かったんだ。
少し身をよじって、体の姿勢を整えた。すると天子さんも体を動かして、より深く、より強く、俺にしがみついてきた。
星明かりのなかで、腕のなかの天子さんをみた。
天子さんは、ゆっくりと目を開けた。
「だいじょうぶ?」
「鵺のやつを、いったんは結界に閉じ込めたのじゃ」
俺の質問に答えず、天子さんは鵺との戦いのことを話し始めた。
「鵺の体は大きい。前足の破壊力はすさまじい。しかしわらわは恐れなかった」
いつもの凛とした声じゃない。
か細く、弱い声だ。
甘えるような声だ。
「うん」
「鵺のやつは、結界に閉じ込められて、あわてておった」
「うん」
「あとは、おぬしが法師どのを連れてくるのを待つだけだと思うた」
「うん」
「けれど、法師どのは目覚めぬかもしれぬ、とも思うておった」
「うん」
「そのときにはどうするか、と考えた」
「うん」
「一度張った結界を維持するのに、さほど力は使わぬ。〈隠形〉をかけて人目から鵺を隠し、法師どのが目覚めるまで何日でも待てばよいと思うた」
「うん」
「おぬしが来たら、一度結界の外から爪で攻撃してみようかとも思うた」
「うん」
「考え事をして、気が緩んでおったのじゃなあ」
「うん」
「鵺が何度も攻撃を繰り返しておるのは気づいておったが、結界が壊れかけておるのに気づかなんだ」
「うん」
「気づいたときには遅かった」
「うん」
「結界は、人の耳には聞こえぬ音を立てて砕け散り、鵺の尾が伸びてきて、わらわの右足にかみついた」
「うん」
「知らなんだが、あれの毒には神通力を封じる力があるのじゃな。わらわの体は高熱にさらされたように熱くなり、全身がしびれ、一切の力が使えなくなった」
「うん」
「死ぬのか、と思うた」
「……うん」
「そのとき、何を思うたと思う?」
「わからない」
「おぬしのことじゃ」
「うん」
「もう、おぬしに会えぬ。そう思うた」
「うん」
「思うたとたん、いやじゃ、と思うた」
「うん」
「会いたい、また会いたい、会わねばならぬ、とそう思うた」
「うん」
「気がつけば、わらわは倒れており、鵺のやつがとどめをさそうと飛びかかるところじゃった」
「うん」
「そのとき、右手の人さし指がの、少しだけ動いたのじゃ」
「うん」
「わらわは、その指に神通力を集めた。爪が伸びて、鵺の左目に突き刺さった」
「うん」
「鵺は驚いて逃げていった。じゃが、わらわも動くことはできず、麻痺したまま意識を失うた」
「うん」
「……目が覚めたとき、おぬしの匂いがした」
「うん」
「おぬしに包まれておった」
「うん」
「そのことが、わらわをなんとも幸せにした」
「うん」
「千二百年……」
「うん?」
「千二百年のあいだ、わらわは守る者であり、教える者であり、導く者であった」
「うん」
「じゃが、今はちがう」
「うん」
「今わらわは、守られる者であり、支えられる者であり、愛される者なのじゃ」
「うん」
「わらわを離すでない」
「うん」
「きつく抱きしめよ」
「うん」
「……わらわは思い上がっておった」
「うん」
「鉄鼠も、火車も、あの水虎さえも、わらわの結界は破れぬ。そう思い上がっておった」
「うん」
「じゃが、それは誤りであった」
「うん」
「おぬしがくれた力だったのじゃ」
「うん」
「おぬしがそばにいてくれたら、わらわは負けぬ」
「うん」
「おぬしがそばにいてくれたら、わらわはくじけぬ」
「うん」
「おぬしがそばにいてくれたら、わらわの力は無限にふくれ上がる」
「うん」
「そばに……」
「うん?」
「そばにいておくれ」
答える代わりに、俺は口づけをした。
深く深く、口づけをした。
天子さんは、やさしく応えてくれた。
口付けたまま、俺たちは眠りに落ちた。
幸せな、満ち足りた眠りに。
8
昨日にもまして晴天だ。
天子さんの顔色もいい。
顔色はいい。
いいのだが、なぜか布団から起き上がろうとしない。
「すまぬのう、鈴太。今日はわらわが当番の日じゃが、これでは炊事などできそうもない」
ちらちらと俺のほうをみあげるようにうかがう。
「代わってくれるのであろうな?」
「も、もちろんだよ」
なんなんだ、この展開は。
「わらわは、おかゆを希望するのじゃ」
「うん。わかった」
俺はおかゆを作った。胃の調子が悪いときなんか時々作ってたので、手順はよくわかっている。というか、おかゆなんて、きちんと手順を守って作れば、失敗するような料理じゃない。
副食には、漬物をほんの少しずつ四種類と、あんを作るのに使ったカツオにだし醤油を垂らしたものだ。あと、あんを加えれば六種類のおかずということになる。
「このとろりとしたものは何じゃ?」
「え? おかゆのあんだよ」
「あん?」
「だしに醤油を垂らして葛でとろみをつけたんだ」
「ほう?」
「こうやって、レンゲですくっておかゆにかけてね」
あんのかかったおかゆをレンゲですくう。
「ふうっ。ふうっ。はい、どうぞ」
天子さんがかわいらしく口を開ける。その口にそっとレンゲを運ぶ。
「つつ。あふっ、あふっ。おお! これはうまい。こんなおかゆがあったのか」
おかゆにもかすかに塩味はつけてるけど、このあんを載せれば、ただの病人食じゃなくて、高級健康朝食になる。
そもそもこの村は、お米と水がおいしい。この二つがおいしいということは、ほんとに幸せなことなんだ。
「これ、鈴太。次を待っておるのじゃ」
「あ、ごめん」
俺は、もう一度あんのかかったおかゆを、ふうふう吹いて冷ましてから、天子さんの口に運んだ。
天子さんは、なんともうれしげに、あつあつのおかゆを味わう。
そんなことを、何度か続けた。
気がつけば、童女妖怪が、うらやましそうに俺たちをのぞき込んでいる。
「おいしそうなのです」
俺が視線を向けると、つぶらな瞳をくりくりと輝かせて、口を大きく開いた。
「あーん」
梅干しを放り込んでやった。
9
おかゆを食べ終わると、天子さんは何事もなかったかのように、すくっと立ち上がった。
「よし。出るぞ」
「いや、ちょっと待って。今まで寝てたじゃないか」
「もう起きた」
「自分でご飯も食べられなかったのに」
「甘えてみたかっただけじゃ」
それは、堂々と宣言するようなことじゃないからな。
俺の内心の突っ込みを置き去りにして、天子さんは手早く着替えて童女妖怪に言った。
「長壁、〈探妖〉を頼む」
「はいです!」
例によって紙つきの棒きれをわしゃわしゃと振り回し、〈探妖〉が行われた。
「溜石には変化なし! 鵺の位置はここです!」
地図をのぞき込んだ。
なんと、昨日とまったく同じ位置だ。つまり天子さんが倒れていた場所だ。
「ほう。なめてくれたものじゃ」
どことなくすごみのある声で、天子さんが言った。
俺と天子さんは、歩いて雄氏地区に向かった。童女妖怪はお守りに入っている。
「ここだ」
「うむ。長壁よ、出てまいれ」
「呼ばれて登場! じゃじゃーん」
「わらわには鵺の気配が感じられぬ。長壁、どうじゃ?」
童女妖怪は、目を閉じてしばらく辺りの気配をうかがった。
「うーん。あちきにも探知できないです。この近くにはいないか、それとも」
「なんだ、ちびっこ。それとも、の次は?」
「〈隠形〉を使ってるかですね」
「……やはり〈隠形〉持ちかのう」
「天子さん。その〈隠形〉というのを使ってると、天子さんやおかさべでも気配がわからないの?」
「わらわの探知力では、無理じゃな。長壁なら、〈隠形〉を使うた相手でも、近距離なら探知できるのではないか?」
「はいです。天狐さまが〈隠形〉を使ってるときでも、十メートルやそこらなら探知できますです」
「では、辺りを調べてみよう。鈴太」
「うん」
「長壁をおぶってやれ」
「ええーっ」
「ええーっ」
「おぬしら、ほんとに仲がよいのう。とにかくその姿ではこの木立のなかは歩けぬ。鈴太がおぶうしかあるまい」
確かに童女妖怪の身長で、しかも十二単を着たままでは、とてもここの探索はできない。しかたないのでおぶってやった。
「そら行け〜」
背中の童女妖怪が右腕をぐるぐる回している。
ふらついたふりをして、木にぶつけてやろうか。
そう広い森というわけでもなく、隅から隅まで歩き回っても、二十分ほどしかかからなかった。しかし、みつからない。
「おらんのう」
「いないね」
「いないです」
そのとき、ラインが来た。
童女妖怪を一度降ろして発信者をみると、未完さんからだった。
「あれ? こんな時間に珍しいな」
通信文を読んで、俺は眉をひそめた。
「どうしたのじゃ?」
「いや、未完さんからなんだけどね。未成さんから朝の連絡がなかったんで、ラインを入れたり電話をかけたりしたんだけど、全然反応がないんだって」
「ほう。それで、ようすをみてほしいというのかの」
「そういうわけでもないんだけどね。〈どうしちゃったんだろう〉って書いてる」
それにしても、あの足川未成さん、毎朝京都の娘に連絡してたんだ。まあ、母娘なんて、そういうものかもしれない。
「ふむ。森の次は宅地を探さねばならぬ。まず足川家辺りから探ってみるか」
「うん」
再び童女妖怪を背負い、俺は足川家のほうに向かった。
雄氏地区のうち、西側から中央にかけては、わりと起伏が少なく、宅地が密集している。ここに村役場などもある。
東側から南側にかけては、起伏も多く、家と家の距離も離れている。各家には庭とか畑とかがあるし、家と家のあいだには小さな木立があることも多い。
足川さんの家は、雄氏地区の東側にある。
村役場にもバス停にも近いけど、ちょっと坂を登らないと着けない、森の入口のような場所にある。
俺たちは、森の側から足川さんの家の前に出た。
玄関のインターホンを鳴らしたけど、反応がない。
四度鳴らしたあと、声を上げた。
「足川さーーん」
もう一度声をかけた。
「足川さーーーーーーん」
反応がない。
ドアノブに手をかけると、開いた。
玄関のなかに入って、家のなかにもう一度声をかけた。
「足川さーーん」
俺は思いきってスニーカーを脱いで上がり込み、ちょっと恐る恐る奧に進んだ。
突き当たりの右側の部屋から明かりが漏れている。
「こんにちは」
声をかけてから引き戸を開け、なかに入った。
食堂とキッチンが一つながりになった部屋だ。
流し台の前に人が倒れている。
近寄ってみると、未成さんだった。
「足川さん。足川さん。どうしたんですか!」
声をかけた。肩を揺さぶってもみた。だけど反応がない。
体温はあるし、息もしているから、死んではいない。でも、こんな所で倒れていること自体異状だ。
「どうしたんだろう、いったい」
呆然としていると、天子さんがやって来た。
「二階の寝室をみたが、主人が寝ておる。起こしても起きぬ。同じ状態じゃな」
「えっ」
「とにかくそのままにはしておけぬ。鈴太、未成を抱え上げ、二階に運ぶのじゃ」
「う、うん」
二階に上がると、ご主人が寝ている布団の横に、女物の布団が敷いてあった。
「ここに寝かせるのじゃ」
天子さんの指示に従って、未成さんを寝かせた。
「さて、これは何かの病気なのじゃろうか。それとも……」
「妖怪の匂いがするのです」
「うおっ。いつもながら、突然だな」
「呪いか何かですね、これは」
「えっ」
「なに? まさか、鵺のしわざか?」
「そうかどうかはわからないです。とにかく、気味の悪い妖気がまとわりついてます。呪いの一種です」
「ふむ……このままここにおっても、わらわたちにできることはない。鈴太よ、住宅地を調べるぞ」
「う、うん」
未成さん夫妻をこのままにしていいのか気になったけど、呪いだというなら医者を呼んでもしかたがないし、そもそもこの村に医者はいない。とにかく天子さんと一緒に足川家を出た。
それからしばらく童女妖怪を背負って宅地を調べたけれど、鵺はみつからなかった。俺たちは、帰宅して昼食を取った。天子さんが料理をしているあいだに、未完さんには、お母さんは自宅で寝てた、とだけ返信をしておいた。
「鈴太よ」
「うん」
「鵺は夜に現れることの多いあやかしじゃ」
「うん」
「夜になったら、もう一度雄氏地区に出かけるぞ」
「わかった」
「わらわは法師どののようすをみにいってくる。おぬしは、体を休めておけ」
「うん」
10
天子さんが出ていったあと、俺はネットで鵺のことを調べた。
まず、姿について、いろいろな説があることがわかった。
猿の頭、狸の胴体、虎の手足に、蛇の尾を持つという資料もある。
虎の胴体と狐の尾を持つという資料もある。
猫の頭に鶏の胴体という資料もあるらしい。
別の説では、虎と蛇と猿と犬と猪を合わせた姿だともいう。
とにかく、いろいろな獣が合成された奇怪な妖怪だ。キメラだな。大昔にマッドサイエンティストな錬金術師がいたんだろうか。
もともと鵺という名の鳥がいて、その声に似た声で「ヒヨー、ヒヨー」と鳴くから〈鵺〉と呼ばれるようになったようだ。というより、〈鵺の声で鳴く怪物〉と呼ばれていたのが、時代をへるうちに〈鵺〉と呼ばれるようになった。
平安時代末期、天皇の御所で毎夜不気味な鳴き声が響いた。天皇は病気になってしまい、どんな薬や祈祷も効果がない。そこで、弓の名人である
頼政が御所を覆う黒雲に矢を射ると、鵺が悲鳴を上げて落ちてきた。ということは、鵺は御所の屋根にいたんだろうか。たちまち鵺は退治され、天皇の体調も回復した。
鵺の死骸は鴨川に流され芦屋のほうに漂着して葬られたともいう。
淀川下流の寺に埋葬されたという伝えもあり、京都の清水寺に埋められたという伝えもある。
変わった伝説として、鵺の死霊が馬に変じ、頼政に飼われたというのもある。
浜名湖の西に鵺の死骸が落ちたという伝説もあるようだ。その伝説では、鵺の羽根が落ちた場所が〈羽平〉と呼ばれるようになったというから、鵺には羽根があったという説もあったことになる。
驚いたことに、鵺の正体は頼政の母親だったという伝説もあるそうだ。源氏が再び勢いを取り戻し息子が栄達することを竜神に祈願したところ、鵺の体になったので、京都に飛んでいって天皇を呪詛した。そして息子の頼政に倒され、手柄を立てさせたというのだ。
鵺にゆかりの史跡も京阪神各地にある。
ひどく捉えどころのない妖怪だ。
いろいろな情報をたどってネットの海を泳いでいるなかに、こんな記述をみつけた。
〈鵺は丑の刻に鳴けり。その声奇怪の極みなり。一夜聞けば五体凍り、二夜聞けば魂魄凍り、三夜聞きたるとき永らえる者なし〉
どきり、とした。
〈一夜聞けば五体凍り〉とある。
未成さんの症状は、まさにこれじゃないだろうか。
そして、〈三夜聞きたるとき永らえる者なし〉とある。
まずい。
このままでは、まずい。
未成さんが死んでしまう。
俺はやきもきしながら天子さんの帰りを待った。
そうしているうちに、お客さんが五人ほど来た。
そのうち二人が、何か雄氏地区で事件が起こったらしいという噂を教えてくれた。大事件のようだという。未成さん夫妻のことかと思ったが、よく考えると、客観的には夫婦が寝坊してるだけのことなんだから、大事件というのは違和感がある。
いったい何が大事件なのかは、そのあとやって来た秀さんによって判明した。
この人、いったいどうやって情報収集してるんだろう。
発端は、急ぎの仕事を抱えた村役場の職員が、昼近くになっても出勤しなかったことだった。そもそも無断欠勤や無断遅刻をするような人ではない。電話をかけたけれど出てこない。村長さんは不審に思った。職員の家は雄氏地区にあり、役場から遠くないので、自宅を訪ねた。
そして、居間で倒れている職員を発見した。
この村のことを知らない人なら、玄関には鍵が掛かっていたろうから、窓でも割って家に入ったんだろうかと想像するだろう。
しかし、それはちがう。
都会の人間には考えられないことだけど、この村の人たちは、あまり玄関に鍵を掛けるという習慣がないらしい。夜寝るときはもちろん、ちょっとした外出などでも、鍵を掛けないで平気で出かける。そういう風習というか、文化なのだ。
村長さんは、鍼灸師の玉置先生を呼んだ。玉置先生が駆け付けたけれど、病気なのかどうかわからない。
村には薬屋はあるけれど医者はいない。急病人が出たら町から救急車を呼ぶ。しかしさすがに、この段階では救急車を呼ぶ判断まではできなかった。
そうこうしているうちに、玉置先生に呼び出しがかかった。雄氏地区に住んでいる兄弟の一家が全員寝たまま起きないので、往診に来てほしいという電話だった。村長さんは、玉置先生と一緒に、その家に行った。なにしろ二軒隣だ。あまりに早く着いたので、呼び出した人もびっくりしたらしい。
同じ症状だった。家族四人全員が布団に入って眠っていて、大声で呼びかけても揺さぶっても起きない。小学生のこどもも学校にも行かず寝たままだ。
このとき、村長さんはいい判断をした。隣の家を訪問したのだ。その家でも、一家全員が眠りこけていた。
村長さんは、平井巡査に連絡を取り、また役場職員を動員して、隣近所の調査を行った。すると、雄氏地区東側の六軒で、家族全員が眠り込んでいるのが確認された。
ただちに村長さんは、救急車の出動を要請した。それはよかったんだけれど、要請のしかたがまずかった。
「伝染病が発生した」
と訴えたらしい。先方でもこの要請への対応に困った。なにしろ二十人を越える人間を一度に救急搬送してほしいというのだ。それに対して村長さんは、眠り病ではないかとか、このまま放っておくと全員死んでしまうとか、思いつくままに恐ろしさを誇張して、救急車の派遣をせがんだらしい。
ところが症状といえば、ただ眠っているだけのことであって、苦しんでいるわけでも、体温の異常な上昇や発汗があるわけでもなく、顔や体が変色したりしているわけでもない。
結局、救急車は派遣されなかった。状況の推移をみまもり、また、睡眠薬その他服用がなかったか、その地域の人が前日に一緒のものを飲食したような形跡はないかなどを調査するようにというのが、先方の指示だ。
村長さんは大いに怒って、県警本部や岡山県庁にも電話をしたらしいが、対応はひどく冷淡なものだったという。
「村長が怒って電話をたたきつけたんが、三十分前のこっちゃ」
いや、ほんと。そのホットな情報の収集方法を、ぜひ知りたいです。
もしかして秀さんは、忍者の子孫なんじゃないだろうか。
それにしても、六軒か。そしてその場所を聞いてみると、足川さんの家の近くに集中している。この一帯の人たちが、鵺の鳴き声を聞いたんだ。
俺は恐ろしいことに気づいた。
鵺が昨日と今日、同じ場所にいた理由を思いついたのだ。
それは、三日続けて声を聞かせるためじゃないのか。
鵺の鳴き声を三夜続けて聞いた人は、死ぬ。
移動して鳴いたのでは、同じ人に続けて鳴き声を聞かすことができない。
だから鵺は、三夜続けて鳴くまでは、別の場所に行かないんじゃないだろうか。
日中はどこかに行っているんだろう。そして夜になるとあの場所に戻って来るんだ。
どうしても今夜のうちに、鵺を退治しなければならない。もしも失敗すれば、六軒の家の人たちが、みんな死んでしまう。
12
秀さんが帰ってゆき、すぐに夕方となり、天子さんが帰ってきた。
俺は、ネットでみつけた情報について話した。
「ほう。丑の刻に鳴くとな。そして三回鳴き声を聞くと死ぬ、か」
「ネットの情報なんて玉石混交だから、どこまで信じていいかわからない。だけど、いろんな伝えの断片の一つだとも考えられるから、意味がないとも決めつけられない」
「うむ。その話は、わらわが聞き知っておることと符合する」
「とにかく、この情報は、今のところ、未成さんたち雄氏地区の六世帯が一斉に寝込んだ理由を説明できる、唯一のものなんだ。一応これが正しい可能性を含み込んでここからの予定を立てなくちゃ」
「うむ」
「ところで、〈隠形〉というのは、どういう術なの?」
「書いてある字の通りじゃ。形、つまり姿を隠してみえなくする通力じゃ」
「ええっと、〈隠形〉をかけたまま移動しても、〈隠形〉は解除されないね?」
「うむ。それはおぬしも経験したはずじゃ」
「うん。した。じゃあ、〈隠形〉をかけて、攻撃したり、探知能力を使ったりしたら、どうなるかな」
「攻撃を受けても仕掛けても、〈隠形〉は解ける。探知をして解けるかどうかは、感覚だけのことなのか術を使うのかによるであろうな。長壁の場合でいえば、普通にあやかしを探知しても〈隠形〉は解けぬが、〈探妖〉を使えば解けるはずじゃ」
「なるほど。あれ? でも、この前、天子さんが結界を張って俺を飛んで来る鎌から守ってくれたときには、〈隠形〉のままだったよね」
「いや。あのときも、一瞬〈隠形〉は解けた。すぐにかけ直したのじゃ」
「そうだったんだ」
俺は少し考え込んだ。
「攻撃を受けると解けるということは、〈隠形〉がかかっているときにも攻撃は通るわけだ」
「もちろんじゃ。姿をみえなくするだけで、体がなくなるわけではない」
「わかった。それじゃ、俺の考えてる作戦を話す」
考えていたことを天子さんに話すと、それはいい考えだと賛成してくれた。
一つ実験をした。
だめかもしれないと思ったけど、うまくいった。
天子さんは客間に自分で布団を敷いて寝た。
俺は台所で準備作業をした。
それから布団を敷いて一眠りした。
13
アラームで目を覚ました。
午前零時ちょうどだ。
起き上がってジャージーに着替えると、顔を洗い、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。
天子さんは一足先に起きている。
童女妖怪も出てきている。
天子さんは、にぎり飯を作ってくれていた。
それを食べながら、もう一度、童女妖怪を交えて作戦を確認した。
零時二十分に家を出た。童女妖怪は、自転車の荷台の籠のなかだ。
自転車の前籠には秘密兵器を詰め込んだ買い物籠が入っている。
十五分ほどで目的地に着いた。
「鵺は至近距離にはいないです」
童女妖怪が小声で報告してくれた。
大型のハンディライトで辺りを照らし、ようすを頭に焼き付ける。
ハンディライトのスタンドを起こして設置し、持って来たござを広げて、買い物籠を置く。そして、俺と天子さんと童女妖怪が身を寄せ合うようにして座った。
「じゃあ、明かりを消すよ」
「うむ」
「はいです」
全員、声が小さい。
俺はハンディライトを消した。
鵺がライトを嫌うかもしれないからだ。
もっとも、天子さんも童女妖怪も暗闇でもほぼ問題なくみえるらしいから、実のところハンディライトを消して不便なのは、俺だけだ。
鵺は丑の刻に鳴くという。
丑の刻というのは、午前二時を中心とした前後二時間を指す。つまり午前一時から三時までだ。だから午前一時より少し早くここに来たんだ。
童女妖怪は、十メートルか、運がよければ二十メートルぐらいの距離に鵺が近づけば、〈隠形〉を使っていても、探知できそうだという。
できれば鵺が鳴く前に居場所を特定して結界に閉じ込めたい。何しろ鵺というのは素早い妖怪らしいから、足止めをしなければどうにもならない。
だけど、暗い時間でもあり、どこにいるかわからない鵺の至近距離に接近するのは難しいかもしれない。
その場合は、鳴くのを待つ。
鵺の鳴き声は呪いの声だ。つまりスキルを発動しているわけだ。だからおそらく鳴いているときには姿がみえる。その瞬間がチャンスだ。おそらく、ここからそう遠くない場所で鳴くはずなのだ。
一昨日の朝も昨日の朝も鵺はこの場所にいた。だから今朝もここに……
そこまで考えた瞬間、俺の顔は真っ青になった。
いったい《・・・・》、いつ《・・》、未成さんは《・・・・・》、最初に鳴き声を《・・・・・・・》聞いたんだろう《・・・・・・・》?
九月二日の朝には、鵺は出現していなかった。
童女妖怪が鵺を探知したのは一昨日、つまり九月三日の朝だ。
未成さんが倒れているのを発見したのは昨日、つまり九月四日の朝だ。
だから鵺が最初に鳴いたのは、九月四日の丑の刻だと思い込んでいた。
だけど、もしかしたら、鵺が出現したのは九月二日の夜かもしれない。そして雄氏地区の東で最初に鳴いたのは、九月三日の丑の刻だったかもしれないじゃないか。
普通の日なら、六世帯の家族が寝たままなら、誰かが異状に気づく。ちょうど昨日、村長さんが村役場の職員の欠勤に気づいたように。
ところが悪いことに、九月三日は日曜日だった。
だから六世帯の家族の異状に誰も気づかなかった可能性がある。
どっちだ。
今夜は、二度目なのか。
それとも三度目なのか。
もしも三度目なら、絶対に鳴かせてはいけない。作戦を変える必要がある。
どっちだ。どっちなんだ。
汗が噴き出す。頭がめまぐるしく回転する。
「鈴太?」
天子さんの呼びかけに反応する余裕もなく、俺はスマホを取り出した。
未完さんにかける。真夜中だけど、しかたない。
出ろ。
出てくれ。
「はい、未完です。羽振さん、こんな時間にどうしたんですか?」
あ、よそ行きモードに入ってる。
「未完さん」
「はい?」
「九月四日の朝、未成さんから、お母さんから連絡がなかったんだね」
「はい。そうです」
「最後にお母さんから連絡があったのはいつ?」
「日曜の夕方ですよ。こちらから電話したんですけど」
「日曜! 九月三日の夕方に、お母さんと話をしたんだね?」
「はい」
「ありがとう。聞きたかったのは、それだけだ」
「あ、ちょっと待ってくださいね」
少し時間が空いて、未完さんからの通話が再開された。
「今ちょうどダチの所に泊まりに来ててよ。ここなら聞かれねえや。で、何があったんだ?」
「悪いんだけど、今話してる時間がない」
「……妖怪か?」
驚いた。
女の直感というやつだろうか。ずばり核心を突いてきた。
「あとで報告する」
「母さんだな? 母さんは、何か妖怪にやられちまったんだな?」
「必ず助ける」
「頼むよ。お願いします。どうか……」
電話の向こうの声は急にか細くなり、最後は消えそうだった。
俺は通話を切った。
確認が取れた。今夜は二回目だ。
だいじょうぶだ。
作戦通りでいい。
天子さんと童女妖怪がこちらをみていたが、俺は何も説明しなかった。
今は話をしてる時間じゃない。
スマホの電源を切った。
14
寒い。
もう少し厚着をしてくればよかった。
ありがたいことに、天子さんと童女妖怪がぴったりと寄り添ってくれる。
童女妖怪の体温は意外と高い。やはりおこちゃまだからだろうか。
そうしてどれぐらい待っただろうか。
もう目は暗闇に慣れてきて、星明かりで充分見通しが利く。
「来たです」
童女妖怪のささやきが耳に入った。
聞こえない。
俺の耳には、近づいてくる鵺の足音が聞こえない。
(あれ?)
(〈隠形〉というのは、立てる音も消すんだっけ?)
しまった。確認するのを忘れた。
そのとき、みしっと頭上で音がした。木の太い枝がきしむ音だ。
(そうか、自分の音は消せたとしても、しなる木の音が消せるわけなかった)
俺は、買い物籠に手を突っ込んで、なかのものを取り出して、鵺がいるであろうあたりめがけて投げつけた。
だが、失敗した。飛んでいく代わりに手のなかで卵の殻が割れ、辺りに小麦粉をまき散らしてしまったのだ。
「ぐへっ。ぺっ、ぺっ」
「うむっ」
童女妖怪と天子さんが、小麦粉をかぶってしまった。
ばきっ。
みしっ。
鵺が飛んだ。別の木の枝に飛び移ったようだ。
「あそこです」
童女妖怪が指し示すほうをみた。
相変わらず鵺の姿はみえないが、鵺が乗れるほど大きな枝といえば限られている。
俺は、鵺がいるとおぼしき辺りに、卵の殻に包んでテープで封をした小麦粉を投げつけた。
それはむなしく木の枝の上を通過していった。
そのときだった。
ヒヨォォォォォォォ〜〜〜〜〜
不気味なといえば不気味な、そして物悲しいといえば物悲しい鳴き声が響き渡った。
そして今こそ鵺は姿を現している。
鵺が鳴き声を上げるのは呪力の発動であり、したがって鳴くときには姿が現れる。
でかい。
本当の虎に負けないでかさだ。
そのでかい鵺が木の枝に器用に乗っかって、鳴き声を上げている。
俺は小麦粉爆弾を投げつけた。
命中した。
もう一つ投げた。
これも命中した。
だけど鵺は、かまおうともせず鳴き続ける。
ヒヨォォォォォォォ〜〜〜〜〜
長い長い鳴き声は、さらにしばらく続き、余韻を残して深夜の山空に消えた。
鵺がぎらりと目を光らせてこちらをにらみつけ。
姿を消した。
次の瞬間、俺の頭上で緑の火花がスパークした。
一瞬、鵺が姿を現し、そしてまた消えた。
もちろん、俺を守ってくれたのは、天子さんの結界だ。
天子さんは立ち上がり、両手を大きく開いて指先をすべて伸ばしている。
俺と天子さんと童女妖怪を包む結界だ。
今度は俺の背中のほうで緑の火花がスパークした。
結界はまったく揺るがない。
一瞬だけ姿を現した鵺は、またも姿を消して、別の方向から襲いかかる。
鵺は今、右から左にゆっくり回り込んでいる。
そして飛びかかって、結界に阻まれた。
そんなことが何度も続いた。
俺たちには、鵺が姿を消しても、どこにいるかわかる。
振りかけた小麦粉が、鵺の胴体右側と、右後ろ足についているからだ。
白い小麦粉が、星明かりに照らされて、鵺の居場所を照らし出している。
この方法を思いついたものの、振りかけてしまえば鵺と一緒に消えるかもしれないとも思ったので、天子さんに頼んで実験してみた。
その結果、振りかけた小麦粉は〈隠形〉を使っても消えないことがわかった。
「たぶん、小麦粉は、振りかけた側に属しておって、〈隠形〉を使う側には属しておらぬからじゃろうな」
そう天子さんは解釈してたけどね。
とにかく、この手が通じるという見込がたった。そして狙い通り、相手の居場所が、俺たちにはわかっている。天子さんが油断なく維持しているこの結界を、鵺は突破できない。俺が近くについている以上は。
天子さんは最初に鵺と戦ったとき、小さな結界に相手を閉じ込めた。それは鵺にとって相当に衝撃的な出来事だったらしい。その証拠に、鵺はいちいち姿を消して、用心深く位置取りを変えて攻撃を繰り出している。そして一撃を放ったあとは、遠くに跳びすさって。こちらの出方をうかがっている。
結界に閉じ込められることを警戒しているんだ。相手を閉じ込める結界は、ごく近距離でなければ張れない。前回結界に閉じ込められた距離には近づかないように、鵺は用心しているんだ。
しかし、攻撃を何度も何度も繰り返しても効果がない。鵺はじれてきた。疲れもあるだろう。そしてこちらが反撃しないのをみて、油断していき、動きから慎重さがなくなっていった。
そしてついにその時が来た。
天子さんの結界に一撃を加えたあと、姿は消したものの後ろに飛ばず、その場にとどまったのだ。
待ちに待った瞬間だ。その隙を天子さんがみのがすわけはなかった。
鵺が右に移動しようとして結界に阻まれた。
ぎょっとしたようすで左に跳んだが、これも結界に阻まれた。
そうだ。
相手が隙をみせたとき、天子さんはこちらの結界を解除し、敵を結界に閉じ込めたのだ。
鵺が焦りをみせて暴れ回る。
だが、もう遅い。
この結界に閉じ込められたが最後、内から外に出ることは絶対にできない。
そしてこの結界は、外から内へ入るものは通すのだ。
天子さんが右手の指を全部広げ、高々と振り上げた。
両の目は金色に爛々と輝いている。
その威厳。
その気品。
その怒り。
そして、その美しさ。
まるで〈夜の女王〉だ。
五つの爪から赤い燐光があふれ出し、伸び上がり、天に向かって鋭くそそり立つ。
「虫けらめ」
結界に閉じ込められ、どこにも逃げられない鵺は、憎々しげに天子さんをにらみつけている。虎そのものの大きさである鵺のたくましくしなやかな体躯に、五つの長大な赤い刃が襲いかかった。
まるで何の抵抗もないかのように、五条の光芒は鵺の巨体を斬り裂き、地をえぐる。はじけ飛ぶように鵺は粉々になって消え去っていった。
「ふふ」
「やったですね」
笑みを浮かべる天子さんの横で、ふんぞり返って童女妖怪が宣言した。
ただし頭と顔には小麦粉がついている。
天子さんの上半身にもたっぷり小麦粉が載っている。
俺も顔中小麦粉だらけだ。
たぶん、誰かがみたら笑うしかない面相だろう。
だけど俺は、復讐の満足感に浸る天子さんを笑いはしなかった。
小麦粉だらけの顔でも、天子さんは美しい、と思った。
でも雪女みたいだなとも、ちょっと思った。
15
翌朝は、寝過ごして神社掃除をさぼってしまった。
どうも近頃、何かと神社の掃除を休みがちだ。反省しないといけない。
未完さんから電話がかかってきた。
お母さんから連絡があったらしい。しかも、一日空いたことなんか気づいてもいないような、いつも通りの連絡だったという。そのお礼だけを言うと、ろくにこちらにしゃべらせずに通話を切った。通話の終わりに、続きはあとでな、と言っていたから、またあとで電話がかかってくるだろう。
朝食前にやって来た天子さんは、小麦粉の降りかかった姿なんて思い出させもしない、すっきりした顔だった。どうでもいいけど、朝食に現れた童女妖怪も、小麦粉のことはなかったといわんばかりの顔だった。
俺の頭には少し小麦粉が残っている。あのあと風呂に入る元気なんてなかった。朝食のとき、二人がちらちらと俺の頭のほうをみてるのがわかったけど、言葉にしては何も言わなかった。
童女妖怪は、しきりにあくびをしていた。
妖怪にも寝不足とかあるんだろうか。あるんだろうな。
食後はすぐにお社に帰っていった。
あ、〈探妖〉をしていない。
まあ、いいか。
昼ご飯のときにさせればいい。
こんな日に限って客が多い。秀さんも来て、雄氏地区の謎の眠り病が解決した話をしてくれた。
どうでもいいけど、このことを消防局や県庁や県警本部に報告したら、また一段と村長さんの評価は下がるだろうな。気の毒な人だ。
昼ご飯を食べに童女妖怪が出てきたとき、〈探妖〉をさせた。溜石に変化はなかった。
午後、ぼんやりと店先に座っていたら、その人がやって来た。
「鈴太さあん」
俺は顔を上げた。目に飛び込んできたその姿に、眠気が吹っ飛んだ。
「や、や、や、や」
「こんにちわあ」
山口さんは、投げキッスを放って寄越した。ご丁寧に片目をつぶって。
「や、山口さん」
「あらあん。再会がそんなに感動的だった?」
「ど、どうしてこの村に?」
「ひどいわあ。私はここの住人よ。この村に土地と家を持ってるし、住民票もまだここにあるのよ」
「か、帰ったんじゃなかったんですか、熊本に」
「帰ったわよ。帰った翌日、何があったと思う」
「さ、さあ?」
「お見合い。だまし討ちのね」
「ええっ?」
いくらなんでも、それはないんじゃないかと思う。
だけどそれも、ご両親の思いというものなんだろうか。
「さすがにあたしもキレちゃってね。おほほ」
「いや、おほほって」
「コーヒーをぶっかけちゃったのよ」
「えっ? 相手の人にですか?」
「仲人に」
「えええええっ?」
そりゃ、いくらなんでもひどいんじゃないだろうか。
仲人さんに何の罪があるというのか。
「あたしを仲人成功百組目の記念にしたかったらしいのよね、あのおばさん」
「おばさん?」
「父の妹の娘の旦那のお母さんでね。ご主人は父の取引先の銀行の頭取なの」
なんかよくわからんが、あんまり怒らせてはいけない人なんじゃないだろうか。
「そのおばさんがホテルでランチをごちそうしてくれるからと呼び出され、行ってみればどうみてもお見合い。相手の殿方の素晴らしい経歴を滔々とまくし立て始めたわけよ」
「あの。一つ教えてください」
「あら、何かしら。いいわよ、鈴太さんには、何でも教えてあ・げ・る」
「ウインクはいりませんから。その仲人のおばさんというかた、もしかして和服でした?」
「あら、よくわかったわね」
だめだ、こりゃ。
晴れの百組目のカップルの仲人だ。気合い入れた服を着てたんじゃないだろうか。
いったい何百万円の服だったんだろう。
当分熊本には帰れないな。確信犯かな?
それにしても、和服で盛装してる銀行頭取夫人に、ためらいもなくコーヒーぶっかけるとは、なんと恐るべき胆力。
「人がやっと、愛する夫との思い出の家に決別する決心をして傷つき弱っているそのときに、見合いですって。しかも嘘をついて呼び出して」
山口さんの顔つきが、段々とけわしくなっていく。
「前々から、あのばばあ、あたしを早いとこ再婚させなきゃいかんちゅうて、せっついてやがったのよね。自分の仲人趣味のために」
怒りが燃え上がり、まるで般若のような顔になった。
「せからしか!」
思わず背筋を伸ばしてしまった。
山口さんは、怒りを爆発させて気が晴れたのか、やさしげな顔つきに戻った。
「うふん。またいろいろ相談に乗ってね」
「は、はい」
「あ・と・で、ゆっくりと・ね」
そう言ってウインクすると、山口さんは、ばいばいと手を振りながら帰っていった。
俺は、ふうっと息をはいて、何げなく振り返った。
鬼の顔をした天子さんが立っていた。
「ひいっ」
「今、おぬし、何と答えた?」
「は、はいっ?」
「いろいろ相談に乗ってね、と言われ、何と答えおった?」
「え? ええっと……」
「はい、と答えておったのう」
「そ、そうでございましたかね?」
冷たい。
天子さんの視線が冷たい。
また雪女にジョブチェンジしたみたいだ。いや、雪女どころの冷たさじゃないな。雪女に上級職ってあったっけ? ええっと、雪女の進化形は……
「鈴太ぁ!」
突然呼ばれて、俺は振り向いた。
玄関から何かが飛び込んできた。俺の胸に。
あ、いい香り。
「ありがとうな!」
「あっ。未完さん」
「あんた、悪い妖怪をやっつけて、母さんを救ってくれたんだろ?」
「い、いや。俺がというより、あれは天子さんがね」
「あたし、何か悪い予感がしてたんだ。だから、あんたから電話があったとき、やっぱりって思ったんだ」
「そ、そうなのか」
「今度の妖怪は、何てやつだったんだ?」
「鵺っていうんだ」
「鵺だってえ! とんでもない大物妖怪じゃねえか!」
「あ、そうなんだ。知ってるんだ」
「京都に住んでて鵺を知らねえやつはモグリだよ。そうか、そんなすげえやつが母さんに取り憑いてたのか。それをあんたが助けてくれたんだな」
「いや、だからね。鵺をやっつけたのは、俺じゃなくてね……」
「あんたなら、きっと助けてくれると信じてたよ。だけど昨日の夜は心配で眠れなかった。今朝母さんからラインが来たときは、もううれしくてうれしくて、泣いちまったよ」
「よかったね」
「みんな、あんたのおかげだ」
「いや。そんなキラキラした目でみないでほしいな」
「あんたのためだったら、あたし……」
「ところで、未成さんは元気だった?」
「えっ? いや、まだ顔みてねえよ。まずはあんたに会いたかったんだ」
「そりゃだめだ。すぐにお母さんのところに行きなさい」
「でもよう」
「行きなさい」
「わかったよう……優しいんだな」
立ち去り際に、未完さんは顔だけ振り向いた。
「あ、あたしの名前は
「うん?」
「ごく親しいやつは、ミカンて呼ぶんだ」
「へえ、そうなんだ」
「あんたも、ミカンて呼んでいいぜ」
「え?」
言いたいことだけ言うと、未完さんは振り返って俺に接近し、ほっぺたにキスをした。そして脱兎のごとく走り去った。
状況に理解がついていかず、ぼうっとして、みおくっていると、後ろから声がした。
「未完と、ごく親しい関係になれて、よかったのう」
背中ではブリザードの気配がしている。
俺の頭のなかでは、鵺の鳴き声が響き続けていた。
ヒヨォォォォォォォ〜〜〜〜〜
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