第13話 輪入道

1


「当分のあいだ、山口さんの家への配達はお断りします」

「うむ。それでよい」

 ちょっとひどい話だと思う。うちは乾物屋だ。客商売だ。

 それが特定の客への配達を拒否するって、どいういうことだ。

 とはいえ、今の天子さんは、理屈ご無用モードだ。

「未完さんをミカンとは呼びません」

「うむ。それでよい」

「でも、あの」

「何か不満でもあるのかえ?」

「い、いいえっ。不満なんて、めっそうもない」

「当然じゃ」

「でも、ニックネームで呼んでいいと本人が言ったのに、ニックネームで呼ばないとなると、未完さんが傷つくんじゃないかと」

「それじゃ」

「どれでございましょう」

「その優柔不断さがいかんのじゃ」

「これは優柔不断なのかなあ」

「そこにあやつらが付け込む隙がある。逆にいえば、おぬしのほうにもその気があるのではないかと、あやつらに思わせてしまう」

 もはや、山口さんも未完さんも、〈あやつら〉扱いされてる。

「それはかえって残酷じゃ」

「そうかなあ」

「……わらわの言うことに不服があるのかえ?」

「ございません」

「そもそも、未完の家族が未完のことをミカンなどと呼ぶのを聞いたことがない」

「あ、そうなんだ」

「たぶん、ミカンという呼び方には、特別な意味がある」

「考えすぎじゃあ?……いえ、何でもございません」

 天子さんの厳しい視線に射すくめられながら、俺はうれしかった。

 だって天子さんは、あまりにおとなすぎた。

 何でも知っていて、何が起きても泰然としていて、俺とはちがいすぎた。

 でも今の天子さんは感情が高ぶるまま、俺に理不尽な要求を突きつけてる。

 これは、嫉妬だよな。

 あの天子さんが嫉妬してくれてる。

 そのことが、なんともうれしい。

「何をにやにやしておるのじゃ」

「ひいっ。い、いえ! 何でもございませんです」

 ツンがきつい。

 だけど、ツンがきついということは、そのあとのデレもそれだけ甘いにちがいない。

〈怒ってばかりで、ごめんね、鈴太さん〉

〈いいんだよ、天子〉

〈あなたがいろんな女の子にもてるからいけないのよ〉

〈そうだね。ごめんね。みんな俺が悪いのさ〉

〈やさしいのね〉

〈ぽくにはみんな、わかっているさ〉

〈ほかのをみちゃ、いや〉

〈君以外の女性なんて、俺の瞳には映っていないさ。ほら、みてごらん〉

〈鈴太さん〉

〈天子〉

「だから何をにやにやしているのじゃ。気色の悪い」

「……すいません」


2


 翌日は、天子さんが食事当番だった。

 神社のお掃除から帰ってくると支度ができていた。

 今日の朝食は、なんだか豪華だ。

 これはデレなのかな?

 油揚げを使ったおかずが二品もあって、童女妖怪は有頂天だ。

 溜石に変化はなかった。

 昼前後に、少し雨が降った。

 これから昼食というとき、未完さんがやって来た。

「悪い、悪い。遅くなっちまってよ」

 いや、べつに待ってはいなかったんだけどね。

「今日の昼ご飯は何だい? おっ。オムライスか。あたし、これ大好きなんだ」

「天子さん。未完さんの分もお願い」

「うむ。用意してある」

「おい、鈴太。あたしのことは、ミカンって呼べよ」

「いや、それは遠慮しとくよ」

「なんでだよ」

「未完さんっていう呼び方が好きなんだ」

「え?」

「〈ひでひろ〉って、いい名前だね」

「そ、そうか?」

「それに〈さん〉を付けた〈ひでひろさん〉。ほんとに美しくて格調の高い呼び名だと思う」

「い、いや、そんな。美しいだなんて」

「こんなに柔らかくって、気高くって、それでいて温かみのある呼び名は、そうあるもんじゃない」

 未完さんは、真っ赤な顔をしてうつむいている。

「うほん。うほん」

 天子さんがオムライスを盛り付けながら、わざとらしいせきをする。

 なんだよ。しかたないじゃないか。

 〈ミカン〉て呼ばなくていいことを納得してもらわなくちゃならないんだから。

「うめえなあ、このオムライス」

「大切りの油揚げが入ってるのがチャームポイントなのです。油揚げのみじん切りを浮かべたオニオンスープもデリシャスなのです」

「未完さん。ところで、大学、授業中でしょ? 帰らなくていいの?」

「え? いや、うちは春学期と秋学期の二期制でよ。九月二十日まで休みなんだ。履修ガイダンスがあるから十一日には行かないといけないけどよ」

「そうなんだ」 

 昼食を食べて、未完さんは帰った。

「おぬし、あれはわざとか? わざとなのか」

 天子さんがぐいぐい迫ってくる。

「え? 何のこと?」

「何のこと、ではない。ミカンと呼ばぬのは、親しさに一線を画すためじゃというのに、口説いてどうする」

「口説いてなんかないよ。ミカンと呼ばないことをこころよく納得してもらうための理屈を考えたんだよ」

「その説明のしかたが問題なのじゃ! まったくもう。虫も殺さぬ顔をしおって、天性の女たらしとは」

「え? それはぬれぎぬだよ。俺は天子さん一筋なんだから」

「そんなことをさらっと言えるところが、ますます女たらしじゃ」

「何だかお取り込み中みたいねえ」

「うわっ、山口さん!」

「鈴太さあん」

「はい?」

「そろそろ、美保って呼んでくれてもいいんじゃないかしら」

「それは許さん」

「あら、どうして天子さんが答えるのかしら?」

「許さんのがわらわだからじゃ」

「おお、こわ。鈴太さあん。小豆島のお醤油。全部実家にあげちゃったのよ。あとで一本配達してもらえるかしら」

「は、……いや、それが、その」

「どうしたの? 今日は忙しいなら、明日でもいいわ」

「それがですね。つまり、その……」

 マリアさま、じゃなく天子さんがみてる。白い目だ。ああ、もうなんか快感に思えてきたぞ。

「諸般の事情により、山口さん宅への配達は、当分のあいだお断りさせていただきます」

 言った。

 言ってしまった。

 考えたら、これはひどい。

 山口さんが激怒してもしかたない。

「へえ? ……ふうーーーん」

 だけど山口さんは、怒るどころか、楽しそうな顔になり、俺と天子さんを交互にみた。

「ライバル認定してもらえたのかしら?」

 すごくいい笑顔で笑った。

「それに、お二人さんにも進展があったみたいね」

 進展?

 進展て、何のことだろう。

 ていうか、みてわかるものなの?

「ふふふ。おもしろくなってきたわね」

 いや、こっちは面白くありません。生死の境です。

「じゃ、お醤油を売ってもらえるかしら。持って帰るから」

「は、はい」

 お金を受け取ってお釣りを渡し、一升瓶のお醤油を布巾で拭いて緩衝材で包むと、一升瓶サイズの手提げ袋に入れて渡した。

 山口さんは、ウインクを一つ残して、すたすたと帰っていった。

 配達、必要ないじゃん。

「ハーレム状態に戻ったのう。うれしいかえ?」

 ハーレムって、こんなに疲れるものなのか?

 もっと、きゃっきゃうふふな感じじゃないのか?


3


 ネットで注文した半紙と筆と墨液が届いた。

 千枚二千二百円の漢字用半紙だ。

「ふむ。機械漉きじゃが、まあちゃんとした紙じゃな。これならよい」

 天子さんから合格判定が出た。

「さて、まずは楷書からじゃ。漢字の〈一〉を書いてみよ」

「うん」

 俺は筆に墨をつけ、〈一〉の字を書いた。

「よしよし。次は、わらわが書くのをよくみて、まねをしてみよ」

 天子さんが、半紙に〈一〉の字を書いた。

 かっこいい。

 それに文字に表情がある。

 ただ横に棒を引っ張っただけの、これ以上ない単純な字なんだけど、はじまりの部分、真ん中の部分、終わりの部分に、それぞれドラマがある。

 俺は目を閉じて、天子さんの動作を思い出し、その通りに筆を動かした。

「おおっ。うまいではないか」

「そ、そうかな」

「うむ。最初のうちは、あまり字の形や細かいことは気にせずに、字を書く雰囲気をつかむことじゃ」

「雰囲気?」

「あるときには、すっと書き、あるときには、ぐっと力を込め、あるときには、ふっと力を抜く」

「ふんふん」

「わらわが見本をみせるゆえ、形ではなく、心をまねるのじゃ」

「心をまねる?」

「そうじゃ。書かれた字ではなく、書く者の呼吸をつかめ」

「うん」

 もう一度、天子さんの動作を思い出しながら、〈一〉の字を書いた。

 最初は、ぐっと半紙をつかむように筆の穂先で紙を捉え、ぐっと力を入れて右に引き、最後はぴたりと止めてから、左上に切り返すように、筆を離す。

「うむ。よいよい。中央の部分を書くとき、もう少し筆勢があるとよいの」

「ひっせい?」

「筆の勢いじゃ」

 筆勢を強めてもう一度書いた。

「よしよし。さらにいえば、こういう楷書の筆運びはのう、筆で紙を切るような心持ちになるとよい」

「筆で紙を切る」

 面白い表現だ。そういうつもりでもう一度書いた。

「おおっ。よいではないか」

 自分でもそう思う。

 うまい字ではない。だけど、すごく生き生きしてる。字が自己主張してる。

 そうか。これが、字を書くってことなんだ。

 五回ほど〈一〉の字を書くと、次に進んだ。

「次は、〈二〉の字じゃ」

 天子さんが見本を書く。

「横画のことをろくという。この上側のように下に反る勒をぎょうといい、下側のように上に反る勒をふくという」

「うん。書いてみる」

 そのあとレッスンは〈三〉へと進んだ。

 俺は楽しくてしかたない。

(なんか、最初にこの店の商品の説明を受けたときみたいだな)

(二人っきりで、マンツーマンで、いろいろ教えてもらって)

 このままの時間が、ずっと続けばいい。

 続くうちには、いろいろとアクシデントもあるはず。

〈どうした鈴太。そこは筆をこう持つのじゃ〉

 天子さんが、筆を持つ俺の手に手を添えて、動きを教えてくれる。

 そのうち、背中に当たる、柔らかい感触。

 驚いて振り向くと、俺の鼻をかすめる髪の毛。

 天子さんは、ちょっと驚いてからほほ笑む。

〈どうかしたのか?〉

〈天子さん。書道のほかにも教えてほしいことがあるんだ〉

 からみ合う視線と視線。

〈みなまで言うな。わかっておる〉

〈天子さん!〉

〈鈴太……〉

「よし。次はこの字じゃ」

「うん……え?」

 いきなり難しい字になった。

 〈東〉だ。

 いや、ふつうに考えれば難しくもなんともない字なんだけど、〈一〉〈二〉〈三〉ときたあとに〈東〉とくると、すごく高度な感じがする。

 手本を書き終えた天子さんは、筆を洗って筆掛けに吊した。

「わらわは帰る。あとはそのお手本と対話しながら自分で練習せよ」

 そう言い残して帰ってしまった。

 屋根に登ったらはしごをはずされた気分だ。

 気がつくと、足がひどくしびれてた。

 ちょっと涙目になりながら足のしびれを取る。

 筆を洗ってよく拭き、天子さんの筆の隣に掛けた。

 しばらくぼおっとした。

 それから、硯に墨液を落とし、一度洗った筆に墨をつけ、お手本とにらめっこしながら、〈東〉の字に挑戦した。

 書いても書いてもうまくいかなかった。


4


 早く目が覚めたので、そのまま起きて神社の掃除に向かう。

 秋に入りかけているのだろう。三山の景色がわずかに色づいているようだ。

 十数段ばかりの石段を登ったところで、人影に気づいた。

 ひでり神さまだ。

「おはようございます」

「お早いのう」

 あいさつを交わし、そのまますれちがう。

 ゆっくりと掃除を済ませて家に帰る。

 今日は、俺が炊事当番だ。

 朝食は和食と決まっている。

 以前一度大陸風コンチネンタルな朝食にしたら、天子さんに不評だった。まだ童女妖怪がやって来る前の話だ。

 朝食の準備ができたところで、玄関周りの掃除をする。

 今日は午後雨が降るという予報だ。

 天子さんが来て、食事をする。

「油揚げがないのです」

「味噌汁に入ってるだろ」

「味噌汁にしか入ってないのです」

「そういつもいつも油揚げオンパレードというわけにはいかないよ」

「最低三品に油揚げを入れてほしいのです」

「自分で作れ」

「身長が少し足りないのです」

「カセットコンロを床に置いてやる」

「あちしには火属性がないのです」

「火属性? それがないと料理ができないのか?」

「あちしは料理を作る側ではなくて、食べる側なのです」

「お前、ほんと、探知系以外能力ないな」

「天は二物を与えずなのです」

 童女妖怪とのアンニュイなやり取りが続く。今日も平和だ。

「さて、仲のよいのはけっこうじゃが、そろそろ〈探妖〉を頼む」

「はいなのです」

 紙切れがついた木の棒を振り回して、〈探妖〉が始まった。

 紙が風にたなびくしゃらしゃらという音も、今日は少し優しげに響く。

「出ました。残りの溜石は三個で変わらず。天逆毎あまのざこはこの辺りですね」

 探知範囲ぎりぎりの下流だ。移動しながら何をしてるんだろう。気にはなるが確かめに行こうとは思わない。

 それにしても、今日まで、天逆毎以外の妖怪が結界の外で探知されたということはない。川のなかには広く妖気が満ちているみたいだけど、それだけだ。ということは、最初心配していたように、天逆毎の仲間なり手下なりがいるということもないようだ。

 食後のお茶が済むと童女妖怪は巣に帰った。

「さて、書斎に行くかの」

「うん」

 書斎の文机の上に、昨日苦心惨憺して書いた〈東〉の字が載っている。

 その横には天子さんが書いてくれたお手本が載っている。

 俺は、どきどきしながら天子さんの感想を待った。

「ほう。よう形をみたのう」

 そう言われてうれしかった。お手本の字の形をなぞるように、できるだけ同じ形で筆を運んだのだから。

「これは、一文字書くのにずいぶん時間がかかったであろうな」

「うん。すごいかかった」

「よしよし。このように、手本の字の形を注意深く観察することは、上達の第一歩じゃ。ようがんばった」

「うん」

 うんと答えてはみたものの、いくらお手本をみても、どう筆を動かしたらこんな形になるのかさっぱりわからなかった部分が何か所かある。もちろん天子さんは、そんなことはお見通しだろう。

「では次に進もう。もう一度手本をみせるから、よくみておけ」

 天子さんは、硯の上に墨液を落とし、筆をゆっくりと遊ばせて充分にほぐしてから、おもむろに字を書いた。

「あ」

 俺は思わず声を上げた。

 第一画の横線は、イメージした通りに書いたんだけど、第二画の筆の置き方が、想像していたのとまるでちがう。そうか、ああいう角度で筆を入れ、ぐっと力を込めると、ああいう形になるのか。そうか、長い縦画は、ほんのわずかにS字型に曲げると自然な線になるんだ。そして、下側で止める瞬間、左側にぐっと押しつけるようにしてから、すっと抜けばいいんだ。

 そのあとも、ああやっぱりと思う筆運びもあったし、ここはこうするのか、と思った箇所もある。

 ゆっくり書く部分もあれば、ぐっと力を込める箇所もあり、すっと勢いよく書く線もある。

「みたか?」

「うん。みた」

「よしよし。緩急強弱の呼吸が大事じゃ。では、今わらわが一文字を書くのと同じほどの時間で一文字を書くようにして練習してみよ」

「え? そんなに速くは書けないよ」

「打っ立てや払いの形が取れぬときは、ゆっくりその部分だけを練習してみてもよい。しかし、文字全体に時間を書けすぎると、筆の毛が生きた動きをせぬし、何より体が字を覚えぬ」

「体が字を覚えない?」

「そうじゃ。それと、字を書いておる最中には手本をみるな。手本をみすぎると、練習のための練習になってしまうぞ」

「よくわからないよ」

「一回だけよい字がかけてもしかたがあるまい。普段書く字がうまくなるための練習なのじゃからな。それには練習じゃ。練習を積まずに上達なぞあり得ぬ」

「天子さんの神通力も同じなの?」

「うん? うむ。もちろん同じじゃ」

「そういう能力を与えられてるからできるんじゃないの?」

「もちろん神通力を持っていないものには、神通力のわざは使えぬ。しかしわざを使えるからといって、使いこなせるとはかぎらぬ。わらわが〈鵺〉を切り刻んだわざも、修練を積み、実戦を積んだからこそじゃ。下手に振り下ろせば、伸ばした爪は折れてしまう。剣術と同じように、磨き抜いたわざがなければ、強い敵とは戦えぬ」

「そうなんだ」

「ま、続けてみることじゃ」

 午前中に五人ほどお客さんが来たけど、天子さんが応対してくれた。

 足のしびれと戦いながら、俺は字の練習に没頭した。

「こんちはー」

 未完さんが来た。そういえば、そろそろ昼ご飯を作らないといけない。俺は筆を洗って筆掛けに掛けて、台所に行った。すると未完さんがやって来た。

「こんにちは」

「おう。今日は鈴太が食事当番だろ?」

「うん」

「へへ。何か手伝おうか」

「ありがとう。それじゃあ、まず……」

 手伝ってもらったけど、正直邪魔だった。じゃがいもの皮もまともに剥けないし、人参を切っても大きさがまちまちだ。盛り付けも雑だ。

「鈴太って、ほんとに料理がうめえんだなあ」

「何を言うておる。今まで何度も鈴太の料理を食べておるではないか」

「いや、料理をしてるのをみたのは今日がはじめてだからさ。あたしじゃ手伝いにもならなかったな」

「ははは。まあ練習すれば上達しよう」

「そうかなあ。鈴太もそう思うか?」

「うん。何事も練習すれば上達するよ」

「そうか! よし。頑張るよ」

「油揚げがないです」

「いや、お前、食べたじゃないか。油揚げをオーブンで焼いたやつ」

「もうないです」

「何枚食べる気だ」

 食事が済むと未完さんは帰り、天子さんは和尚さんのようすをみに行った。

 俺は店番をして、三軒ほど配達に行った。

 夕方、天子さんが帰ってきた。

 夕食はクリームシチューにした。油揚げが案外マッチしていた。

 食後に一時間ほど〈東〉の字を練習した。

 昨日あれほど書けずに悩んだのが嘘のように、すらすら書けた。特に二画目の打っ立てと六画目の打っ立て、六画目のはねは、こつがつかめたというか。方向性がみえたというか、イメージがわいてきた。

 何度も何度も書いているうちに、五画目の横線が、手本と同じように書けた。同じように書けたといっても、完成度はまるでちがうんだけど、線として同質というか、書き方が同じだ。そしてこの線を出すには、ある程度のスピードというか、思いきりのよさがいる。

「よしよし」

 それをみとどけてから、天子さんは帰った。

 もう遅いから泊まっていったらどうかと勧めたが、笑いながら断られた。

 どこに帰るんだろう。麒麟山のほうだとは聞いたけど、それ以上のことは知らない。もしかして、墓地の近くなんだろうか。

 風呂に入っているとき、ふと思った。

 まさか、お堂か何かをすみかとしてるんじゃないだろうか。童女妖怪と同じように。

 そう思ったあとに、そんなわけはないと気がついた。

 いつだったかの花見のとき、天子さんはお煮染めなんかを作ってきてくれた。あれはお社のなかじゃ作れない。

 そうしてみると、やっぱりちゃんとした家に住んでいて、調理道具なんかもあるんだ。

 いったい、どんな家に住んでいるんだろう。

 知りたい気持ちもあったけど、そこまで踏み込んじゃいけないという気持もあった。

 いつか教えてくれるだろう、と思いながら眠りについた。


5


「あ! 妖気の抜けた溜石が十個に増えてますです! ここです。そして妖怪が出てます。輪入道わにゅうどうですね。溜石のすぐ近くにいます。天逆毎は、探知範囲にはいませんです」

 そう言いながら童女妖怪は、有漢地区西側の溜石を指さした。

「輪入道か」

「天子さん、強敵なの?」

「いや、まったく手ごわくはない」

「あれ? じゃあ、どうしてそんなにいやな顔をしてるの?」

「いやらしいあやかしなのじゃ」

「いやらしい?」

「五百年と少し前になるか、この里に輪入道が出たことがある」

「あ、戦ったことがあるんだ」

「わらわは、輪入道がどういうあやかしであるか聞き知ってはおったが、力や習性について、詳しくは知らなんだ」

「うん」

「里に、おかじという女がおってのう」

「かじさんだね」

寡婦かふであった」

「かふ?」

「夫を亡くした女のことじゃ。法師どのならば、後家ごけと言うであろうな」

「ああ、山口さんのことも、そう言ってたね」

「おかじには娘があった。おとよ、という。三歳になったばかりの、かわいい娘であった」

「母子家庭だったんだね」

「うむ。貧しくはあったが、周りの者も気を遣って雇われ仕事が切れることはなかった」

「幸せに暮らしてたんだね」

「その幸せが、ある夜壊れた」

「何があったの?」

「おかじは首をくくって死んでいた」

「えっ」

「おとよも死んでいた。その死に方が異状であった」

「ど、どんなふうに」

「包丁でずたずたに切断されておったのじゃ」

「うえっ」

「しかも、手足やはらわたを食い荒らした痕があった」

「それは、また、なんという」

「村の者たちは、おかじが亭主を亡くした寂しさに狂って娘を殺して死に、その死体を山犬が食い荒らしたのだと噂した」

「状況からしたら、そんなふうにみえたんだね」

「だが家を訪れたわらわは、かすかに妖気が残っておるように感じた。また、獣を飼っているわけでもないのに、少しばかり獣臭さを感じた」

「輪入道のしわざだったんだね」

「すぐにそうとは気づかなんだ。気づいておれば、二番目、三番目の悲劇は防げたやもしれぬ」


6


「二番目、三番目の悲劇?」

「当時は、結界の外にも二つ集落があった。その一つは白澤山のほうにあった。里の農民からはさげすまれた人々が住んでおったが、その人々の持つ皮なめしのわざは、里にとってなくてはならぬものであった」

「あ、そういう集落があったんだね」

「うむ。その集落のはずれに住んでおった、ギザとシノという母と娘が死んだのじゃ」

「かじさんと、もとさんと、同じように?」

「うむ。娘のシノは、体の一部が食われており、母親のギザは竹箸で喉を突いて死んでおった」

「うわあ」

「集落のおさは、日が暮れるのを待って転輪寺にやって来た。人別帳からギザの名を除かねばならぬし、非業の死を遂げた親子ではあるが、なんとか弔いは出してやりたいと考えたのじゃな」

「あ、そういう人たちも、宗門人別帳には名前が書いてあったんだ」

「もちろんじゃ。人別帳に載っておらんのは、無宿者だけじゃ」

「和尚さんには、そういう相談ができたんだね」

「うむ。もともと転輪寺は集落の者らの菩提寺でもある。それに、集落の者らは墓守もしてくれておったし、はやり病で死んだ者の火葬や埋葬、あるいは動物の死骸の処理などもしてくれていて、転輪寺とのつながりは深かったのじゃ」

「なるほど」

「法師どのは、おかじと、おとよが死んだときには、所用で里の外におった。しかし、集落の長が尋ねたときには帰っておった。長の話を聞いた法師どのは、それは輪入道のしわざじゃと看破し、長に対し、集落に母と幼いこどもの二人暮らしをしている者は、ほかにいないかと答えた。長は、いない、と答えた」

「母とこどもの二人暮らし?」

「うむ。すると法師どのは転輪寺を飛び出し、安美地区のはずれに住んでおった、お松の家に行った」

「その、松さんという人も、小さい子がいたの?」

「いた。与吉という男の子じゃった」

「そ、それで、その親子はどうなったの?」

「法師どのが家に着くと、小さなあやかしが飛び出して来て、〈射すくめ〉の術を使うてきた。法師どのには効かなんだが、ついてきておった集落の長は身動きできぬようになった」

「〈いすくめ〉?」

「にらみつけて体の自由を奪う術じゃ」

「うん」

「法師どのは、逆にその小さなあやかしに〈金縛り〉の術をかけて、家に飛び込んだ」

「お松は、焦点の合わぬ目をして、ぼうっと座り込んでおり、その後ろには、腕を包丁で切り落とされた与吉の死体が転がっておった。その腕は、かじりかけであったそうな」

「まにあわなかったんだ」

 そのあと和尚さんは、〈金縛り〉にしておいた妖怪を縛り上げ、近所の女性に頼んで松さんの介抱をさせた。

 それから、白澤山の集落の長に頼んで、与吉の亡きがらを火葬にした。当時でも村では土葬が一般的だったけど、伝染病で死んだり奇怪な死に方をした人などは火葬にしたんだそうだ。

 火葬は、野焼き、といって、薪を積み上げた上に亡きがらを載せ、おとなの場合なら三日三晩焼くんだそうだ。これは、結界の外の集落に住む人たちの仕事となっていて、当時は白澤山にも麒麟山にも、野焼きの場所が作ってあった。

 和尚さんは、縛り上げた妖怪を寺に連れて帰り、尋問した。

 ひどく大言壮語をする妖怪だったそうだ。自分は蓬莱山のぬしであり、すぐに解放しないと、村ごと滅ぼしてしまうとか、三千三百三十の眷属が自分の身柄を奪い返しにくるぞなどと、甲高い声でまくしたてたらしい。

 聞くべきことを訊き出してしまうと、和尚さんはその妖怪を始末した。そして、日本の各地にいる和尚さんの子孫や眷属から情報を集め、その妖怪の正体を詳しく調べた。

 与吉の死骸は、たった一晩で焼き終えた。その遺骨を壷に納めて、松さんにみせた。

 そして、松さんから、その夜何があったかを聞いた。

 それは奇怪な話だった。


7


 松さんは、その夜、ささやかな晩ご飯を食べてから、土間で藁縄をなっていた。

 そのそばでは、与吉が、藁の切れ端で遊んでいた。

 窓から差し込む月と星の光を頼りに、藁仕事を続ける松。

 夫と死に別れ、財産もなく、名主の好意でこの家に住まわせてもらっているが、与吉がいるだけで幸せだった。

「おおい。おおい」

 最初は気のせいかと思った。

「おおい。おおい」

 だが、こんな村の外れの小さな家に、しかもこんな夜遅くに、誰かが尋ねてきたようだ。

「はあい」

 松さんは、つっかい棒をはずして玄関の戸を引いた。

 そこには驚くべき光景があった。

 火を噴く巨大な車輪である。

 村の水車よりも大きい。しかも輪の形は、荷車の車輪のような形をしている。家の屋根にも届こうかという巨大な車輪が、家の玄関の前に支えるものもないのに、ずどんと立っていたのである。

 その巨大な車輪の真ん中に、顔がついている。畳四畳分はあろうかという、赤黒い顔だ。

 頭頂部は禿げていて、両耳の上にもじゃもじゃと毛が生えている。

 口の周りを取り巻いて、何重かに、まるでイソギンチャクのような毛が生えている。

 顔全体がごつごつしている。目の上の部分は岩棚のように張り出しているし、頬骨は石畳のようだ。唇はぬめぬめとした桃色で、はき出す息は生臭い。

 人の頭がすっぽりと入りそうな鼻の穴からは、轟々ごうごうと音を立てて台風のような風が出ては入り、出ては入っている。

 だが何よりも印象的なのは、目だ。

 くわっとみひらかれた目は、一度みてしまえばそこから目を離すことができない異様な迫力に満ちている。松の葉のように鋭く太い眉毛が、目の恐ろしさを引き立てている。

「おろかものめ!」

 割れ鐘のような声で、その怪物は松さんを怒鳴りつけた。

「わしをみたのか!」

 松さんは、うなずくことも忘れ、恐怖のあまり、身動きすることもできない。

 だが、そのとき、松さんは、恐ろしいことに気づいた。

 禿頭の巨大な口のなかに、歯がみえる。石臼を乱暴に並べ立てたような歯だ。

 その歯の端に、何かがある。白くて赤い何かが。

 足だ。

 それは小さな足だ。

 人間の足だ。

 足の部分が切り取られ、血まみれになって、怪物の口にくわえられているのだ。

「わしをみてどうする! わしをみるより、自分われの大切な者をみよ!」

 そう言われても、松さんは、小さな足から目を離すことができない。

「わからんのか! おろかものめ! お前のせいで与吉は死んだぞ!」

 身も凍るようなその言葉を浴びて、松さんは振り返った。

 与吉が倒れて死んでいた。

 右足がなかった。

 松さんは気を失った。意識が途絶えるその瞬間、高笑いをする声が聞こえたような気がした。

 やがて目を覚ましたとき、家の外の巨大な車輪は消え去っており、死んだ与吉だけがそこにいた。


8


「ひどい話だ。だけどおかしな点がいくつもあるね」

「ほう。何がおかしい」

「だって、家の外にいた輪入道がこどもの足をくわえていて、振り返ってみるとそれが与吉の足だったっていうのは、どう考えてもおかしいよ」

「なぜじゃな」

「そんな大きなものが、こっそり家のなかに入り込むなんてできないし、第一、松さんがつっかい棒を外して戸を開けるまで、家に入れたはずがない」

「うむ」

「開けた瞬間に飛び込んで与吉の足を食いちぎったとしても、輪入道は家のなかにいるはずで、玄関にいる松さんをやり過ごしてもう一度外に出たというのは、いくら何でも無理がある」

「そうじゃな」

「というか、屋根より大きい輪入道が、家のなかにいた与吉の足を食いちぎれるわけがない」

「まさに、そうじゃ」

「そんな大きなものが、しかも炎を噴き出しているようなものがやって来ているのに、呼びかけられるまで気づかないというのも、やっぱりおかしいよ。窓だって開いてたんでしょう?」

「わらわもそう思う」

「あ、そのとき、天子さんはどうしてたの?」

「最初に犠牲となったおかじの家はのう、松浦地区のはずれにあった。そしてそのころ、〈はふり〉の者の家も松浦地区にあったのじゃ。その家はのちに洪水で流されてしもうたがの。わらわは、〈はふり〉の者が襲われるかもしれぬと思い、家にこもっておった」

「そうなんだ」

「あとで思えば、あのとき、つまり、おかじとおとよが死んだのを知り、あやかしの気配を感じたとき、すぐに村中を探しておれば、二番目の悲劇と三番目の悲劇は防げたかもしれぬ。法師どのはわらわを責めなんだがのう」

「……和尚さんには、日本各地に子孫や眷属がいるんだね?」

「うむ。法師どのは四国の生まれであったが、その子孫は四国で栄え、のちには各地で活躍した。屋島やしま太三郎狸たさぶろうたぬきや伊予の刑部狸ぎょうぶだぬきは直系の子孫じゃし、佐渡の団三郎狸だんざぶろうだぬきも親戚筋にあたる」

「へえーっ。昔はいっぱい一族がいたんだね」

「今も日本中におるぞ」

「ええええっ? そうなのっ?」

「はは。まあ、そのことはよい。とにかく、日本中に一族や眷属がおるのじゃ。そのなかには連絡がつかぬようになっていった者たちもおるが、できるかぎり輪入道についての見聞を報告させた。それに、輪入道を尋問した内容を加え、法師どのは、その正体や特質をおよそみきわめたのじゃ」

「正体は、結局何だったの」

「イタチじゃな」

「え? イタチなんて、どこにでもいるでしょう? 練馬区にもいたよ」

「百年以上を生きたイタチじゃ。めったにおらん。しかも生きた人間の血を吸ったことのあるイタチでなければならぬ」

「うえっ」

「身体の大きさは三尺程度、つまり九十センチぐらいじゃな。持っておる力は、〈射すくめ〉と〈幻覚〉の二つのみじゃ。いずれも人間にだけ効果があり、神霊やほかのあやかしには効果がない。しかも意志の強い人間や、呪術の心得のある人間には効かぬ」

「え? 屋根ほどの大きさがあるんじゃないの?」

「それは〈幻覚〉によってそう思わせておるだけじゃ」

「そうなんだ」

「輪入道は、夜にしか現れぬ。昼にみかけた事例はない。しかも、母と幼い子の家しか襲わぬ。それは無理もないことで、おとなの男と戦えば負ける程度の力しかないのじゃ」

「え」

「実のところ、おとなの女でも、鎌か鉈でも持てば、簡単に輪入道を殺せる」

「そんなに弱い妖怪なんだ」

「うむ。痩せ細って、しわくちゃで、みすぼらしく、いやらしい姿形をしておるそうじゃ。実力ではおとなの女にも勝てぬ。じゃから心を責める。しかも、女親と幼い子のみがおって、少しほかの家から離れておるような家しか狙わぬ」

「今まで聞いたなかで一番弱い妖怪みたいだね」

「わらわの知る限りもっとも弱いあやかしじゃな」

「そんなやつが人を襲うんだ」

「輪入道は、まず家の外から声をかける」

「うん」

「出て行った母親は、貧相なあやかしをみつける」

「うん」

「あやかしをみつけて目を合わせれば、〈射すくめ〉の術にかかってしまう」

「うん」

「そのあと輪入道は、じっくりと〈幻覚〉の術を使う。そして、玄関を開けたら巨大な輪入道に遭い、振り返ればわが子が死んで足がもぎ取られているのを目撃した、という記憶を植え付ける」

「うわ」

「呆然とする母親を尻目に、輪入道は子を食らう。食いにくい時には包丁で手足を切り落とすこともある」

「そういう妖怪なんだ」

「うむ。世の伝えに、輪入道とか、片輪車とか、あるいは朧車おぼろぐるまなどという妖怪があるが、正体はみな同じじゃ。みせる幻覚だけがちがうのじゃ」

「ごめん、天子さん。ゆっくり話を聞いてるうちに、ずいぶん時間がたっちゃった。早く行かないとまずいんじゃないの?」

「いや。急ぐことはない。いずれにしても輪入道は、夜にしか現れん」

「そんな話だったね」

「昼食が済んだらでかける。まず、転輪寺に行って法師どのを起こす。法師どのが起きぬようなら、法師どの抜きで久本家に向かう」

「久本家?」

「有漢地区の久本庄介の家じゃ。庄介は名古屋で自動車会社に勤務しておって不在。家には若い妻と幼いこどもがおる」

「あ、そうなんだね」

「若い女親と幼い子だけが暮らしており、しかも隣の家から離れておるというような家族は、里のなかには今あそこしかあるまい」

 来る家がわかっていて、しかも夜にならないと来ないとわかっているんだから、迎え撃つのはむずかしくない。

 午前中は、それなりにお客さんが多かった。

 未完さんから電話があった。用事ができたので今日は来られないそうだ。

 天子さんは、昼ご飯も作ってくれて、晩ご飯まで作ってくれた。

 俺は童女妖怪に、夕方に輪入道を退治しに行くから、そのときはお守りに入れと言っておいた。

 午後三時ごろ、天子さんは家を出た。

 そのあと、ここに戻ってくるかと思ってたけど、戻って来なかった。

 和尚さんが起きて二人で輪入道を退治しに行ったんだろうか。

 万一天子さん一人きりだとしても、負けるような相手じゃないと思うけど、俺や童女妖怪がいたほうがいいはずだ。

 そして翌朝、つまり九月十日の朝となった。

 天子さんは、やって来なかった。


9


 朝の十時が来ても、天子さんがやって来ない。

 こんなことは一度もなかった。俺が東京に行って留守をした日を除けば、天子さんは毎朝ここに来てくれた。

 そんな天子さんが来ない。

 毎日必ず来てくれた天子さんが、今日にかぎって来ない。

 俺はひどく不安な気持ちになった。

(輪入道との戦いで傷を負った? それとも、まさか……)

 考えてみれば、今回の輪入道が今までの輪入道と同じだという保証はない。というか、たぶんちがう。

 思い出してみよう。いままで出現した妖怪は、

 幽谷響やまびこ

 ふらり火

 こなきじじい

 金霊かねだま

 鉄鼠てっそ

 水虎すいこ

 火車かしゃ

 骨女ほねおんな

 ぬえ

 の九体だ。このうち、〈こなきじじい〉というか〈子無き地蔵〉はあまりに特殊な例だから参考にならない。金霊も、強さについてはよくわからない。

 残りの七体のうち、もともと強力な妖怪だったのは、本家の〈鉄鼠〉〈水虎〉の二体だ。もともとは弱い妖怪だったのが、〈幽谷響〉〈ふらり火〉〈火車〉〈骨女〉〈鵺〉の五体だ。ただし、〈鵺〉は少し強いかもしれない。

 〈幽谷響〉は、溜石の妖気を吸い込むことで、普通の攻撃方法では効かないほど強力な妖怪になった。

 〈ぶらり火〉は、〈荒御霊になりかかっておった〉と天子さんが言ってたから、たぶん強化され変質していた。

 〈火車〉は、和尚さんや天子さんが知っている火車とは、姿からしてまるでちがっていた。

 〈骨女〉もそうだ。〈魅惑〉は、直接さわられなければかからないはずなのに、目を合わせただけでかかった。あんなに巨大化したり、スケルトンを操ったりするのも、天子さんにとっては予想外のことだったみたいだ。

 〈鵺〉も、たぶんそうだ。相手の能力をよく知っているはずの天子さんが不覚を取った。油断だけじゃない。たぶん、相手の力が天子さんの知識を上回ってたんだ。

 じゃあ、今度の〈輪入道〉は、どうだろう。

 〈輪入道〉は、身長が一メートルもない、ごく小さく弱い妖怪で、おとなの女性にも負けるほどだ。

 能力は、〈射すくめ〉と〈幻覚〉の二つだけで、妖怪にはかからないし、意志の強い人間にもかからない。

 それが普通の〈輪入道〉だ。

 相当調査したみたいだから、その情報には信頼がおける。

 だけど、今回の〈輪入道〉は、普通ではないかもしれない。というより、まずまちがいなく普通ではない。

 体が大きいかもしれない。

 力も強いかもしれない。

 その二つの能力は、天子さんにも通用するかもしれない。

 何かほかの能力を持っているかもしれない。

「おさかべ! 出てきてくれ」

「呼ばれて登場。あれ? まだ食事の準備ができてないですね?」

「天子さんが危ないかもしれないんだ。すぐに〈探妖〉を頼む! 対象は天子さん。範囲は」

 範囲はどう指定したらいいだろう。

 結界のなかだけでいいとは思うが、もしみつからなかったらどうするか。

 その場合、明日まで〈探妖〉は使えない。

 考えろ。考えるんだ。

 最悪の事態を想定するんだ。最悪の事態とは何か。それは、妖怪との対決に敗れた天子さんが死んでしまった、という事態だ。でも、それは想定してもしかたがない。それに次ぐ悪い事態は何だ。天子さんが敗れ、〈天逆毎〉の手に落ちた、という事態だ。だが、天逆毎は移動している。だから……

「範囲は結界のなかと、ここから二十キロ以内の天逆川だ。頼む」

 童女妖怪がいつもの儀式をして〈探妖〉を発動した。

「いない……です」

「いない? そんなばかな!」

 落ち着け。落ち着くんだ。

 そして考えろ。なぜ〈探妖〉にかからない?

「おさかべ」

「はいです」

「お前、天子さんが〈隠形〉を使ってても、十メートルかそこらなら探知できると言ってたな」

「できるです」

「じゃあ天子さんが〈隠形〉を使って、一キロ離れてるとしたら、〈探妖〉でもみおとすことはあるか?」

「え? ううーん。そんな実験はしたことないです。たぶん、〈隠形〉を使った相手でも〈探妖〉なら探知できると思うですが……」

「ですが?」

「天狐さまほどのかたが〈隠形〉を使われたら、〈探妖〉でもみおとしたかもしれないです」

 童女妖怪がうなだれた。

「いや、俺が悪かった。あらかじめ天子さんが〈隠形〉を使っているかもしれないことに気づき、おさかべにそういう指示をだすべきだった」

 そうだ。

 いくら童女妖怪の探知能力がすぐれているからといって、きちんと使わなければ望む結果は得られない。こいつも、場合場合に応じて能力の使い方を練習し、工夫してきているはずだ。その能力をきちんと発揮させられなかった俺に落ち度がある。

「おさかべ。どうも天子さんは、一人で〈輪入道〉と戦ったようだ。こんな時間なのに、まだ来ない。こんなことは今まで一度もなかったんだ。これから天子さんを探しに行く。お守りに入ってくれ」

「え? それは一大事なのです」

 童女妖怪が入ったお守りを首にかけ、外出中の張り紙を出すと、俺は自転車に乗って転輪寺に急いだ。


10


 やっぱり和尚さんは寝ていた。

 起こそうとしても、けだるげな生返事を返すだけだ。

 昨日天子さんが来なかったかと訊いても、はっきりした返事がない。

 ということは、昨日天子さんは、一人だけで〈輪入道〉を退治しに行ったんだ。

 はやる気持を抑えながら、俺は久本家に向かった。

「へえ、天子さんですか。確かに昨日きにょう夕方おみえじゃったですよ。お茶をお出ししたら、近頃この辺に不審者が出てるようなので、知らん人が訪ねてきてもドアを開けるなちゅうて、教えてくれました。それでしばらく世間話しとったですけど、急に立ち上がって、邪魔したなあ言いなさって、帰られたですよ」

 やっぱり一人で来たんだ。

 でも、ここから出て、どこに行ったんだろう。

 俺は久本さんの奥さんにみおくられて久本家をあとにした。

 五十メートルほど自転車を走らせてから、思い出した。

「おさかべ、出てきてくれ」

「はいです」

 自転車の荷台の籠のなかに、童女妖怪が出現した。

「あの家に天子さんが、昨日夕方来たんだ。天子さんは、一人で〈輪入道〉を倒そうとしたんだと思う。あの家の近くをしばらく走るから、妖怪の気配がないか、天子さんの気配がないか、探ってくれ」

「ラジャーなのです」

 俺は久本家の前に戻り、そこからいったん西に向かおうとした。

「そこです」

「なに?」

「そこに天狐さまがおられるのです」

 童女妖怪が指さしているのは、久本家を取り囲む生け垣の前、門になっている部分を外に踏み出したすぐ右側だ。

 その気になってみてみると、何かが乗っているように、草が押しつぶされている。

「天子さん」

 小さな声で呼びかけたが、返事はない。

 手を伸ばしてさわってみると、確かに天子さんがいた。腕にさわったので、そのまま先のほうに手を滑らせてゆく。肌にふれた。冷たい。だが死んでしまった冷たさではない。少しさわっていると、温かみが感じられる。

 生きている。

 俺は大きな安心のため息をついた。

「おさかべ。お手柄だ」

「えへへ」

「これから天子さんを連れ帰る。お前はお守りに戻れ」

「了解であります、軍曹どの」

 軍隊式の敬礼をして童女妖怪がすっと消えるのをみながら、今何の漫画を読んでいたかな、と考えた。

 自転車は生け垣の脇に置いたまま、天子さんを負ぶって帰った。帰る途中、天子さんの意識が戻った。

「……心配をかけたのう」

「ほんとに心配したよ」

「すまぬ」

 三人でレトルトカレーを食べて昼食を済ませた。油揚げのないメニューだったけど、童女妖怪は文句をいわなかった。

 未完さんから電話がかかってきて、今日のうちに京都に帰らないといけなくなったので、しばらく会えないけど元気でねということだった。


11


「はじめは転輪寺に行ったあと、こちらに帰ってくるつもりだったのじゃ。ところが転輪寺に客があってのう。法事についての相談じゃ。法師どのに代わってわらわが相談に乗った。それで夕刻近くになってしもうた。〈輪入道〉が現れるのは夜遅くになってからじゃが、万一にもおくれを取るわけにはいかぬ。それに一つ心配があった」

「心配って、何?」

「〈射すくめ〉も〈幻覚〉も、人間には通用する。わらわの結界も、これは防げぬ。ゆえに鈴太は連れて行かぬほうがよいかもしれぬと考えた」

「気づかってくれたことは感謝するよ」

「そう怖い目でみるな。わらわが悪かったと、何度も謝っておるではないか」

「全然怖い目なんかしてないよ」

「まず家に入って、知らぬ者が来ても扉を開けるなと注意した。そして外に出て〈隠形〉で身を隠し、〈輪入道〉を待ち受けた」

「うん。それで?」

「やがて〈輪入道〉が現れた。わらわは〈隠形〉を解いて声をかけた。ここに何しに来た、とな」

「どうして声をかけたの?」

「さあて、自分でもわからぬ。思えばばかなことをした。いきなり倒してしまえばよかったのにのう」

「もしかしたら、五百年前の意趣返し?」

「なに?」

「もちろん、今回現れた〈輪入道〉は、五百年前の〈輪入道〉とは別人だろうけどね。天子さんには後悔があった。自分がもう少し積極的に手を打っておけば、二度目と三度目の惨事は防げたかもしれないという後悔がね」

「それは確かにある」

「だから、ただ倒すのでなく、驚かせ、絶望させて、天子さんの手によって滅びるのだと思い知らせてから倒したかったのかもしれないね」

「……なるほど。そういう気持も、あったやもしれぬ」

「それで、どうなったの?」

「やつの目をみたとたん、〈射すくめ〉にかかった。まさかと思いながらも、最後の力を振り絞って、すぐに飛びのきつつ〈隠形〉を使うた。そのまま体は動かなくなったが、やつはわらわを殺さず、立ち去った」

「なるほど。ひとつ確認しておきたいんだけど」

「何じゃ?」

「〈輪入道〉が近づくのは、遠くから探知できていた?」

「いや。それが、わらわにも油断があったのであろう。かなり近づかれるまで気づかなんだ」

「敵が〈隠形〉を使ってたという可能性はない?」

「何じゃと? いや、〈輪入道〉が〈隠形〉持ちであるとは聞いたこともない」

「普通ならね。でも、〈幽谷響〉も〈ぶらり火〉も〈火車〉も〈骨女〉も〈鵺〉も、普通じゃなかった。溜石の妖気を吸い込んだ弱い妖怪は、強い妖怪になるんだ」

「なん……じゃと」

「だから今回の〈輪入道〉が、普通じゃない能力を持っていても不思議じゃない」

「そういえば、そうかもしれぬ。なんということじゃ」

「ただし俺は、普通の〈輪入道〉も、〈隠形〉か、それに似た能力を持っていると考えてる」

「なにっ」

「天子さん。〈輪入道〉は、母と幼い子だけがいる家を狙うんだね」

「うむ。まことに卑怯なあやかしじゃ」

「どうして、それがわかるんだろう」

「なに?」

「どうして〈輪入道〉には、その家に母と幼児しかいないとわかるんだろう」

「それは、村内では知られたことであろう」

「村内で知られていることを、どうして〈輪入道〉は知ることができるんだ?」

「それは……」

「それは、調べているからじゃないのかな?」

「調べている、じゃと?」

「〈輪入道〉は、昼間は姿をみせたことがないんだったね?」

「うむ」

「その昼間に調べているんじゃないのかな」

「昼間に?」

「そう。〈隠形〉か何かの術を使って身を隠し、こっそりと村のなかを歩き回り、自分にも襲える力弱い獲物を探し回っているんじゃないのかな」

「それは……」

「〈輪入道〉はね、とても臆病な妖怪だと思うんだ」

「臆病?」

「臆病で、小心で、そのくせみえっぱりだ」

「なぜ、それがわかる」

「母子家庭しか狙わないだけでなく、ほかの家から離れて住んでいる母子しか狙わないのは、臆病で小心だからじゃないかな」

「ふむ。では、みえっぱりというのは?」

「ことさら自分を大妖怪にみせている。巨大な車輪に畳四畳の顔に炎の演出までつけてね。松さんとのやりとりなんか、いかにも大物ぶってる」

「……いわれてみれば、確かに」

「自分が偉大で立派だと、思ってほしいんだろうね。結果として、かじさんは自殺してしまったけど、生き残っていたら、さぞ恐ろしい大妖怪として〈輪入道〉のことを語ったろうね」

「正体なぞ知れておる」

「それは、和尚さんや天子さんのように、特殊な情報を持っているからこそ言えるんだ。現に俺は今朝ネットで〈輪入道〉や〈片輪車〉や〈朧車〉のことをちょっと調べてみたけど、ひどくおどろおどろしく強力な妖怪として、各地で伝えられてるね。〈朧車〉なんか、貴族の乗り物だと思わせてる。ここにも劣等感の裏返しを感じると言ったら言い過ぎかな」

 〈輪入道〉と〈片輪車〉は同じ妖怪ではないか、とはネット知識にもあった。ネットでみた情報のなかに、〈輪入道は自分の姿をみた者の魂を抜く〉とあって、これも正しく能力と習性の一部を伝えている。

 〈朧車〉は、普通、〈輪入道〉や〈片輪車〉とは別の妖怪とされているようだ。また、人を食べたり殺したりした話はみかけなかった。

 ただ、大きな車と巨大な顔で人を脅かすという点では似ているといえば似ている。また、〈朧車〉も〈片輪車〉も京都での目撃情報が伝わっている。似たような場所で似たような姿で現れる妖怪なのだから、集めた情報から和尚さんが結論したように、そもそも同じ妖怪ないし同種の妖怪であっても不思議はない。

「しかし、いくら〈隠形〉持ちでも、村のなかをうろつき回るのは大変じゃ。姿は消えておっても、何かがぶつかれば正体は露見する。しかし昼に〈輪入道〉をみたという者はどこにもおらぬ」

「〈輪入道〉は、弱々しくみすぼらしい正体を、昼日中に現したりは決してしないよ。それこそ病的な注意をもって、隠れ続けるさ。それに正体を現しても、誰もそれを〈輪入道〉と思わないんだから、昼に〈輪入道〉をみた人がいないのは当たり前じゃないか」

「そういえばそうじゃ」

「だから、これから俺は、おさかべを連れて〈輪入道〉を探しに行く」

「なんじゃと!」

「今ごろやつは、久本家の近くに潜んで息を殺しているか、近くで姿を消して人の話を立ち聞きしてるだろうね。たぶん、やつはプライドは高いから、いったん襲おうとした久本家を、このままにはしないと思う。それに、探しても、ほかに条件の合う家はない」

「なるほど」

「それに昨夜やつは、天子さんに遭遇したことに驚いて、逃げ帰ってしまった。そのことが悔しくてたまらないはずで、だから、もう一度、久本家に来る」

「ならばわらわも共に参る」

「自転車の速度にはついてこられないでしょ? だからここにいて、俺が電話するのを待ってほしいんだ」

「いや。それはならぬ。そなたが一人でゆくのを許すわけにはいかぬ」

「……しかたないなあ。一緒に行こうか」

「無論じゃ! くっ。それにしても、わらわの同行がしかたないと言われるとは……」

「いや、一晩中倒れてたでしょ? 気づかってるんだよ」

「そ、そうか」

「あちしはお守りに戻っていいですか?」


12


「ちょっと待て、鈴太」

「あ、〈隠形〉を解いたね。ずっと〈隠形〉のままでついて来てって言ったのに」

「つい勢いで出てきたが、やつは〈射すくめ〉と〈幻覚〉を使うのじゃ。わらわでさえ、やつの〈射すくめ〉に抵抗できなんだ。そのうえ、鈴太がそばにきて力を与えてくれるまでは動けぬままであった。まして鈴太では……」

「対処法は、和尚さんが集めてくれた情報のなかにあった」

「なんと」

「意志の強い人間には効かないんでしょう?」

「う。それはまあ、そういうこともあったかもしれぬが」

「まして俺は、敵が〈射すくめ〉と〈幻覚〉を使ってくることを知っている。そしてそれに打ち勝つ決心と覚悟をもって相対するんだ。〈射すくめ〉も〈幻覚〉も、絶対に効かない」

「わらわも、やつの力は知っておったのじゃ。そしてやつを待ち構えておったのじゃ。それでも抵抗することはできなんだ」

「天子さんは、〈輪入道〉の能力は自分には効かないと思い込んでいたじゃないか。その心の油断に付け込まれたんだよ」

「う。それを言われると」

「わかったら〈隠形〉で姿を消して、黙ってついて来て」

「……わかった」

「俺が声をかけるまで、消えたままでいてね」

「…………」

 さて、〈輪入道〉はどこにいるだろう。

 たぶん、久本家のすぐ近くだ。きっとやつはあの家を狙う。だとしたら、わざわざよそを歩き回るはずがない。そんなことをすれば、むだに発見される危険を増やすだけだ。

「あそこの角にいるです」

 案の定だった。

 というか、久本家の生け垣の角を曲がった所にいた。

 いくらなんでも近すぎる場所だ。

「そこにいるです」

 スタンドを立てて自転車を止め、前籠に入れておいた荷物を手に取り、童女妖怪が指し示した場所に歩み寄った。

 なるほど、草が不自然に曲がって押しつぶされている。

「おい」

 自分でもびっくりするような低くて怖い声だ。

「おい、〈輪入道〉」

 小さく息を飲むような音が聞こえたような気がしたけど、気のせいかもしれない。

「そうだ、お前だよ。お前がそこにいることはわかってるんだ」

 じっとにらみつけると、おぼろげながら輪入道の姿がうっすらみえる気がした。

 怒りが込み上げてきた。

「どんな顔をしてるんだろうなあ」

 天子さんを、あんな目に遭わせやがって。

「さぞ驚き、あわてているんだろうなあ」

 こいつめ。

「醜い顔をゆがめて、不安におののいているんだろうなあ」

 ただじゃ許さん。

「お前なんか、ごみくずだ」

 いたぶってやる。

「何の力もなく、臆病で、きたならしく、ちっぽけで、ただ殺されるのを待っているだけの、みじめな妖怪だ」

 徹底的に、いたぶってやる。

「俺をみろ」

 恐怖を味わわせてやる。

「この手に何がにぎられている。そうだ手斧ておのだ。まき割り用の手斧だ」

 忘れがたい恐怖を刻みつけてやる。

「お前を殺す武器だ」


 ギギッ。


 しわがれた甲高い鳴き声が聞こえたかと思うと、そいつは姿を現した。

 小さくて醜い怪物だ。

 その顔には恐怖と憎しみが貼りついている。

 目が合った。

 怪物の姿がふくれ上がってゆく。

 巨大に。

 巨大に。

 たちまち、みあげるほどの大きさになった。

 五メートルはあるだろう。

 か細かった手足は大木のように太くたくましく変化した。

(しまった)

(これは溜石の妖気を吸い取ることで得た能力だ)

(こんな切り札があったとは)

 その手には巨大な棍棒が握られている。

 怪物はその棍棒を振り上げ、容赦なく振り下ろした。

「危ない!」

 天子さんが飛び込んできて、俺を突き飛ばす。

 そして天子さんの脳天は、あっけなく砕かれてしまった。

 俺は衝撃のあまり、叫び声を上げることもできず、口をなかば開けたまま、よろよろと後ずさった。

 そのとき、自転車が目についた。その後ろの荷台に童女妖怪が乗っていない。

 そうか。これは。

「天子さん!」

 俺は大声で叫んだ。

 脳漿を飛び散らせて倒れていた天子さんが、映画のフィルムを巻き戻すかのように立ち上がり、何事もなかったという顔で訊いてくる。

「やっとわらわの出番かえ」

 その服には一滴の血もついていない。

 そして自転車の荷台には童女妖怪が乗っている。

 〈輪入道〉はといえば、醜い顔を恐怖でゆがめたまま、最初の位置から一歩も動いていない。

「わらわを覚えておいでかえ?」

 天子さんが凄絶な笑顔をみせる。

「むだじゃ。きさまの妖術は、もはやわらわには効かぬと知れ」

 〈輪入道〉は、いきなり左側を向いて飛び出そうとした。

 その体を五本の赤いやいばが貫く。天子さんの右手から繰り出された攻撃だ。

 妖怪の体は崩れて消えた。

「何かあったかね−」

 久本の奥さんの声がする。

 この場の騒ぎが、というか俺の叫び声が聞こえたんだろう。

「あ、何でもないですー。ちょっとつまずいちゃって−」

「そうかねー。大事ないんならよかったー」

 俺たちは、家に帰るべく歩き始めた。

 歩きながら反省した。

 弱い相手をいたぶったことを反省していた。

 天子さんの仕返しという大義名分に酔っ払ってたぶんだけ、たちが悪い。

 あのとき、俺はおびえる〈輪入道〉をみて、快感を覚えていた。

 こいつの頭をたたき割ってやる、と本気で考えていた。

 それは、悪い妖怪と、どこがちがう?

 あいつも同じだった。

 あの〈輪入道〉も、やりきれないほど悲しい目をしていた。

 たぶんあいつは、この世を憎んでいた。

 自分をこんなにも弱く小さくみじめな存在として生み出した世を憎んでいた。

 だから母子家庭を襲うのも、幼いこどもを殺して食らうのも、あいつにとっては復讐だったにちがいない。

 俺はあの瞬間、あのおぞましく、きたならしい化け物と同じだった。

 相手をいたぶり、とどめを刺すことに、復讐の快感を感じる、みにくい化け物だった。

 自分の心のなかに、あんな怪物が棲んでいるとは、今日まで気づかなかった。だけどこれからは、そのことを忘れちゃいけない。

「鈴太よ。先ほど、わらわを呼ぶまえ、わずかな時間であったが、振る舞いがおかしかった。あれは、〈幻覚〉にかかっておったのではないか」

「うん。心にあった憎しみが、〈幻覚〉を呼び込んでしまったようだね」

「ほう?」

 それから少しのあいだ、二人は無言で歩いた。

 しばらくして、天子さんが歩みを早め、俺の横に並んだ。

「それにしても、おぬし。実に容赦のない攻め口であったのう」

「いや、それはもう忘れて」

「じゃが、その容赦のなさも、敵に付け込まれたという憎しみとやらも、わらわの受けた仕打ちに対する怒りなのじゃな。わらわは、〈輪入道〉を責め立てるおぬしをみて」

 俺は思わず自転車を止め、天子さんのほうをみた。天子さんも立ち止まって、自転車越しに俺をみた。

「うれしかった」

 どちらからともなく顔を寄せ合い、俺たちは唇だけでキスをした。

「うわっ。せっぷんなのです。生せっぷんなのです!」

 あ、こいつ、まだいたんだ。


13


 帰り道をとぼとぼと歩きながら、俺は考え事をしていた。

 前に天子さんは意外に攻撃的だと思ったことがあったけど、あれはまちがいだった。日常の場面では、いささか攻撃的な態度をみせることもあるけど、天子さんは本質的には守りの人だ。いざという場面になると、守りに入ろうとする。容赦ない攻撃をするには、向いていない人だ。

 たぶん和尚さんは、逆だ。普段は飄々としてるけれど、いざ戦いとなれば、職業的といっていい冷静さで、有効な攻撃方法や手順を考え、淡々と実行するだろう。そこに迷いもためらいもない。殲滅が必要となり、その手段があれば殲滅もするだろう。あの人は、本質的に戦士気質な人だと思う。

 俺はどうなんだろう。

 能力的にいえば、防御にも攻撃にも向いていない。そもそも戦場に立てる人間じゃあない。けれど、天子さんの能力を発揮させるには、俺がそばにいる必要がある。

 あと二つ、溜石はある。あと二度は戦いが続くということだ。

 そのあとはどうなるだろう。

 俺は、じっと待てばいいと天子さんに言った。だけどそれでしのげるとは、俺自身が思っていない。

 たぶん。

 いや、きっと。

 きっと、そのあと決戦がある。

 中途半端な覚悟では臨むことのできない激烈な決戦がある。

 俺はほとんどそのことを確信している。

 帰り着いて一服して、〈東〉の字を書いた。

 今までの苦心が嘘のように、すっと奇麗に書けた。

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