第14話 邪魅
1
「わっはっはっはっはっ。そうか、そうか。水虎と鵺と輪入道をなあ」
「笑い事ではないぞ、法師どの」
「天狐がまんまと、輪入道の〈射すくめ〉に引っかかったとな! ははははは」
「笑い事ではないと申しておる」
「いやいや、すまんすまん。えらい苦労をかけてしもうたなあ。くっくっくっ」
豪快に笑う和尚さんと、仏頂面の天子さん。
そんな天子さんもかわいいと思ってしまう俺。
久々の三人の歓談だ。
鉄鼠を倒したのが、たしか八月十一日だった。
その後和尚さんは休眠状態となり、八月三十日にはたたき起こされてジャイアント骨女を撃破するものの、再び眠りに入った。
そして今日九月十四日、和尚さんは突然目覚めた。
みたところは元気そのものといっていい。ふつう一か月以上も寝たら、すぐには体調が戻らないものだけど、この人にはそんなことは当てはまらないみたいだ。
「しかし、そうすると、妖気の詰まった溜石は、あと二個というわけか」
「そういうことじゃ、法師どの」
「あと二匹あやかしを始末すれば、終わり、とも言わぬが、大きな山を越えるわけじゃな」
「そうじゃ。こうしておるうちにも、満願成就の日が来るかもしれぬ」
「うむうむ。天狐は、ほんとによくやってくれた。鈴太もな」
「法師どのは休みすぎじゃ」
「はっはっはっ。まあ、そう言うな。前は十年に一度ほどしかあやかしは出なんだし、激しい戦闘になるのは何十年に一度じゃった。それがここのところ、立て続けじゃからなあ。鉄鼠は手ごわかったわい」
「無理もないこととは思っておる。しかし、ここまできて、ひでり神さまを害されるようなことがあっては、悔やんでも悔やみきれぬ。どうか最後の力を振り絞っていただきたい」
「うむ」
和尚さんは力強くうなずいた。
千二百年にもおよぶ戦いの日々。それがどんなものであるのか、俺には想像もつかない。けれど無理に想像してみれば、いくつかのことに思い当たった。
一つは、精神的肉体的な疲労は極限に達しているだろうということだ。
これについては、今天子さんが励ましているように、無理にでも気力を奮い起こしてもらう以外にない。
もう一つは、体に染みついてしまったリズムは変えられないということだ。
今年に入ってからの妖怪の出現頻度には、そうとわかっていても体がついていかないんだろう。これには対処のしようがない。この点については天子さんも同じで、新しい状況に思考が追いつかない。
そこに俺の役割がある。
俺は今年の春からの状況しか知らない。その俺の目で危険をみわけて、和尚さんや天子さんに適切なアドバイスをすること、それが俺の役割だ。
前向きに考えれば、水虎戦、鵺戦、輪入道戦を和尚さんがスキップしたため、和尚さんの体調は、それだけ整っているはずだ。エースを温存しておいて、残りメンバーでこの三つの戦いをしのぎきったようなものだ。
だから、これから出現する最後の二つの妖怪に、万全とまではいえなくても充分に休養を取ったエースを当てることができる。
ただし、そのあと、何が起きるかは、俺にもわからない。
わからないけど、何かが起きる。
それまでと全然ちがう何かが。
それまでに、ひでり神さまが石を積み終えてしまえばいいんだけど、そういかなかった場合に備えておく必要がある。
それにしても、天逆毎の手の内を知りたい。
溜石を使って結界のなかに妖怪を生み出し続けるつもりだったということはわかった。その妖怪というのは、もともと強力な妖怪である場合もあるし、そうでない場合もある。そうでない場合は、強化された状態で出現する。そんなものが暴れ回ったら、結界のなかには混乱が起きる。そして妖怪を倒したとしても妖気はたまっていき、たまった妖気によって結界が壊れてしまう。
つまり、結界のなかに混乱をもたらし、結界を破壊する。それが天逆毎の狙いだということはまちがいない。
そのあとがわからない。
ひでり神さまを抹殺するというようなことは、相当強力な妖怪でも不可能らしい。しかし、天逆毎の目的がひでり神さまの抹殺である以上、必ず何かの手段が用意されているはずだ。
その何かとは、何か。
それがわかればいいんだが。
2
九月十五日になった。
今日も、溜石には変化がない。
妖気が詰まった溜石は、あと松浦地区と土生地区にある二つだけだ。
最後の二体。
どんな妖怪が現れるんだろうか。
今日はやたら来客が多い。食事当番は俺だったけど、昼食はそうめんで済ませた。
山口さんは、毎日やってくる。配達を頼むことはなくて、胡椒だとかワサビだとか、ちょっとした物を買っては持って帰る。最近の山口さんのお気に入りの話題は、俺の東京での生活ぶりだ。少しずつ、俺の過去について質問しては、知識を蓄えている。そんな知識が何かの役にたつことはないだろうけど。
習字のほうは、〈東西南北〉という四字になった。四つ字を書くと、一度書けるようになったはずの〈東〉という字がうまく書けない。
「よく手本をみて書いてあるのう。じゃが、みえておる部分と、みえておらん部分がある」
「みえていない部分?」
「〈東〉という字は、最後に左に払い、右に払って完成する。この左払いを〈
「〈りゃく〉と〈たく〉?」
「こういう字を書く」
天子さんが、〈掠〉と〈磔〉を書いてみせてくれた。
「まあ、呼び方などはどうでもよいがの。おぬしの左払いは、払おうとする気持が強すぎる」
「お手本のように、すぱっと切れ味のいい線で書きたかったんだ」
「それはこの左払いの一部分しかみておらぬ。今、左払いのみを書いてみせるゆえ、よくみておれ」
「……ほんとだ」
「わかったかえ」
「はねる前に、すうっとまっすぐ筆を引いてる」
「そうじゃ。そこに注意して、自分で書いた字と手本をみくらべてみよ」
「全然ちがう」
「であろう」
「なるほどなあ」
「今までは、思い込みでみておったから、そこがみえなんだのじゃ。今度は〈東〉という字の全体を書いてみせるゆえ、そのなかで左払いをどう書くかを、よくみるのじゃ」
「……あ」
「どうであった」
「そんなふうに、ぐりぐり筆を紙にこすりつけてから左に払うんだ」
「ふふ。力をためておるのじゃ。少し大げさにやってみせたが、さらっと書くときにも、この心持ちをわすれてはならぬ」
「うん」
「さて、筆の先を〈
「え」
「上側か、中側か、下側か」
「……わからない」
「つまり、みておるつもりでも、きちんとはみえておらんのじゃ」
「うん」
「これから、手本をみるときにも、筆先がどこを通っておるか、気をつけてみることじゃ」
「うん」
いろいろと教わり、自分でも工夫して書いていくうちに、手本の字に最初は気づかなかった美しさがあるのがわかってきた。
そのうち、足がしびれてきたので一服した。天子さんがお茶を淹れてくれた。
「そういえば天子さん」
「ん?」
「うちはもともと神主だったんでしょ?」
「神主というのとはちがうが、神社の守であり、神官の役目もしておったの」
「どういうわけで乾物屋にジョブチェンジしたの?」
「ああ、それか。それはな」
天子さんの説明によると、〈はふりの者〉の初代は弘法大師さまの手配りにより、地方豪族の娘と結婚し、この地に一家を構えた。
形の上では、豪族の支配地のなかにあるわけだけど、
それだけでなく、生活に困らないよう、また集落として成り立つように、農人や工人がつけられた。
里には豪族から定期的に献納物が届けられた。その中心になったのが塩をはじめとする乾物だ。この土地では生産できない貴重な品々が下賜された。
そうした乾物は〈はふりの者〉に届くわけだけれど、〈はふりの者〉は、それを里に住む人々に分け与えた。
やがて豪族は力を失い、支配者は変わっていったけれども、〈はふりの者〉は、里を守り維持できるだけの経済力と影響力を持つようになっていた。
時代が変わっても、〈はふりの者〉が乾物を得て、それを人々に分け与えるという形は長いあいだ維持された。そのことに多大な費用がかかる時代もあったが、それができるだけの財的基盤は揺るがなかった。
近世となり幕藩体制が成立するなかで、村は拡大し、寺社領は縮小され、村人全体の生活について〈はふりの者〉が責任を負うこともなくなった。だが、村人たちは、古くからの習わしを守りたいと考え、流通統制の対象とならないわずかばかりの乾物を、年に三度、羽振家当主から授けられる習慣が成立していった。
明治に入り、村には商店を営む者もでき、人口移動もあり、乾物授与の習慣はいったん失われた。ところが、明治二十六年に大洪水が起き、村は壊滅的な被害を受けた。そのとき羽振家は食料を買い集めて村人に配った。やがて村は復旧を始めるが、当時の流通事情のもとでは、家財を失った村人が、必要な乾物を各家で購入することが困難だった。そこで羽振家では、定期的に大量の乾物を取り寄せ、それを安価に販売するようになり、村は復興を遂げてゆく。
これが羽振家が乾物屋を営むようになった経緯だということだった。
天子さんは、夕食のあと、すぐに帰ろうとはしなかった。ちょっと落ち着いた夕方のひとときを天子さんと一緒に過ごすのは、とても幸せな時間だ。童女妖怪も、夕食のあと寝転がって漫画をみながら、ちらちらとこちらをみていたりする。何を期待してるのか知らないが。
雨が降ってきた。
その雨のなかを天子さんは帰って行った。
3
「妖気の抜けた溜石が十一個になりましたです! 新たに抜けたのは土生地区の溜石です。出現した妖怪は、
「邪魅じゃと?」
「天子さん。その〈じゃみ〉とかいうのは手ごわい妖怪なの?」
「わからぬ」
「え?」
「たぶんこういう字を書くとは思うのじゃが」
天子さんは〈邪魅〉という字を書いてみせてくれた。
「言葉としては聞いたことがあるような気がする。しかしそういう名のあやかしがおると、はっきり聞いた覚えはない。長壁は、邪魅というあやかしを知っておるか?」
「名前だけは知ってるです。でも、姿形も能力も知りませんです」
「ふむ。とにかく転輪寺に行こう。長壁」
「はいです」
「ご苦労じゃが、お守りに入って同行してくれ」
「わかりましたです」
「俺も行くよ」
「もちろんじゃ。わらわがお守りを持つわけにはいかぬからのう」
「え? どうして?」
「鈴太よ。長壁はおぬしに加護を与えた。じゃからおぬしが持つお守りに入ることができるのじゃ」
「あ、そうなんだ」
「おぬしに加護を与える前なら、面倒ではあるがあの軽石のお社を持ち運べば、わらわにも長壁を移動させることもできた。しかし今となっては、長壁を移動させるのは、おぬしにしかできぬ」
4
「邪魅じゃと?」
「法師どのはご存じか?」
「ううむ。名前ぐらいは聞いたことがある。邪魅のしわざではないかという怪異が起きた話は耳にしたが、はっきりした正体は知らんのう」
「法師どのでも知らぬかえ」
「たしか
「なにっ」
「〈から〉というと、中国ですね」
「鈴太。すまぬが……」
「わかった。ひでり神さまの所に行ってくる」
「頼む。わらわたちはここで待つゆえのう」
「うん」
5
「ほう。邪魅とな。これはまた」
「ご存じですか」
「いにしえの
「えっ」
「邪魅の力は神霊や妖怪には効き目がない。効くのは人間だけじゃ」
「人間だけ、ですか」
「邪魅は醜悪な姿をしておるが、どういうわけか人間には、きわめて好ましい姿にみえる」
「好ましい姿」
「うむ。姿は妙齢で魅力的にみえる。そして、その声も匂いも、たまらぬほど好ましく感じられる」
「たくさんの人がいっぺんにみても、みんなそうなんですか」
「うむ」
「暗示をかけているんですか?」
「暗示というようなものではない。そういう性質なのじゃ」
「性質?」
「暗示をかけようと思えば、いくばくかの時間はかかる。しかし邪魅の姿は、みた瞬間に好ましい姿に映る。そういう性質であるとしか、言いようはあるまい」
「なるほど。人間にはそうみえるんですね。ということは、和尚さんや、天子さんや、おさかべには、ちゃんと正体がみえるんでしょうか」
「うむ。そのはずじゃ。邪魅は、人と話をするのが大好きでのう。そして話をするうちに、相手の人間の気持ちを悪いほうに引っ張ってゆく」
「はい」
「そしてその人間が、誰かを恨む言葉、誰かを憎む言葉、誰かを呪う言葉を発したとき、邪魅は毒の息を吹きつける」
「はい」
「その毒の息を吸い込んでしもうたが最後、その人間は、誰かを恨んだり、憎んだり、呪ったりすることしかできなくなる」
「え」
「それは、毒の息をはき出させるまで続く」
「それは……」
「邪魅というのは、善いことや正しいことが大嫌いでなあ。次から次へと、人に毒の息を吹き込んでゆく。毒の息を吸い込んだ者が増えてゆくと、仲間たちのあいだはぎすぎすしてゆき、連携など取れなくなってしまう。そうなれば戦いどころではない」
「うーん。毒の息を解除する方法はないんでしょうか」
「邪魅に吸い取らせればよい」
「素直に言うことを聞くやつではないようですが」
「うん。何か特別なたくらみでもないかぎり、そんなことはしないじゃろうな」
「ほかの方法はないんですか」
「人間軍は、苦心惨憺して、それをみつけた」
「どんな方法ですか」
「桃をぶつけるのじゃ」
「もも? 果物の桃ですか?」
「そうじゃ」
「そんなことで……」
「誰がどうやってみつけた方法かは知らぬが、確かに効果があったと聞いておる」
「そうなんですね」
「ただし、毒の息を追い払う前に邪魅を滅してはならぬ」
「えっ」
「邪魅を滅ぼしてしまうと、毒の息は帰る場所がなくなるので、宿主の体から出ていかなくなる」
「邪魅はどうすれば倒せますか」
「どんな方法でも倒せる。戦う力はあまり強くない」
「邪魅の毒の息を吸ってしまった人は、みてそうとわかりますか」
「わからんのじゃ。私たちが参戦したとき、人間軍は崩壊寸前であった。邪魅はすぐにみつかったので滅ぼしたが、心がゆがんだまま戻らぬ者たちがいた。しかしその者たちを私がみても、普通の人間と何の変わりもない。みるだけで知るには、特別な力がいるのじゃろう。長壁どの」
「は、はいでごじゃりますれす」
部屋の隅っこにはいつくばったままで童女妖怪が返事をした。
「そなたならみわけられるかもしれぬのう。そうでなくても〈探妖〉なら、毒の息に侵された者を、それと知ることができようのう」
「は、はいぃぃ」
「緊張しすぎだ」
「お前が緊張しなさすぎなのです」
「ほほほほほ」
「邪魅を倒したあと、毒の息を吸った人たちを、もとに戻すことはできたんですか?」
「できた。ただしそれは三十日間小屋のなかに閉じ込め、桃の木を焼いた煙で燻しながら、仙術の使い手が五人がかりでやっとはき出させたのじゃ。さらに毒の息を納める特別な壷を用意してあった」
「それは……まねできませんね」
「今となっては、あのような術を知っておる者もあるまい」
「わかりました。ありがとうございました」
「いや。話ができて楽しかった。近頃は体調がよくてなあ」
「それはよかったです」
「です」
「それはそうと、今月のはじめ、
俺は、前回ひでり神さまを訪ねて以来のこと、つまり骨女のことと、鵺のことと、輪入道のことを話した。
「なんとまあ、えらいことであったなあ。しかし、法師どの抜きで鵺や輪入道を払いなさったか。たいしたものじゃ」
「和尚さんも、もうすっかり復調しました。どうぞご案じなく」
「心強いこと。ほほほほ。それで結局、妖気のこもった溜石はいくつになったのかのう」
「あと一つです」
「おお」
「まずはこの邪魅を何とかしなければいけませんが、それが済めば、いよいよ最後の溜石です」
「ありがたいことじゃなあ。あなたたちには苦労をかける。一日も早くお役目が終わるよう、私も油断なく務めます」
6
「桃、か。なるほど。古来、桃は邪気をはらう神聖な呪物であった」
「え。そうなの?」
「おぬし、
「何それ」
「知らんのか?」
天子さんはあきれながら説明してくれた。
イザナギとイザナミの夫婦神は、
イザナギはイザナミに、一緒に地上に帰ってほしいと願うが、死者の国の食べ物を食べてしまった自分はもう生者の国には帰れない、と拒絶される。しかし諦めずに懇願するイザナギに、イザナミは、では黄泉の国の神々と相談するので、そのあいだ何があっても自分の姿をみてはならない、と告げる。
ところが、あまりにも長いあいだイザナミが戻らないことに不安を感じたイザナギは、櫛の歯に火をつけて暗闇を照らし、
あさましい姿をみられてしまったイザナミは怒り狂い、逃げ出したイザナギを殺そうとして、まず
イザナギは、この世とあの世の境目である
最後にはイザナミ自身が追いかけてくるが、イザナギは黄泉比良坂に
桃の呪力により危機を脱したイザナギは、桃を祝福して
「中国にも、
「せいおうぼ? どさくさん? 与作さんとはちがうんだね?」
「西王母は、西方の
「なんか孫悟空のお話に出てきたような気がする」
「東海の度朔山には桃の大樹があり、東北に三千里伸びた枝の下に、死者の霊魂が出入りする門があるという。そこから、春節には桃の板に神霊の名を記して門の脇に置いてその年の安寧を祈願するようになり、これが日本に伝わって門松の風習が生まれたのじゃ」
「へえー。門松は、もとは桃の板だったんだ」
「邪魅の話に戻してよいか」
「これは法師どの、失礼した」
「取り憑かれた者らから毒の息とやらを追い出すまで、邪魅を滅してはならぬ、とあのかたがおっしゃったのじゃな」
「はい。昔、邪魅を倒したあと、毒の息を吹き込まれた人たちを三十日間小屋に閉じ込めて、桃の木の煙で燻し、仙術を使う人が五人がかりで追い出して、特殊な壷に封じたそうです。今ではそんな術を知っている人もいないだろうと」
「そんな術は知らんのう」
「わらわにもわからぬ」
「ということは、今もし邪魅を滅ぼしてしまえば、毒の息に取り憑かれた者らが、生涯そのままということになるのか」
「すでに取り憑かれた者がおるとしての話じゃがな。しもうたな。邪魅を探知したとき、すぐに倒してしまえばよかった」
「ばっはっはっ。その時点ではそういう判断はできなかったであろうよ。どのような危険な力を持ったあやかしか、天狐にもわしにもわからなんだのじゃからなあ」
「それはそうじゃな」
「ううん。どんなものかのう。性格が悪くなるだけというなら、そう大きな害はないかのう」
「いや。憎しみが募れば争いになる。家族同士で殺し合うようなことにならんともかぎらぬ」
「すぐにすぐ、あのかたのお役目の妨げになるようなことはあるまいがのう」
「法師どの。取り憑かれた者らを見捨てるようなことをすれば、あのかたがお怒りになるぞ」
「それはいかぬ。やはり放っておくわけにはいかんか」
「いかんであろうなあ」
「天弧よ。ご苦労じゃが、ようすをみてきてくれぬか」
「わかった。法師どのは、どうする」
「これから法事じゃ」
「そうであった」
「わっはっはっ。そういうわけじゃから、長壁どの、よろしゅう頼むぞ」
「はいです」
「鈴太ものう」
「はい」
7
谷本家。
ここが、朝、童女妖怪が、邪魅がいると言った場所だ。
「さて、どうしよう」
「なかに入ってみるしかあるまい。インターホンを押してみよ」
「うん」
「いや、待て」
「え?」
「聞こえぬか、この声が」
家のなかから大声で怒鳴り合うような音が聞こえてくる。
そしてその音は、玄関のほうに近づいてくる。
「ただごとではないのう。ドアを開けよ」
「うん」
俺がドアを開けた。
するとそこに何かが飛んできた。
「うわっ」
飛んできた何かは、若い男の人だった。
年配の人が玄関口に立っている。すごい怒りの形相だ。
この若い男の人は、年配の人に突き飛ばされたようだ。
「亮介! この親不孝者! 今日という今日は勘弁ならん!」
「こっちのセリフだ、おやじ! えらそうにしやがって。うざいんだよ! どっちが強いか思い知らせてやるぜっ」
そう言いながら、若い男の人は、年配の男の人につかみかかっていった。
拳で殴りつけ、足で蹴飛ばす。
年配の男の人も負けてはいない。手に持った棒のようなもので、若い男の人を打ち据えている。
「これはいかん」
天子さんは、玄関口に上がり込むと、若い男の人の背中に手でふれた。
とたんに若い男のひとは、へなへなとへたり込んで、その場に倒れた。
「お前たちは何だ! 何をしに来た!」
年配の男の人が、俺たちをにらみつけて問いただした。
天子さんは、それには答えず、年配の男の人にすっと近寄って胸に手を当てた。
すると年配の男の人も、床に倒れた。
「こ、殺したの?」
「霊気を当てただけじゃ。時がたてば目覚める。奥のほうもうるさいのう」
天子さんは、つかつかと奥に進んでゆく。
どうでもいいけど、靴は脱いだほうがいいんじゃないだろうか。
台所でお母さんと娘と思われる二人が大げんかをしていた。部屋のなかはむちゃくちゃだ。
天子さんは、この二人も眠らせてしまった。
「こんな技が使えるんなら、骨女のときも、宗田哲生さんや浩一さんを眠らせちゃえばよかったのに」
「眠らせたあと、どうなる」
「え?」
「結局、同じことであろう」
「ああ、まあ、そうだね」
「この場合は、とにかく眠らさねば、お互いがお互いを傷つけてしもうたであろう」
「確かに」
「しかし、この家には妖気を感じぬ。長壁、どうか」
「今眠らせた四人のほかに、奥の部屋に二人、よごれた気を持つ人が寝てますです。でもこの家には、邪魅らしき気配はありませんです。隣の家なのです」
「なに」
「隣の家に、邪魅らしき気配がしますです」
8
松本家。
ここに邪魅がいるらしい。
谷本家とは、田んぼ一つを隔てたお隣さんだ。
「なるほど。おるようじゃな。ここまで来れば、わらわにもわかる」
この家には、インターホンはないようだ。古めかしいつくりの家だ。
天子さんに言われて、俺は声をかけた。
「こんにちはー」
返事がない。
でも、奥のほうに人がいる気配がする。
「こんにちはー!」
腹に力を入れて、大きな声を出した。
少しして返事があった。
「はあーい」
玄関に出てきたのは、四十歳ぐらいの女の人だ。
「あれ、天子さん。それに、大師堂さんまで」
この女の人は、俺を知っている。
だけど、俺は、この女の人を知らない。
誰だ?
「ヨウコさん、久しぶりじゃ。ご主人のコウキチさんや、お子さんのカネヨシくん、ミドリさんは、お元気かの」
説明調のセリフ、ありがとうございます。
ほんとに俺の心を読んでない?
「はいはい。みんな元気にしておりますよ」
「そうか。実は今日は、この家のお客さんに用事があっての」
「えっ? お客さん? というと、チェリーさんですか?」
「チェリー? いや、名前は知らぬが、みたことがないほどの好人物じゃ。それこそ、会った瞬間誰もが気に入るような人じゃ」
「じゃ、チェリーさんにまちがいないです。まあ、どうしてチェリーさんがわが家にいることをご存じなの?」
「いつチェリー殿は、この家に来たな?」
「今朝です。昨日夕方から谷本さんのお宅に来ておられたんですけど、用事があって私が谷本さんの家に行ったときお会いして、次はわが家に来てくださいとお願いしたんです。そうしたら今朝がたお越しくださって、今も今でお話を聞かせてくださっているんです。もうそれは素晴らしいお話ばかりで」
「会わせてもらえるかの」
「ええ、ええ。それは、もう。チェリーさんも、この村でいろんなかたにお会いしたいと言っておられましたから、きっと喜ばれますよ。さあ、おあがりください」
天子さんと俺と童女妖怪は家に上がった。もちろん、ヨウコさんの目に映っているのは、天子さんと俺だけだ。童女妖怪がみえるのは、霊感とでもいうべき特別な感覚を持った人だけなんだ。
ヨウコさんに案内され、俺たちは家の奥の部屋に進んだ。
「神籬天子さんと、大師堂さんがおみえですよ」
そして、その部屋に入るなり、そいつの姿をみた。
醜悪そのものの姿だ。
人間と同じぐらいの大きさだが、人間ではない。
全身が毛で覆われているところからすれば、ある種の猿ににていなくもない。
オランウータンのようなやつ、といえば近いだろうか。
ただし、オランウータンのようなふさふさした毛並みじゃあない。
ごわごわとしてきたならしい毛だ。
そして、顔ときたら。
妙に人間に似たところが気持ち悪い。
分厚い唇。
はれぼったいまぶた。
薄笑いを浮かべたような目。
そして顔中を覆っている、かさぶたのような不気味な毛。
あらかじめ覚悟をしているのでなければ、思わず悲鳴を上げてしまいそうなご面相だ。
こいつが邪魅なのか。
「けけけっ。また餌食がやってきたかい。そっちから出向いてくれるなんて、ご苦労さまさまだぜ」
声も実に不愉快な響きだ。神経にさわる。
「おお、チェリーさんが喜んでおられる。天子さん、よく来てくださった」
人のよさそうな笑顔を浮かべて、年配の男性が言った。この人が、コウキチさんなんだろう。
そして、怪物の両隣に座っているのが、カネヨシくんと、ミドリさんなんだろう。
「けけけっ。この家のやつらは、虫ずが走るぐらい仲良しこよしだ。だけどみてろよ。一日もしないあいだに、ののしりあい、殺し合うようになるぜ」
「ああ、素晴らしいことですね」
「本当に、チェリーさんのお言葉には含蓄があるわ」
ひどいことを言われているのに、カネヨシくんとミドリさんは、うっとりと怪物のほうをみている。すっかり思考が汚染されているんだろう。
「ということは、まだ仲良し家族であるのじゃな」
天子さんの言葉を聞いて、怪物は、ぎょっとした顔をして天子さんの顔をみつめた。
「おめえ、俺様の魅力が通じねえみてえだな」
浮かんでいた薄笑いは消え去って、憎々しげな顔つきになった。
「そこのちびもだ。おめえら、人間じゃねえな?」
「みてすぐにわからないとは、情けないことじゃのう」
「俺様の縄張りに、何をしに来やがった」
「何をしに来たと思うのじゃ、邪魅よ」
「げっ」
怪物は突然立ち上がって、俺の横をすり抜けて廊下に走り出た。
だがそこで何かにぶつかってひっくり返った。
よくみると、空中に薄い緑色の透明な壁がある。
障壁だ。
天子さんが障壁を張って、邪魅を閉じ込めたんだ。
邪魅はすぐに起き上がって逃げようとしたが、どの方向を向いても、三歩以上は進めない。障壁に閉じ込められているのだから、その外には出られないのだ。
「くそっ。出せ! 出せっ! 俺様をここから出せ!」
「おお、なんと素晴らしい声だろう」
「あなた、チェリーさんの叫び声を聞いていると、こちらも元気づけられますね」
「こんなことしやがって、ただで済むと思うなよ!」
「なんて独創的なシャウトだ。チェリーさんは一流のアーティストだね」
「コンサートをなさったら、武道館も満員にできますね」
「お前ら! そいつを倒せ! その女をやっつけるんだ! そして俺様にかけられた術を解かせろ!」
邪魅は盛んに悪態をついて、松本家の人たちに、天子さんを攻撃させようとする。ところが松本家の人たちは、ただうっとりとして邪魅を賛美している。
松本家の人たちの、あまりに奇妙な反応に、俺はとまどいしか感じない。
「鈴太よ。どうやら、邪魅には人を思い通りに操る能力があるわけではないようじゃの」
「う、うん。これも一種の洗脳能力なんだろうけどね」
「ならば、いったんこの家を出るぞ」
「うん」
9
「取りあえず、桃を手に入れなければならぬのう」
「あ、そういえばそうだね」
「一人に一個いるのじゃろうかなあ。それとも一個の桃で、全員を清められるのか。それはあのおかたに聞かなんだか?」
「あ、聞いてない」
「一人に一個とすると、谷本家の六人と、松本家の四人とで、十個いることになる」
「いや、谷本家の人の分は六個いるだろうけど、松本家の人の分はいらないんじゃないかな」
「うん? なぜじゃ?」
「だって、松本家の人の息は、黒くにごってなかったからね」
「何のことかわからぬ」
「え? さっき谷本家を訪ねたとき、お父さんも息子さんも、お母さんも娘さんも、口から黒い息をはいていたじゃないか。あれは、邪魅の毒の息を吸わされた人だからなんじゃないの?」
「黒い息など、わらわにはみえなんだ」
「えっ?」
「長壁、そなたはどうじゃ」
「あちしにもみえなかったです」
「ええっ? あんなにはっきりみえたのに?」
「ふむう。まあよい。いずれにしても桃がいる」
「それと、天子さん」
「うん? 何じゃ」
「ほかの被害者はいないんだろうか」
「ほかの?」
「昨日の夕方から、邪魅は谷本家にいたらしいけど、その前にもどこかにいた可能性が、まったくないとはいえない」
「……そういえばそうじゃな」
「たぶん、誰かに会っていたとしても、毒の息を吸わせるには至っていないと思うんだけど、でもわからない」
「確かにそうじゃ」
「谷本家には六人しかいなかったけど、誰かが訪ねて来ていて毒の息を吸わされているかもしれない」
「ううむ。考えすぎであろう」
「そうだとは思うんだ。だけど確認したほうがいい。もし、取りこぼしがあったら、その人は死ぬまで毒の息を抱え込んでしまうよ」
「確認するといっても、どうやって確認できる」
「夜中を過ぎれば、また〈探妖〉が使える」
「あ」
「おさかべは、実際に毒の息を吸った人をみた。それと同じものを体に取り込んだ人を探索すればいいんだ」
「……なるほど。その通りじゃ。長壁、できるか?」
「はいっ。できますです」
「よし。ならば帰ろう」
「先に転輪寺に寄って報告しなくていいかな」
「和尚は檀家の法事に出ておるはずじゃ。行くとしても夜になってからじゃな」
10
俺たちが家に帰るのとほとんど同時に、一台の乗用車が乾物屋にやって来た。
「あら、ちょうどよかったみたいね」
未成さんだった。
「次女の夫が笠岡農協に勤めててね、清水白桃を送ってくれたのよ。だからお裾分けに来たの」
「えっ?」
「ふふ。鈴太さんにはお世話になってるしね。これからも長い付き合いになりそうだし」
「妙なプレッシャーをかけるのはやめてください。白桃って、桃ですよね?」
「もちろん。桃のなかの桃よ。最高においしいんだから」
「いえ、おいしくなくても桃ならいいんです」
「なんか引っかかる言い方ね」
「今、とっても切実に桃が欲しかったんです。ありがとうございます!」
「あら、まあ。そう言われると、持ってきたかいがあるわ。本当は、もう白桃の旬は過ぎてるんだけど、最近、遅く完熟する白桃ができてきたらしいの」
「へえ。そうなんですか」
「もっとも今じゃ、真冬に熟する桃だってあるしね」
「ええっ? 真冬に桃ですか」
「そうそう。便利な時代ね。じゃあ、二箱置いていくわね」
こうして、三十個の桃を、俺たちは手に入れたのだった。
11
夕方に、一度俺は転輪寺に行ったけど、和尚さんはまだ帰っていなかった。
そして、午前零時を過ぎたとき、童女妖怪は〈探妖〉を使った。
「毒の息を帯びてるのは、六人だけなのです。一か所にかたまってます。昼間行った、あの家なのです」
「よし。では、行こうかの」
「ええっ? 真夜中だよ?」
「うむ。それはわかっておる。しかし、眠らせた者たちが、いつ目覚めるかわからぬ。それに、本当に桃で毒の息が抜けるかどうか、早く確かめる必要がある。松本家のほうも、いつまでも放ってはおけぬ」
「確かにそうだね。じゃあ、行こうか」
「長壁」
「はいっ。お守りに入りますです」
「頼む」
12
谷本家に上がり込んだ俺たちは、堂々と電気をつけ、奥の座敷に移動した。
ここに六人を寝かせておいたんだけど、みんなそのまま寝ていた。
俺は桃を一個取り出して紙包みを取り、ご主人の鼻先に突き付けてみた。
するとしばらくして、黒いもやもやした塊が鼻から噴き出して、体の外に飛び出した。
ふよふよと部屋のなかを浮遊していた黒い雲のようなものは、すっと壁に溶け込んで消えた。それは松本家のある方角だった。
同じ桃を、今度は奥さんの鼻先に近づけた。
やはりしばらくすると黒い雲が噴き出してきて、松本家の方角に消えた。
「鈴太よ。どうなのじゃ」
小さな声で天子さんが訊いてくる。
「え? みてたでしょ。大成功だよ」
「確かに、この二人からは、毒の息の気配が消えたです」
「なに?」
反応のおかしな天子さんは取りあえず放置しておいて、俺は残り四人の毒の息を追い出した。
「終わったのかえ?」
「うん。終わった。もうここの六人はだいじょうぶだ」
結局、桃は一個でよかったみたいだ。
「その通りなのです」
「ふうむ。では、わらわは松本家に行き、邪魅を始末してくる。表の田んぼの横の道で会おう」
「わかった」
月はほとんど満月に近い。とても美しく大きな月だ。そして星々は美しく輝いている。満天のほしのもと、俺は天子さんが仕事を終えて出てくるのを待った。
「待たせたのう」
「あ、お帰り」
天子さんは、〈隠形〉で身を隠し、松本家に忍び込んで、結界を解いて邪魅を滅ぼしたわけだ。たぶん、あの爪で切り裂いたんだろう。そしてすぐに〈隠形〉をかけ直し、家を出て、ここまで来たわけだ。
「すべては終わった。明日、一緒に法師どののもとに参り、報告をしておこう」
「うん」
「わらわはここから帰る。おぬしもここから帰れ」
残念ながら、月夜のデートとはいかないみたいだ。でも、天子さんも疲れてるんだろうから、しかたない。
俺は天子さんのそばに近づいて、顔を寄せた。
天子さんは、顔を上げて目を閉じた。
二人はそっと唇を合わせた。
月と星だけが、二人の姿をみている。
もしかしたら、お守りに入った童女妖怪もみているかもしれない。
13
翌日、俺と天子さんは、童女妖怪の入ったお守りを持って、転輪寺に行った。
邪魅を倒した報告をすると、和尚さんは大いに喜んでくれた。
そのあと、天子さんは、奇妙な質問をした。
「鈴太よ。長壁の着物の柄がみえるかの」
「え? もちろんみえるよ」
「どんな柄をしておる?」
「どんなって、何かの花だよ。花びらが三枚あって、おしべだかめしべだかが三本突き出てる」
「そうか。やはりの」
「これは驚いた。毒の息がみえたというので、奇妙なことじゃとは思うだが、まさかのう」
天子さんと和尚さんが、何についてかわからないけど、納得し合っている。
いったい何について話してるんだろう。
「鈴太よ」
「うん」
「そなたは
「しんがん?」
「真実の眼と書く」
「真実の、眼?」
「そうじゃ」
「それはいったい、どういうものなの」
「おぬしは、あやかしをみることができる」
「うん」
「それ自体、すでに特殊な能力なのじゃ」
「うん。でも未成さんや未完さんもみることができるじゃないか」
「そうじゃ。あやかしをみることのできる目を持つものは、珍しくはあるが、それなりにおる」
「うん」
「ただし、おぬしの目には、それ以上のものがみえる」
「それ以上のもの?」
「骨女と最初に遭うたときのことを覚えておろう」
「骨女?」
「あのとき、おぬしは言うた。〈あんな骨なんかにたぶらかされて〉と」
「ああ、あれ。最初にみたときには、可憐な女の人にしかみえなかったんだ。だけど逃げだした後ろ姿をみると、骸骨だったからね。骸骨が、ぴょーん、ぴょーんと跳んで逃げていった。あれには驚いた」
「わらわには、逃げる姿もおなごにしかみえなんだ」
「えっ?」
「骨女の擬態は、ふつうみやぶれるものではない。たとえあわてて逃げ去る最中であってもじゃ」
「ええっ?」
「じゃが、おぬしにはみえた。骨女の正体が」
「みえたよ? 誰にでもみえたんじゃないの?」
「鈴太よ」
「うん?」
「わらわにも、長壁の姿はみえる」
「そりゃそうでしょ」
「きちんとした着物を着ておることもわかる」
「着てるね」
「じゃが、その着物の柄となると、ぼんやりと、花であることぐらいしかわからぬ」
「ええっ?」
「法師どのは、どうか」
「わしにも、花柄であることぐらいしかわからんなあ。おしべかめしべが付いていると言われれば、なるほどそうかとも思うが、何本かなどというようなことは、とてもではないがみることができん」
「そうであろう。つまり、鈴太の目は特別なのじゃ」
「ちょっとどういうことかわからない」
「あやかしなどというものは、実体があるようでないものじゃ。その実体のないあやかしの、着物の柄まではっきりみえるとなれば、これは特別な目といわねばなるまい」
「いやいや。天子さんも、和尚さんも、俺にははっきりみえるよ。村の人たちだってはっきりみえてるはずだ」
「法師どのやわらわは、もともと実体を持っておる。わらわはもとは狐で、天狐となったとき人の姿を選んだ。じゃから、姿形からすれば人と変わらぬ。法師どのももとは狸。法術で姿を変えておるが、ここまでこの姿がなじんでくると、これがもう正体であるといってもよい。しかし、長壁はそうではない」
「え? おさかべも、もとは狐なんじゃ……」
「狐のままで体を保って六百年以上も永らえることなど、できようはずもない。法師どのもわらわも、かのおかたの法術により長寿を与えられておればこそ、今の体を保っておられる。今の長壁は、実体のない神霊なのじゃ。その実体のない長壁を、まるで実体があるかのようにみえる目をおぬしは持っておる」
「変態ですね」
「ちびは黙ってろ。天子さん、それは、いいことなの?」
「無論じゃ。これから、あやかしに出遭うたときは、心を落ち着けて相手の正体をみきわめよ。おぬしはそれをみきわめられる力を持っておるのじゃ。真眼の力は、われらの心強い味方となる」
「そうか。役に立つのか。それなら、よかった」
「そんなにしげしげと、あちしを凝視してたですね」
「おこちゃまは黙ってろ。もしかして、うちの一族には、真眼を持った人がけっこういたのかなあ」
「いや。おぬしのほかには、初代だけじゃな」
「初代が」
「見鬼とか視鬼とかいう言い方がある。中国から伝わってきた言い方じゃな。多少の霊感があって幽霊がみえるというようなことではなく、この世とこの世ならざる場所のはざまに出没する、本来はみえないものの姿をはっきりと捉えることのできる力をいう。あるいはその力を持った者を指す。持つ者のまれな才でなあ」
「へえ」
「古来より、呪術を極めた法師たちは、清明な心と真眼を合わせ持っておったと聞く。おぬしは、〈和びの鈴〉を澄み切った音で鳴らせるほどに清明な心を持ち、神霊を鮮明にみとおせる真眼の持ち主じゃ。初代に匹敵する陰陽師の才かもしれぬ」
「現代社会じゃあ、ちょっと役立ちそうもない才能だけどね」
「いっそ、京都に参るか」
「え?」
「いや、何でもない」
「天狐よ、鈴太よ」
「おう、法師どの」
「とにかく今は、残り一つの溜石に心を向けて、油断せぬことじゃ」
「うむ、まさに」
「はい。それにしても、今度の邪魅は、いやに簡単に倒せましたね」
「いや。もしもあのおかたがおられなんだら、倒すには倒しても、あとに禍根が残ったじゃろうな」
「わらわもそう思う。それに、あれは人間相手に限っていえば、まことに恐ろしい敵じゃ。しかも一晩にして一家を争い合わせておった。おそらく溜石の妖気を吸って力をつけたのであろう」
「あ。そういえば、ひでり神さまに報告に行かないといけないね」
「このあと行こう」
「うん」
このとき俺は、よくはわからないながらも、何か偉大な才能があると認められたような気になって、少し舞い上がっていたかもしれない。
油断する気はなかったけれど、溜石があと一つだと思って、やはり心のどこかで安心していた。
邪魅があまりに簡単に倒せたので、最後の一つも、そう難敵だとは思っていなかったように思う。
油断していなかったら、別の対処ができたのかどうかはわからない。
とにかく、そのあと俺らを待っていたのは、想像を絶する敵だった。
そのとき、俺たちは、溜石の本当の恐ろしさを知ったんだ。
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