第15話 方相氏

1


 転輪寺で邪魅じゃみ討伐の報告をしたあと、俺は一人で、ひでり神さまの家に向かった。

 天子さんは、一足先に家に帰った。昼ご飯の準備があるから、と言って。今日は俺が食事当番なんだけど、昼ご飯は代わって作ってやろう、といばっていた。

 たぶん天子さんは、ひでり神さまが苦手だ。

 きらっているわけじゃない。そもそも、天に帰れなくなったひでり神さまの悲嘆を知って弘法大師に直訴したのは天子さんだ。もともと天子さんは、古代の妖怪大戦でひでり神さまと戦った妖怪の末裔だという。深くひでり神さまを尊敬しているにちがいない。そうでなくては、ひでり神さまが罪を償って天に帰れるようにと、千年以上にわたってこの地で役目を果たし続けることなんか、できるわけがない。天子さんは、ひでり神さまのことを、心から敬愛し、お仕えしている。

 ただ、近くに寄って面と向かって話をするのは、苦手なんだ。畏れ多いというような感覚もあるのかもしれない。強い神気に当てられてつらい、ということもあるようだ。以前にそんなことを言っていた。

 あの和尚さんでさえ、ひでり神さまの前では圧倒されて居心地が悪いみたいだから、無理もないことだと思う。

「これはこれは鈴太どの。よく参られたな」

「おじゃまします」

「長壁どのもご一緒のようじゃな」

「はい。呼び出しますね。おーい、おさかべー」

「呼ばれて登場! あっ」

 両手を水平に伸ばした状態で出現した童女妖怪は、目にも止まらぬ速度で平伏すると、かさかさと音を立てて後ろに素早くにじり下がって壁際で止まった。お前はゴキブリか。

「ほほほ。あなたもお元気なようで、何よりじゃ」

「お、おそれいり奉りますですです」

「ちびっこ。顔を上げたらどうなんだ」

 童女妖怪は、平伏したまま、ふるふると首を横に振っている。長い髪が揺れている。艶やかな髪だ。髪の毛の一本一本までが、よくみえる。でもこれをみることができるのは、俺だけなんだろうか。そう思うと、なんだか童女妖怪がかわいそうな気がする。

「私もあなたの顔がみたい。お顔を上げてはもらえぬだろうか」

 凍った。

 童女妖怪が凍った。

 べつに童女妖怪は、ひでり神さまに義理も縁もない。だけどひでり神さまの圧倒的な神気に、思わず頭を下げずにはいられないんだろう。そのひでり神さま自身から、顔がみたいから起きろ、と言われたんだ。さあ、どうするだろう。

 しばらくして、童女妖怪は、少しだけ体を起こし、顔を少しだけ上げて、上目遣いにひでり神さまのほうをみた。

「もそっと顔をお上げなされ」

 しばらくして、童女妖怪は、もう少しだけ顔を上げた。だけどまだ、四十五度にも達していない。

「めんどくさいやつだな。ほれ」

 俺は両手で童女妖怪の頭をはさみこみ、力を入れた。

 抵抗している。

 しかし童女妖怪の筋力など、たかが知れている。

 ぎりっ。

 ぎりっ。

 少しずつ、童女妖怪の体が起きる。

 ぎりっ。

 ぎりっ。

 そしてついに九十度に起きた。

「おお、おお。かわいらしきお顔じゃなあ。色つやもよい。大事にしてもらっておるのじゃなあ」

「油揚げは充分に与えてます」

「じゅ、充分っ、とはっ、いえないです」

「羽振どの。もうお顔を放してあげなされ」

「あ、はい」

「ふうっ。ひどい目に遭ったです」

「お前が抵抗するからだ」

「暴行犯は黙れです」

「ほほほ。相変わらず仲のよいこと」

「そんなことはないですけどね」

「こんなやつに加護を与えるじゃなかったです」

「ほほほ。ところで、邪魅はどうなったのじゃな」

「あ、はい。邪魅は一昨日に出現して、一晩で谷本家の人たちを争わせ、昨日は松本家に入り込んでいました」

「ほう。一晩で」

「はい。溜石の妖気を吸って強い力を得たのではないかと、呪禁和尚さんは言ってました」

「なるほどなあ」

「毒の息に取り憑かれた人間を長壁にみせておいて、日が変わったとき、〈探妖〉で、毒の息を吹き込まれた人間を確認しました。谷本家の六人だけでした」

「うんうん。〈探妖〉が使えると、まことに便利じゃな」

「ちびっこ。鼻がひくひくしてるぞ。そして天子さんが、〈隠形〉で松本家に忍び込みました。あ、松本家にいた邪魅は、天子さんがあらかじめ結界に閉じ込めておいたんです」

「ほう?」

「邪魅のやつはさんざんに悪態をついていましたが、松本家の人たちには、ここちよい歌か何かに聞こえるようで、ただ邪魅をたたえるだけでした」

「ああ、なるほど。そういえば、そういうものであったなあ」

「忍び込んだ天子さんが、邪魅を滅ぼしました。この件は、これで終わりです」

「そうであったか」

「この変態には、毒の息がみえたらしいのです」

「何とな?」

「毒の息を吹き込まれた人間がはく息が、黒く濁ってみえたというのです」

「それは? ……まさか?」

「〈真眼〉だと、天狐さまと法師さまが、おっしゃってましたです」

「おお。なんと、鈴太どのは〈真眼〉持ちであったか」

「もしかして、ひでり神さまも、〈真眼〉をお持ちですか?」

「私はもともと天界の神の娘。〈真眼〉を持つ者と同じものをみることができる」

「そうですか。とにかく、これで残りの溜石は一つになりました」

「ありがたいことじゃなあ」

「ご体調はいかがですか」

「上々じゃ。先日以来、欠かさず毎朝石を積んでおる」

「それは何よりです」

「もう、とうに満願成就の日が来ておるような気がするのじゃがなあ」

「千二百年にわたるお勤めなのですから、一年や二年ののずれはあるでしょう」

「おかげで先行きに不安はない。これからもよろしく頼みます」

「もちろんです。おい、ちびっこ。お前もごあいさつしろ」

「油揚げたくさん食べて頑張るでございますです」

「やらん」

「ほほほ」


2


 店に帰ると、天子さんは準備していた昼ご飯をさっと仕上げてくれた。油揚げ入りのペペロンチーノだ。

 油揚げが入ってる時点で、ペペロンチーノとはいえないのかもしれないが。

 油揚げはオリーブオイルでからっと仕上げてあり、岩塩を振りかけたペペロンチーノと、とてもよくマッチしている。

 留守のあいだに、五点商品が売れていた。

 それから、七件配達の注文が残っていた。

 欲しい商品はあったけど値段がわからなかった場合や、欲しい商品がどこにあるかわからない場合などは、こうして配達を依頼するメモが残されている。

「あれ?」

 そのうち一件は、松本家からの注文だった。

 俺は昨日会うまで、松本さん一家をみかけた記憶がない。

 もっとも、たぶんご主人か奥さんがじいちゃんの葬儀に来てくれていたと思われるし、俺がこの村に来てからしばらく、いろんな人があいさつ代わりのようにして、店に来て品物を買ったり、だべったりしてくれていた。そのときに来てくれていたら、記憶にないということもあるかもしれない。

 俺は天子さんに留守番を頼むと、七件の配達をこなしていった。

 どうも最近、遠距離配達が増えている。今日の配達七件のうち、五頭ごとうさんと松本さんは土生はぶ地区、田上たがみさんは松浦まつら地区の西側だ。三軒とも、安美あみ地区の乾物屋のほうが近いんだけど、どういうわけでうちに注文するんだろうか?

 まあ、お得意さんが増えるのはいいことだけど。

 近場の四件を先に済ませたあと、いったん店に帰って商品を積み直し、五頭、松本、田上の順で回ることにする。

 五頭さんの家に配達して、松本さんの家に向かった。

 どこから入るか。それが悩みどころだ。

 基本的に、こういう商品の配達は内玄関か裏口に回る。裏口というのは、昔風にいえばお勝手口だ。松本さんの家は、少し古めかしい造りをしているから、お勝手口があると思うし、そこは台所にも近いんじゃないかと思う。

 ところが、家によっては、中庭などに他人が踏み込むのをいやがる場合もある。そういう家は、一回失敗すれば次からは表玄関に配達するんだけど、できれば最初の失敗もないほうがいい。

 この家はどうだろう。

 玄関からみえる場所に、別の玄関、つまり内玄関はみあたらない。左側のほうに、裏に回り込むような空間があるから、ちょっとそっちに行きかけたけど、物干し台が目に入ったので、それ以上奥に入るのはやめた。

 どうしよう。

 インターホンがあるなら押して、裏口はどちらでしょうかと訊けばいい。裏口の場所を教えてくれたら、次から裏口に配達すればいいし、そのままで待っているように言われたら、次回から表玄関に配達すればいい。

 しかしこの家にインターホンはない。

 しかたないので肉声で声をかけた。

「ごめんくださいー」

「はーい」

 広い家なのに、すぐに返事があった。

 そのとき、表札があるのに気がついた。家族全員の名前が書いてある。ヨウコさんの名前は、洋子と書くようだ。

松本洋子さんが出てきた。

「あらまあ、すいませんねえ」

「お醤油と、お砂糖と、みりん、それに麩をお持ちしました」

「ありがとう。こっちへ持ってきてくださる?」

「はい。お邪魔します」

 そう重たい物でもないけど、運べと言われれば運ぶのが商売だ。

 ちょっと入り組んだ廊下を歩いて台所に着いた。

 驚いたことに、松本家の台所は、半分土間だ。

 土間には昔風のかまどが置いてある。この土間なら、餅米をふかして餅つきをすることもできるだろうな。と思ったら、隅のほうに石臼が置いてある。

「お疲れさま。お茶をいれるから、飲んで行ってね」

「え、いや、あの」

「遠慮せずに」

 はじめて配達した家では、正体を探られるというか、俺が今までどこで何をしていたのかを訊かれることは、これまでもあった。そんなことなのかなと思って、勧められるままに客間のソファに腰掛けた。ここは、〈チェリー〉が腰掛けてた場所だ。

 洋子さんが、コーヒーとクッキーを持ってきた。コーヒーは二つある。自分も飲むということなんだろう。

「頂きます」

「どうぞどうぞ」

 いい香りだ。インスタントじゃなくて、ちゃんと淹れたコーヒーだ。

 店は忙しいのかとか、何時から何時まで営業しているのかとか、世間話のような質問がいくつか続いたあと、洋子さんは、こう訊いてきた。

「ところで、あの。昨日、天子さんとあなた、この家に来てくださったわよね?」

「ええ」

「あれは、何の用事で来てくださったんだったかしら?」

 ああ、そういうことか。

 俺と天子さんは、昨日、この家に来た。

 松本幸吉さんや、洋子さんや、兼良さんや、碧さんに会った。そして〈チェリー〉こと邪魅と会った。

 ただしそのとき、松本家の人々は普通の状態ではなかった。邪魅が魅力的にみえてしかたなく、邪魅の素晴らしさを褒め称えることに一生懸命だった。

 その日の真夜中に、邪魅は天子さんに滅ぼされた。真夜中のことだから、たぶん松本家の人々は寝ていたはずだ。

 朝起きると、邪魅がいない。松本家の人々は正気に戻る。

 正気に戻ったのはいいけれど、記憶がうまくつながらない。それは邪魅の妖気にあてられたせいなのか、あるいはこの村を覆う不思議結界のせいなのかわからないけど、とにかく、忌まわしい記憶は消えてしまい、筋の通る部分の記憶だけが残った。その結果、俺と天子さんが来たことは覚えているものの、何を話したか、どんな場面だったかは思い出せなかったんだ。

 俺がこの家に来たのは昨日がはじめてだし、たぶん天子さんもそうだろう。そのはじめて来た二人が、わざわざ家のなかに上がり込んだわけだ。ところがその要件が何だったか思い出せない。そりゃ、気になるだろうな。

 状況はわかった。

 だけど、どう返事すればいいんだろう。

 口からでまかせを言ってもいいけれど、あとでつじつま合わせに困るかもしれない。

 天子さんと俺が、松本家の居間にまで上がり込むような用事。

 どんな言い訳をすればいいんだろう。

 思いつかない。

 よし!

 ここは天子さんに責任を押し付けよう。

「さあ? 実は俺も昨日のことはよくわからないんです」

「えっ? そうなの?」

「ええ。天子さんについて来いって言われてついて来ただけなんです」

「あら、まあ。天子さんが?」

「ええ。でも、ご主人や奥さんとしばらく話を交わして、何か用事は済んだみたいでしたよ」

「用事は済んだのね?」

「だと思います。帰りがけに、俺に、手間をかけさせて悪かった、自分の思いちがいだった、と言ってましたから」

「思いちがい……。そう、そうなの。天子さんは、何か確かめたいことがあったのね。そしてそれを確かめて帰った。そうなのね」

「たぶんそうだと思います。今、天子さんは店にいると思いますから、電話して訊いてみたらどうですか?」

「えっ? いえ、いいのよ。わざわざお訊きするほどのことじゃないわ」

「そうですか」

 それからしばらく、あまり居心地のよくない沈黙が続いた。

 俺は少しだけ踏み込んでみた。

「あの、松本さん」

「はい。何?」

「チェリーっていう言葉に、心当たりはあります?」

「チェリー? ジュリーじゃなくて?」

「ジュリー?」

「ジュリーよ、ジュリー。沢田研二」

「さわだけんじ?」

「まさか……知らないの?」

「知りません」

「あんな偉大なアーティストを、あなたは知らないっていうの?」

「アーティスト? 絵描きさんですか?」

「歌手よ! そして俳優! 作詞家にして作曲家! そして偉大なるエンターテイナーよっ」

「は、はあ」

「日本人で、お化粧の似合う男性は、ジュリーとカールスモーキー石井しかいないわ」

「あ、その人は知ってます。米米CLUBの人ですね」

「なんで、石井竜也は知ってて沢田研二を知らないのよ! あなた、おかしいわ」

「昔の歌手なんですか?」

「現役よ、超現役っ。今年はね、ジュリーの五十周年記念の年なのよっ」

「ご、五十周年? そりゃ、すごい」

「すごいでしょう。今年の七月から来年の一月にかけては、全国六十六か所でライブショーがあるの!」

「みに行くんですか?」

「行ったわ。行かないわけがある?」

「いえ、ありません」

「年に一度ジュリーのコンサートに行かせてもらうってのは、プロポーズを受けたときの条件だったんだから」

「結婚を申し込まれたときに、年に一回ジュリーのコンサートに行かせてくれるなら承諾します、と返事されたんですか?」

「そうよ、当然でしょ」

「そのときご主人が何とおっしゃったか知りたいです、すごく」

「そんなこと覚えちゃいないわ。いいのよ、そんなことはどうでも」

「あなたの気持ちはよくわかりました」

「私はね、七月二十三日に、岡山シンフォニーホールのライブに行ったの」

「それはよかったですね」

「そうよ! よかったのよ。もう最高だったわ」

「リサイタルの情報なんかは、こまめにチェックしておられるんですか?」

「いえ、教えてくれるの」

「教えてくれる? 誰がですか?」

澤會さわかいよ」

「茶話会?」

「教えてあげるから、よく聞きなさい」

「いや、いいです」

「昔はね。ジュリーのファンクラブがあったの」

「昔は、ですか」

「そうよ。年会費を払ってたわ」

「ああ、入会してたんですね」

「あたりまえでしょう!」

「すいません」

「でもね、あるときファンクラブはなくなっちゃったの」

「ご愁傷さまです」

「だけど有志が立ち上がってくれたのよ」

「ゆうし?」

「そうよ。そしてジュリーの新曲発売や、コンサートの情報を、こまめに教えてくれるの。それが澤會」

「それって、結局ファンクラブじゃないんですか」

「いいえ、ちがうわ」

「何がちがうんでしょう」

「会費がないの」

「え?」

「彼女たちは、あるいは彼らは、まったく無償でボランティアで活動を続けてくれてるのよ」

「はあ。でも、プロダクションとかから援助をもらってたりはしないんですか?」

「そんなこと知らないわ。とにかく私からはお金を取らないの。そして誠実に情報を届け続けてくれるの。それがすべてよ」

「よくわかりました」

 そのあと、洋子さんは、沢田研二の素晴らしさを、滔々と語り続けた。

 いかにセクシーか。いかにキュートか。いかにスマートか。

 タイガースというグループのボーカリストだったということと、あの岸部一徳とそのグループで一緒だったということを教えられた。岸部一徳は、よくテレビでみるから知っている。

 「時の過ぎゆくままに」と「勝手にしやがれ」がジュリーの曲だと知った。どちらも歌ったことがある。

 三十代で全裸写真集を出したそうだ。みせてあげると言われたが、固辞した。それにしても、日本人の男性芸能人でオールヌード写真集を出した人がいるとは知らなかった。べつに知りたくもなかったけど。

 数々のアーティストたちとのジョイントや楽曲提供。

 栄光の数々。

 大変な実績のある、息の長い歌手だということがわかった。というか、思い知らされた。

 ついでに、最近、頭髪が急激に薄くなってきてるとか、おなかがぷっくりふくれてきたとか、知りたくもない情報も教えられた。というか、ジュリーについての情報そのもの全部、まったく興味がないけど。

 おみやげに、「来タルベキ素敵」というCDをもらった。たぶん聞くことはないと思う。

 松本家を出たときには、疲労困憊していた。もうすっかり暗くなっていたけど、田上家では、顔色が悪いんじゃないかと心配された。

 結局晩ご飯も天子さんが作ってくれた。油揚げ入りやきそばだ。おいしかった。

 疲れた。

 とても疲れた。

 何もかも忘れて、この夜はぐっすり眠った。


3


 昨日のことは、案外いい気晴らしになったようだ。

 朝起きてみて、自分の体から気負いがすっかり抜けているような気がした。

 そのぶん、疲れがたまっているのを感じもした。

 張り詰めたままではもたない。

 少しだらけた心持ちで、しばらく過ごそうと思う。

 仕事をしているとき以外は、少しぼうっとするようになった。

 そうしながら、書道のほうも、ぼちぼち続けた。

 「東西南北」の次は「春夏秋冬」で、その次は「花鳥風月」に進んだ。

 「花」も「鳥」もむずかしい。結局今のところ、まともに書けるようにはなっていない。

 「風」も簡単ではないけれど、少しだけコツがつかめた。

 「月」は、わりといい字が書けることが多い。ただし、一回一回、字の表情がまるでちがう。特に最後の横棒二本の入れ方は、全然安定しない。安定しないんだけど、不安定ながら面白みがあるように、自分では思う。一本目を書いたときに、必然的に二本目の位置は決まる。それが感じられる程度の感性は持ち合わせていたようだ。

 その次は「雨香雲淡」に取り組んだが、これはなぜかすぐに卒業になった。といっても仮免のようなものだけど。

 そして、「竹深荷浄」を練習している。「竹」という字は面白い。

 「深」はむずかしすぎて、全然手に負えない。けれど字を書くのは楽しい。

 筆先の入れ方ひとつで、筆画の表情はまったくちがうものになる。まっすぐに引いた線でも、力の込め方によって千差万別の姿になる。これはボールペンや鉛筆では味わえない世界だ。


4


 山口さんとの関係は、奇妙な展開をみせた。

 発端は、ある日の配達の帰りだ。

 角を曲がったところに、突然大きな乗用車が止まっていて驚いた。

 行き過ぎようとすると、助手席の女性が窓を開けて話しかけてくる。

「すいません」

 呼びかけられて、自転車を止めた。

「何でしょう」

 その女性は、ドアを開けて車から降りてきた。

 高そうな和服を着た、恰幅のいい年配の女性だ。

 恰幅がいいというのは失礼かな。

 べつに太ってるわけじゃない。

 だけど、何といえばいいんだろう。

 威風堂々とした年配美人さんだ。

 女丈夫とでもいうんだろうか。そんな言葉があるのかどうか知らないけど。

 とにかく、颯爽としててかっこいい人だ。

 車はすごく大きくて立派だ。上品な白い色をしている。

 車の鼻先のエンブレムが目に入った。

(ベンツだ)

(それにしても大きなベンツだなあ)

 運転席に座っている人は、いかにも運転手さんという感じだ。

「この場所には、どう行ったらよかですか?」

 差し出された紙切れには、山口さんの住所が書かれていた。

 それでわかった。

 今、車が止まっている場所を右に曲がると、有漢うかん地区に上がる。

 ただし、この道は細くて、歩くか、せいぜい自転車で通るのが精いっぱいだ。

 もう少し森に沿って進むと、車が入れる道がある。だけど、これだけ大きな車では、とてもその道は通れない。というか、曲がれない。

「こん上さん、どげんして上がるじゃろか」

「え?」

「ああ、失礼。この場所には、車じゃあ行けんですかね? カーナビじゃ出てこんようで」

「行けますよ。ちょっと言葉では説明しにくいので、俺についてきてください」

 自転車にまたがり、東のほうに走った。後ろから大きな車がついてくる。

 乾物屋の横を通り過ぎて少し行ったところで、草がまばらに生えた空き地を突っ切った。その向こう側に西に向かう大きな道がある。

 車は空き地のまん中で止まった。

 助手席から女性が降りてくる。

「なんちゅう雄大な景色やろか」

 俺も女性と同じ方向をみた。

 そこには雄大な三山みやまがそびえたち、秋の風を受けて悠然としたたたずまいをみせている。

「正面の山が蓬莱山ほうらいさん、右が白澤山はくたくさん、左が麒麟山きりんざんといい、三つあわせて三山と呼ばれています」

「みやま。うん。よか名ばい」

「三山に抱かれているのが樹恩じゅおんの森。この季節だと、絶品のキノコが採れるらしいですよ」

「じゅおんいうたら、どげん字ば書くとやろ」

「樹木の恩恵、と書きます」

「ああ、樹恩たいね。うんうん。ナバんごたる、いじいうまかばい」

「この村は、東北の方角を三山に守られ、南西には天逆川あまのさかがわの豊かさがそそぎ込み、風光明媚な山里であるとともに、地相もすぐれています」

「そぎゃんね」

「空気は澄み切っており、星の美しさは例えることもできません」

「ほう。みてみたかね」

「古くには、ここは〈星見の里〉と呼ばれていたようで、陰陽道の聖地でもあったと聞いています」

「星見の里! まあ、なんちゅうロマンチックな名前じゃろか」

「白澤山の春の桜の美しさは格別です。はらはらと風に舞う花びらに包まれると、せつなくて、せつなくて、どうしていいかわからなくなります」

「あっちの山ばいね。ふうん。そらそうと、こん場所は私有地ごたるなあ」

「え?」

「あ、失礼。ここは私有地じゃなかですかね。通行してよかとですか?」

「そんなこといっても、この村には、そもそも私有地でない道なんか、ほとんどありませんよ。村役場の前から天逆川を通って町に続く道が村道ですが、あとは全部私有地です」

「ほんなごつね。なら、三山さんも私有地じゃろか」

「はい」

「へえ。どげん分限者がお持ちじゃろか」

「いちおう、羽振家の所有です」

「はぶり? 道理で羽振りがよかね。わっはっはっはっはっ」

「ははは」

「ところで、私は萬野銀子まんのぎんこいいますけど、あんたさん、お名前は何といわれるじゃろか」

「羽振鈴太といいます」

「いうことは、三山を持っとるちゅう家のかたですか」

「まあ、いちおうそういうことです」

「ばってん、そげん分限者のお家さんなら、働かんでもよかでしょうに」

「うーん。実のところ財産は財団や弁護士さんが管理していて、俺は細かいことは知らないんです。それに、祖父が春先に亡くなって、俺はこの村に帰ってきたんですが、祖父がやっていた乾物屋を継ぎたかったんです」

「ほう。そぎゃんですか。乾物屋は楽しかですか」

「はい。必要とされる品物を必要とする人に売り、届ける。すごく楽しい仕事ですよ」

「じんな、前はどこにいなさったとですか」

「じんな? 東京です。練馬区に住んでました」

「ほう。東京から、ふるさとに」

 女性は再び視線を三山に送り、しばらくみとれていた。

「ほんなごつ、よか山、よか里、よか人たい。ほんな、よか」

「こん坂、じゃなくてこの坂を上っていって、上りきった右側にあるのがお訪ねの家です。家の手前に車を止める場所があります」

「そらまあ、たいぎゃご親切じゃ。だんだんなあ」

「お気をつけて」

 運転手さんも、車から降りておじぎをしてくれた。

 俺は内心どきどきしながら、熊本ナンバーの白いベンツを見送った。

(萬野、と名乗ったよな)

(山口さんの旧姓とはちがう)

(だからお母さんじゃない)

(誰だろう)

(わざわざ車でここまで訪ねてくるなんて)

(まさかと思うけど、もしかしたら)

 そのもしかしたらだった。


5


「昨日、お見合いばばあが来たのよ」

「山口さんのお父さんの妹さんの旦那さんのお母さんですね」

「よく覚えてたわね。そのばばあよ」

「まさか、あんな目に遭わされたほうがこちらに来るとは、驚きです」

「あたしも驚いたわよ。でも、玄関先で、あの強情もんがいきなり頭を下げたのには、もっと驚いたけどね」

「えっ? 頭を下げたんですか?」

「そうよ。悪かったって。そんなこと絶対に言わない人だと思ってた」

「何があったんでしょう」

「見合いの相手というか、見合いをさせられそうになった相手の男性がね」

「えっ?」

「うちの父に手紙を出したんだって」

「それは、また」

「申し訳ないことをしたという、おわびの手紙をね」

「……それを山口さんにではなく、お父さんに出した、というところがいいですね」

「あたしもそれには感心したわ。とにかく父はその手紙で事情を知って、母さんに雷を落としたらしいわ」

「え? あ。ということは、見合い話をお父さんは知らなかったんですね?」

「そうなの。いえ、それは、こっちに帰ってくるときのやり取りで、そうじゃないかとは思ってたんだけどね」

「はあ」

「母は、結婚以来はじめて父に怒鳴られたらしく、見合いばばあの家に乗り込んで、直談判したの。話がちがうじゃないかって」

「話がちがう?」

「そうなの。見合いばばあは、あたしが若い身空で未亡人のままなのはよくないから、見合いをしてみる気になるように説得する、と母には言っていたらしいの」

「あちゃあ」

「それがいきなりの見合いでしょう。こんなことをして娘がかたくなになったらどうしてくれるんだと、母は見合いばばあを責め立てたらしいわ」

「それはまた」

「でも、そんなことで動じるばばあじゃないからね。ところが、見合いばばあのご主人が、これを知って怒り出したの」

「うわ、そこに話がいくんですか」

「謝ってこい、さもなければ離縁するとまで言ったらしいわ」

「なんか、とんでもなくおおごとになってきてませんか?」

「ばばあも気性が激しいからね。すぐに岡山市内に宿を予約して、熊本から車でここまで来たってわけ」

「えっ? 山口さんに謝るためですか?」

「いいえ」

「話がよくわかりません」

「ご主人に責め立てられて、かっとなって家ば飛び出してきたばってん、はらわたは煮えくり返っとるとよ」

「えっ?」

「あら、ごめんなさい。とにかく、謝るつもりなんか毛頭なかったの。むしろあたしに謝らせるつもりでやって来たらしいわ。ところが、この村に来てみて、ばばあの気持ちは、ころっと変わったの」

「えっ?」

「カーナビに従って村には入ったけれど、示されている道は、大型乗用車じゃ通れない。この村は自分を馬鹿にしてるのかと癇癪を破裂させていたとき、一人の青年が通りかかる」

「通りかかりましたね」

外面そとづらを繕って、この上にあがる道はないのかと訊いてみた」

「訊きましたね」

「でも、その時点では、道があるとは思ってなかったの」

「え?」

「道までが自分を拒否したという確認が取りたかったのね」

「え?」

「そしてその腹立ちを持って熊本に帰るつもりだった」

「よくわかりませんが、なんかすごい気性ですね」

「そうよ。とんでもないばばあだわ」

「と言う山口さんの口調が楽しげなのは、なぜなんでしょう」

「味方にすれば、とんでもなく心強いばばあだからよ」

「味方?」

「とにかくばばあは、通りがかった青年に、上にあがる道はないかと訊いた」

「訊きました」

「すると青年は、道はある、と答えた」

「ちょっとちがうような気がする」

「そしてみずから先導して、ばばあを正しい道に導いた」

「何かがちがう」

「青年は、思いもよらない場所を通らせ、この道を行けば目的地に着ける、と教えた」

「うーん。微妙にちがう」

「そのとき、ばばあは気がついた。この場所は、とても美しい場所だと」

「ああ。たまたま絶好のロケーションだったんです」

「今までは、風景なんか目に入らなかった。だけど、そのとき目に飛び込んできた光景は、なんともいえず、懐かしく、慕わしいものだった」

「ちょっと脚色が入ってませんか?」

「青年は、山と森と川について、くそばばあに教えた。くそばばあは、この村が素晴らしい場所なんだと気づいた」

「気に入ってはいたみたいですけどね」

「そのときばばあは、真理を知ったのよ」

「真理?」

「道はない、と自分は思っていた。だけどそれは自分が思い込んでいただけで、本当は道はあったのよ。道は開かれていたの」

「それ、何かの映画じゃなかったですか?」

「そしてこの村こそ、傷心の美女が心を癒して立ち直るにふさわしい場所だと知ったのよ」

「すごい思い込みですね」

「ばばあは思い込みの強いおごじょなの」

「それはおごじょ全般の特性では?」

「とにかく、あたしの顔をみたとたん、ばばあは頭を下げて謝ったの。そんなことをする自分自身に驚きながらね」

「で、和解したんですか?」

「意気投合したの」

「はあ?」

「この村の素晴らしさに。そしてそのことを教えてくれた青年の素晴らしさにね」

「ちょっと待ったあ!」

「ばばあは残念がっていたわ。あの青年が、もう少し年上ならって」

「あ、そうですか。それはよかった」

「だから、実は青年が二十五歳で独身だと聞いて、びっくりして、そして喜んだわ」

「は?」

「それなら、あたしとほとんど年がちがわないわけだし」

「誰が二十五ですって? 俺は十八歳ですよ?」

「山男に街で会うと、何歳か老けてみえるっていうでしょ。山であった素敵な青年は、実はもう少し年がいっているものなの」

「それ、ちがいます。事実をねじ曲げています」

「いいのよ、事実は、この際。あのばばあが納得してくれれば、それでいいの」

「問題を後回しにしてるだけですよ、それ。しかも事実がばれたら、どう収めるんですか」

「年齢のことなんか問題にならないくらい、その青年が素晴らしければいいのよ」

「へ?」

「実際、ばばあは、大変な財産を持つ家の若き当主なのに、ふるさとを愛し、人の役に立つ仕事に汗水たらす青年に、感激していたわ」

「もともと、すごい貧乏人なんですが」

「しかも、三山どころか、村の三分の二ほどを所有し、そのほかにも多額の財産を持っている青年なんですもの」

「なんでそんなこと知ってるんですか」

「とあるおばあさんの情報網よ」

「秀さんですね」

「さあ、どうかしらね」

「そしてそれを山口さんが、萬野銀子さんに吹き込んだと」

「あら、もう名前を知ってるのね。とにかく、その青年が、あたしの傷心をなぐさめてくれているのよ」

「慰めた覚えはないんですが」

「あたしがなぐさめられてると感じてるのは事実なの」

「それで、どうなったんです?」

「くそばばあは、あたしがこの村で暮らすのがあたしのために一番いいんだって納得して、帰っていったわ。そのことを、熊本でもみんなに説明してくれると思うわよ」

「それはよかった……のかな? 俺についての誤解はどうなるんですか」

「誤解って?」

「俺が二十五歳で大金持ちで、そして山口さんの傷心を慰めていて、そして……」

「そして?」

「まさかと思うけど、山口さんの再婚相手の候補になってるってことです」

「それは誤解なのかしら」

「もうそのへんにいたせ」

「あら、いたのね、天子さん」

「最初からここにおったではないか」

「忘れてたわ」

「鈴太よ」

「な、何でしょうか」

「このおなごが妖婦であることを、しかと知ったかえ?」

「ちょ。妖婦って何よ」

「嘘八百を並べ立て、自分の都合のよいように人を惑わし、操る。妖婦でなくて何じゃ」

「妖艶で知的な美女よ」

「聞いてあきれるわ」

 こんなぶっとんだ会話があった。

 それでも不思議と、天子さんは山口さんを、出入り禁止にはしなかった。

 山口さんは、毎日やってきては、俺の心をかき乱した。

 あとで考えれば、それもよい気晴らしになっていたのかもしれない。

 ともあれ、運命の日は近づいていた。


6


 九月二十日に台風十七号が発生した。

 台風十七号は、さほど大きな勢力を持っていたわけではないが、妙に寿命の長い台風で、あちこちと迷走を続けたあげく、十月一日に消滅する。

 消滅する前の九月二十九日と三十日には、この台風の影響で羽振村にも強い雨が降る。

 それに先立つ九月二十五日、平安な日々は終わりを告げた。

 真夜中のことだ。


 ちりーん。

 ちりーん。


 鈴の音に、俺は目を覚ました。

 時計の針は、二時をわずかに過ぎている。


 ちりーん。

 ちりーん。


 鈴は時間をおいて鳴り続ける。

 〈和びの鈴〉だ。

 これが鳴るということは、いったいどういうことなんだろう。


 ちりーん。

 ちりーん。


 何かが起きた。

 あるいは起きようとしている。

 だけどそれが何なのか、俺にはわからない。

「ものすごい妖気なのです」

「あ、おさかべ。起きたのか」

「お社のなかにいても、邪悪な妖気が押し寄せてくるのです。とても寝ていられないのです」

「これ、いったい何なんだろう?」

「わからないです。〈探妖〉を使いますか?」

 俺は、うん、とは答えなかった。

 何か重大なことが起きている。それは確かだ。

 〈探妖〉は一日に一度しか使えない。

 俺だけの判断で使うのは、ためらわれた。

「何が起きているか今わかったとしても、俺とお前じゃ何もできない。天子さんが来てからにしよう」

「はいです」

 俺は、童女妖怪と寄り添うようにして、鈴がなるのを聞いていた。


 ちりーん。

 ちりーん。


 二時間近く鳴り続けて、鈴は止まった。

 それからしばらくして、びっくりしたことに、和尚さんがやって来た。

「夜分すまん。邪魔するぞっ。お、長壁。おったか」

「あの妖気の件ですね」

「そうじゃ。天狐は、まだ来ておらんようじゃな」

「まだ来る時間じゃないです。いったい何が」

「とてつもない妖気が、村の東の方角に現れた。ちょうど丑三つ時のことじゃ」

「お社のなかにいても目が覚める、強烈な、そして邪悪な妖気でしたです」

「妖気はゆっくりと移動し、二時間ほどかけて村の北のほうに移動し、消えた」

「消えた?」

「そうじゃ。ものの見事に消えた」

「法師どの。ここにおったか」

「おう、天狐。もしや寺に行ったか?」

「うむ。先ほどのあれは、いったい何じゃ?」

「わからん。じゃから、ただちに〈探妖〉を頼もうと思って、ここに来た」

「天子さんも、そのものすごい妖気というのを感じたんだ」

「わらわのねぐらは、村からは遠いし、外の気配は入り込まぬ造りになっておる。それでも、夜中のあれには驚かされた。あんな強烈な妖気は今まで出会ったことがない」

「それほどの相手なんだ」

「とにかく〈探妖〉じゃ」

「わらわもそう思う。長壁、頼む」

「はいです」

 童女妖怪は、どこからともなく、ひらひらした紙、紙垂しでというらしいが、のついた棒きれ、御幣ごへいというらしい、を取り出して、振り回した。

 いつもより長い。

 いつもより丁寧にしているんだろうか。

 いや、そうじゃない。

 動揺しているんだ。だから、精神を集中させるために、いつもより手間がかかってるんだ。

 ずいぶん長いご祈祷を終えて、童女妖怪は、御幣の動きを止めた。

「最後の溜石から妖気が抜けてますです」

「うむ」

「そうか」

「でも、妖怪がいません」

「なに?」

「本当か?」

「本当なのです。結界のなかには新たな妖怪は出現していませんです」

「むむむ」

「法師どの。これはどういうことであろうか」

「結界の外に出た、ということはあるまいなあ」

「よほど遠くに行ったのでないかぎり、探知できたと思いますです」

「であろうなあ。それに、あの妖気の消え方は、移動というようなものではなかった」

「〈隠形〉を使ったというようなことはありませんか」

「鈴太よ、〈隠形〉などという術を使うのは、弱き者じゃ。あの妖気の持ち主が、わざわざ〈隠形〉を使うとは考えられん」

「じゃあ、いったい、どうしたんでしょう」

「まさかとは思うが」

「法師どの。何か思い当たることがあるのか」

「異界に飛んだのかもしれぬなあ」

「なにっ」

「異界って何ですか?」

「この世ならざる所じゃな」

「法師どの。もしも異界に消えたとすると、そのあやかしは、もともと異界のものであったことになる」

「まさかとは思うが、そういうことになるのう」

「……そんなばかな」

 和尚さんと天子さんが話し合っている中身は、さっぱりわからない。

 ただ、現れて消えたものが、とてつもなく恐ろしいものである可能性があるということらしいことは、わかった。

「ふむう。このまま待っていてもしかたないのう」

「では、どうする」

「明日、真夜中ごろに集まるとするか」

「ふむ」

「今日気配が現れたのは丑三つ時じゃ。この時刻には妖気が増す。そして、〈しゅ〉が大きな効果をあげる」

「明日も同じ時刻に現れるか」

「その可能性はあるじゃろう」

「わかった。で、場所は」

「ここでよかろう」

「そうじゃな」


7


 その日一日、仕事をしていても、気もそぞろだった。

 山口さんへの対応もおざなりになり、ちょっとあきれられた。

 けど、しかたがない。

 和尚さんと天子さんの二人が、あんなにも恐れている何か。

 〈和びの鈴〉を鳴らし続けた何か。

 それはいったい何なのか。

 天子さんに聞きたかったけど、天子さんは帰ってしまい、この日の日中には、もうやって来なかった。

 そして午前零時が近づくころ、和尚さんと天子さんがやって来た。

 夜食はいらないかと勧めたけど、二人ともいらないという。

 ひどく緊張しているようすがわかる。俺にはその妖気とやらを感じ取ることができなかったからわからないけど、おそらく、とてつもない強敵の気配だったんだろう。

 時間が過ぎるのが遅い。

 和尚さんは、腕を組み、目を閉じて、じっと待っている。

 天子さんも、言葉の一つも発することなく、ただ静かに座っている。

 いつのまにか童女妖怪も現れている。珍しく無言だ。

 ただよう緊張感に焼かれて、俺の喉はひりひりしてきた。

 お茶をくんでは、ちびりちびりと喉に通す。

 いいかげん感覚がまひしてきたころ、ようやく時計の針は二時を指した。


 ちりーん。

 ちりーん。


 鈴がなった。

「出たぞ」

 和尚さんが目を開き、組んでいた腕をほどいた。

「確かに」

 天子さんの目が爛々と輝いている。戦闘態勢なんだろうか。

「長壁」

「はいです。法師さま」

「〈探妖〉を頼む。妖気の持ち主の正体が知りたい」

「はいです」

 俺たちがかたずを呑んでみまもるなか、長壁は〈探妖〉を行い、そして言った。

方相氏ほうそうしです」

「なにいっ」

「なんじゃとっ」

 和尚さんが目をむいて驚いている。

 天子さんも、顔に驚愕を張り付けている。

 ほうそうし、とは、いったい何なんだろう。

「天狐よ」

「何かな、法師どの」

「とにかく、一度実物をみてみようではないか」

「うむ。近づくのは危険ではないか」

「相手が方相氏なら、近づこうが近づくまいが、同じことじゃ」

「それもそうじゃな」

「行くか」

「参ろう」

「ぼ、俺も行くよ」

 俺は地図を出した。

「おさかべ、場所は?」

「ここです」

 童女妖怪が指し示したのは、閻魔口の近くだ。村の北の端のほうといっていい場所だった。

 そして俺たちは、方相氏なる妖怪のもとに走った。


8


 俺たちは、ちょうど宗田さんの家の前あたりで、その妖怪をみつけた。

 和尚さんにも天子さんにも、その妖気はいやでも感じ取れたようで、みつけるのに何の苦労もなかった。お守りに入った童女妖怪を呼び出す必要もなかった。

 大きい。

 身長は五メートル近くあるだろうか。

 巨大ではあるが、その姿は、ちっとも妖怪らしくない。

 貴族のような気品に満ちている。

 月と星のあかりしかないが、不思議とはっきりと姿をみることができる。

 平安時代の貴族が着るような着物を着て、たっぷりしただぶだぶのズボンをはいて、足にはブーツのようなものを履いている。

 頭には冠をかぶっている。そして顔に何かを貼り付けているようだけど、後ろからはよくみえない。

 俺たちは、迂回して前に回った。

 顔に貼り付けているのは、大きな紙のようなものだ。その紙には、四つの目が書き込まれている。上二つの目は赤く、下二つの目は黄色い。本当に目として機能しているのではないかと思わせる実在感がある。

 首の周りには、きらびやかな紐というか帯が巻いてあり、そこからたくさんの紙垂がぶらさがっている。

 体が大きいわりに、進行速度は速くない。

 躍りながら歩いているからだ。

 いや、躍りというのとはちがうのかもしれない。

 両手を前方に差し伸べ、片方を伸ばし、片方をくるりと曲げ、ひらり、ひらりと手のひらを返しながら、両手の形を変化させている。

 足は奇妙なリズムを刻みながら、一歩一歩、差し出しては止め、持ち上げ、交互に足を重ねるようなしぐさで、前に運ぶ。よくみると、九歩周期で同じ動きを繰り返しているようだ。

 俺は、みとれた。

 すらりと伸びた指の美しさ。

 くるり、くるりと交差する手のあでやかさ。

 所作にあふれる気品。

 巨体からにじみでる、とてつもない威圧感。

 その威圧感をみごとに包み込む抑制。

 重量を感じさせないかろやかさ。

 この世のものではなかった。

 この世のものではない、完成された美しさが、そこにはあった。

 あこがれに似たまなざしで、俺は巨人とその歩みに、ただただみとれていた。

「鈴太」

「はい」

「お前には、方相氏がはっきりとみえているのか」

「はい。え? じゃあ、和尚さんにははっきりみえてないんですか?」

「うん。ぼんやりとしたかげろうのようにみえるだけじゃ。特別な歩法を行っておったぐらいのことはわかったがの。普通の人間には、あれはまったくみることができまいのう」

「そうなんだ。懐中電灯を持って来てますが、照らしてみましょうか」

「いや。刺激してはならん」

「はい」

 そのまま俺たちは、方相氏の移動をみまもった。

 方相氏は、土生地区に入り、村の西の端あたりに移動して、ふっと消えた。

 ずっと聞こえていた〈和びの鈴〉の音も止まった。

「〈隠形〉ではないのう」

「ちがうな。あれはただ消えたのじゃ」

「やはり異界渡りか」

「異界へ自由に行き来できる化け物ということじゃな」

 その後、和尚さんはお寺に帰り、天子さんはわが家に来て寝た。

 俺も寝た。

 起きて二人は朝食を取ると、転輪寺に向かった。

 そこで俺は、方相氏が何者であるかを、和尚さんから聞くことになったんだ。


9


「鈴太よ。お前は方相氏について知らぬのじゃな」

「はい。知りません」

「そうか。なかなかに有名な鬼神ではあるのじゃがのう」

「きしん?」

「鬼に神と書いて〈きじん〉あるいは〈きしん〉と読む。鬼のごとき荒々しき神のことであり、あるいは神のごとく強大な鬼のことじゃ」

「そう、なんですね」

「鈴太は、みやこを知っておろう」

「みやこって、京都のことですか」

「京都というのは、ずっとあとにできた呼び名じゃ。もとは、ただ京と呼ばれた」

「平安京のことですね」

「まあ、そういうことじゃ」

「平安京が、どうしたんですか?」

「京を作った人々は、いってみれば非常に臆病であった」

「臆病」

「慎重であったとか、気配りが細かかったといってもよいが、やはり臆病というのがしっくりくる。しかも、病的なほどに臆病であった」

「そうなんですか」

「その結果、京には、幾重にも霊的な防御がほどこされた」

「霊的な防御?」

「陰陽道、神道、仏法、修験道、呪術、風水など、当時の最先端の学問技術で、守りを固めたのじゃ」

「防御に強い都市として設計されたということですね」

「そうじゃ。強すぎた」

「強すぎると、どういう問題があるんですか?」

「どれほど霊的な守りを固めても、呪的な防衛網を張り巡らしても、あやかしは一定頻度で生ずる。京ほどの規模をもてば、それはさけられぬ。そして守りが強すぎるため、生じたあやかしは、どこにも逃げることができん」

「あ、なるほど」

「その結果、京は設計者たちの意に反して、瘴気に満ちた場所にならざるを得なんだ」

「恐ろしいことですね」

「その瘴気をほうっておくわけにはいかぬ。ほうっておけば怪異が起こり続ける。しかも、最も守るべき場所にこそ、瘴気が強くこもることになる」

「瘴気っていうのは何なんですか?」

「ふむ。神気といい、妖気といい、瘴気というが、それらには、実は明確な区分があるようでない」

「えっ。そうなんですか?」

「霊的な威力はさまざまな名をもって呼ばれ、悪さをなすものは妖気や瘴気と呼ばれ、尊く清いものは神気や仙気などと呼ばれるのじゃな。しかし、神霊の宿す神気が、怒りや恨みによって、たちまち瘴気と化すこともある。とにかく瘴気と呼ばれるものは、けがらわしく、人に害を与え祟る霊気じゃと思うておけ」

「はい」

「さて、たまりにたまった瘴気をはらわねばならぬ。また、瘴気からうまれたあやかしどもをはらわねばならぬ。まずもっては御所を浄め、そして京全体を浄めねばならぬ。しかし、そんなことは、京のすべての法師を集めても、いや日の本のすべての術者を集めても、とてもかなうことではなかった」

「それで、どうしたんです」

「ここに、天才的な陰陽師がおった。この男は、こう考えた。異界から鬼神を呼び寄せ、その鬼神の力をもって、よこしまなるものどもを追い払えばよいとな」

「その鬼神というのが方相氏なんですか?」

「そうじゃ。その陰陽師は、歴史上にも類をみない強大な鬼神を呼び出す法を編み出し、実際に呼び出してみせたのじゃ」

「その陰陽師は、すごい霊力の持ち主だったんですね」

「そういうわけでもない。人間が持つことのできる霊力など、たかが知れておる。優秀な術者は、自分の力でわざをなすのではなく、清明な心と正しきことわりをもって、術を行うのじゃ」

「よくわかりません」

「まあよい。とにかく強大な鬼神が呼び出された。そしてそれを使役するため、名が与えられた」

「あ、それが方相氏なんですね」

「そうじゃ。方相氏、という名は、いかにも人の名であり、身分のある者の名であり、役目を持つ者の名であろう。〈方相氏〉という名のしゅで縛り付けることで、はじめて使役することがかなったのじゃ」

「なるほど」

「方相氏の霊力は強大で、京にあふれる鬼も、物の怪も、幽霊も、怨霊も、化生けしょうも、諸々のあやかしも、吹き飛ばされ、掃き飛ばされてしもうた。もっとも、京の守りは鉄壁であるがゆえ、それらのあやかしはどこに行くこともできず、京の所々に閉じこもったのじゃがな」

「え。それじゃ、意味がないんじゃ」

「そんなことはない。悪鬼たちは、おのおのすみかを定めて、そこから動かぬようになった。たとえば、羅城門の鬼は羅城門から出ぬようになった。となれば、近づきすぎたり、禁を犯して祟られたりさえせねば、障りはない」

「あ、そうなんだ」

「ただし、方相氏は強力すぎた。それほどに強力な鬼神を常時使役するのは危険でもあり、逆に世を騒がせることにもなる。まあ、大掃除を毎日すればほこりが立ってしかたがないようなものじゃ」

「なるほど」

「じゃから、方相氏があやかしをはらうのは、年に一度と定められた。そして、〈追儺ついな〉という儀式が生まれたのじゃ」

「ついな、ですか?」

「〈追い払う〉という意味じゃな。〈鬼やらい〉ともいう。大みそかに行われる。魔をはらう儀式じゃ。一説には、節分の起源でもあるとされておるの」

「とにかく、うまくいったわけですね」

「そうじゃ。ただし、それはその陰陽師が存命のあいだのことじゃ」

「あ」

「その陰陽師は、自分の死後は、もう方相氏を呼び出してはならぬ、と遺言した。そこで何年ものあいだ、方相氏が呼び出されることはなかった」

「はい」

「じゃが、そうすると、あやかしどもが悪さをはじめた。身分高き人々は、跳梁跋扈するあやかしに我慢ならず、これを打ち払うようにと、陰陽頭おんみょうのかみに命じた」

「呪術師の棟梁みたいな人ですね」

「うむ。しかし、京にあふれるあやかしはもちろんのこと、御所に出没するあやかしでさえ、陰陽寮の陰陽師をかき集め、修験者や法師をかき集めても、とてもはらえるものではなかった」

「それで、どうなったんです? ……まさか」

「陰陽頭は、ついに方相氏を呼び出してしもうた。呼び出すための手順は記録されておったのじゃな」

「呼び出せたんですか?」

「呼び出せた。道がついているのじゃし、かの鬼神は名で縛ってあるのじゃから、手順さえ正しければ、呼び出すことはむずかしくなかった。しかし、使役することはできなんだ。その陰陽頭は、方相氏に喰い殺された」

「うわ」

「とはいえ、あやかしたちは逃げ散ったから、方相氏を呼び出した目的は、果たせたといえば果たせた」

「で、でも、その方相氏はどうなったんですか?」

「ほうっておけば、京が方相氏に滅ぼされたじゃろうな」

「そうはならなかったのは、なぜなんですか」

「誰が思いついたのかは知らぬ。しかし、当時の支配層は、恐るべき方法で、この問題に対処した」

「恐るべき方法?」

にえじゃ」

「にえ?」

「生け贄じゃよ。方相氏が満足するまで、人を食らわせ続けたのじゃ」

「えええっ」

「その数は百人であったとも、五百人であったともいう。罪人や、身分のいやしき人々が、いやおうなく犠牲にされた」

「なんという」

「本当に恐ろしいのはそれからじゃ」

「え」

「数年間は、方相氏は呼び出されなんだ。しかし何年かして、誰かが言い出したのじゃ。あやかしが多すぎる、また方相氏を呼び出そうではないかと」

「まさか」

「今度は、あらかじめ、罪人や、身分のいやしき人々が用意され、贄とされた」

「そんなことが、ずっと続いたんですか?」

「長いあいだ続いたようじゃな。しかし、あるときから、呼び出しても方相氏は現れんようになった」

「それは、どうしてでしょう」

「たぶん、寿命がきた」

「寿命?」

「人としての名に縛られたため、方相氏には、さほど長くない寿命が定められたのではないかと思う」

「そうですか。そして今回、その方相氏がよみがえったんですね」

「そういうことじゃろうなあ。しかし、まさか方相氏に遭うことがあろうとは」

「どうやって倒せばいいんでしょうか」

「倒せぬよ」

「え?」

「わしや天狐が逆立ちしても、方相氏には太刀打ちできぬ」

「え、そんな」

「そもそも戦いようもない」

 この言葉は、俺には衝撃だった。

 どんな妖怪が現れても、和尚さんと天子さんなら倒せる。いつのまにか、俺はそう信じていたんだ。

「法師どの」

「何じゃな、天狐」

「方相氏は、昨日は、村の東から北に歩いた」

「うむ」

「今日は、北から西に歩いた」

「うむ。いかにも」

「あれは、何をしているのであろうか」

「呪法、じゃろうなあ」

「何の呪をかけておるのであろう」

「さあの。かけておるのかもしれぬ。解いておるのかもしれぬ」

「なるほど。奇妙な歩き方をしておったが、あれが〈禹歩うほ〉か?」

「禹歩じゃな。〈反閇へんばい〉を行っておった」

「なぜ禹歩を?」

「禹歩には疫病をはらう力がある。もともと方相氏が京を練り歩いたとき、禹歩を用いたとも聞いておる」

「この村に、今、疫神がおるのか?」

「おらんじゃろう」

「では、何をはらう」

「はらっておるともかぎらん。いにしえの術者は、禹歩で竜を呼び出したともいう」

「竜じゃと!」

「じゃが、方相氏自身が絶大な力を持つ鬼神じゃ。呼び出す意味がない」

「まさか、逆に疫神を呼び出すのでは?」

「さあて。禹歩で疫神を呼び出すなど、聞いたこともない」

 呪法。

 何を呪うんだろう。

 その術が完成したとき、何が起こるんだろう。

 村にとてつもない異変が起きるんだろうか。

 村人のことごとくが死んでしまうんだろうか。

「百人とか五百人の人を、犠牲にして方相氏を異界に帰したんですね」

「うん? そう伝わっておるのう」

「ここでも方相氏は、百人とか五百人とかの人を喰らい尽くすんでしょうか」

「わからん」

「鈴太よ」

「天子さん。何とかしなきゃ。そうでなきゃ、恐ろしいことが起きる。俺たちが何とかしなきゃ」

「何もできぬ」

「て、天子さん」

「これは、何かの工夫でどうにかなるというような問題ではない。わらわたちが方相氏をどうにかするなど、到底かなわぬことなのじゃ」

「天子さんの結界なら。あの結界なら、方相氏を閉じ込められるんじゃないかな」

「いつまでじゃ」

「え」

「一瞬なら、閉じ込められるかもしれぬ。じゃが、方相氏がその気になれば、わらわの結界など、たやすく壊すであろう。そもそも結界で方相氏の体は閉じ込められても、霊力を封じ込めることはできぬ。方相氏は結界のなかからでも、手振り一つでこの村を滅ぼすであろうよ」

「そんな。そんな……」

「わらわは、勘違いをしておった」

「勘違い?」

「溜石じゃ」

「溜石が、どうしたの?」

「溜石は妖気をため、たまった妖気からあやかしが生まれると、わらわは考えておった」

「え? それのどこがちがうと」

「考えてみれば、そうではないことは明らかであった。水虎を思い出すがよい。あれは神話時代の強大なあやかし。溜石の妖気程度では、あれを生み出すことはできぬ」

「でも、現に溜石から水虎が生まれたんじゃ」

「溜石は、いわば呼び水なのじゃ。強大なあやかしを呼び寄せる目印なのじゃ」

「呼び水……」

「わらわたちは、溜石から現れるあやかしを、あるいは倒し、あるいは封じて、一喜一憂しておった。妖気がたまりすぎさえせねば、敵の狙いを封じることができると思っておった」

 それは俺が考えたことだ。まちがっていたんだろうか。

「じゃが、敵の狙いはそのようなものではなかった。たった一つでよかったのじゃ。十二個の溜石から、たった一つ、真に強力なあやかしが生まれれば、それでこの里は滅びる。しかし……」

「しかし、しかし何なの、天子さん」

「わらわは力をたくわえねばならぬ。今日はこれで帰る」

 そう言って返事も待たず、天子さんは帰ってしまった。

「あちきもお守りに戻るです」

 ひと言も発しなかった長壁は、お守りに戻った。

 和尚さんも、寝ると言って奥に下がった。

 俺は、とぼとぼと帰宅するしかなかった。


10


 悔しかった。

 情けなかった。

 村が危機に瀕しているのに、何もできない自分が腹立たしかった。

 そうこうしているあいだに、客も来る。

 何とか顔つきだけは平静をよそおって商品を売ったけど、とても愛想よくすることはできなかった。今日来たお客さんは、俺がひどく機嫌が悪かったと思うことだろう。そんなことはどうでもいい。

 地面に落ちて消えてなくなりたいような気分になった。

 結局、俺には何もできない。

 俺には何の力もない。

 無力感と絶望に、俺は打ちのめされていた。

 そんな気分のときでさえ、おなかは減る。

 ラーメンを二杯作った。

 肉と野菜とかまぼこと油揚げを入れて。

 二つのラーメンをちゃぶ台に置いて、いつもの習慣で手を合わせると、どこからともなく童女妖怪が現れて手を合わせ、ずるずるとラーメンをすすった。

 無言だった。

 童女妖怪も、俺も、ひと言も発さずに食事は終わり、食事が終わると童女妖怪は、あいさつもなく巣に帰った。

 ラーメン鉢を片づけもせず、ごろんと横になった。

 和尚さんも、天子さんも、方相氏には太刀打ちできない。

 二人とも、戦うことなど考えていない。

 いったいこの村は、どうなるんだろう。

 方相氏は、東から北へ、北から西へと、村のなかを歩いた。

 今夜は西から南へ歩くんだろうか。

 そして明日の夜中には、南から東へ歩くんだろうか。

 そうだとすると、四日間で、すべての方角を歩いたことになる。

 それは何を意味するんだろう。

 呪いが村に満ちるんだろうか。

 東から北へ、北から西へ、西から南へ、そして南から東へと、ぐるりと一巡したとき、いったい何が達成されるのか。

 それは方相氏という、とんでもない力を持った鬼神が、わざわざ行っている儀式だ。とんでもない結果を引き起こす呪法にちがいない。

 だけど、それが何なのかはわからない。

 さっきの会話からすると、和尚さんにもわかっていない。

 天子さんには、和尚さん以上にわかっていない。

 どうも、こういう法術とか呪術については、和尚さんのほうが天子さんより、ずっと詳しいみたいだ。そういえば、法術を極めた術師だから、〈呪言じゅごん〉法師と名づけられたということだったっけ。

 ……待てよ。

 何が起きるのか、和尚さんにも、天子さんにもわかっていない。

 方相氏の狙いがどこにあるか、見当もついていない。

 だけど二人はあわててはいなかった。

 絶望してはいなかった。

 天子さんは、何と言っていた?

「わらわは力をたくわえねばならぬ」

 力をたくわえるのは何のためだ?

 たくわえた力を、どこで使う?

 それは方相氏と戦うためじゃない。そんなことは、二人とも考えてもいない。

 じゃあ、天子さんは何をしようとしているんだ?

「こんにちは〜」

 考えろ。考えるんだ。

「鈴太さあ〜ん。いるんでしょう」

 うるさいなあ。

「入るわよ〜」

 邪魔しないでほしいんだけどな。

「あら、いた。どうしたの? 寝転がって。具合が悪いの?」

 俺はしかたなく起き上がって、返事をした。自分でもびっくりするぐらい、不機嫌そうな声だった。

「何かご用ですか」

「あら、まあ。ご機嫌斜めね。あれ? 天子さんはどうしたの? いないみたいね」

「家に帰りました」

「実家に帰っちゃったの? どうしたの? けんかでもしたの?」

 わかっている。

 山口さんは、俺を励まそうとして、わざとからかうような言い方をしてるんだ。

 だけど、その言い方の何かが、ひどく俺の気にさわった。

「うるさいな」

「あら」

「買い物があるなら、さっさと買ってください。配達はしません」

「……鈴太さん」

「何ですか!」

「心のやわらかさをなくしちゃ、だめ」

「……」

「何が起きたのかはしらないけど、怒りや腹立ちは、心を曇らせるだけよ」

「あなたに言われたくないです」

「あら、ごあいさつね。そうね。あたしも、怒りにまかせて見合いばばあにコーヒーをぶっかけたりしたわ。でもね、それは感情の奴隷となったのとはちがうのよ」

「どうちがうんですか」

「怒っている自分のもうひとつ奥に、この怒りを解き放っていいかどうか、冷静にみきわめている自分がいるの」

「……」

「そして、今は感情で動くべきだとみきわめがついたから、感情を解き放ったのよ」

「……」

「そうなれば、怒りは心強い味方になる」

「怒りが……味方に」

「そうよ。怒りがなければできないことができる。普段の自分ならできないことがでる。状況を突破させてくれる力がもらえる。今でもあたしは、あのときのことを後悔してない」

「実際に、うまくいきましたしね」

「それは結果論ね。あのばばあが、あのあとどういう行動を取るかまでは、予測できなかった。全然ちがう結果になったかもしれなかった。それでもあたしは後悔しなかったと思うわ」

「後悔……しない」

「鈴太さんも、怒りを味方につければいいわ。そして、後悔しない道を選んでね」

「後悔しない道を、選ぶ……」

「じゃあ、帰るわ。今日はぷんすか怒ってる鈴太さんという、貴重なものがみられてよかった。また来るわね」

 山口さんは、そう言い残して、さっさと立ち去ってしまった。

 その後ろ姿に、俺は小さくお礼を言った。

「ありがとうございます」

 聞こえたはずもないのに、遠くを歩く山口さんが、後ろ姿のまま右手をひらひらと振った。


11


 もう一度、よく考えてみよう。

 事のはじめから考えるんだ。

 天子さんは、何のために、ここにいる?

 和尚さんは、何のために、ここにいる?

 二人が一番大事にしているのは、何だ?

 考えるまでもない。

 ひでり神さまの贖罪と修行が成就して、ひでり神さまが天界に帰ること、それを助け支えるのが二人の役目だ。その使命を弘法大師さまから与えられ、それが果たせるだけの寿命までもらった。二人は、千二百年にわたってそのことに取り組み続けてきた。二人にとって、それはもう命と引き換えにしてもいいぐらい大事なことだ。

 この村は、どんな村だ?

 この村は、もともと羽振の一族が暮らすために作られた村だ。それが、よそから人が入り込んだりして村になった。だけどそれは成り行きであって、本質的には、この村は羽振一族に奉仕し、ひいてはひでり神様の修行成就を支えるのが役割だ。そのためにできた村なんだ。少なくとも、和尚さんや天子さんからみれば、そうみえる。

 ここまで考えて、俺は恐ろしいことに気づいた。

 この村の村人が何人死のうと、疫病にかかろうと、二人にとっては、どうでもいいことなんだ。

 いや、どうでもいいというのは言い過ぎだ。二人は、二人なりのやり方で、この村の人々を慈しんでいるし、助けもしてきた。村の人たちが幸福になれるよう、自分たちにできることがあれば、惜しまずそれをするだろう。

 ただし、それは、重要度の一番上じゃない。優先順序の最初じゃない。

 ひでり神さまとその修行を守ることこそが、二人の目的であり、存在意義だ。その目的のために、村人をみすてることが必要なら、二人はためらわずにそうするだろう。

 そこまで考えれば、二人が何を考えているか、おのずとわかる。

 天子さんは、たくわえた力で、ひでり神さまを守るつもりなんだ。

 方相氏と戦って勝てるみこみはない。

 だから、方相氏が何をしているのかを、じっとみまもる。

 方相氏は何かを狙っている。その狙いは、村にとってろくなものであるはずがない。

 だから防御をひでり神さまに集中する。天子さんは、能力を振り絞ってひでり神さまを守るだろう。和尚さんは、それを助けるだろう。

 むしろ、村人が殺されているあいだ、ひでり神さまの安全が守られるなら、それは二人にとって、望むところなんじゃないだろうか。

 やがては天子さんも力尽き、方相氏に滅ぼされるだろう。

 だけど、それまで時間は稼げる。稼いだ時間で、修行が成就するかもしれない。それは可能性の低い賭かもしれないけれど、和尚さんと天子さんは、少しでも使命を果たす可能性はそこにある、と考えたはずだ。

 それに、村人をあるていど虐殺したら、方相氏は消えてくれるかもしれない。異界に帰ってくれるかもしれない。

 だから、和尚さんも天子さんも、方相氏に手出しをするつもりはない。

 下手に手出しをして目をつけられたら、使命の妨げとなる。

 そんなことは、絶対にしない。

 じっと身をひそめ、方相氏という嵐が、ひでり神さまという母屋を吹き飛ばすことなく過ぎ去っていくのを待つ。その母屋に危機が訪れれば、精いっぱいの抵抗をする。

 なんてことだ。

 二人にとって、村人をみすてるということは、決定事項なんだ。

 俺は、いったいどうすればいいんだろう。


12


 夜になっても、和尚さんも天子さんも、やって来なかった。

 俺は暗澹たる気持ちになった。

 やはり二人は、方相氏の邪魔をしないという選択をしたんだ。

 方相氏に目をつけられたり、攻撃対象にされたりしないように、できるだけ方相氏に関わらないことにしたんだ。

 俺は厚着をして、重い足を引きずって、昨日方相氏が消えた場所を訪れた。

 夜中の一時を過ぎた時刻だ。

 昨日も一昨日も、方相氏は夜中の二時に現れた。たぶん今日もそうだろう。

 九月の下旬だけど、さすがにこの時間は寒い。

 ひどく心細いけど、首にかけたお守りが、わずかに勇気を与えてくれる。

 童女妖怪は、俺の呼び出しに応えて現れ、素直にお守りに入ってくれた。といっても、童女妖怪は、戦いということになると、俺以上に非力だ。何もできない。それでも、一緒にいてくれることが心強かった。

 怒りか。

 怒りに燃えていれば、こんな心細さなんか、吹き飛ばせただろう。

 寒さにがたがた震えることもなかったろう。

 けれど、俺の心は弱い。

 怒りの炎でさえ、強く長く燃やし続けることができない。

 今も怒りは感じている。この理不尽さに怒りを感じないわけがない。でも無力感のほうが、はるかに大きい。この重苦しい夜空に、押しつぶされてしまいそうだ。

 二時が近づいてきたので、懐中電灯の光りを消した。


 ちりーん。

 ちりーん。


 家に置いてきた〈和びの鈴〉の音が、俺の耳にははっきり聞こえた。

 そして、やつは現れた。

 でかい。

 やはり、ものすごく、でかい。

 恐ろしくて、あまり近くには近寄れないが、こんな田舎では、高い建物なんてないから、方相氏の五メートル近い巨大な身体は、とてつもない存在感を放っている。

 そして、なんという強い気配だろう。

 和尚さんと天子さんがそばにいるときには、それほどの脅威は感じていなかった。いや、感じてはいたんだけど、それは鉄鼠や水虎のときも感じていたし、一日前には、何とかなるんじゃないかという楽観的な気持ちがあった。

 しかし今、戦いようもなく強大な相手と知って、その姿を視野に収めると、異常な妖気に圧倒されてしまう。たぶん、和尚さんや天子さんは、俺の何倍もこの気配を感じるんだろうから、こんなやつに近づきたくないのは無理もないのかもしれない。

 巨大な鬼神は、奇妙な歩法で、しかしたゆむことなく進んでゆく。

 土生地区の田んぼのなかを抜け、五頭家の近くを通過した。

 雄氏地区に入った。佐々家につづく道を横切り、村役場の横を通り、とどまることなく歩いてゆく。

 俺は、説明のつかない違和感を覚えていた。

 何かちがう。

 昨日とちがう。

 昨日の方相氏とは、何かがちがう。

 勇気を奮い起こして、方相氏との距離を詰めた。

 といっても、十メートルは離れている。これだけの距離に近づくにも、決死の覚悟が必要だった。

 これだけ離れているのに、まるですぐそばにいるように感じる。

 ひらひらと振り回している手がこちらに伸びてくれば、たちまち俺の頭はにぎりつぶされてしまうだろう。そんな恐怖がある。

 こみ上げてくる悪寒を押し殺しながら、俺はじっと方相氏をみつめた。

 わかった。

 手だ。

 昨日みた方相氏の手は、貴人の手のようにさらさらとしており、ほっそりと伸びて美しかった。

 だが、今日の方相氏の手は、毛むくじゃらだ。

 肌の色もちがう。

 白く美しかった肌は、真っ赤にそまっている。

 どうして今まで、こんな明らかなちがいに気づかなかったんだろう。

 そう考えてみて、気づいた。

 そもそもこの暗がりで、誰かの肌の色や手のようすがきちんとみえるわけがない。

 こうして歩いているのでも、懐中電灯の光量を最小に設定して足元を照らし、ようやく歩けているんだ。

 なら、どうして俺は、方相氏の手や肌のぐあいが昨日とちがうこと、みわけることができたんだろう。

 これは肉眼でみてるんじゃないんだ。

 〈真眼〉という能力でみてるんだ。

 だから集中を高め、やつの姿をみきわめようとしたとき、はっきりと昨日と今日のちがいをみわけることができた。

 はっと気づいた俺は、方相氏の横側に回り込んで、顔の前に貼り付けられた紙の、その内側をのぞきみた。

 鬼だ。

 たしかに昨日は高貴な人のような顔つきだったはずだ。

 しかし今夜の方相氏は、鬼そのものの姿をしている。

 村のなかを東西南北とめぐりながら、方相氏は、人から鬼に変じようとしているんだ。

 誰かが来る。懐中電灯がまぶしくて、顔がみえない。

 誰だ、こんな時刻に?

「やっぱり、鈴太さん」

 未成さんだった。

 そういえば、ここは足川家のすぐそばだ。

「何かが、いるの?」

 未成さんには、方相氏の姿がみえていないようだ。

「ええ。いるといえば、いるんですが……」

「すごく奇妙な、そして不気味な気配を感じて、じっとしていられなくなったの。昨日の夜中にも感じたんだけど、今日はうんと強い気配がして。いったい、何なの?」

「よくわからないんです」

「もしかして、鈴太さん、昨日の夜も……」

「ええ。昨日の夜中にも、この気配を追いかけていました。取りあえず、何か悪さをするということはなかったんですが」

「そう。そうなの。ご苦労さまね。鈴太さんは、この村の守り神さまね」

「いや、そんなことは全然」

「あの辺りにいるのね」

「はい。かなり大きなものですね」

「鈴太さんには、みえるのね?」

「はい」

「やっぱり鈴太さんは、特別な人なのね」

「いえ、そんなことはないです」

「鈴太さんがみはっててくれるなら安心ね。この村も未完も」

「さりげなく危険な話題を振らないでください」

「うふふ。私は寝るわね」

「はい」

「鈴太さんも、あまり無理しないでね」

「はい」

「おやすみ」

「お休みなさい」

 そうしているまにも、方相氏は進んでゆく。

 やがて、雄氏地区と有漢地区を隔てる森の間際までやってきた。

 まっすぐ進めば、細い道があることはあるが、頭上には木々が立ち込めていて、方相氏の巨体が通れるとは思えない。

 どうするのだろうとみていると、森の手前で方相氏は立ち止まり、消えた。

 鳴り続けていた〈和びの鈴〉の音も止まった。

 俺は、そのまま地面に倒れてしまいたいような疲労を感じた。

 待て。

 何かが来る。

 足音だ。

 しかも、一人じゃない。

 これは、この足音は。

 森のなかから和尚さんと天子さんが出てきた。

 そういえば、ここをまっすぐ進めば、ひでり神さまの家だ。

 もちろん、今まで現れた妖怪たちは、特にひでり神さまを狙ったりはしなかった。水虎はひでり神さまを探そうとしていたけど、それは天逆毎の命令を受けてのことじゃない。天逆毎は、水棲の妖怪以外にはたぶん命令を伝えられないし、伝えられたとしても、ひでり神さまを直接襲わせようとはしない。これまではしてこなかった。

 とはいえ、まっすぐ進めばひでり神さまの家なんだから、何かの成り行きでひでり神さまの安全がおびやかされないともかぎらない。

 この二人は、その危険に備えて、有漢地区で待機していたんだ。

「やはり来ておったか」

「人の身では、こんな深夜は寒かろうに」

「和尚さん、天子さん。方相氏が変化してきてる」

「なにっ」

「何と申した。まことか」

「今夜、じっと方相氏をみたんだ。すると昨日の夜とはちがいがあった」

「ほう」

「それは何じゃ」

「昨日、方相氏の手は、貴族のようなすらっとした美しい手だった。でも、今夜の方相氏の手は、毛むくじゃらで、鋭い爪が生えていた」

「む」

「そう……か」

「肌の色は、白い色から真っ赤な色に変わり、顔は人の顔から鬼の顔に変わっていた」

「なるほどのう」

「そういうことであったか」

「方相氏は、人から鬼に変じようとしてるんだ」

「というより、戻ろうとしておるのじゃな」

「法師どの。やはりそうか」

「陰陽師のかけた呪により、鬼神が方相氏となった。その方相氏という皮を脱ぎ捨てようとしておるのじゃな」

「鬼神に戻るためか」

「そうじゃろうな」

「何のために」

「考えてみれば、方相氏となることで、鬼神にはいろいろな枷がつけられた」

「そういえばそうじゃな」

「まず、寿命じゃ。現世への出現にも何か制限がつけられたかもしれぬ。ふるう力にも制約が加えられたかもしれぬ。そうしたことの詳細は、もはや調べようもないが、異界の鬼神を現世に呼び出すについて、才たけた陰陽師に手抜かりはなかったはずじゃ」

「その制約を取り払いたいのじゃな」

「うむ。それに何より、鬼神にとって、人という皮をかぶらねばならぬことは、我慢ならぬほどいまいましいことであろうよ」

「皮を脱いだら、どうなる」

「何の制限もなく、力を振るうじゃろうな。おのれをおとしめた人間というものへの恨みのままにのう」

「人間への、か」

「まさか、和尚さんも天子さんも、方相氏の恨みが人間に向かうなら、ひでり神さまは安全だとか思ってないだろうね」

「む、鈴太」

「わらわたちの考えが、わかっておったか」

「和尚さんと天子さんは、ひでり神さまのことを一番に考えるはずだ、と気づいたんだ。村の人たちのことよりね」

「鈴太よ、わしらを非道とののしるか」

「いや、立派だと思う」

「なにっ?」

「和尚さんも、天子さんも、自分の欲のためでなく、気の毒なひでり神さまを天界に返すため、千二百年もすべてをなげうって尽くしてきた。今もその気持ちに少しの揺らぎもない。立派だと思う」

「なんとのう」

「鈴太……」

「だけど、俺の気持ちはちがう。なるほど俺は羽振の末裔であり、〈はふり〉の願いと役割を継ぐ者だ。だけど俺には俺の人生があり、経験があり、価値観がある」

「うむ」

「それは当然じゃ」

「さっき、未成さんに会った」

「ああ。気配は感じておった」

「すぐに引き返したようで安心したのじゃ」

「未成さんをみていて思ったんだ。この人を無為に殺させたくないって」

「むう」

「鈴太。それは、わらわとて同じことぞ」

「うん。でも、和尚さんも天子さんも、方相氏が村の人たちを皆殺しにしようとしても、抵抗するつもりはないでしょう」

「これはずばりと訊いたものじゃな」

「鈴太。ほかにどんな道がある」

「わからない。でも道はないようにみえても、あるかもしれない。それを諦めたくないんだ」

「わらわたちとて、諦めておるわけではない」

「なら、最後の瞬間まで一緒に考えてほしいんだ。みんなを守る道がないかどうか」

「……」

「それは、むずかしいことじゃ」

「鈴太。はっきり言うておく。少しでもあのかたに危険が及ぶようなことを、わしも天狐もするつもりはない。何と引き換えにしてもじゃ」

「うん。それはわかってる。でも、黙ってみまもるのが最上の道なのかな。それでひでり神さまも守れるのかな」

「それはわからん。じゃが、不用意に攻めて危険を増やすより、息をひそめて守りに撤するほうがよいというのが、わしの考えじゃ」

「天子さんも同じなの?」

「わらわには、そもそも攻撃する力がほとんどない。この十本の爪だけじゃ。これでは方相氏には、かすり傷一つつけられぬ。みてわかった。あれは、わらわとは格がちがう」

「うん。和尚さんの考え方も、天子さんの考え方も、だいたいそんなところだろうと思ってた。でも、きちんと話してみて、よくわかったよ」

「わかってどうする」

「わからないです、和尚さん。でも、とにかく、明日も方相氏の歩行をみまもってみようと思います。みまもりながら、何か道がないか考えてみます」

「うむ。わしも明日の夜は同行しよう。いずれにしても、方相氏が何をするかはみとどけねばならん」

「わらわも同行しよう」

 これで明日の夜は、今夜のような心細さで歩かずにすむ。

 だけど、和尚さんと天子さんの心づもりもはっきりとわかってしまった。

 二人に、何か道がないか考えてみようと言ったけど、実のところ、そんな道があるとは全然思えない。どう考えても、何もできない。

 気がつくと、午前三時を過ぎている。

 俺は家に帰って、風呂にも入らず、泥のように眠った。


12


 九月二十七日の朝、俺は目を覚ました。

 すごい寝坊をしてしまった。もう八時半だ。

 寝室のふすまを開けると、ぷうんと、味噌汁の香りがただよってきた。

「あ、天子さんが来てくれたんだ」

 今日はどちらが食事当番だったのか。いつのまにか、それがわからなくなっていた。けれどもう、そんなことはどうでもいいような気もする。できるほうが作ればいいんだ。一緒に作ったっていいしね!

「遅いのです」

「お、すまん。というか、ちみっこ、もう起きてたのか」

「昨日は早く寝たのです。夜更かしは美容の敵なのです」

「はは。なるほど。ちみっこ、頑張れ」

「言われなくても頑張るのです」

「朝から仲がよいのう。ちょうど準備も整うた。頂くとするかの」

「いただきます」

「いただきまーす」

「頂戴する」

 三人は朝食を食べた。

 珍しくテレビをつけた。

 台風がぐるぐる迷走しつつ、今度こそ中国地方に上陸しそうな気配だと報じている。

 不思議なことに、昨夜のいらいらした気持ちは、どこかに忘れ去ったように、今日は心の調子がいい。

 なぜだろう。

 味噌汁の匂いのおかげかもしれない。

 台風が近づいているというのに、空は晴れわたっている。

 だけどどういうわけか、この日はお客さんが少なかった。

 午前中に二人。

 しかもそのうち一人は秀さんで、買い物もせず世間話だけをして帰った。

 午後にはまったくお客さんもなく、注文も来なかった。

 山口さんも来なかった。

 少し字を書いた。「花鳥風月」の「鳥」という字が奇麗に書けた。うれしかった。

 神社にも行った。

 二十五日以来掃除をしていないので、こんな時間だけど掃除をした。

 掃除を終えた神前を、俺は拝んだ。

 どうぞ、方相氏への対処がうまくいきますように。

 この平和が明日も続きますように。

 そう祈った。

 この日、天子さんは一日家にいてくれた。

 どうでもいいが、童女妖怪も、ずっと出現したままだった。まあ、寝転がって漫画を読んでただけだけど。最近、柿ピーがお気に入りだ。

「油揚げ味の柿ピーが出たら、きっと爆発的にヒットするのです」

 ヒットするか、そんなもん。第一、いくら亀田製菓でも、油揚げ味は出さないよ。

 赤城乳業なら、〈ガリガリ君油揚げ味〉とかを出すかもしれないけど。

 夕食の時間となった。俺が作った。

 今日は餃子だ。ただし、外側は餃子の皮ではなく、油揚げだ。

 うん。新食感だな。

 童女妖怪は驚喜していた。

 天子さんも、おいしそうに食べていた。

 仮眠を取った。

 十一時五十分に目覚ましをセットしたけど、十一時四十分に目が覚めた。

 小腹がすいたので、カップ麺を一つ食べた。

 天子さんは、お茶だけを飲んだ。

 童女妖怪は、赤いきつねを食べた。

 厚着をして、家のご神前に手を合わせた。

 ふと、社の横に置いた〈和びの鈴〉が目に入った。俺は鈴を持ち上げると、ポケットにしまった。

 そして、十二時三十分に、俺たちは家を出た。もちろん童女妖怪は、首に提げたお守りのなかだ。

 昨日、方相氏が消えた場所に着いたのは、一時を少し回った時刻だ。すぐに和尚さんもやって来た。

 和尚さんが手に持って肩に担いでいるものをみて、俺はぎょっとした。

 金棒だ。

 たっぷりの太さを持ち、無数の突起がついた長大な金棒を、和尚さんは持ってきた。

 ということは、戦うつもりなんだろうか。

 いや、そんなはずはない。しかし万一の場合を考え、最強の武器を用意しておいたんだろう。

 べつに隠れる必要もないんだろうけど、俺たちは、少し東に移動して、森のなかに入った。

 そして、二時になった。


 ちりーん。

 ちりーん。


 鈴はポケットに入ってるんだけど、どこからともなく鈴の音がした。

 澄みきった奇麗な音だ。

 方相氏が現れた。


 おんおん。

 おんおん。


 びっくりした。

 これは、方相氏の声なんだろうか。

 その姿は、昨日みたのとほとんど同じなんだけど、何といえばいいのか、すごく禍々しい。邪気の塊のような気配を感じる。

「むむ。みえる。今日は、はっきり姿がみえる」

「わらわにもみえる。法師どの。これは、どういうことかの」

現世うつしよで何かをしようとしておるのじゃろうなあ」

 すぐに方相氏は、奇妙な手振りと足つきで進みはじめた。

 俺たちは、距離を置いて、後を追った。

 十分ほどしたとき、誰かが懐中電灯を持って近づいてきた。

 未成さんだ。

「鈴太さん。皆さんもご一緒なのね。今夜も変な気配が……きゃあ!」

 未成さんは、懐中電灯の光に照らされた方相氏をみて悲鳴を上げた」

「あ、あれは、あれは、何?」

「みえるんですね? あれがみえるんですね」

「み、みえるわ。何かどろどろしたものが渦を巻いてる。角が突き出ている」

 そういえば、今夜の方相氏の頭からは、大きな二本の角が突き出ている。

「どろどろしたもの? 頭や手や足はみえてますか?」

「頭? 手? 足? そんなものはみえない……いえ、そういえば、足のようなものを動かして移動してるのね」

 完全にみえているというわけではないようだ。

 それにしても、昨日はまったくみえていなかったはずの方相氏が、今夜はおぼろげながら見えている。

 なんだろう。

 ひどく胸がざわつく。

「未成さん。ここは危険です。帰ってください」

「き、危険なの? でも、それなら、鈴太さんも危険じゃないの?」

「わかりません。それをみきわめるために、ここにいるんです」

「わ、私、帰るわ。鈴太さんも、危ないようすだったら、すぐに帰るのよ、いい?」

「はい。わかりました」

 この場所に居続けるのにたえられないようで、未成さんは、すぐに引き返した。

 方相氏はずんずん進んでゆく。

 この道は、何日か前に萬野銀子さんを案内した道だ。こんなに恐れと不安を抱えながら歩くことになるとは、あのときは思いもしなかった。

 相変わらず鈴は鳴り続けている。

 未成さんには、この鈴の音は聞こえなかったんだろうか。


 おぉーんんん。

 おぉーんんん。


 方相氏は、時々不気味なうなり声を上げる。その声が腹に響くと、何かしらこの道が、異界に続く道であるかのような気にならされる。

 空が曇ってきた。

 先ほどまでは晴れていたのに。

 黒々とした雲が空のいたる所からにじみ出てきて、天空を覆ってゆく。

 ごうごうと音を立てながら、雲は渦巻き、成長する。

 何か、よくないことが起ころうとしているんじゃないだろうか。

 もうすぐ、取り返しのつかないことが起きるんじゃないだろうか。

 何とかして、方相氏を止めないといけない。

 あの歩みを止めないといけない。

 そうしないと、村は魔界に堕ちてしまう。

 もう乾物屋の横も過ぎた。あとわずかで村の東の端に着く。

「和尚さん」

「何じゃ、鈴太」

「あの歩きは、呪術なんですね」

「そうであろうなあ」

「では、このまま歩き続ければ、その呪術が完成するんですね」

「そうじゃと思う」

「なら、その歩みを乱せば、呪術は完成しませんね」

「おい、鈴太。馬鹿なことを考えるのはよせ」

 ほんとに、この夜の俺は馬鹿だった。

 あとになってみても、どうしてあんなことをしたのかわからない。

 ただただ、方相氏のもくろみを妨げねばならないと、その思いばかりが俺の心を支配していた。

 俺は背負っていたリュックから、鉈を出した。

「よせ、鈴太」

「方相氏に手出しをしてはならぬ」

 和尚さんの言葉も、天子さんの言葉も、俺の耳には入らなかった。

 俺は、制止しようとする和尚さんの手をくぐり抜け、鉈を振り上げて方相氏に走り寄った。

 そのとき、俺の心に恐れはなかった。

 ただ狂気があった。

 いや、恐れが狂気を生み出したのかもしれない。

 狂気は俺に、普段では考えられない力を与えてくれた。

 その正気ではない力をもって、俺は鉈を方相氏の左足にたたき付けた。


13


 鈍い音がして、鉈は左足に食い込んだ。

 そのとき方相氏は右足をすりあげていたから、軸足を攻撃したことになる。

 いくら方相氏でも、まともに立ってはいられないはずだ。そう思った。

 でも、方相氏は、こゆるぎもしなかった。

 その歩みはまったくゆらぐことがなかった。

 俺の攻撃など、まったくなかったかのように、方相氏は前に向かって歩を進める。

 食い込んだと思った鉈の刃は、ちっとも食い込んでなんかなかった。ゆったりとしたズボンのせいで、食い込んだかのような錯覚を覚えただけだったんだ。


 ちりーん。

 ちりーん。


 すでに方相氏は二十メートル以上先を歩いている。

 呆然としていた俺は、鈴の音で我に返り、ポケットの〈和びの鈴〉を取り出した。

「鈴太。これ以上、方相氏を刺激してはならん」

「今のでわかったであろう。何をしても無駄じゃ」

「このままほおっておいたらだめだ。やつの歩みをさまたげないと、恐ろしいことが起きる」

「鈴太!」

 俺は再びつかみかかった和尚さんの左手をかわして、方相氏に走り寄った。

 そして方相氏の十メートルほど後ろで、〈和びの鈴〉を高々と掲げ、振った。


 ちりちりちりーん。

 ちりちりちりーん。


 今までより数段力強い鈴の音が響いた。

 方相氏が、左足を持ち上げた姿勢のまま、ぴたりと止まった。

 そして、左足を持ち上げたまま、体をぐるりと回転させてみせた。

 それは不思議で不自然な光景だった。

 何の力を加えられることもなく、地に降ろした右足を軸に、全身が百八十度回ったのだ。

 顔に貼り付けられた紙に書かれた四つの目の、その下側の黄色い二つの目が、ぎろりと下に動いて、俺を捕らえた。

 死神に心臓をつかまれたような錯覚を覚えた。

 だけど俺は勇気を振り絞り、〈和びの鈴〉を振りかぶった。

 あとになってみても、どうしてそんなことをしたのかわからない。

 だけどそのときは、そうすることが必要だと知っていた。

 自分が求め願うもののためには、こうしなければならないと直感していた。

 俺は、〈和びの鈴〉を、方相氏の顔面に向かって投げつけた。

 鈴は虚空を飛び、狙いあやまたず、方相氏の顔を直撃した。

 どごおん、とすさまじい爆発が起きた。

 鈴は跳ね返って、ちりんと短い音を立てて地に落ちた。

 方相氏の顔は爆発して、もと顔の一部であったものがまき散らされた。

 そのうちのいくぶんかは、俺の体にも降りそそいだ。

 もうもうと煙が立ちのぼっている。

 方相氏の顔であったところから立ちのぼっている。

 誰も動かず、誰も声を発しなかった。

「や、やったのか?」

 天子さんが発した声は、少しかすれている。

 方相氏は、左足を持ち上げた姿勢のまま、少しも動かない。

 やがて顔から立ちのぼる煙が鎮まった。

 そこに貼りついていた紙は、もうない。

 粉々に吹き飛ばされてしまった。

 その下にあったはずの顔は、えぐれ、目も鼻もないどろどろの肉の塊がさらけ出されている。

 だが、方相氏の妖気もまた、少しも弱まっていない。


 ぐるる。


 それは虎のうなり声のようなものであり、もっとおぞましく恐ろしい何かだ。

 稲妻が光る直前の雷鳴のような声だ。

 そして恐ろしい光景を、俺はみた。

 ぐねぐねと、方相氏の崩れ去った顔がうごめいている。

 つぶれてえぐれた肉が、ぐもぐもと盛り上がっている。

 そして、びしびしと音を立てて肉はかたまり、鼻が、口が、牙が、目が、かたちづくられてゆく。

 言葉もなくみまもる俺たちの前で、方相氏は顔を取り戻した。悪鬼の顔を。

 目は四つある。

 紙に書かれていた目とおなじように、上二つの目は赤く、下二つの目は黄色い。いや、金色だ。

 黄色い二つの目は、先ほどと変わらず、俺にまっすぐ向けられている。

 そして宙をにらんでいた上の二つの赤い目が、ぎょろっ、ぎょろっと動いて地面のほうに向けられた。

(〈和びの鈴〉!)

 そこには思考も判断もなかった。

 俺は〈和びの鈴〉を拾おうとして前に飛び出した。

 そのとき俺は、方相氏のほうをみてはいない。だからこれは、あとで天子さんに聞いたことだけれども、方相氏は、首の周りに巻いたきらびやかな紐から一枚の紙垂を引きちぎって投げつけたという。

 何かが〈和びの鈴〉にたたき付けられるのを、俺はみた。

 土くれが激しく飛び散り、俺は思わず立ち止まって、顔を手で守り、目をきつく閉じた。

 すぐに目を開けて鈴をみた俺の目の前で、地面が溶けていた。

 しゅうしゅう、じゅうじゅうと音を立てながら、鈴の周りの直径一メートルほどの地面が、焼けただれ、崩れ落ちていた。

 ぶすぶすといやらしい匂いのする煙を上げながら、地面の穴は広がり、たちまち二メートルほどの大きさになった。

 鈴がある辺りは、ぐらぐら煮えたっており、とても近づくことはできない。

 ただみまもるしかない俺の前で、地面はさらに溶け、深い穴が生まれた。

 焼かれながらも鈴は形を保っているけど、穴はみるみるうちに深くなり、手の届かないところに沈んでゆく。

 あっというまに十何メートルという深さの穴になり、溶けた大地が流れ込んで、鈴はみえなくなってしまった。

 方相氏は、手のひらを上に向けて左手を突き出した。そして、親指をのぞく四本の指で、何かを引き寄せるようなしぐさをしてみせた。

 とたんに俺は、何か大きな手でつかまれたように、ぐいぐいと前に押し出されていった。足はほとんど宙に浮いている。だから踏みとどまることもできない。俺は地面にあいた穴を飛び越えて運ばれてゆく。

 方相氏は、右手を振り上げた。五本の爪が鋭く伸びて、俺が近づくのを待ち構えている。俺の体はなすすべもなく、方相氏に引き寄せられてゆく。

 わずかなあいだに、俺は方相氏のすぐ近くに到達していた。今や方相氏の四つの目は、すべて俺に向けられている。

 これは金縛りだろうか。俺は小指一つも動かすことができない。


 ぐる。


 かすかに方相氏が獰猛な笑い声を上げたような気がした。

 そして無情に、五本の爪が俺の頭上に振り下ろされた。


14


 俺は思わず目を閉じた。

「破邪金剛力!」

 和尚さんの声が響いた。

 金属が何かにぶつかる激突音がした。

 斬り裂かれる苦痛と死は訪れなかった。

 何が起きたのかと目を開けてみると、目の前で緑の燐光が光った。

 天子さんがバリアーで俺を守ってくれたんだ。

 方相氏は、再び右腕を振り上げた。

 そこに和尚さんが飛び込んできた。

 和尚さんは、方相氏の右足に金棒を打ちつけた。

 いくら方相氏でも、これなら体勢を崩さずにいられない。つまり呪術は完成しない。

 ところが、そうはならなかった。

 和尚さんの渾身の打ち込みを受けても、地に降りた右足はゆるがなかった。まるで大地に深く根を下ろしているかのように、その場から動くことはなかった。

 和尚さんは、金棒を引いて振りかぶり、もう一度攻撃を加えようとした。

 方相氏は、振り上げた右腕を振りおろしはせず、首の周りに垂れ下がった紙垂の一枚を引きちぎって、さわさわと音を立てて振った。すると紙垂はするりと伸びて、剣に、いや刀になった。

 古代の人が使ったような、反りのない直刀だ。

 金棒をたたき付ける和尚さんと、直刀を振り下ろす方相氏。

 そのとき、金棒と直刀がどうせめぎ合ったのか、俺の目にはみえなかった。

 俺の目がとらえたのは、宙を舞う金棒であり、その金棒を握ったままの和尚さんの右腕だ。

 みたものが信じられず、俺は和尚さんの姿を探した。地に伏して悶絶する和尚さんの右腕は、肩口で断ち斬られていた。

 何かが空から落ちてくる。俺は振り向いた。

 方相氏が作った地面の大きな穴に、鉄棒が落ちてゆく。斬り飛ばされた和尚さんの右手と一緒に。

 俺は素早く方相氏のほうに向き直った。

 方相氏が追撃すれば、和尚さんも俺も死ぬしかない。

 だけど方相氏の四つの目からは強い光が消えていた。

 方相氏は、直刀を投げ捨てた。空中で直刀は紙垂に戻り、ひらひらと舞いながら、和尚さんのそばに落ちた。

 そして方相氏は、再びくるりと百八十度回転すると、今度こそ左足を地に降ろし、何事もなかったかのように、呪術の歩みを再開した。

 和尚さんの捨て身の攻撃でさえ、方相氏にとっては、蚊に刺されたほどの出来事でしかなかった。

 刺した蚊をはらいのけてしまえば、何匹の蚊がぶんぶんと飛んでいようが、そんなものに興味などないんだ。

「法師どの!」

 天子さんが和尚さんに駆け寄る。

「だ、だいじょうぶじゃ。それより方相氏を追え」

 驚いたことに、命にも関わる重傷を負い、あふれ出る血にかまいもせず、和尚さんはしっかりした声で天子さんに話しかけた。

「やつが何をしでかすのか、その目でみとどけてくれい」

「心得た! ゆくぞ、鈴太!」

「え?」

 俺は事態の展開についてゆけなかった。

 天子さんは、俺の右手を取って、ぐいと引っ張る。

 引っ張られるままに、俺は前に進んだ。

 ふぬけのようになったまま天子さんに手を引かれ、方相氏のあとを追った。

 空を覆う雲は、いよいよ厚みを増し、方相氏の体からあふれ出る妖気は、びりびりと身をしびれさす。妖気には鈍感な俺でさえきついんだから、天子さんにはさぞつらい追跡だろう。

 それでも天子さんは、決然と前に進む。その勢いに引きずられ、俺も歩みを進めた。

 一瞬、空の一角が青緑色の燐光を放ったようにみえた。

 あれは?

 あれは何だろう。

 もしや、結界が、押し寄せる妖気に耐えかねて発光したんだろうか。

 もしや今、方相氏は弘法大師の結界を破ろうとしているんだろうか。

 そしてついに、方相氏は立ち止まった。

 立ち止まって、奇妙な舞いを舞っている。

 まずは東に向かって。

 次に北に向かって。

 そして、西に向かい、最後に西に向かって舞いを舞った。

「空の上に、とんでもない妖気があつまっていますです」

 いつのまにか、童女妖怪が出現している。

「ぐんぐん密度を増してますです。これはだめです」

 だめとは何がだめなのか。

 そう聞こうとしたけど、俺の口は動かなかった。

 もちろん。すべてがだめなんだ。

 村も、ひでり神さまも、すべてが滅びてしまうんだ。

 呪術のことなんか何も知らない俺でさえ、そうとわかる。

 黒雲は、はらわたをねじり出すように、ぐねぐねとねじられてゆき、その奥から白い何かが現れようとしている。空のすべてが黒雲に支配されているなかで、方相氏の巨大な全身は、ぼうっと明るく発光している。

 黒雲の力を吸い込むように、方相氏も変身を始めた。

 より大きく、より醜く。

 より強く、よりおぞましく。

 怒りと憎しみをまき散らしながら、方相氏が姿を変えてゆく。

 この変身が完成したとき、天変地異が起こり、俺たちは死ぬ。

(だめだ!)

(だめだ!)

(だめだ!)

(だめだ!)

 声にならない声で、俺は叫び続ける。

 けれども、方相氏をとどめる方法はない。

 いつのまにか、俺の肩には天子さんが手を置いている。そして天子さんは、俺の横で、きつい目をして方相氏をにらみつけている。

 俺は思わず、神様! と心のなかで叫んだ。

 そのとき。

 凛とした声が響きわたった。

 聞いたこともない声だ。

 いや。どこかで聞いた声だったろうか。

 張りと気品のある声だった。

 日本語ではない。いや、どこの国の言葉でもないかもしれない。

 密度の高い声だ。

 強力な声だ。

 普通の会話に使うような言葉じゃない。

 呪文だ。

 とびっきり強力な、何かの呪文だ。

 そのとたん。

 光がはじけて、俺は視力を失った。

 一瞬だけれども、肌を焼く強烈な熱気が、俺の全身を包んだ。

 やっと目を開けたときには、方相氏が紅蓮の炎に包まれて焼かれていた。


 ぐおおう。

 ぐおうおう。


 雷を鳴らすような断末魔のうなり声を上げながら、方相氏が焼けてゆく。

 焼け落ちて小さくなってゆく。

 小さくなって、消えてゆく。

 いったい何が起きたんだろう。

「なんということじゃ!」

 天子さんが悲鳴のような声を上げて走って行く。

 右側の坂の上に、誰かが倒れている。

 ひでり神さまだ。

 俺もひでり神さまのもとに駆け寄った。

「これはいかん。鈴太!」

「うん」

「おぬしの家に運ぶのじゃ。急げ!」

「う、うん」

 俺はひでり神さまを背負って運んだ。

 布団に寝かせたとき、和尚さんのことを思い出した。

「天子さん。俺は和尚さんの所に行ってくる」

「それは、わらわが行こう。じゃが、心配は無用じゃ」

「えっ。何を言ってるんだ。命にも関わる大怪我だよ」

「鈴太よ。野生の獣が、四肢の一つを失うたからといって、そのまま死んでしまうと思うかえ?」

「え? いや、それは、そんなことはないだろうけど」

「法師どのの生命力は、片腕を失ったくらいで消え果てはせぬ」

「で、でも」

「とにかく、わらわがみにゆく。おぬしは、このかたのごようすをみまもれ」

「うん」

 天子さんが出ていってしばらくして、雨が降り始めた。

 時間がたつほどに雨は強くなり、やがて天の底が抜けたのかと思うような大雨になった。


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