第16話 蚩尤
1
十二個の溜石は、すべて無力化された。
つまり、敵である
けど、代償はあまりに大きかった。
弘法大師から授けられた秘宝である〈和びの鈴〉が失われた。
和尚さんは、利き腕を失った。
そして、ひでり神さまは、こんこんと眠り続けて、目覚めようとしない。
食事も取らず、排泄もしないんだから、面倒をみるといっても、ただ寝かせておくだけでいい。
だけど、このまま眠り続けたんじゃ、いつまでもお役目が終わらない。満願成就の日が来ない。
雨は二日間降り続けて、三日目、つまり二十九日の朝にからりと晴れた。台風十七号は、中国地方に上陸したあと、いったん太平洋上に出て、紀伊半島に再上陸し、勢力を弱めて太平洋に出て、十月一日に消滅した。その間にいくつかの台風が発生して消滅している。
雨が降り続いた二日間、俺はまったく外出しなかった。天子さんも来なかった。
二十九日の朝、神社の掃除をして帰ってくると、天子さんが来ていた。
「おはよう、天子さん」
「うむ。おはよう」
こうしてみると、天子さんは小さい。この小さい体で千二百年も羽振の一族を守り続けてくれたんだ。
「和尚さんの具合はどうなの?」
「ふむ。昨日は酒を飲んでおったな」
「えっ? それはだめなんじゃないの?」
「いや、普通の人間と同じように考えんでよい。本人がよいなら、それでよい」
「でも、お酒なんか飲んだら、血が止まらないんじゃ」
「出血はすぐに止まった。そういえば、雨が降ってくれたおかげで、血の跡を掃除する手間がはぶけた」
「血の始末なんかの心配をしてる場合じゃないよ。あんな大怪我をしたんじゃ、しばらく起き上がることもできない」
「鈴太」
「え?」
「自分を責めるでないぞ」
「……だけど」
「やはりのう。法師どのも、そこを心配しておった」
「俺が無謀な攻撃をしなければ」
「方相氏を刺激してはならぬ、という判断は、誤りであった」
「え?」
「村の四方を巡る呪術が完成しかけたとき、それがわかった」
「あの黒雲だね」
「雲は現象の一部にすぎぬ。あのとき集まろうとしていた妖気は、結界ごと里全体を滅ぼしてしまうほどのものであった」
「……もしもあのまま方相氏が起こそうとした何かが起きていたら、ひでり神さまも滅ぼされていたんだろうか」
「それはわからぬ。しかし、村がすべて崩れ去り、神社も消滅し、骨ヶ原に降りる道も閉ざされるということになれば、満願成就の日が訪れることはない。それはあのかたを滅ぼすのと同じじゃ」
「そうか。そうだね」
「そこまでのことを天逆毎が計算しておったとも思わぬが、十二個めの溜石こそは、恐るべきものであった」
「そうだ。あのとき方相氏を焼き尽くした、あれは何?」
「わらわは知らぬ。食事が終わったら、法師どののもとに参ろう」
「そうなのです。食事の時間なのです」
「いつ湧いて出た」
2
「あれは〈日輪招来〉という神術じゃろうなあ」
「にちりんしょうらい、ですか?」
「うむ。聞いたことはある。考えてみればあのかたは、日天子さまの力の一部を授けられたかた。あのような術はお手の物なのじゃろうなあ」
「ひでり神さまの力は、地守神社に封じられているんじゃなかったんですか?」
「封じられておるのは、あのかたの
「存在の力?」
「人でいえば生命力じゃな」
「命を削って、あの攻撃を放ったということですか」
「そういうことじゃ」
「では、ひでり神さまは、死んでしまうんですか?」
「恐ろしいことを、さらりと口にするのう。そんなことはあるまい。そうであれば、もうすでに消えておられるはずじゃ。じゃが、消えてはおられん。ということは、力をたくわえれば、やがて目覚めてくださるであろうよ」
「何日くらいで目覚めるでしょうか」
「さあのう。何日か、何か月か、何年か」
「そんな!」
「われらは千二百年の時を待ち続けた。もう十年や二十年は、何ほどのこともない。それにのう」
「それに?」
「もう溜石はない。安心して待つことができる」
「……もしもあのとき、俺が無謀な攻撃をしかけなければ、どうなっていたんでしょう」
「わしも天狐も滅せられ、地守神社も粉々に打ち砕かれ、骨ヶ原への階段も失われ、あのかたも痛手を受けておられたかもしれんのう」
「そうならなかったかもしれません」
「そうじゃな。それはわからんことじゃ。じゃから考えてもしかたがない。しかし今にして思うことは、いくつかある」
「思うこと?」
「うむ。まず、方相氏の狙いじゃ。天逆毎はこれまで現れたあやかしどもに明快な指示を出したことはない。水虎に対しても、暴れて人を殺せとは命じたが、それ以上のことは命じなんだ。じゃからおそらく方相氏にも、格別の指示はなかったはずじゃ。出そうにも出すすべがなかったと思う」
「はい」
「ところが方相氏自身が、恨みをいだいておった」
「恨み?」
「自分を縛り付けて使役した人間への恨みじゃよ。そして地守神社には、方相氏が嫌い憎みそうな気配と術が、満ち満ちておったはずじゃ」
「あ」
「そしてまた、この里を包む結界も、方相氏の気にはくわなかったろうのう」
「そうなんですか」
「じゃから、神社や結界が破壊されることは、もっと早くに気づいておってもよかったのじゃ。もっとも、気づいたからというて、打つ手があったわけでもないがのう」
「ひでり神さまは、どうしてあそこに来たんでしょう。和尚さんが、ひでり神さまに助力を願われたわけではないんですよね?」
「わしが? そんなことはせん。そこもうかつじゃった」
「うかつ、とは?」
「わしはこの寺におって、まざまざと方相氏の出現を感じた。天狐も麒麟山のすみかにいながら、方相氏の存在をはっきりと察知した。あのかたに、それがわからんということがあるはずがない」
「あっ、そうか。ほんとにそうですね」
「最初の夜からお気づきだったはずじゃ。いや、それは考えんでもなかったんじゃがのう。この千二百年のあいだ、あのかたは、あやかしとの戦いには一切関わろうとされなんだ。それはわしの役目じゃからのう。じゃから今度も手出しなどされるはずがないと、どこかで思い込んでおった」
「今度こそは手出しするべきだと判断されたんですね」
「やつのやろうとしておることに気づき、わしでは倒せんと判断され、ご自身で倒すほかないと決断された。ただ、ご決断にも術の行使にも、それなりの時間がかかったはずじゃ。お前とわしが足止めをしておらねば、まにあわなんだかもしれん」
「ひでり神さまの術が調うのがまにあわなかったということですか?」
「そういう可能性もあるということじゃ。いずれにしても、結果は上々。お前は自分の信念と直感で行動し、わしや天狐もそれぞれの思惑にしたがって行動した。その結果、最も望ましい形であれほどの危機を乗り切ることができたのじゃ」
「でも、和尚さんの右腕は、もう戻ってきません」
「戻ってこんな。それはちっとも問題ではない」
「そんな」
「もしわしの命と引き換えに方相氏を倒せるものなら、わしは喜んでこの命を差し出したとも。それでこそ本望じゃ。かのおかたに託された役割を果たして死ねるのじゃからのう。鈴太よ」
「はい」
「何が最上であったなどと問うてみても、いつ答えるか、誰が答えるか、どんな立場で答えるかによって、出る答えはまるでちがう」
「……はい」
「そのとき、そのときに、精いっぱいやったかどうか。問うべきはそこじゃ」
「はい」
和尚さんの言葉は、よくわかった。
だけど俺の心は晴れなかった。
自分が愚かな振る舞いをしたという後悔は消えなかった。
肘の上で斬り落とされた和尚さんの右腕が、俺を責め続けた。
神棚を拝んでも、その脇に鈴がないことが、悲しくてならなかった。
3
「つまり、鈴太さんのおじいさんと艶さんは、昔、恋仲だったのねえ?」
「いや、どうしてそうなるんですか。そんなこと言ってません」
「え? 昔のゆかりで、今、引き取ってお世話してるんでしょう?」
「ずっと昔にわが家のご先祖と艶さんにいきさつがあったと言ったんです」
「それはどんなラブロマンスなのかしらあ?」
「山口さん、お酒ぐせ悪いですね」
「あら、そう? だから鈴太さんも、いい思いができたんじゃない? 未遂だったけど」
「うほん、うほん」
「あら。天子さん、お風邪かしら? 帰って寝たほうがいいわね。鈴太さあん、もう一杯ついで」
「きさまと鈴太を残してこの家を去ることなどできようはずもない。きさまが帰るがよかろう。鈴太、わらわに
「いいわね、その古めかしい言い回し。あなた、ほんとはけっこう年がいってるでしょう? いつ生まれ? 平安時代?」
「ぶほっ」
「あらあ、鈴太さあん。だいじょうぶかしらあ」
「べたべたとさわるでない。鈴太も何をうれしそうにしておるのか」
「う、うれしそうにません」
「では、その胸の膨らみを引きはがせ」
「ところで、ここに置いてる陰膳、いつのまにかなくなっておかわりしてるのは、どういうわけなのかしらあ?」
それは童女妖怪の席です。あなたにみえないだけで、さっきからせっせと鍋を食べてます。と言うわけにもいかないので、この質問には答えようがない。
「それにしても、どうしてこの顔ぶれで鍋を囲んで酒を飲んでおるのじゃ?」
「だからあ。秋の絶品キノコが手に入ったのよ。そして、とあるばばあが〈
「うまい酒じゃな。じゃが、ここに持ってこずともよかろう」
「だって、萬野のばばあが、この酒は鈴太さんと飲むようにって、送ってくれたのよ。あたし一人で飲んだなんて報告、絶対にしたくないわ。鈴太さあん、もう一杯ついで」
「その何とやらのばばあは、鈴太が十八歳じゃと知っておるのかえ? 鈴太、もう一杯つげ」
「あ、ない。すいません。すぐにつけてきます」
「
「熊本では鈴太さんは二十五歳なの」
「意味がわからぬ」
「キノコもおいしいでしょ」
「キノコもうまい。じゃが、ここに持ってこんでも、きさまが一人で食べれば、それですむ話ではないか」
「一人で鍋を囲めっていうの? ひどい人ね。わびしすぎるでしょ」
「ならば、キノコと酒を置いて、きさまが帰ればよい」
「鈴太さあん。天子さんが、あたしをいじめるの。しゅうとめのいびりよ」
「誰がしゅうとめじゃ、誰が。鈴太」
「は、はいっ」
「熱燗はまだか」
「つ、つきました。今お持ちしますです」
「うむ。ほれ、つげ」
「了解であります」
「こぼすな。もったいない」
「油揚げは入ってないけど、そこそこ美味しい鍋なのです。鳥肉とネギとキノコを入れて味噌仕立てにすると、こんなにいい味になるとは、驚きなのです」
「黙って食え」
「あら、それ、あたしに言ったの? それとも、天子さん?」
「いえ、独り言です」
「ふふ。でもほんとにおいしいわ。おだしが利いてて、味噌仕立てが芳潤で、そしてこの小豆島醤油をほんの少したらすと……もう!」
「木桶で作ってるらしいですよ、その醤油」
「あら、そうなの」
「丹波の豆を使ってるそうです」
「鈴太さあん」
「はい?」
「鈴太さんも社会人なんだから、一杯ぐらいはいけるわよねえ?」
「い、いえ。やめておきます」
「これ、鈴太を酔わせてどうするつもりじゃ」
「あらあ。鈴太さんは、おちょこ一杯の酒でどげんかなるような、なさけなか男しじゃろか」
「鈴太は、情けないのが持ち味じゃ」
「ひどおい。鈴太さあん、あたしの杯を持ってくれる」
「は、はい?」
「あ、これ。つぐな」
「じゃあ、口移しのほうがいい?」
「わらわに貸せっ」
「あ、飲んじゃだめ」
「キノコの追加、鍋にいれてもいいですかなのです」
「キノコが空中遊泳してるみたいにみえるのは、酔いのせいかしらあ?」
「酔いのせいです」
「老眼かの?」
「ひどおい。鈴太さあん。天子ばばあが嫁いびりするのお」
「誰が嫁じゃ」
「それはそうと、鈴太さんが飲んでくれないと、あたしの立場がないの。一杯だけ飲んでえ」
「え?」
「そらっ」
「うぐ」
「あ、飲ませるなというに」
「あたしにも、もう一杯ついでちょうだあい」
「わらわにもつげ」
なんかもう、カオスだった。
「ああ、今日はほんとに楽しかった。おいしかったわあ」
「ほんとにおいしかったです。ありがとうございました」
「うふふ。ほんのり頬をピンクいろに染めて、かわいいわあ。ちゅっ」
「あ、これ。わらわの目の前で何ということを」
「あらあ。鈴太さんは、天子さんのものなのかしらあ」
「わらわのものじゃ」
「まあ、大胆ね。でも、あたしのものでもあるの」
「とっとと帰るがよい」
「帰るわよお」
「もう来るでない」
「いいじゃない。配達はしないっていうから、しかたなくあたしのほうがキノコとお酒を配達したのよ」
「わけがわからぬ」
「わからないのが人生なのよ」
「それはそうかもしれんのう」
「うふふふふ」
「ふっふっふ」
なんか意気投合してる。目が笑ってないけど。
ふらふらと楽しそうに、山口さんは帰っていった。
結局俺はおちょこに三杯ほど熱燗を飲まされ、ほろ酔い気分だ。
くさくさした気持ちなんか、どこかに吹っ飛んでしまった。
それにしても、あのキノコ。
色とりどりの、とてもおいしいキノコ。
秋の絶品キノコだと、山口さんは言っていた。
あれはたぶん、いやきっと、ご主人のキノコノートにあったキノコだ。
そして絶品キノコの生える場所といえば、
山口さんは、あそこにもう一度行ったんだろうか。
それは、とても勇気のいることなんじゃないんだろうか。
何のために?
たぶん、自分の過去に立ち向かうためだ。過去を乗り越えるためだ。
そうか。
山口さんも、前に進もうとして頑張っているんだ。
今日の鍋には、その元気が詰まっていたんだろうな。だからあんなにおいしかったんだ。
「口をすすいでまいれ」
「えっ?」
「口紅を洗い流してまいれ、と申しておる」
「は、はひひひひっ」
俺は唇をごしごし洗い、何度もうがいをした。
「清めてきたかの?」
「はい」
「少し身をかがめよ」
「はい?」
突然、天子さんが、俺の首に抱きついてキスをしてきた。そんなに長くもないけど、ちょっと強烈なキスだった。
「口直しじゃ。ではの」
「あ」
そして天子さんも帰っていった。
童女妖怪も、いつのまにか姿を消している。
ええっと。
とりあえず、この散らかりまくった食卓を片づけないといけないや。
4
それからというもの、三日に一度は山口さんが夕食に押しかけるようになった。熊本女の押しの強さを、俺はまざまざとみせつけられた。
何回目かの夕食のあと、どきっとするようなことを、山口さんは言った。
「鈴太さあん。鈴太さんたちが、何か大切なことに取り組んでいるのは、わかってる。おおっぴらにはできないけど、ほっておくとみんなが困るような何かにね。それが何なのか、あたしは知らない。知ってもたぶん手助けできない。でもね、これだけは知っておいてちょうだい」
真剣な目つきで、山口さんは言葉を続けた。
「あなたを応援してる。そしてそれは、あたしだけじゃないわ」
心から驚いた。
いったい、山口さんは、俺や天子さんの何に気がついたんだろう。
どこから気がついたんだろう。
ひとつ思い出したのは、山口さんは、わりと最近にこの村に住むようになった人で、結界の影響をそう長年受けてきたわけじゃない、ということだ。だからこそみえるものもあったんだろう。
そして山口さんには、幽谷響が出たときの話をした。
わりとぼかした言い方だけど、和尚さんや天子さんが、あやしげなものへの対処法にくわしい、ということは話さざるを得なかった。
だから、俺たちが不思議なもの、まがまがしいものを相手にしているらしいということは、見当がつくわけだ。
それにしても、中身も知らないのに応援してるというのは、いったいどういうことなのか。
いや。
それが本当だ。
信頼は、人間に対してするものだ。さんざん疑って確かめて、事柄の是非を問いただしてから、その人間を信じるかどうかを決めるというようなものじゃない。たとえ詳しい事柄はわからなくても、その人間を信じることはできるし、応援することもできるんだ。
「ありがとう。山口さん」
「いいのよ、ダーリン」
「それはやめてください」
5
相変わらず毎朝、童女妖怪は〈探妖〉をしている。
といっても、もう村のなかを探る必要はない。
おもに天逆毎の位置を探るのが目的だ。
同時に、結界のなかにあやしい気配がないかどうかを、一応探ってもらっている。
十月に入って、天逆毎は動かなくなった。
天逆川の、村に一番近い場所にいる。毎朝探ってそうなんだから、たぶん一日中、ずっとそこにいるんだと思う。
それと、童女妖怪は、奇妙なことを言った。
以前、天逆川から水を引く用水には妖気があふれていた。
それが今ではすっかり清浄になったんだという。
天逆川にも妖気が充満していた。
それもなくなって、天逆毎一人を除けば、川にはわずかな妖気も感じられないという。
もっとも、結界のなかが完全に清浄になったわけじゃない。
それどころか、今、結界のなかには、強い妖気がただよっている。
方相氏のせいだ。
たった一人の方相氏を倒しただけで、そこからあふれた妖気は、和尚さんや天子さんに息苦しさを感じさせるほど高い濃度で、結界のなかをひたしているらしい。
そして、十月十五日が来た。
この日のことを、俺は一生忘れないだろう。
その日、俺たちは、珍しくテレビのニュースをみながら、朝ご飯を食べていた。
「十月十四日に発生した台風二十二号は、日本に上陸することなく低気圧に変わるものとみられておりましたが、急に勢力を強めて方向を百度ほど転換し、まっすぐ岡山県のほうに向かって進んで来ております。速度は非常に速く、勢力は極めて強い、大型の台風です。充分にご注意ください」
「これだ。これなのです」
「えっ? なに?」
「昨日の午後あたりから、とてつもなく恐ろしい気配が近づいてくるのを感じてたです。この台風なのです」
「えっ? 意味がわからないよ。おさかべ、台風が妖怪なのか?」
「そうなのです」
「何をばかな。台風がそのままあやかしであるなどと。古代の神霊でもあるまいに」
「でも、確かに感じるのです。禍々しい気配が近づいて来ます。方相氏が出たときも、こんな恐ろしい相手ははじめてだと思ったですが、今度の敵は、方相氏よりずっと恐ろしい敵なのです」
「まことなのか。長壁よ」
「ほんとなのです。これだけの距離があるのに、びんびん敵意と妖気を感じるのです」
「ここ十日ばかり、天逆毎は、動いておらなんだのう」
「はい。ずっと村に一番近い位置にいましたです」
「それに、村のなかの水路や天逆川に満ちておった妖気も消えたのじゃったな」
「はい。妖気が晴れてさっぱりしたのです」
「敵は妖気を集めたわけじゃ。集めた妖気を何に使おうとしておるのか。あるいは使うたのか」
天子さんは、しばらく思考に沈んだ。
「鈴太よ」
「うん」
「食事がすみ次第、法師どののもとに向かう」
「うん」
6
「む、む、む」
「法師どの。台風がそのままあやかしである、というようなことが、あり得るのか?」
「あり得ぬ、とは言い切れぬなあ」
そのまま和尚さんは、腕を組んで目を閉じ、長考に入った。ずいぶん長い時間のあと、こう言った。
「天狐よ」
「うむ」
「
「ほう」
「術者はわし、依り代はお前じゃ」
「ということは、
「適任であろう」
「うむ。訊くまでもないが、降ろすのは
「むろんじゃ」
「なるほどのう。鈴太の言葉の力なら、天逆毎から真実を引き出すこともできよう」
「やるか」
「やろう」
和尚さんは、俺に向き直った。
「鈴太よ」
「は、はい」
「これから、魂降ろしの術を行う」
「たまおろし、ですか」
「神霊やあやかしを呼び出して、依り代に乗り遷らせて話を聞き出す術じゃ」
「乗り遷らせる?」
「そうじゃ。天逆毎の生き御霊を呼び出し、天狐に乗り遷らせる。そしてお前が質問を行うのじゃ」
「えええっ?」
「天逆毎の正体を暴け。あのおかたに復讐するというが、何の復讐であるのかを明らかにせよ。どのような手で攻めてくるのかを聞き出せ」
「そ、そんな。無理です。和尚さんがやってください」
「わしは術を使う。術を使いながら質問をすることもできなくはないが、心が乱れる危険もある。心が乱れて術にほころびができれば、依り代である天狐は、ただではすまぬ」
「ええっ」
「じゃから、手ごわい相手を降ろすときは、術者と依り代のほかに、質問者を用意するのじゃ。これを審神者と呼ぶ」
「さにわ、ですか」
「あやかしなどというものは、嘘とごまかしのかたまりじゃ。じゃが、夢のなかでは、あまり嘘やごまかしはせぬものじゃ。正しい質問をし、答えの意味するところを洞察し、真実を暴き出せ」
「そんな。無理です」
「名前と居場所がわかっておるのじゃから、魂降ろし自体は、まずまちがいなく成功する。あとはきちんと問答ができるかどうかじゃ」
「問答ですか?」
「呼び出された側にとっては、夢のなかの出来事のように感じられる。つまり心に隙がある。不信感を抱かれぬよう、うまく誘導いたせ。夢のなかといえど、疑いを持たれれば、術は壊れる」
「うまくいかなかったら、天子さんに危険が及ぶんですか」
「自分の心のうちに他者を迎え入れるのじゃからなあ。もちろん危険じゃ。まして相手には知識も力もある。魂降ろしの術にかかったと気づけば、依り代を蹂躙してゆくじゃろう。それとも依り代を通して妖気を届け、わしらを攻撃してくるかもしれぬ」
「そ、そんな危険なこと、どうしてもしなくちゃいけないんですか?」
「おそらく、満願成就の日が近いことは、天逆毎には知られておる」
「あ」
「満を持して送り込んだ十二個の溜石は、無力化されてしもうた」
「そう、ですね」
「そのことをどの程度察知しておるかはわからん。じゃが、溜石を仕込んでから今日まで短くない日数がかかっており、失敗したと考えていても不思議はない」
「はい。そこまではわかります」
「じゃから、敵は最後の攻めに転じると、わしは少し前から思っておった」
「最後の、攻め」
「この次ひでり神さまが目覚めれば、今度こそ満願成就の日が来よう。じゃから、これは、本当に最後の攻防じゃ」
「は、はい」
「これは天逆毎の死力を尽くした攻撃となる」
「はい」
「どんな手でくるかと思っておったが、まさか台風がそのままあやかしとはのう。これこそ、天逆毎の奥の手にまちがいあるまいて」
「奥の手ですか」
「これをしのげば、おそらくそれ以上の攻撃はない」
「鈴太よ」
「は、はい」
「お前の声には、あやかしの心にもしみこむ不思議な力がある」
「い、いえ」
「それは、ここまでの戦いでみてきた通りじゃ」
「でも」
「お前にしかできぬ」
「俺にしか」
「審神者とは、神を審判する者、という意味じゃ」
「神を審判する?」
「依り代に降り立った神が、真実の神であるかどうか、その発する言葉が真実かどうか、それを審判する者を、審神者という」
「神様を?」
「その場合の神は、善神であるかもしれず、悪神、邪神であるかもしれず、鬼神であるかもしれぬ。要するに、極めて妖気や神気の高いもののことをまとめて神と呼ぶのじゃ」
「神という言葉の意味は広いんですね」
「そうじゃ。ただし、この場合、相手は天逆毎。よこしまで危険なあやかしじゃ。しかしてただの天逆毎ではない。じゃが今のところ、正体がわからぬ」
「いったい、どうやって話しかけたらいいんでしょう」
「それは自分で考えてくれ。今から儀式の準備をするから、そのあいだに考えるのじゃ。ただ一つ助言をするとすれば」
「はい」
「天逆毎の腹心の部下のようなふりをして話しかければよいように思う」
「腹心の……部下」
「本当にそんなものがおるかどうかは知らぬが、自分をたたえあがめる味方には、誰しも心を許してしまうものじゃ」
「はい。やってみます」
「頼むぞ」
「鈴太よ」
「天子さん」
「遠慮なくやれ」
「うん」
「相手が降りたとき、わらわが表に出ては、相手に気づかれてしまう。ゆえに魂降ろしの最中には、わらわはみずからの意志を髪の毛一筋ほども出すことはない。心のかたすみにちぢこまっておる」
「うん」
「おぬしがこれから相手にするのは、姿はわらわであっても、中身は天逆毎そのものじゃ。それを忘れるでないぞ」
「わかった」
7
「鈴太は護摩壇の右に座れ。足は崩してよい」
「はい」
「天狐は護摩壇の左じゃ。体をらくにして、降りてきた魂がするりと入るようにせよ。それから座布団を体の周囲に敷き詰めておけ」
「心得た」
「では、
そして和尚さんは呪文を唱えはじめた。
時々、護摩札を祭壇に放り込む。
ばちばちと火の粉が上がって、祭壇の脇に座る俺も、ちりちりと熱気に焼かれる。
ゆらめく炎。
いつまでも続く呪文。
頭がぼおっとしてくる。
ふと気づけば、天子さんの体が、ゆらゆらと揺れている。
俺は、天子さんの顔に注意を集中した。
美しい顔だ。その顔が、汗でてらてら光っている。
俺と天子さんのあいだには炎が燃え上がっているから、顔はみえたりみえなかったりする。炎に照らし出されるその姿は、この世のものとも思えないような美しさと恐ろしさを持っている。
どれほど、そうして炎の向こうに消えては現れる天子さんの顔をみつめていたろう。
突然、目を閉じたままの天子さんの顔に、いらだちのようなものが浮かんだ。と思えば獰猛な笑みが浮かぶ。
俺は、ごくりとつばを飲み込んで、言葉を発した。
「天逆毎さま。天逆毎さま」
返事はない。三度ほど息を吸ってはき、心を落ち着けて、少し強い声を発した。
「天逆毎さま。天逆毎さま」
目を閉じたまま、天子さんは口を開いた。
「何か」
その声は、しわがれて野太く、とても天子さんから出た声だとは思えない。
いけない。
今は、よけいなことを考えているときじゃない。
「天逆毎さま。天逆毎さま」
「われを呼ぶのは、たれか」
「わたくしめでございますよ」
「わたくしめとは、たれか」
「あなたさまにずっとお仕えしてきた、わたしくめにございますよ」
「われに、ずっと仕えてきた、じゃと?」
「さようにござります。あなたさまが、最も信頼なさるしもべにござります」
「おお、そうか。わしの、しもべか」
「あなたさまの強さと賢さをお慕いするしもべでござります」
「そうか。そうであったのう」
「天逆毎さま。もうすぐにござりますなあ」
「もうすぐじゃと? 何がじゃ」
「長年の宿願が果たされるのは、もうまもなくのことでござりますなあ」
「宿願……果たされる……おお、そうか。まさにそうじゃ。あのにっくきひでり神め」
「さようにござります。ひでり神でございますよ」
「おおん。おおん。わが恨み、今こそ晴らしてくれる。ひでり神め」
「長いあいだ、恨んで恨んで過ごされましたものなあ」
「そうじゃ。もはや何千年たったのか、われにもわからぬ。おおん。おおん。ひでり神め」
(何千年だって?)
(ばかな)
(それは天逆毎の寿命をはるかに超えてる)
「憎い憎い怨敵でございますものなあ」
「そうじゃ。憎い。憎い。われはひでり神が憎い」
「あれはいずこのことでございましたかなあ。ひでり神に出会われたは」
「われは王であり、支配者であった。逆らう者は、すべて滅ぼした」
「あなたさまこそは、偉大なおかたでござります」
「そうじゃ。われは地上で唯一無二の王であった。絶対の存在であった」
「さようにござります」
「それを、あの人間の小僧が刃向かいおった」
「許しがたきことにござります」
「この
和尚の投げ込む護摩木が、ひときわ高く炎を噴き上げた。
8
(し、蚩尤だって?)
(ばかな)
(そんな、ばかな)
(それは、古代中国で圧政を敷いた暴君だ)
(神の子であり、強大な霊力を持ち、あらゆる敵を粉砕した、強大な君主だ)
(そして民衆の蜂起によって倒され)
(のちに王となる青年によって粉々に打ち砕かれたはずだ!)
(どうして今、こんな場所にいるはずがある?)
「あの小僧は、まったく憎むべきやつ。そしてひでり神もでござります」
「そうじゃ! たとえ人間どもが何万集まろうと、小賢しき妖怪どもが何百押し寄せようとも、われをどうすることもできはせぬ。必死に戦うやつらをみて、われはただ楽しんでおった。なにしろわがもとには、
「まことに、まことに」
「やつらが仮初めの優勢に喜ぶとき、われは雨師と風伯を呼び出した。やつらの驚きあわてるさまは、まことに愉快なみものであった」
「愉快にござりましたでしょうなあ」
「ところが黄帝の娘が、いらぬ手出しをしおった」
「ひでり神にござりますな」
「そうじゃ! やつ一人のために、正は邪となり、光は闇となった」
「許しがたきことにござります」
「わしの体は、粉々に打ち砕かれ、そのかけらは地上のあらゆる場所に飛び散った」
「ああ、ああ。なんとおいたわしきこと」
「この地にも、小さな小さなかけらが落ちた」
「落ちたのでござりましたなあ」
「かけらとなったわれは、ずっと眠ったままであった。何千年の眠りをむさぼったのか、もはや今となっては知るよしもない」
「長い長いご休息にござりました」
「眠るわれに、山々のあいだに発する霊気が少しずつ入った」
「入ったのでござりますなあ」
「少しずつ、少しずつ、われは力をたくわえた。それでもわれの心が目覚めることはなかった」
「おいたましいことにござりまする」
「ところがあるときから、流れ込む霊気の量が急に増えた。われのなかで小さな小さな心が目覚めた。いや、それはまだ心とも呼べぬ
「おお、おお。なんとめでたきことか」
「あれは、いつのことであったか。われの横を、一匹の生まれたばかりの川海老が通り過ぎた。われはするりと、その川海老に入り込んだ。そうじゃ。われは川海老となったのじゃ」
「それから、それからどうなったのでござりまするか」
「それからは早かった。われはぐびぐびと霊気を飲み干した。川にはいくらでも霊気が流れ込んでまいった。われは大きくなり、強くなり、天逆毎となった」
「おめでたきことにござります」
「めでたくなどないわ! このような卑小なあやかしでは、われ本来の霊気を宿すことは到底できぬ。それでもわれは、できるだけ多くの霊気を食ろうた。そして気がついたのじゃ。川の前にある奇妙な結界に」
「あの結界にござりまするなあ」
「霊気は山々からおりるとともに、その結界からあふれ出ておった。結界から漏れ出る霊気は、濃く、強く、そして憎々しい香りをただよわせておった」
「香りでござりましたか」
「そうじゃ、香りじゃ。たとえ何千年がたとうと忘れるものではない。それは、にっくきひでり神めの香りであった」
「おお! おお! 何ということ」
「この結界のなかに、きゃつがおる。わしは、それを知った」
「ついにお気づきめされたのでござりまするな」
「やがてわしは力をたくわえ、賢くなっていった。結界を出て、われの住む川をじっとみる者をさらっては、秘密を探ろうとした。じゃが、結界の秘密を知る者はおらなんだ。あのときまではなあ」
「あのときでござりますな」
「そうじゃ、あのときじゃ。人と思うてさろうたが、人ではなかった。法師狸の眷属であった。あれの心に押し入って秘密をあばき、われはおぞましき真実を知ったのじゃ」
「真実でござりますか。それは、どのような真実にござりますか」
「いうまでもなかろう。あのひでり神めは、まやかしの呪法を行って、天界に戻ろうとしておるのじゃ! そのようなことが許されてよいものか!」
「よいわけがござりませぬ」
「われは、あの手この手と術を尽くして、結界をやぶろうした。おぬしも覚えておろう」
「覚えております。忘れるものではありませぬ」
「そうじゃ。忘れるものではない。何をどうしても、結界を破ることはできなんだ」
「口惜しきことにござりました」
「ただし、妖気を持たぬただの水なら、結界のなかに放り込むことができた。あれは大きな成果であった」
「さようでござりましたなあ」
「ともあれ、結界のなかの敵の陣容は知れた。力を失うたひでり神と、法師狸と、化け狐、それに陰陽師の一族。それがわが敵じゃ」
「敵にござります。怨敵にござります」
「われは十二個の溜石を作り、身に納めきれぬ霊気を吹き込んで、村人に暗示をかけて、結界の内に持ち込ませた」
「さようにござりました。十二個の溜石にござりました」
「溜石からは次々とあやかしが生ずる。ただのあやかしではないぞ。わが渾身の霊気を受けしあやかしじゃ。そのあやかしは、結界のなかで暴れ、ひでり神めを苦しめる。たとえ法師狸に倒されても、倒されたあやかしの妖気がたまれば結界は破れる。強きあやかしが生ずれば、そのあやかしが里を滅ぼす。そして結界は消え、ひでり神めは丸裸になる」
「おみごと。おみごと。しかし、でござります」
「しかし、何じゃ」
「最後の一手は、いかようになされますか」
「最後の一手じゃと?」
「落ちぶれ果ててもひでり神は天界の神の娘。なまなかなことでは滅ぼすことはできませぬ」
「おお、それよ。そのためにこそ、われは力をたくわえたのよ。わが最強のしもべを呼び出すためになあ」
「最強のしもべとは?」
「いうまでもあるまい。雨師と風伯よ」
9
(なに?)
(なんだって?)
(雨師と、風伯?)
低く低く唱え続けられる和尚の呪文が、俺の脳髄をしびれさす。
だめだ。意識をはっきり持たなければ。
「われがいにしえに雨師風伯と結びしちぎりは、まだ消えてはおらなんだ」
「さ、さようにござりますな」
「ただし、今のわれの霊力では、呼び出せる雨師と風伯の力は弱い。弱くはあるが、力を失っておるひでり神めを滅ぼすには充分であろう」
「充分にござりましょう」
「しばらく前には、結界のうちから強きあやかしの気配がした。霊雲を呼び寄せるほどのあやかしであった。あのあやかしも倒されたのであろうか」
「わかりませぬ。結界の内のことはわかりませぬ」
「それにしても、われが精魂を込めし十二個の溜石よりは、さぞ頼もしきあやかしが生まれたであろうな」
「それはもう、まちがいもござりませぬ」
「おおん。おおん。あやかしどもは、村を荒らしに荒らしたであろうなあ」
「荒し尽くしたことでござりましょう」
「それをみて、あのひでり神めは、さぞ苦しんだであろうなあ」
「苦しんだにちがいござりませぬ」
「おおん。おおん。憎きひでり神め。苦しめ、苦しめ。きさまに安住の地など許してなるものか」
「なりませぬ。なりませぬ」
「なろうことなら、溜石より生じたあやかしにより、あやかしより生まれし妖気により、あのいまいましき結界が破れればよかったのじゃがなあ」
「口惜しきことにござります」
「おおん。おおん。口惜しきことよ。結界が破れれば、すぐにも雨師風伯を差し向けたのにのう」
「やむを得ませぬ」
「そうじゃ。やむを得ぬ。もはや時間はない。われは雨師と風伯を呼び寄せた。今にも雨師と風伯の操る雨と風が押し寄せる。結界は、雨や風を防ぎ止めることはできぬ。いまいましいものは何もかも、雨で押し流し、風で吹き飛ばしてくれる」
「時間がないのでござりますなあ」
「そうじゃ。口惜しきことじゃが、われには時間がない」
「なんと? ひでり神のほうにではなく、あなたさまのほうに、時間がないのでござりますか?」
「何を今さらたわけたことを。宿す魂魄は蚩尤とはいえ、宿る体は天逆毎にすぎぬ。もはや寿命じゃ。われに残された時間は、いくばくもない」
「ああ、なんということ。なんということ」
「滅ぼしてやる。必ず滅ぼさずにはおかぬ。にっくきひでり神め」
「さようにござります。滅ぼさずにはおかれませぬ」
「ときにお前は誰であったかなあ」
俺の心臓は、どくんと大きく跳ねた。脂汗が噴き出した。
もっと訊きたいことがある。だけど限界だ。
これ以上話を続けることはできない。
とすれば、あとはどうやってこの問答を終わらせるかだ。
俺は、腹に力を入れ、気合いを込め、次の言葉を発した。
「ははは。お疲れのようでござりますな」
「疲れておる。そうじゃな、われは少し疲れておる」
「今は少しお休みなされ」
「なに?」
「お休みになられて、力をたくわえなされ。来るべき復讐の時のために」
「そうじゃなあ。しばし休むとするかなあ」
「お休みなされませ。お休みなされませ。目覚めたときには思い出されましょうぞ」
しばらく返事がなかった。俺は体中の勇気をかき集め、言葉を重ねた。
「お休みなされませ。お休みなされませ」
「……うむ、うむ。おんおん。おんおん。おおん……」
10
炎の向こう側で天子さんがぱたりと倒れるのをみたような気もする。
そんなものはみなかったような気もする。
いずれにしても、俺自身がそのとき気を失った。もう限界だったんだ。
目覚めたときには祭壇の火は消えていて、天子さんが俺を抱き起こし、一杯の水を飲ませてくれた。
信じがたいほどにうまかった。
そこには、和尚さんがいて、天子さんがいて、童女妖怪がいた。
俺は、天逆毎から、いや蚩尤から訊き出した秘密のすべてを、残すところなく三人に伝えた。
「まさか蚩尤とはのう。なんということじゃ」
「法師どの。よりによってこの結界の前の川に蚩尤のかけらが落ちるなどという偶然が、いったいあるものであろうか」
「天子さん、それは逆だ」
「なに?」
「結界がある場所に蚩尤のかけらが落ちたんじゃなくて、蚩尤のかけらがひそむ川の前に、この里が作られたんだ」
「そうか。順序からすれば、そうなるか」
「かけらが落ちたとき、川だったのかどうかもわからない。のちになってかけらが意識を取り戻したときには川のなかだったわけだけれどね」
「もしかしたら」
「うん? 何か気づいたのか、ちみっこ」
「この里は、霊力のたまりやすい構造をしてるです」
「ああ。そうらしいね」
「蓬莱山、麒麟山、白澤山は、三山として呪的に結びつけられる以前から、膨大な霊気を生み出す霊山だったにちがいないのです」
「そうだろうね。だからこそ弘法大師は、ここをひでり神さまの贖罪の場と定められたんだ」
「近くに飛んできたかけらは、三つの霊山の霊気に引き寄せられたです。しかし不浄だからはじかれて、ここに落ちたのかもしれないです」
「そんなことがあるのかな? 和尚さん、どうなんです」
「うむ。大いにあり得る」
「なるほど。そしてそういう場所だから、結界を作る場所に選ばれたわけか。偶然は偶然だけど、ある意味必然でもあったのか。それにしても、まさかここに蚩尤のかけらが落ちていたとは、さすがの弘法大師さまも気づかなかったんだろうなあ」
「それともう一つ、思ったことがあるです」
「お、今日は頭脳派だな」
「洪水のことです」
「え?」
「こんなに霊的に安定した場所に、百年に一度大洪水が起きるなんて、あり得ないです」
「前にもそんなこと言ってたな。だけど現に起こってるんだ」
「三山から降りた霊気は里に集められるですが、よぶんな霊気や邪気は、南西の方角に逃げるように作られてますです」
「うん?」
「だけど、その南西の方角にある天逆川に、邪気そのものである蚩尤のかけらがあったら」
「あ」
「邪気はせき止められてたまってゆきますです」
「そして百年に一度、大洪水を起こすのか!」
「それと疫病です。そう考えると、いろいろなことが符合してきますです」
「なんてこった。大洪水も疫病も、蚩尤のかけらのせいだったのか」
「ううむ。まさかそのような仕組みになっておったとは」
「天狐よ。わしも驚いた。今の今まで思いもせなんだわ」
「とにかく和尚さん。これで相手の手の内はわかりました」
「見事じゃ、鈴太。よくやった」
「お疲れであったなあ」
「あちしもほめておいてやるです」
「やっぱり、天逆毎自身ではひでり神さまを倒せないみたいですね」
「それはそうじゃろうと思っておった。じゃが、その代わりに雨師と風伯とはのう」
「和尚さん」
「うん?」
「雨師とか風伯っていうのは、妖怪の一種なんですか?」
「いやいや、そんなものではない。れっきとした神霊じゃ。それも相当に神格の高い神霊じゃ」
「それがなぜ蚩尤に使役されるんです?」
「雨師や風伯ほどの神霊になると、自然現象に近い性格も持つ。呼び出して使役すれば使役できる場合もある。そのとき、使役したものが邪神や邪妖であれば、雨師や風伯もまた、よこしまな力として働く」
「今でも蚩尤との使役契約が有効みたいですけど、じゃあ、何千年来ずっと雨師と風伯は悪神だったんですか?」
「そんなことがあろうはずはない。わしが知っておるだけでも、何人もの術者が雨師や風伯の一部を呼び出して、その力の一端を用いて術を行っておる。とはいえ、本体そのものを、不完全な形とはいえ呼び出した例は知らんがのう」
「大昔、蚩尤は、雨師や風伯の本体そのものを呼び出したんでしょうか」
「そうかもしれん。そんなことはわしにはわからん。あのかたが目覚めたらお訊ねしてみるのじゃな」
「それで、雨師や風伯と、どうやって戦うんですか?」
「戦えるわけがない」
「え?」
「よいか。方相氏は、神々の時代を除いて、この国に現れた最強の鬼神といってよい。歴史に名を残す伝説的な陰陽師たちでさえ、方相氏には歯が立たなんだのじゃ」
「はい」
「その最強の鬼神よりも、雨師や風伯はずっと格上じゃ。戦いようなどありはせん」
「戦えない? じゃあ、せっかく引き出した情報は、無駄だったんですか?」
「無駄であるはずがない。敵を知って備えるのと、敵を知らずに備えるのとは、雲泥の差がある」
「備え? 戦えないけれど、備えることはできるんですか?」
「雨師と風伯は、自然現象に近い性格を持つと言うたであろうが」
「あ、そうか」
「強い雨風に備えるのじゃ」
「ようするに、超大型台風に備えると思えばいいんですね」
「そうじゃ。そして、その備えは短期間のものでよい」
「短期間? どういうことです?」
「雨師や風伯というような、けたはずれに強大な神霊を、天逆毎ごときがそう長い日数使役できるわけがない」
「そうか。短期決戦なんですね」
「そういうことじゃ」
「わかりました。さっそく家に帰って戸締まりをします」
「いや。それはだめじゃ」
「え? どういうことです?」
「天逆毎は、わしと、おぬしと、あのかたの居場所を知っておる。天狐のねぐらについては、どうかわからぬ」
「はい」
「この三つの住まいは、おそらく無事ではすむまい」
「あ、そうか。そうかもしれませんね」
「じゃから避難する」
「避難する? どこにですか」
「地守神社じゃ」
「地守神社? でも、あそこも狙われるかもしれませんね」
「狙われるかもしれん。しかしあそこは、結界のなかにあってさらに強い結界に守られた場所でのう。あまりに強き雨風は吹き込まぬようになっておるんじゃ」
「えっ? そうなんですか?」
「雨風がきつくなる前に、神社に移動するぞ。食料、毛布、そのほか用意する物は多い」
「はい」
「鈴太よ」
「はい?」
「お前のおかげで、これがいよいよ敵の奥の手とわかった」
「はい」
「これをしのぎきれば、こちらの勝ちじゃ」
「はい!」
「最後の決戦じゃ。心せよ」
「はい」
俺は、腹に力を込めてうなずいた。
和尚さんは、右腕を失ったけど、相変わらず本当に心強い存在だ。
天子さんと、童女妖怪をみた。
二人とも、目に力がある。
いけるぞ。
俺たちの心は負けていない。
チームワークも最高だ。
今こそ、千二百年の願いが成就する時なんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます