第9話 水虎
1
「さて、三日間続けて鉄鼠が出たために、天逆毎を探知してもらう話が延び延びになっておった。今日〈探妖〉をかけて異常がないようなら、明日は天逆毎の探知を頼むことになる。鈴太、地図は用意したか」
「うん。ここに」
地図といっても、ネットの地図をプリントしたものだけど、今回の目的には充分だと思う。川の流れのなかのだいたいどの辺りに天逆毎がいるかがわかれば充分なのだ。万一こちらから討伐に出るとしても、お守り状態の童女妖怪を連れていけばいいし、近くまで寄れば、和尚さんも天子さんも妖気を感知できるはずだ。
ただし俺は、いまだに引きこもり作戦を推奨している。時間がこちらの味方なのは明かなんだから、無理に状況を動かす必要はないはずだ。
「さて、では〈探妖〉を頼む」
「はいはいなのですはい」
今日は朝から油揚げどんと盛りメニューだったので、童女妖怪の機嫌は絶好調に最高潮だ。
いつものように、奇妙な棒を振り回してご祈祷したあと、探知結果を口にした。
「妖気が抜けた溜石が六に増えました。妖怪が出現しています。妖怪の名は、水虎……?」
「もう次が出たんだ」
「水虎、じゃと?」
「天子さん、知らない妖怪?」
「名は知っておる。どんな妖怪かは知らぬが、たしか水のなかで力を発揮する系統の妖怪ではなかったかのう。長壁、そなたは知っておるか?」
「あちしの知識でも、はっきりしたことはわからないです。ただ、純国産の妖怪ではなくて、渡来系の妖怪ではなかったかと」
「珍しい妖怪なんだ」
「珍しいといえば珍しい。というより、目立った事件を起こすことがないので、正体がつかめず、不確かな噂ばかりがあるあやかしじゃな」
「とにかく、放ってはおけない」
「それはもちろんじゃ。法師どののもとにゆこう。その前に位置を確認せねばならん」
「ちびっこ、この地図のどの辺にいるんだ?」
「その無礼な呼び方を即刻やめるですよ、このへなちょこ。この辺りなのです」
童女妖怪は、安美地区の東の端っこを指さした。
「うん? 妖気が抜けた溜石はどこじゃ?」
「ここです」
今度は、安美地区の一部を指した。村全体でいえば西の端っこにあたる。
「ほう。多少移動したようじゃな。活発なあやかしなのかもしれぬ。となると、やはり長壁についてきてもらいたいのじゃが」
「お守りに入るです」
思わぬところで油揚げ効果が成果を上げたようだ。
2
「法師どの! 法師どの!」
天子さんが和尚さんを揺すって起こそうとしているが、だめだ。
もうさっきから随分こうしているのに、起きる気配がない。
それどころか、汗をかきながらうなり声を上げている。苦しそうだ。
「だめか」
「こんなこと、今までにもあったの?」
「強敵と戦ったあと、何日か寝るようなことはあった。今までは三日続いてあやかしと戦うというようなことはなかったからのう」
一匹目の鉄鼠が出て退治したのが八月九日だった。
二匹目の鉄鼠が出て退治したのが八月十日だった。
そして三匹目で最後の鉄鼠本体が出て退治したのが八月十一日、つまり昨日だった。
昨日の戦いは激戦だった。頭もかじられていたし、帰ってからすぐ寝込んでしまった。長年の戦いによる疲労の蓄積に、この三連戦が響いて、和尚さんは本格的に体調を崩してしまったんだろう。
「天子さん、どうしようか」
「わらわは法師どのの看病をする。おぬしは帰って店の仕事をせよ」
「えっ? あやかしは放っておくの」
「うむ。法師どのを欠いては戦いようがない」
「天子さんにも攻撃能力はあるじゃないか」
昨日の鉄鼠戦で披露した爪の斬撃は、非常に強力だった。
「わらわの攻撃能力は、あれだけじゃ。両手の爪の数だけ、つまり十回だけ攻撃ができるが、これが効かない相手に出くわせば、負けるしかない。あやかし相手の戦いで負けるということは、死ぬということじゃ」
「そうか。そうなんだね」
「幸いというてよいかわからぬが、水虎というあやかしが、残虐なことをしたという話は聞いておらぬ。一日ようすをみても、大事あるまい」
「わかった。今日は店の仕事に精を出すよ」
「それがよい。まちがっても、水虎をみに行ったりしてはならぬぞ」
「はいはい。わかってます」
そう決めて店に帰ると、不思議なもので、次から次へと注文が入ってきた。
その注文のうち一つは、珍しいことに松浦地区の西の端のほうからだった。
羽振村は、フットボールのような形をしている。フットボールを真横にしてから、さらに右側を四十五度下に下げた形だ。
そのままでは区域の位置関係が説明しにくいので、フットボールを真横に起こして解説すると、フットボールを縦に四つに切り、真ん中の二つはさらに上下に分割した形を考えればいい。
左の端っこが
左から二番目の上側が
下側が
左から三番目の上側が
下側が
そして左から四番目が
このうち、安美地区、松浦地区、土生地区の三つが西区域と呼ばれている。
そして、御庄地区、雄氏地区、有漢地区の三つが東区域と呼ばれている。
実際の位置関係は東西じゃなくて北西と南東なんだけど、東西という言い方が定着している。
このうち、おもに西区域に田んぼが多い。というか、松浦地区と土生地区は、田んぼのなかに家がある感じだ。
昔、村は、天逆川から流れ込む二本の支流から、水を田に引いていた。
一本は安美地区から入り、土生地区を通って松浦地区に至り、樹恩の森にそそいでゆく。
もう一本は、いったん有漢地区に入り、ぐぐぐっと曲がって雄氏地区を通って御庄地区に至り、樹恩の森にそそぐ。こんな蛇行した川で、水がちゃんと流れるのかと心配になるが、ちゃんと高低差があって流れていたのだそうだ。
その二つの支流が百年に一度の洪水の原因でもあった。
現在では東区域の支流は完全に埋め立てられ、西区域の支流は、ごく細い農業用水路へと作りかえられている。
さて、村には二軒、乾物屋がある。
一軒は、うちだ。
もう一軒は、安美地区にある。
店をやってるのは村長さんの弟さんだ。ちなみに村長さんにはほかに二人弟さんがいて、それぞれ、電気屋と肉屋をやっている。
松浦地区の西の端だと、安美地区の乾物屋から比べると、うちは倍以上の距離がある。当然普通ならあっちの乾物屋に注文するところなんだけど、牛肉の大和煮と醤油とみりんを注文された。たぶん、このうちのどれかが、あちらの店では品切れだったんだろう。
西区域は全体に東区域より、わずかに低い位置にある。ところが安美地区の西側は少し登り坂になっていて、洪水のときも比較的安全だった場所だ。当然金持ちの人が住んでいた場所である。
東区域の東の端は、村中で一番高い位置にある。山口さんの家も、その一角にある。ただこちらは、水道が整備されるまでは水の便が悪かったので、昔は金持ちの住むエリアではなかったという。今は田舎なりに振興住宅地だ。
転輪寺は、村のど真ん中にある。御庄地区と雄氏地区と土生地区が接する辺りだ。ただし転輪寺は小高い丘の上に立っていて、ある意味洪水の防波堤のような機能も持っていたらしい。ぐるぐる回り込んで行かないと寺に行き着けない。
段取り的に、東区域の配達を済ませてから店に帰り、牛肉の大和煮と醤油とみりんを自転車に積み込んで西地区に出発した。なぜだかずいぶん歓待された。お茶と漬物が出て来て、いや応なしに長話になった。どうもこの家の奥さんは、〈砂持ち祭り〉でみかけた俺と天子さんの仲がどうなっているか、気になってしかたがなかったようだ。
俺も気になっています。
その家を出たときには、もう夕方が近かった。
3
家に帰ろうと、用水路を渡ったとき、その少年に気がついた。
コンクリートの縁に腰掛けて足をぶらぶら遊ばせながら、さして広くもない用水路をじっとみている。
(こんな男の子がいたかなあ)
もちろん俺は、村人全員を覚えているわけじゃない。特に西区域については、家族構成はおろか、家の名前もよく知らない場合がある。だけど、妙に気になる少年だった。
仕事の終わった気楽さもあって、俺は自転車を止めると、少年のそばに腰をおろした。
「こんにちは」
話しかけると少年は座ったままこちらをみて、はにかみながら笑った。
ものすごい美少年だ。
純東洋風美少年だ。
さらさらの黒髪に、黒い目。なめらかな肌。思わずさわりたくなるほっぺただ。
それにしても、服装が変わっている。というか、何のコスプレだろう。
首から下が、全身鱗で埋め尽くされているんだ。
青黒い美しい鱗だ。
手の甲まで鱗がある。
足の甲にも鱗がある。
そして、手の指と足の指には水かきがある。
面白いことに、両膝にはふかふかの真っ白な毛がつけてある。毛というより毛玉だ。デザインした人は、いいセンスだと思う。このふわふわの膝飾りの白い毛玉が、全体のキュート度をぐっと引き上げている。
じっとみていて、あることに気づいた。
首のところに服の切れ目がない。
顔の皮膚を通って首に続くラインの途中から、しみ出すように鱗が生えてきている。
着ぐるみじゃない。
自前だ。
鱗は自前の鱗なんだ。
(もしかして、妖怪?)
いや、しかし、童女妖怪が探知した〈水虎〉とかいう妖怪は、安美地区にいたはずだ。
ここは安美区域の用水路からいえば、二区域も下流の松浦区域だ。こんな所まで〈水虎〉とかいう妖怪が移動することがあるだろうか。
しかも、凶悪な妖怪の正体がこんな可愛い少年だなんて、そんなことがあるんだろうか。
「おにいちゃん、人間?」
「うん。人間だよ。君は何?」
訊いてからしまったと思った。たぶんこれは危険な質問だ。
「わからない」
「えっ? わからないの?」
「うん」
「どうしてここにいるの?」
「わからない」
この少年妖怪は、自分が何者で、何のためにここにいるのか、わかっていないようだ。
「でも、たぶん、探してるんだ」
「えっ? 何を」
「わからない」
何を探しているんだろう。まさか、ひでり神さま?
「探して、どうするの?」
「わからない。でも、とっても大事なことなんだ」
そのとき、麒麟山の西側に落ちようとする夕陽が、伸びきった稲たちを照らしだし、あたり一面の田んぼが、黄金色にそまった。
「わあ」
「わあ」
思わず同時に声を上げた。
それがおかしくて妖怪少年のほうをみると、妖怪少年もこちらをみて、にこっと笑った。なんて破壊力の高い笑顔なんだろう。だけど、どこか寂しそうだ。
俺は土手の脇に生えた草をむしり取って、くちびるを当てて曲を吹いた。
ワンコーラスを吹き終わると、少年が拍手してくれた。
「この曲はね、歌詞もあるんだよ」
「そうなの」
「一緒に歌ってみようか」
「うん!」
俺は一節ずつ少年に曲を教え、少年は砂に水が吸い込むように、曲を覚えた。
日本人なら誰でも知ってる曲だ。作曲したのはドボルザークって外国の人だけどね。
俺たちは、何度も何度も声を合わせ、その曲を歌った。
そうしているうちに、いよいよ日が落ちてしまった。
「帰らなきゃね」
「おにいちゃん、帰っちゃうんだ」
「うん」
「俺も帰らなくちゃ」
「どこに帰るの?」
「水のなか」
「水のなかに帰るんだ」
「うん。でも本当は、帰りたくないんだ」
「どうして?」
「水のなかに入ると、ぼくがぼくでなくなっちゃうんだ」
「そうなんだ。それなら、水に入らなきゃいい」
「でも、水に入らないと、ぼくはなくなってしまうんだ」
「そうなんだ。じゃあ、入らないといけないね」
「……うん」
うなだれている少年を残して去るのはいやだったけれど、いつまでもこうしているわけにもいかない。俺は立ち上がった。
「じゃあ、またね」
「おにいちゃん、また来てくれる?」
「……うん」
「また会おうね!」
「うん。じゃあ、さよなら」
「さらなら!」
少年は、元気な笑顔で俺をみおくってくれた。
しばらく自転車を走らせてから自転車を止めて振り返ると、少年はまだこちらをみていて。大きく手を振ってきた。俺も手を振り返した。
なんだか別れがたい気持がした。
家に帰ると未完さんがいた。
「あれ? こんな時間に珍しいね」
「おい、鈴太。聞いたか?」
「何を?」
「熊だよ。熊が出たんだ」
「えっ」
「安美地区の伊藤何とかっていう人が襲われて、大怪我をしたんだ。本人は錯乱していて、虎に襲われたって言ってるらしいけど、いくらなんでも虎ってことはねえよな」
殴られたような衝撃を感じた。
虎。
水虎。
これはただ偶然言葉が似ているだけなんだろうか。それとも。
「安美地区は麒麟山のふもとだからよ。あんまり人の入らない山なんだろ? そういうとこだったら、熊がいたって不思議ねえよな。おい、鈴太! 聞いてんのか」
「あ、ああ、うん。聞いてる」
「お前は配達とかでしょっちゅう出てるからよ。今日だって、来てみりゃあ配達中のメモが置いてあるしよ。まあ、西区域には配達なんかねえだろうけど」
「いや、今最後に配達したのは、松浦地区の一番西側だった」
「はあっ? どうしてそんな危ないとこに行くんだよ!」
「いや、そんな。熊が出たなんて知らなかったし」
「鳴ってただろうよ、救急車のサイレンが!」
そういえばサイレンの音が聞こえてた。
テレビか何かの音だとばかり思ってたけど。
だって、この村に救急車が来るのなんて、みたことがない。
「とっても村じゃ手当のしようもねえってんで、すぐに救急車が呼ばれたんだけどよう。急いだって一時間はかかる。こっから病院に行くのも一時間はかかる。こういうとき、田舎は不便だよなあ」
とんでもないことに、そのあと未完さんは、ここに泊まると言い出した。
いくらなんでもそれは許せないので、ちょっと厳しく言い聞かせ、家まで送っていったんだけど、お母さんである足川未成さんは、あら、帰ってきたの、なんて言ってた。
どういう母親だよ!
それから帰って食事を作って食べて、風呂を沸かして入って寝た。
虎が出たという言葉が、ずっと頭のなかでリフレインしていた。
4
翌日は、天子さんが食事当番だった。
朝食のあと、童女妖怪に〈探妖〉をかけてもらった。
水虎の位置が移動していた。
童女妖怪は地図の上で、一点を指し示した。
「ここにいるです」
それは、ちょうど昨日、少年に会った辺りだ。
「ううむ」
「どうしたの、天子さん?」
「法師どののようすが、おもわしくないのじゃ」
「まだ起きられそうにない?」
「うむ。どうも鉄鼠の牙には、妖怪をもむしばむ毒、というより呪いのようなものがかかっていたようでの。薬草を調合したが、すぐにはとても戦えぬ」
「昨日の熊騒ぎ、聞いたかな?」
「よくは聞いておらんのじゃ。おや?」
来客があった。
駐在の平井さんだ。
「いやあ、まいった、まいった」
「うわ。朝からすごい汗ですね。今、冷えた麦茶を持ってきますから」
「ああ、すまんのう。おお、天子ちゃん。おはよう」
「おはよう。どうかしたのか?」
「いやいや、聞いちょると思うけど、熊が出たんじゃ。病院の先生のみたてでも、この傷痕は熊ぐらいでないと付けられん、しかもかなり大きい熊じゃということでなあ」
「わらわは村から少し離れて暮らしておるゆえ、昨日の騒ぎも知らなんだ。誰かが熊に襲われたのかえ?」
「そうなんだよ、天子ちゃん。安美地区の伊藤瑞穂さんがね、田んぼをみた帰り、朝の九時過ぎぐらいかな、熊に襲われて大怪我をしたんだ」
「なんと」
「本人いわく、突然霧が立ちこめて、その霧の奧からがおおとうなり声を上げて虎が襲いかかったっていうんだけど、今どき日本に虎はいないよねえ。加藤清正の時代じゃあるまいし」
「はい。平井さん」
俺は平井巡査に盆に載せた麦茶を差し出した。加藤清正は日本で虎退治をしたわけじゃないと思う、というようなよけいなことは言わなかった。
「おお、ありがとう。……はああぁ、うまいのう。はっはっはっ」
「命に別条はなかったのかえ?」
「うん。自分で歩いて家まで帰った。というか、襲われたという地点は、家のすぐそばだったんじゃ。すごく錯乱していて、流血してたので、家族もあわててね。じゃけど、みかけのわりには傷は浅かったらしい」
「ほう」
「左胸からおなかにかけて、三筋の爪痕があった。家族はすぐに警察に通報した。それですぐに救急車を呼んで、わしと安美地区の若いもんらが、安美地区を中心に捜索したけど、夜までやっても熊は発見できんかった。山側にも入ったし、土生や松浦にも探しに行ったんじゃけどなあ」
「それは大変であったなあ」
「いやあ、天子ちゃんにそう言われると、ねぎらわれるなあ。まあ西区域には、昨日の午後三時ごろには村長判断で警報を出してな。家から出んように言うとる。今日も夜明けから大がかりに捜索しちょる。今、安美地区の捜索をいったん終えて、青年団は土生地区と松浦地区をみに行っとる」
「なるほど」
「わしは念のため、東区域を回って注意を呼びかけとるんよ。今日は日曜じゃけんなあ。こどもらもおろうが。とにかく熊がみつかるまでは、できるだけ家の外に出んようにいうてなあ」
「それはご苦労さまなことじゃ。無理をせぬようにな」
「ありがとうね。それじゃあ」
平井さんは二杯麦茶を飲んで、あわただしく出ていった。
そのとき、電話が鳴った。
「はい、もしもし」
「もし、もし」
「あ。……ひでり……艶さんですね。こんにちは」
「じゃまするのう」
「どうかしましたか。人参がなくなりました?」
「いや、人参は、まだある。すまんが、煎茶を少し頂けんかのう」
何か、はっきりしない言い方だ。というか、本当に煎茶が欲しくて電話をかけてきたという感じがしない。ということは、たぶん俺と話がしたいんだ。
「わかりました。今すぐ配達します」
俺は受話器を置いた。
「あのかたからか?」
「うん。俺に用事があるみたいだ。すぐに行く」
「わかった。わらわは留守番をしておく」
「あの、あちきはどうすればいいです?」
「長壁よ、今日はまだ法師どのが動けぬ。そなたは社に戻っておれ」
「はいです」
5
「恐れ入るのう。こんな所まで」
「いえ。そんなに遠くないですし」
艶さんの、つまりひでり神さまの家は、有漢地区の南の端にある。乾物屋は御庄地区の南の端っこのほうにあるんだから、たいした距離ではない。ただ、北側からここに来ると登り坂になるので、ひでり神さまには、神社からの帰り道はつらいだろうと思う。
そういえば、乾物屋があるのは、この家と神社のちょうど中間地点だ。なのに、ひでり神さまが乾物屋の前を通るのをみたことがない。いつか聞いた〈決まった順路〉というのを通っているからなんだろう。
今日のひでり神さまは体調がいいみたいだ。服装も風通しのよい品の良い服だ。
「今日は時間がおありかの」
「はい」
「実はこの前来ていただいてから、いろいろなことが気になってなあ」
「あ、そうなんですか」
「前から気にはしておったのじゃが、立ち入ったことゆえ、お訊きしたことはなかった」
「俺に答えられることでしたら、何でも訊いてください」
「お言葉に甘えて、失礼なことをお訊きするが、幣蔵どのはなぜ、あなたの父上をこの里から外へ出されたのじゃろうか」
訊かれてみて、ひでり神さまにとっては、実に当然の疑問だろうと思った。
俺は自分で淹れた煎茶を一口飲んで、口を開いた。
「ちょっと長い話になります」
それから、俺は話した。
おじいさんの物語を。
お父さんの物語を。
俺がこの村に移り住んだ経緯を。
この村に住むようになってからの冒険の数々を。
話が終わったあと、ずいぶん長い沈黙が流れた。
気がつけば、ひでり神さまは、目に涙を浮かべていた。
「幣蔵どのを、苦しめたなあ……」
いいえ、と言う資格は俺にはないように思えたので、黙っていた。
「幣蔵どのだけではない。今までこの里で生まれ、死んでいった〈はふり〉の者は、二百人を少し越えようか。その者たちの一生を、わしのわがままで縛り付けた」
「それはちがいます」
資格があるとかないとかじゃなく、俺は思わず、そう言ってしまった。
ひでり神さまは、驚いたような目で俺をみている。
「俺のご先祖さまは、弘法大師さまから与えていただいた役割を尊いことと信じて、その使命を生ききったのだと思います。代々のご先祖さまが、ずっとそうだったのだと思います。それは、誰かが果たさねばならない役目であり、それを果たすことのできる喜びを味わいながら、一生を送ったんです」
「……そう言うてくださるか。かたじけない。じゃが、わしが天界に帰りたいなどと言い出さねば始まらなかったことじゃからなあ」
「あなたも人のために人生をささげたではありませんか!」
「……え?」
「そもそもあなたが天界に帰れなくなったのは、人々の苦しみを救う戦いのためでしょう? あなたは人のために戦い、その結果、天界に帰れなくなってしまった。人を殺したというけれど、殺そうと思って殺したんじゃない。人々を救うために得た力が強すぎたからです」
「ちがう。ちがうのじゃ。わしはなあ、陛下に恋をした。じゃから陛下を勝たせたいと思うた。そのため、下級神の分際で、
「その恋がなければ、蚩尤の圧政は終わらなかったんじゃないですか? その恋がなければ、雨師や風伯を打ち倒す力は、どこからも得られなかったんじゃないですか? 人が笑い合う時代はやって来なかったんじゃないですか? だったらその恋は祝福されていいはずです!」
いったい何を言ってるんだろう、俺は。こんなことは、俺なんかが口出しできる事柄じゃない。ろくに真実を知りもしないくせに、偉そうに歴史を語るなんて。いったいいつから俺は、こんな人間になったんだろう。
「そう言われてみれば、そうかもしれんなあ。無茶や不相応もあったにせよ、皆が力を合わせてつかみ取った勝利に価値がなかったなどとは、誰にもいえぬ。そのあとわしが日本に飛来して富士の山に落ちたことも、多くの人が亡くなられたことも、大師どのにお会いして道を示されたことも、あらかじめ誰かがはからったことではない。しかし、罪は罪であり、後悔は残る」
うつむきかげんだった顔を上げて、ひでり神さまは、まっすぐに俺の顔をみた。
「長き年月、罪をあがなうために石を積んでまいった。積めば積むほど、骨ヶ原の霊魂たちは優しゅうなった。じゃがなあ」
ひでり神さまは、目を閉じた。閉じた目から、涙がこぼれた。
「積めば積むほどに、申しわけない、すまんことをしたという、罪の心も深くなるのじゃ。不思議なことに、千二百年たっても胸の痛みは消えぬ。強くなるばかりなのじゃ」
それこそが贖罪なんじゃないだろうか、弘法大師さまがひでり神さまに課した修行なんじゃないだろうか、と俺は思った。けれど、さすがに僭越すぎて、それを口にすることはできなかった。その代わり、俺は別のことを口にした。
「あなたがそういうお心であることを、〈はふり〉の者の末裔として、尊くありがたいことに存じます」
ひでり神さまの閉じた目からは、新たな涙があふれた。
「どうぞお体を安んじられて、満願成就をお迎えになってください」
ひでり神さまは、ゆっくりとうなずいた。
「〈はふり〉の者は、優しいのう。いつもそうじゃった。あなたには、満願成就の日をともに喜んでもらいたい」
「はい。ひでり神さまと、俺と、呪禁和尚さんと、天子さんと、それからついでに長壁姫で、一緒にその日を迎えましょう」
「ほほ。その長壁とやらに会うてみとうなったわいの」
「ええっ? つまんないやつですよ?」
「ほほほほほ」
6
「ところで、鈴太どの。昨日今日とずいぶん里が騒がしいようじゃが、何事であろうか」
熊警報はこの家にはまだ届いていないようだ。
俺は、どういう説明をしたものかと、ちょっととまどった。
俺が村に来てからの妖怪退治の話はだいたい話したけれど、五つ目の溜石から水虎が生まれたという話はしていない。それを話そうとすると、和尚さんが鉄鼠戦で傷ついて、動けないほど調子が悪いという話をしないといけないからだ。だけど、訊かれてしまったら、話さないわけにいかない。
「実は、安美地区の伊藤さんてかたが、獣の爪のようなもので大怪我をしまして。それで、熊が出たという話になって、平井巡査さんと青年団が、捜索をしているんです」
「熊とな。それは珍しい」
「え? いるんですか?」
「昔は三山に熊がおった。ここ四、五百年は話を聞かぬが」
「すごいスケールの話ですね。でも実は、昨日五個目の溜石から妖気が抜けたという話をしましたが、そのとき生まれた妖怪は、水虎だというんです」
「なにっ? 水虎とな?」
「は、はい?」
物に動じない、ひでり神さまの、珍しい反応だ。
「それはまた、懐かしいのう」
「え? もしかして、お知り合いですか?」
「ほほ。わしの知っておる水虎は、はるか昔の水虎じゃ。何代どころか、何十代も前のことになろう」
「え? ということは、日本での話ではないんですか?」
「むろんじゃ。水虎はもともと中国の妖怪じゃ」
「そうだったんですね」
「陛下とわしの、得がたい仲間じゃった」
「ええっ?」
ひでり神さまは、思い出話をしてくれた。
そのころ、陛下は、まだ若く、力も弱く、神様が与えた試練で中国各地を放浪していた。
今でいう湖北省のある村を通りがかったとき、村人が川に棲む妖怪に苦しめられているという話を聞き、村人に協力して妖怪を追い詰めた。だがその妖怪は、童子のような純粋な心を持っており、とても悪事を働いて人を苦しめるようには思えなかった。
よくよく調べてみると、村を牛耳っている金持ちが、薬の製造と販売でもうけているのだが、高価な薬のなかに偽の薬があり、副作用のつよい毒草を混ぜて多くの薬を作り、大もうけをしていることがわかった。その薬を作るとき流れ出る毒が川をよごすため、村人に抗議をしたのだが、逆に悪い妖怪だと決めつけられ、その金持ちのしでかした悪事まで責任を押しつけられていたのだった。
陛下は苦労して村人の誤解を解いた。その過程で〈ばつ〉、つまりのちのひでり神さまも協力し、陛下と水虎と〈ばつ〉は、とても仲よくなったらしい。
のちに蚩尤との決戦が始まり、蚩尤が妖怪軍団を繰り出してきたとき、真っ先に応援に駆け付けたのが、水虎だった。
雨師と風伯が参戦すると、陛下の軍は形勢不利となったが、そのなかで一人戦線を支えたのが水虎だったという。
何しろ水虎は、水のあるところでは無敵に近い。雨師が雨を降らせれば降らせるほど水虎は力を得て、敵を蹴散らしていったのだ。ただし、風伯とは相性が悪く、風伯が出てきたら逃げ回っていたらしい。
雨師と風伯に蹴散らされ、戦意を失った妖怪たちをなだめ励まして、どうにかこうにか軍団としての機能を維持させたのも水虎だった。
水虎は、身を捨てて陛下に尽くした。そして何も求めなかった。どうしてそこまでの献身をしてくれるのか、ひでり神さまには不思議でならなかったという。
蚩尤を倒したあと、水虎は故郷に帰っていった。
以来、ひでり神さまは水虎に会っていない。
「ところがなあ、七、八百年前であったか、水虎が日本に来たらしいという噂があってのう」
「長壁も、水虎は渡来の妖怪のように思う、とは言ってました」
「水虎の寿命は二百年か三百年ぐらいのものじゃと思う。日本に来てからも、何代目かになっておるじゃろうなあ」
「妖怪というのは、生まれ変わると、前の記憶はなくなっているんですか?」
「自然発生する妖怪はそうじゃ。人の恨みから生まれた妖怪は、生まれ変わってもその恨みだけは忘れぬがな。水虎のような妖怪は、記憶を引き継ぐことはない」
「ふうん。いや、もしかしたら、ひでり神さまを追って日本に来たのかと思ったんですが」
「それはないじゃろうなあ。来るならもっと早くに来ておったろうし、そもそもわしを探し出して何をしようというのじゃ。あやつはわしを恨んではおらぬと思うぞ」
「追ってきたとしたら、動機は恨みではないと思いますが、それはまあいいです。水虎は、どんな妖怪ですか?」
「あまり人とは関わらぬ。じゃから人のあいだでは、正体のよくわからぬ妖怪といわれておる。深い山のなかの青く澄んだ水を好むのじゃ。きれい好きで繊細でのう。小柄で可愛らしい。膝の所にふわっとした白い毛が生えておってのう。ぷかぷか水に浮いているときは、その膝のふわふわとした毛の塊が水の上をただよっているようにみえる。その白い毛の塊が、虎の
「呼び名? どんな名前ですか?」
「
小青という名のどこが女の子みたいなのか、俺の知識と感覚ではわからなかった。ただ、小青を思い出すひでり神さまの顔は、とても優しかった。
「今回の水虎は、その小青とは別の水虎だと思いますが、能力や弱点は一緒ですよね」
「それはそうじゃろうなあ」
「どんな能力を持っているんですか?」
「水虎は、水のある場所で霧を出すことができる。その霧のなかでは、虎の姿を取る。大きさは変幻自在。この状態のとき、水虎の側からは敵を攻撃できるが、敵の側は水虎を攻撃できぬ。霧を攻撃するのと同じじゃからなあ。意味がない」
「電撃や火炎も通らないんですか」
「効かなんだなあ。風で霧を吹き飛ばせば、水虎も消えるが、倒せるわけではない。水のある場所に戻るだけじゃ」
「では、水から切り離してしまえば、力を失い、倒すことができますか」
「長く水から離れておると力を失うが、ひゅっと水のなかに戻ってしまう。水虎を水から切り離したままにすることは、まあ無理じゃな」
「弱点はないんですか」
少し時間をおいてから、少し小さな声で答えが返ってきた。
「水のなかにいるときなら、刀や槍で傷つけることができる」
「水のなかにいるとき」
「あやつは、水のなかで力を蓄えるのじゃ。そのときには無防備となる」
「なるほど」
「ただし、水のなかにいるとき、あやつは姿を消すことができる。というより、水とまったく同じ姿になることができる。しかも、丸くなったり、長く伸びたり、体の形を自由自在に変えることができる」
「それでは、みつけることができませんね」
「わしは、みつけることができた。じゃから陛下が攻撃できた」
一番知りたいことは教えてもらった。
ほかに訊いておくべきことがあるだろうか。
俺はしばらく考えた。
「水虎の攻撃は、何種類ありますか」
「前足の爪で相手を引き裂く、牙で相手をかみ砕く、頭突きというか体当たりで相手をはじき飛ばす、ぐらいかの。ああ、あと、巨大になって相手を踏みつぶすのも得意であったな」
「離れた相手を攻撃するような能力はないんですね?」
「そうじゃなあ。あるとすれば吠え声で脅すぐらいかの」
「よくわかりました。ありがとうございました」
「鈴太どの」
「はい?」
「わしに遠慮されることはない」
「遠慮、ですか?」
「今現れておる水虎は、確かにかつての同志の末裔にちがいない。じゃが、人に害をなすあやかしを放ってはおけまい。倒せる方法がおありなのじゃろう?」
「えっ? は、はあ」
「ほほほ。あなたは考えていることが、はっきり顔に出る。まだ若いのじゃから無理もないことじゃがな」
水虎は手ごわい相手だとわかった。だが、うちのメンバーとは相性がいい。たぶん、和尚さん抜きで倒すことができる。
ただ、あの少年が水虎だとすれば、伊藤さんを襲った凶暴さは、いったいどこからきたんだろう。
7
「おう。遅かったじゃねえか」
「あ、未完さん。いらっしゃい。今、外出禁止令が出てない?」
「そういうお前は、のこのこ配達になんか行ってんじゃねえよ!」
「ごめん、ごめん」
「妖怪なんだろ?」
「えっ」
「この虎騒ぎだよ」
「虎? 熊じゃなくて?」
「聞いてねえんだな。今朝のこと」
「今朝?」
「おおっ? きゅ、急に怖い顔すんじゃねえよ!」
「あ。ごめん、ごめん」
「い、いや。ちょっとびっくりしただけだ(むしろ、ひきしまった顔で、かっこいいつうか)」
「えっ?」
「な、何でもねえよ。今朝のことだけど、青年団の人たちが熊を探してたら、急に霧が出てよ。虎の鳴き声がして、団員が二人重傷を負ったっていうんだ」
「そう……なんだ」
「鳴き声は、けっこう大勢の人が聞いててよ、虎だっていうんだ。熊の声じゃねえって」
「それは、どこで起きたのか知ってる?」
「土生地区の西のほうだって聞いたな」
ということは、昨日の朝、伊藤さんが襲われたという場所から近い。用水路の上流のほうだ。
「ついさっき、救急車が、おっきなサイレン鳴らして怪我人を連れてったんだけど、聞かなかったのか?」
「う、うん」
ひでり神さまの家は、村全体でいうと南東の端に近い。土生地区の西の端だと、村全体の北東のほうにあたる。しかもひでり神さまの家は、斜面と木立でブラインドになった場所だ。話に夢中になっていたし、聞き逃してしまったんだろう。
「こんにちは。ごめんください!」
「あっ。はーい」
店の入口に、何だか物々しい格好をした若い男性が立っている。みたことのある顔だけど、名前は知らない。俺は、サンダルを履いて、入口に向かった。
「村長さんから皆さんに伝達じゃあ。猛獣のため、昨日、今日と怪我人が出た。急遽、警官隊と猟友会が派遣されることになったけえど、猟友会が来るのは明日じゃ。すまんこっちゃが、追って連絡があるまでは、外出をできるだけ控えるよう頼むけん」
「あ、はい。わかりました」
お子さんのいる家庭では、明日は学校を休むよう伝えている、と言って、その人は次の家に向かった。結局名前を訊かなかったな。
「今の男は、田所順一という。土生地区で農業をしておる」
あ、また心の声に答えてくれましたね、天子さん。
「早くお昼ご飯にするのです! 今何時だと思ってるですか!」
童女妖怪が油揚げのお預けをくらってキレてる。
そういえば、和尚さんも天子さんも、ひでり神さまの前に出たときは、神気にあてられたとか言ってたな。
よし。
今度、童女妖怪をひでり神さまに引き合わせてやろう。ひでり神さまが会いたがっていたもんな。うん。
「早く来るです!」
「はいはい」
食事が済むと、天子さんは転輪寺に行った。和尚さんを看病するためだ。
夕方六時半ごろ、村長さんから電話がかかってきた。
県警から派遣された警官隊が捜索したけど、猛獣は発見できなかったという。
そして、明日の朝十一時から猟友会と警官隊が猛獣の発見と退治を行うので、流れ弾に当たらないために、西区域は外出禁止にしたそうだ。
東区域でも何か怪しい物を発見したら、ただちに連絡が欲しい、とあわただしく用件を伝えて、電話は切れた。
8
神社の掃除をしたあと、用水路のほうに足を伸ばした。
昨日、水虎と会った場所は、神社から二百メートルぐらいしか離れていない。
右側に三山の威容を視野に入れながらてくてく歩いていった。
いた。
向こうも俺に気づいて、手を振っている。
無邪気そのものの顔だ。
この小さな少年が、本当に青年団の二人に重傷を負わせたんだろうか。
「おにいちゃん、こんにちは」
「やあ、こんにちは」
こんにちは、というあいさつには、ちょっと早い時間だけど、俺は少年のあいさつを、同じように返した。
「また来てくれたんだね」
「うん」
そういえば、昨日、また来ると約束したような気がする。
「ここの景色は、とてもきれいだね」
少年が三山のほうをみながら言った。
「うん。奇麗だね」
「でも、きれいな水がないね」
「こんな用水路じゃあね。村の外にさかのぼれば、大きな川に出るよ。その川は奇麗だとおもうけどな」
「……あの川は、きれいだけど、よごれてる」
「奇麗だけどよごれてる?」
「うん」
「君には住みにくいってこと?」
「ああ! そうだよ。おにいちゃん、よくわかるねえ」
「奇麗な水がないのに、どうしてここに現れたの?」
「うーん。よくわからないんだけど、ここに来なきゃいけない気がしたんだ」
並んで座っているので、どうしても、みおろしながら話すようになる。
年の離れた弟と会話している気分だ。
こんな弟が本当にいたらよかったのにと思う。
「何を探してるのか、思い出した?」
「人だ」
「人なんだ」
「でも人じゃないんだ」
「へえ?」
「とってもやさしい人なんだ」
「そうなんだ」
「すごくいい匂いのする人なんだ」
「ふうん」
少し言葉がとぎれた。
「男の人なの? 女の人なの?」
「え? あっ。女の人。女の人だよ。そうだ! おねえちゃんだ」
「そうか。おねえちゃんを探してるのか」
もしかして、おぼろげながら、ひでり神さまについての記憶を引き継いでいるんだろうか。そうだとして、ひでり神さまに会ったら、どうするつもりなんだろう。
「昨日言ってたね。この水のなかにはいると、君が君じゃなくなるって」
「うん」
「あれは、どういう意味なの?」
「うーん。水に入ると、がおーってなっちゃうんだ」
「そうか。がおーって、なっちゃうのか」
「それで、戦うの」
「誰と?」
「誰とでも。でも、ぼくは戦うの、いやなの」
「いやなのに戦うんだ」
「水が命令するんだ」
「水が命令する?」
「殺せ、引き裂け、何もかも。そう水が命令するんだ」
「そうか。水が殺せって言うんだ」
「うん」
「だけど君は殺したくないんだ」
「うん」
一昨日も昨日も、水虎に襲われた人は大怪我をしたものの、死んではいない。もしかしたら、水虎自身が手加減をしたのかもしれない。殺せという声に逆らって。
「だから水に入りたくないんだね」
「うん」
「でも、ずっと水から出たままではいられない」
「うん。そうなんだ」
俺は、ジャージーのポケットに手を突っ込んで、出がけに入れてきたあめ玉を取り出した。
「これ、食べる?」
「何?」
「お菓子だよ」
「お菓子なの! きれいな色だねえ。食べたい」
「じゃあ、これをどうぞ」
「ありがとう!」
「かじっちゃだめだよ。なめるんだ」
「うん」
水虎は、最初包みのほどき方がわからなかったが、すぐに理解した。
「おいしい!」
「よかった」
「こんなおいしいものがあるんだねえ、人間の世界には」
「うん」
「そういえば、おねえちゃんも、いっぱいおいしいものを作ってくれたよ」
「へえ。どんなものを作ってくれたの?」
「うんとねえ。……忘れちゃった」
「そうか。忘れちゃったんだ」
「うん」
それから俺たちは、三個ずつあめ玉をなめて、話をした。
「あ、もう水に戻らなくちゃ」
「水に戻るんだ」
「うん。もう戻らなくちゃ」
「そうか。またね」
「また来てくれるの?」
「……うん」
「じゃ、またね!」
すっと溶けるように、水虎は用水路に消えた。
9
「あれ? 未完さん。今日は早いね」
これから朝食だ。こんな時間に未完さんが来たことはなかった。
「うん。実はよう。夏休みにはサークルの合宿があったんだ」
「へえ? 何のサークル?」
「そんなこといいじゃねえか。でも帰省しなきゃいけないからって言って、合宿は不参加にさせてもらったんだけどよ」
「けど?」
「そのあとの強化練習には絶対出てこいっつうんだよ」
「あ、京都に帰るんだ」
「おいこら。なんでうれしそうなんだよ」
「いや、悲しいよ」
「笑いながら言うなよ!」
「あ、でも今、外出禁止なんじゃないの?」
「バスは出るんだと。やっぱ仕事とかでどうしても町に行かなきゃなんない人もいるからだろうな。あたしも、昼の便のバスで行く」
「そうか。寂しくなるよ。それじゃあね」
「あ、こら。追い出すんじゃねえ。飯食わせろよ」
「いや。最後の食事ぐらい、自宅で食べようよ」
「母さんが行けっつったんだよ」
「……娘への教育というか、指導が、ちょっと変じゃないかな」
「母さんは、あんたのこと、むちゃくちゃ気に入ってるぜ」
なぜかうれしくないお知らせだ。
「その話はそこまでにせよ。鈴太が遅いので、わらわが食事の準備をしておいた。さあ、食べるぞ」
「あ、待っててくれたんだ。ごめんね」
「待ちきれないので、あちしはもう食べてるです」
「お前は居候の自覚を持て」
食事がおわると、未完さんは、あわただしく帰っていった。
これで、冬休みまでは会うこともない。ほっとしたような、ちょっと寂しいような、微妙な気分だ。
「さて、こんなに遅くなったということは、水虎と会っておったな?」
「うん」
「危険なことをするでない! ところで、昨日、あのかたと会うたのじゃな」
「あ、うん」
「その話を聞いておきたい」
俺は話した。
ひでり神さまに何を話したのかということと、ひでり神さまから何を聞いたのかということを。
そしてまた、俺は話した。
水虎とどんな会話をしたのかを。
「ふむう。ひでり神さまのことをよく知るあやかしか」
「天子さん」
「何じゃな」
「天逆毎が溜石を結界のなかに運ばせて、妖怪を生じさせる」
「うむ」
「そのとき、狙った種類の妖怪を生じさせることができるだろうか」
「なに? ……ふうむ。むずかしいであろうなあ」
「そうなの」
「そもそも、ごく特殊な場合を除いて、狙った種類のあやかしを生み出すこと自体がむずかしい。ある種のあやかしが出やすい条件を整えることはできるが、確実に種類を確定させることは、まあできんじゃろうなあ」
「なるほど」
「そして今回のことは、十二個の溜石をどこに置くか、天逆毎自身にもわからんのじゃから、なおさら難しい。無理じゃな」
「そうか。なら、水虎が生まれたことは、偶然なんだね」
「そうだとしか考えられぬが、それがどうかしたのか」
「水虎には、ひでり神さまの記憶が、うっすらと残っているみたいなんだ。つまり、数ある妖怪のなかで、ひでり神様を知っていて探し出せる妖怪なんだ」
「ふむ。それで?」
「そして、さっきも言ったように、水虎は、ひでり神さまを探そうとしている」
「探し当ててどうするかもわかっておらんと言わなかったか?」
「それはあとから指示すればいい」
「指示?」
「水虎は、用水路のなかに戻ると、自分が自分でなくなると言った」
「いかにも」
「人を襲え、殺せ、と命じられると言った」
「そうであったな」
「用水路は、天逆川から引いている。天逆毎は川を通じて命令を送っているんだ」
「川を通じて、じゃと?」
「妖気の大きな妖怪は、結界のなかに入ってこれない」
「うむ」
「だけど妖気の小さな妖怪がたくさん入ってくることはできるんじゃないだろうか」
「うん? それはできるじゃろうが……」
「たくさんの小魚。たくさんの小海老。目にはみえないような小さな生き物。それが結界のなかに入り込んで、天逆毎の意志を結界のなかの妖怪に伝える。いや、支配する。それは可能かな?」
「……可能じゃろうな。なんということじゃ。そんな方法、考えてもみなんだわ」
「たぶん、あんまり細かい指示はできないんだ。人を憎み殺せとか、ひでり神さまを探せとか、そういう漠然とした命令が、水虎を支配してるんじゃないだろうか。ただし、水虎自身は、人を襲うことも殺すこともいやがっている。だから今のところ、死者は出ずにすんでいるけど……」
「ふむ。もうすぐ、警官隊と猟友会が、猛獣を射殺するための捜索を始める時間じゃ。わらわがみにいってみよう」
「うん」
天子さんには、隠形とかいう能力があった。
人間たちにみとがめられずに、現場を調査できるんだろう。
10
「いや、すさまじい大妖怪じゃ」
「ずいぶん何度も、猟銃だか拳銃だかの発砲音が聞こえてたけど」
「うむ。まず、最初の被害者が出た場所と、二度目の被害者が出た場所を猟友会の者たちに検分させた。それから山に入るつもりであったのじゃが」
「出たんだね」
「二番目の検分場所で急に霧が出た。霧が出るという話は、わらわでさえ聞いておったというのに、警官隊も猟友会もひどいあわてようじゃった」
「信じてなかったんだと思うよ。霧の出るような季節でも時間帯でもないからね」
「濃密な霧であった。そのなかに、猛獣の吠え声が響きわたった。いやはや。虎の吠え声など聞いたことはないが、恐るべきものじゃな」
「それで、どうなったの」
「霧のなかに虎が出た。二階建ての家ほどもある虎じゃ」
「うわ」
「ただし上半身だけが現れ、下半身は霧のなかにかすんでおった。あとでみたが足跡もなかった。つまり虎は宙に浮いた状態で、上から攻撃してくる」
「そうなんだ」
「人間らは、拳銃や猟銃をさんざんに撃っておったが、虎を素通りしておった」
「うん」
「虎が前足を軽く振ると、五人の人間が宙を舞った」
「それで?」
「人間らは逃げ惑うたが、逃げ遅れた三人がはね飛ばされた」
「戦いは長く続いたの?」
「いや。あっというまに終わった。人間らは霧から出て、負傷者を連れてあわてて逃げていった。じゃが虎が恐るべき正体を現したのは、そのあとじゃ」
「何があったの?」
「小山ほどの大きさにふくれ上がったのじゃ」
「ええっ?」
「変幻自在とは聞いておったが、もしかすると、もっともっと大きくもなれるのかもしれぬ。まさにあれは、神話時代の強大な妖怪じゃ。けた外れの強さじゃ」
「正面から戦ったら、和尚さんでも勝てないかな?」
「勝てぬな。そもそも虎の姿のときは、攻撃が通らんのであろう? あれだけの攻撃力を持っていて敵の攻撃は素通りとなると、戦いようがない」
「討伐隊は、そのまま引き上げたの?」
「引き上げた。結局人間八人が負傷したからの。そういう被害は予想しておらなんだはずじゃ。もっとも、爪にかけられた者は一人もおらぬ。爪にかけられれば命はなかったであろうな。水虎が手加減したとしか思えん」
「そうなんだ」
「巨大な虎は、四方をぐるりとにらみ、消えた。すると霧も消えた。そのあと、妙な声が聞こえた。虎の声ではない。小さな男の子のような声であった」
「なんて言ってたの」
「〈殺して。ぼくを殺して〉と、そう言っておったの」
11
昼ご飯を食べていると、村長さんから電話があった。凶暴な猛獣が村のなかにいるので、家を出ないようにということと、明日昼前には武装警官隊が派遣される、という連絡だった。
「あ、ありゃあ、猛獣どころじゃねえ。恐竜じゃ! あげなもんがこの世におるとは、この目でみても信じられん」
村長さんは、えらく興奮していた。少し高台にある自宅の二階から巨大な虎を目撃して、恐竜だと思ったようだ。といっても、ひどく濃い霧のなかでのことだったから、何の恐竜か定かにはわからなかったようだけど。
俺は水虎を倒すことを決心した。
作戦を伝えると、はじめ天子さんは反対したけれど、誰かが倒さなければ被害が増えていくだけだし、このままでは満願成就どころではないと言って説得した。童女妖怪にも役割を説明したけど、それならできる、だいじょうぶだ、と自信満々だった。
相談がまとまると、童女妖怪はお社に帰り、天子さんは和尚さんの看病に行った。
その日、お客さんは一人も来なかった。
12
翌朝、俺たちはいつもより早く朝食を取った。
「溜石の総数は十二、妖気が抜けているのは六つで変わらずです。水虎の位置は、ここです」
「よし。出かけよう。長壁、お守りに入ってくれ」
「はいです」
「行こう、天子さん」
「うむ」
スニーカーを履いた俺の頭に左手を乗せて、天子さんは呪文のようなものを唱えた。
「隠形をかけた。これで人の目にはつかんはずじゃ」
「ありがとう」
道中、俺たちは無言だった。
歩きながら、俺は考えごとをしていた。
どうして人を襲うときには、用水路の上流のほうにいて、少年の姿のときには下流のほうにいるんだろう。
いろいろ考えてみたけど、理由はわからなかった。
ずっとあとになって、あることを知った。用水路のなかには何か所か、落下した木切れや草やゴミをせき止めておくための、かなり丈夫な金属の網が設置してあるんだそうだ。そのことが、少年の姿の水虎が下流に出現していたことと、関係があるんじゃないかと思った。
地守神社の前を過ぎてさらに進んでいくと、用水路がみえた。
いた。
昨日と同じ場所に、水虎がいた。
「やあ」
「あ、おにいちゃん」
困ったような顔をしている。
「今ここに来ちゃだめだ」
「用事があったんだ」
「いけない、いけない。ここにいちゃ、いけない」
少年は苦しそうな表情をみせた。
「用事は君なんだ」
「すぐに帰って、おにいちゃん。でないと……」
顔をくしゃくしゃにゆがめ、目には涙があふれかかっている。
俺は心を鬼にして宣言した。
「君を殺しに来たんだ」
わずかな沈黙があった。
「……なにいっ」
少年は、悪魔のような形相になった。
声も、今までと打って変わったしわがれ声だ。
「殺してほしいんだよね。俺が殺してあげる」
少年の顔は、赤黒くふくれ上がってゆく。
みしっ、みしっ、と音を立てながら、顔に縞模様が浮き出してくる。
「殺スダト。コノ、水虎サマヲ、タカガ人間ゴトキガ、殺スダト」
目の光は俺を射殺すほどに強い。
髪は逆立ち、口からは牙がせり出してきている。
「うん」
「身ノ程知ラズメ! オレガオ前ヲ殺シテヤル!」
用水路からぶわあっと霧が噴き上がった。一瞬で辺りは霧に包まれ、何もみえなくなった。
もちろん、このときにはすでに天子さんは両手をかざしていて、薄緑色の膜が、俺と天子さんを包んだ。
虎が現れた。
でかい!
二階建ての家どころじゃない。五階建てのマンションのような大きさだ。
吠えた。
バリアーのなかにも、音は通る。
骨の髄まで響くような巨大な吠え声だ。
終わったあとも、全身がしびれて動けない。
巨大な怪物が右前足を振り上げたのがみえる。
来るっ、と思ったけれど、指一本動かない。
もしかしたら、水虎の吠え声には、萎縮効果か麻痺効果のようなものがあるのかもしれない。
そこに天が落ちてきた。
それはもう、攻撃だとか何だとかいうようなものじゃなかった。
ほんとに、天が落ちてきた、とか言いようのない何かだ。
真っ暗になって何もかも聞こえなくなり、そのあとから、どどーんという、地揺れのような音が響いてきた。
それから天が晴れて光が差してきた。
怪物が前足を持ち上げたのだろう。
目の前の地形が変わっていた。
俺たちのいる一角が丸く残されて、その周りの地面がぐしゃりとつぶされ、引き裂かれている。ドーナツ型にへこんでいる、とでもいえば表現できているんだろうか。何本かの断裂線、つまり縦に割れた地球の傷が生々しい。
周りの地面がへこんでいるのに、俺たちのいる場所の高さが変わっていないということは、天子さんの張ったバリアーは、ただ地面に支えられているんじゃなくて、何か不可思議な力で攻撃の圧力に抵抗したということだ。
怪物が縮んでゆく。
みるみる小さくなって、二階建ての家ぐらいの大きさになった。
威嚇のうなり声を上げて、再び右前足をたたき付けてきた。
がきいんっ、と鋼鉄を岩にたたきつけたような音がして、緑色の火花のようなものが三か所ほどではじけた。怪物は、爪で攻撃してきたようだ。
「ふむ。だいじょうぶのようじゃな」
もう一度、巨大な虎が前足の爪をたたきつけてきた。やはり肝の縮むような音がして、緑の火花が散った。
昨日、作戦を打ち合わせたとき、天子さんがどうしても譲らなかったことがある。
それは、バリアーがもたないと天子さんが判断したら、逃げろという指示を出すので、その場合は異論を唱えずただちに一目散に逃げる、ということだ。
天子さんは、昨日水虎の攻撃をみて、これなら防ぎきれるだろうと判断した。ただしそれは、天子さんが分析したかぎりではということであって、相手の攻撃がこちらの分析を越える威力や性質を持っていた場合、天子さんの能力では防ぎきれない。それから、ひょっとして、ひでり神さまが知らない攻撃能力を何か持っているかもしれない。だから、何度か実際に攻撃を受けてみて、だいじょうぶなようだと判断したんだ。
実のところ、俺が一番恐れていたのは、俺抜きで戦うと天子さんが決断することだった。だって俺には何の能力もない。水に潜った水虎の居場所をみつけることもできない。天子さんに守ってもらわなければ、水虎の一撃にさえ耐えることができない。天子さんがいなければ、水虎を攻撃する方法がない。
こんなに他人任せな俺など、いないほうがやりやすいはずだ。
だけど俺は戦いの場にいたかった。いるべきだと思った。水虎を殺すのは俺だと、水虎にちゃんと言わなくちゃだめだと思った。それは俺のわがままにすぎないんであって、俺が戦いの場にいるべき客観的な理由はない。じゃまだと言われればそれまでだった。
でも、どういうわけか、天子さんは、俺に来るなとは言わなかったし、作戦をやめようとも言わなかった。その代わり、天子さんが逃げろと言ったら、たとえどんな状況であっても一目散に逃げると約束させ、くどいほど念を押した。たぶん、俺が安全な場所に逃げるまでのあいだ、敵の攻撃を防ぎきる自信はあるんだろう。
五度ほど左右の前足で攻撃したあと、水虎はかみついてきた。観光バスを丸呑みにできるような巨大な口が迫ってくる恐怖を、俺は思い知ることになった。バリアーに対する信頼度は、この場合関係ない。分析の結果に対する恐怖じゃないからだ。恐ろしいものは恐ろしいのだ。
「もうじき水に戻るですよ」
いつのまにか童女妖怪が出現している。
「どうしてわかる?」
「なんとなくわかるのです。こいつは今、喉が渇いてるです」
「わらわにもわからん。そなたはほんに優れた探知能力を持っておるのじゃなあ」
「天狐さまにお褒めいただくとは、光栄の至りなのです。おい、へなちょこ! お前も褒めるですよ!」
「身長のわりにはやるな」
「むかっ。どうして素直に褒められないですか」
照れくさいからだよ。
「あ。水虎が水に戻るです!」
言われて注意してみたが、特にそんな気配はない。ただし、バリアーに対する攻撃はもうやんだみたいだ。馬鹿話をしていたせいか、途中から恐怖を感じなかった。
そんなことを考えていると、水虎の姿がぼやけてきた。
そしてふうっと霧に消えた。
「水に戻ったです。天狐さま。結界を解いても大丈夫なのです」
「よし」
天子さんが開いていた手を閉じると、緑の薄い膜も消えた。
俺はくぼみを駆け下りて、その勢いでくぼみの登り坂を登り切って、水虎がこしらえた巨大なドーナツ状のくぼみから出た。
「あそこですです」
童女妖怪が用水路の曲がり角辺りを指さす。
三人はそこに走り寄った。
「水のなかで、ゆらゆら動いているです。これからあちしの指さすのが、水虎の体の中心部なのです」
そう言いながら、童女妖怪は水のなかを指さした。その指は、ゆるやかに移動している。
天子さんが、右手を高々と振り上げた。五本の指は、全部開いている。
と、天子さんが、俺をみた。
(ああ、指示を待ってるんだな)
俺は天子さんの目をみながら、うなずいた。
天子さんが用水路に視線を戻し、ちらと童女妖怪のほうをみた。
両目が金色に輝いた。
右手が振り下ろされた。
五筋の赤い光線が水面を斬り裂いた。用水路のコンクリートの壁にも五筋の切れ目が走る。
ちゅいん、というような音が聞こえた気がした。
「やったです」
そう童女妖怪は言ったが、しばらくは何も起きなかった。
やがて、水面がぐねぐね不自然に盛り上がったかと思うと、ちゃぽんと音を立てて水の塊が飛び出して、用水路の脇に落ちた。
落ちて少年の姿になった。
13
左胸から右脇腹にかけて、深々と大きな切り傷がついている。
左足の太ももから右足のすねにかけて、ほとんど切断されている。
人間だったら死んでいるはずだ。
傷からは、半透明な赤っぽい液体が流れ出ている。血液のようなものなのだろうか。
少年は、苦しそうな顔をしていたが、ちらと目を開け、俺に気づくと、笑顔を作った。
「あ、ありがとう。おにいちゃん」
その声は小さい。
「ごめんな」
「ううん。うれしいよ。俺を殺してくれて。おかげで、あいつから自由になれた」
「あいつ?」
「うん。水のなかから俺に命令をしていたあいつだ」
「そいつから自由になったんだな」
「うん。俺は死ぬけど、またよみがえる。よみがえったら、〈ばつ〉ねえちゃんを探すんだ」
俺は衝撃を受けた。
水虎は、ひでり神さまの名前を言った。
どうして、その名を知っているんだ?
「探してる人の名前を、思い出したんだね?」
「うん。自由になったおかげで、何もかも思い出した。俺は、おねえちゃんに会いに、日本に来たんだ」
「生まれ変わったのに、覚えてたんだ」
「不思議なんだ。おねえちゃんと別れて、何度も死に、何度も生まれた。そして生まれ変わるたびに、おねえちゃんに会いたい気持が強くなって、それで、とうとう日本にまで来ちゃったんだ」
「よく日本に〈ばつ〉さんがいるって、わかったね」
「〈天告〉っていう力を持った仲間がいてね。ずっと昔にその仲間が教えてくれたんだ」
「そうか。〈天告〉か」
「あ、知ってるんだね」
「うん。知ってる」
「日本に来たのはいいんだけど、教えてもらった場所には、〈ばつ〉ねえちゃんはいなかった」
「そうなんだ」
「だから、いろんな所を探してるんだ」
「探して会えたら、どうするの?」
「どうもしないよ? ただ会いたいだけなんだ」
「そうか。ただ会いたいだけなんだ」
「おねえちゃんは、とっても優しいんだ」
「そうなんだ」
「とってもいい匂いがするんだ」
「シャオチン」
「……え? それは……その名は……知ってる。……ぼくの名だ。そうだ。確かにぼくの名前だ。おにいちゃん、どうしてぼくの名前を知ってるの?」
「もう少し、死ぬのをがまんできるかい?」
「いや、もう死ぬよ」
「俺が、ある人を連れてくるまで、死ぬのを待ってほしいんだ」
「ごめん、むり。もう、ぼくは……消えて……しまう」
「死ぬな。シャオチン。もう少しだけ、死ぬな」
「だいじょうぶ……死んでも……またそのうち……生まれてくるから……何度でも生まれ変わって……おねえちゃんに……会いに……」
シャオチンは死んだ。
死んで水になった。
俺は、少し前の瞬間までシャオチンであった水をすくい取ろうとしたけど、水は手をすり抜けて、地に落ちて、そして消えた。
あとに残ったわずかなしみが、そこにシャオチンがいたことを示している。
「ごめん、シャオチン」
俺は声に出して謝った。謝らずにはいられなかった。
「最初から会わせてあげればよかった。そうすればよかった」
実際には、そんなことはできなかった。できなかったけれど、そうすべきだった。
「だめなんだ。だめなんだよ、シャオチン。今度君が生まれてくるときには、〈ばつ〉さんはもう、地上にはいない。会えないんだ。君はおねえちゃんに、会えないんだ……」
地に突っ伏して、俺は泣いた。
俺の涙は地に落ちて、シャオチンの残したしみと交わり合った。
俺は涙を落とし続けた。
そのしみが消え去ってしまうのをいやがるように。
俺の背中に、誰かが手を当ててくれた。
温かで柔らかな手だ。
俺の肩に、誰かが手を当ててくれた。
小さな手だ。
いつまでも俺は泣き続けた。
ちりーん。
鈴の音が聞こえたような気がした。
ふと気がついた。
ふわりとした白いものが、二つある。
シャオチンの膝の毛玉だ。
さっきは、こんなものはなかったはずなのに。
でも今は確かにある。
俺は二つの毛玉を抱き上げた。
柔らかくてさらさらした感触が、ひどく優しかった。
誰なんだろう、水虎の膝の白い毛が、虎の手に似ているなんて言ったのは。
爪なんて、ないじゃないか。
13
乾物屋に帰り、隠形をかけ直してもらってから、ひでり神さまの家に向かった。
俺は、ひでり神さまに、二つの白い毛玉を渡した。
それをみたひでり神さまは、悲しそうな目をした。
俺は話した。シャオチンが最後に何を語ったかを。
彼がなぜ日本に来たのかを。
彼が何を願っていたのかを。
それを告げることは、ひでり神さまを、ひどく悲しませるだろうとわかってた。
だけどこれは、伝えなくちゃいけないことだ。
俺が勝手に握りつぶしていい情報じゃない。
伝え終わると、頭を下げ、失礼しますと言って、返事も待たずに家を飛び出した。
だから、ひでり神さまの泣き顔はみていない。
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